第十八話  巡り巡る(後編)




「どうして、あなたがここにいるんですか?」

 いきなり自分の私室に現れたディスバリエに、警戒の色を隠さずクーは戦闘態勢を整えた。

 ディスバリエの使う空間移動能力は知っていたが、まさかこのタイミングで現れるとは予想もしていなかった。さらにクーが警戒を抱いたのは、ディスバリエの表情。いつも微笑を浮かべていたディスバリエとしては珍しく、笑みを浮かべていなかった。

「私を狙ってきたのだとしたら、お相手いたします。元より、あなたとはいずれ決着をつけなければいけないとわかっていましたから」

「あなたもそれは自覚していたのですね。あなたとあたくしが、いずれ決着をつける宿めにあることは」

 クーにとってディスバリエは母とも創造主とも呼べる存在だ。

 幼き頃の記憶の中に、彼女のことだけが残っている。父親のことも母親のこともおぼろげだというのに、ディスバリエの顔と声だけが克明に焼き付いている。

 ディスバリエが『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を生み出した理由、ドラゴンを知るという行為を、果たして今はどう捉えているかはわからない。ただ、ラバス村で再会したあの瞬間、クーにはわかったのだ。目の前にいる存在こそ、自分にとって何よりも否定しなければいけない『敵』であると。

 ここで決着をつけるのならば、クーとしては断る理由はない。元々留守番を命じられて落ち着かなかったのだ。

「ですが、いずれ、ですよ。それは今ではありません。クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。今日のところはあなたの味方としてやってきたのですから」

「味方……? そんな言葉が、信じられるとでも?」

「信じる信じないを論じる前に、あなたは信じるしかない。大切な主を亡くしたくはないでしょう?」

 そうと言われてしまえば是非もなかった。

「何か、ご主人様の身に何か起きたのですか!?」

「ちゃんと帰ってくると約束したのでしょう? 信用できないのですか? 自分の聖猊下が」

「信じています! でも……」

「それとも――

 顔を曇らせるクーヴェルシェンにディスバリエは冷笑を向けた。

――汚いといわれたことが、そんなにもショックだったのですか?」

 顔をはっとあげたクーヴェルシェンは蒼白な顔になって、下唇を噛んだ。
 留守番を命じられたときから感じている身を引き裂くようなこの不安……それはジュンタと離れている時間が長くなるほど大きくなった。

 不安なのだ。どうしようもなく。このまま離れている時間が長くなれば、あの優しさに触れていなければ、自分がどんどんと汚れていってしまうように感じられて。

 だが、待て。それは心の内に閉じこめていたものであり、誰一人として伝えてはいないことだ。こぶしを握りしめて、クーはキッとディスバリエを睨む。

「どうして、あなたがそれを知っているのですか? あのときあの場所には、私とご主人様しかいなかったのに」

「まったく気付いていないわけではないでしょう? すでに彼女によってあなたの最初の鍵は開かれているのですから」

「鍵……?」

「そう。そしてあたくしがここへとやってきたのもそれが理由。あなたにかけられた鍵をここでまた一つ解く。最後の鍵はあたくしでは開けられませんが、それでももう一つの鍵を開くことはできる」

 クーにはディスバリエが何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 鍵……比喩表現だろうが、何を指して鍵といっているのかわからない。最初の鍵は開いたらしいが、クーに自覚はない。

「鍵を開く必要などないと思っていた。あなたはクーヴェルシェン・リアーシラミリィ。神が使徒のためにと選んだ巫女。あなたの存在があなたの主の試練を加速させていく。あなたが思うがままに振る舞えば、その先には必ずオラクルの踏破があると思っていた」

 だけど。と、ディスバリエは呟き、

「あなたは巫女としての役割を自ら否定した。これ以上オラクルはクリアしなくてもいいと、そう勝手に判断して逃げた。あなたは――巫女失格です」

 それは初めて告げられた、クーが以前何よりも恐れていた一言だった。

 ――お前は、巫女として出来損ないだ。

 そう言われることを何よりも恐れた。誰よりも恐れた。だけど、今のクーは違う。恐怖より尚価値のある『必要』という言葉をもらっているのだから。

「そうですね。オラクルを使徒様にお伝えすることが巫女の最も重要な務め……それをご主人様が望まれたとはいえ放棄することは、あるいは巫女としては失格なのかも知れません。ですが、それでも私はご主人様の巫女です。他でもない、ご主人様がそう言ってくれたのですから」

 はっきりと胸を張って言い切ったクーを見るディスバリエの視線に、そのとき感情が宿る。強い、強い、感情が。

 その感情の名を、クーは咄嗟に思い浮かべることができなかった。あまりにも強く生々しい感情は、『狂賢者』には似合わない、初めて触れた彼女の人間としての感情だったから。

「……あなたは、何もわかっていない。温もりに抱かれ、親鳥の後をついて歩く雛鳥の安堵の中で微睡んでいるだけ……今、ようやくはっきりと認めました。
 あたくしは、あなたを認めない。あなたに価値はない。あなたは聖猊下の巫女にふさわしくない。
 紛い物。紛い物の巫女。紛い物の『竜の花嫁ドラゴンブーケ』……あなたはいずれ、あたしが否定する」

「誰にも否定されません。私は、私は唯一無二の、ご主人様にとっての巫女なんですから!」

 震えが止まる。ジュンタの一言を受けて胸を苛んでいた傷が癒える。

 自らが巫女であること。その自負をこめて、今最も恐ろしい敵の前でクーは宣言する。

「これは誰にも譲りません。これは私だけのものです。他の誰にも、サネアツさんにも、リオンさんにだって譲れない、使徒ジュンタ・サクラ聖猊下の巫女はクーヴェルシェン・リアーシラミリィだけなんですから!」

