水の中を漂うスイカは、馬鹿な少年を見ていた。 その身をドラゴンへと変えたジュンタは、ドラゴンへと変わってしまった自分に手を伸ばしていた。 どうやらまだ自分を救うつもりでいるらしい。その馬鹿さ加減にはほとほと呆れかえる。 こんな愚かな女のために、どうしてそんなにも必死になれるのか。ドラゴンを神獣として持つスイカは知っていた。ドラゴンになることは、自分の命を縮める術であると。 ドラゴンになることは、その身を狂わせていくということ。当然だろう。人としての精神が、ドラゴンとしての肉体に耐えられるはずがない。 それがやがては心の軋轢を招いて、その結果がこの様である。 だけど………ああ、だけど。それでも馬鹿なあの人は、自分が、自分こそが、救いのないアサギリ・スイカの救いになってやろうと必死に訴えてくる。 無視してしまうのは容易かった。そうすれば、やがて力尽き果てて自分は消え去るのだから。最後の精神が押しつぶされてしまうのが先か、それとも魔力を使い切って存在を保てなくなるのが先かわからなかったが、どちらにしろアサギリ・スイカはそのとき、死ぬ。 もう生きていく気力はない。そもそも、もう生きられない。 ならば今残された選択肢はどうやって死ぬかというくらいのもので。救いなど、救いなんて…… 『お願い、ジュンタ君。わたしを殺して』 そう、アサギリ・スイカは願っている。 もう死ぬしかないこの瞬間、それでも何か願うことが許されるなら。 それを許してくれるというのなら。 どうか、お願いします。 今更愛してなんて言いません。一緒に生きたいなんて言いません。ただ、それでも最初で最後のこのお願いを、どうか聞いてください。 どうか、お願いします。わたしを―― 『もう、わたし……ダメ……耐えられな……これが、ドラゴンの狂い……だから』 絶句するジュンタに、掻き消えそうな小さな声でスイカは懇願した。 『……戻れ、ない……もうわたし……人間には…………これ以上ジュンタ君……狂わすわけに、も……だから……せめて、わたしを哀れに、思うなら……救いたい……って、思うなら……』 ドラゴンの中、唯一残ったアサギリ・スイカが必死に訴えていた。 『お願い――わたしを君が殺してください。ジュンタ君……!』 『スイカ!』 最後に悲痛な叫びを残して、スイカの声は消える。 風の鎖が掻き消されると共に、今度は身体から水を伸ばして束縛しようとするスイカ。近くに寄っていたジュンタは咄嗟にそれを避けきれず、四肢を掴まれてしまう。 眼前で開かれた口の中、水のブレスが圧縮される。直後発射されたブレスに額を思い切り殴られ、ジュンタはそのまま地上へと落下した。 (殺すしかないのか……) 苦々しい唯一の方法。それ以外の選択肢が、どんどんと消えていく。 これが救おうと思った行動の果て。これが自分のできることの果て。 どうすれば良かったのか。何が正解だったのか。今は声すら届かないスイカに、もう何も言っても無駄なのか。 (せめて、倒してやることが、殺してやることが救いなのか。これ以上誰も傷付けないですむように……) 悲しみの先の選択肢。禁忌である人を殺すという行為。たとえそれが相手を助けるためであっても、それでも自分に人を――大切な友人を殺すことができるのか。 したくない。殺したくなんてない。だけど、それしかないのなら…… (……故郷で俺は、自分を殺せなかった。だから、俺が誰かを殺すとしたら、昔の大切だった日常よりも大切な何かのためだと思った……) 今はもう、日常と呼べるものはこの異世界にのみある。リオンがいて、クーがいて、サネアツがいて……そんな、日常。 過去の日常よりも現在の日常。ならばそれを守るためにも、もう過去は捨て去らないといけないのかも知れない。いや、本来ならもうすでに捨てているはずなのだ。故郷ではなくこの世界を選んで旅立ったあとのときに、もう故郷には戻らないと思ったあの時に。ジュンタにとってここはもう『異世界』ではなく、自分のいる『世界』なのだから。 スイカのことは大切だ。助けると決めた。そして殺すことが唯一の、せめてもの救いとなるのなら……。 水しぶきが盛大に舞い上がる中、ジュンタが見上げるのは虹。散った水が空にかけた虹を、ジュンタは呆然と見上げた。 それは神からのオラクルを受けるときに似た感触だった。敬愛すべき主が今、彼方が地で何を求めているかがクーにははっきりとわかったのだ。 「ああご主人様 あなたに愛の花束を」 クーは自らの肉体に秘められた秘法を顕現する。 『儀式紋』の輝きが、その場に膝を付き、手を組んだクーの身体を染め上げていく。 「御霊から肉体を描く正円」 クーがいたのは神居の私室、その窓から身を乗り出して空高くに魔法陣を描く。 ――――頼む。俺を喚んでくれ、クー。 クーはジュンタがどういった状況に置かれているか知らない。今誰と一緒にいるか、どんな姿をしているか知らない。[召喚魔法]は危険が多い魔法だ。『儀式紋』との併用も初めてのこと。どうなるかはわからない。 だが、それがどうした。今、愛すべき聖猊下が喚んでくれと言っているのだ。それ以上にどんな理由が必要というのか。 必要などない。この身は従者。この身は花嫁。この身は全てがサクラ・ジュンタのもの。 望まれるなら是非もない。願われるなら叶えて差し上げるだけ。それがクーヴェルシェン・リアーシラミリィの存在意義なれば、躊躇も失敗への恐れもない。 初めてかのお人の方から願われた幸福に笑みを浮かべながら、クーは一心に呼んだ。 空より水のドラゴンが生まれ落ちる中――――もう一人のドラゴンを。 ◇◆◇ 聖地の空には、あってはならない光景ができあがっていた。 空にて対峙する二体のドラゴン―― 片や、水路から伸びた水の集合体たる青いドラゴン。 聖神教が語る敵が互いに睨み合っている。