第八話  狂信(前編)


 

 聖殿騎士団は使徒を守る盾にして、敵を討ち貫く槍である。

 騎士とは主君に仕える者。聖殿騎士にとっての主君とは使徒。この世に降誕せし愛すべき天使。人の救い手であり導き手である聖猊下を主君と仰ぎ、その手足となることこそ、聖殿騎士の本懐である。

 彼ないし彼女が望みさえすれば、聖殿騎士の信仰心と忠誠心に一寸の曇りもない。
 眼前の敵がどれほど強大で醜悪であろうと、立ち向かう眼差しが逸らされることはない。

 灰色の大地の向こうにそびえ立つは、大地が隆起したかのような灰色の古城。聖神教に仇なすベアル教の本拠地たる『ユニオンズ・ベル』だ。

 見渡す限り何もない荒野にそびえ立つ古城を中心として、今聖殿騎士団の軍勢の前に立ち塞がったのは、醜悪なる魔獣の軍勢だった。

 灰色の大地を埋め尽くす血色の瞳。グロテスクな肉塊。
 ゴブリンがいた。ワームがいた。ガルムも、コカトリスも、オーガやワイバーンすらいる。今では絶滅したと言われる魔獣もそこにはいて、城を守るように隊列を組んでいた。

「面倒くさい光景だな、まったく」

 それは当初の予定に反して、まるで本当の戦争における戦いの様相であった。

 隊列を組む聖殿騎士団の軍勢と魔獣の軍勢。
 距離を開いて睨み合うその数こそ魔獣が優勢だが、実質的な規模はほぼ同じ。

 白銀の煌めきを放つ軍の最前列付近に陣取ったウィンフィールドは、愛用の短槍を肩に預けて、胡乱げな眼差しを前方に注いでいた。

 聖殿騎士として戦列に加わっているウィンフィールドは、自軍の異様な志気と敵の醜悪さに辟易していた。話が違う、と、そう声を大きくして言いたい気分だ。

「おいおい。敵は能なしの魔獣じゃなかったのかってんだ。だからこその少数精鋭だろうに。本当に勝てるのかねぇ」

「勝てるかではなく、勝つのです!」

 ぼやくウィンフィールドに叱咤を浴びせたのは、歩兵である第八師団ながら、師団長という役割から馬に騎乗したベリーローズであった。

 特注の鎧を身につけた彼女は、賭け試合のときとは違う真剣な眼差しで、筋骨隆々な軍馬の上から小隊長でしかないウィンフィールドを見下ろす。そこに込められた異様な熱意は、狂信者が放つ眼孔のそれ。

「仮にも小隊長たるあなたがそれでは下のものが付いてきません。ウィンフィールド・エンプリル。あなたは栄えある聖殿騎士の一員。我らが聖猊下の御ために、その命を賭して敵を打ち砕くのです!」

「はっ! 聖殿騎士として、全ては聖猊下の御ために!」

 ここで茶化そうものなら斬られかねない。たとえ個人的に親しい間だあったとしても――否、であるからこそ、ウィンフィールドはベリーローズがそうすると理解していたため、表情を改めて礼を取る。

「活躍に期待しますです」

 その手にハルバートを持ったまま、一瞥することなくそう言い残してベリーローズは隊列を整えるために移動を開始する。

 彼女の姿が見えなくなったところで、はぁ、とウィンフィールドは溜息を吐いた。

「危ない危ない。さすがは『暴投ロリータ』。視線が尋常じゃないねぇ」

「隊長、戦いの前に名誉の戦死なんて止めてくださいよ。絶対、痴話げんかで死亡だっていわれちゃいますしね」

「ば〜か。オレと師団長様々はそんな関係じゃねぇっての。ただ、聖殿騎士養成学校で少し仲が良かったってだけだ。こちとら小隊長。向こうは出世して師団長だ」

 後ろで笑っている自分の小隊の隊員を軽く睨め付けてから、ウィンフィールドは短槍をバトンのように回して手慰みにする。ベリーローズの前では命欲しさにああいったが、ウィンフィールドは聖殿騎士団の中では例外として敬虔な聖神教信者ではなかった。

 聖殿騎士を志したのだって生き抜くためだ。食い扶持を稼ぐために、聖殿騎士団の養成学校の入学試験を兼ねた武術大会に出場し、運良く合格ラインに引っかかったってだけ。

 ……思えば、ベリーローズとの奇妙な因縁もあのときから始まった。

 トーナメント方式で行われた武術大会において、参加していたベリーローズはまさに一騎当千の強さであった。対する強敵をバッタバッタとなぎ倒し、準優勝まで息継ぎなしのノンストップで駆け上った。

 準優勝においてベリーローズの相手となったのが、他でもないウィンフィールドだった。ただ勘違いして欲しくないのは、そのときのトーナメントの対戦表が著しくベリーローズがいた方に強者が偏っていただけで、ウィンフィールドが特別強かったわけではない。

 結論から先にいってしまえば、こうしてここに聖殿騎士としていられるのは、ウィンフィールドの要領と運が良かっただけという話。武術大会の準決勝戦、ウィンフィールドは準々決勝で負ったかすり傷をさも大傷だったと見せかけて棄権した。

『聖殿騎士を志す者が不戦敗とはなんですかぁ――! たとえ死んだとして戦うのです!』

 以後、なぜか優勝したのに怒るベリーローズから、ウィンフィールドは睨まれることになった。それは養成学校にいた頃から、今にいたるまで続いている。

「恋愛感情は一切なしの悪友めいた関係だ。そもそも、お前ら知ってるか? ベリーローズはめちゃめちゃ敬虔なる信者だぞ? 朝昼晩のお祈りは欠かさず、月終わりの月の曜日なんて一日中教会に引きこもるくらいだ」

「隊長はおかしな風にそう言いますけどね、聖殿騎士団なんですから、それが普通なんですよ」

 ケラケラと笑う隊員。自分もその聖殿騎士の一人だというのに、あくまで他人事のように話す。

「隊長がおかしいんです。食前の祈りだってしないんですから。俺らだってそれくらいは欠かさないってのに」

「面倒じゃないか。目の前に飯があったら奪い去るように食え、ってのがオレのこれまでの人生だったんでな。飯を前にして悠長にお祈りなんて考えられん」

 ただ、ウィンフィールドとて、隊員のいうことがもっともだということは理解していた。

 ベリーローズだけが熱心な信者というわけではない。隊列を見渡せば、そういった信仰心の塊のような人間を幾人も見つけることができる。それは高位の人間ほど割合は高い。つまり、使徒に近い立場ほどそうなのだ。

(使徒様々ってのは、そんなにすごいものなのかね)

