第六話  魔獣の進軍


 

 起床の鐘が鳴り響く前に、前線基地に敵襲を知らせる鈍い鐘の音が響き渡った。

 飛び起きたジュンタがテントの外に出たときには、すでに隊列を整えたシストラバスの騎士百名あまりと、ユースを隣に置いたリオンの姿があった。

 敵襲の可能性をいつでも警戒していたのか、リオンは戦闘でも使える服の上に紅い甲冑を身につけていた。迅速な戦闘準備は、戦闘においては何よりも重要なのである。

「ジュンタ。遅いですわよ!」

「悪い。それで、今の敵襲を告げる合図の鐘は?」

「どうやら一大隊では対処できない規模の魔獣の群が、こちらに攻撃を仕掛けてきたようです。すでに城壁の傍では戦闘が開始されています」

 ユースの簡潔な説明に頷いて、リオンは集まった面々を見渡した。

「私たちはドラゴンへの戦力として参戦したわけですけど、そこに誰かの危機があるというのなら放ってはおけませんわ。私たちも魔獣との戦闘が行われている場所へと向かいましてよ。ジュンタ、あなたも一緒に来なさい」

「了解」

 ジュンタはシストラバス家とは別の戦力ではあったが、ここはリオンの指揮下に入るのが一番いいだろう。そう思って、昨日や一昨日はシストラバスの騎士たちと修行を共にしていたのだから。

「聖殿騎士たちが寝ぼけ眼を擦っている間に、我ら紅き騎士団は敵を蹴散らし、その名をこの戦場でも轟かせます。総員駆け足! 進め!」

 用意してあった馬には前線基地内を通るために騎乗せず、リオンを先頭にして騎士たちは行進を集める。ジュンタは最後尾につき、そこから見あたらない子猫の影を捜索した。

「サネアツはいない、か」

「呼んだか?」

「うだっ」

 逆エコーを響かせながら空から白い影が落ちてくる。首に大きく負担をかける一撃をもらったジュンタは、首を押さえながら頭の上へと着地を果たした白猫を睨んだ。

「つ、ついには登場のたびにこっちにダメージを与えるようになったか、サネアツ」

「いきなり登場したぐらいではもう驚いてはくれないではないか。こちらとしても、新しく斬新な登場方法を模索するのはなかなかに苦労なのだぞ」

「なら普通に登場しろ。ある意味それが一番驚くから」

 いつだって急に現れたり、生えてきたりするサネアツが普通に前の方から駆け足で寄ってくる姿は……間違いなく驚愕に値する。サネアツにとってはその方法を見落としていたことがショックだったらしく、しょぼんと尻尾を垂らしている。

「ジュンタ! なにノロノロとやってまして!? 置いていきますわよ!」

「悪い!」

 サネアツの強襲に足を止めてしまったジュンタへとリオンから檄が飛ぶ。ついでに他の紅い鎧を身につけた方々から非難の視線が。このまま遅れれば今度の修行でフルボッコにされかねないため、ジュンタは大急ぎで最後尾に追いつく。

 リオンたちと足並み揃えて前線基地を囲む城壁へと近付いていく。ジュンタたちが使用しているテントがある一角の近くでは、未だ伝令が行き届かず状況把握に努める者が多かったが、城壁に近付くにつれて周囲の慌ただしさは増してくる。

 ついには戦闘の音が耳に届く位置まで移動すれば、そこには整列を組む聖殿騎士団の大隊の姿を見つけることもできた。

「サネアツ。お前どこかに行ってたみたいだけど、何してたんだ?」

「無論、強襲してきた魔獣たちの情報などを仕入れに行ってきたのだよ。ジュンタには言っていなかったが、この前線基地の各場所ににゃんにゃんネットワークの団員を配置している。どこで事件が起きようとも、すぐに俺の耳に入ってくるという寸法だ」

 戦いにおいて情報収集こそが鍵と信ずるサネアツの手足たるにゃんにゃんネットワーク。わざわざ『封印の地』まで連れてきたらしい。

「魔獣の数は?」

「約三千。全体の三十分の一程度だ。付近一帯の魔獣が全て集まっていると考えていいだろうな。
 こちらの戦力は未だ減らぬ一万。正面から戦おうとも決して負けることはあるまい。たとえこれが想像していなかった奇襲だとしてもな」

「奇襲?」

「ああ。今襲ってきている魔獣たちは、驚くことに隊列を組んで襲いかかってきたのだ。仲間内では徒党を組もうとも、異なる種族ごとでは行動を同じくしない魔獣としては、これだけで十分異常といえるな」

 これまでの二日間で魔獣の討伐は、それぞれ聖殿騎士団の一師団が交代で執り行ってきた。十万いるという敵に対し千人構成の師団を、さらに二十の大隊に分けての討伐隊として出すことができたのは、一重に魔獣が『軍』ではなく『群』であることが大きい。 
 この『封印の地』には多くの魔獣がいるが、それはこの地に分布しているということ。一箇所に集まって軍となっているわけではない。故に十分の一しかない聖殿騎士団でも勝つことが十分に可能なのである。

 しかし、今回魔獣は隊列を組んで襲いかかってきた。それはつまり、小さいとはいえ軍となって襲いかかってきたということに他ならない。

「魔獣たちは戦術を使って襲いかかってきたのか?」

「いや、そういうわけではないようだ。あくまでも集まった魔獣が同時に動いただけ。戦術を駆使されれば、この数の差では勝ち目が低くなってしまうため、そこだけは喜ばしいことだな」

「それでも不安は残る、か」

「ひとまずは目の前の敵を倒す他あるまい。現在守備についていた第八師団が城塞の上から応戦。討伐に出ていた第九師団が戻ってきて背面から敵を叩いている」

 城壁に辿り着いたジュンタは見たのは、サネアツがいうような風景であった。

 師団長の指揮のもと、城壁の上から壁の外に向かって矢を射る聖殿騎士たち。城壁の門は魔法によってその都度つくられるため、どこにも門がない以上、前線基地内から騎馬隊などは出ていないということだろう。