その様は本来ありえざるべき光景。 人々は先程から起きていた異変の果てに現れたドラゴンの姿に、恐慌に似た悲鳴をあげて逃げまどう。彼らの記憶には、一体のドラゴンによって滅び去ったオルゾンノットの都の様子でも過ぎっているのか。 都すら容易く葬り去るドラゴンが二体――その脅威に、使徒の庇護下にある聖地ラグナアーツの人々といえど逃げまどうしかない。中には礼拝堂へと入り、一心に祈り続ける信者の姿もあった。 「ジュンタ……」 ジュンタの口から再び放たれた白のブレス。それは凍てつく束縛の息吹となって、暴れ回るスイカを繋ぎ止めようとする。 一度束縛されてスイカはその脅威を身にしみていたのか、身体を水の流れに戻して、捕まらないよう高速移動する。しかし、そうするたびに都から伸びる水が氷によってせき止められていく。流動する水ではなく固定した氷になった時点で、溶けるまで再度取り込むことはできない。 凍った水は砕け折れ、天高くで動き回る水竜には届かない。いや、スイカが高速で動くほどに氷柱は崩れ、やがて身体の中心に流れ込む一本の水が辿り着いたのを最後に、完全にスイカは独立した存在になった。それはドラゴンの身体が、これ以上の再生を望めないことをも表していた。 ここから先は自らの不死性を利用した戦いはできない。身一つで相手と戦わないといけない。 異常放出する魔力が、互いの間の空間を歪めていく。 翼が動く。そう見えた直前には両者は激突していた。間にあった空間が突如消滅したような、加速の様子すらなかった神速の激突。 互いに反発して離れ、その場から互いに向かってブレスを放つ。 水の供給が止められた以上、水をブレスとして放つことは、スイカにとって自らの身を削る以外の何ものでもなかった。空を飛び交いながら互いに放たれる攻撃。それは徐々にジュンタの方が勝るようになり、攻撃するたびに水竜の姿は縮んでいく。 やがて再び両者が対峙したとき、そこには虹のドラゴンと同等である空の支配者は存在しなかった。 (全ては、お前をそうしてしまった俺が、悪かったのか) ドラゴンと比べれば、取るに足らない水の獣。 か細い水のブレスを絶え間なく撃ち続ける姿は、ただただ痛々しかった。 このまま放っておけば、やがて水竜は自滅する。自分の身体を構成する全てを吐き出し続けているのは、自殺を行っているも同じ。度重なる自傷行為の行く末は死である。 あえて手を加える必要はない。このまま行けば、スイカは自らが望むままに息絶える。 けれど、それでもスイカは最後に願った。ジュンタに殺されることが自分の望みである、と。 狂え。狂え。狂え。 そうすれば苦しむことはない。 誰を殺しても、仕方がないと、そう言える理由が欲しいのならば。 狂え! 狂え! 狂え! 『スイカ……魔竜は狂う、それを知ったとき、俺には何かができたのだろうか? 苦しんでいるスイカのために、何かをしてやれたのかな? ……ごめんな。スイカ。俺には、お前を救ってやることができなかった。これくらいのことしか、してやれない』 虹翼に力を束ね上げ、ジュンタは相手を呑み込むほどの魔力を練り上げる。 『ゴメン、ヒズミ。これ以上は待てない』 迸る魔力の猛りを見て、ようやくスイカの動きが止まる。萎縮したのかも知れない。けれど、ジュンタには最後の望みが叶う瞬間に至って、ドラゴンの中に溶け込んだスイカの意志が表層に現れたのだと思った。 『俺は救世主なんかじゃない。ただの人間だったのに……何を、粋がってたのかな』 だから、ジュンタは口に殺意の渦を生み出した。 静かに佇むスイカは、今一体何を思っているのか。 笑いあった時間があった。 『ごめん。救ってやれなくて、ごめん。本当に――ごめんなさい」 楽しいことも、辛いことも、悲しいこともあったけど、 それを忘れない。それを、忘れたくはないから―― そこにいるアサギリ・スイカを、破壊の力で、狙う。 ◇◆◇ 深い悲しみの中、ジュンタは結局自分は何もできなかったことを嘆く。 ジュンタが実際やったことといえば、諦めてスイカを殺しかけた。もし一瞬でもヒズミが遅かったら、ブレスは確実にスイカを射抜いていた。ヒズミが自分の命を賭してまで助けようとして助けた彼女を、殺していた。 「ごめん。スイカ、ごめん。俺は、俺はヒズミを……」 あまりの自責に、涙も出ない。謝罪の言葉しか出てこない。 「そんなことはないよ、ジュンタ君」 それを、腕の中で微笑む少女は、笑って許した。 ドラゴンから人間の姿になって――いや戻り、地表へと降り立ったのはジュンタだけではなかった。 ジュンタの腕の中にスイカはいた。もう魔力が尽き、水の殻も纏っていない、けれど見慣れた十八歳の姿で確かにいた。生まれたままの身体で、胸の中に紅い背表紙の本だけを抱きしめて。 それは奇跡と称するものなのだろう。 ドラゴンとしての姿になったとき、もうスイカに人間の姿に戻る術は残されていなかった。だからこうして人間の姿に、彼女の望む十八歳としての姿に戻れたのは、たった一人の弟から手渡された奇跡だったのだ。ヒズミはついにやり遂げたのだ。 「この姿はヒズミがくれたものだけど……ジュンタ君がいてくれなかったら、わたしはこうして、最後に話すこともできなかったから。きっと、ヒズミが来てくれる前に死んでいたから」 もしもジュンタにできた唯一のことがあったとしたら、ヒズミの手伝いを僅かにできたことか。スイカの声はどこまでも優しく、穏やかだった。 そんなスイカを包む時間も、またどこまでも穏やか。ドラゴンの消失によって喧噪が止んだ聖地の都は、戦火など何もなかったかのように凪いでいる。アーファリム大神殿では帰還した聖殿騎士団などが騒いでいるだろうが、人気のない浅い水路の中にいる二人の元までは届かない。 「…………ああ……あったかいな。