 その宣言を、果たして彼女はどんな想いで聞き遂げたのか。
 笑みとはほど遠い顔で、哀しげに、ディスバリエは閉じた瞳をさらに固く閉じた。

「…………いいでしょう。そこまでいうのなら、救ってみなさい。紛い物」

「救う?」

「これより少し先、この場所に一人の少年がやってくる。奇跡の芽を携えた少年が。彼を助けることが聖猊下を助けることに繋がる。けれど、あなたにはその力がない。あなたには助けるだけの知識が欠けている。その補完を、鍵を、あたくしが開いてあげましょう」

 ゆっくりとディスバリエが近づいてくる。その手に『聖獣聖典』を持って。

 得体の知れない魔力が彼女の中で渦を巻いている。それは恐ろしいものだ。忌避するものだ。憎むべきものだ。

 肌で感じる殺意。ディスバリエ・クインシュは間違いなく、クーヴェルシェン・リアーシラミリィに憎悪を抱いている。彼女の手は魔手。触れれば命を吸い取られる魔手だ。

 けれど、啖呵を切ったからには逃げられない。目を逸らすことも許されない。

 目の前に立ったディスバリエ・クインシュが手を近づいてきて、トン、と身構えるクーの額を押した。

「あ……」

 軽く小突く程度の接触に、クーの膝から力が抜ける。

 見上げれば、そこには自分を見下ろす孔がある。暗い、暗い、底なしの孔が見ていて辛い苦しい痛い。

「苦しみなさい、紛い物。捧げなさい、神に選ばれた供物よ。いずれ死ぬその日まで、幸福に微睡ろみ――――奇跡に水を」

 クルシイこれ苦しい何これ哀しいワカラナイ痛い痛い痛い痛いイタイヨ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いご主人様ゴシュジンサマ痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたい痛いイタインデスゴジュジンサマ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いイタイ痛い痛い痛い痛い痛い――……。




 

 前線基地の中央部にある作戦本部のテントを囲むように集結した聖殿騎士団は、瓦礫を踏み越えて迫り来る魔獣たちの行進の音を聞いていた。

 魔獣はすぐそこまで迫っている。四方の城壁は崩れ落ち、もう自分たちを守るべきものはそこにある薄く低い城壁のみ。――否、肩を並べる仲間こそが最後に残った最も頼れるものだ。

 怪我を負った騎士全てが応急措置を受けて槍を持ち、クレオメルンを中心に戦意を露わにしている。魔獣の声よりも、彼らの耳朶を打つのは仲間の心臓の音。

 大丈夫。落ち着けよ。

 互いにそう無言で声を掛け合って、聖殿騎士団の白銀の槍は輝きを保っていた。

「……素晴らしいな。この状況下で誰一人として弱音をもらさず、逃げ出さないとは」

「当然だ。我々は信仰の盾。使徒様と聖地を守る守護騎士だ……と言いたいところだが、結局は自分にとって守りたい大切なものが背中にあるから、というだけなんだろう」

「なるほどな」

 肩へとよじ登ってきたサネアツの賞賛に、クレオメルンは笑みを浮かべて返した。

 絶望的な状況なのに、胸には一切絶望感がない。神に祈ったから大丈夫だとはさすがに思わないが、だからこそ、信じぬものは救われない。せめて信じるくらいはしなければ、立ち向かう勇気だって奮い立たせられない。

「人間なんて、所詮はそういうものだ。だからこそ祈るし、立ち向かう。胸に燃えるたった一つの意志を絶望的な状況下で手放すなんてこと、できやしない」

「こんなときだからこそ誇りに殉じる、か。知っているか? クレオメルン・シレ。そういう風に生き様を貫くものを、人は騎士と呼ぶのだ。恋になど欠片も興味がなかった使徒さえ虜にした奇跡の力だよ」

「そうか。ふふっ、なんというか、そういうものか」

 おかしくてたまらなかった。クレオメルンはこのときこの瞬間、この猫が一緒にいてくれたことで笑うことができた。

「では、精々最後まで足掻くとしようか。にゃんにゃんネットワークの底力を見せてくれよう」

「頼りにしている、小さな勇者たち。貴公らと肩を並べて戦えたことが、何よりも土産話となるだろう」

 違いないと、近くにいた騎士も笑った。肩から飛び降りたサネアツを中心に円陣を組む猫、猫、猫。総勢二十匹の猫と共に戦った者など、きっと自分たちが最初だろうから。

「貴公らに私から最後の命令を下す」

 クレオメルンは朗らかに、爽やかに、最後の命令を下す。

「最後の最後まで、聖地の盾であれ!」

 一分一秒でも、長く大切なものを守っていよう。
 
 たとえ救いはなくとも、最後の最後まで聖殿騎士の誇りを抱き、聖地と使徒のために戦い続けよう。

 聖なる槍を掲げる我らこそは、聖地を守る聖槍騎士団。
 白銀を纏いて使徒の敵を討ち、聖神教の盾となって聖地を守護する僕なり。

 迫り来る魔獣に向かって、クレオメルンは声を張り上げる。

「我らが誇りに曇りなし! 我らが忠義に聖なる祈りを!」

『『正義は我にあり! 我が正義のための聖戦を!!』』

『『にゃあぁぉおおおおおおおおおおおぉん!!』』

 応える聖なる咆哮。猫たちの合唱。

 雄叫びをあげて、その身を信仰に殉じた狂信者たちと愉快な猫たちは最後の戦いへと挑む。
 最後の一人になっても決して諦めることなく、守るべき使徒がいる限り自らが正義であると誇り高く、戦う。

