第一話  恋人


 

「まぁ、たぶん。こういうのは俺の自己満足なんだろうけど」

 水の流れる音と波紋が広がる音だけが響く中、サクラ・ジュンタは台座に飾られた本に語りかける。

「安心してくれ。俺は大丈夫だから。お前とヒズミがいなくなったのは悲しいし辛いけど、それでも俺はへこたれたりはしないから」

 その本は一人の少女が生きた証。いや、弟思いの姉と、姉思いの弟が生きた証だ。

「……俺のことを好きだって言ってくれたスイカにこんなこと伝えるのはあれだけど、リオンと一緒にがんばっていこうと思う」

『聖廟の泉』に弔われた大切な人へとかがんで報告する。
 最後のときも、葬式のときも言えなかったことを、今伝える。

 アサギリ・スイカという少女は色々と心配性だから、せめて安らかに眠れるようにと、サクラ・ジュンタは大丈夫だということを伝える。そうしないと、姉さんを不安にさせるなとヒズミに怒られてしまうから。

 そんな光景を思い浮かべたジュンタは苦笑を浮かべ、立ち上がる。

 目を閉じて手を合わせる。この世界にはない合掌という行為が、きっと二人にはふさわしいと思うから。

「それじゃあ、行ってくる。俺の旅路を、もし良かったらもう少しだけ見守っていてくれ」

 けじめをつけて、ジュンタは立ち去った。

 前を向いて――今を生きるために。

 


 

 今日の聖地ラグナアーツは燦々と太陽が輝く、何とも暑い日だった。

 白亜の建物が建ち並び、合間を水路が駆けめぐるラグナアーツは、海にほど近いということでそれなりに涼しいのだが、今日はかなり熱気が立ちこめている。もう少しで夏も終わりだというのに、太陽はほどよくがんばっているようだ。

 ジュンタはラグナアーツの中央にそびえ立つアーファリム大神殿からの帰り道を、のんびりと歩いていた。誰かと一緒にいては見えないものが、不思議と一人でいると見えてくる。

「……聖殿騎士団の撤退なんて、誰も気にしちゃいないみたいだな」

 通りの活気はいつも通りの賑わいを見せていた。
 
 景観の美しさを大事にするためか、大通りに露天商の類はあまり多くないが、その代わりに店が多い。呼び込みの声は高く、客の笑顔は眩しく、それは使徒フェリシィール・ティンクより『封印の地』への聖殿騎士団の派遣が失敗に終わったことを伝えられても変わらない。

 一週間前に行われた使徒スイカの死による喪も明けて、白亜の都には光が戻ってきていた。
 誰も彼もが胸の内に絶望など抱いていないのだろう。聖殿騎士団の撤退、聖地でのドラゴンの激突、そういった異変を前にしても、民草の信仰にはいささかの衰えもない。

 それはフェリシィールによる撤退の報告の後につけられた、力強い宣言がなせるわざか。

 フェリシィールは言った。自分たちはこの聖戦に負けたわけではない。撤退こそしたが、まだ戦いは続く、と。

 勝つまで戦う。負けても戦う。勝つまで。勝つまで。勝つまで。

 それが聖戦。使徒が民意を統べ、神の威光の下に行われる、尊き戦争。

 盟友たるグラスベルト王国、エチルア王国からの援軍も正式に着任し、各地の名高い聖殿騎士も幾人か招集された。一度目の失敗を経た聖地の軍勢は先よりも強く、雄々しく、勝利を目指して動いていた。

「次の『封印の地』への進軍は最初から全力勝負。全ては、その日に決まる」

 戦いは苛烈を極めるだろう。先よりもずっと血は流れるだろう。
 だけど、戦うことを止めたりしない。恐れはしない。すでにジュンタの意志は、戦場でも揺るがない決意として胸の内にあった。