 小隊長如きでは主である使徒を間近で見ることは叶わない。ウィンフィールドの記憶上使徒と一番近付いたのは、養成学校の卒業式の日に激励の言葉を壇上からもらったときだろう。首席として壇上近くにいたベリーローズが感極まって気絶したので、そのときのことはよく覚えている。

 確かに、遠目からでも金糸の使徒の美しい姿は瞳に焼き付いている。
 ウィンフィールドの小隊の隊員は、食い扶持稼ぎとか腕試しだとかいった理由で聖殿騎士に入った輩ばかりだが、そんな彼らも使徒には畏怖と崇敬を向けていた。

(少なくとも、命賭けようって気にはならないよな)

 それでも、ウィンフィールドにはベリーローズの気持ちがわからない。
 出会ってから今日に至るまで、彼女のような絶対の信仰を胸に懐いたことはない。

 なぜ理解できるのかという話だ。使徒を近くで見ただけでその日一日中発情したように息を荒げてその貴さを褒め称え、直接会話すれば三日三晩喜びで眠れないとか、普通考えてあり得ないだろう。

 それでも、そんな異常性癖とも呼べる狂信者どもが、多く聖殿騎士団内で割合を占める。使徒が死ねといえば喜んで死に、身体を差し出せと言えば泣いて喜び、使徒が何かおふれを出せば、それが家族を殺せというものでも笑って実行する。恐い恐い。ベアル教を異端の狂信者というが、ウィンフィールドからすれば五十歩百歩である。

「面倒くさい、面倒くさい。まだ人間相手の戦争の方が楽だろうよ。あっち向いてもこっち向いても、いきり立った馬鹿ばかり」

 この戦いは凄惨を極める。どれだけ使徒が尊くとも、それを信仰する者たちは決して敵を許しはしない。魔獣を切り裂き、ベアルの信徒をそれこそ虫ケラのように殺すことだろう。

 ここには光などない。戦争に輝きなどない。

 故に自分の命は自分で守る。たとえ何をしても。
 それこそウィンフィールドが獲得した、戦場の唯一絶対の真理。

「ベリーローズ。お前はオレを馬鹿というが……絶対に、長生きするのは馬鹿の方だぜ」

 使徒が何を望もうとも、この場においては正常極まりない狂信者共は、その槍で敵を殺し、自らを盾にして使徒の身を守るだろう。

 前進を高らかに告げた主は、そこのところわかっているのだろうか?
 今の開戦の合図で、ここで数多の血が流れることが決定したということが、わかっているのだろうか?

「よぅし、それじゃあ今回の戦いでの最初で最後の命令を下すぞ。お前ら、よ〜く聞け」

 わかっていようがわかっていないだろうが、やることに何も変わりはないわけであるが。

 聖殿騎士団・第八師団第一大隊第二小隊隊長ウィンフィールド・エンプリル。

「命令する。――死ぬなよ。以上!」

 憂いの瞳に怯えを乗せて、始まった戦いに槍を構えた。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 かなりの速度でまず一番にぶつかりあうのは、魔獣側は足の速いガルム。聖殿騎士団側は第九師団。

 騎馬隊がガルムの群へと駆け込み、その手に握った長槍によって瞬く間に血路を開いていく。鍛え上げられた軍馬は飛びかかってくるガルムを蹴散らし、その頭蓋を踏み砕いて戦場を駆け抜ける。

「決して歩みを止めるな! 我らは使徒の威光を知らしめる、白銀の風だ!」

 第九師団長フラベルスキーが馬上より声を張り上げる。それに追随する返答は、模範的なまでに揃っていた。揃って声をあげられなかった者はすでに落馬し、餓えた魔獣によって息絶えていた。

 いかにガルムが一対一では弱い魔獣といえど、相手が群で襲いかかってこれば、被害は多数味方に及ぶ。師団長クラスの実力者ともなればどのような攻撃でも対処できるが、第九師団全ての団員にそれは望むべくもない。

 されど、使徒の威光は後ろを向かず――

「我らが聖猊下の御ために――ッ!!」

 死した味方の亡骸は拾わず、疾走に淀みは生まれない。

 これぞ聖殿騎士団が誇る騎馬隊たる第九師団。一度走り出せば敵を全て踏みつぶすまで疾走を止めぬ、戦場全てに貴きとは誰かを知らしめる『神の旗』の存在意義である。

「第十師団、腐肉を押しとどめよ!」

『神の旗』が掲げられた道を走り抜けるのは、師団長アベル率いる第十師団。盾を持って最前列に立ち塞がり、隊列を守る『神の盾』。

「第八師団、敵を貫くです!」

 第十師団と同時に突撃に打って出るのは、ベリーローズ率いる第八師団。
 第九師団が駆け抜けていったことによって乱れた敵の隊の隙を見逃さず、小隊ごとに槍をもって突撃を図る。

 第八師団は最も団員数が多い。海岸に打ち寄せる波の如く、ガルムに引き続いて最前列に押し寄せた魔獣をその場に押しとどめる第十師団の盾の合間から、敵の眉間へと槍をえぐり出す様は、まさに『神の矛』たる第八師団の在り方にふさわしい。

 最前列にて第十師団が敵の攻撃を食い止め、第八師団が応戦し、第九師団が敵の隊列を崩していく。それぞれがやるべきことを迅速に成し遂げる様は、隊列は組んでいようと役割分担ができていない魔獣たちとは違う、まさに人の軍たる姿である。

「矢をつがえ――

 最前列が攻防を繰り広げる中、ついに歩みを止めずに敵の隊の中を駆けていた第九師団が敵軍を抜けた。彼らによって崩された魔獣たちは混乱し、その場に立ち尽くす。その隙を狙って、最前列より僅かに下がった聖殿騎士たちが空に向かって弓を構えた。

――放て!」

 曇天の如き空を覆い付す矢の群れ。

 いったん空へと駆け上った矢は、重力に引かれて魔獣たちの頭の上へと落ちていく。この『封印の地』であっても重力は変わらず働いているようで、鋭い鏃は脳天から魔獣たちを串刺しにした。

 矢は第二射、第三射と放たれる。矢を受けて敵軍の最前列付近の魔獣が倒れていく中、空いた空間を埋めるように後列にいた魔獣たちが前へ出る。しかし、埋められる距離は半分だけ。残り半分は、圧力が緩んだ隙を狙って盾を押し込んだ第十師団によって塞がれた。

 戦端が動いたことにより、再び第九師団の騎馬隊が戦場へと舞い戻る。

 馬上より振るわれる槍が敵の首を刎ね飛ばす。刎ね飛ばされた首が断末魔の声を最後に轟かせるのに合わせ、最前列で突き出された槍によって頭を、心臓を貫かれた魔獣たちからも最期の声はあげられた。