 それが始まりより定められた、聖殿騎士団の在り方。
 神聖なる正義を胸に懐く、使徒の盾たる彼らの生き様。

 彼らが守るものは、いつだって信仰であり聖なる主君。

 ならば、その背を照らす光もまた、聖なる主君の祈りであった。


『よくぞ、ここまでがんばってくれましたね。我が誉れの騎士たちよ』


 それは歌。それは祈り。声なき声にして、絶対なる正義の言葉。人ならざる声が発した意味はわからなかったが、それでもそこにいた全員の心に染み渡る。
 
 灰色の世界に、そのとき光が差し込んだ。
 それは迫る魔獣の目を潰し、槍を握る騎士たちの身体に力と誇りを満たす。

 そうして――聖地への道は開き、その道を通って金色の閃光は飛び出した。

 あまりの光に、あまりの速さに、誰の目にとまることもなく駆け抜けた黄金。クレオメルンが何とか視認できたのは、流星の尾のようにたなびく金色のたてがみ――

 空に視線を向けても、もうその雄々しい姿を見ることは叶わない。それが空中を蹴る度に泉より水がわき出るようにあふれ出した水が、視界を塞いでしまっていた。

「さて、では後は任せていただきましょう。聖地を守護する使徒の力がどれほどのものか、人々の祈りがどれほどのものか、見せてご覧にいれましょう」

 空へ一息で駆け上がった『彼女』は見えないラインをも追放世界に引っ張りこんだ。

 それは通じた道を通って彼女と繋がる神殿との契約の糸。
 わき出た水が唸り、その上に着地した黄金のたてがみが立体的な青い魔法陣を展開する。

『神殿魔法』

 アーファリム大神殿という最大の神殿のバックアップを持って放たれる魔法の予兆を受けて、クレオメルンたちの心に希望の光が点る。
 使徒がアーファリム大神殿と契約して使う神殿魔法というだけで、それがどのような意味を持つのかは周知の事実だったのだ。

 だからこそ、足を止めて勇姿を拝もうとした彼女たちを、道を通じて現れた契約者の近衛騎士たちが半ば強引に撤収していく。

「クレオメルン殿、失礼」

「巫女ルドール? 何を!?」

 呆然と立ちつくしたクレオメルンも美貌の老人に、小脇に抱えられてアーファリム大神殿に引っ張り込まれる。さらにルドールの手は、サネアツの首根っこも掴んでいた。

 一人と一匹の司令官が引っ張り込まれて十数秒後、前線基地に残っていた全ての人間の『避難』が完了する。

「あらあら、まぁまぁ。では、行ってみましょうかねぇ」

 そんな暢気な声を聞いた直後――物理的に塞がれた道の向こうでとんでもない衝撃と音がした。

 使徒フェリシィール・ティンクによる神殿魔法の行使……。

 それによって、前線基地を中心に半径五百メートルに渡って、全てが水没した。






 ごめんなさい。弱々しく謝る声がする。
 ごめんなさい。初めての恐怖に嘆く声がする。
 ごめんなさい。恋を知った少女はただの娘のように泣いていた。


 ――つまりはまだリオンも誰も知らなかった。今この戦場に、希望を持った者らが現れたことを。


 轟。と突如として戦場を雷鳴が支配する。続いて強烈な衝撃波が前方から吹き荒れ、リオンたちの前に立ちふさがっていた肉壁を吹き飛ばした。

 なんだ、と思うより早く、視界に異変の結果が飛び込んでくる。

 バチリ、バチリと雷気を纏った風が唸りを上げる。そこには魔力の残照が残っていた。先程ユースが見せた現象の残照とまったく同じ。間違いない。今魔獣に向かって行使されたのは大規模な儀式魔法であり、『矛盾』の行使に他ならなかった。

「ユース!」

 リオンの立ち直りは早かった。
 泣いている場合ではないと、衝撃波の混乱に乗じて近くにいた魔獣を叩き伏せる。

 リオンは今の魔法行使が一体誰のものかよく知っていた。従者が見せた秘密を前にして一目で看破したように、リオンは昔から『矛盾』を使う魔法使いを知っている。

 二重属性を扱える人間は本来一人だけのはず。そこにユースという例外が加わってもこの基本は変わらない。ならば、ここで雷鳴が響いた意味は明らかだった。

 肉厚のある壁を切り裂いてリオンは進む。
 そして、今まさに傷だらけで倒れようとしているユースの姿を魔獣たちの檻の中に見つけた。

「ユース!!」

 間に合わない。願いとは裏腹に、リオンの理性的な部分がそう即座に現実的な判断を下していた。

 ――それが覆される。速さの名の下に。

 一条の稲妻が先程の雷風に続くように駆け抜けたかと思うと、ユースを押しつぶそうとしていたオーガを腰から真っ二つに切り裂いた。

 駆けつけた稲妻はユースを守る位置で立ち止まると、周囲に向けて幾重にも稲妻の刃を向ける。無謬の舞いはただの一度も外すことなく、速やかに半径五十メートル圏内にいた魔獣の首を刈り取った。リオンを今まさに背後から襲いかかろうとしていたワイバーンもまた、縦に切り裂かれる。

「さて、盟友諸君――

 片翼の羽根が広がる。血しぶきが遅れたように舞い上がる中、麗しき女傑は艶やかに微笑んだ。


――――反撃の準備はよろしいかしら?」


 そのよく響く声に応えるように、雷光が討ちもらした魔獣を蹴散らしながら怪物が現れる。正確には、怪物の如き巨大馬に騎乗した一人の騎士が。

 分厚い鉄塊のような大剣を片手で軽々と振り回す豪腕の騎士は、先に現れた稲妻の騎士の横で立ち止まると、胴間声で怒鳴りつけた。

「こぉら、トーユーズ! 貴様、一番槍を奪うとはどういう了見だ!」

「あら、ごめんなさい。あまりにも団長が遅かったものですから。おほほほほ」

 リオンとユースの悲壮な決意さえ嘲笑うように軽やかに響く笑い声。それは聞く者を否応なく惹き付け、勇気を分け与える強者の声であった。そうこうしている間にも、現れた二人は襲いかかってくる魔獣を足を動かすことなく手首のスナップだけで屠り続けている。

「まさか……?」

 そこで初めてリオンは援軍の姿と、その援軍が何者であったかを悟った。

「ええい、貴様は後方にすっこんどれ! 一番槍は伝統として、序列一位であり『騎士団長』である俺だと決まっているのだ!」

「嫌ですわ、グラハム団長。あなたの汚い足跡を追いながら戦うなんてはしたない真似、淑女であるあたしにはできませんもの。それに――登場はやっぱり一番の方が目立つでしょう?」

