第二話  不協和音


 

 ――『闇』が静かに鼓動している。

 まるで獣が闇の中で荒く息を吐いているように、それはそこに確かな存在感をもっていた。誰かが後ろにぴったりと立っているように、決して離れることなくサクラ・ジュンタを見張っていた。

 使徒であるジュンタは、その本質を神獣とする存在だ。
 いくら神という冠をつけても獣は獣。その上ドラゴンなんていう獣の王の名を持つために、秘められた本能は想像もつかない。

 守るべき日常を犯そうとする、反転の呪い。
 肉体、精神、魂の全てを奪おうとする、ドラゴンの狂い。

 二つの苦痛に苛まれながらもがんばって耐えてきたジュンタは、しかしここに来て不安というものを抱いていた。

 数日後に迫った『アーファリムの封印の地』内の、ドラゴンを含めた魔獣の駆逐という聖神教の作戦において、必ずや交戦するだろうベアル教に対する不安。正確にいえば、その盟主たる少年――アサギリ・ヒズミに対する懸念だった。

 かつては友人というのが一番近い立場にあったヒズミと、その姉であり使徒であるスイカは、ジュンタと故郷を同じくする異邦者だった。地球よりこの異世界へとやってきた。違うのは、合意の上であったか、無理矢理であったかどうかの違いくらいだ。

 スイカたちは故郷への思いを捨てきれず、ヒズミは故郷への帰還を企んでいる。
 それは聖地を血で染め上げることよって可能となるらしい。使徒を一柱と聖地に生きる人々を生け贄と捧げることによって、あの日々へと回帰できるのだ。

 ヒズミはベアル教を使って、それを実行に移そうとしている。故に彼は聖地を守るべき使徒の敵であって――しかしジュンタの敵ではない。

 そう、敵じゃない。敵であってたまるのものか。

 たとえ今はすれ違っていようとも、スイカとヒズミとならきっと分かり合えるはず。苦しいと必死に訴えてきたスイカを救ってやることも叶うはず。

 けれど……ジュンタは思うのだ。果たして何をどうすれば救ってやれるのか、と。

「この世界で生きると決めた俺が、元の世界を求める二人に、一体何をしてやればいいんだ?」

 聖地の人々を殺すなといえばいいのか。
 別の方法を一緒に探そうといえばいいのか。

 故郷への回帰を求めるなとは決していえない。ジュンタもまた最初この世界にやってきたときは、故郷の地を再び踏むことを渇望していた。正直、あのままこの世界で元の世界を探す方法を求め続けていたら、自分がどれほど耐え難い望郷の念を抱いていたかわからない。

「スイカは自分を殺してでも、ヒズミはたとえ聖地の人々全てを生け贄に捧げても戻るつもりだ。そんな奴らに、俺は一体何をしてやればいいんだ……」

 聖地ラグナアーツにあるシストラバスの別荘の自室で、ジュンタはベッドに寝転びながら考え込んでいた。時折定まらない呟きが口からもれてしまって、その度にどれだけ自分がちっぽけか自覚せずにはいられない。

「……使徒だなんだいっても、俺は友達の一人も救ってやれないのか」

 かつて故郷の地で一緒に遊んだ思い出。異世界で再会し、共に笑い合った時間。ベアルの盟主として正体を現したヒズミと、助けてと本心では訴えていたスイカ。

「……スイカ……ヒズミ……」

 救ってやりたい、助けてやりたい友人の名を呟いて――そうして今宵もまた、ジュンタは眠れぬ夜を過ごす。

 


 

「おはよう」

 少し気の抜けたあいさつを、部屋を出て最初に出会ったクーにいったら、元気よく「おはようございます」と返されたあと悲しそうな顔をされた。

 儚さと美しさを紙一重で両立した神秘的な容姿。金糸の髪は長くのび、首の後ろで二つにくくられている。どことなく潤んだ蒼い瞳は空の青さにも澄んだ湖の蒼にも似て、まさに妖精というのがふさわしい少女がクーだ。そんな彼女は長い耳を垂れさせて、怖ず怖ずと声をかけてきた。

「ご主人様、今日もあまりお眠りになれなかったのですか?」

「あ、隈とかできてるか?」

 一応は顔を洗ってきたのだが、もしかしたら隈ができているのかも知れない。ジュンタは眼鏡を外すと、軽く目の回りを擦った。

「少し充血されているようです。あの、お疲れなのでしたら、もう少し眠っていらしても」

「いや、大丈夫。それにもうすぐ『封印の地』に行くんだ。ここでグースカ寝てるわけにもいかない」

「ですが、それでお身体を壊されたら元も子もありません。心配です。ご主人様、最近とても、その……」

「無茶をしてるように見える、か?」

 言いにくそうに口をモゴモゴさせるクーが言いたかっただろう言葉を、ジュンタは苦笑と共に口にする。

 クーは少し申し訳なさそうにしながらも、首を縦に振った。

「自覚はあるよ。今俺は無茶をしてるんだっていう自覚は。昨日だってリオンに怒られたばかりだしな」

「あれは、きっとリオンさんなりにご心配になられたのだと思います。リオンさん、とてもご主人様のこと気にしておられましたから」

「ああ。それも自覚がある。心配させてる自覚が」

 首の後ろに触れつつ、ジュンタはクーと並んで食堂へと歩いていく。その心中を占めるのは、どうしようもない、苛立ちに似た胸の疼きだった。

「……でも、じっとしてられないんだ。スイカを助けられなかったあの日から」

「スイカ様……やはり、どうにもならないんでしょうか?」

 ヒズミがベアルの盟主だったことは、クーたちにも大きな衝撃を与えたようだった。リオンなどは少なからず気持ちの切り替えができているようだったが、クーにとって、つい最近まで仲良くしていた人が敵に回るということに切り替えが上手く行かないよう。リオンに比べて、クーの方がヒズミたちと接した時間が長かったというのもあるのだろうが。