 瞬く間に緑の血が大地を染めていく中、無論、そこには赤い血も混じる。

 後方においても、すでに医療を司る『神の指』たる第五師団が目まぐるしく動いていた。治療魔法を扱える魔法使い、医術を会得した騎士たちが、前線から運ばれる患者たちの手当に入っている。

 白銀の甲冑で揃えた騎士団の中を、癒しを孕んだ緑や青の魔法光が照らしている。そこに輝く色の数だけ、そこには死と戦う騎士の姿があった。

 されど、輝く魔法光が示すのは癒しだけではない。

『『荘厳なる礼拝堂にて生まれし聖なる剣 断罪に糧はいらず 断罪に代償はなく』』

 最前列においては激しい戦いが行われていた。聖殿騎士団側優位で始まった戦いは現在、魔獣側から鈍足ながらも強い魔獣が戦列に到着したことで、僅かな混乱に陥っていた。

「オォオオオオオッ!」

 大地を踏みならす赤銅色の魔獣は、その手に持った棍棒を無造作に振るう。

 盾を持つガードナーが攻撃を凌ごうとするも、構えた盾ごと棍棒は騎士たちを吹き飛ばし、その踵で踏みつぶして行く。

 三メートルもある巨体が思い切り踏み出した足に踏みつぶされれば、身に纏った鎧など紙くずも同然。白い無垢なる輝きは内から爆発するように飛び散った肉片に濡れ、姿形すらわからぬ屑板に変貌した。

「このっ」

 隊員を殺された小隊長の一人が憤って、手に握った槍を背後から巨躯の魔獣に突き出した。怒りによって凄まじい勢いで突き出された槍は、しかし赤銅色の肌を貫くには至らない。わずかにその硬質な肉体に槍の先を食い込ませただけで、槍は止まる。

「オォオオオォオオオオオオッ!」

 耳のない、鼻と目と大きな牙をのぞかせる口を怒りに歪ませて、猛り狂った雄叫びと共に魔獣――赤銅色の鬼オーガ』は棍棒を背後へと振り抜く。

 陸の王者と畏怖されるオーガの巨腕は、人の身体など容易く打ち砕く。
 全身を強打された小隊長は、ぐにゃぐにゃになって地面に落ちたまま二度と動かなくなった。

「くっ!」

 彼の隊員だった騎士たちが、目の前にそびえる敵の凄まじさに後退る。
 数の差こそ脅威とされる魔獣の中、単身で並の騎士を超えるオーガの気迫に、飲み込まれてしまっていた。

 戦場においては、それこそが命取りになることを忘れて。

「ひ、ぃ、ぎぁっ!」

 後退った騎士の一人が、何の前触れもなく上から迫った棍棒に押しつぶされた。
 
 その場に生き残った騎士は、か細い声をあげて自分の周りを見渡す。
 そこには一体、二体、三体、四体……計五体ものオーガが、餓えた野獣の吐息を吐いて、殺意に赤い瞳を輝かせていた。

「ああ、神よ……」

 ここは戦場。敵は魔獣の群れ。常に任務で行うような魔獣討伐とは訳が違う。常は多くても三体程度しか徒党を組んでいないオーガも、ここには数え切れないほどいる。無論、オーガ以外の魔獣も。

 神へと祈りを捧げた騎士は、オーガを恐怖に引きつった顔で見上げており、足下への注意が散漫になっていた。それを本能で察知した地を這う魔獣は静かに忍び寄り、騎士の足下へと到達する。

 足下に感じた気味の悪さに、緩慢な動きで騎士は下を見る。そこで、彼の思考はもう正常な動きを望めなくなった。

「ひぃ、あああああ――ッ!」

 足下には虫がひしめき合っていた。たくさんの虫が。巨大な虫が。ギチギチと歯を鳴らして、喜色の声をあげていた。

 闇雲に槍を振るう騎士によって、一体、また一体とワームが切り裂かれていく。しかし、後から後からワームは現れ、その口を動かす。騎士が感じる恐怖は、足下から少しずつ喰われていくという被食者の恐怖だった。

 生まれて初めての恐怖に狂う騎士の手から、やがて誇りである槍がこぼれ落ちる。そのとき、ついに風前の灯火だった彼の命運は完全に尽きた。

 すでにどこから足で、どこからが身体なのか。否、どこまでが自分の身体で、どこからがワームなのかがわからなくなるほどに、肉を食まれていた。

 騎士にできる最後の抵抗といえば、逃避といえば、仲間割れすら起こしながら自分を喰らう魔獣たちから視線を逸らし、空を見上げることだけだった。彼は、これほどまでに陽光煌めく蒼い空を欲したことはなかった。

 そんな彼が今際の際に見たのは、救いの輝き。ある意味では弔いとも呼べる炎の輝き。

『『悪しきを滅ぼす天の剣 無垢なる光によって聖なる裁断を』』

 空へと吸い込まれていくのは、聖なる騎士たちが紡いだ祈りの言葉。その心に刻む詠唱という名の賛美歌。

 恐慌に陥っていた彼は気付く良しもなかったが、彼のいた場所からは、かなり前に退避するよう命令が下されていた。

 皆までいわずとも、退避する理由など一つしかない。大規模な殲滅が行われるからだ。現代においての戦争は千年前とは違う。剣と槍と弓だけが武器ではない。それと同じくらいの力を、人は『始祖姫』により与えられた。

 魔法系統・火の属性・儀式魔法――裁きの炎ジャッジメント

 魔法騎士が多く属する第三師団の団員によって構成された大規模な殲滅を引き起こす儀式魔法は、聖殿騎士団が多く使う神への祈りをそのまま詠唱と変えたもの。敬虔なる信者の多い聖殿騎士団においては、その威力は計り知れないものとなる。

 灰色の空を赤く染め上げ、強敵であるオーガが集まった箇所へと撃ち落とされた炎は、普通の武器では貫けないオーガを瞬く間に焼き尽くした。ワームも、倒れた騎士の亡骸も、等しく炎が舐め尽くしていく。敵を焼き尽くす炎は、『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルが用いた奇跡。同時に味方への弔いの聖火でもあった。

 溶け消える炎は、魔力を失ってゆっくりと消えていく。
 ここには燃え広がる可燃物はなく、灰色の荒野が広がるばかり。

 やがて何もなくなった大地の上を、聖殿騎士団の本隊が進んでいく。『ユニオンズ・ベル』目指して。

 しかしオーガが大規模な魔法でやられたといっても、それは敵のほんの一部分の話。敵の数はおおよそ五万と計測された。先の一撃で数百が消し飛んだといっても、まだまだ余力は十分にあった。