君とヒズミの温もりは、とても、とても温かいよ……」 スイカの声が遠くなっていく。最後に、こんな最後にようやく届けられた温もりを胸に、スイカは目を閉じた。 「違う! そんなの違うだろ!」 このまま目を閉じさせてしまえば、スイカはいなくなってしまう。ジュンタは焦燥に駆られて大声をあげた。 「他にもやり方はあったはずだ! 他にも、もっと幸せな道が! 俺が遅れたりしなければ! 俺が間違えたりしなければ! 俺がもっと強ければ! ヒズミもスイカもこんな終わりには……!」 スイカはほんの少し驚いた顔で目を開けた。代わりに、長く艶やかな髪が光となって解けていく。 「ジュンタ君……」 「そんな風に最後の最後まで本心を隠さなくていい! 俺のことなんて気遣うな! お前は恨んでもいい。憎んでもいい。俺のことを呪って、そうしてもいいんだ!」 笑って死ぬなんて、そんなの嘘だ。スイカはもっと求めていたはずだ。幸せを。普通の幸せを。突然日常を奪われたスイカが、たったこれだけのことで笑えるなんて嘘だ。そんなの、あまりにも悲しすぎるじゃないか。 ジュンタには、スイカが最後の最後にまた心を隠したように見えた。そう、思えたのだ。スイカは他に何か伝えないことがあったのに、それを秘めて死のうとしていると。 「……お願いだ、スイカ。もう隠さないでくれ。俺が全部受け止める。俺は絶対、お前の言葉を忘れないから……」 「いいの、かな? ジュンタ君。わたしは、君を最後に呪っても……?」 スイカは困ったように笑って、言った。その手が動いて、旅人の刃の柄に触れる。ジュンタはスイカの手を両側から包み込むように、旅人の刃に力を込めた。 「ああ、いいに決まってる。お姫様の最後の我が儘を、俺が聞いてやる」 ジュンタは涙が出ない泣き顔で必死に笑顔を作って、頷いた。 「そっか。いいん、だ……それじゃあ、言いたい言葉が、一つだけ、ある。それはジュンタ君に対する、最悪の、呪いの言葉だけど……許してくれるなら。言う、ね」 「最低じゃないよ、ジュンタ君は……できることなら、わたしは、そう、君といたかったんだから。アサギリ・スイカっていうお姫様は、サクラ・ジュンタっていう王子様と結ばれるんだって、そんなことを、信じたかったんだから……後にも先にも、わたしにとって君が一番だった……」 そうして最後に残った温もりも微笑みも、やがては消える。 「だから……最後に、言わせてもらいます。サクラ・ジュンタ君」 最愛の弟が残した温もりに抱かれながら、今彼女は、隠し続けた本当の本当の願いを告げる。 「…………ぁ、ああ……」 「あ……ああ、あ、あああ、あああああぁああアア――――っ!!」 ただそこには、涙なき慟哭だけが残っていた。 ◇◆◇ 『封印の地』での大敗退があっても、使徒の死は何よりも先に偲ばれるもの。スイカの死を、少年の嘆きで多くの人が知った今、全てを抜きにしてなおその日の内に営まれることになった。 葬儀にあるべき骸も、使徒の葬儀にはない。 もう一人、アサギリ・ヒズミは葬儀さえ執り行うことが許されなかった。 ……本当にスイカとヒズミという姉弟は、この世界では朧気な幽霊みたいなものだった。 「本当に、何も……できなかった。涙を流してやることも、なぜか、できないよ」 心には、大切な何かが欠けた空洞ができていた。それは大切な友を二人も失ったことに対する喪失感か、あるいはスイカが最後に残した呪いによる痛みによるものか、あるいは殺してしまった過去に対するものか……どちらにしろ、それが塞がるには長い時間が必要となるだろう。もしかしたら塞がる日は来ないかも知れない。 彼女の最後の言葉を思えば、こうやって落ち込んでいることをスイカもヒズミも望んでいないとは思うが、それでもジュンタは動けずにいた。何もできなかった無力な自分を思えば、何をしていいか、わからなかった。 せめて涙を流せればとは思ったが……まるでこの身体から涙を零すという機能を失ってしまったかのように、涙が出ない。 もしかしたら、この身体は怪物になってしまったのか。 これから先、自分もスイカと同じ道を辿るだろう。ドラゴンとしての狂いの末路をこの目で見たジュンタは、それに自分が耐えられるのかわからなかった。あんなに固い絆で結ばれた姉弟ががんばっても届かなかった安穏でずっと生きられるとは、到底思えなかった。 「……魔竜は死にたがる、か。……悲しいよ、スイカ。お前とヒズミがいなくなって、俺はとても悲しくて寂しい。なのに涙が出ないのは……俺が、人でなしだからなのかな」 まるで母親が子供を抱きしめるように、唐突に後ろから抱きしめられた。 「あなたが人でなしだなんて、一体誰が思うものですか。スイカ様だってそう言うはずです。 「…………リオン」 振り向けば、そこにはリオンがいた。 全てが終わった後に想いを伝え合うと約束した少女を前に、ジュンタはなんて言っていいかわからなかった。そう、何もできずに自己満足の殺人を犯した自分は、約束を破ったも同じだったから。 「ごめん、今は一人にしてくれ。俺は、自分がスイカを救えたなんて思えない」 「一人になんて、できるはずがないでしょう」 そっと抱擁を解こうとしたジュンタを、リオンはさらに抱きしめる。 強く。強く。そうしなければ、この腕の中にある少年は崩れてしまうとでもいうように。 その温かさが、優しさが、今のジュンタには恐かった。何もできなかった自分が得るべき温かさではないと、そう思えた。そんな風に悲劇の主人公ぶっている自分が嫌で、情けなくて、でもどうしようもなくて、 「リオン。俺は……」 リオンの手を掴んで向かい合う形に体勢を変えたジュンタは、そこで彼女の手が震えていることに気付く。 胸に顔を埋めてきたリオンは、目元を僅かに濡らしていた。 (…………そっか。リオンも同じなのか。また俺は、武競祭のときと一緒で……) 憧れる強い少女は、それでも今涙を流していた。