第四話  聖戦の幕開け


 

「我々は彼方におわす聖なる神より、地上の平定を守ることを任じられた者なり」

 聖神教は実在する神を崇め、その代行者である使徒の意志を遵守する宗教団体である。

「我々は『始祖姫』アーファリム・ラグナアーツの意志を継ぎ、この歴史と信仰の地を守ることを責務とする者なり」

 世界の九割以上の人間を千年も昔より信徒とする、未来永劫変わらぬ絶対の宗教。その聖地たるラグナアーツに、今煌びやかな白銀の騎士団が整列する。

「責任を果たすために。平和を守るために。今また我々はここに、槍と盾をとり守護者となる」

 アーファリム大神殿内の大演習場に集められた聖殿騎士、その数一万。聖神教が保有する聖殿騎士の、おおよそ半分の数である。

 他の国に比べればいささか少ない騎士の数であるが、その一人一人の実力は他の追随を許さない錬度を誇る。選ばれた候補者の中よりさらに絞り込まれた戦士のみが、白銀の槍を持ち、聖地を、聖神教を、使徒を守ることを許されるのだ。

「敵は魔獣を率い、我らが先達の眠るこの地を蹂躙せんとする罪人。背徳者ベアルの作りし悪意。古の時代に封じられし悪魔を目覚めさせんとする者らに、正義の鉄槌を今下す」

 一万の軍にて十万の軍を破るといわしめた聖なる騎士団は、声を張り上げる翡翠の髪の聖猊下が御許に集い、その異名を実績と変えるために、静かに天馬の刻印を刻んだ胸元に拳を寄せる。

「此処に聖戦の始まりを告げる。我、神の従僕たる使徒の名の下に!!」

 使徒が聖神教の総意として仕掛ける戦争――これを聖戦と呼ぶ。

 ジュリウスの月・十日。この日、『アーファリムの封印の地』への聖殿騎士団の侵攻は開始される。

 第十三聖戦。後の世に語られるところの、『封印聖戦』の始まりであった。

 


 

 アーファリム大神殿を震源として、声の揺れが聖地ラグナアーツを震わせる。
 
 高らかに宣戦を告げたズィールの背中を見つめられる場所にフェリシィール共々いたジュンタは、耳に未だ木霊する騎士たちの声に小さく身震いを起こした。

「恐いですか?」

「恐いですよ」

 宣戦をズィールに任せたフェリシィールの言葉に、ジュンタは即答を返した。

「恐いです、とても。俺も今まで少なからず争いごとには巻き込まれてきましたけど、今回は規模が違う。たとえ相手が国でなく人でないとしても、これは本当に戦争なんですから」

 聖地に住まう人々と衛兵を除いた、此度の聖戦に参加する者たち。聖神教を守る盾である聖殿騎士団の中、参加する人数は一万と聞く。軽くバルコニーの向こうに集まった騎士たちを見れば、まるで白銀色に大地が輝いているようで、眩しさに目を細めてしまう。数を正確に数えられぬほどに多かった。

「『封印の地』に潜む魔獣の数は十万。単純計算で一人頭十体倒すことになるんですけど、大丈夫なんでしょうか?」

「被害が一人も出ない、なんて奇跡は起こらないでしょう。少なくない数の犠牲は出ます。それはたとえこれ以上動員する兵力を増やしたところで同じことです。残念ながら、計算上ではこれが最善の動員数になります」

 魔獣は人と違って兵法を本能の部分から来るものしか用いない。そのため十倍もの差があっても、聖殿騎士団ほどの兵の錬度があれば優劣は覆せる。

 まだ聖殿騎士団の人員は残ってはいるのだが、その内半数以上は聖地を離れて各国に対する警備や他の任務についていたり、聖地ではない場所にある聖神教の重要施設の守護、巡礼騎士団として巡礼者や信徒の問題を片付けたりしているため、動員することができないのである。残り半数は単純に、錬度不足で後方支援だ。

 聖神教を知り尽くした最古参の使徒フェリシィール・ティンクがそう決めたのなら、兵法なんて知らないジュンタではぐぅの音も出ないほど完璧な布陣なのだろう。戦に犠牲は付き物。どう足掻いても犠牲が出るのなら、その犠牲を最小限にする以外に道はない。

 それを考えれば、今回の聖戦はまだマシな方なのだという。

 聖戦は使徒が宣戦布告し、聖神教として敵に挑む戦争を指す。過去何度か行われたこれにおいて、敵は時に邪教に染まった国であったり、悪魔の研究に手を出した宗教団体だったりした。

 今回においての敵は『封印の地』の魔獣である。その規模は戦争であったが、人と人とが争う戦争じゃない。上手く運べば被害は少なくてすみ、なおかつ短期間での決着も可能だ。後腐れもない。『封印の地』へと続く孔を潜ればそこはもう戦地のため、兵糧も少なくてすみ補給も容易い。