「それが本音か。おのれ、忌々しい奴め! こういう心躍る戦場のときだけやってくるとは、何という自由人だ!」

「悔しかったら、あたしよりも速く走れるようになったらどうです? その短足では無理でしょうけど」

「よぅし、その挑戦受け取った。ではどちらが多く敵を倒せるかで勝負と行こうではないか」

「あら? それはもちろん、質でも加算されるのでしょうね? あたしは量より質よ」

「狙っている首は同じということか……良かろう。早い者勝ちだ!」

 前線基地より、全方位に向かって走り抜ける百にも満たない騎士の姿。だが、その一騎一騎が勇猛なる英傑ばかり。
 片方の肩に纏うは、羽根飾りと紅き翼の盾のエンブレムが刻まれた緋色のマント。『片翼』とも呼ばれるとある称号の証。

 聖地ラグナアーツの南にある騎士の国。グラスベルト王国の誰もが憧れる、騎士たちの殿堂。

 其は――


――『騎士百傑』!!」


 リオンの叫びに応えるように、恐るべき駿馬を操る英傑たちの中、飛び抜けて速い二人が両脇を言い争いをしながら走り抜けていく。

 片や、稲妻の如き鮮やかな疾走を見せつける『誉れ高き稲妻』トーユーズ・ラバス。
 片や、怪馬に乗って身の丈を超える剛剣を振るう『騎士団長』グラハム・ノトフォーリア。

 二人が通ったあとに残されたのは、リオンを含めて味方の姿ばかり。魔獣たちはことごとくが切り裂かれ、跳ね飛ばされ、血路となって二人の騎士の道に華を添える。

 二人に遅らせながら、グラスベルト王国が誇る『騎士百傑』らは、盟友の元へと駆けつける。

 


 

「さぁさ、やって参りました『封印の地』! 何ともはや、期待を裏切らぬ混沌っぷりでございますな!」

「そうですねぇ、アブスマルド氏。これは何とも、我々でも淘汰は厳しくはありませんかね」

 最強なる序列第一位『騎士団長』と序列十二位『誉れ高き稲妻』が走り抜けた、もう手助けする意味すらない戦場からちょっとずれた先にて、互いにどこか淡々とながら、熱意溢れる声を交わし合う騎士がいる。

 周りにいる魔獣を倒しながらも前へと進む彼らは、まるでこの戦場を実況しているようであった。それは不謹慎ともいえる行為ながら、それでも注目を集めることこそが、二人の『騎士百傑』の百傑としての意義である。

「いやいや、我らが愛すべき使徒フェリシィール・ティンクより命じられたのは、朋友たる聖殿騎士団の方々が逃げるまでの時間を稼ぐこと。何とも名誉あることではないですか! ああ、思い出します! あの偉大なる金糸の姿の、なんとも可憐なお姿! 聖殿騎士団の方々が恨めしや妬ましやです、イクス氏!」

「気持ちはわかりますがね。ここで熱狂しては、また奥さんに泣かれますよ。アブスマルド氏。さぁさ、お話もここら辺にして、我々も自分のお仕事に入りましょうか。このままのんびりと話していては、あの方たちにいいところを全て奪われてしまいますよ」

「いや、それはもうしょうがないのではないかと。あのお二方は、犬猿の仲でありライバルですからね! もうあの二人が一緒の戦場に出たら、競い合って目立つこと目立つこと。ではせめて、派手にぶっ放つ『小さな魔女』には負けぬよう、がんばって目立つとしましょうか!」

 あり得ないほどに声が大きい序列八十二位の騎士は、そこで雰囲気をがらっと変えた。

 鋭い剣さばきによって開けた空間の中、軽く跳躍すると気絶させたオーガ上に跳び乗る。陸の王者と呼ばれた魔獣であろうとも、その『騎士百傑』らにしてみれば、便利なお立ち台でしかなかった。

 二人の騎士に確認は必要ない。
 数多の戦場で共に駆け抜けた二人は、阿吽の呼吸をもって自らの役割を全うする。

『聞け! この戦場にいる全ての者よ!』

 ふざけた声はなりを潜め、どこまでも真剣な声が戦場に響き渡る。
 その声はもう、人間が出せる音域を超えていた。魔性の声と呼んでも良い。アブスマルドの声は騒乱の中にあっても戦場全てに轟き、注目を集める。

『聖なる都を守りし騎士たちは自らの忠義を誇りたまえ!
 聖なる都を蹂躙せんとんする魔獣たちは自らの行いを呪いたまえ!』

 その声は魔獣たちを遠ざける。それでも注目を一心に浴びるが故に、多くの魔獣が彼を狙う。

 だが、それら魔獣は彼を守るにように立つ、序列二十位の騎士によってその行く手を阻まれる。

『我らは正義の騎士の味方!
 我らは悪を行う魔獣の敵!』

 まだ三十に満たない騎士の手によって振るわれるのは、剛槍ではなく巨大な鉄の棒。先端に刃ではなく紅い旗を翻す、それは旗。

 棒の先で魔獣を潰し、旗で敵の爪を押しとどめる。いかなる素材で編まれているのか。翼ある盾が縫いつけられた旗に一切の傷はなく、また一切の血で濡れることもなかった。

 それこそが『騎士百傑』として、グラスベルト王国の国旗を掲げることを許された英傑――『旗持ち』イクス・ルビマールが英傑としての証。決して同胞の血で濡れぬ旗こそ、自らが託された誉れと自負を持つ。

『我らはここに盟約に従い参戦を表明する! 我々はグラスベルト王国が『騎士百傑』なり!!』

 そして『宣誓の騎士』アブスマルド・ナッケルディによって戦場にいる全ての味方に希望が、全ての敵に恐怖が贈られた。

『掲げた旗に忠誠を――

 アブスマルドが、オーガの上に跳び乗ったイクスの掲げる旗に誓って、高らかに謳い上げる。


『『――――騎士の誇りに誉れあれッ!!』』


 それに戦場のあちらこちらから、力強い騎士たちの声が、まるで絶望をはね除けるように続く。その叫びに並び立とうとする輝きが、落雷と共に戦場を駆け抜ける。

 それは、もう一つの盟友の参戦表明。


 