自分が招いた何かを後悔して、一人の夜に怯えて涙を流していた。流して――それでもジュンタを一人にはしないように、来てくれた。 強いな。と、そう思った。 ジュンタはリオンの手を結局振り払うことができなくて、しばし、そのまま外を見続けた。 外では今準備が行われていた。それは次なる『封印の地』への侵攻の準備。負けてなお、まだ誰も諦めていなかった。次こそは勝つと、反撃の炎は消えることなく再度燃え上がろうとしている。 じっとリオンの噛み殺した涙を受け止めていたジュンタは、気が付けば強く手を握っていた。 「まだ、あなたは戦うつもりですのね」 その手を上から包まれる。 「ああ。せめてそうしないといけないと、そう思うから」 触れるリオンの手をジュンタは握り返して、そして彼女に向き直った。 「お前も、戦うつもりなんだな。まだ、これからも」 「ええ。そうしたいと、そう思いますから」 もうリオンの目に涙はない。代わりに、優しくて強い炎だけが燃え始めている。 「あなたはとても弱い。ジュンタ。あなたは、とても弱い人」 そのまま胸へと抱き留められ、ジュンタはそっと頭を撫でられた。 「それでも戦いたいというのなら、せめて今日だけは泣きなさい。大切だった人の死を悼んで、今だけは泣きなさい」 「だけど、涙が出ないんだ。悲しいのに、とても辛いのに、涙が出ない」 柔らかくて温かなリオンの胸。誰かに頭を撫でられたことなど、果たして何年ぶりか。 「お母様は私に言いました。悲しくて涙するとき、それは家族か愛しい人の胸の中であるのだと。あなたが泣けないのはきっと、あなたが一人だったから。でも、大丈夫。あなたは今、誰よりも泣けるはずですから」 その温もりと優しさに包まれていると、目元が痺れるような感覚に襲われた。 「私は愛しいあなたの胸で泣かせてもらいました。だから、今度はあなたの番。私を愛しいと思ってくれる、私の最愛の人。私の胸で泣きなさい。今はただ、我慢せずに」 嗚咽を噛み殺すことができなかった。 「……スイカもヒズミも、とっても優しい奴、だったんだ。お互いのことを、とても大事に思ってた。俺が、殺した。俺の所為でああなった。俺が、二人を殺したんだ……!」 胸の内を吐露する言葉に、リオンは何もいわず、ずっと頭を撫でてくれた。 温もりだけでこんなにも人は救われるのだと、ジュンタは、この時以上に思ったことはなかった。 だから、思い出す。スイカの最後の顔を。最後の言葉を。 「スイカは、最後に言ったよ。俺に、最後に――」 スイカは笑っていた。温もりが温かいとそういって、笑っていた。 ああ。わからない。わからないよ。 思い出すのは、ただ、自分の馬鹿さ加減に気付いた、彼女が残した呪いの言葉。 自分以外は気付いていたのに、サクラ・ジュンタだけは気付けなかった、アサギリ・スイカの想い。ただの一度も考えたことがなかった、その想い。 アサギリ・スイカが最後に残した言葉。それは―― 微笑みと共に告白して、そしてスイカは消えた。 残ったのは、助けたいと息巻いていたのに、そんな大事なことにも気付いてやれなかった鈍感な男。 結末は酷く単純。サクラ・ジュンタは、自分のことを想ってくれた女の子をその手で殺した。 それが今回の結末。 だから――次は別の結末がいい。 自分の力が足りないなら、もっとがんばるから。 だから、どうかお願いします。 守らせてください。今度こそは、この愛しい少女を、守らせてください。 この人には笑って欲しい。この人にはずっと、笑っていて欲しい。 どうか――お願いします。 「ええ、私もあなたを愛しています。だから――これから一緒に、がんばりましょう」 サクラ・ジュンタはリオン・シストラバスのことを愛している。 涙の夜に、それだけを誓った。
第十九話 姉弟
それでも神獣になることなく、その本質を深く深く押し込めることで、スイカはじっと耐え続けてきた。それでも時折自分ではない誰かの声が頭に響き、心のどこかで破壊衝動は蠢いていて、時折暴走してしまうこともあった。
だがこれでいい。これでいいのだ。すでに身体を構成する水の一部では存在が気薄になり始めている。神獣であり魔竜である。そんな矛盾を抱える自分が、長い間存在を許されているはずがない。それはたった一人、終わりの神獣にのみ許された力なのだから。
だから、自分は死ぬ。それまで大切な人のために戦えれば、こんなバケモノの自分でも少しはマシに思えるかも知れないと、そう思ったけど……結局バケモノはバケモノでしかなくて、今自分の意志を離れてジュンタを襲ってしまっているけど。
殺さないよ。絶対に、殺させない。
そこだけはがんばるから。がんばって耐えるから……だから、自分を傷つけてまで戦わなくてもいい。
『スイカ!』
気が付けばそう返事を返していた。最後の理性が許されない本心を口にしてしまっていた。
自分は、他でもない救いの手を差し伸べてくれるこの人に殺されたいのだと。殺されることで、この人の消えない傷になりたいのだと、そう最低なことを考えてしまっている。
それを愚かだと笑わないでいてくれるのなら。
『――――あなたが、殺してください』
あれほどに聞きたいと願った彼女の本心からの訴えが、そんな願いであるのが悲しかった。
呼びかける声には空しい沈黙と、風の鎖を破壊するという行為によって返された。
伸ばした手は届かず、言葉は刃となって傷付けて、未だヒズミは戻らない。たぶん、彼が戻ってくる頃にはスイカは間に合わない。ヒズミを信じる信じないという話じゃなく、今ここにいるジュンタだけがわかるそれは、覆しようのない確定だった。
そのとき、やおらスイカの動きが止まったかと思うと、その身体が四散した。
「スイ、カ……?」