 魔獣は本能で生きるもの。策をもってあたれば恐くないが、まったく学習しないわけではない。しかも今回敵は隊列を組んでいるのだ。前方の魔獣がやられるのを見て、後方の魔獣は確かに学習していた。

 ほぼ無傷のまま突き進んでいた騎士団本隊へと、上空より炎の塊が幾つも落とされる。

 矢の群れでも射られたかのような炎の雪崩は、本隊にいた騎士たちを焼死させていく。

 すぐさま状況把握に動いた騎士たちは、空を見上げて苦虫を磨り潰したような顔をした。
 確かにオーガは強敵ではあるが、軍同士の戦いにおいてはあくまでの敵の隊を構成する一因に過ぎない。倒しにくい敵ではあったが、決して倒せない敵ではなかった。

 しかし――オーガと対をなす空の王者相手には、そうはいかない。

「上空に敵影あり!」

 上空より本隊へと強襲を仕掛けるのは、緑の巨影。
 腕と同化した翼を持つ、蜥蜴に似た魔獣。空の王者と畏怖されし『魔翼の魔獣ワイバーン』だ。

 空を飛ぶことができるというのは、戦いにおいて大きなアドバンテージとなる。地上から攻める魔獣の本隊とは別働隊として機能するワイバーンの群れは、好き勝手に飛び回り、口から炎を吐いていく。

 応対に出た聖殿騎士団も、矢と魔法を使って空を行く魔獣を落とそうとするも、高速で飛行するワイバーンにはなかなかあたらない。そうこうしている間にも被害はどんどん出ていく。上空へと意識を向ければ、足下を掬われるのが戦いの常だ。

 ワイバーンによってにわかに混乱し始めた隙を狙って、最前列の一部を突破した魔獣たちが攻め立てる。運悪く魔獣たちが押し寄せたのは、弓兵を多数抱える第七師団であった。

「総員、いったん下がれ! 下がって陣形を立て直せ!」

『神の弓』であり、遠距離からの大規模攻撃が強みの彼らだが、接近戦を仕掛けられれば、遠距離戦の陣形を取っていたために咄嗟の対応がきかない。師団長からの指示が行き届かないのだ。

 第七師団より後に控えていた第三師団も敵を駆逐しようと思うが、第七師団がそこにいるため下手な攻撃に出られない。結果的に、被害は第三師団にまでも及んだ。

 聖殿騎士団は第一から第五までが中・後衛を主に努め、第六師団から第十師団までが前線を担う。弓兵部隊である第七師団は中衛に下がることもあるが、他の師団は前線から離れることができない。咄嗟に味方の本陣へと救援に駆けつけることは叶わない。

 いや、もし叶ったとしても、前線の指揮をとる第六師団も、全体の指揮をとる第一師団もそれを許しはしなかっただろう。信じていた、とも言える。中衛において味方を守るのは、『神の鎧』を存在意義とする第四師団なのだから。

「第四師団! 同胞を守る守護の鎧よ! これ以上味方に損害を与えるな!」

 一方的にダメージを与えていると思っていたワイバーンは、しかし気が付けばその数を大きく減らしていた。

 第七師団及び第三師団が、遠距離から着実に敵を討ち貫いていったのだ。
 それは第四師団がそれぞれの師団の前に立ちはだかり、ワイバーンの相手を務めていたからこそ叶った攻勢だった。

 元より厳しい訓練に打ち勝ったものだけがなることを許される聖殿騎士だ。敵の攻撃による混乱が収まれば、迅速に敵は神の威光の下に討ち果たされる。

「聖殿騎士団。前進せよ」

 凄惨なる戦いにあっても眩く輝く金糸の使徒から進撃の声はかけられる。敵に怯え、その命に背く者は聖殿騎士ではない。

 主たる使徒がいる限り、決して聖殿騎士団は崩れない。
 絶対の志気に支えられた恐るべき白銀の輝きは、戦場で血を浴びながらも、色褪せることなく敵を打ち砕いていく。

 前へ。前へ。前へ。

 あらゆる全てを打ち崩す、絶対の正義を信じた使徒の守り手たちの前進は止まらない。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 次々に届けられる被害報告、損害率、敵の状況などを長い耳で聞き入れつつ、全軍の指揮系統でもある第一師団と、おのが近衛騎士隊に守られたフェリシィールは、形のよい眉を顰めていた。

 それは届けられる死者の数に悲しんでいるのではない。それは確かに悲しいが、戦場においてはまだ考えることではない。死者を悼むのは、全てが終わったあとでなければならないと、そうしなければさらに死者は増えるのだと、フェリシィールは経験上知っていた。

 今は冷静に戦場を支配する――そうと決めたフェリシィールの姿は、ぞっとするほどに美しい。

 いつもはたたえられた微笑が消え、穏やかな目元は鋭く光る。
 親しみやすい雰囲気はどこかへ消え、ただただ神獣としての人とは違う圧倒感だけが、後光のように渦巻いていた。

(……おかしい。どうしてこんなにも順調なのでしょうか)

 白毛が美しい愛馬の上、冷酷を自分に課すフェリシィールだったが、傍目から見れば、それは畏怖と忠誠を集める姿に他ならない。今のフェリシィールは、そこにいるだけで全軍を掌握するカリスマを纏っていた。

(予定よりもずっと死者の数も負傷者の数も少ない)

 それをフェリシィール自身も知っていたから、下手なことは口にしない。自分の言葉がこの場においては絶対の絶対になることはわかっていた。自分の命令によって何千もの死者が出てしまうことも。

 慎重にもなる。しかし慎重になりすぎてもいけない。
 筋道立てて問題点を整理し、出すべき指示を検討する。

 そう。問題点は一つしかなかった。かねがね順調に魔獣を蹴散らし、進軍できている今、問題点は敵側に最強の魔獣の姿がないことにある。

(ドラゴンが姿を現していない。そこにベアルの城はあるというのに、ドラゴンの姿がない)

 情報を前もって仕入れておいた最強の敵の姿が、この戦場には見つけられなかった。
 一週間この『封印の地』に潜んでいた騎士隊の報告によれば、ここには以前ジュンタとリオンが戦った堕天使の翼を持つドラゴンがいるはずだった。