「残念ですわね。どうやら私たちの出番が必要ない程度の来襲だったようですわ」

 その場の状況を一目で看破したリオンが、配下の騎士たちに待機を命じて、ユースと共に現場の指揮をとる師団長の元へと向かっていった。

 ジュンタはサネアツと共にこっそりと隊列から離れ、その後を追う。

「う……」

 城壁の上へと階段を使ってあがったジュンタの目の前に、凄惨な城壁の外の光景が映る。

 そこには無数の魔獣の屍と、戦う騎士の姿があった。

 どこまでも続く灰色の大地の上、砂塵を蹴り上げて向かう種々様々な魔獣たち。彼らと直接刃を合わせるのは、大隊ごとに隊列を組んで蹂躙する騎馬隊。主に機動力の高い騎馬隊を抱えた聖殿騎士団第九師団が、討伐からの帰路を駆け抜けたまま、魔獣たちにぶつかっている。

「矢番え。てぇっ――!!」

 城壁近くで壁を壊そうとしている魔獣たちに向かって、一斉に矢が射られる。矢に入り交じって魔法の矢も飛び交い、戦場に緑の血をぶちまける。

「……人と人との戦いじゃなかったからって、少し見くびってたか」

 たとえ敵が人ならさる異形だとしても、断末魔の声は生々しく、その臓腑が散乱する戦場は凄惨の一言にあった。騎馬隊の戦闘方法が隊列を組んで突進するの連続のため、人側の怪我人は少ないが、決して少なくない数の人の断末魔が魔獣の声に混じっているはずだ。

 ここは戦場――わかっていたはずなのに、今ジュンタの心の中でこみあげてくるのは、小さな恐怖心であった。

「お姉様!」

 そんな戦場においては不謹慎なほど幼い少女の声が聞こえた。

 振り向けば、城壁を守る第八師団の師団長たるチミッコ騎士――ベリーローズがリオンを前にして目をキラキラ輝かせているところであった。矢を近くで射っていた誰かが、深々とした溜息をついたような気がした。

「あなたはベリーローズさん。そう、あなたが今の城壁の担当師団長ですのね」

「はい。アタシ――じゃなかったです。自分たち第八師団が魔獣の侵攻を食い止めています」

 さすがに戦闘の最中で顔を崩すのはダメだと思ったのか、ベリーローズは胸元に手を当てて真剣な顔を作る。それでも背伸びした子供にしか見えないのだが、状況が状況なので、リオンもまた真剣な顔で向き直った。

「どうやら戦闘はこちら側に圧倒的有利なようですわね」

「数も戦力も脅威には値しないレベルでしかありません。もうすぐフラベルスキー師団長率いる第九師団が、敵を全滅に追い詰めると思われます」

「そうですの。それでは私たちの助力はやはり必要ないようですわね。私たちが用意している矢は特別製ですし、援護の役にはつけませんもの」

「お気持ちは嬉しいのですが、はい、そうなってしまうです。自分たち第八師団としましても、矢と魔法での遠距離戦よりも白兵戦の方が得意なのですが。あえて第九師団が支配する戦場を混乱させるわけにもいきませんので」

 ベリーローズがとてもまともなことを言っていた。いや、これでは自分こそが不謹慎だと、視線を戦場へとジュンタは戻す。

 戦闘開始からそう長い時間経っていないだろうに、すでに戦いは終わりへと差しかかろうとしていた。

 魔獣たちの背後から徐々に敵を減らしていった第九師団と、前面から減らしていった第八師団。二千対三千の戦いながら、城攻めには相手の戦力の二倍は必要と聞く。強固な大地の壁に侵攻を阻まれ、挟み撃ちにあった魔獣たちの命は、あまりにも呆気なく燃え尽きる。

「大規模儀式魔法用意。前線基地をこれ以上混乱させるわけにはいかないです。使徒様方が来られる前に一気に決めますよ」

 ハルバートを指揮棒のように振るい、ビシリと敵である魔獣の中でも、凶暴なオーガなど矢が効きにくい相手を指し示すベリーローズ。彼女の指示を受けて、第八師団内において魔術を主に扱う一つの大隊が儀式魔法の詠唱に移る。

 クーがあまりにも簡単に儀式魔法をぶっ放すので忘れがちだが、本来儀式魔法は儀式場のバックアップをもって放つ、多くの敵を一度に撃退するための魔法である。儀式という名が示すように、大勢の魔法使いが協力して放つこともできる。そういった大規模な儀式魔法は、個人を遙かに超える規模の破壊を引き起こす。

 色とりどりに輝いていた魔法光は、儀式を取り仕切る一人の魔法使いの魔法属性である緑に変わる。灰色の大地を照らし輝く緑の光は、今がまだ朝だということをどこか教えてくれていた。

 轟。と指向性をもった風の束が、城壁から前方一体に向かって放たれる。
 触れたもの全てを切り裂く戦術魔法[裁きの風ジャッジメント]は、肉の一欠片すら残さず魔獣たちを飲み込んだ。

「これが、この世界の戦争。魔法使いがいる戦場か」

 サネアツが感慨深そうに呟く。彼の口振りにも、どこか恐怖めいたものが感じられた。

 灰色の大地にむごたらしい傷跡をつけた風は、前方に集まっていた魔獣たちを後方に追いやる。そこで彼らを待ちかまえていたのは駆け抜ける死神。先の魔法の風にも負けない一陣の風となって、聖殿騎士たちは通り様に槍を振るって魔獣たちの首を刎ねていく。

 ジュンタは風の名残に前髪を揺らしながら、自分の立ち位置を再確認するように、じっと戦場を見下ろしていた。

 隣までやってきたリオンもまた、戦場を見つめる。
 果たして、ジュンタよりも視力のいいリオンは何を見つけたのか、身を乗り出すようにして目を見開いた。

「あれは……」

「リオン?」

 リオンの瞳に戦意の炎を見て取ったジュンタは、反射的に肩を掴んで押しとどめようと手を伸ばした。

 しかしその手は空を切り、リオンは城壁の端を思い切り蹴って、未だ戦闘が続く城壁の外へと躍り出ていた。

「おい、リオン!」

「総員そのまま待機。追随などという無粋な真似は承知しませんわよ!」

 かなり高い城壁の上からだというのに、軽やかに地面へ着地を果たしたリオンは、そこにいた魔獣を剣で切り裂きながら、指揮官に追随しようとしたシストラバスの騎士たちを押しとどめた。