 この決意はどんなことがあっても崩れたりはしないだろう。なぜならば、この決意は誓いとして、誰よりも強く、何よりも美しい少女と交わしたものなのだから。
 
 視線の先に、大通りを拡張して作られた大きな広場が現れる。中心部に水路の集合地点があり、聖者の像と小さな噴水が憩いの場としての雰囲気を生み出していた。商店の喧噪から少し離れたここは、静寂というには音が多く、騒々しいというには声が小さい。

 よく都の人々の集合場所として利用されるそこに、ジュンタが待ち合わせをしている相手は待っていた。

 噴水の向こう側に悠然と立つ一つの人影。落ちる水に隠れても隠しきれない真紅の髪。
 後ろ姿だけでも育ちの良さと内面の美しさがわかる。遠巻きに行き交う人たちが視線を送っていくが、誰も近づけない。それほどまでの、触れがたい美しさ。

(俺は、隣に行ける)

 遠巻きに見ることしか叶わない人々と違い、ジュンタは彼女の隣に行くことを許されていた。その誇らしさに自然と背筋がのび、気恥ずかしさに笑みが浮かぶ。

 彼女の横顔が見える位置まで歩み寄ったジュンタは、そこで自分が接近したことに気付かれていない不自然さに気付く。

 その横顔の凛々しさは騎士のそれであり、その身に纏う空気は貴婦人のそれ。
 貴族でありながら騎士である彼女にとって、背後からの人の接近など、真正面から歩いてきたのも同然に見抜くことができる。

 しかし、今ジュンタは気付かれていない。
 ニヤリと先とは別の意味で笑みが浮かんだ。そそくさと息を潜めて、彼女の死角から忍び寄る。

 アーファリム大神殿に背を向けている紅い少女は、逆方向からジュンタが来ると思っているのか、一心に前だけを向いている。いつもなら寄れない至近距離まで、容易く近付くことができた。

 伸びやかな肢体を包んだ、彼女にしては身軽なワンピース姿。腰まで伸びた真紅の髪はストレートで、飾られた白いリボンもいつも通り。だが、その手は身体の前で、何とも忙しなく組んだり離されたりしていた。

「遅い、ですわね」

 唐突に呟かれた聞き心地のいい声を聞いて、ジュンタは確信する。

 付き合いの長さ――というより濃度から、ジュンタは少女の微妙な変化に気が付いていた。
 他者にはいつも通りに見えるかも知れない凛とした立ち姿は、いつもより強ばっていて、頬は僅かに紅潮していた。

(これは、緊張してるな)

 後ろをとっても気付かれないことといい、間違いない。待ち合わせ相手である彼女は酷く緊張しているようだった。

 ジュンタの方も若干緊張を覚えていたのだが、少女の姿を見て逆に緊張が抜けた。
 なんてことはない。こうやって外で待ち合わせをする意味を思って緊張したりするのは、彼女も一緒だったのだ。

 ジュンタは以前にもこうして、こことは違う場所だが少女と待ち合わせをしたことがあった。しかし、そのときと今日とでは状況がまったく違う。正確には、少女と自分の関係が、あの時とは著しく異なっていた。

(恋人、だ)

 自分の頬が紅潮するのがわかるが、それは嫌な感じではなく、むしろくすぐったいこれは、つまるところ幸せな心地というのだろう。

 ジュンタと今噴水を挟んで向こう側にいる少女の関係は、世間一般でいうところの恋人であった。そういって間違いない。

 ――恋人。

 本当に因果なものだろう。出会いは最悪だったのに、いつのまにかこうして互いに想いを通じ合わせるようになったのだから。好きだと言って、好きだと言ってくれて、そうして恋人となった。あの想いが通じ合った夜のことは、涙と共に覚えている。

 決意と約束を誓ったあのとき、大切なものを喪った代わりに、恋人という大切な人を得た。

 だからジュンタは胸を張って、目の前の少女を恋人だと思うし、誰かにそういわれることを恥じたりしない。

 だけど……うん、とてもくすぐったい。

(少し脅かしてやるか)