 だが、同時にこの孔を通らねば『封印の地』へ行けないことが曲者でもある。

「ジュンタさん。先も訊きましたが、もう一度訊かせていただきます。本当にあなたも『封印の地』の中へと入られるおつもりなのですね?」

 今日アーファリム大神殿に招かれた理由にして、面倒ごとをズィールに押しつけた理由であるそれを、フェリシィールは不満そうな顔でまた訊いてきた。

 どこをどう見ても不満気な金糸の髪のエルフに、ジュンタはあ〜と軽く唸って、先程も口にした返答をもう一度口にする。

「入るつもりですよ。聖殿騎士団とズィールさんと一緒に」

「しかし『封印の地』の性質上、一度入ってしまえば一週間は出ることが叶わないのですよ? その間、どれだけ助けを求めようとも、戦地より逃げることは叶いません。それでも、ですか?」

「それでもです。もう決めたことですから。俺は『封印の地』に潜って、ヒズミたちをこの手で止めたいんです」

 はっきりと決意を口にすれば、今度はフェリシィールが唸る番だった。

 基本的に優しいこの使徒は、自分を危険な場所に赴かせたくはないのだろう。しかし使徒としての立場、意見を尊重したいなど、多くのしがらみから決定的な否定を取ることもできない。心配してくれることには頭が下がる思いだったが、ジュンタとでもこればっかりは譲れなかった。

「……ズィールさんがわたくしに内緒でジュンタさんを誘ったりしますから……」

 諦めに似た吐息を吐き出すフェリシィールは、恨めしい視線をズィールの背中にぶつけた。

 聖殿騎士団の前から姿を隠し、中へと戻ってきた途端にフェリシィールの視線に晒されたズィールは、いかにも心外だという表情に変わる。

「ジュンタ・サクラもまた使徒だ。使徒ならば使徒なりの責任というものが存在する。今回の戦い、ドラゴンと神獣が相手となりうるのなら、不確定要素も多いだろう。戦力は少しでも多いに越したことはない」

「だとしても、ジュンタさんが『封印の地』に潜ることになってしまったら、クーちゃんもついて行ってしまうのですよ? もしクーちゃんが傷つくようなことになったら……ああ!」

 あ、心配してたのはそっちですか――嫌な想像をしてよろめくフェリシィールに対し、ジュンタはちょっぴり寂寥感を覚えた。いや、こちらも心配してくれているとはわかるのだが。

「大丈夫ですよ、フェリシィールさん。クーは一緒に『封印の地』には潜りませんから」

「そうなのですか?」

「すでに話し合って決めました。フェリシィールさんが『封印の地』に潜り、ルドールさんがここに残るように、いざとなったときは[召喚魔法]で外に出られるように、って。そっちの方が安全かもと思って、クーには残ってもらうように説得しました」

『封印の地』へと入る旨をクーに伝えたところ、意志を尊重して反対こそ少しだけだったが、地上に残って欲しいというお願いには大反対が来た。徹底抗戦の構えを取られて、説得するのにかかった時間は一日を超える。

 ……思えば、この三日間は説得説得の日々だった。

 クーだけではなく、それこそ色々と。フェリシィールもそうだし、ゴッゾなどもそうだ。ズィールが誘ってくれて良かった。彼の名前がなければ、今ここにいることはできなかっただろう。

「そう、クーちゃんはルドールと一緒に残るのですね。しかし、ジュンタさんが危険なことに変わりありません。『封印の地』と地上では通信が非常に取りづらいです。いざ危険になったからといって、[召喚魔法]で逃れられるというわけにもいきません」

「フェリシィール。その程度にしておくべきだ。今更何を言っても、ジュンタ・サクラの意志は変わるまい」

「そうかも知れませんが……」

 ジュンタが心配するフェリシィールに太鼓判を押すより先に、ズィールが制止を呼びかけた。

「ジュンタさんを危険な目に遭わせないために聖地へと避難してもらったというのに、自ら危険な場所に行かせるのは心苦しいのですが……ベアル教がいかなる企みをもってぶつかってくるかわからないのです。『封印の地』の戦場は、きっと想像を絶することでしょう」

「然からば、その悪い想像を破壊することが我ら使徒の責務だろう。此度の戦いで、長きに渡るベアル教との因縁を断ち切る。ドラゴンも、魔獣も、聖地を脅かす敵を根こそぎ駆逐する」

「全ては聖地に生きる人のために、とはいいませんけど、それでもここには死なれたくない人がいる。俺はその人を守るために、あくまでも俺のために、俺の意志で戦うんです」

「ジュンタさん……ふぅ。業腹ながら、お止めしても本当に無駄のようですね」

「はい、無駄です。もう決めちゃったことですから」

 ちょっと冗談交じりにそういえば、フェリシィールは非難混じりの苦笑を口元に浮かべた。

「ジュンタさんも男の人、というわけですか。嫌ですね。女性の身からいわせてもらえば、大切な人に守られることは嬉しいことではありますが、同時に苦しくもあるのですよ? 死なれたくない。それはまた、守られる方も同じなのですから」