何の前触れもない水竜の崩壊に、強い脱力感に襲われる。ジュンタには今目の前で起きた光景が、スイカが死んだようにしか見えなかった。けれど、ここで不死のドラゴンが死んだとしたら、それはあまりにもあっけない最期だろう。
だから信じられなくて見上げ続けていたジュンタの目の前で、次の異変は始まる。
空から伸びていた水流が途絶え、逆流を始めた。割れた天蓋へと向かう川の流れは終端に辿り着いた先から消えていく。水が消えると穴が開いた天蓋の亀裂はふさがり、どんどんとこの世の終わりみたいに思えた空の孔は消えていく。
その中に、ジュンタは確かに見た。鮮血に蠢く一対の瞳を。
……結局のところ、悩むくらいだったら大切な誰かを『覚悟』で殺せるはずがないのだ。
「俺が、悩んだりしたから……俺じゃあ殺してくれないとわかったから、自分を殺してくれる別の誰かのところへ向かったのか……?」
魔竜は死にたがる。かの獣は自分を殺しうる相手を求めて彷徨う本能を秘めている。
「馬鹿だ、俺。何やってんだ、俺。くそっ!」
静かになった『封印の地』で、戦う相手も、救う相手も失ったジュンタは翼を失って地面に落下を始めた。あれほど強壮に感じた翼の波動も今はなく、苦い悔恨の味が落下した先で触れた泥と混じる。
純白の身体は泥に濡れ――だが、それでも瞳を濁らせるわけにはいかない。
スイカの最後の声すら裏切った自分に失望しながらも、諦められないもののために再びジュンタは光を求める。強き虹を。空を駆ける翼を。
だが、水そのものであるスイカとは違い、確固とした個の肉体を持つジュンタに単独での『封印の地』の突破はできない。スイカが向かった先がどこなのかはっきりしている以上、再び戦うにはここにはいない、声も届かない巫女の助けが必要だった。
「クー……頼む。俺を呼んでくれ。俺を喚んでくれ! 俺はまだ、諦めたくない!!」
「ご主人様。はい、承りました」
クーが単独で[召喚魔法]を使うには儀式場などのバックアップを必要としたが、それをクーは今回呪われた『儀式紋』を使うことで補っていた。
それでも初めての行為だったが、クーにそれらに対する不安懸念などは一切ない。感じるの
はただ、大切な主からの求めだけ。
「彼の地より縁を紡ぎ」
片や、眩いばかりの虹色の翼を広げる白いドラゴン。
空に突如として出現した二体のドラゴンは互いだけを見つめて、聖地の上空に滞在する。
その姿を東神居より不安げに見つめるリオンは一人っきりだった。
一番よく見えるだろうからと、フェリシィールの好意で入ることを許された東神居の彼女の私室だが、いるべき侍従などは全て撤退してきた聖殿騎士団の治療などに出払っている。
本来ならリオンとてその手伝いをしなければいけないのだが、今自分が行っても邪魔になるだけという自覚はあった。
ぎゅっと本の形を取った『不死鳥聖典』を抱きしめ、リオンはドラゴン同士の戦いを見守る。
ジュンタの姿を見た瞬間、心に熱い思いが込み上げて、気が付けば『不死鳥聖典』の真の姿を取り戻すことができていた。ジュンタは危ない……そう思うことで、つつがなく二つの強さはリオンに竜滅姫としての責務を果たす力を与えていた。
けれども、同時に身を苛むのは罪悪感。
今、愛する人を救うためだけに竜滅姫としてここに在ることに対する罪の意識。
目の前の命を救えなかったのに、自分の幸福だけは救える自分に対する失望の意識……。
様々な要因が絡み合い、リオンはそれ以上のアクションを起こすことができなくなっていた。
加えて、精神的疲労と肉体的疲労もピークに達しており、背後から近づく影に気付くこともできなかった。
「え……?」
いや、もし気付いていたとしても警戒していたかどうか。首筋に触れた手の感触を受けて沈む世界の中、一瞬垣間見えた姿はよく知った人のものだったから。
手からこぼれ落ちた『不死鳥聖典』を、本の形のまま手に取ったその人は、静かに外に向けてそれを放り投げた。
まるで誰かに、天からの宝物をもたらすように。
どうして『不死鳥聖典』が都合よく空から落ちてきたのか、それはよくわからない。もしかしたら自分にはそういう力があるのかも知れないなんて、それこそ都合がいいことを本気で考えるくらい、それはヒズミにとって甚だ助かることだった。
手に取った瞬間指輪の形に変わった『不死鳥聖典』を受け止めたまま空を見て、陽光の反射で見にくいとはいえ、そこにいた見知った人がなぜこんな真似をしたかも疑問といえば疑問だったが、
「ありがとう。最高だ! 愛してる!」
これで一番の難問が解決したヒズミの胸には感謝以外の言葉はなかった。
死体からむしり取ったマントで顔を隠しながら、ヒズミはアーファリム大神殿の出口を目指した。帰還した兵でごった返す中、誰にも気付かれずに外へ出るのは容易なことだった。目立つユーティリスとは孔を通った直後に別れているし、全てが順調に進んでいる。
だから少しだけ不安だった。
ジュンタとスイカが戦っている姿を近くで目におさめられる位置まで生きて近付けた幸運に、これから一世一代の賭に挑む身としては、幸運を使い果たしてしまっていないか不安で仕方がない。
「大丈夫。信じるしかない。ここまで来たんだ。信じるしかないんだ」
今ヒズミの瞳には、『聖なる瞳』もかくやという特別な視力が宿っていた。
それは聖地全てに行き渡るあらゆる魔力の流れ、『侵蝕』のぶつかり合いによる大気の流れ、そういった全ての動きを見切る超常の視力だった。
それはいわゆる火事場のクソ力という奴で、すぐにその自分という存在が全世界に広がったような感覚は消え失せてしまったけれど、ヒズミは自分がどこに飛び込めばいいのかわかっていた。
走る。走る。走る。
風になって。風を切り裂いて。風を追い越して。
矢のように走る。