 何だか身体がむずむずしたので、ジュンタは恋人を驚かすことに決めた。幸いにもまったく彼女は気付いていないので、ここは大きな声をあげるだけでも十二分に驚いてくれるだろう。なに、責められるいわれはない。武人たるもの、いついかなる時でも警戒を解いてはいけないのである。

(では――

 意地悪な笑みを浮かべて、ジュンタはそっと近付く。
 抜き足差し足忍び足。大きな声と共に肩を叩いてやろうと手を伸ばし、

「……遅い、ですわね」

 先と同じ言葉を今度は少し寂しげに呟かれて――どうしようもなく負けた気がした。

 思えばゆっくり歩いていた所為で、約束の時間こそ過ぎていないが、すごくギリギリになっている。少女と周りの様子を見れば、彼女がかなり前にここに到着していたのは間違いなくて……

 これ以上待たせるのは、とても格好悪いことだと思えたから。


――リオン」


 ジュンタは普通に恋人の名前を呼んだ。

 後ろから唐突に話しかけられた彼女は、だけど驚くことなく振り向いた。
 それは待ち人が必ず来ると信じていたからか。振り向いた彼女の真紅の瞳には安堵が少し、顔には見る者を惹き付ける笑顔が咲き誇る。

「ジュンタ。もう、遅いですわよ!」

 サクラ・ジュンタの愛しい恋人。

 その名は――リオン・シストラバス。

 


 

 ところで、ジュンタに恋人ができたのはリオンが初めてである。

 さらにいえば恋とはっきり自覚したのもリオンが初めてで唯一。というわけで恋人同士が最初のデートで許されるレベルというものをまったく知らない。特にこの世界の恋人事情など知るよしもなかった。

「それで、どこへ行きましょうか?」

 目的地を決めないままに歩き始めたとなれば、最初の会話はそれに決まっていた。

 初デートと来ればデートプランぐらい考えてくるものだが、ジュンタはまったく考えていなかった。いつもリオンと一緒に買い物等をしていたのである。いつも通りで結構と高をくくっていた。

「あ〜、どう、する?」

 その結果がこの様でした。いつもの買い物とは別世界。いつも通りが通用するはずもなかった。

 隣を歩くリオンの性格は、言っては悪いが我が儘なお嬢様というもの。怒った顔が似つかわしいと思うほど決まってしまう美少女である……のだが、今日という日のリオンは怒った顔などまったく浮かべない。

 リオンの顔に浮かんでいるのは笑顔。それも頬を紅潮させ、慎ましやかというか、おしとやかというか、そういった女性らしい笑顔である。どうにもこうにも調子が狂って、ジュンタの視線は明後日へと飛んでいく。

