第三話  変わらない距離感


 

 まだジュンタが小学生だった頃に、その少女とは出会った。

 一番仲の良かった友人に巻き込まれ、なぜか対決することになった、どう見ても真っ当な職業には就いて無さそうな強面の男たち。そんな悪漢たちの手から囚われのお姫様を救い出すことが、つまりジュンタの役割だった。

 思えば、それは一番最初に『ああ、自分の幼なじみはダメなんだなぁ』と理解した事件だったと思う。
 結果的に少女を助け出して、実篤は数ヶ月入院しトンデモネェ奴に進化して帰ってくるという、いい意味でも悪い意味でも忘れられない事件の中、ジュンタはアサギリ・スイカと出会ったのだ。

 埃臭い灰ビルの一室に両手足を縛られて、悲しそうに涙する黒髪黒眼の少女は、幼いジュンタには紛れもないお姫様に見えた。

 巻き込まれて強引に救出することになったけれど、その時その瞬間は、彼女を助けられたことを誇らしく思ったものだ。まるで自分が物語に出てくる王子様や勇者になったみたいで。

 それが縁となり、ジュンタはアサギリ・スイカと友達になった。

 とはいえ、一緒に集まって遊んだり、お話ししたり、買い物に出かけたりしたことはない。あったかも知れないそんな日々は、彼女の唐突な外国行きでなくなってしまったけれど、お礼のためだとたった一度だけ会ったときは、あったかもしれない日々の分まで仲良く過ごせたと思う。

『また、会おうね』

『うん、またな』

 再会を約束して別れた日があった。たった二回触れ合っただけの彼女は、そのまま遠くへと去っていき、ジュンタはその後彼女と会うことはなかった。

 彼女の実家とは奇妙な縁が続いていたが、それでも友人がいなくなってしまった彼女の実家とは微妙な線引きがあった。別に、その家が世間一般でいわれるところの極道だということは、さして気にならなかった。確かに親分であるその人は滅茶苦茶に恐い顔をしていたが、その実子供には優しい人だったからだ。

 向こうは向こうで、こちらの気持ちを考えてか、孫のことを話題にあげることはなかった。

 そう、ジュンタは異世界のこの地でアサギリ・スイカと再会するまで、彼女の名前が『スイカ』ということは知らなかった。

 


 

 ――それは本当に? 本当に、佐倉純太は幼い日に出会った少女のその後を知らなかったのか?


 

 

 疑問を胸にジュンタは眼を覚ました。

 窓の外は赤に染まっていた。やはり疲れていたのだろう。かなり眠ってしまったようだ。しかし、起きてもなお見た夢のことは覚えている。夢の中で感じた疑問もまた、覚えていた。

「……そういえば、どうして俺は最初にスイカと出会ったとき、あいつがアサギリ・スイカだってことに気付けなかったんだ?」

 スイカ・アントネッリが、自分が幼い頃遊んだアサギリ・スイカであることにジュンタが気付いたのは、彼女が自らそう名乗ったとき。そのときまで、小さな違和感こそあったが気付くことができなかった。

 スイカはあの日とは比べものにならないほど成長し、とてもきれいになっていて、さらに使徒としての金色の瞳を持っていたから、すぐに気付くというは無理だったかも知れない。が、それでも多くのヒントがあった中、あの時の名残を残す彼女のことを、どうして最近まで気付いてやれなかったのか?

「まさか」

 背筋にゾクリと寒気が走る。嫌な想像が働いて、ジュンタは自分の頭を手で押さえた。

 今でこそ生まれたときより変わらぬ人間の姿をしているが、その本質はドラゴンなのだという。人間の姿からはかけ離れた獣の姿。――そう、サクラ・ジュンタはあの幼い日のままの佐倉純太ではない。この肉体はマザーより与えられた、新たなる神獣の肉体なのである。

 であるなら、本当に自分のこの記憶は、佐倉純太として過ごした全ての時間を覚えているのか? 記憶の忘却とは違う記憶の書き換えの可能性に、初めてジュンタは気が付いた。

「スイカのことを思い出せないよう、マザーが俺に何かした、って可能性はあるのか?」

――あるかも知れんな」

 絞り出した疑念に返答したのは、いつの間にかベッドの上にやってきていた白い子猫だった。

 ジュンタがドラゴンの肉体を与えられたように、今は猫の身体を持つ幼なじみは、ジュンタと同じくらい苦々しい声を絞り出した。

「……実に空恐ろしいことだがな、その可能性はあり得るのだ。俺たちは一度、この世界に下りる前にマザーの手を受け入れてしまっている。否応なくな。そのとき何かされていても、俺たちは決して気付くことができない」

 サネアツが思っていることも、また自分と同じこと。今の自分の記憶が絶対ではない可能性があるという恐怖であった。

「いや、事実記憶の封印はなされている可能性が高い。ジュンタも覚えているだろう? 俺がこの世界にやってきた当初、ジュンタが使徒であること、自分が異世界にやってきた理由、全てを忘れていたことを」