「死は恐れるものではない。真の恐怖とは、自らの存在に課された責務を果たせないことにこそある」

「ズィールさんは特別なのです。普通の人にとって死とは恐れるものなのですから。大切な人の死も、また同時に恐れるものなのですよ」

「……そういうものか。いや、そうかも知れんな」

 フェリシィールの言葉に何か思うところがあるのか、自分の意見とは食い違う意見には食い下がる翡翠の使徒には珍しく、口を閉ざしてフェリシィールの話に耳を傾けた。

 フェリシィールの金色の瞳に過ぎる真剣な光を目に映すジュンタは、まっすぐに向けられる視線に、まっすぐに視線を返す。

「ジュンタさん。ズィールさんもおっしゃられたとおり、あなたもまた使徒。生まれながらにして神の試練を課され、『神の座』へと辿り着く存在意義を背負う獣です」

「でも俺は」

「たとえ『神の座』に興味はなくとも、ですよ」

 続けようとした言葉に被せるように、フェリシィールは先回りして言った。

「『神の座』に興味が無くとも、そこへと辿り着くことがわたくしたちの存在意義であることには変わりないのです。あなたはそれを悲しいことと、愚かなことと思うかも知れませんが、少なくともわたくしはそう思います。ズィールさんもそう思っています」

 真剣な話と悟ったからか、口を挟まないズィールは静かに頷く。

「使徒は人類の導き手であり救い手。それはアーファリム様が定められた、この世における使徒の在り方。使徒の存在意義は十のオラクルをもって『神の座』に至ること。この二つは、我々が生まれたそのときにはもう、すでに決まっていることなのです」

「それじゃあ、フェリシィールさんもズィールさんと同じで、『神の座』に至るためにオラクルをクリアしろって思ってるんですか? たとえ――

 それが人を殺すことだとしても――続けそうになった言葉は、結局声にはできなかった。
 ただ、同じく五番目のオラクルに同じ行為を課された二柱の使徒は、沈黙に全てを悟ったのか、同時に神妙な顔つきになった。

「そうは言いません。存在意義と自分の行きたい道は違うと思っていますから。しかしそうは言いませんが、わたくしもまたかつては狂おしいほどに『神の座』に至ることを目指していたのです。 ルドールが示したオラクル達成をその身の目標とし、周りのものを顧みることなく、ただひたすらにオラクル達成のためだけに生きていました」

 かつては『神の座』を求めた使徒がそのとき浮かべた表情は、どこか辛そうな表情だった。

「こんな時だから正直に申し上げますが、わたくしが達成したオラクルは七つまで。過去の多くの使徒がそうであったように、わたくしは長く生きていながら、七つまでしか達成することは叶いませんでした」

「七つ。確か、八番目のオラクルは難しいって話でしたよね?」

 オラクルは使徒ごとによって違うが、一つ目、五つ目、八つ目、十つ目が難しいというのは同じだ。今五つ目のオラクル挑戦に至ったジュンタがクリアを完璧に諦めているように、そこまでを乗り越えたフェリシィールは、しかし八つ目のオラクルを前にして挫折したのだろう。

「五番目のオラクルが難しい理由は以前お話しした通りです。最後のオラクルである十つ目が難しい理由は、そこまで至った『始祖姫』様以外は知りませんので、わたくしが先達として伝えることができるのは、あとは八つ目のオラクルのことについてだけです」

「教えて、もらえるんですか?」

「五番目のように、答え、というわけにはいきませんが。八番目のオラクルは五番目のオラクルとは違って、使徒全てが同じオラクルではありません。ただ、困難な理由は同じとされています」

 フェリシィールはジュンタを、そしてズィールを見て、話を続けた。

「正直にいえば、わたくしの場合は八番目のオラクルのための行動に移れば、一年ほどで達成は可能という範疇にありました」

「達成が可能? しかしフェリシィール、貴公はもう数十年あまり、オラクルの達成はしていないのだろう? 達成する方法がわかっていながら、どうして辿り着こうとしない?」

「ズィールさん。今のあなたならば、恐らくは察しがつくはずですよ」

 疑問を投げかけたズィールにそうフェリシィールは返す。
 ジュンタはわかるのかとズィールを見て、そこにあった苦渋の表情を確認して、わかるのだと知った。

 ともすれば耳を塞ぎたがっているようにも逡巡していたズィールだったが、やがて絞り出すように、苦渋の顔はそのままに声を出した。

「……達成できないのではなく、達成しようとしない、ということか」

「その通りです。わたくしは七番目のオラクルをクリアしたそのときに、もう『神の座』を求めるのは止めようと、そう思ってしまったのです。以後、達成の方法がわかっていても、わたくしがオラクルの達成のために動くことはありませんでした」

「使徒なのに、達成する方法がわかってるのに、諦めたっていうことですか?」

 ジュンタの問い掛けにフェリシィールは頷いて、何かを思い出すように目を閉じた。

 自分の何倍もの生を歩んできた金糸の使徒は、そのとき恐怖に僅かに身を強ばらせた。閉じた瞼の裏に何を見たのか、あるいは思い出したのか、微かに震える唇で言葉をつむぐ。

「……わたくしが生まれながらに有した特異能力は、自然に限定した予知能力でした。いつどこでどんな自然災害が起こるのか、そういった情報をわたくしは、巫女がオラクルを託宣として受けるように自然と得ていました」