 小さな胸を痛めて、ベアル教の盟主であったヒズミのことを考えるクー。敵なのに憎めないそれは、ジュンタとて同じだった。

「ヒズミ様がベアル教の盟主で、オーケンリッター様もベアル教に属している。それが事実だということはわかっているんです。ですが納得できなくて」

「俺もだ。俺も、ヒズミが敵とは見られない」

 ジュンタはフェリシィールを含めた関係者に、ヒズミの目的を説明していた。彼は今は行くことができない故郷に戻るために、儀式を起こそうとしているのだと。異世界云々はぼかしたが、意味合い的にはサネアツの助言もあってきちんと説明できたと思う。
 だからクーもヒズミの事情は知っている。けれどジュンタはクーとは違って共感さえできてしまうため、尚更にそう思わずにはいられない。

(ヒズミは何も、聖神教が憎くてやってるわけじゃない。ただ、ある日唐突に奪われた故郷に戻るために仕方なくやってるんだ)

 故郷への回帰。ただそれだけのために行動している少年を、責める言葉は持ち合わせていない。

(けど、そのために聖地にいる人みんなを生け贄に捧げるなんてこと、許しちゃいけない)

 しかし、そのための方法を見逃すこともできない。聖神教がベアル教の盟主がヒズミと知りつつも敵と定めているように、間違いなくこれからベアル教が行おうとしていることは大きな罪に該当する。大虐殺。行われるだろうそれは、そう呼ばれることだろう。

(情けない……)

 敵なのに敵として見られなくて、だけど肯定もできないヒズミたち。今は惰性で動いているのだと、そうジュンタは自覚していた。

「どうにか、戦わずに済む方法はないのでしょうか? 誰も傷つかずに済む方法が」

「あったら悩むことなんてないのにな。そのために全力で動けるのに」

「……そうですよね。そんな方法がないから、ご主人様も悩まれているのですよね」

 答えのでない袋小路。ヒズミたちの願いはどうにか叶えてやりたいが、その方法が見つからない。

 ……きっと、選ばなければならないのだろう。フェリシィールのように。リオンのように。

「ヒズミが倒すべき敵か。守るべき味方か。始まる前に、決めないとな」

 口に出した言葉に、クーは頷きも返事もしなかったが、それでも同意しているようにジュンタには見えた。

 そのまま無言で食堂へと入ったジュンタは――

「遅い起床だな。ジュンタ・サクラ」

「たるんでいる。一日は朝から始まるというのに」

 ――何か信じられない光景に遭遇した。

 朝一番というのに食堂は忙しそうだった。パタパタと駆け回るメイドさんたちと、厨房の方から僅かに届いてくる怒声。大きなテーブルに腰掛けているのはリオンとゴッゾ。その傍らに控えるユースと、その腕の中のサネアツ。で、一番上座の席を用意され、黙々と咀嚼を続けているのは翡翠色の髪をした親子であった。

 ……鋭い形相の半分近くを、積み上げられたお皿で隠した。

「クレオメルンのいうとおりだ。朝日と共に起床し、没すと共に床につくことが最も望ましいというのに。忙しいがために眠る時間が遅くなることはあっても、起床の時間を遅らせるなど精神の鍛錬がなっていない証拠だぞ」

「……いや、そんなことより」

「ん? なんだ?」

 淀みなく動かしていたナイフとフォークを止めて、ズィール・シレとその娘クレオメルン・シレは、同時にジュンタを睨むように見た。思わずすくんでしまうほどの鋭い瞳は、しかしジュンタの呆れを誘うスパイス以外の何ものでもなかった。
 
 隣のクーも、リオンもゴッゾも、ユースやサネアツでさえ声を失ってズィールとクレオメルンを見ていた。忙しいのは料理を作る厨房と、料理を運ぶ給仕だけである。

「自分に何か言いたいことがあるのではないのか? 言いかけて止めるなど、あまり褒められたことではない」

「なに、言い淀むことはない。聖猊下はお優しくていらっしゃる。ジュンタからの言葉は対等なる者からの言葉として、真摯に受け止めてくださるはずだ」

「……なら、言わせてもらうけど」

 恐らくみんなが思い描いているだろうが、地位の差から下手に言えなかったツッコミを、唯一ズィールと地位が同等のジュンタは淀みなく口にした。

「どれだけ喰って、これからどれだけ喰うつもりだ? 朝から」

「……ふむ」

「……む?」

 視線を目の前に置かれた一枚のお皿に移した親子は、最後の一切れだった鶏肉をフォークで刺し、気品ある所作で口に運んだ。その後片づいたお皿を横――五十枚近くあるお皿の一番上に置くと、ナプキンで口を拭う。その一連の仕草は完全にシンクロしていた。