アサギリ・ヒズミは必中の矢だ。逃しはしない。様々な幸運が重なって生まれたこの唯一のチャンスを。姉を救えるチャンスを。親友を救えるチャンスを。自分を救えるチャンスを。逃しはしない。絶対にど真ん中に当ててみせる。
そのときヒズミの走る速度は人が出せる速度を大きく超えていた。あるいはそれも火事場のクソ力という奴か。それとも、そもそもそのときヒズミは人間の姿をしていなかったのかも知れない。
やがてヒズミが辿り着いたそこは、何度か訪れたレイフォン教会の前の水路だった。
そこの水路から空へと伸びる水の道が、一番早く姉の元へと、姉の心へと辿り着ける道だった。
立ち止まって大きく深呼吸。実際呼吸を司る器官が動いているかも怪しかったけど、そんなの気にせず深呼吸。本番で失敗しないために、深く、深く、故郷の空気を胸一杯に吸い込んだ。
「ヒズミー?」
そのとき、不安に震える小さな声が聞こえた。
振り返ってみると、レイフォン教会の扉から小さな顔が三つのぞいていた。
ところで、ヒズミは子供というものが苦手である。
すぐ怒るし、すぐ泣くし、我が儘ばかりだし。すぐに笑うところはいいが、それでもどう接していいかわからないからやっぱり苦手だ。
姉に付き添ってレイフォン教会へ行くのも本当は嫌だった。ヒズミは裏でベアル教の盟主をやっていたため、いずれ彼らを傷つける日が来ることを覚悟していたから。偽善と笑われても、傷つける相手とわかっていながら遊ぶのは苦痛だった。決して、毎回勇者ごっこで悪役をやらされるからではない。絶対にない。
「おい、お前ら! よく見てろよ! ヒズミーはな、悪の手下じゃなくて勇者なんだからな!!」
だからニッと笑って、ヒズミは水の中に飛び込んだ。
グルグル回る。
水の中でグルグル回る。
身体も、心も、記憶も、景色も、全てがグルグルと回っている。
吐き出した血が水と共に姉の中へと流れ込んでいく。アサギリ・ヒズミの全てが、アサギリ・スイカの中へと溶け込んでいく。
目を大きく見開いて故郷の全てを記憶に焼き付けたら、今度は目を閉じて姉におはよう。
『まったく。姉さんは本当に、僕がいないとダメなんだから』
そこにいた姉の姿を見つけて、ヒズミは強く強く抱きしめる。
『ああ。そうだな。わたしはヒズミがいないと、ダメなのかも知れない』
姉も笑って、そっと背中に手を回してきた。
まだ何も知らずに幸せだった子供の頃のように、姉弟は強く互いを抱きしめあった。
『ダメだから……うん。僕はずっと、姉さんと一緒にいるよ』
辿り着いた姉の傍で。ヒズミは――――奇跡を願う。
これ以上彼女を放置しておくわけにはいかなかった。ここは『封印の地』とは違う。スイカが放つブレスはことごとく水の都を切り裂き、人の悲鳴を撒き散らした。その悲鳴がまるでジュンタにはドラゴンの悲鳴に、スイカの悲鳴に聞こえた。
スイカは攻撃する度に傷ついている。これは、無用の傷だったはずだ。
『俺があのとき、迷うことなくお前を殺せていたら……これ以上、傷つけることもなかったのに……!』
水のブレスと風のブレス。威力はイーブン。しかし、結果は同等ではなかった。
もはや生命の水は足りず、その外殻を作っているのは魔竜の意志のみだろう。
破壊の意志。殺戮の衝動。死への渇望。そういった本能に呑み込まれたドラゴンに、自分が不利になったからといって止まるという選択肢はない。
迎撃も防御もせずに受け止めても、軽い痺れ以外のダメージは伝わってこない。
――――ならば、くれてやる。自分に絶望しない、殺人のいい訳を。
ジュンタの中で闇が囁く。
狂気に身を浸し、人としての弱さを雑音に埋もれさせろ。
そうすれば誰に哀れまれることもない。
「黙れよ。俺は自分にだって、スイカを殺す権利は奪わせない」
悪魔の囁きをはね除けて、苦しむことがわかっているのに、ジュンタは自らの理性で行うことを決定した。
ジュンタは自分の中で消えていく過去の日常を感じつつ、何か大切なものが欠けていくのを感じつつ、だけど頭の中を満たすのはスイカと過ごした日々の光景。
それでも忘れようのない、かけがえのない笑顔があった。
『だからもう俺は、過去には祈らない。俺がお前を殺すよ、スイカ』
(僕は認めない。聖骸聖典が使徒と没した使徒の縁者にしか使えないなんて)
強く心の中で形にするのは否定の言葉。ヒズミは知っている。使徒などとは何の関係もないのに、聖骸聖典を自在に使っていた男を。
ウェイトン・アリゲイが行使していた『偉大なる書』の力……あれは本来の力の余波などではない。真実あの本の『神威執行』である。だから、聖骸聖典に使う権利があるなんて嘘っぱちだ。ウェイトンがあの使徒の直系でしたなんて裏設定は認めない。
(僕は認めない。『不死鳥聖典』を僕が使えないなんて、そんなの絶対に認めない)
重ねる否定の言葉。手の中に指輪の形としてある『不死鳥聖典』に強く否定を訴える。協力を訴える。
使徒よ。『始祖姫』よ。お前に慈悲があるのなら、お前に人の情があるのなら、今日だけ否定の言葉に騙されて力を貸してくれ。姉ではないが偽装には自信があると自負している。自分だって姉と同じ血を継ぐ存在ならば、今日だけ偽装できてもいいじゃないか。
(なぁ、頼むよ。奇跡を起こしてくれ。僕の世界を救ってくれ。代わりに、僕の全てをやる。今にも消えそうな命だけなんていわない。僕の過去と未来も全部やる。だから、頼む。僕に力を貸してくれ。姉さんの闇を不死鳥の炎で照らしてくれ)
水の中にヒズミの声が溶けていく。ヒズミの肉体が、精神が、魂が溶けていく。それが死にかけの水竜を生き残らせる、最後の糧となる。
――――どうか、お願いします。奇跡よ、起きてください。
何かが水竜の胸の中で点った。
それは炎だった。小さな、小さな、だけど美しい命の炎。そこで誰かが燃え尽きたことを教える、この世で最も輝いている小さな灯火。
そこでようやくジュンタは気が付いた。今目の前にいるのはスイカだけじゃないと。