 クーに聞いたことがある。『自然の預言者』たるフェリシィールは、その能力を用い、大規模な自然災害が起こる前にその場所を特定し、そこに生きる人々に避難勧告をして被害を最小限に抑えているのだと。

「火山の噴火、地震、大津波……自然災害は人の手で食い止められるものではありませんが、わたくしはせめて被害に遭われる人の数が減るようにと、尽力してきたつもりです。ですが、当初わたくしはそういった避難勧告を一切行っていませんでした」

「それは、『神の座』を追い求めていたときのことか?」

 同じ使徒として長く付き合ってきたズィールには、フェリシィールの言いたいことがわかるのか、察しよく相づちを打っている。正直フェリシィールが何を語りたいのかわからないジュンタは、彼女が頷き、目を開くのをじっと見ているしかなかった。

「はい。まだわたくしが人の死について傍観者であった頃の話です。そのころのわたくしは、ええ、今思えば最低でした。確かに、オラクルを経て特異能力の錬度が上がる前とはいえ、自然災害の予知とその被害規模を知ることができていたというのに、何も行動に起こさずに、『ああ、また起きるんですね』と、ただそう当たり前のことのように受け止めていただけですから。
 たとえどれだけの人が死んだとしても、それは必然の結末。人がこの世界の一部である限り、決して避けられない結末であると、そう考えていました」

 人の死もまた自然の循環の一部であるように――そう呟いたフェリシィールの姿に、ジュンタは人とはかけ離れた何かを見た。

 人が人の死を悼むことが当たり前ならば、過去のフェリシィールは人が自然災害で消えることを当然と認識していた。たとえ人が幾人死のうとも、そこに嘆きがどれだけあろうとも、それがこれから起こる未来なのだとしたら、それは万人が受け入れるものであると。

「自然も人も所詮は同じ。この世界の上に在るもの。これはルドールの言葉ですが、わたくしは人間の側であったのと同時に、自然の側でもあるのだと。でなければ自然の現象など人の身で受け止められるはずがないのだと」

 使徒とは生まれながらに歪んでいる存在だと、かつて語った少女がいた。であるなら、それこそがフェリシィール・ティンクという使徒の歪みなのか。

 人の姿を取りながら、フェリシィールは自然の傍にも立っていた。自然現象を理解して、人の死を嘆くことなく、できただろう助けの手を寄越そうとも考えなかった。

「それでいいと思っていました。自分が見ているのは決定的な未来なのだから、そこからあえて逸らす必要性はどこにもないのだと。オラクルを達成することに全力を傾け、達成するたびに精度と規模が向上する予知に対しても、わたくしは心の水面を揺らすことはありませんでした。ですが――ある日わたくしは、ふと恐くなったのです」

 しかし、そんな自然と人間の間に立っていたフェリシィールは、ある日恐怖を抱いた。

「切欠は、先々代の使徒イヴァーデ様がお亡くなりになられたときでした。わたくしにとって人の死とは、自分の預言の先にあるはずのものでした。ですが、イヴァーデ様は唐突に亡くなられました。気が付いたときには、すでにそのお身体を聖骸聖典と変えて。
 それを見たとき、その消失に涙する人たちを見たとき、わたくしは恐怖したのです。人とは唐突に、何の前触れもなく死ぬのだと。自分の近しい者、人の死を自然の死と同等と受け止めていたわたくしにとっても大切な人も、いつ死んでもおかしくないのだと」

 死の理解。死がもたらす喪失感。生まれながらにして大規模な自然破壊による人の死を知っていたフェリシィールは、近しい者が死んだことで初めて、普通の人が感じる死の恐怖に怯えた。

「そう考えると、自分の予知が恐ろしくなりました。わたくしが当たり前の死と受け止めていた何百何千何万の命には、一つ一つ確かな重さがあって、死を悼む嘆きがあったのだと。そう思ってしまったとき、わたくしにとって自分の特異能力は、何としても回避すべき未来の姿となりました」

 人の死を受け止めるのではなく、一人でも多く救おうと。そこにある悲しみを一つでも少なくしないといけない――人の死を人の死として受け止めてしまったフェリシィールにとって、もはや自分とは何の関係もない人だとしても、そこに生まれる死は決して観念していいものではなくなった。

 あるいはそれは、自分が死に押しつぶされないがための保守的な行動だったのかも知れない。けれどフェリシィールは人の死に恐怖して、自分の見た自然災害から人を救うことを始めた。

「未来を予知してそこへと助けの手を伸ばせば、そこには多くの助かった命がありました。命を助けた安堵と同時に、わたくしの背にのしかかってきたのは、今まで見捨てた人々の命の重さでした。初めてわたくしは、自分の行ってきた道を振り返ったのです。
 オラクルのためだけに在った道。そこにはもしかしたら、多くの犠牲があって、見捨ててはいけなかった大切なものがあったのではないかと。そう考えてしまったわたくしにとって、オラクルは徐々に忌避すべきものとなっていきました」