「いつのまにこんなに。最近、とてもお腹が空くのは自覚していたが……」

「確かに。空腹だとはいえ、腹八分目で止めておくべきだな」

「腹八分目……!?」

「いや、実際は七割五分と言ったところだが、細かいところは気にしないでもらいたい。
 馳走になった、ミスタ・シストラバス。なかなかに美味だったとシェフに伝えてくれ」

「私からも感謝を。とても美味しかった」

「ええ、わかりました」

 もぎゅもぎゅごっくんとものすごいハイペースで朝食を食べていたズィールは、一体どこへ積み上げられたお皿の上にあった食べ物を収めたのか、いつもの変わりない威圧的な威厳を纏ったまま立ち上がった。とてもじゃないが、五十人前の料理をぺろりと平らげた人間の姿ではない。父親に追随するクレオメルンは、ズィールに輪をかけて何かが間違っている。

「実はあんたら、ものすごい大食らいだったんだな」

「生憎と燃費のいい身体ではないのでな」

「わ、私は、修行中の身で栄養が必要なんだ」

 目の前まで近付いてきた大食らいたちをジュンタは何とも言えない瞳で見た。とりあえず頬を若干赤く染めたクレオメルンには、まだ羞恥心が残っているようだ。

 さて――しかし高い長身に白い聖衣を纏った翡翠の使徒は、ジュンタにとっては何とも対応しづらい相手といえた。

 初対面での印象は互いによくなかったし、その後、彼がベアル教の盟主なのではと疑っていたのもあり、両者の間に流れる空気は若干険悪なものだった。それはズィールが盟主などではないとわかった今でも、少しだけ影響を残している。

「それで、こんな朝早くから何の用なんだ? 俺に何か伝えたいことでも?」

「ジュンタ・サクラ。その言い方は不敬に値する。口には気を付け――

「かまわん。クレオメルン。貴公はしばしの間下がっているといい」

「……了解しました」

 娘の行動を止めたズィールは再びジュンタに向き直る。
 クレオメルンは最後に鋭い眼差しで釘を刺したあと、クーがいる方へと下がった。

「ジュンタ・サクラ。少々貴公に用件がある。場所の移動を要求したい。ここでは少々都合が悪いのでな」

 ズィールは横目で食堂に揃った多くの面子を見た。どうやらズィールの用件というのは、人目のあるところでは困るものらしい。

「そういうことなら、俺が使ってる部屋で」

「了解した。案内を頼もう」

 友好とはいえなくて、さりとて険悪とも少し違う微妙な空気を背負いながら、二人の使徒は食堂に集まったみんなに見送られる中、ジュンタが使っている部屋へと去っていく。

 


 

 恐らく、みんなはズィールの来訪に微かな不安を抱いたことだろう。何かが起きたのではないか、と。

 ここのところ悪いお話しか聞かない。その上人の目があるところでは話しにくいと来れば、そう邪推してしまうのも無理はない。たとえズィール個人の目的がまったく関係なくとも、世界最高権力者が尋ねてくれば、誰しも何があったかと思うだろう。

 結論から言ってしまえば、半分正解で半分外れだった。

「自分の用件は簡単だ。ジュンタ・サクラ。貴公に再び選択を迫ろう。使徒として聖地に降り立て。出来うる限り早急にだ」

「どういうことですか?」

 以前も告げられたことのある用件に、自室のバルコニーの手すりにもたれかかったジュンタは眉を顰める。

「一応それはこっちの自由意志に任せる、みたいな結論に達したんじゃなかったですっけ? それなのに今更誘ってくるなんて、どんな理由が?」

「理由は多々ある。使徒が本来そうあるべきであること。これも大きい。大きいが、今回に限ってはもう一つ大きな理由がある」

「それは今回の聖戦に関係あることですか?」

「そうだ。正直のところ、計画を前倒しにせねばならなくなったことが原因で、いかなる方法かドラゴンを従えさせたというベアル教に対して戦力的に劣りつつある」

 聖地の使徒として、ズィールは説明を重ねていく。

「『封印の地』に潜む魔獣は十万。これに加えてドラゴンと、ヒズミ・アントネッリを盟主と仰ぐベアル教。これだけならば想定の範囲内の脅威となるが、ここにスイカ・アントネッリが加わると想定を超える」

「待ってください。スイカは別に聖神教を裏切ったわけじゃない!」

 まるでスイカがベアル教についたといわんばかりのズィールの口振りに、ジュンタは噛みつく。

「スイカはただヒズミを助けたかっただけなんです。それだけで、別に敵になったわけじゃ……」

 鋭い眼差しを前にして、ジュンタの声は尻つぼみになっている。
 ズィールの視線が無言で語りかけていた。自分を騙せない強がりは止めろ、と。

「スイカ・アントネッリがヒズミ・アントネッリを助けたいと思うのならば、なおさら敵についた可能性は高い。ヒズミ・アントネッリを守る。それ即ちベアル教に組するが等しいのだから。
 貴公の逡巡はわからぬでもない。だが、我々はヒズミ・アントネッリを異端教徒と認識しており、これを断罪の対象としている。これを守るものは排除せねばならない」