「そういえば」

 まだジュンタが何も知らなかった頃、手助けをするために現れたサネアツもまた、自分が何のために異世界にいるのか記憶を失っていた。それは何の前触れもなく思い出されたが、紛れもなくサネアツは当初記憶喪失だったのだ。

「今まで深くは考えてこなかったが、どうして俺は記憶を失っていたのか。それを今考えてみると、理由など一つくらいしか思いつかない。俺をこちらの世界に呼んだ存在が、俺の記憶を勝手に弄くったという可能性しかな。まぁ、リトルマザーが嫌がらせをしたというのなら話は別だが、さすがにそこまでは奴もしないだろうよ。露出狂の馬鹿ではあったが、悪人ではなかったからな」

「じゃあ、サネアツが記憶を封じられていたように、俺がスイカのことを思い出せなかった可能性は高いのか?」

「いや、そうとは限らん」

 今度は否定を述べて、サネアツはじっとジュンタの金色の瞳を見た。

「マザーがお前に望むのは新人類に至ること。そのために多くの策謀を巡らせはしよう。しかしな、他でもない張本人であるお前自身の思考を歪めるとは思えん。その先にジュンタが何をしようと、そこに神の見えざる手が介入していたのなら、それはジュンタ自身の試練とは厳密には言えないだろう。少なくとも新人類になど至れまい」

「つまり?」

「ジュンタがアサギリ・スイカのことを思い出せなかった可能性として、確かに記憶の改ざんはあるかもしれないが、それは限りなく低いということだ。思考の誘導はあっても、マザーが直接お前に手を下すとは考えにくい。……俺の場合はその限りではないようだがな」

 ジュンタの記憶の正当性は保証しつつ、サネアツは軽く首を振った。

「正直に言おう。俺はアサギリ家の長女がスイカという名前であったことも、長男がヒズミという名前であったことも知っていた。確かに知っていたのだ。なのに、俺はスイカとヒズミに会っても気付くことができなかった。二人が俺たちと同じ身の上である可能性にちっとも思い当たらなかった」

「その存在に気付いていたお前が、二人の正体に普通なら気付かないはずない、か」

「断言できる。そんなことはない。つまり、それが意味していることは俺の記憶の封印。俺が当初の目的を忘れていたように、あの二人のことも分からなくなっていたのだな。ジュンタより二人が異邦者であることを教えられて、すぐ思い出したことからもそれがうかがえるというものだ」

 小さな子猫の姿のサネアツが、今はいつもより小さく見えた。

 尻尾を床にぺしゃんとつけて髭を垂らす白い子猫は、誰が見ても元気がないように見える。思わず撫でてやりたいと思うほどに、それは小動物としての愛らしさと儚さを孕んでいた。

「サネアツ……」

 幼なじみには一番似つかわしくない様子に、ジュンタは何も声をかけてやることができなかった。

「まさか、自分の記憶が弄ばれているなどとは思っても見なかったぞ」

 サネアツはジュンタから何の言葉もかけられることなく、話の続きを始めた。始めてしまった。

「まぁ、別段見られて恥ずかしい生き方をしてきた覚えは微塵たりともないが、俺の素晴らしい日々を奪われたままだというのは気にいらんな。実は俺の脳内激写アルバムに、もっとこうジュンタの過激な映像があった気がしてならんのだ。裸エプロンとかホストとか、メイドスタイルとか」

「いや、それは最初からなかったな。うん。記憶の封印を利用して補完を俺に求めようとするな」

 ちぃっ、と盛大に舌打ちする猫一匹……ゴメン、ちょっとくらいはこっちの心境を考えて欲しい。
 
 サネアツが落ち込んだのは間違いないが、今立ち直ったのもまた間違いなかった。恐ろしい奴。これだけのことなのに落ち込む時間がそれだけなのもそうだが、大して時間をかけることなくそれだけのアホ思考を思いつくとは恐れ入る。

「まったく。しかも自分の記憶に何ら恥じ入ることはないとはどういうことだ?」

「なに、俺は自分に正直に生きてきたからな。誰に恥じる必要もないということだよ」

 相変わらずな幼なじみに、ふっとジュンタは笑みを浮かべた。
 サネアツはそれを見て、髭を伸ばし、尻尾をゆらゆらと揺らし始める。

「気付けなかったことを今更悔いても始まるまい。考えることはこれからのことだな。
 恐らくは記憶の改ざんが行われていたのは俺だけなのだろう。ジュンタはあくまで、アサギリ・スイカのことは思い出せずにいただけだな。酷い友達もいたものだ」