「それで、オラクルを達成することを止めたんですか?」

「いいえ。それが切欠ではありましたが、もう一つ、『神の座』を諦めるに至る決定的な出来事がありました。わたくしは使徒とはオラクルに挑む者と思っていましたので、自分の予知が恐怖の対象になりつつあっても、オラクルに挑まないということは考えられなかったのです。……あの日が、来るまでは」

 フェリシィールの瞳に映る恐怖が、そのとき大きくなる。恐怖。明確な恐怖が、偉大なる使徒を怯えさせていた。

「特異能力はオラクルを達成するほどに強くなるようで、わたくしの自然予知はそのときには相当なものになっていました。ですが、七番目のオラクルを達成したそのとき、わたくしの予知に一つ、これまでとは違う異物が入り込んできたのです」

「異物? それって」

「自然の災害であり、他の自然の災害とは一線を画す存在。わたくしが七番目のオラクルを達成したあとに予知したものは、ドラゴンがいついかなる場所に生まれるのかという予知でした」

 フェリシィールの未来予知の中にはドラゴンの出現も含まれる。これによってドラゴンが自然現象の一部ではないかという説が生まれたと、以前クーが言っていた。

「ドラゴン……」

 だが、フェリシィールにとって、ドラゴンの予知は別の意味を持っていたのだ。

「七番目のオラクルを達成し、ドラゴンの出現を予知できるようになったわたくしは愕然としました。これまでの経験から、自分の予知は決して外れることなく、また避けられようのないものだと理解していましたから。
 確かに、予知による被害は抑えることが可能でしたが、それでも自然現象自体を食い止めることができたことは、一度もありませんでした」

 ドラゴンの出現を人が食い止められないように、ドラゴン出現の予知をしたフェリシィールは、ただ訴えることしかできなかった。

 かつてランカの街にドラゴンが降り立つことを、リオンのためにグラスベルト王国へ伝えたように、フェリシィールの特異能力ができることは予知だけであったのだ。決して外れることのない、世界に起こりうる災害の予知だけ。

「ならば。と、わたくしはそのとき思いました。決して避けられない予知をする自分はドラゴンを予知したように、十番目のオラクルまで達成してしまったのなら、もしかしたらソレを予知してしまうのではないか、と」

 言い換えれば、フェリシィールが予知したことは絶対に起こる。起こってしまう。ならば自分は世界にとって最悪の、本当の意味で最悪の災害を――


「わたくしはいつか、世界の終焉を予知してしまうのはないか、と」


 ――世界が滅びるその瞬間を、予知してしまうのではないのか?

「その予想ではない予感に、わたくしは震えました。そして、挫折はそのときに。
 もうこれ以上の世界の災害は見たくない。予知したくない。そう思って、わたくしはそれ以上のオラクルを行うことができなくなってしまいました」

 それが、使徒フェリシィール・ティンクが『神の座』を諦めた理由。
 フェリシィールは疲れたとでも言いたいように、近くにあったソファーへと腰を下ろして、その状態のまま話を続けた。

「そのあとわたくしは、それまでの使徒がそうであったように、後達の使徒の環境作りのために聖神教の運営に回りました。精一杯に、良き導き手たらんと自分に言い聞かせ続けて。……たぶんわたくしはそのときから、自然の側ではなく人の側に寄りたいと、必死に人の振りをしていたのでしょう」

 もっとも、自分が人になれたかはわからないのですが――薄く笑って、フェリシィールはジュンタを見た。

「これが、わたくしが七番目のオラクルで立ち止まった理由です。そして、聖地を守る使徒となったわたくしはこうも思いました。自分がこうして困難とされる八番目を前にして諦めたように、これまでの使徒もまた同様に諦めたのではないか、と」

「つまり八番目のオラクルが困難とされているのは、それ自体が難しいのではなく、そこに至ったときの使徒の心が折れてしまうからだと……」

 カラカラに乾いた舌で、ズィールは核心を突いた。

 フェリシィールは首を横にも縦にも振ることなく、

「わたくしも先代の使徒たちから聞いたわけではありませんから、はっきりとはわかりませんが、もしかしたら八番目のオラクルとは一つの区切りなのかも知れません。その区切りを越えることができた使徒のみが、本当の意味で『神の座』を追い求められるのだと、わたくしは思っています」

「……」

 ズィールはフェリシィールの気遣いを含んだ視線から逃げるように、目を逸らして押し黙った。

 様子のおかしいズィールを見て、ジュンタは思う。もしかしたらかつてフェリシィールが抱いたような自己に対する不安を、彼もまた今抱いているのかも知れない、と。

(そう、不安だ。使徒が歪みをもって生まれてきた存在だっていうなら、歪みから来る特異能力を育むオラクルを達成していく過程で、必ず自分の歪みを直視しないといけない時が来る)