「だけど……」

「とはいえ、貴公のいうことにも一理ある。スイカ・アントネッリが敵対するとは限らない。だが、ここでは最悪の事態を想定した上で話を続けさせてもらおう」

 一拍、そこでズィールは言葉を切った。それはまるでジュンタを気遣うような僅かな間。相手の心を汲み取った上での説明に、ジュンタは小さく頷くしかなかった。

「スイカ・アントネッリがベアル教についたと仮定した場合、つまりは終わりの魔獣と神獣の両方を一度に相手することになる。
『封印の地』に潜むドラゴンだけならば勝つことは不可能ではない。スイカ・アントネッリ個人に対しても同じだ。たとえスイカ・アントネッリがいかなる神獣形態を持つ使徒であっても、遅れを取ることはあるまい。ただ、両方が一緒に襲いかかってきた場合、我が方に出る被害は尋常ではないだろう」

「そのために、俺を戦力として揃えておきたい、ってことですか。きっとフェリシィールさんには内緒で来たんでしょうね」

「肯定だ。彼女は少々、使徒であることよりも私的な感情を優先させるきらいがある。本来、貴公が我々と共に聖戦に挑むは当然というのに、危険という一言だけで遠ざけようとしかねない」

 自分をジュンタ・サクラではなく、一柱の使徒として見るズィールの考え方は、恐らくフェリシィールよりも人の上に立つ者としては正しいのだろう。

 個人的には冷たくも見えるその言動に思うところがあるが、今回に限っては好都合だった。

「……ようは協力要請なんですよね? それは構いません。ただ、使徒として公表されるのは少々困ります」

「また、先のような戯れ言を理由として述べるのではあるまいな? 現状は甘えが許されるほど、楽観視していいものではないと、貴公とて理解しているだろう?」

「理解はしています。けど、とりあえず協力があれば公表までは必要ないはずですよね?」

「……解せないな。公表はせずに、しかし戦うことには協力するという。貴公、一体何を考えている?」

「簡単なことですよ。今はまだ使徒としての柵が邪魔なんです。まだ俺は、一個人として戦いたい」

 ジュンタは思い出す。自分に対して助けを求めてきた、幼い壊れやすい少女のことを。

 ズィールは聖地の守り手としてヒズミたちを敵として見ている。聖地を破壊する敵として。未だ二人をどうしていいかわからない自分だけれど、きっと答えが出る瞬間は、もう一度二人と会ったときだと思うから。

「協力する代価は、俺にスイカたちのことを一任してもらうことです。それさえ飲んでもらえるなら、俺はドラゴンになることだっていとわない。たとえそれが――

 自分の中で脈動する闇を感じながら、それでもはっきりとジュンタは告げた。

――自分の中の歪みを加速させるとしても。後悔だけはしたくないから」

 


 

       ◇◆◇


 

 

「お邪魔しますわよ」

 去ったズィールと入れ替わるように部屋へと入ってきたのは、険しい顔をした少女だった。

 燃えるような真紅の髪を長く伸ばし、この世で最も苛烈な真紅の瞳は見る者を魅了する。
 凛々しい騎士であり、優雅な貴婦人である大貴族の少女――リオン・シストラバス。やってきたのは、色々な意味でジュンタにとっては大きな意味合いを持つ少女だった。

「どうやらズィール様はお帰りになられたようですわね」

 ノックから間をおかずに入って来るなり、彼女は部屋にズィールがいないことを確認する。
 そのことにジュンタが文句を言う前に、リオンはツカツカと歩み寄ると腕を組んで見下ろした。

「それで何を話していましたの?」

「また、唐突だな」

 前振りも何もない直球に、ジュンタは苦笑いを浮かべた。
 しかしリオンの方は、ピクリとも険しい表情を崩さず、本気そのもの。

「守秘義務とか、そういうのがあるとは思わないのか?」

「あってないようなものでしょう。ズィール様があなたにお話しする内容でしたら、私もまたいずれは聞くでしょうし。早いか遅いかの問題であり、ここであなたの口から聞くことが重要なのですから。もっとも、どんな話をしていたかは想像つきますけど」

「だろうな」

 ズィールがこのタイミングでやってきたとなれば、それは此度の聖戦についてに決まっている。リオンが考えているだろうことは、まず間違いなく正しいだろう。

 そこまで推測できているなら、黙っていてもしょうがないか。ジュンタは椅子に座ったまま、自分を見下ろしてくるリオンに先程の内容を話した。

「俺も一緒に『封印の地』へ行くこと。ベアル教に対しての戦力として動くこと。それを要求されて、俺はその要求を呑む変わりにスイカたちのことを任せてもらう約束をした」

「やっぱり。思った通り、最悪ですわね」

 舌打ちして、リオンは顔を歪める。それは常日頃から淑女たらんと自らを律している彼女にしては珍しい、心底から忌々しく思っていることを表す仕草だった。

「……いいでしょう。クーもサネアツもあなたの意志を尊重し過ぎますから、私がはっきりと言って差し上げますわ。――ジュンタ。ヒズミのことは諦めなさい」

 突きつけられた要求に、ジュンタは立ち上がってリオンを睨んでいた。

「どういうことだよ? ヒズミのことを諦めろ、って」

「そのままの意味ですわ。あなたも本当は理解しているでしょう? ヒズミはベアル教の盟主。此度の聖戦においての、いわば敵の首領に該当する存在でしてよ。あなたが言っていることは、敵の首領を助ける、ということですわ」