 指揮官が単身で戦場へ行くとは何事なのか、ジュンタは身を大きく城壁の外へ乗り出して迷うことなく空中へ身を投げ出した。

「サネアツ!」

「承知!」

 リオンほど身体能力が秀でていないジュンタは、自分が上手く着地できるかは咄嗟に判断つかなかった。なので判断をサネアツに一存し、茶色の魔法光を無重力下で浴びながら、魔法で柔らかくなった地面の上へと着地した。

 すぐさま双剣を抜き放つと、リオンが切り開いた道を走り抜いて彼女の許まで追いかける。

「リオン! 一人でどこに行くんだよ? お前が行かなくても、ここでの戦いはすぐに終わるぞ!」

「まったく、ついてくるなといいましたのに。そんなことは承知していますわ。けれども、それとこれとは別問題。一度瞳にその姿を捉えた以上、矛を交えないことなどありえませんもの」

 ぞっとするほど美しく笑うリオンの視線は、まっすぐ前を射抜いていた。

 早くも腐り落ち始めている魔獣の死骸の向こう、枯れ枝のような影がうっすらを見える。

「あれは……」

 ジュンタより先にサネアツが気が付いた。枯れ枝のように見えた相手が人間であり、彼がなんと呼ばれている相手であるか。

 禿頭の男だ。身の丈は二メートル以上あるが、身体に肉がついておらず病的に肌が白いため、壁という印象ではなく骸骨という印象を受ける。ぎょろりとした瞳は一点を見つめたまま瞬きさえしない。その中で、かなり長い腕が握る棘突きのハンマーが異様さをあおっている。

「ボルギィか」

「ボルギィ? それって確か、ベアル教の」

「ああ、一員だ。リオンが追っていたのは彼で間違いあるまい。なぜならば――

「ボルギネスター・ローデは、我が師にして祖父クロード・シストラバスの敵ですもの」

 二十メートルほど間を取って、リオンはベアル教の一員、ボルギィの前で立ち止まる。

 突きつけられた剣の切っ先と、燃えるような瞳がリオンの戦意を物語っていた。対してボルギィはぼうっと虚空に視線を彷徨わせるだけで、リオンを見ようともしない。

 ボルギィの周りに彼以外の影はない。どうやら彼もまた単身でこの戦場に現れたらしい。魔獣がほぼ駆逐された今、彼は敵地の中に一人というわけだ。

 勝負あり。降伏しろ。
 そう投げかけるべき言葉を、ジュンタは紡ぐことができなかった。

 リオンが握るドラゴンスレイヤーの切っ先を中心にして形成された、空気も凍り付くような緊張感。肌にひりつくようなリオンの放つ闘気に、状況が決まったから終わり、とは言えないことは一目瞭然だった。

「また相まみえることができて、光栄ですわ。ボルギネスター・ローデ。あの日の報復の誓い、忘れてはいませんわよね?」

 顎を軽くツンと上げて、リオンは挑発するようにボルギィに話しかける。

 そこでようやくボルギィはリオンに気が付いたように視線を向け、

「磨り――潰す」

 ノーモーション。身動き一つ瞬き一つすることなく、リオンの身体を大きく後方へ弾き飛ばした。

 ジュンタがリオンが弾き飛ばされた斜線上に身体を割り込ませ、奇襲気味に吹き飛ばされた彼女の身体を受け止める。足にかなりを力をこめて受け止めたはずなのに、ジュンタはリオンごと数メートル後方へと後退を余儀なくされた。

「気をつけろ、ジュンタ。この男、生半可な敵ではないようだ」

「当然ですわ。でなければおもしろくありませんもの」

 サネアツの警告に対し、ジュンタではなくリオンは答えて一人で立った。

「感謝しますわ、ジュンタ。未だ名乗りも上げずに無様に転がるのは、騎士としても淑女としても論外ですものね」

「行くのか? 一人で」

「行きます。私だけで」

 ジュンタの手を借りずに、リオンは再び堂々とボルギィの前へと歩み出る。

 先の衝撃。ジュンタではまったく理解ができなかった。ボルギィは何の動作も起こしていない。まるで言葉そのものが質量を持っていたように、リオンへ襲いかかったように見えた。

『惨劇』のボルギィ。かつて一つの裏の組織を壊滅させた主犯者の一人。その実力、考えていたよりもずっと上。

 恐らく――達人クラス。

「我が名は、シストラバス侯爵家次期後継者――リオン・シストラバス」

 ゆらりと陽炎を立ち上らせるドラゴンスレイヤーを上段に構えて、リオンは決闘の合図たる宣誓を行おうとする。そこに込められた熱は、昨日のお遊びのそれとはワケが違う。

 言葉に質量があるのだとしたら、リオンの言葉にも確かな質量があった。

 のし抱えるようなプレッシャーにボルギィが無言でハンマーを構える。戦う者としての本能が、目の前の騎士を否応なく敵と捉える。

「私はあなたに尋常なる決闘を――

 宣誓はここに――


「ぶっ殺すですッ!」


 ――なされなかった。

 ジュンタよりさらに後方より凄まじい勢いで飛んでくる影。
 物騒な一言と共に駆け抜けてきた彼女は、握っていたハルバートに回転をかけてボルギィめがけて投げ放つ。

 大気との摩擦音すら奏でる一撃に対し、ボルギィは構えから長い手を使ってハンマーを大きく振り抜いた。ともすれば、細いボルギィの身体が捻り折れるかと思うほどの勢いで半円を描くハンマーとハルバートの間で、激しい金属音と共に火花が飛び散る。