 ジュンタは自分にあるという特異能力を知らず、また自覚もなかったが、使徒である限りいつかはそれと向き合う日が来るのかも知れない。

 フェリシィールは自らの歪みに耐えられなかった。ズィールはきっと何とか耐えようとしている。自分は……わからない。その時がくるまでは。

「ジュンタさん。使徒の生涯はオラクルと共に在ります。たとえ諦めたとしても、わたくしの傍に八番目のオラクルがそっと手招きして待っているように。
 わたくしは使徒という存在について、こう思わずにはいられないのです。人の死に触れ、自らの歪みを許容した先にあるモノを見つめなければ『神の座』へと至れないように、使徒は救い手であると同時に破壊者でもあるのかも知れない、と」

「馬鹿な。使徒が破壊者であるなどと……」

 反射的に反論したズィールは、しかしそこから先の言葉を噤んだ。まるで声に出してしまえば、後戻りはできないとでも言うように。その表情には、以前にも見た苦悩があった。

「……フェリシィール。貴公の話は理解した。しかし、自分はそれでも『神の座』を追い求めるぞ。そのために生きていたのだから、今更…………くっ、失礼させてもらう」

 白い衣を翻して、苦悩を顔に刻んだままズィールは部屋を後にした。

(……もう少し、サネアツと相談するべきかもな)

 取り残された二人。ジュンタは心配そうにズィールの後ろ姿を見送ったフェリシィールに再度視線を向けられるまで、じっと使徒とオラクルの関係について考えていた。

「まるで、いつかの自分を見ているようです。自分の存在意義と、これまでの道程と、そしてこれからについて悩んでしまう苦悩は、わたくしもまた通って来た道ですから。ズィールさんがどんな選択を取るにせよ、後悔がないようにと祈るしかありません」

「フェリシィールさん」

「ジュンタさん。回りくどくなりましたが、わたくしが言いたいことは一つだけです。
 大切な目的があったとしても、貫きたい意志があったとしても、それは自分を、自分の周りを顧みなくていい理由にはなりません。どうか、あなたが傷つけば悲しむ人がいることを忘れないで下さい。でなければ、『封印の地』へは行かせませんよ?」

 教師が生徒を怒るように、あるいは姉が弟を怒るように、立ち上がって目の前に立った金糸の使徒は、指をピンと立てて顔を近づけてきた。

 じっと見つめてくる金色の瞳には、人を心配する温かな感情があった。
 後悔して、挫折して、その果てに『自然の予言者』が手に入れた感情だった。

 使徒は『神の座』を夢見る神獣であるのかも知れない。それを諦めることは自己否定と同義なのかも知れない。だけど、優しい聖母のような使徒を目の当たりにしたジュンタに不安はなかった。

 自分の周りの人――そこには大切な人が多くいることを、自覚したばかりだったから。

(ヒズミとスイカを助けたい。だけど、そのために誰かを悲しませるべきじゃない)

 サクラ・ジュンタは『封印の地』に行く。それは変わりないこと。けれど、それでも自分の身は大事にしないといけない。

「はい。フェリシィールさんの言葉は、しっかりと脳に刻み込んでいきます。悲しませたりはしませんよ、俺のことを大事に思ってくれる人のことを」

「まぁまぁ。そう言っていただけると嬉しく思います。
 ―― ジュンタさん。この場所で共に笑い会った人たちのことを、どうぞよろしくお願いしますね」

 しっかりと返事を返して、ジュンタは聖戦の総指揮官でもあるフェリシィールにお辞儀して部屋を後にする。

 耳には整列を始めた聖殿騎士たちの行進の音。
 
 自分に課せられた全て。使徒としての存在意義。ドラゴンとしての狂い。日常を大事にしたい想い。それを壊そうとする呪い。それら全てを受け止めて、ジュンタは前を向いて歩いていく。

 視線の向こう。白亜の回廊の先で、彼らは待っていた。

「遅くてよ、ジュンタ。風紀を乱すことは戦においては致命傷ですわ。戦いに赴く前の対応としてはあまりよろしくないですわ。そ、それにこんなときくらいは私と……」

「ご主人様。うぅ、甲冑の方をお持ち致しました。それと救急セットと、あとあとお腹が空いてしまったときのお弁当や、ぐすっ、喉が渇いたときのお茶とですね」

「心配しすぎで小山ほどになってしまったリュックの上に陣取る、このマイソウルパートナーも忘れてもらっては困るな」

「ああ……忘れたりなんてするもんか」

 ――自分の大事な、忘れてはいけない人たちは、そこで待っていてくれた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 滔々と溢れ出す魔力の猛りが、異界への門を穿つ。

 金糸の使徒フェリシィール・ティンク。その巫女ルドーレンクティカ・リアーシラミリィ。共に魔法使いとしては超一流の位階に達している二人の力によって、『封印の地』へと道は繋げられた。

 声なき詠唱の詩はこの白亜の地より灰色の地へと響き渡り、さらにそこへ行軍の声が混ざって、猛々しい音律を途絶えることなく奏でていた。

 すでに『封印の地』へと渡った軍の先頭は魔獣と交戦しているのか。続々と『封印の地』へと潜っていく聖軍の最後尾に、使徒ズィール・シレ近衛騎士隊、シストラバス侯爵家騎士団と共にいるジュンタにはわからない。