「なるほど、つまりはまったく計画していませんのね? こういうことは普通、男性がエスコートするものでしてよ」

「いや、まったくもってその通り。返す言葉もないな」

「開き直って……もう、仕方がない人ですわね。よろしくてよ。今日のところは私が考えたプランで行きましょう」

 いつもならノープランというところで刺々しい視線が来るはずなのに、今日は子供を見守る母親のような温かな視線。見てないのにアドレナリン上昇。手に汗が浮かんでくるよ。

「そ、そうだな。そっちの方向で行こう」

 リオンの提案に頷くことで同意を示したところで、視線を合わせることすらできない自分の余裕の無さに自分で呆れる。

 うわぁ、俺情けない――それが今ジュンタの胸中を占める想念だった。

「畏まりましたわ。私に任せておきなさい。……ですけど」

「おわっ!?」

 そんなダメな彼氏の手を、そのとき強気な彼女が引っ張った。

 唐突に引っ張られたジュンタはバランスを崩す。そこまで強くなかったので転ぶようなことはなかったが、たまらず足を止めて彼女へ振り返った。

「何するんだよ? いきなり」

「それはこちらの台詞ですわ」

 リオンはきっと今の今までずっと視線を逸らさなかったのだろう。そうとわかるほどに、リオンの瞳はまっすぐこちらへ向けられていた。

「ジュンタったら、歩き始めてからずっと、私の方を見ずに明後日の方ばかり見て」

 不満げな言葉に、ジュンタは文句を言われるのだとばかりこのとき思った。しかしリオンが次に見せたのは怒り顔ではなく、照れたような顔。

「折角の初デートですのに……それでは、あまりに寂しいではありませんか。プランは私のものでも、エスコートはジュンタの務めです」

 情けないという気持ちが右ストレートを喰らって剣で切り刻まれ槍を突き立てられハンマーで潰され魔法で焼却されて跡形もなく消え去った代わりに『うわっ、何このかわいい子』という説明しづらい感情がジュンタを満たす。

 もはや目を逸らすことなど考えられない。
 ずっと見ていたいと思うほどに、今のリオンの台詞はやばかった。

「だ、だからといってそんなに見ることがありますか!? は、恥ずかしいではないですの?!」

 そうしてジュンタが見続ければ、今度はリオンが耐えきれなくなって視線を逸らしてしまった。

「リオン……」

 呼んだ声は寂しげなもの。顔をずらされて、ジュンタは寂しかった。

 つまりこういう気持ちをリオンも抱いたということか――ジュンタは首の後ろに手をやって、ダメだなぁと心の中で呟いた。

 自分が不安に思うように、リオンとて初めてのデートで不安なのだろう。
 繋がったままの手は緊張で冷たくなっている。ここは、男である自分が何とかしなければ。

「そうだな。そうだ。折角の初デートだもんな。少しでもリオンを見てないと、勿体ないよな」

「え?」

「こんなにかわいい顔してるリオンを、隣でじっくり見ることを許されるのが恋人だもんな。うん。目を逸らしてる場合じゃない。よく見よう。そうしよう」

「う、うぅ」

 視線を注ぐほどに、リオンの頬が赤くなり、視線が遠ざかっていく。
 繋いだ手を持ち上げて、ジュンタは強ばったリオンの手を解すように、一本一本指を絡ませていった。

「ほら、リオンもそんな風に目を逸らすなって。寂しいじゃないか」

「……ジュンタのいじわる」

 恨みがましい声でそう言ったリオンは一つ深呼吸してから、勢いよく顔を戻した。

 合致する視線。何の意味もなく幸せな気分になって、ジュンタはにへらと笑った。
 ぼふっ、とリオンの顔が真っ赤に茹で上がる。だけど彼女は目を逸らさず、負けないといわんばかりに自分から指を絡めてきた。

 そうやって睨めっこに近いことをし続けること十分――こうやっている間は歩くことすらできないと気付いた二人は、どちらからともなく歩き始める。

 その手はしっかりと繋がったままで。とりあえず、手を握ることは許されるらしい。

 ちなみに待ち合わせ場所から、まだ百メートルも離れていなかった。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 どこへ行くかではない。誰と行くかが重要なのだ――とはよく言ったもので、リオンが目的地に選んだ場所は、貴族である彼女にしてはさりとてお金がかかっていそうな場所ではなかった。

 雑貨屋。ペットショップ。服飾店。喫茶店。公園。

 訪れたそれらは、どちらかといえば普通のカップルなどが行くような場所だった。どんな場所へ連れて行かれるのだと思っていたジュンタは最初拍子抜けしたが、一緒にいるのがリオンと思っただけで、まるで世界で最も高級で貴重な場所であるように思えたから驚きだ。

 道理で、世の恋人方がアホみたいにどんな場所でも騒げるはずである。これは確かに意味もなく騒ぎたくなる。それを堪えるだけの羞恥心は残っていたが、そうこう我慢していると逆に疲れてきた。