『そっか……ヒズミ、間に合ったんだな。これが、お前の出した答えなんだな……』
きっと、ヒズミは前に進もうとしたのだろう。
最後の最後まで進んで、そして辿り着いた。ゴールに至った彼は自らの魂の炎をもって奇跡を起こした。小さな小さな炎は決して水竜を焼くことはなく、魔竜の狂いのみを焼き尽くす。
変化は如実に表れた。
透明な水でしかなかった身体に確固とした肉が生まれる。水晶のように美しい身体が。
それはとても小さい身体でしかなかったけれど、それでもドラゴンではあったが決して魔竜ではなかった。その全てを理解し、受け入れた慈愛に満ちた黄金の瞳が、それを物語っている。
「ヒズミ……ありがとう」
少女の声が聞こえた。懐かしい声だった。
長い戦いが終わりを告げる。ただ一人、大切な友の犠牲の上で。
煌めく水の上……スイカは微笑んでいる。弟の死。それを理解してなお、それ以上にヒズミの気持ちを理解していたから。
「ねぇ、ジュンタ君。手を出して……」
『不死鳥聖典』を抱きしめていた右腕をスイカはあげた。
言われるままに握り返すと、その弱々しさに不安になる。
「ジュンタ君も感じる? ここには、ヒズミがいるんだよ。ヒズミがくれた温もりが、ここにはある。わたしとヒズミは今、一緒になったんだ」
「一緒に?」
「そう。さっきまで気付けなかったけど、ヒズミもまた使徒だったんだ」
「ヒズミが使徒? ……そっか、それで……」
そう考えれば全ては繋がる。どうして本来喚ばれるべきではなかったヒズミが、スイカと一緒にこの世界に連れてこられたのか。『不死鳥聖典』を起動させられたのか。異世界から引っ張り込まれた使徒は覚醒するまでその姿は何も変わらないから、その可能性はあったのだ。
「わたしの巫女はヒズミで、ヒズミの巫女はわたし。そっか……時々どこかから囁き声が聞こえたけど、あれは魔竜の声じゃなくてオラクルだったんだ……でも、酷いよね。最後の最後で覚醒さえしなければ、ヒズミは死ななくても良かったのに。わたしが死んで、それで終わったのに……」
「スイカ、それは……!」
「うん、わかってる。だって、最後にヒズミの声が聞こえたから。本当の望みを果たせ、って。一緒にいてあげるから、諦めるな、って」
「スイカの本当の望み?」
小さく頷いて、スイカはそっと『不死鳥聖典』をジュンタに手渡した。
「これ、リオンに返してあげて。これは彼女のものだから。これがあることで幸せになるかも知れないし、不幸になるかも知れないけれど……これは、彼女に必要なものだから」
その下には何も纏っていない素肌があるはずだったが、目を背ける必要はなかった。
『不死鳥聖典』の下に、スイカはもう一つ聖骸聖典を持っていた。青い表紙の聖骸聖典を。
「スイカ……それって……?」
「そう、ヒズミの命。ヒズミの聖骸聖典。『双竜聖典』……願えば道標を見つけられる聖典。そして――」
ジュンタが聞きたいのは、そういうことじゃなかった。
「――祈れば大切な人にも嘘をつけてしまう聖骸聖典だから」
それは目が覆いたくなるような、自分の目をくりぬいてしまいたくなる惨い現実だった。
ヒズミの死骸より誕生した『双竜聖典』。それは今なお使徒の死骸を求めて淡く光り輝いていた。完成するために、使徒を欲していた。
目を見開いて震えるジュンタがそこで見たもの。
それは今まさに、『双竜聖典』に触れている場所から光に変わっていくスイカの姿だった。
「っああ!」
ジュンタは『双竜聖典』を思い切り弾き飛ばす。水の上を何度も弾んで跳んでいく、青い背表紙に神獣の刻印が施されていない聖骸聖典。使徒の亡骸より生まれるという本を引きはがしてなお、無情にもスイカの身体から欠け落ちた光は吸い込まれていく。ただジュンタがしたことは、吸い込まれていく場所を足下へと変えることしかできなかった。
「なんで……なんで、こんなっ!?」
ジュンタは『双竜聖典』を押させていた方のスイカの手を取ろうとして、そのまますり抜けてしまったことに絶望する。すでに胸下から腹部にかけて、スイカの身体はなくなっていた。
「寿命、なんだ。これがわたしの、アサギリ・スイカの使徒としての寿命なんだよ。ジュンタ君」
自分の身体が欠けているのを見ても、スイカは動じず笑っていた。少しだけ申し訳なさそうに。
「使徒は存在するだけで世界に影響を与えてしまう。人間に影響を与えてしまう。だから、神はこの世界に存在する使徒の数をできる限り制限するんだ。新たな使徒が必要になったときは、いらなくなった使徒を殺さないといけない」
「なんだよ、それ……じゃあ、俺がこの世界に来たから、俺が、いるからスイカは……!」
これまでの歴史が語るところによれば、世界に使徒の数は三柱まで。現代においてジュンタが現れたことでその歴史は破られたが、逆にいえばジュンタがそれを破ってしまった。
四柱目の使徒が現れるとき、最も古き使徒は死ななくてはいけない。それは間違いだった。
新たな使徒が現れるとき、最も必要ではない使徒が死ななければならない。それが使徒の寿命の正体。
「こんなのってない! ヒズミが、ヒズミが命がけで救ったんだぞ! なのに、そんなのってないだろ!?」
まだ感じる手の温もりに、ジュンタは強くスイカの身体を抱きしめた。その身体は驚くほどに軽かった。本来あるべき重さがなかった。
「俺が、俺が悪いのか? 全部、全部! 俺がいたから、俺がいたからスイカとヒズミは連れてこられて、マザーにいいように扱われて、殺されて……! 俺が、俺がいたから……!!」
「そう。君がいてくれたから、わたしとヒズミは笑って死ねるんだ」
痛いほど握りしめた手を優しく握り返して、何の後悔もないようにスイカは微笑む。すでに太ももまで光と変わっていた。水面が輝くような光の中に、少女の身体はある。