 

「相変わらず、あの益荒男共はいいなぁ。吾が輩も是非、ああいった熱い台詞を口にしたいもんよ!」

 ガハハハハと笑いながらハルバードを肩に預けているのは、何とも野性的な大男だった。

 ボサボサの茶色い髪と厳めしい面。伸び放題の髭も相まって、その容姿は獣を思わせる。身につけた甲冑は聖殿騎士団の甲冑よりなお白い純白の甲冑であるのだが、その男の二メートル近い体躯には甚だ似合っていなかった。

 グリグリと自らの顎を擦りながらアーファリム大神殿へと続く道を背に、その男は魔獣の進軍を押しとどめるグラスベルト王国の『騎士百傑』らを見ている。無邪気な子供みたいな青い目は、しかし同時に、獰猛に光っていた。

「ふむ。吾が輩も負けてはおれんぞ。奴らの名乗りは、また我らへの宣戦布告でもあった。同じく盟友たる者として、また同じタイミングで援軍と相成った者として、奴らよりも多くの魔獣を仕留めねばな」

「我々は聖殿騎士団が帰還するのを手助けにしに来ただけで、時期を見て戻ることをお忘れなく。父さん」

 今にも魔獣たちの許へと飛び込んでいきそうな男を父と呼び、その隣に歩み出たのは、理知的な印象を受ける美男子であった。

 年齢としては二十歳前後。どこか老成した雰囲気を持ち、右目に片眼鏡――モノクルをつけている。これでローブという格好だから、誰が見ても魔法使いであるとわかることだろう。
 そんな彼の一番の特徴は、その紫色の瞳ではなく、ポニーテールの形で結ばれた美しい白銀の髪だった。

「フェリシィール様方が孔の維持をしているとはいえ、長くは保たないと予測される。父さんに暴れ回ってもらう暇はない。そこで大人しく威厳でも振りまいていてくれ」

「え〜?」

 駄々をこねる子供みたいな声をあげた男――ロスカは、かわいげのない息子に向かって、やけに慣れた手つきで拝み込んだ。

「どうせ吾が輩がここにいても、何の役にもたたんではないか。この通りだ、頼む。キルシュマ。吾が輩も戦いに行かせてくれ!」

「ダメだ。というより、子供に頼み込まないでくれ」

 溜息を一つ吐いた息子――キルシュマの態度に口をへの字に曲げたロスカは、憮然とした顔つきで地団駄を踏む。

「ちぇっ、ケチだなぁ。キルシュマは。少しぐらいいいじゃんかよ。なぁ、ミリアン。お前もそう思うだろ?」

 ロスカに話を振られたのは、キルシュマの少し向こう側に立つ少女であった。

「えっと、そう言われても、困ってしまいますね」

 困ったような笑顔を浮かべる美しい少女である。年齢は十七歳ほどか。魔法使い然とした白いローブを纏っていながらも、その立ち姿はドレスを着た気品あるお姫様のようである。髪飾りで飾った白銀の髪と紫色の瞳はキルシュマと同じであり、その容姿も彼とよく似通っていた。

「お兄様の言い方は少しきついようでしたが、間違ったことは言っていないと思いますし。でもお父様にもご自由にさせてあげたいとも。でもでもっ、お父様が危険な目に遭われるのは……ああ、ごめんなさい。馬鹿なミリアンにはどちらかを選ぶことなんてできません」

「がははははっ、気にするなミリアン。うむ。吾が輩は娘のかわいらしい姿で、ここは満足としておくことにした!」

 少女――ミリアンの可憐な様子に、そこに集まっていた百名あまりの魔法使いたちの間から一様に溜息がもれる。呆れたものではない、好意的な溜息だった。

 一人、妹と父親が戯れる様子に、本格的に呆れの溜息を吐いたキルシュマは、そのモノクルに映し出された気配に目を細める。

 変わり始める地上とは違い、何一つ変わることなき空を泳ぐ黒い影。

 下手をしたら自分たちの上にも炎を落とせるドラゴンを見て、キルシュマは魔法使いたちが唱えている儀式の準備完了を確認した。

「良し。儀式は完了したな。ミリアン。あとは頼むぞ」

「あ、はいっ、兄さん。一生懸命がんばります!」

 キルシュマは真剣な顔で妹を父親の手から呼び寄せる。
 ミリアンも柔和な顔を真剣なものに引き締めた。それでもどこかかわいらしさは残っており、また『満月の塔』の精鋭たちから溜息がもれる。

「それでは始めます」

 だが、彼らもミリアンが地面に刻まれた儀式場の上に立ち、詠唱を開始したのを見て、真剣な顔に戻って集中を開始した。

雷雲をここに招く 我はここに雷を統べるものとなる

 ミリアンのために用意された儀式場は、普通の儀式場とは異なっていた。

 まずミリアンから見て右に、雷を示す黄色の魔法陣。

風雲をここに招く 我はここに風を統べるものとなる

 左には緑に輝く魔法陣。二つの魔法陣は、ちょうどミリアンが立つ場所で重なっており、彼女が手をまっすぐ横へと伸ばすことによって、それぞれの色を強めていく。

我は雷と風を統べるもの 二つの力を結ぶもの

 黄色と緑色に顔を照らされたミリアンの中央には、二つが混ざり合うことなく同席する、マーブル模様ができあがる。そのあり得ざる二つの属性をもって、ミリアンは先程放った一撃を再び再現しようとする。