「うっ」

 グサッ、と先程よりもさらなるダメージが胸に突き刺さった。

 記憶の改ざんに対する恐怖はすでになく、代わりに感じるのはスイカに対する罪悪感。忘れていてゴメンよ、という正直な気持ちだった。

「もっとも、ジュンタが思い出せなかったことにも理由はあるわけだが」

「よぉし、今からお前に強烈な記憶を刻み込んでやろう。何がいい? タマネギフルコースに踊り狂う記憶とかお勧めだぞ?」

「全力で遠慮しておこう。一応俺には人間の尊厳が残っていることだしな」

 麗しき笑顔でサネアツを見つめると、彼はふぉっふぉっふぉと笑ってから話を戻した。誤魔化したともいう。

「で、俺がどうしてスイカのことを思い出せなかったのか、その理由はなんなんだ?」

「ふむ。アサギリ・スイカの使徒としての特異能力は、水を用いた偽装なのだろう?」

「本気になれば、感触から嗅覚、五感全てにまで偽れる肉体を作れるらしいな」

「であるなら、もしかすると彼女は他者の精神に対しても偽装が行える可能性もある。つまり、彼女は使徒としてふさわしい成長した自分を特異能力で生み出していた。その彼女からは『異邦者であるアサギリ・スイカ』ではない、あるいは『スイカ・アントネッリは使徒である』と自動的な思考誘導が行われるのではないか?」

「いわれてみれば、確かにおかしいと思っても、深く気にしたりはしなかったけど……」

「もちろんこれは俺の推測に過ぎないが、可能性は高いと思うのだ。肉体だけではなく他者の思考からも偽装する力――ならばジュンタが気付けないのも無理はないという話だ」

「こうして全てを思い出したあとからすれば、どうして気付かなかったのか不思議なくらいだしな。もしかしたらスイカ本人も、そこまでは自分の力に気付いてなかったのかも知れない」

「ジュンタは幼い頃出会った少女の名前がスイカであることを知らなかった。俺も言わぬよう、アサギリの親分より言われていたからな。しかし、あの容姿を見ればおのずと理解はしたはずだ」

 サネアツの推測が正しいとするなら、スイカが自ら名乗った瞬間に全てを思い出したことにも得心がいく。少なくとも、今ジュンタはアサギリ・スイカという少女についてあらゆることを思い出していた。どうして今まで忘れていたのか、本当に疑問視してしまうくらいに。

 それはサネアツも同じであり、二人ともがそうなのだから、そこに超常の働きがあることは否定できない。スイカは自分のことを思い出して欲しいといっていたが、そんな彼女の気持ちとは裏腹に、隠さなきゃという気持ちは全てを隠してしまっていたのだろう。

「自分すら全てを把握できない超能力……それが特異能力か。俺にあるっていう特異能力も、俺には無自覚で何らかの働きがあるのかも知れないな」

 それこそ、サネアツからスイカたちの記憶を奪わなければならなかったような、そんな理由が。

「……ん? 待て? どうしてマザーはサネアツからスイカたちに関する記憶を奪わないといけなかったんだ?」

 そこでようやく、ジュンタはそのことにまで疑念を及ぼす余裕を持つことができた。

 サネアツはよくぞ気が付いたといわんばかりに深く頷いて、

「俺が一番に語りたかったことはそれなのだよ。なぜ、同じ異邦者であるとはいえ、俺の記憶からアサギリ姉弟の記憶を奪わなければならなかったのか。別に、奪う必要性などないではないか。本来ならばな」

「そうだよな。確かに俺とスイカは知り合いだけど、だからって俺が新人類に至る道に何か影響があるわけでも……いや、あるのか? もしかして」

 自分の五番目のオラクル『生命に触れよ』について、それが意味することについて思い出し、ジュンタは顔を顰める。最も嫌なオラクルに関連づけてしまえば、顰めずにはいられなかった。

「スイカとヒズミは、自分の意志でこっちの世界に来たわけじゃなかった。つまり、強引に連れてこられたんだ。これは偶然か? 偶然で、俺の知り合いが選ばれたのか?」

「わからん。そうかもしれんし、そうではないのかも知れない。偶々アサギリ・スイカに特異能力が芽生えていたから連れて行かれた可能性も否定はできんしな。
 ただ、分かることが一つだけある。アサギリ姉弟は生け贄に捧げることで元の世界に戻ることが望みだと聞いた。しかし俺は知っている。アサギリ・スイカ、アサギリ・ヒズミの二人が元の世界に戻ったときに見るものが、とても残酷なものあることを」

「残酷? それって、もしかして……?」

 ジュンタは思い出していた。今でも軽い疼きと共に甦る、元の世界でもう一人の自分を――故郷の世界で日常を送っていた自分と出会ったときのことを。

 そう、マザーは元の世界にいた佐倉純太をそのまま異世界に持っていったのではない。元の世界にいた佐倉純太をコピーし、神獣の肉体を与えたサクラ・ジュンタを異世界に産み落としたのだ。

「幼い頃、スイカはハーフだから異国の血が混じった容姿をしてたけど、その瞳の色は確かに黒だった。今みたいに金じゃなかった。同じだ。俺と。今の俺と、同じだ」

 ジュンタはそっと自分の変色した瞳を守る瞼に触れて、愕然とした表情でサネアツを見た。

 同じ。今の自分とスイカの境遇が同じだというのなら、勝手に異世界に連れて来られて神獣なんてものにされてしまったというのなら、たとえ元の世界に戻ったとしても、そこに望んだ日常なんてない。元の居場所なんて存在していない。いや、奪われてしまっている。