 驚嘆すべきはボルギィのその腕力。勢いと回転で底上げされたハルバートの一撃を、助走も全身の捻りもなく、ただ腕力のみでボルギィははじき返した。

 そこに生まれたのは決定的な隙。ハンマーを振り抜いた状態のため、さらけ出された横腹。リオンがいる距離ならば難なく詰め寄り、致命傷を負わせられるほど大きな隙だ。

 けれどリオンは動かなかった。はじき返されたハルバートを投擲したベリーローズが掴む音がするまで、リオンは微塵も動かなかった。

 ミシリ。と、歯を食いしばるような音がしたのは一体誰からか。

 リオンの戦意は決闘の邪魔をしたベリーローズへ。ベリーローズの凍えるような殺意はボルギィに。ボルギィだけは変わらずリオンを。

「ベリーローズさん、何のつもりです?」

「何のつもりも何も、異教徒は見つけ次第容赦なく慈悲なく処刑するのが当然のことです」

「…………」

 三竦みにも見て取れる三者の関係に変化をもたらしたのはボルギィが次に取った行動だった。

 理性的に状況の悪さを見て取ったボルギィが、逃走の構えを見せる。直後、リオンとベリーローズの取った行動は同じだった。

「逃がしません!」

「逃がしませんです!」

 ボルギィの動きを上回る速度で詰め寄るリオンとベリーローズ。リオンは足止めのため、ベリーローズは明確な意志をもって殺そうと詰め寄ったのは違うが、二人はこの場からボルギィを逃がさないために行動を同じくした。

 リオンの実力はジュンタも思い知っていて、ベリーローズの実力もほぼ同じとなれば、さすがに達人クラスを思わせる実力の一端を見せたボルギィとはいえ防戦は必死。

 そう、思えたのだが。

「任務、終了、だ。邪魔を、するな」

 何の防御の動きも見せずに顔のみをボルギィは二人に向けた。
 それだけの動作で、先程の再現のようにリオンとベリーローズの身体は大きく衝撃に吹き飛ばされる。

「ジュンタ!」

「わかってる!」

 サネアツの声を聞く前に、ジュンタもまた逃がさないためにボルギィへと肉薄していた。

 直線的に駆けた末弾き飛ばされた二人を見て、死角を狙うように不規則な動きで。

「……邪魔だ」

 けれども、彼の間合いに足を踏み入れた途端、まるでぬかるみに足を滑らせたように地面の感覚がなくなった。気が付けば痛みも衝撃もなく、ジュンタは後方の地面に強かに腰を打ち付けていた。

「来い……帰る、時間だ……」
 
 ボルギィは倒れた三人が起きあがる前に、空中の一点を見つめ出す。

 その視線が、空に待機していたワイバーンの影を捉えていたのだと、ボルギィの許へと三体のワイバーンが下りてきたのを見てジュンタは知った。

 ワイバーンたちはボルギィの身体を足で掴むと、奇声をあげながら空へと見事に揃った動きで飛び上がる。

 結局ジュンタたちが魔獣が消えた戦場で知ったのは、魔獣たちを軍に仕立て上げた相手が誰なのか、ということだった。

 ここは戦場。敵は魔獣。行うは聖戦。

 本当の戦争は今、このときよりこの戦場を支配し始める。


 

 

       ◇◆◇


 

 

『封印の地』でジュンタたちが戦いを繰り広げているだろう頃、クーもまた聖地ラグナアーツで慌ただしい時間を過ごしていた。

 祖父であるルドールの元で、戦闘には関わらない方面での労働に従事していたのである。戦いは戦場のみで起きているわけではない。そこから広がっていく他本面への影響に対処するのもまた、一つの戦争の形であった。

 とはいっても、此度の戦いは綿密に計画されての実行である。普通の戦争のように、相手国の工作に頭を悩ます必要もないので、そういった対処も迅速に終了した。

「あとは、ベアル教が何かしてこなければいいのだがな」

 フェリシィールの代わりに聖神教に携わる政務の全てを取り仕切っていたルドールは、使徒の判が必要な書類のみを積み上げて、自分だけで決定できる書類を片付けつつ言った。

「ご主人様、大丈夫でしょうか……」

 傍らで秘書のようなことをしながら手伝っていたクーは、ベアル教という名前に顔を曇らせる。

 そんな孫の姿を見て、美貌の老人は呆れた風に持っていた書類を置いた。

「その言葉。一日に何度使うつもりだ、クーヴェルシェン。儂らにできることは、主らが留守の間この聖地を守ること。信頼しているのだろう? ならば、信じて待ちなさい」

「はい」

 ついつい口にしてしまう言葉を指摘するルドールは、心底からフェリシィールを信頼しているのだろう。書類に羽ペンでサインしていく様子に一切の淀みは見られない。年の功はあるだろうが、こうなってみたい、という主従の在り方だ。

「おじいちゃん。ベアル教はこちらでも何か行動を起こすと思いますか?」

「可能性は高かろうな。ベアル教が『封印の地』とこちらを、ほぼ自由に行き来できるのは、まぁ間違いあるまい。主やズィール様が留守である今、何らかの行動に出てもおかしくはないな。クーヴェルシェン。もしものときには、お前にも手伝ってもらうぞ」

「もちろんです。ご主人様の留守中に好き勝手はさせません」

 うむ、と顔を綻ばせてルドールは頷き、会話の最中も動き続けていた手を止めた。

「よし、これでひとまず昨日の分は終わりだな。誰かに運んでもらうとするか」

「あ、私が行きますっ!」

 片づいてしまった書類を見て、クーはここで自分に手伝えることはもう何もないとわかった。正直、恥ずかしながら暇ができると良くないことを考えてしまうので、今はなんでもいいから手を動かしていたかった。

 とはいえ、世界の九割以上を信者とする聖神教本山への書類は、書類仕事が嫌いな人間では自殺しそうなほど多い。いかなクーといえど、易々と運べる量ではなかった。

 結局、壁のように立ちはだかる書類を前にして立ち尽くすクーを見て、ルドールは応援を呼んでしまった。

「失礼します」

 執務室へと入ってきたのは、クーもまた見知った女性。金髪碧眼のクールな印象のある女性だ。その耳はとんがっていて、自分と同じエルフであることを示している。

「あら、クーヴェルシェン。あなたもお手伝いをしていたのね」

「フローラさん」

 名をフローラリアレンス・リアーシラミリィといった彼女は、クーと同じ森名を抱くエルフであり、ルドールを師と仰いで魔法を学んだ、使徒フェリシィール・ティンク近衛騎士隊に属す女性である。