 この世界において、それをなせる者は彼女ただ一人。同じ血を引くキルシュマにも不可能な、『聖獣の使徒』の力を色濃く得た『小さな魔女』にのみ許された神秘の行使。

 魔法使いたちのバックアップを受けて、天高くミリアンは魔法の矢を放つ準備に移る。狙うは空を行くドラゴン。恐るべきスピードを誇る空の支配者。

 ならば答えは簡単だ。あのドラゴンを封殺するなら、空そのものを拘束してしまえばいい。そのために呼び寄せるの渦巻く雷雲――


ミリアン・ホワイトグレイルが招く 雷雲よ 空を閉ざせ


 瞬間――雷鳴が三度轟く。

 魔法陣がはじけ飛び、ミリアンの手より雷雲の矢は放たれた。

 眩い光は空へと駆け上り、ドラゴンごとその空を黒い雷雲によって封じ込める。風と雷の神秘を内封する、百の魔法使いと『矛盾』を操る魔女によって招かれた雷雲は、たとえドラゴンといえども即座には逃げらぬ牢獄として機能する。

 さらに空を満たす雷雲は、地上へと雷を落とす。

 未だ輝き続ける魔法陣を操るミリアンの絶妙な制御の下、雷は魔獣の中でも強い魔獣を的確に焼き尽くしていった。

「どうだ! 見たか、『騎士百傑』どもめ! 吾が輩の娘の力を!」

 娘の活躍を見て喜びの声をあげる、唯一魔法使いじゃないために役立たずなロスカ・ホワイトグレイル。

 キルシュマ・ホワイトグレイルはそんな父親を胡乱気な瞳で見つつ、もう溜息をつくことすらできなかった。

「ガハハハハッ! 我らこそは最強の『魔軍レギオン』。『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルが血を共有せし、ホワイトグレイルの勇者なりィ!!」

 しかしそれでも――奇跡の系譜が放つ神秘は、戦場を陽光の如く照らしていく。

 もうどこにも、絶望に喘ぐ騎士の姿は、見ることはない。






       ◇◆◇






 天空に閃くのは水と雷。たとえ百年に一度の嵐であろうと、ここまで稲妻と雨の競演は起こりえないだろう。

 放たれるブレスにこめられたエネルギーは大地を空をと根こそぎはね飛ばしていく。

 だが、戦いの優劣は徐々に現れ始めていた。

 ジュンタが放った炎の雷が、スイカの放った水のブレスとぶつかり合う。威力はイーブン。だが、そこでジュンタの特性が牙を剥く。

 水流を逆流する虹の稲妻。
 
 接触した瞬間襲いかかった雷撃の鞭が、スイカの身体を打ち据える。水そのものが身体であるスイカにとって雷こそが弱点。嵐を招くほどの雷のブレスは全身を駆けめぐって激痛を与える。たとえ直撃を受けなくとも、掠るだけで夥しい雷気がスイカの体表面で小さな爆発を無数に起こした。

 勝てる。

 一対一の戦いを続けたジュンタは、そう確信するまでに至っていた。

 襲いかかる雷に込められた侵蝕の威力は、容赦なくスイカの身体から水を引きはがしていく。彼女が纏っていた鎧を削り取っていく。

 舞い散る水の中を、虹の翼をはためかせてジュンタは飛ぶ。雨のあとに虹をかけるために。

 その後も上空で何度も激突する水のブレスと炎の雷。触れた傍から蒸発し、分解される水のブレス。煌めく雷光はそのまま水のブレスを押し戻し、水のドラゴンの口内を貫き顔を吹き飛ばしたが、それでも水のドラゴンは消えたりしない。すぐさま水が流動し、新しい顔ができあがる。

 尽きぬ水そのものが身体であり、その身体には部分というものが厳密には存在しない。巨大な水のドラゴンは、また巨大な水そのものがその存在である。故に――その不死性は、尽きぬ水にこそあった。

 ここでスイカの様子に変化が現れた。
 そう――アサギリ・スイカの神獣の姿である水のドラゴンの攻撃手段は、ブレスのみではない。

 ブレスでは分が悪いと本能的に悟ったのか、次にスイカが繰り出した攻撃は別のものだった。その身体を構成する水が、まるで内側から爆弾が爆発したようにはじけ飛び、散弾銃のように襲いかかってくる。

 回避を試みるジュンタではあったが、二十メートル強もの巨体を構成する水が一斉に跳んできたのだ。さすがに避けきれない。

 はじけ飛んだ水の一滴は、まさに水の弾丸。高速で跳んできた弾丸は決して浅くない傷をジュンタの身体につけた。
 だが、ドラゴンと化したジュンタの再生力は並ではない。与えられた傷はすぐさま癒える。ドラゴンの不死性は伊達ではなく、それはまさにスイカの様子を見てみればよくわかるというもの。

 無数の水弾となって乱れ飛んだスイカは、やがて空中の一箇所に集まると、すぐにその身体をドラゴンの姿に戻した。無数に身体のパーツを分けてなお、ドラゴンの意識は変わらず、肉体も変わらないのか。

 特異能力【ガラスの靴】を遺憾なく発揮して、身体をあらゆるものに変えて戦う水のドラゴン。 変幻自在なる水の面目躍如。全ての水を一瞬で吹き飛ばさねば消えぬ不死の怪物と化したスイカは、まさしく厄災そのものであった。

 ……スイカを救う方法すら、ジュンタには今はもうわからなかった。

 握る手すらスイカには今ない。殺すことが唯一の救いかと思ったが、今のスイカ相手では殺すこともできない。

『スイカ!!』

 声も届かず、気持ちも伝わらず、ただ攻撃に攻撃をもって返すしかない。ただ、それしかジュンタにはできない。

 情けなかった。ドラゴンという最強の力を持っていながら、何もできない自分が。こんなにも救いたいと思っているのに、救えない自分が。ヒズミが思いついた方法にしか縋れない自分が。

 目の前にあるのは、まさしくどうにもならない惨たらしい現実だった。ジュンタはそんな現実に嘆き、悲しみを咆哮と変えて口から解き放つ。

 神獣の証である金色を血の色で染め上げたスイカは、下方から身体を幾つもの水流にわけて襲いかかってくる。

 無数の槍が前方を塞ぐ。ジュンタはブレスを駆使しながら、その中を突き抜けた。

 互いに立ち位置が先とは逆転したところでUターン。
 再びドラゴンの姿へと戻ろうとしているスイカ目がけて、返礼の雷を放つ。

 放ったところで、なぜ容赦なく自分が彼女を攻撃しているのかということに疑問を抱いた。

 雷は完全に形を取る前だった水に当たり、それらを分子レベルにまで分解する。が、それでも全ての水に存在を宿す水竜は、憎悪に濡れ光る鮮血の瞳を核として瞬く間に別の場所に肉体を作り出す。スイカを相手取ることは、つまり聖地を流れる水そのものを相手取ることと同義であった。

 牙を剥いた自然現象に、あらゆる攻撃は意味をなさない。どのような攻撃をしたところで、海原に石を放り込む程度のこと。だが、それでもそれは攻撃に他ならない。スイカに対して攻撃をしたことに。

 ――るぅあああああああああああああああああああああッ!!