 他でもない――もう一人の自分に。

「ああ。確かに、そうだとしたら何も報われない。自分を殺すことでしか得られない居場所なんて、スイカには何よりも惨い現実で残酷な裏切りだ」

「そしてそれこそが真実である。俺はな、知っている。アサギリ家の姉弟が今なお地球の地で、両親と一緒に暮らしていることを。異世界など知らず、変わらぬ日常を過ごしていることを」

「つまり、それが意味していることは」

「ああ。スイカもヒズミもジュンタや俺と同じく――

 それはとても無情で残酷、だからこそジュンタに答えを導き出させた現実。

 故郷の地に変わらずアサギリ・スイカとアサギリ・ヒズミがいるということが導き出す真実。それは――


――マザーによって新たに生み出された、もう一人の自分だ」

 


 


      ◇◆◇


 

 

 気が付けば夕方になっていた。

 自分がどうやって借り受けている部屋に戻ったのか、いつ戻ったのか、記憶にはない。しかし紅茶を飲もうとしたらしい。そして――床に落ちて割れた白磁のカップと、今はもう塞がり始めているが割れた欠片を拾うときに切っただろう指が発する小さな痛みが、朝の出来事が白昼夢の類ではないことを教えていた。

「そうだ。私、ご主人様に、ききき汚いって、」

 クーはジュンタにはたかれた自分の右手を見て、疑問を覚える。

「どうして、私は、ご主人様に拒絶されてしまったのでしょうか?」

 それは自分への問い掛け。どうして大切な主に手を叩かれてしまったのか、それを考えるための一人だけの儀式だった。

「何か粗相をしてしまったのでしょうか? やはり朝ご飯を、ご主人様は無理して食べられたのでしょうか?」

 思い当たる理由はそれくらいしかない。だが、あの優しい人が、それくらいで怒るとはクーには思えなかった。

 ……では、なぜ? 

 ぼうっと視点の定まらない瞳で、クーは自分の右手を見続ける。まるで得体の知れないものでも見ているかのように。

「わかりません。どうしてご主人様が拒絶なされたのか、わかりません。あんな風に私を、敵でも見るかのような瞳で見られた理由が、わかりません……」

 本当にわからなかった。声に出して考えても、一向に考えは纏まらない。

 クーヴェルシェン・リアーシラミリィの根本に未だ強く根付くネガティブな部分が、自分がクーヴェルシェン・リアーシラミリィだから拒絶されたのではと囁いているが、他でもないジュンタと約束したのだ。自分の全てを嫌ったりはするな、と。

 だからそれは違う。違うはずだ。違うと信じたい。だけど……思えば、前にジュンタと触れ合ったのはいつのことだったか?

 思い出そうとして、クーは愕然とした。思い出したその瞬間は、彼からダンスの練習相手として誘われたときだった。あれ以後撫でてくれることも、手を繋ぐことも、それどころか肩を叩いたりという触れ合いすらない。タイミングが悪かったというにはあまりにも、これまでを考えれば不自然なほどに。

「私、もうあのときから、ご主人様に避けられてい、た……? いいえ、ダンスの練習はただ必要だったからで、今思えばその前にはすでに避けられていたような……」

 そうと考えてしまった瞬間、クーにとって、自分の身体そのものが得体の知れない何かになった気がした。

 見れば、腰掛けていたベッドに霜が降りていた。身体をぼんやりとした光の線が覆い始めているのに気付いて、クーは被っていた帽子が落ちるくらいの勢いで首を横に振った。

「ダメ。ダメです! 私はもう、そういう風に私の全てを嫌うような真似はしないとご主人様に約束したんです! 一人で立って歩けるようにがんばると、そう約束したんです!」

 主との約束は絶対に破ってはいけないものだった。だから、クーはその考えを否定する。

 思いとは裏腹に、心は勝手に自己否定を行うが、それでもクーは心を強く持つ。

 大切な約束を守ること。約束をした相手に嫌われているかも知れないこと。矛盾した二つのせめぎ合いの中、それでもクーは浮かび上がりかけていた『儀式紋』を消すことに成功した。

 かなり下がってしまった室温に、クーは白い息を吐き出す。

 ベッドから下りると、急激に室温が下がってしまったために曇ってしまった鏡へと近付いた。

「確かめましょう。はい、確かめます! 違うかも知れない勘違いをし続けるなんて、それこそご主人様に対する失礼に値するのですから!」

 むんと気合いを入れて、クーは拾った帽子を被り直す。

 鏡の前に来たのは、さすがにこのままの顔で会うのは憚られたため身嗜みを整えようとしてだ。しかし、鏡は曇ってよく映らない。

 クーはハンカチを取り出すと、軽く大きな鏡を傷つけないように、丁寧に曇りをふき取る。夕陽の光を受け、本来の役割を十全に全うする鏡に顔を映して――

「大丈夫、ですっ」

 確かに納得したはずなのに、どうしてか鏡に映った自分に違和感を覚えた。

 金色の髪と蒼色の瞳。エルフの証である尖った耳。幼い顔。全てがいつも通りだというのに、なぜかその姿に違和感を覚えたのだ。

 不思議に思って色々と確かめてみるが、やはり不備は何も見つからない。
 クーは何度か帽子の角度を変えたあと、きっと不安から来る気のせいなのだと、そう決めつけた。

 ……そう、違和感を持つなんておかしすぎる。自分はずっと、生まれた少しあとからこの姿なのだから。

「髪と瞳の色が違う気がするなんて、そんなこと――

 ありえるはずがないがないのだから。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ジュンタは言葉を失った。失うしかなかった。