 あれほどいた聖殿騎士たちも、今やもう最後尾に位置する自分たちと少しだけ。もうすぐ自分たちもまた『封印の地』に赴くのだと、場に満ちる緊張感が教えてくれる。

「ご主人様……」

 そんな緊張感とは別の緊張感に苛まれているのが、ジュンタなのでした。
 
 じっと潤んだ瞳で見つめてくる金糸の髪の妖精みたいな少女。
 胸元に寄せられた手は忙しなく上になる手と下になる手が組み替えられて、彼女の内心の葛藤と焦りを容易く教えていた。

「クー……」

「ご主人様……」

 周りから幾つもの好奇の視線と、なんかとっても鋭い視線が突き刺さる中、お互いを呼び合うジュンタとクー。二人の姿はどこからどう見ても、戦地に赴く恋人と恋人を心配し別れを惜しむ乙女のそれであり、なんだかこう不思議な気分にさせる。

 ともすれば抱きしめたくなるような衝動。目の前の女の子がかわいく見えてしょうがない。『封印の地』へと潜ったら一週間は会えないわけで、考えてみたらクーとそれだけの期間会わないのは初めてのことであり、そう考えると寂しさが込み上げてきた。

 それでもこちらの感傷を無視して、列は進んでいく。「隊長」「いや、だがクーが」とか言いつつクレオメルンがフェーズアウトしていく。鋭い視線が一つ減って、しかし加速度的にもう一つの視線の熱が上がっていくので、プラスマイナスマイナスである。

「心配です、ご主人様。私、私……」

 いや、でもクーに心配されているからプラスマイナスプラスかも知れない。

「大丈夫だよ、クー。俺は死なないし、必ず戻ってくるから」

「ですが、一緒にいられないと、もしものとき私は何もできません。ご主人様が傷つかれてしまっても、傷を癒してあげることもできません」

 クーは『封印の地』へは行かず、この場所に残る。一緒にいられないことがクーの不安を誘っているようだった。不安に思ってしまうのは、先日の一件もあるのだろうが。

「できることなら、一緒に私も行きたいんです」

「でもそれは――

「はい、わかっています。もしものときのことを考えれば、おじいちゃんと一緒にここに残った方がいいということは。ですがそれでも私は、ご主人様と離れることが、とても、とても辛いんです」

 それはどこまでも真っ直ぐで、どこまでの純真な求めだった。

 迷子の子供が親の姿を求めるような、生まれたばかりの雛が親鳥を追いかけるような、そんな求め。やばい。このかわいい生物を抱きしめてもいいでしょうか?

「心配しなくても大丈夫ですわよ!」

 思わず手をわなわなと動かしていたジュンタの前に、紅い背中が割り込みをかけてきた。

 クーに向かって、これまた真っ直ぐな言葉と共に胸を反らしてみせるのはリオン・シストラバスその人。彼女は不敵に笑って、なぜか背中から怒りのオーラを立ち上らせていた。

「確かに、ジュンタ一人で戦地に行かせるとなると、クーが不安に思うのも仕方がないという話ですわね。ジュンタは弱いですし、貧弱ですし、危なっかしいですもの。あわてん坊ですしね!」

「お前には言われたくないな、特に最後のところ」

「ですけど、このリオン・シストラバスが共に行くのですから、あなたの不安は杞憂ですわ。騎士の努めは弱者を守ることにあり。安心なさい。ジュンタのことはこの私が守って差し上げますから」

「俺は守ってもらう対象なのか……なんかクーもキラキラした瞳でリオンを見てるし」

 男としては守ってもらうより守りたいところなのだが、リオンとクーの二人の共通認識として、自分は守ってあげたい、守らないといけない対象らしい。ちょっと寂しくもあり、嬉しくもある微妙な心境である。

「リオンさん。ご主人様のことを、どうかよろしくお願いします」

「あなたにお願いされては仕方ありませんわね。できる限り一緒にいて、ジュンタが不埒な真似に及ばないか監視していて差し上げますわ」

「あれ? なんか論点違うくない?」

 ペコリとお辞儀をしてジュンタのことをクーはリオンにお願いする。それは子供を見送る母親のそれで、自分は子供かとジュンタはちょっぴり悲しかった。

「はっはっは。まるで園児を送る母親と、園児を預かる保育士のような構図だな」

 しかし、最近まで無理していたことに罪悪感もあったから、ニヤニヤとサネアツが隣に置いてある巨大なリュックの上から笑いかけてきても、ジュンタは無視するだけで何かしらの行動に移ることはなかった。さぁて、リュックの中にタマネギはあったかな?