 立てられた波紋に、スイカが激昂の叫びをあげた。

 かつて『狂賢者』は語った。ドラゴンになることでその歪みは加速すると。反転の呪いは加速すると。二度目の神獣化は、即ちサクラ・ジュンタの破滅を意味していた。

 けれども、ジュンタは違うと思った。確かに弱い心のままドラゴンになれば、その歪みに呑み込まれるだろうが、誰かから力をもらって心を強くすれば狂いに呑み込まれることはないと。それは正しく、現在ジュンタは魔竜とはなっていない。

 ただ、それでも研ぎ澄まされた本能は、理性とは別のところで破壊を望んでいた。同じ空に二体も支配者はいらないと、目の前の魔竜と化してしまった同胞を葬り去れと、そう囁いていた。

 そして、理性では制御できない部分が、身体を勝手に動かす。

(止めろ!)

 制止の声も空しく、白きドラゴンの虹の翼は神々しい光を集めて大きく広がる。

 そこで初めてジュンタは、自らの虹の翼がなんであるかを知った。

 赤、黄、緑、茶、青、白のグラデーションを描き、あらゆる色を作り出す虹色の翼は、微少の光の塊であった。そしてその光は無数の魔法陣が放つもの。この世のありとあらゆる神秘を虹の光彩によって描き出す魔法陣の翼は空間を侵蝕していく。

 そのとき、虹の翼が淡い赤色に包まれた。同時に、口内に燃えさかる破壊が生まれいずる。

 必死にジュンタは生まれた破壊を噛み砕こうとするも、膨張し続ける炎は御しきれるものではなかった。やがて強引にこじ開けられた口から滑り出すように、弾き出るように炎の弾丸は放たれた。

 口の前に生まれたのは、立体的な赤い魔法陣。広がる赤の強い虹の翼が映し出す、それは影絵に似た、美しい神秘の赤を持つ魔法陣。その魔法陣を炎が潜り抜けた瞬間、炎はその勢いと規模を何倍にも高めて、スイカに襲いかかった。

 水に対抗するには、全てを蒸発させる炎か。
 ジュンタの意志とは別に、最強の肉体はスイカを破壊する方法を本能により実行に移す。

 炎は今度こそスイカの身体を内側から爆発させたように破裂させ、その肉片にも等しき水を辺り一帯に飛び散らした。
 
 それでも再生を果たす水竜であったが、再生スピードが先程よりも落ちていた。水を使って身体を構成するのにおのが特異能力を行使し続けているのか、そこには確かにつけいるべき隙がある。

 たとえドラゴンが死なぬ異物とはいえ、目の前にいるのは神に祝福され、世界に許容された神獣でもある。ならば、アサギリ・スイカを殺す方法は、あった。

(ふざけるなァッ!!)

 再び口内に熱が宿る。だが、今度こそジュンタはそれを噛み殺した。

 ガンガンと頭が警報を鳴らす。本能に理性をもって対立することに、魂が、肉体が、精神が軋む。

 だが、それでも――ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな!

(俺はスイカを殺したいんじゃない。俺は、スイカを助けたいんだ!)

 渾身の力を自らにぶつけ、ジュンタは本能が振るった、ドラゴンの身体に眠っていた力を行使する権利を自らのものとする。

 虹の翼を包んでいた淡い光の色が、赤から緑に変わる。
 口の前に断続的に紡がれ続けていた威力増強の儀式場の色も、また緑に変わる。

 口内の熱が涼しげな風に。ジュンタの口から放たれた暴風の塊は、儀式場を通り抜けたときに解かれ、束縛の風となってスイカへと殺到する。

 水という流れるものさえ束縛してみせた風の鎖。
 ジュンタは暴れ、口から無造作にブレスを放つスイカへと、ゆっくりと近付いていった。

『スイカ! 聞こえないのか? スイカ!』

 本能のままに動くドラゴンに、今更対話を求めるのは馬鹿げたことか。それでも、できることは対話しかない。情けない話ではあったが、多くの人に責められる馬鹿さ加減ではあったが、それでも今なおジュンタはスイカを救いたいと思い、これ以外の方法が思いつかない。

『答えてくれ、スイカ! 俺の声がまだ届くなら、答えてくれ。お願いだ!』

『……お、ね、がい……ジュンタ、く、ん……』

『スイカ!』

 祈りは叶えられ、声は確かに届いた。

『……わたしを…………ころし、て……』

 あまりにも惨い返答を、呼び寄せてしまった。






 激しく揺さぶられる振動を感じて、ヒズミは瞼を開いた。

「あ、ここは……?」

 目を開けて前を見てみれば、そこには巨大な湖があった。直径にして一キロ近くある湖だ。

 空は相変わらずここが『封印の地』であることを表す灰色をしているのに、存在するはずのない湖がある。目を凝らして見てみれば、霞んだ視界の先に前線基地らしきものが見えた。そこへと入っていく聖殿騎士団の姿も。