「それの何がいけないんだ? 救える命なら、敵だって救っていいだろ?」

「ええ。余裕があったら、それもまた一つの善行かも知れませんわね。けれど、今のあなたにその余裕がありまして?」

「それは……」

 自分でも気付いていたことだが、はっきりとリオンに言われて、ジュンタは言葉を失う。
 余裕がない。昨日リオンに怒られたように、それは自覚してしまうほどに明らかだった。

 リオンは黙り込むジュンタを、そら見たことかという視線で射抜いて、

「今のあなたがそんな無茶な行為に及べば、ヒズミの元へと辿り着く前に戦死するのが関の山ですわね。どれだけ無茶な鍛錬をしようとも――いえ、無茶な鍛錬をするほどに、あなたがあなたの思うとおりの結果を手に入れられる可能性は減りましてよ」

「たとえそうだとしても……諦めないといけない理由にはならない」

 ヒズミを諦めろというリオンの姿を見返すジュンタの内心には、『どうして?』という気持ちが渦巻いていた。

 どうしてそんなことをいうのか。リオンだって、ヒズミが本当はどんな奴か知っているではないか。なのに、どうしてそんな見捨てるようなことが言えるのか。

 ヒズミたちを助けることが難しいことだってのはわかってる。けれど、それでもやってみる価値はあるはずだ。試してみる価値は。少なくとも、最初から諦めて、見捨てていいはずがない。

「正直に申し上げさせていただければ」

 こちらの心境を察したのか、リオンは澄ました顔を作って佇まいを直した。

 胸を張って、背筋を伸ばし、いつにも増して優雅に。
 どこか意地を張った澄まし顔とは違う、それは初めて向けられる、目上の者に対するリオンの仕草だった。

「使徒ジュンタ・サクラ聖猊下にありましては、聖地にて大人しく守られていることを強くお勧め致しますわ。わざわざ戦場に夢溢れる子供みたいな思いでやってこられるより、それが誰にとっても幸いなことかと思われますので」

 強烈な皮肉に、正直な感想に、ジュンタは声と色を失った。

 そんなジュンタを鼻で笑うと、リオンは澄まし顔に表情を変えて、クルリと背を向けた。

「今のあなたについてこられては、勝てる戦も勝てませんし、救える命も救えませんわ。本当にね、迷惑ですのよ。だからあなたはここに残りなさい」

 そうしたら、せめてスイカ様は代わりに私が助けて来て差し上げますから――そんな言葉を残して、リオンは去っていく。

 ジュンタは、呼び止めることもできなかった。

「…………くそぅ」

 それは理想にすらなっていない、甘えなのだと教えられて。

「……ちくっ、しょう…………」

 ジュンタは強く強く拳を握りしめたまま、震えることしかできなかった。


 

 

「憎まれ役ご苦労様でした」

 ジュンタの部屋の扉に背を付けて、部屋の中から聞こえてくる泣く一歩手前の悔しそうな声を聞いていると、通りかかったユースに声をかけられた。

 リオンは今の自分の顔を見られたくなくて、必死に取り繕った怒り顔を作る。上手くできていたかは知らないし、どうせ今更だろうが、リオンのプライドが辛そうな顔を従者に見せることを良しとしなかった。

「なんのことですの? 私はただ本気で思っていたことを、そのまま言っただけですわ。今のジュンタが戦場に行くなど自殺行為以外の何ものでもないですし、その結果私たちに被害が出てはたまりませんもの」

「たとえ好きな人だとしても、ですか?」

「当然です。公私混同は致しません」

 好きな人とさらりと言われて、リオンは少しどもりながらも毅然と返した。

 ユースは少しだけ眉をハの字にすると、

「そうですか。では、ご忠告をしていただきありがとうございました。と、いうべきでしょうか」

「それでは、ユースがまるでジュンタの保護者みたいではないですか」

「ならば俺からお礼を述べておこう。うむ、良くやった。二度告白した相手から現実を突きつけられ、今ジュンタはものすっごく落ち込んでいることだろう」

 唐突なのにあくまでも自然に会話に混ざってくる相手など、それが姿の見えないとなれば、名前を呼ぶことすら意味のないこと。リオンは物陰からするりと姿を現したサネアツに視線を送って、彼の台詞に小さくうなだれた。

「……嫌われるのが嫌なら、自らそんな役回りなど引き受けなければいいだろうに」

「私が言わなければ、一体誰が言うというのですか。クーは甘やかしすぎですし、あなたに至っては、あんなジュンタでもどうにかなると本気で思っていそうですもの。トーユーズさんがここにいれば別ですけど、いないのですから、やはり私が言わなければならなかったのですわ」

 ユースに引き続きサネアツにも見破られてしまえば、もう虚勢を張るのも馬鹿馬鹿しい。

 ジュンタに告げた言葉は正直な気持ちだとしても、それでも好いた相手の好感度を自ら下げようなどと誰が思うものか。それでも言ったのは、ただ純粋にこのまま戦地にジュンタを行かせて、彼に死なれたくなかったからだ。