 彼女はルドールの前へと進み出ると、そこにある書類の山を抱える。彼女の手元から僅かに感じる魔力の波動。水の魔法を操る彼女は今、その細腕にとんでもない腕力を秘めていた。

「ルドール師。こちらを各部署へと運べばよろしいのですね?」

「ああ、よろしく頼む。儂は他の仕事があるでの。クーヴェルシェンと協力して運んでくれ」

「了解しました」

 ルドールは忙しそうに執務室を後にする。その場に残されたクーは、フローラリアレンスの半分ほどの書類をがんばって持ち上げると、見事なバランスで書類を持っている彼女の傍へと近付いた。

「それでは、クーヴェルシェン。ひとまず騎士堂の方へと運んでしまいましょう」

「はい、わかりました」

 どこかとっつきにくい印象があり、実際あまり人付き合いをしようとはせず、魔法の研究に没頭していたフローラリアレスであったが、魔法の師が自分の祖父ということもあって、クーとは比較的仲が良かった。というよりも、最近の彼女は前に比べてかなり丸くなった

 並んで執務室を後にして、礼拝殿から騎士堂を目指す。多くの聖殿騎士が『封印の地』へ赴いてなお、騎士堂には多くの騎士が在中している。書類は騎士堂に集められ、然るべき部署へと振り分けられるのだ。

「クーヴェルシェン。あなた、そんなに抱えてちゃんと前見えてる?」

「か、辛うじて、ですが」

 距離にしてみればさほどないのだが、抱えているものがものなので、歩くスピードは遅くなってしまう。フローラリアレンスが大量に運ぶので、焦ってたくさん持ちすぎてしまったよう。彼女が苦笑するように、クーの視界のほとんどは白い紙で埋まっていた。

「仕方がないわね。ほら、少し貸しなさい」

「あ、すみませんです」

 ふらふらと危なっかしい足取りのクーの手から、フローラリアレンスは三分の一ほどの書類を抜き取る。その間、自分の抱えていた書類は片手一本。とんでもないことである。もっととんでもないのは、抱えていた方の書類を、徐に抜き取った書類の上に乗せたことであるが。

 ぐらり、と大きく傾くフローラリアレンスの書類を見て、クーの方が慌てた。
 フローラリアレンス自身はまったく慌てることなく、少し重心を移動させて転倒を防ぐ。

「だ、大丈夫ですか? フローラさん」

「大丈夫よ、これくらい。さぁ、急ぎましょ」

 そのときフローラリアレンスが見せた笑顔は、以前の彼女からでは想像ができないくらい柔らかな笑顔であった。

 クーは歩みを再開させつつ、チラリ、と彼女の左手薬指に輝く指輪に視線を注いでしまう。それはフローラリアレンスが二ヶ月ほど前からつけている、婚約したことを証明するエンゲージリング。

 フローラリアレンスが変わったのは、夫であるジョッシュと出会った頃からだろう。

 その前まではとっつきにくかった彼女は、同じ近衛騎士隊に属していたジョッシュから果敢なアタックを受け続けていた。最初こそ、クーも愚痴を聞かされるくらいに迷惑していたようだが、いつしか悪い気持ちではなくなったらしく、最終的には結婚と相成った。

 きっと、その結果に一番驚いているのはフローラリアレンス自身に違いない。同時に、そんな自身の変化を喜んでいるとも、彼女は言っていた。

「そういえば、フローラさん。フローラさんは『封印の地』へは行かなかったんですね?」

「ええ。うちの近衛騎士隊は半分くらいがフェリシィール様に同行したわけだけど、私は理論派で実戦派の魔法使いじゃないし、ことがことだけに遠慮したの。まぁ、少しね。悩んではみたわ。ジョッシュの仇を討ちたいって気持ちはあったから」

「??」

 クーは最初、フローラリアレンスが口にした言葉の意味が理解できなかった。

「ジョッシュさんの仇、とは一体どういうことなのですか?」

 気が付けば、そんな疑問を口に出してしまっていた。

「ああ、そっか。あなたは知らなかったんだっけ」

 フローラリアレンスはほんの少しだけ困ったように眉根を寄せると、懐かしむように、寂しいように、けれど誇らしげな顔になって、

「ジョッシュね。死んじゃったの」

「え――?」

 クーの手から、バサバサと書類の束が滑り落ちて白亜の床へと散乱した。しかし、クーの意識はそちらにはなかった。

「ど、どういうことですか? ジョッシュさんが亡くなったって?! 私、そんなこと一言も……!」

「ごめんなさいね。ジョッシュが死んでしまったのはごく最近のことで、色々と忙しかったから教えることができなかったの」

「そ、んな……」

 夫が死んだというのに、フローラリアレンスは涙も見せず、言い淀むこともなく言い切ってみせる。

 それはきっと、彼女の中ではすでに答えが出ているからなのだろう。クーは以前聞いたことがある。フローラリアレンスがエルフで、ジョッシュが人間であるというのに、二人が結婚を決意したときに。

「そんな顔しないで、クーヴェルシェン。確かにあまりに早すぎる別れではあったけど、私も彼も結婚したときに覚悟していたの。彼は私を置いていってしまう。私は彼に置いて行かれるんだって。そうね、覚悟があったから大丈夫。私は彼が貫いたもののためにも、今がんばっていられる」

「フローラさん……」

「それよりも聞いたわよ、クーヴェルシェン。あなたにも好きな人ができたんですってね」

 彼女のいう好きな人が誰を指すのか、クーにはすぐにわかった。
 それは恋愛感情ではないけれど、大好きな人だったから、すぐに彼の笑顔が思い出される。

 クーがそのとき見せた顔は幸せそうなものだった――だからフローラリアレンスは、その左手薬指に愛の証をはめたまま、恋する女の顔で言った。

「幸せね。お互いに、好きな人がいて」

 本当に彼女は変わった――とても、綺麗になった。

 むずむずと、クーはふいに感じた痒みに身をよじる。

「どうかした?」

「いえ、気になされないでください。少し身体が痒くなっただけですから」

「そう? そういえば、ちょっと肌が赤いかもね。病気、というわけじゃないみたいだけど」

「ちょっとお風呂で身体を擦りすぎてしまったみたいです。その――

 フローラリアレンスの視線から自分の身体を隠すように、小さくしゃがみこんで床に散らばった書類を慌てて拾いつつ、クーはかさついた声で言った。

――身体が汚れていたので」

 