「わたしは、ジュンタ君とヒズミがいたから、人間として死ねるんだ。バケモノとしてじゃなく、人間として……笑って死ねるんだ。
ねぇ、ジュンタ君。ありがとう、って言わせて欲しい。わたしは、君にとっても感謝してる。だから笑って? 最後は笑って見送って欲しい」
それがスイカの最後の願いだというのなら、断れるはずがない。
ジュンタは未だ絶望に固まりながらも、必死に笑みを作ろうとした。でも、上手くいかない。どうやって笑顔というものを浮かべていたか、それがわからない。
きっとそこにあったのは、滑稽で憐れな笑顔モドキでしかなかっただろう。だけど、スイカは満足気な顔になって、繋いで手に頬を寄せた。
すでにスイカの身体は抱きしめることもできなくなっていた。空中に浮かぶように、光の中で胸から上と腕だけを残したスイカをもう抱きしめることもできない。
だから彼女を抱きしめていた温もりが残る手で、ジュンタは喚びだした旅人の刃を握りしめた。
「スイカ……教えてくれ。ヒズミが気付いた、お前の最後の願いを。俺は、お前を神なんかに殺されるくらいなら、俺が、俺こそが……お前を、殺す!」
ジュンタは刃の切っ先をスイカの胸に突きつける。あのとき最後にスイカは願った。誰かに殺されるなら、それは自分であって欲しいと。それは今でも変わらない。スイカは何も言わずにじっとジュンタの目を見た。
「そう……それが、ジュンタ君への救いにもなるんだね……」
スイカが柄に力を入れて自分の方へと引っ張る。今にも消えそうな胸に、いとも容易く刃の切っ先は食い込んだ。そこにある命を思えば、手に伝わる感触はあまりに儚かった。
血はない。代わりに光が流れ出て、その中でスイカはただの少女の顔に戻って、言葉を紡ぐ。
「許すよ。俺がスイカを殺した男だ。ヒズミを殺した男だ。俺は……こんなことで小さな満足感を覚えてる、最低な奴だから……」
儚い幻想が終わるように。夢から覚めるように、消えていく。
「わたしは、アサギリ・スイカは――……」
とてもとても酷い呪いの言葉を残して、
アサギリ・スイカはこの世のどこにもいなくなった。
死――否応なく、見届けるしかなかった絶対の死。
あとに残ったのは、一冊の本。たった一冊の、大切な人には比べようもない、一冊のちっぽけな本。
スイカ・アントネッリ・アサギリの葬儀は、つつがなく終わった。
ただ一冊の、青い背表紙に水のドラゴンが描かれた本だけが、弔いの祭壇に安置された。
『封印の地』で散った英雄たちの葬儀も共に行われた以上、聖戦の引き金を引いた彼を弔うことは、たとえ彼が巫女という立場であったとしても許されなかったのだ。
だが、一部の彼の最後の願いを知った人の間だけで、簡単な祈りで送られた。
スイカのためにと安置された『双竜聖典』は、またアサギリ・ヒズミの亡骸でもあったから。そして彼が残したかったものは、巡り巡って手紙という形でジュンタの手の中に残ることになった。
フェリシィールが代筆したその手紙は異世界の文字で書かれ、ジュンタ一人では読むことができなかった。夜になって自室に引きこもったジュンタは、誰かに頼むこともできずにいた。
「終わってみれば、俺は、何もできなかったんだな……」
黒曜の使徒。『優しき水面』のスイカを偲び、喪に服する聖地を、アサギリ姉弟が過ごした西神居の塔から見つめつつ、ジュンタは吹く風に前髪を揺らす。
魔竜という名の怪物になって、人としての機能を失ってしまったのかも知れない。
いずれ、自分は破滅する。それはそう遠くない未来の話。
そのときは、決して誰かを傷つけることなく、その前に自分で自分を……。
そう。もしも何かを救うために何かを犠牲にする決意をもっと早く固めていたら、もしかしたら救えていた命があったかも知れない。
もっと早くスイカを殺せれば、ヒズミは生き残ったかも知れない。
いや、もっと早く自分が気付かず見逃していた悪意を摘み取っといれば、二人ともまだ笑っていたかも知れない。
あったかも知れない『あのとき』を想えば…………後悔せずにはいられない。
「そんなわけ、ないでしょう」
後ろから誰かに抱き留められた。
あなたは最後までがんばりましたわ。最後まで諦めずにスイカ様を救おうと……だから最後に奇跡があったのです。
確かに笑って終われる終わりではありませんでしたけど、それでもあなたは精一杯スイカ様を救ったのですわ。私が無理だと馬鹿にした、ヒズミだって……!」
愛しいな。と、そう思った。
何度消されても、また無から燃え始める不死鳥の炎。それを胸に秘めたリオンは、そっとジュンタの後頭部へと手を伸ばす。
あれだけ一人のときには出なかった涙が溢れるように出てくる。まだ自分は、涙を流せぬ怪物ではなかったのだ。
ジュンタはリオンの胸の中で、子供みたいに涙を零す。
自分も、こんな温もりを最後に、彼女に届けてあげられただろうか?
「――――俺のことが、好きだ、って……!」
『わたしは、アサギリ・スイカは――――あなたがずっと好きでした』
こんな惨い結末じゃなくて、もっと幸せで、誰もが笑っていられるハッピーエンドがいい。
自分の頭が足りないなら、もっとがんばるから。
自分の心が足りないなら、もっとがんばるから。
この人には幸せをプレゼントしたいから。ずっとこの人を、守らせてください。
「リオン。俺、がんばるから。がんばって守るから、俺は、お前が好きなんだ……!」
この結末を受け止める。その証として、想いを伝え合う。
何もできなかった後悔の果てに、それでも二人の想いは通じ合った。
リオン・シストラバスはサクラ・ジュンタのことを愛している。
そうしてその日。サクラ・ジュンタは、
大切なものを得た代わりに――――人殺しになった
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