「どうしてあなたもクーも、しっかりとジュンタの手綱を握っておきませんのよ。お陰で私が、私が……」

「すまんな。生憎と俺の手は猫の手だからな」

「今の私は子猫相手でも容赦しませんわよ? 冗談をいうのでしたら、命賭けていただけます?」

 肉球を見せてくるサネアツに、リオンは一転爽やかな笑顔を浮かべた。
 サネアツの視線が横へとフェーズアウトしていく。ふっ、勝った。けど空しい。

 リオンは一度心配そうに扉を振り返ると、自室へ向かって歩き始める。ユースは半歩後ろを、サネアツはそんな彼女の腕の中にちゃっかり収まってついてくる。

「それで、はっきりと事実を突きつけたわけですけど、ジュンタはこれでヒズミやスイカ様を救うことを諦めると思います?」

「無理」

「即答ですね」

 サネアツの断言に、ユースがどこか感心したように頷いた。
 リオンは感心などできない。あそこまで自分がしたのだから、何か成果は欲しかった。

「なら、これ以上どうしろと言いますのよ? ああもはっきり言っても意味がないのでしたら、本気の本気で戦えないようボコボコにする以外に方法がないではありませんか。このまま戦場に行ったら、十中八九死にますわよ」

「俺としてもジュンタに死なれたくはないな。死ぬかどうかはさておき、あまりよろしくない状態なのは間違いなかろう。何せ親しかった相手が敵の親玉というのだ。こんな展開、現実で味わえば笑うことすらできん」

 珍しく悩んだ様子のサネアツに、リオンはチラリと視線を投げかけた。

「そもそもの話、ジュンタとヒズミやスイカ様はどういう関係ですの? クー捜索の折に初めて出会ったにしてはあまりに親しくありません? ジュンタのヒズミやスイカ様に対する執着は、まるで……」

「まるで、恋人が敵にでもなったよう、か?」

 悩んだ様子を見せていたのは五秒にも満たなかった。ニヤリとサネアツは嫌らしい笑みを浮かべている。その瞳はからかう対象を見つけたと元気に輝いていた。

「ほぅほぅ、ジュンタに戦場へ行くなと忠告したのは、つまりスイカと会うのが気にくわないからだったのだな。いやはや、サネアツ様としたことが、まさか乙女心に気付けなんだとは。俺も男だったということだな」

「サネアツさん。気持ちはわかりますが、あまりリオン様をからかってはいけません。リオン様は真摯な気持ちで、ジュンタ様のことを心配なさって言われたのですから」

 さすがはユース。ピシャリとサネアツを叱れ、なおかつ彼を渋々ながらも従わせられるとは。何だかおかしな言葉が前にくっついていた気もするが、主としては鼻高々だ。

「ユースにそこまで言われては仕方ない。素直に質問に答えるとしようか。
 リオンが言ったとおり、確かにジュンタとスイカたちの関係はこの聖地で始まったわけではない。今はヒズミのことは除外するが、ジュンタとスイカの二人の出会いはもっと昔、それこそ子供だった頃にまで遡る」

「子供だった頃? それってジュンタがまだ故郷にいた頃ということですの?」

「そういうことだ。二人ともある程度知っているはずだが、ジュンタも俺も故郷を旅立った身だ。その辺りの事情はいずれ話すときもあるだろうが、今回は割愛しよう。重要なのはただ一点。子供の頃、二人は確かに仲が良かったということだ」

「故郷が同じで、幼友達だった……というわけですのね」

「そう言って間違いはないな」

 スイカは十代で使徒として降誕した使徒であったから、彼女はそれまで故郷で過ごしていたことだろう。そこがジュンタと同じだったということだ。そういえば、スイカの弟であるヒズミの髪と目の色も黒だった。

 薄々は感付いていたとはいえ、リオンはジュンタとスイカたちの間にあった縁というものに苦い顔をする。

 故郷が同じ……それはたぶん、想像しているより大きな意味合いを持っているのだろう。

 ヒズミの目的は故郷に戻ることだという。どうして故郷に戻るだけで、ベアル教の盟主になる必要があるのか、リオンにはわからない。ただ、本当にそこまでしなければ、故郷へは戻ることができないのだろう。ジュンタやサネアツ、スイカやヒズミの故郷はそんな特別な場所なのだ。
 ジュンタやサネアツは故郷のことを語るとき、懐かしむような、寂しいような、そんな顔をして、自覚があるのかないのか知らないが話を逸らそうとする。

(一体、ジュンタたちの過去には何がありましたの?)