       ◇◆◇


 

 

 進軍してきた魔獣たちの掃討が終了してから、すでに半日が経過していた。

 早朝の奇襲でありながら、幸いにもこちら側の被害は少なかった。ちょうどタイミングよく外回りに出ていた第九師団が戻ってきたのと、第八師団の迅速な対応があったためだ。

 開かれた会議の最初にあった被害報告にしばし黙祷を捧げたのち、フェリシィールは集まった各師団の長らを見渡してから口を開いた。

「ここに集まった皆さんならば、今回の魔獣の行動の異常性にはすでに気付かれていると思います。今回の様子から予想するに、本来軍として動かない魔獣たちですが、今回だけは例外として軍として機能している可能性もあります」

「これはベアル教のメンバーの一人であるボルギィによるものと状況から推測される。もしくはドラゴンが理由か。ドラゴンの生態は未だ明らかになっていないが、過去の資料から読み解けば、『始祖姫』様の時代はドラゴンを王とした魔獣の軍との戦闘があったと伝えられている」

 フェリシィールと前もって相談を交わしていただろうズィールが言葉を継ぐ。彼の説明の意味は、重たいものとなって集まった面々の肩にのしかかる。

「今日で『封印の地』にやってきてから三日目になります。次に聖地へと道が繋がるまで残り半分。今日までに倒した魔獣の数は、おおおそ五千。残り九万五千の魔獣が軍を編成したら、現在でのわたくしたちの戦力では血みどろの争いになります」

「現在ドラゴンを有するベアル教がどれだけの数を集めたのかは定かではないが、聖地の地形の面積を同じくする『アーファリムの封印の地』全域に分布する魔獣全てを掌握したとは思えない。が、これは日数が経てば経つほど集まることだろう」

「よって、予定ではもしもの場合を考えて六日目に行われるはずだったベアルの城への攻勢を、一日繰り上げて五日目に行います。明日一日で準備を整え、一気に攻め込みます」

 交互に自分たちが考えた末下した決定を話していく使徒二柱。
 彼女たちが言っていることは、ドラゴンとの戦闘をも意味していた。

 会議に黙って参加していたジュンタの隣の席に座ったリオンへと、ズィールが視線を向ける。

「シストラバス家の騎士団には、ここに正式な戦闘への参加を要請したい。自分と一緒に後方を詰め、ドラゴンとの戦闘において時間稼ぎを担って欲しい」

「畏まりましたわ。その命、しかと承らせていただきます」

「念のためにもう一度いっておきますが、リオンさん。此度の戦いにおいては使徒ズィールがドラゴンの相手をします。あなたは何があろうと、『不死鳥聖典』の使用は行わないように」

 椅子から立って騎士の礼を取るリオンに、フェリシィールが厳命する。それはリオンですら僅かに怯ませるほどの本気がこめられていた。

「……そのご命令、しかとこの胸に刻みました。ご期待を裏切ることは致しません」

「では、よろしく頼む。第八師団、第九師団、第十師団は最前列で戦ってもらう。最も激しい戦闘が予想されるが、怯むことなく敵を断罪せよ」

『はっ!』

 席についていた第八師団長ベリーローズ、第九師団長フラベルスキー、第十師団長アベルが立ち上がり、見事な唱和で答えた。

 今回の会議もまた、使徒側で決まっていた決定を報告するだけの会議だったらしく、会議の流れはここで終了の様相へと移りつつあった。

 各師団長は自分たちの師団に下された任務について反芻し、副師団長と相談する様子も見受けられる。ジュンタは腰掛けたリオンの決意に溢れて横顔を見て、若干無茶しないか心配していた。

「最後に、ジュンタ・サクラ。貴公にしてもらうことだが」

「へ?」

 名指しでズィールに呼ばれ、ジュンタは素っ頓狂な声をあげてしまった。

 厳かな雰囲気で話していたズィールが、あからさまに眉を顰める。フェリシィールは困ったように頬へ手を当てて、リオンは『このお馬鹿!』と今にも怒鳴りそうな怒り顔。その他の面々からも、頭に猫を乗せているという男の失礼な態度に今にも飛びかかりそうだ。

 しかし、そんな周りの様子も気にならないくらいに、ジュンタにとってはこれからズィールがいうだろう命令の方が重要だった。てっきりリオンに着いていくものとばかり思っていたため、一体自分が何を言われるのかと唾を飲み込む。

「コホン。貴公には一つ重大な使命を帯びてもらおうと思っている」

 周りの注視が集まる仲、眉間から僅かに皺をとったズィールが話を再開させた。

「貴公にしかできない任務だ。必ずや成し遂げてもらおう」

「それは、一体どんな任務なんですか?」

「留守番だ」

 簡潔に申したズィールの命令の内容に、ジュンタは目を点にする。
 誰がどう見ても説明不足なので、助け船を出すようにフェリシィールが説明を継いだ。

「この前線基地は聖地に戻るための重要な拠点なので、留守にしておくわけにはいかないのです」

「自分はドラゴンとの戦闘、フェリシィールは戦線での指揮がある。よって、貴公がここに残るという選択肢しかない。ある程度の戦力は残していくとはいえ、主要な面々は最前線に行くからな」

「つまりは俺にここを守れ、と。そういうことですね?」

「そういうことだ」

 ジュンタとしては、その指示は意外なもの以外のなんでもなかった。指揮能力は皆無のため、前線基地に残る騎士たちの指揮を執る者も残るのだろうが、まさか自分が留守を任せられるとは。