 自分もまた味わった空虚なる絶望を、またスイカたちも味わおうとしている。それだけじゃない。自分よりなお、この世界の人々を生け贄に捧げなければならない二人が受ける絶望は大きいものとなるだろう。あるいは、自分が選ばなかった選択を、故郷の地で取るかも知れない。

 どちらにしろ、二人が傷つくのは目に見えている。そして救う手だては、彼女たちに元の世界に戻らせないことしか、ない。

「……もう一人の自分。異世界に旅立たなかった自分。俺二人はそれを受け入れられるのか? 異世界での居場所を否定した二人は、今更違う居場所を望めるのか?」

 苦痛がジュンタの胸を焦がす。闇とは違う狂いの痛みが、不安の隙間から顔を出してこちらを覗き込んでいた。

「どうすればいい? 本当のことを話すべきなのか? 戻ることに意味はないっていえばいいのか? それで、あいつらは本当に救われるのか?」

「救いたいのだな、ジュンタは。あの二人を。この世界では大罪人となってしまうだろう、あの姉弟を」

 胸を押さえるジュンタはサネアツを見た。自分と同じ異邦者を。

「救いたい。救いたいに決まってる。何も悪いことをしてないのに、マザーなんかに無理矢理攫われた二人なんだ。助けたいに決まってるよ」

「たとえ明確な方法がない道だとしてもか? 自分の起こした行動の結果が、より深い絶望を生むかも知れないと理解してもか? 絶対の救いなど与えてやれない。何かを手から零した救いしか見つけてやれない。それでもジュンタ、お前は救いたいのか?」

「救いたい。俺はあの二人に、幸せになって欲しい」

「そうか……」

 絞り出すような声に、サネアツは深く頷いた。

 その肉球が優しくジュンタの手に触れたのは、次の瞬間のことだった。

「では共に考えるとしよう。焦ることなくじっくりと。いい考えが浮かぶように心を楽にしてな。
 もう、いいのではないか? 自分一人で背負わなくても。辛いことを隠さなくても。他の者に心配をかけたくないというのなら、俺だけに秘密を打ち明ければいい。俺にだけ迷惑をかければいい」

「サネアツ……」

 そこでジュンタは気が付いた。この長年付き合ってきた幼なじみは、ほぼ確信をもって、隠していた歪みと呪いに気付いているのだと。

「少なくとも、俺はジュンタに心配も迷惑もかけてきたつもりだがな。その結果、ジュンタは俺に力を貸してくれ、万事上手くいった。今度は逆だ。俺に心配をかけ、俺の知恵を借りるがいい。たとえその果てに最高の結果が生まれなくても、きっとサクラ・ジュンタは悔いが残らない行動ができるだろう」

 今の焦ったままじゃ、一人苦痛を堪えているのでは、その果てには後悔しか残らない――そう断言したサネアツは、小さな胸を大きく張った。それはまるでいつか彼が人間だった頃、そこはかとなく頼りになって、そこはかとなく不安になる根拠のない自信に似ていた。

 ……自分は一体、何を恐れていたのか? 何に怯えていたのか?

 気が付けば、不安は全て彼方に消え、歪みも全て消えていた。

「悔いは残したくない。そうやって、俺はいついかなる時も精々格好よく生きたい」

「オフコース。問題はあるまい。俺とお前が手を組んで――

――ああ、出来ないことなんて何もない」

 ニヒルに笑うサネアツが突き出す拳を、ジュンタは苦笑を浮かべて手で突き返した。

 コツンとあたる拳。前とは違ってぷにっとした肉球の拳だが、それでもそれはどんなときでも一緒にいて、一緒に色んなことをやって、辛いことも、楽しいことも、悲しいことも、嬉しいことも、ときに半ば強制的に共有することになった相手の手だった。

 故郷を遠く離れた異世界の地でも変わらず傍にいるサネアツは、いつどんなときでも幼なじみで親友――そう、最も頼りになる相棒であった。

 心配をかけたくないとか、余計な気遣いをされたくないとか、不安にさせたくないとか、どうしてそんなことをサネアツ相手に考えたのか、今考えると酷く馬鹿馬鹿しい。だって、これまで自分はサネアツに心配をかけさせられ、気遣わされ、不安にさせられ続けてきたではないか。

 なら、今度は自分が心配させ、気遣われ、不安にさせてもいいのではないか?