「楽しそうなところ申し訳ないが――

 聖地の中の聖域といわれた神居の一角で喜劇などを繰り広げていた一同に、苦笑混じりに声がかけられる。

 一斉にみんなが振り向けば、何ともいえない顔をした紅い甲冑の騎士たちと共に、これまた『封印の地』へと赴くリオンを見送りに来たゴッゾが立っていた。

「残念ながら、そろそろ順番が来たようだ。シストラバス家の竜滅騎士団、出陣のようだよ」

 リオン付きのメイドであるユースと共にリオンへと近付くゴッゾもまた、この地に残る。彼は名高いシストラバス家の騎士団長であるが、彼自身の剣の腕はさほどのものではない。グラスベルト王国から来るだろう援軍との交渉を迅速にする等の目的から、彼はここに残ることを自ら選択していた。

「リオン。騎士団のことは全てお前に託すが、わかっているね?」

「はい、お父様。無理はしないように、でしょう?」

「といっても、リオンのことだから、いざとなったら悩むことすらしないんだろうがね。ユース。リオンのことを頼まれてくれ」

「畏まりました」

 お父様! と、リオンが少し頬を膨らませてゴッゾに食ってかかる。尊敬する父親から微妙に子供扱いされたことがわかったらしい。

「ご主人様」

 同じように微妙に子供扱いというか、手のかかる主人扱いされていたジュンタは、心配性な従者に改めて向き直った。

「ご主人様。私、待ってます。ご主人様が無事に帰ってくるのを、ここで待っていますから」

「ああ、俺も無理はなしだ。帰ってくるよ、クーのところに。リオンたちと一緒にな。そのときは、おかえりって言ってくれると嬉しいな」

「はいっ! 全身全霊をもってがんばります!」

 ぐっと両拳を握りしめるクーを抱きしめる変わりに、大きな帽子の上から頭を一撫でした。いつもは騒がしい闇も今日ばかりは空気を読んでいるのか感じない。ずっと安心をあげたかった少女に、少しだけとはいえ、ジュンタは安心を与えられたことに安堵した。

「えへへ」

 より安堵を感じたのはクーか。心からの笑顔を浮かべて、日溜まりの笑顔で喜んでいた。

 それぞれしばしの別れのためのあいさつを交わし、白銀の騎士団の最後列に続いて、ジュンタたちは出迎えるように口を開く孔の前に立つ。

 鮮烈なる紅き騎士団と共に、黒き甲冑と双剣を持って、ついでにトンデモキャットを乗せた大きな荷物を引きずって、ジュンタは泣くのを必死に堪えているクーに片手をあげる。

「それじゃあな、クー。ちょっとそこへと出かけてくるよ」

「はい。行ってらっしゃいませ、ご主人様」

 自分の巫女に見送られて――そうしてジュンタはこの世と灰色の世界を繋ぐ門を、潜り抜けた。

 足を踏み入れる。此度の聖戦の舞台へと。


 

 

「それではルドール。後のことは頼みました」

「ええ、行ってきなされ。主よ」

 ジュンタを見送ったクーの前で、『封印の地』へと潜る最後の人物であるフェリシィールが、維持していた解呪の術式から手を離しておのが巫女に向き直っていた。

 一人で高度な術式を制御してみせるルドール。特別な資格を必要とする『封印の地』への門を開く術式は、ルドールだけでは少しずつ閉じていくが、それでもフェリシィール一人が向こう側へ行くのには、まだ十分な時間と大きさを持っていた。

 二、三言葉を交わしていく二人を、少し離れた場所からクーは見守る。

 自分はここに残り、主と偉大なる使徒たちは灰色の大地へと行く。
 どうしようもなく大切な主と離れていることに心細さを感じるも、それでもここで待っていることが自分に託された使命ならば、と、気丈に潤みそうになる瞳をこらえる。

「あらあら?」

 ルドールにしっかりと頷き、頷き返されたフェリシィールが、一人堪えるように佇むクーを見て眉を動かした。

「まぁまぁ。えいっ!」

「フェ、フェリシィール様!」

 パタパタと駆け寄ってきたフェリシィールにガバリと抱きしめられる。
 力一杯抱きしめられ、その豊満な胸に顔を埋めることになったクーは、驚きと恥ずかしさから大きな声でフェリシィールの名前を呼んだ。

「クーちゃん。安心して下さい。あなたの大事なご主人様は、必ずわたくしが、わたくしたちが守り抜いてみせますから」

 背中をあやすように軽く叩かれ、耳元でそっと囁かれる優しい言葉。
 母性を感じさせる抱擁を受けたクーは、頬を染めたまま、コクンと小さく頷いた。

「はい。お願いします、フェリシィール様。ご主人様や皆さんと一緒に、無事にお戻りください。私はおじいちゃんと一緒にここを守りますから」

「はい、よくできました。それでは行ってきますね」

 名残惜しそうに腕を放したフェリシィールが、金糸の髪を波立たせて、その場に残った数人の関係者に見送られるまま『封印の地』へと消える。最後の最後、金糸の使徒が見せた表情は、笑顔ではなく、此度の聖戦の無事を感じさせる美しい神かかった使徒としての顔だった。

 斯くして聖なる軍勢は、それを束ねる使徒と共に灰色の荒野へと赴く。

 これより一週間。繋がることのない道が、音もなく、残る者たちの前で閉じた。









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