「いや、そう予想外な話ではないぞ。ジュンタ」

 耳元で誰にも聞こえない小声で、これまで頭の上で猫の振りをしていたサネアツが囁いた。

 ジュンタはサネアツが話しているようには見えない、あたかも指示された内容に思案しているような顔で、その囁きに耳を澄ませた。

「何も敵は魔獣の軍勢のみではない。ベアル教もいる。魔獣の相手をしている内に、『狂賢者』が前線基地へと攻撃しないとは限らないからな。魔獣の侵攻ならば残した騎士で止められても、もしも、という可能性は否定できない。いざというときのために、一騎当千の戦力を残しておきたいのだろう」

 即ち、ドラゴンを神獣の姿とするサクラ・ジュンタという戦力を。

 ジュンタは白兵戦では熟練の騎士に劣るが、使徒であるために、その本質は神獣としての力。そして神獣としての力は、間違いなくこの面子の中でも最強だろう。

 ズィールを含めた、シストラバス家の精鋭が相手しなければならないような化け物と同等の力を持っているのだ。指揮能力は期待できなくても、不測の事態において、最終防衛ラインとして戦えはするはず。

「そうするように頼んだのは俺、か」

 ボソリと呟く。ズィールの提案を受諾したのは自分だ。こうやって戦力の一つとして活用されることには不満はない。

 ただ、ドラゴンへと変化することに対して、一つだけ不安は残っている。

「無理だと思うのなら断るべきだぞ、ジュンタ。呪いと歪みを受けている現状、ドラゴンに再びなるのは色々と困るのだろう? NOと言える男になるのだ」

 耳元に事情を唯一知る友からのアドバイスが入る。けれど……

「わかりました。留守は俺が預かります」

 はっきりと答えを返したジュンタに、ズィールが満足そうに、フェリシィールが少し不安そうな顔をとる。頭の上でペシペシと肉球の感触がした。これはあとで弁明しなければならないようだ。

「よろしい。それでは、以上をもって全懸案の討議を終える。何か質問はあるか?」

 フェリシィールに代わってズィールが周りを見回す。
 簡潔な決定事項を告げられた会議にあって、質問などそう出るものではない。フェリシィールとズィールには全幅の信頼を置いているようで、その言葉を疑うこともしないようだ。

「失礼ながら、一つだけ質問させていただいてもよろしかったでしょうか?」

 ただ、今回はさすがに疑念が尽きなかったのだろう。事情を知る者を除く総員の代表者として、使徒ズィール・シレ近衛騎士隊隊長のクレオメルンが手を挙げた。

「質問はなんだ? クレオメルン・シレ」

「はっ! ズィール聖猊下はたった今、ジュンタ・サクラに対して留守を預けると申されましたが、なぜ彼なのでしょうか? 僭越ながら、武術においても、策略においても、彼以上にふさわしい人物はいると思うのですが」

 はい、もっともな意見が出てきました。

 前々からクレオメルンとしては、ジュンタという正体不明の人間が親友であるクーの主で、リオンと仲が良くて、フェリシィールに気にかけられていることが不思議でならなかったのだろう。一瞥されたときの瞳は、もう不審者超えて異常者を見る目つきであった。

「うむ」

 ズィールは娘の質問を受けて、視線をフェリシィールに向けた。フェリシィールはジュンタに向ける。

「……まぁ、ここは仕方がないだろうな」

「だよな」

 小さなサネアツの言葉に同意して、ジュンタはフェリシィールに頷く。
 フェリシィールはズィールへと頷いて、最終的に彼女自身が口を開いた。

「これより話すことは諸事情により、ここにいる人たちだけの秘密にしていただきます。最重要機密事項になりますので、そうと心に決めた上で拝聴して下さい。よろしいですか? ここにいる彼、ジュンタ・サクラは――

 ジュンタは立ち上がって、眼鏡を外す。
 周りが怪訝な視線を投げかけてくる中、黒いカラーコンタクトレンズを外して、

――わたくしやズィールさんと同じく使徒の一柱。ドラゴンを神獣の姿にする使徒です」

 その、証である金色の瞳を晒した。

 ……とりあえず、クレオメルンの反応が楽しみではある。


 

 

「で、良かったのか?」

 好奇と疑惑から一転、崇敬の瞳を輝かされて見送られることになったジュンタは、会議のためのテントを後にしてすぐサネアツに話しかけられた。

 カラーコンタクトと眼鏡をつけ直したジュンタは、肩をすくめる。

「仕方がないだろ。ああでもいわなかったら、みんなの中にわだかまりが残る。クレオメルンがあとで土下座とかしそうだけど、大抵の相手が初対面だ。これといっても問題はないだろ」

「そちらのことではない。留守を預かる件だ」

「ああ、そっちか」

 あまりにもクレオメルンの蒼白な表情が印象的だったが、そういえば先程サネアツに弁明を要求されたような気がする。すっかり頭から消えていたよ。

「ズィールはジュンタにドラゴンとしての戦力を欲しているのだ。しかし今のジュンタはドラゴンにはなることは叶わない。満足に留守を守ることもできんだろう。ここは辞退しておいた方がよかったのではないか?」

「それなんだけどさ、大丈夫な気がするんだ」

 灰色の空を見上げ、何かを掴むように手を伸ばす。

 太陽を見なくなって三日。恋しく思う青空は瞼の裏に輝いている。数日前までは空の明るさなど思い浮かべることもできなかったというのに、頭に乗る親友のお陰で、心と身体がとても楽になった。口にはしないけど、とても感謝している。

「要は気持ちの持ちようなんだ。反転の呪いも、ドラゴンの狂いも、俺の心が弱ければ忍び寄ってくる。なら強く持てば、きっと大丈夫。もう一度くらいドラゴンになったところで、俺は魔竜になんてなりはしない」

『狂賢者』は言った。神獣の姿になれば歪みを加速させるだろう、と。

 けれども、神獣の肉体を持つ本人であるジュンタはこう思う。確かに自分一人ではその狂いに耐えきれなかったかもしれない。けれど、サネアツがその小さな身体で重圧を引き受けてくれた。なら、きっと耐えられるだろうと。