 いや、いいに決まってる。でなければ不平等だ。サネアツが親友だというのなら、背負うべき苦労も等価が正しい。それが自分の中の、サネアツの中の、『親友』の意味なのだから。

「なぁ、サネアツ。お前に秘密を打ち明けるのはどうしてか恐いんだが、悪いけど聞いてくれるか? 実は俺、結構前からそこそこ深刻な悩みを抱えてるんだ」

「もちろん聞こう。何ならお茶とお茶菓子を用意して、ついでに妄想と脳内激写フィルムも完備しておこう。泣こうか抱きつこうが、うむ、何ら問題はない」

「それは安心だな。うん、いや本当に安心するよ」

 ジュンタはそうして話し始めた。ドラゴンへと反転してなったその日から一人抱える、自分の不安を。

 まるで恋の相談でもするかのように。照れくさそうにはにかみながら。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 リオンとクーは、ジュンタの部屋の前でばったりと出会った。

 出会って、目の前の相手がここにやってきた理由が自分と同じなのだと悟った。

 正直に言えば、リオンは酷いことを言ったから、クーは恐いことを言われたから、一人でジュンタの部屋を尋ねるのは不安だった。

「クー」

「リオンさん」

 どちらともなく名前を呼んで、二人はがっちりと両手を繋ぎ合う。
 永遠の盟友を得たようにじっと互いを見つめ合って、しっかりと頷き合う。

 同時にジュンタの部屋を見て、

「ここで会ったのも何かの縁ですわ。作戦会議をしましょう!」

「はい、必要だと思います。明確な作戦こそが成功を導き出すのです!」

 響いてくるジュンタの怒声とサネアツの奇声に、こそこそと隣の空き部屋へと引っ込んだ。

 


 

 話を聞いたサネアツが何を言いたかったかというと、一言でようやくすれば、彼の口から出たその言葉に要約されるだろう。

『どうしてそんな楽しそ――もとい、大変な目に遭っているというのに、いままで黙っていたのだ。もったいない!』

 文句と共に、顔中に肉球スタンプを押しつけられたジュンタは、むすっとした顔で部屋を出る。その頭の上には、頭に小さなたんこぶを作ったサネアツが乗っていた。

「酷いではないか、ジュンタ。それが快く相談に乗ってくれた親友に対する態度かね。断固とした謝罪を要求するぞ」

「そっちこそ調子に乗るな。なぜに相談料として女装なんてしないといけないんだ」

「それはもちろん俺の欠けてしまった激写アルバムの穴を埋めるためにだな」

「元からそんなものはないって言ってるだろうに」

「いや、わからんぞ。ジュンタの記憶にない状況下で、あった可能性は否定できない。そう、あんな酔い方をするジュンタと共に過ごしてきて、とびっきりなコスプレ姿がないのはおかしい。これぞ真実である!」

 何やら不穏に過ぎる台詞だったが、とりあえず無視することにした。気になる声が通りかかった部屋から聞こえてきたからだ。

 それはくぐもった小さな声だった。怯えているような、楽しんでいるような、興奮しているような、そんな少女たちの声。たとえ小さくても、それはジュンタが間違えるはずのない声だった。

「……サネアツ。俺は今、どこを目指している?」

「リオンのところだろう。謝罪とお礼をしないといけないと言ったのは、ジュンタ。お前だ」

「ああ。そうだな。で、隣の空き部屋のはずの部屋から聞こえてくる声も、あいつとクーのだよな?」

「違いあるまい。良かったな。早速謝ることができるチャンスだぞ」

 ポコポコ肉球を髪に押しつけてくるサネアツは気楽にいうが、ジュンタとしては色々と厳しいのである。なにせ、相手はあのリオンだ。

 リオンにはさせたくもなかった憎まれ役をやらせることになったのだ。本気の本気の謝罪が必要となるのは間違いない。そう、ついにクレオメルンとラッシャ直伝のあの技を使う日が来たのである。

「よぅし、そうと決まれば扉は俺が開けて進ぜよう。なに、これもジュンタの晴れ姿が見れるのならば惜しむ労力ではない」

「よし、待とう。まだ二人がこんな部屋で何をしているかもわかってないわけだし、ここは耳を澄ませて、タイミングを計るべきでは無かろうかと思うわけですよ。日本人としては、間の使い方には気を配らないと」

 部屋の方からは、『ですからここはもうこれぐらいの気持ちで』とか、『そ、そこまでですか?』とか、断片的な言葉しか聞き取れない。何やら重要っぽい感じだし、ここは間をおいた方がいいのでは――

「ふっ、そのようなヘタレ発言は聞く耳ももたん。これも一つの罰と思い、甘んじて受けるがいい!」

 何の躊躇も遠慮もなく開けやがる親友。ジュンタは相談相手を間違えた気がするも、仕方がないので扉が開かれた部屋に転がり込むように入る。

 そのまま、顔をあげることなく両手の平を肩幅より少し大きめに開き、きちんと正座。背筋をぴしゃんと伸ばしてから行うことが大事とのクレオメルン先生からの教えをきちんと実行に移し、ラッシャが完成させた華麗なるジャンピング土下座を決める。