 ジョッシュの報告が間違いだった? 否。おのが命を費やしてまで果たした報告が虚偽でも間違いでもあるわけがない。

 であるなら、この状況が示すのは一つ……

「伝令を。後衛の使徒ズィールとシストラバス家の騎士隊へ」

「はっ!」

 静かに指示を投げかければ、すぐさま騎士の一人が進み出てくる。俊足を誇る騎士だろう。

「恐らく、ドラゴンはどこかのタイミングで奇襲を仕掛けてくることでしょう。前方に戦力を集中させている今、後方から攻撃されれば大きな被害が出ます。よって、使徒ズィールたちにはその場でそのまま待機するようにと伝えて下さい」

「了解しました」

 頷くが早いが、身を翻した騎士は用意していた馬に飛び乗り、本体の後方向かって走っていった。

 フェリシィールは顎に指を添えたまま、じっと空を見上げる。

 実際に戦いが繰り広げられている前方一帯のみならず、この付近全体に騎士団を配置して状況収集にあたらせている。しかし、どこからもドラゴン発見の報告はない。ならば、人の眼が届かぬ上空に敵はあろう。遙かな灰色の空を泳がれては、さすがに発見しようがない。

(もし仮に前方にドラゴンが現れたとしても、ある程度の足止めは可能。ズィールさんたちを呼び寄せる時間くらいは余裕で稼げますか。その場合、何人死にましょう)

 後方にズィールを置いておくということは、後方を警戒するのと同時に、前方からドラゴンが襲ってきた場合、前方にいる多くの命を観念するということ。千の被害のために百を切り捨てること。それが指揮官の役目であるのが、こんなにも辛い。

 使徒はこんなにも簡単に人の命を左右することができる。指先一本、声一つで、何万もの人間を殺すことができる。

 戦場は、やはり嫌いだ。たとえ神意を守るためとはいえ、人の死は悲しい。

 だから――今はまだ、悲しみに泣き伏せることはできない。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 すでにベアルの城を目指した聖殿騎士団は戦いを始めているだろう。それを思えば、こうして静かな場所で食事をしていることに戸惑いを覚えないことはない。

 ジュンタは用意された果物を丸のまま囓りながら、テントの向こうに広がる空の下の光景に思いを馳せる。先日見た戦場の姿が、きっと拡大してそこには広がっているはず。

「心配ですか? リオン様が」

 師団長は全員いなくなったため、がらんとしていた作戦本部は、半ば留守を預かるジュンタの居室のような感じとなっていた。先程食事を届けに来てくれた人が食器を持ち帰れば、そこにはジュンタともう一人。

「そうじゃないさ。クレオメルン」

 使徒ズィール・シレ近衛騎士隊騎士隊長クレオメルン・シレしかいなかった。

 テントの中を振り返ったジュンタは、テントの隅で直立するクレオメルンに、今日何度目かの同じ言葉をかける。

「で、そろそろ決意してくれたか? いい加減、そこで突っ立ってられると困るんだけど」

「目障りですか?」

「そういうわけじゃないけど……」

 酷く真剣な顔を見せるクレオメルンは、忌憚なく言わせていただければ、酷く目障りだった。見目麗しい彼女ではあるが、食事中も無言で背後に立っていられたら、そりゃ困るってものである。

「せめて、一緒に食事を取っても良かったんじゃないか? 前に旅行中、一緒に食べたみたいに」

「あちらの方がおかしかったのです。使徒様と同じ食卓につくことが許されるのは、本来同じ使徒様のみ。巫女とその使徒様の家族は例外として許されるとしても、一近衛騎士隊隊長が同席することなど許されません」

「融通が利かない奴だなぁ」

「ズィール聖猊下からの命令でもあります。どうぞご容赦を」

 完璧なまでの真面目さを発揮するクレオメルンに、ジュンタはその辺りにあった椅子に腰掛けつつ、辟易とした顔をした。

 本来戦場に赴いたズィールと共に戦場へと行っているはずのクレオメルンは、しかしこの場に残っている。他の騎士隊のメンバーが全員出払っている中、隊長の彼女一人が。

 昨日謝罪を行ったあと気絶したクレオメルンは、そのまま夜まで眠りこけた。前日の夜やはり徹夜していたらしい。その理由は自分が使徒と名乗ったこと以外にも、ズィールに告げられた話にもあったということ。

『貴公はここに残り、ジュンタ・サクラの補佐につけ。知らなかったとはいえ、使徒である彼に無礼な言動を多くしたのだ。その償いも含め、全力をもって彼を補佐しろ』

 そんなことを尊敬する父にして主であるズィールにいわれてしまえば、クレオメルンとしては断れるはずがなかった。

 かくして、戦力外通知をされたとクレオメルンの精神力はどん底に落ち込み、昨日の失態に繋がったわけだが……別にズィールとしては、そんなつもりはなかったとジュンタは思う。

「別にお前の父親は、俺に対してそんな風に接しろって言いたかったわけじゃないと思うがな」

 父親、という単語にぴくんと反応するクレオメルン。不躾な瞳で見ないためにも、伏せめがちだった視線が左右に泳ぐ。一夜経った今でも、未だに気にしているらしい。

「むしろ娘であるお前のことを心配してここに残したとかじゃないのか? わかりにくそうな感じだけど、あれはあれで父親としてクレオメルンのことを心配してそうだし」

「いや、それはない」

 反論は嫌に自信たっぷりだった。

「い、いえ、それはありません、でした。申し訳ありません!」

 訂正は至極慌てた様子で行われた。

 ここで『そんなに使いにくいなら今まで通りでいいのに』とは言わない。ジュンタも学習している。そんなことをいえば、再び答えのでない押し問答になることは明白だ。ここはあくまでも気にしてない顔をしつつ、話の先を促すしかない。

「どうしてそう思うんだ? 俺の補佐をしろっていわれただけで、別に他に何か言われたわけじゃないんだろ?」

「そうでもありません。他にも、前線基地に残る騎士たちの指揮系統を纏め上げろとか、もしものときは騎士たちを率いて指揮をとれとか、兵糧の備蓄や城壁の状態、一時間ごとに送られる戦列の状況などを把握しておけなどなどの言葉をいただきました」

「それって、本来やるべき俺がダメだから代わりを務めろってことだよな? 戦力外通知とは違う気がするんだけど」

 指揮も調査もできないことはわかっているが、そこまであからさまにいわれるとちょっぴりむかつく。これでも午前中は自分にできることはないかと右往左往していたのだ。結局なかったけど。

「ズィール聖猊下は、決して公私を混同したりはしません」

 微妙な顔色をするジュンタに対し薄く笑うクレオメルンは、なおも自信たっぷりだった。

「私は前回、コム・オーケンリッターとの戦いで大きなダメージを負いました。それは今日に至るまで完全には癒えていません。そして恥ずかしながら、私は近衛騎士隊の中で一番若く、一番弱い。私は今回、ただの足手纏いになりかね無かったのです」