「そっか。運び切ってくれたんだな、ユーティリス」

 当然だといわんばかりに、ユーティリスは駆けながらブルンと嘶いた。

 首筋を優しく撫でてあげながら、ヒズミはもう一度感謝の念をユーティリスに贈った。

「ありがとう。僕を起こしてくれたんだな。ちょっと激しい起こし方だったけど、そこはあれだ。起きれない方が嫌だったから、正直ありがたかったよ」

 ユーティリスは返答を寄越せない。それがわかりきった上で、ヒズミは話しかけた。そうしなければ、また眠りに落ちてしまいそうだった。

「ようやく、ここまで来ることができたんだ。僕一人じゃ絶対に無理だった。お前や、ジュンタの奴がいたから僕はここまで来られたんだ……ありがたいよ、ほんと。
 思えば僕は運が良かった。困っていると、まるで困っていることに気付いてくれたように、誰かが答えを教えてくれるんだから。ジュンタの奴も、サネアツの奴も、ウェイトンの奴も、そうだ」

 ヒズミは自分のところから聖骸聖典を盗んだ異端導師を思い出す。

 ヒズミは盟主になってから多くの研究に手を出した。その中でも力を入れていたのが、聖骸聖典の研究だ。『聖獣聖典』の存在を知っていたために、それをもって故郷へと回帰する方法を模索していた。

 そのための研究材料として、ヒズミが『聖廟の泉』から持ち出したものが多々あった。姉の血を使って忍び込んだそこにはたくさんの聖骸聖典があったが、ヒズミが気を惹かれたのは資料にない名もなき聖骸聖典、黒い背表紙の本だった。なんとなく、それが必要に思えたのだ。

 それは結局ウェイトン・アリゲイによって盗み出されてしまったが、幸運にも、盗み出したウェイトンが一つの可能性を示唆してくれた。それが巡り巡って一つの秘策――いや、賭けとしてこのタイミングで光り輝いてくれた。

 あとは、どうにかしてリオンから不死鳥聖典を手に入れるのみだ。そうすれば、きっと……。

「ああ。でも、ちょっと心残りかな。ジュンタの奴に言っておきたいことがあったのに、結局黙ってきちゃったよ」

 ユーティリスの首にもたれかかりながら、ヒズミは独り言を呟く。

「だって仕方ないだろ? あいつ、お人好しだし。本当のこと言ったら絶対僕のこと止めようとするはずだからね。まったく、僕は姉さんの方が大事だっていうのに、後先考えないんだからさ。
 だから僕のことはいいんだ。これは僕の我が儘だし、あいつに背負わせるものじゃないんだから。でも、僕が教えなかった所為であいつがいつか傷つくことになったら、目も当てられないよ」

 今も戦っているだろう戦友に向けて。謝罪とも感謝とも言えて、どちらとも言えない言葉を贈る。

「でも、今更しょうがないことかな。ごめん。お前に言っても何の意味もないことなのに……」

 そのヒズミを再び揺れが襲う。故意にユーティリスが揺らしたのだ。

 まだ攻撃されたことを怒っているのかと思っていたが、その瞳を覗き込んだヒズミは違うことを悟った。人間も馬も同じだ。怒っているのだとしたら、こんな優しい瞳をしているわけがない。

「そっか。そういやお前、馬だったんだっけ」

 だとするなら、ユーティリスに言った言葉が巡り巡って、ジュンタのところへ行くこともあるかも知れない。

 ヒズミは馬の知能や記憶力というものがどれだけか知らなかったが、たぶん結構賢いんじゃなかろうか。少なくともユーティリスは覚えていてくれるだろうと、そう思った。彼女が覚えていてくれたなら、きっとあの母みたいな優しい人が気持ちをくみ取ってくれるはず。

「じゃあ、もしも気が向いたらでいいから覚えておいてくれよ。アサギリ・ヒズミの言葉をさ。
 まずは……そうだな。最初にあいつに注意しとかないといけないことがあるんだよ。あいつ、変態だから。変態としかいいようがないくらい耐久力あるから、わかってないんだ」

 姉の最大の攻撃を喰らってなお立ち上がったジュンタ。あの耐久力の高さはまさに変態クラスだ。この場合、変態というのは褒め言葉である。

「姉さんはきっとジュンタのことを殺せなかっただろうから、死にはしなかっただろうけど、あれだ。あそこで立ち上がるって、あいつはどんな勇者って話だよ。普通立つか? あんなボロボロで。立たないね、普通は。まったく、ただの人間である僕からしてみればドン引きレベルだよ」

 だからこそ、彼の思い込みが直るように、ヒズミには伝えておきたいことがある。

 ジュンタの耐久力は神がかっている。恐らくドラゴンであるが故になのだろうが、他人まで自分と同じだと思ってはいけない。彼なら立っていられる傷でも、普通の人なら致命傷だ。まだまだ大丈夫だと思い治療もしないで放っておいて死なせたら、悲しむのはジュンタの奴だ。

「だから、自分が特別だってことを忘れるな、ってね。人を人として見ることを忘れないでいられたら、あいつの頑丈さは人を救える大きな力になる。
 どんな風に手に入れたとしても、どんな犠牲があったとしても、手に入れた力は使い方次第で人を幸せにできるんだ。これは、姉さんにも言ってあげたかったな」

 それはきっと理想って奴なんだろうけど、惨い現実より儚い理想の方も信じてみたいじゃないか。

「あとは、そうだな。色々と、伝えないといけない……伝えたいことがあるんだけど……」

 襲い来る睡魔に抗いながら、ヒズミは前線基地までの最後の道のりでユーティリスに『遺言』を残した。

 前には水の気配。まるで家にたどり着いたように懐かしい空気を感じる。この空気は覚えている。水の都の中央に建つアーファリム大神殿、その神居の空気だ。

「…………ああ、そうだったんだ……」

 今更ながらにヒズミは理解した。
 あの場所は自分にとって家だったのだと。姉と共に過ごし、暮らした、第二の故郷だったのだと。

「アサギリ・ヒズミ…………ただいま、帰りました」

 笑みを零し、血の足跡が点在する道を後ろに残して――――そうしてようやく、少年は我が家に帰宅した。









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