「申し訳ありませんでしたぁ――ッ!」

 ここに二人がいたのなら、満点を頂戴するのは間違いない出来栄え。
 心底からの謝意を表す、冗談の一切ない完璧なる土下座。これぞ日本の心である。

 この謝罪よ届け。もちろん、共に送るのは『リオン、半殺しで勘弁してくれ』という念である。

 額を床にこすりつけたジュンタは、プライドをかなぐり捨てて、心配してくれた少女たちに頭を下げ続ける。

 ……来るだろうと思った驚きの声も、クーあたりからの制止の声も、リオンからの照れ隠しもなく…………なぜか後ろのサネアツから、呆然とした呟きが届いた。

「…………なんと、これは予想外なカップリング」

 色々と限界に来て、ジュンタは恐る恐る頭を上げて、前を見た。

 そこで――クーをベッドに押し倒したリオンと、押し倒されたクーと視線が合致した。

 ………………………………………………………………え〜と……………………。

 そこにあった光景に情報処理が追いつかないので、とりあえず視覚情報だけ整えてみようと思う。

 まず、部屋はジュンタが使っているのと変わらない広めの客間であった。部屋のベッドが天蓋付きの大型のもので、差し込む夕日と風にレースの飾りが輝きながら揺れていた。それは秘密のベールのようで、隠された向こう側には、二人の可憐な少女がいた。

 片や真紅の髪と瞳を持つ騎士のお姫様。
 片や金髪の髪と蒼い瞳を持つ湖の妖精。

 ふわりとしたベッドは二人分の体重を優しく抱き留め、シーツになんともいえない皺をつくっている。

 皺の生まれた場所へと流れに沿って視線を送れば、胸元に手を寄せた、なぜか上着を微妙にはだけさせている顔を真っ赤にしたクーと、彼女の顔の横に両手をつき、馬乗りになって覆い被さっているリオンを見つけることができる。こちらも若干胸元が開いていた。

「見える。俺には百合の花が見えるぞ、ジュンタ」

 後ろのサネアツもさすがに情報処理の限界を味わったのか、そう言うなり黙り込んでしまった。

 視線をこちらに向けたまま、ピシリと固まる二人もまた、情報処理は限界を突破したのだろうか。いきなり土下座されたショックで身動きが取れないご様子。

 ジュンタは察する。ここは自分が立ち去るべき場面なのだ、と。

 すくりと土下座していたことなどなかったかのように立ち上がると、襟元を整え、眼鏡の位置を直す。

「あのさ、俺はただ、二人に謝りたかっただけなんだ。無茶をして、心配させてたことを謝りたかった。その上で、二人の気遣いに感謝の言葉を言いたかっただけなんだ」

 ジュンタは口元に爽やかで慈愛溢れる笑みを浮かべた。

「だからさ、邪魔するつもりなんてこれっぽっちもなかったんだ。ごめん。それと、ありがとう。俺はこれだけ言えれば、それで満足だから」

 にこやかに、だけどちょっとだけ寂しそうな空気と共に、ジュンタは二人の禁断の関係に至った大事な少女らに背を向ける。

 そこでようやく、リオンとクーを止めていた時間が動き出した。

「ちょ、ちょっと待ちなさい! ななな、何を誤解したまま去ろうとしてますの!」

「そ、そうです! ご主人様誤解です! 私はただ、リオンさんに無理矢理押し倒されただけで!」

「クー! あなた何トチ狂った発言してますの!? これはジュンタを元気づける練習で、あなたも納得した位置関係でしたでしょうに!」

「で、でも、さっきのリオンさん、本気に見えました!」

「そ、それはクーがあまりにも小動物のように震えて、ギュッと目を瞑るものですからつい……って、はっ! 違います! 私にそんな趣味はございませんわよ!」

 顔を赤くして断固否定の姿勢を取るリオンであったが、その顔はクーの顔にものすごく近くて――ジュンタは気にするなと振り返って、グッと親指を立てた。

「避妊だけはきちんとしろよ」

「できるはずがないではありませんのよぉおお――――ッ!!」

 そのリオンの絶叫は、一種の攻撃であった。

 耳元で大声をあげられたクーは目を回し、聴覚の鋭いサネアツはふらつく。ジュンタも咄嗟に耳を覆わなければ、倒れ込んでいたかも知れない。

 いや、もちろんジュンタとしても、二人の体勢が一種の奇跡だという理解はあった。ただ、色々ともう混乱していたというか、あまりのその光景の破壊力にやられたというか、土下座したのが今になってものすごく恥ずかしくなってきたというか。うん、そんな感じで。

 一応は大声で冷静さを取り戻したジュンタは、首の後ろに触れつつ、言葉になっていない声で訂正を続けるリオンに注意した。

「あ〜、ところでリオン。そろそろクーから離れないと、色々とまずいと思うぞ。離れたくない気持ちはわからんでもないが」

「で、ですから、私にそのような趣味はないと! そもそも私としましても攻める側であることに若干の悔しさと寂しさを感じているというわけでしてやはり一人の乙女としては優しく抱きしめられる体勢こそが夢といいますかですけどクーが異様にかわいく見えてしまってどうしようかと――