「いや、そこを自信たっぷりにいわれても返答に困るんだけど」

「ですよねぇ〜」

 誇らしげな笑みから一転、自虐的な笑みを浮かべるクレオメルン。
 視線は足下を這い、まるで自分はそこにいる底辺な人間だと蔑むような瞳をしている。

「隊長でありながら、あんなことを宣言しておきながら、足手纏いだと置いていかれた近衛騎士隊隊長。しかも使徒様相手に暴言を吐いた聖殿騎士……最低。役立たず。底辺人間。私が生きてる価値ってあるのかなぁ……?」

 ウフフフフと乾いた笑い声を断続的にあげるクレオメルンは、ハキハキとしたいつもの様子などどこにもない。まさにいられると困るタイプの人間だった。クーの最大ネガティブにも匹敵するくらいのネガティブオーラである。

 正直近付きたくないが、それでもクレオメルンは自分の傍からは離れないだろうから、ジュンタは必死にフォローを入れた。

「ほ、ほら、そんな落ち込んでたってしょうがないだろ。ズィールさんの思惑がどうであれ、今の自分にできる精一杯をやるしかないんじゃないか? そうやって今自分にできる精一杯を積み重ねていけば、いつか誰だって、何だって見返してやれるはずさ」

「ジュンタ……聖猊下」

 視線をあげるクレオメルンは、感極まったように瞳を潤ませた。

「私は初めてあなたが、使徒様であると認識しました。なんてお優しい。こんな、こんな私に……!」

 その台詞自体が不敬に該当することは指摘しない。ジュンタは空気の読める人間である。

 クレオメルンは咄嗟のフォローでしかなかった言葉を重く受け止め、噛み締めるように何度も呟く。こちらに寄せられる視線にはどことなく尊敬が混じり……いやぁ、弱っている状態の人間に優しい言葉は麻薬なんだなぁ、と思う今日この頃です。

「御身のいうとおりだ。確かに今の私は弱いかも知れない。役立たずかも知れない。ダメな人間かも知れない。死んだ方が世のため人のためになるゴミ虫かも知れない」

「誰もそこまでは言ってないけどな」

「けれども、それでも努力することはできる。努力する者に、きっと神様は微笑んでくれる。汚名を返上し、犯した罪には贖罪をもってあたり、必ずやズィール聖猊下に頼られる近衛騎士隊隊長に返り咲……なってみせる!」

 最後の最後で返り咲くではなくなってやると訂正した辺り、彼女が自分の補佐をやるのは前々から決まっていたことっぽい。それをきっとズィールは前日まで言うことができなかったのだ。せめてフォローぐらい入れておけという話である。

 こちらの言葉を華麗にスルーし、拳を握って名誉挽回に燃えるクレオメルンを見て、ようやく元気になったかとジュンタは一安心し、

「まずはこの任務を完璧に成し遂げることでズィール聖猊下からの信頼を回復する。よしっ、ではジュンタ聖猊下。私に何なりとご命令を!」

 結局、何も問題は解決していないことに気が付いた。というか、こちらを使徒として明確に意識された分、悪化したといってもいい。

「さぁ、今までかけてしまった蛮行に対する罰をお与え下さい。切腹を禁ずるというのなら、それ相応の罰を! このクレオメルン・シレ。どのような罰でも喜んで承りましょう!」

 ズザーと滑るように椅子の隣に立て膝をついたクレオメルンが、飼い主に遊んで欲しいと懇願する犬のような眼差しで見つめてくる。ど、どうしよう?

「よしっ、それじゃあこういうのはどうだ。俺に前みたいに接する、ってのは」

「無理です。他のでお願いします」

「…………どのような罰でも喜んで承るんじゃなかったのかねぇ……」

 どうして騎士って奴は、矛盾しているはずの言葉を自分で納得することにこうも長けているのか。キラキラと輝く瞳を向けてくるクレオメルンは、今自分がかなり失礼なことを言ったことに全然気付いてない。

「他のって言われてもな。俺としてはクレオメルンに前みたいに接してくれればそれでいいんだけど。俺は使徒ってばれたからといって、態度とかを変えられるのは嫌なんだ」

 なんだかむかついたので、ジュンタは再度同じことを口にした。今度は本気で懇願するように。

 これにはクレオメルンは困ったように眉根を寄せる。

「お気持ちはお察します。けれども、私は一介の聖殿騎士。使徒様相手に対等になることは叶いません」

「でも、お前は使徒ズィール・シレの娘。『聖君』って呼ばれる存在だ。立場としては巫女と同等って言われてるだろ?」

「言われているだけです。私は確かに『聖君』という立場にあります。けれども、一度だって自分が巫女と同等と認識したことはありません。私の周りにいる巫女はとても……そう、とても尊敬できる方ばかりでしたから」

 一瞬言葉が詰まったのは、ズィールの元・巫女にして師であったオーケンリッターを思い出してのことだろう。ジュンタにとっては敵であるという認識しかない彼も、クレオメルンにとっては未だ尊敬する人なのか。

「この身体には偉大なる血が流れています。それは私の誇りとするもの。故に、私は自分が若輩者だと認識しています。使徒様も、巫女も、等しく敬愛し、最大の礼節をもって接する相手であることには変わりありません」

「なるほど、ね」

 さしものジュンタも、クレオメルンのこの断言には諦めるしかないのかと思った。

 彼女と同じく騎士であるリオンは、自分が使徒と知っても変わらぬ態度で接してくれた。それはそこに他の要素も絡んでいたからなのだろう。もしも自分がリオンに告白しておらず、彼女が自分に特別な感情を抱いていなかったら、今のクレオメルンのような態度になっていた可能性が高い。

 ジュンタはリオンという少女がどれほど頑なか知っていた。
 クレオメルンもまたそうだとしたら、これ以上揺り動かすことはできないのか。

 結局、忌諱していたように、敬語で話されることを受け入れるしかないのか……内心で溜息を吐いたジュンタは、きっと意味無いだろうなぁと思いつつ、クレオメルンに反論した。

「じゃあ、クレオメルンはクー相手にも敬語で話して、礼節をもって接するのか? 親友なんだろ?」

「………………クー……?」

 最初、クレオメルンはどうしてクーの名前がここで出てくるのかわからないようだった。そういえば、自分が使徒であることは伝えたが、誰もクーが巫女であることは話していないような気がする。『封印の地』にクーは来ていないし。

 ただ、クーがジュンタのことを主と呼んで慕っているのはクレオメルンとて知っており、それが意味することを察するのはとても簡単だったのだろう。さっきまであんなにも淀みなく揺るぎなかった姿が、酷く狼狽したものへと早変わりした。