「先生が前に言ってたよ。俺はとても恵まれてるって。誰かを守りたいと思ったとき、守れる強さを手に入れられるって。……その通りだと思う。俺はとても恵まれている。リオンやクーっていう守りたい人ができたとき、俺は守るための剣を手に入れられた。二人が大切な聖地を守りたいっていう気持ちを守りたいって思った今、俺はまた――

 そう、それは強さ。サネアツという親友がくれた、それはサクラ・ジュンタの強さなのだ。

「手に入れられた。強くなれた。俺は、この手で今自分が立っている場所を守りたい」

「ジュンタ……ふっ、そこまで言われたらしょうがない。あくまでもジュンタにとって大切な人が大切だと思う場所だから守る、か」

「大切な居場所を失ったからこそわかる。失わないで済むならそっちの方がいい。リオンなんかは自分で守るとかいいそうだけど、こっそりその手助けをしてるのっては、少し格好良くないか?」

「キャー、ジュンタきゅん! 格好良い! そこに痺れる憧れるぅ――!」

 アホなことを抜かすことで認めてくれたサネアツに苦笑を返し、腕を降ろしてジュンタは歩き出す。

「それに、な。不思議と予感がしてるんだ」

 その最後に――サネアツにだけは隠さないでいいと思っているから、正直な予感を告げた。

 それはこの灰色の空の下、ずっと感じていたこと。ある種の運命ともいえる小さな小さな何か。

「ここに、この場所に、俺のところに――きっとスイカが来るだろう、って」

 


 

       ◇◆◇


 

 

 毒々しい魔力を咆哮として叫ぶ終わりの魔獣。

 彼の獣の足下には、夥しい数の鮮血の瞳が輝いている。その数、万はくだらない。
『ユニオンズ・ベル』から見下ろすスイカの目には、灰色の大地そのものが肉となって蠢いているように見えた。

 正直、常人ならばここに満ちた悪臭だけで卒倒し、その光景に青ざめることだろう。けれど、スイカは自分の中を流れる液体が滾り、口元に笑みが浮かぶのを堪えられなかった。

「ああ。たぶん、わたしはもう、どこか壊れてしまっているんだろうな」

 自分のことは自分が一番理解している。ずっと耐えてきたものが、ずっと信じてきたものが崩壊したあの瞬間から、アサギリ・スイカはどこか壊れてしまったのだろう。いや、もうずっと前から壊れていたのかも知れない。

 壊れている部分を必死に隠して、必死に人間の振りをしようとしていた。

 時の止まった肉体。水で補った仮初めの肉体。瞳が人ならざる魔性の金色に染まった自分など、所詮人間ではない畜生だというのに。

 きっと信じたかったのだろう。自分はまだ人間で、元の世界に戻れば人間として元の居場所に戻れて、ともすれば好きな人とも結ばれるだろう、と。

 ああ、でもそんなことは夢物語だった。この身はもうとうの昔に人ではなくなっていたのだ。

 だから、こんなにもドラゴンの咆哮に心が震え、戦の気配に血が滾り、愛しい人の気配に喉が渇くのだろう。

「ダ、メ……だ。もう少し、だけ、我慢しないと……」

 餓えた犬のように荒い息を吐きながら、スイカは胸元へと強く指を突き立てる。まるで爪で心臓を抉り、その鼓動を止めようとしているかのように。実際指は仮初めの肉体へと潜り込み、その先にある薄い胸に小さく傷跡を刻み込んだ。

 じくじくと痛む痛みだけが、今のスイカに人間の殻をかぶせられる唯一の手段。

「姉さん、ご飯ができたよ。一緒に食べよう」

 そしてたった一人の弟だけが、スイカに人としての心を取り戻させてくれた。

「ありがとう、ヒズミ」

 振り向いて、スイカは階段下から顔を出したヒズミに、なにもなかったように微笑んだ。

「それじゃあ、僕は先に行って並べておくよ。期待してていいからね。今日はデザートも作ったんだ」

「それは楽しみだ。お腹が、とっても空いてるから」

 自分のお腹を押さえ、唇を舐めながら、スイカはヒズミを見送る。

 ヒズミがいればまだスイカは人間でいられる。それは仮初めかもしれないけれど、それでもずっと続けてきたヒズミのお姉ちゃんでいられるのだ。

 けれど……そう、ヒズミは気付いてくれない。弟は知ってくれない。

「……どうして、誰もわたしの本当の気持ちに、気付いてくれないのだろう?」

 ふいに頭に過ぎったその疑問は、ずっと思わないようにと思ってきたもの。けれどあまりに喉がカワイテイタカラ、つい言葉として吐露してしまった。

「ヒズミもそうだった。母さんもそうだった。父さんもそうだった。おじいさまもそうだった。みんなもそうだった」

 一度口にすれば、心に溜まっていた膿は、癒えない傷口から溢れ出てくる。

「家族だったのに、気付いてくれなかった。気付いてくれてもよかったのに。わたしはみんなが思っているほど強くない。強がりで笑っているだけなのに、どうしてみんな、わたしをその笑顔で判断する。どうしてわたしが強いと誤解するんだ」

 ずっとずっと強い振りをしてきたスイカは、それでも自分の強がりを見抜いてくれる人を欲していた。隠したいと思っていたのに、気付いて欲しいとも思っていた。矛盾しているのはわかっているけど、一人くらい子供の強がりに気付いてくれてもいいじゃないか。

「いや、気付いてくれた人はいた。ジュンタ君だけが、わたしは普通の女の子だって気付いてくれた」

 溢れ出た膿は、スイカが人として生きてきた中で抱いた悩み。その膿は吐き出され、その代わりに愛という名の憎悪が入る。

「ジュンタ君。ジュンタ君。ジュンタ君」

 愛がこんなにも熱いものだとは知らなかった。
 愛がこんなにも恐いものだとは知りたくなかった。

「ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタ君ジュンタく、ん……」

 人として欠けていく部分を、スイカは必死に補完する。

 愛という名の憎悪をもって。
 憎悪をいう名の愛をもって。

「ああ。世界はこんなにも狂っている。
 ああ。わたしはこんなにも狂っている」

 アサギリ・スイカは、そう――――愛に狂っている。









 戻る / 進む

inserted by FC2 system