「リオン、今の叫びは!?」

「ご無事ですか!?」

 そのときリオンの絶叫を聞いて部屋に駆けつけたのは、ゴッゾとユースを筆頭にした屋敷にいた騎士たち。ご丁寧にも全員が部屋の内部を覗けるように、素早く部屋へと侵入してきて――そこで彼らは止まる。リオンも再び固まる。

 もはや自分は第三者なのだと自覚したジュンタは、立ち位置もそれ相応の場所に移動するべく、部屋へと入ってきた人たちの視線を遮らない場所へと移動した。

 これでよ〜く見えることだろう。服を乱して目を回す押し倒されたクーと、年下の少女を押し倒して息を荒くした――息継ぎ無しで長い台詞を言った所為なわけだが――我らがお嬢様のお姿が。

「…………リオン」

「…………リオン様」

 やはり動き出したのは、リオンよりもゴッゾたちの方が早かった。

 それぞれネクタイやら眼鏡やら剣やらを整えて、小さな笑みを浮かべて立ち去る。ユースのいつもより若干長いお辞儀が、何とも印象的だった。

「どうだ、ジュンタ。なんとなく、焦るのが馬鹿らしい気はしてこないか?」

「するな。そこはかとなく」

 隣に置いてあった椅子の上に飛び乗ってきたサネアツの言葉に、ジュンタは腕を組んで頷いた。さすがにいたたまれなくなったので、リオンには背を向けた状態で。

「ちなみに、お前の脳内激写アルバムとやらは現像不可なのか? できれば、今刻み込まれただろう映像をこの手にしたいんだけど」

「ほぅ、おもしろい発想だな。いわゆる念写だな。研究してみる価値はあるだろう」

「では、そうなる前に、あなた方の記憶から抹消しておきますわね」

 背後からあがったのは紅き死神の囁き。

 背後で囁かれたが最後、どう足掻いても逃げることのできないソレ。
 ジュンタは動きを威圧感だけで完全に封鎖されて、ダラダラと脂汗を流した。どうやら調子に乗りすぎたらしい。

「私は心配してジュンタを元気づけて差し上げようと……なのに、ジュンタはいつの間にか立ち直ってますし、しかも私を同性愛者などに仕立てあげようと……許せません。ええ、許せませんわね」

 燃え上がるような魔力。見えないのにそこにあるとわかる紅の剣。

 そのときジュンタとサネアツの視線が交差した。
 互いに知る。怒れる女神に生け贄を捧げる瞬間は、今しか残されていないと。

 コンマの差。先に動いたのはサネアツだった。

「そういえばリオン、知っているか? 実はジュンタ、中でお前たちがどうなっているかわかった上で入ったのだ。土下座すれば全てが許されると思っていたらしい。まったく、けしからん奴だとは思わないか?」

「このっ、さも嘘を真実のように!」

「へ〜、そうですの。ではこの罰はジュンタに与えるべきですのね」

「そうだとも。俺は無関係である。というわけでさらば――!」

 親友を躊躇無く売り渡す最低野郎――自分もそうしようとしたことはこの際棚に上げて――に対し、ジュンタはお前も道連れだと手を伸ばす。その前にサネアツの頭部をわしづかみにしてぶら〜んとぶら下げたのは、リオンであった。

「待ちなさい。確かに今回の件であなたに対する罰は与えませんけど、あなたには長きに渡って元人間であったことを隠されてましたわね。この際ですわ。もう、愛のキューピッドとかどうでもいいです。ココデイッショニ、キオク、ウバワセテモライマスワ」

 ジュンタの中に、もうサネアツに対する憎しみはなかった。リオンに首根っこを掴まれた状態で隣の子猫に向けられる感情といえば、同情と尊敬だけだった。

 さすがはサネアツ。全てを諦めた途端、ニヒルな笑みを浮かべて抵抗する様子すら見せなくなった。腹の据わり方が半端ではない。まったく怯えた様子を見せることなく堂々としている。自分は小刻みに身体が震えるのを我慢できないというのに。

「ふ、ふは、はは、は。で、できる、ものなら、や、やってみるがいいで、ござるよ」

 訂正。ものすっごく小刻みに高速振動していてわかりにくかっただけだった。

「さぁ、それではおもしろおかしく記憶消去を行いましょう。安心なさい。今の私なら、何でも消せる気がしますから。そう、なんでも。ウフ、ウフフフフッ」

 ズルズルと引きずられるジュンタと運ばれるサネアツ。
 二人は互いを見て、同時に笑みを浮かべた。浮かべるしかなかった。

「いい様だな、サネアツ」

「いい格好だぞ、ジュンタ」

 こんなときでも一緒にいる自分たちが、とてもおかしくて仕方がなかったから、笑うしかなかった。

 ああ、本当に――心の底から笑えてくるね。









 戻る進む

inserted by FC2 system