 軽く訊くことを躊躇われるそのことに思いを馳せながら、リオンは自分の正直な気持ちを吐露した。

「私だって、ヒズミを敵だなんて思いたくはありませんわ。ましてやスイカ様まで敵に回っているかも知れないだなんて……一緒にお話をして、とても楽しそうな姉弟だと思いましたのよ」

 ジュンタの前ではああ言ったが、リオンもジュンタがスイカたちを助けたいという気持ちには共感できる。

 ヒズミは間違いなく敵だ。ベアル教の盟主。そんな彼を守るというのなら、スイカだって打倒しなければならない対象となる。聖戦の敵。聖地を崩壊せんと企む悪人なのだから……頭ではそうと理解できているのに憎むことはできない。それはあまり実感がないというのとは別の場所で、確かにあった。

「それでも仕方がないではありませんか。聖地を崩壊しようと企んでいると聞いてしまったら、倒さないわけにはいきませんもの。儀式を阻み、その結果助けることはできたとしても、それは最初から望むべくものではありませんわ」

「ジュンタとしてもそれを理解してないわけではないだろうよ。しかし、ジュンタはお前ほど割り切って考えられん。理想論を捨てられない。甘い、といえばそうなのだろうが、俺はそれを間違いとは思えない」

「だからあなたは止められなかった。その果てにジュンタが傷つく可能性があっても」

 否定することなく口を噤んだサネアツを、リオンは責める言葉は持ち合わせていなかった。

 別にサネアツとてジュンタに傷ついて欲しいとは思っていない。ただ、ジュンタに好きなようにやって欲しいと思っているだけだ。
 自分はたとえその気持ちを諦めさせても、ジュンタに無事でいて欲しいと思っている。クーはきっとジュンタの意志を尊重したいけれど、傷つかれることに耐えられない。そんな二律背反で身動きが取れないのだろう。

 結局、憎まれ役だとはわかっていても、自分がジュンタを諫めるしかなかった――本当に、これでジュンタに何の変化もなければただの道化である。

「安心するがいい。お前を道化にはしないと約束しよう」

「え?」

 ユースの腕に抱かれたサネアツが声をあげた。まるで、こちらの内心を見透かしたように。

「サネアツ?」

「まぁ、見てるがいい。これでも俺は、ジュンタのソウルパートナーを自負しているのでな」

 振り向けば、サネアツは小さな瞳に決意を見せていた。それを見て、リオンは彼も彼なりの行動に出ようとしていることを知る。諫めるしかできなかった自分とは違う、ジュンタの親友であり幼なじみである彼にしかできないことを。

 ……少しだけ、リオンはサネアツというジュンタのことを一番理解している相手に、一人の女として嫉妬を覚えた。 


 

 

    ◇◆◇


 

 

 リオンを見送ったあと、ジュンタは自分の部屋に引っ込んでいた。

 最近は暇さえ見つければ振っていた剣だが、昨日に続き先程リオンに怒られたばかりだ。さすがに自重するだけの冷静さは、まだジュンタも持ち合わせていた。

「ふぅ」

 ふんわりと沈むベッドに倒れ込んだジュンタは、大きく息を吐き出す。

「……情けないないよなぁ、俺」

 こちらの意志と安全を尊重してくれたフェリシィールとは違う、あくまでも一人の使徒として接してきたズィール。足手纏いだとはっきりと告げて、ここに残れと言ったリオン。前者は此度の戦いに参加せよと言い、後者は参加するなと言った。

 正直、今のジュンタにはズィールの申し出は渡りに船だったのだ。

 戦いたいわけではない。どちらかといえば戦いたくはなかった。けれども戦場のみがスイカたちと再会できる唯一なら、行く価値はあった。行かねばならないと思った。

 リオンやクーが心配してくれているのはわかっていても、それでもジュンタの心を占めるのは、最後に目にしたスイカの顔。耳にこびりついたヒズミの言葉。

 泣きながら笑って、苦しいと訴えながら助けの手が届かなかった小さくて儚い少女。何よりも姉のため、たとえ世界に罵られ、かつての友人に敵といわれようとも茨の道を選んだ強き少年。自分と故郷を同じくする異邦者たち。

 助けてやりたい。救ってやりたい――それがジュンタの嘘偽りない気持ち。

 サクラ・ジュンタにはアサギリ姉弟を助ける理由も、義務も、きっとある。だが、同時に思うのだ。それはただの傲慢な、本当の意味で迷惑な行為なだけではないかと。自分が思っている救いは、二人にとって何の意味もないのだと。

(わからない。わからないんだ。だから、もう一度会いたいと思った。これは間違いなのか?) 

 眼鏡とコンタクトレンズを外して、ジュンタはベッドの上で目を閉じて呟きをもらす。

「……どうして、俺はこうもリオンに嫌われることばっかりやっちまうんだかな」

 クーの言うとおり少々疲れが溜まっていて辛かった。軽く仮眠を取るために目を閉じたジュンタは、すぐに眠りへと誘われる。

 落ちかけた眠りは、しかし部屋の戸をノックされる音で再び上った。

「あの、ご主人様。入ってもよろしかったでしょうか?」

「クーか。ああ、いいぞ」

 ベッドの上で身体を起こして、ジュンタは訪ねてきた客を部屋に招いた。

「失礼します。あ、もしかしてお休みになられようとしていましたか?」

 入って来るなり、こちらが珍しく金色の瞳を晒していることに驚き、ベッドの上にいることに慌てだしたのは、お盆の上にサンドイッチとスープが入ったお皿を乗せたクーだった。

「すみません。お邪魔してしまいました……」

「いや、いいよ。朝食を届けに来てくれたんだろ? お腹が空いてたんだ。ちょうど良かった」

 それは気遣いが裏目に出て沈んだ表情になってしまったクーを元気づけるためだけの嘘ではない。実際いい匂いを嗅いだ途端お腹からは元気の良い音が鳴った。ズィールがやってきたために朝食にありつけなかったのを、今の今まで忘れていた。