「ま、まさか、御身が使徒であるということは――

「クーが俺の巫女ってことになるな」

「そ、そんなっ!」

 ものすごくショックを受けたクレオメルンは、立ち膝から両手をつくポーズへと移行する。

「そ、そうだったのか。道理でクーがいきなりどこの誰とも知れぬ相手をご主人様と呼び慕うわけだ。自分の知らない間に、クーは自分よりも上の立場になっていたのだな。ようやく愛称をさん付けでも呼んでもらえるようになったというのに、今度は私がクーを様付けで呼ばないといけないのか……」

「あ〜。それは頼むから無しにして欲しい。俺のことを聖猊下呼ぶのはこの際いい。けど、クーを様付けで呼ぶのだけは止めてやって欲しい。それはクーをとても悲しませるから」

 クーは自分に自信がなくて、巫女になったあとでもクレオメルンのことを様付けで呼んでいた。けれど、クレオメルンが親友であると認識して、今ようやくクレオさんと呼べるようになったのだ。なのに、それをクレオメルンの方から否定するのは絶対にダメだ。

「俺のことはいい。俺に引け目があるなら、その全部と引き替えにして、クーのことはこれまで通りにしてやってくれ。頼む、クレオメルン」

 椅子から降り、クレオメルンと視線を合わせてそう言えば、彼女はとても驚いた様子で目を見開いた。

 そのとき、クレオメルンの中では長い葛藤があって、そして葛藤の末に答えは出たのだろう。

「クレオ、と」

 再び立て膝をついたクレオメルンは澄んだブルーの瞳を穏やかに細め、

「どうか、クレオと呼んでください。クーにはそう呼んでもらっているのに、彼女の主であるあなたがクレオメルンなんて呼んだら、それこそクーはきっと言い辛いと思いますから」

「それじゃあ」

「ええ。私も、親友には今まで通りでいたい。いて欲しいと思います。あなたにも、前と同じとはいいませんが、あまり敬った態度では接しません。それでよろしかったでしょうか?」

「ああ。十分だ。ありがとう、クレオ」

 立ち上がったジュンタは、譲歩してくれたクレオメルン――いや、クレオに手を差し出す。
 クレオはその手をとってゆっくりと立ち上がる。その顔には、柔らかな笑顔が浮かんでいた。

「それでは、ジュンタ様。こちらの問題が片づいたところで――どうぞ、私に罰をお与え下さい」

「………………今、絶対に爽やかに話が終わるとこだったよな?」

「そういうわけにはいきません。ささ、何でもご自由におっしゃられてください。クーは絶対に私に対して罰を与えることなどできませんから、彼女の主であるあなたがその分も足してどうぞ」

 微笑みで脅迫するとは、レベルが上がったなクレオ。
 愛称で呼ぶことによって親しみが上がった臨時補佐からの催促に、ジュンタは顔を引きつらせて後退る。頭をフル回転させて、どうにかいい誤魔化しの方法を考える。

 ここは、仕方ない。多少これからの時間を居心地悪くすることになろうとも、百パーセント断れないこの状況をなんとかしなければ。

「わかった。そこまでいうなら、ものすごく辛い罰を与えてやる」

「本当ですか?」

 辛い罰をもらうというのに喜びの声をあげるクレオ。
 椅子に腰かけて足を組んだジュンタは、努めて邪悪極まりない笑顔を作った。

「喜んでいられるのも今の内だ。お前はこれから自分の発言に、俺の補佐につけといったズィール・シレを恨むことになる。それほどに辛い罰だ。……止めるのなら今の内だぞ?」

 ゴクリと息を飲む音が聞こえた。それでも、クレオは首を横には振らない。

「全ては覚悟の上です。どのようなことでも、謹んで」

「……もう泣いても遅い。愚かな選択をしたな。クレオ」

 ここで諦めてくれなかったのだからしょうがないと、ジュンタは内心心底に残念だと思いつつ、しかし表面上はより一層邪悪な表情を作る。それは人間として最低な部類の人間が好んで浮かべるサディストの表情。

 そう、ジュンタが考えついたそれは、まさにサディストの考え。これを実行させようものなら、クレオはさぞやいい声で鳴いてくれるだろう。

「それじゃあ、命令だ。クレオメルン・シレ。お前は今から――

「這い蹲って俺の足でも舐めるがいいさ。フハハハハ!」

「謹んで拝命致します…………え?」

 クレオのきょとんとした顔。うん、想像通り。

 そう、ジュンタは組んだ足を彼女に舐めさせるというサディスト極まりない考えを思いついた……わけない。自分は人間として最低な男ではない。

「あ、足を、ななな、舐める……!?」

 立ったまま絶句するクレオ。ジュンタはギギギギギと首を後ろに向け、椅子を支える足を見た。自分の声音をあそこまで真似できる奴など、ジュンタは一人しか知らない。

(サネアツ!)

 そこには案の定、サムズアップする子猫の姿があった。その顔は『言いにくそうだったから俺が言ってやったぞ』という迷惑極まりない邪笑が浮かんでいた。ついでに『どう言い繕うのかわくわく』という期待の眼差しもあった。

「そ、そのようなご命令、を……足を舐める、だなんて……」

 怨嗟と苦悩が混ざり合った呟きを耳に捉え、ジュンタは前を振り返る。
 そこにはどこをどう見ても好感度急低下というか、ゴミ屑でも見るかのような蔑みの視線があった。

「あなたにそのような趣味嗜好があったなんて……多少しか思って、いませんでした」

「ま、待て! 誤解するな! 今のは俺の――

「ジャスティスさ!」

 クレオの視線が蔑みを超えて同情に変わった。
 ジュンタは神速の抜刀でサネアツをテントの外へと吹っ飛ばした。

「はぁ、はぁ、はぁ」

「こ、子猫を苛める行為に息を荒くしているなんて……ご、ご冗談ではないのですね」

 諸悪の根元を滅ぼしたところで、芽生えてしまったものは費えないことをジュンタは知った。

 荒い息を整えることができた頃には――クレオは諦めに似た決意を抱いて、足下にしゃがみこんでいた。

「く、クレオメルンさん? あなたは何をしようと?」

「一度約束したことを違えては騎士を名乗れません。もう、これ以上失態を重ねるわけにはいかないのです。そう、私はできる。私は『聖君』クレオメルン・シレ。偉大なる血を継ぐ、継ぐ、継ぐ……私が、足を舐める、なんて……」