「ご覧の通り、胃も栄養を欲してる。ありがたくもらうよ」

「は――はいっ、すぐに準備しますね!」

 お腹が鳴る音を聞いて嘘ではないと悟ったのか、クーは嬉しそうに近寄ってくる。

 テーブルの上にお盆を置くと、手際良くサンドイッチとスープを置いていく。ご丁寧にナプキンまで用意済みだ。前々からこういったことには慣れていたクーだったが、『鬼の篝火亭』のお手伝いの中、さらにパワーアップしていた。

「さぁ、どうぞご主人様。おかわりがご所望でしたらすぐに取ってきますので、好きなだけ食べてくださいね」

「ありがとう。じゃあ、いただきます」

 今はもう隠すことのなくなった故郷の『いただきます』をして、ジュンタはスプーンを手に取る。

 コンソメスープに似た薬草スープはお腹に優しい、朝食では見なかったメニューだ。
 シストラバス家は名家であるからか、朝食でも割と料理の種類は多く出ることが多い。量が多すぎのときもざらである。それでも普通の貴族に比べれば少ないのだろうが。

 ジュンタとしては朝からそんなにたくさん食べる気にはなれないのだが、残すのも気が引けたので、クーのこういう心遣いは素直に嬉しく思える。こんな気分のときでは尚更だった。

 心配されている。と、スープが胃を温めてくれるたびに、そう思う。

 サンドイッチを食べれば、厨房で卵をゆで、パンの耳を切り取って、野菜を洗うクーの姿が思い浮かぶ。食べる人のことを考えて、真剣な顔で作るクーの姿が。

 食後のための紅茶を用意してくれるクーは、純粋な気持ちでこんなことをしてくれる。きっと誰にだってしてあげようとする優しさだが、自分に対してだけは特別な感情が交じっているのだと気付かないほどジュンタは愚かではない。

「ご主人様、どうぞ。紅茶を淹れました。ユースさんに習って少し美味しく淹れられるようになったので、できれば飲んでいただきたいのですが……」

「もちろん。飲まないわけないよ」

 心に泥のように沈殿していたものが浮き上がってくるような感覚。そこに悩みはあるけれど、それを負担と感じない、そんな気持ちをくれたクーにジュンタは微笑みかけて、

「っ!」

 手渡されたときに触れたクーの指に、ぱっと手を引いた。

「あ」

 手渡されることなく両者の手から離れたカップが、そのまま床に落ちる。
 クーの小さな声と共にカップは割れ、中に入っていた琥珀色の紅茶が絨毯の上に、まるで泥が落ちたかのようにしみを作った。

「わわっ、す、すみません! 熱かったですか!?」

 割れたカップより先にこちらを心配してくるクー。熱いカップに触れて、咄嗟に手を戻してしまったと思ったのだろう。今の彼女の中に、自分の指に触れられることが嫌悪されるという考えはないのだ。

(嫌悪……? 誰が? 俺が? クーを? そんなこと……)

 あるはずがない。と、ジュンタは脳裏に過ぎった思考を否定する。しかし、湧き上がる闇の鼓動は、絨毯についたしみが広がっていくように心に染み込んでくる。浮かび上がった沈殿物をさらに深いところまで沈ませる。

 ドクン――目眩に似た感覚と共に強く心臓が鼓動を打つ。頭の中が真っ白になって、目の前が真っ赤に染まる。

「あの、ご主人様。大丈夫ですか?」

 その中で、心配そうに手を伸ばしながら顔色をうかがってくるクーのことを、ジュンタは心配させたくないと思って、


――触るな。汚い」


 精一杯の微笑みを浮かべた。

 なんとか笑みを取り繕うことには成功した。うん。やっぱり、クーが嫌悪の対象になることなんてありえない。目を大きく見開いたクーは、いつも通り微笑ましかった。

(クーのためにも、がんばらないとな)

 これ以上クーを心配させたくはなかった。
 この優しくて、自分のことを慕ってくれる少女には、元気に笑っていて欲しかった。

「あ、私、その……」

 クーはジリジリと後退っていく。彼女の顔に浮かぶのは、嘆きでも、怒りでも、悲しみでもない。全てが入り交じった結果、人形のように心配する表情のまま固まった顔だった。

「………ご主人、様、私……」

「カップのことなら気にするな。俺が片付けておくから、クーも休んでてくれ」

「あ…………は、い。そ、そうです、よね。あはは、ごめんなさい。私、余計なお世話をしてしまったようで」

 がんばらないと。もっと。もっと。この身の闇には絶対に負けない。クーやリオンをこれ以上悲しませたり、心配をかけたりはしない。絶対に。もっとがんばって最善の未来へと辿り着いてみせる。

「ご主人様。おやすみ、なさい」

「ああ、ありがとな」

 クーはそのまま去っていった。その顔を見て、ジュンタは心からの笑顔を浮かべた。

 今のような一瞬の時間のためなら、自分はきっともっとがんばれる。胸の底から沸く歓喜は、どこまでも心地よい。

 その心地よさに抱かれて、今は眠ろう。

 ジュンタはベッドへと飛び込んで、自分の心臓の音を子守歌にして眠りに落ちる。まるで、自分の心臓の鼓動が、自分のものであることに喜びを感じるように。


 そうして――――遠い故郷の夢を見た。










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