「待て! 本気でやろうとするな! あれは俺が言ったんじゃなくて、ああもうっ、俺が本当に言いたかったのは三回回ってワンと鳴け、と」

 ジュンタが提案しようとしたのは、そんな恥ずかしいけどどこかお茶目でも許されるギリギリのラインを攻める選択肢だった。それならクレオにもいい罰になるものだと、そう思ったのだ。

「あ、足を舐めた上で三回回ってワン……あなたは悪魔か!? はっ、まさかクーにも毎日こんなことをっ!?」

 なのに一匹の悪魔の所為で、もはやクレオの中のサクラ・ジュンタ株は大暴落である。もう彼女の中では、偉大なる使徒の一柱様々は毎夜の如く従順な少女にいたいけな真似をする鬼畜男になっていることだろう。

 クレオには嫌われる運命なのかとジュンタは滂沱の涙を心の中で流す。
 その間にも、クレオは舌を小さく出して、そろそろと足先へと伸ばしていた。

「わ、私はやると約束した。反故にはしません。ですから、どうかクーにはこれ以上何もしないでください! クーの優しさを、これ以上踏みにじらないでください!」

 クレオのクーに対する優しさが、今はこんなにも辛い。

 ジュンタは顔を真っ赤にして悲壮な決意にプルプル震えるクレオの手から、ガシリと指が食い込むほどに掴まれた足をなんとか引き抜こうと四苦八苦するのであった。


 ……ちなみに、そのあと誤解が解けるまでにかかった時間は三十分を超えました。


「あ〜、危なかった。人としていけない道に堕ちるところだったよ」

「わ、私は悪くはありませんよね?」

 額にかいた脂汗を拭ったジュンタは、精根尽き果てた顔で椅子に座っていた。その際足はぴっちりと閉じて、間違ってもクレオの前に足先を差し出すような真似はしない。反省を示すために床の上で正座するクレオの眼差しは、まだ若干の疑惑に満ちていた。

「クレオは悪くないけど、でも、だからといって本当に言われたことをほいほい実行しようとするのはどうかと思うぞ? もし俺が本当に最低な男で、たとえば抱かせろって言ったらどうするつもりだったんだよ?」

 あんな命令なのに実直に行動に移そうとしたクレオを本気で心配して、ジュンタはそう訊いた。

 訊いてから、またこれ疑惑を深めるのではと思って撤回しようとしたのだが、

「そう命令されれば、この身を差し出すだけです」

 予想の斜め上を行く真剣な返答をされ、言葉を失った。

「あなたは何か誤解をされている。確かに、先程の命令には、さすがに私も屈辱感があります。だからすぐに実行に移せませんでした。けれど、私は本気でやり遂げるつもりでした」

「それが、抱かせろっていう命令だったとしても、か?」

 クレオは粛々と首を縦に振った。

「是非もありません。聖殿騎士にとって、いえ、聖神教の信者にとって使徒様のご命令は絶対遵守の神聖なるもの。いかなる命令であったとしても、それを実行に移すときに感じるのは喜びのみ。事実、過去の使徒様に身体を望まれた信者の中には、行為の最中に感極まって亡くなった者もいるというくらいですから」

「それは……なんていうか、色々と間違ってる気がするんだけど」

「間違ってなどいないのです。それが使徒というものなのですから。
 私の中に、今あなたに対する怒りも悲しみも何もありません。あるとすれば、それはすぐにご命令を実行に移せなかった自分への不甲斐なさにです。ですから……」

「ちょっ、何鎧を脱ごうとしてるんだよ!?」

 クレオは着ていた鎧の留め具に手をかけたまま、首を傾げる。

「私の身体がお望みならば、そうと正直におっしゃってくだされば良いのです。このように回りくどい真似をされずとも。
 生憎と、騎士として鍛え続けた私の身体は女性としての魅力にいささか以上に欠けていますが、そこは精一杯奉仕することでどうかご容赦を」

「いやいや、待とう。ちょっと待とう。別にクレオは女性として決して魅力がないわけじゃないというか、え? えっ? どこまでが本気でどこまでが冗談って、つぉ!」

 にじり寄ってくるクレオから逃げるために椅子の上で後退ったジュンタは、そのまま椅子を倒してしまい、後頭部を強打する。

 目の前がチカチカするほどの一撃を受けて、涙目で身体を起こすジュンタが次にクレオの姿を見たとき、そこには完璧に鎧等を纏ったまま笑う一人の騎士の姿があった。

「そこまで嫌がられたなら仕方がありませんので、止めさせていただきますね。使徒ジュンタ・サクラ聖猊下」

 にこりと微笑まれてしまっては、ジュンタとしては何も言えない。
 思うのは、譲歩して接してくれというお願いを口にしてしまったことだろうか。

 もうすでに、クレオはこちらを使徒と認識した上でからかう術を会得してしまったらしい。使徒として完全に敬われていたのはほんの僅かな時間だったか。

 でも……

「留守を守る間、よろしく頼むな。クレオ」

「はい、ジュンタ様。この槍にかけて」

 それはジュンタが望んだ関係に近い、喜ばしいクレオメルン・シレの変化であった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 聖神教の前線基地の近辺。哨戒を行っている騎士の索敵範囲ギリギリの場所に、その漆黒の影は降り立った。

「ここでいい。降ろしてくれ」

 見上げるほどの巨体は、その背に乗っていた少女の指示に従う。異形の姿からは想像もつかない理性を、その鮮血の瞳はたたえていた。

「これ以上近付けば見つかってしまう。空で待機していてくれ。くれぐれも見つからないで欲しい」

 無言で了解を示した漆黒の影は、少女を降ろしたあと瞬く間に空へと消えた。目をこらせば灰色の空に黒い点がポツンと見えるが、それでも並の視力では詳細はわかるまい。今、こちらの姿を見咎めた哨戒の騎士も、あのドラゴンは見つけられなかったことだろう。

「わたしを罪人として宣言しなかったこと、間違いだったね。敵の優しさは、つけ込むものでしかないんだ」

 そう、少女は聖殿騎士に見つけられても良かった。なぜならば、少女は聖殿騎士に見つけられても――

「スイカ・アントネッリ聖猊下! なぜここに!?」

 哨戒の騎士が目の前にやってくるなり立て膝をつく。少女――スイカは、聖殿騎士の主が一人。使徒である。その金色の瞳がある限り、聖殿騎士はスイカを傷つけることはない。そういう風に、聖殿騎士というものはできている。

「うん、前線基地に行こうと思うんだ。うん――

 単身現れたスイカは、騎士には見えない角度で口端を吊り上げて笑った。

――会いたい人がいるんだ。心の底から。だからわたしは、ここにいる」

 空からは堕天使の羽根が、ひらひらと舞い落ちている。









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