「ジュンタ。もしかして疲れてます?」

「え?」

 リオンの問い掛けにぎくりとジュンタは肩を震わせた。

「疲れているようですわね。もう、でしたらそう言ってくれればいいですのに」

「いや、別に疲れてるわけじゃあ」

「嘘おっしゃい。私にはわかりますわ。ちょうど公園にいることですし、あそこのベンチで休みますわよ」

「……はい」

 リオンに断りがたい視線で見られたジュンタは、素直にベンチへと腰掛けさせられた。

「まったく。子供だって疲れたら疲れたといいますのに」

「歩き疲れたとか、そういうのじゃないからな。別に俺としてはこのまま歩いたって全然問題ないし」

「ジュンタに問題がなくても私には問題大ありですわ。私はあなたと楽しみたいのであって、あなたを疲れさせたいわけではありませんもの」

「楽しいから疲れた、ってことだ。確かに、これじゃ子供みたいか」

 まるでピクニックではしゃぐ子供みたいだとジュンタは思う。いや、きっと子供だってここまではしゃいだりはしないのではないか。

 同じだけはしゃいでいたリオンはといえば平気そうな顔をしているので、疲れた理由には周りからの視線も理由としてあるのかも知れない。リオンは慣れているから気にしてないかも知れないが、とにかく彼女と一緒にいると老若男女から視線が集まってくるのである。人の視線に攻撃性があったなら、今頃ズタボロだろう。

 幸せ疲れと思えばこんなものまったく気にならないが、他でもないリオンが気になるというのならしょうがない。ジュンタは背もたれへ背中を預けて、腰に手を当てて立つリオンを見た。

「お前は座らないのか? まったく疲れてないってわけじゃないだろ?」

「そうですわね、少々はしゃぎすぎてしまいましたし。でも、あなたとは鍛え方が違いますから。ちょっと待ってなさい。何か飲み物でも買って来て差し上げますから」

「いや、そこまでしてもらわなくても」

「私がしたいからそうするのですわ。いいから待ってなさい」

 怒りはないが強引なところは変わっていない。そう命令するが早いか、リオンはさっさと公園から去っていってしまう。きっと先程近くにあった果実水の店にでも行ったのだろう。ちなみにいつもは従者等に財布を持たせるリオンであったが、今日は自分で持っていた。

「あいつ果実水二つ買うのに、金貨使ってないよな」

 金貨を見せられた店主が困り果てる姿が脳裏に浮かぶ。
 リオンは金銭感覚が微妙に狂っているので、あながちその想像は否定できなかった。

「ま、ありがたく待たせてもらうか」

 普通よりもきっと時間がかかることは間違いないだろうから、ジュンタは休憩に努めることにした。またリオンに心配かけてしまうのは、さすがに問題だろう。

 リオンは本当に終始楽しそうだったから、できれば最後まで楽しんで欲しい。これから数多くデートはしても、初と名が付くデートはこれが最初で最後なのだから、幸せな思い出として残しておいて欲しいと思うのは当然だろう。

 そう思うと、ジュンタの指は自然とポッケに忍ばせてある小さな箱へと伸びた。

 ズボンのポケットをほんの少し不自然に膨らませているのは、布で覆った箱の中に入ったプレゼントである。友達経由で手に入れたペアリングだ。特段高いものではないが、リオンが前から気に入っていたデザインと似ているのを見て、こっそり買っておいたのである。

(喜んでくれるといいけど)

 ジュンタは財布を一緒にいれることによって膨らみを誤魔化しつつ、これを渡すタイミングはいつがいいだろうかと考える。やはり一番最後か? それとも良い雰囲気になったときか?

 恋人になったばかりの初心者には至上命題であるタイミングについて、様々な考察と思案を巡らせていたジュンタは、誰かが近付いてくるのに気が付き顔を上げた。

 育ちの良さは足音にも出る。リオンの足音は優雅かつ繊細で、だけど自信に溢れたものだ。今近付いてきた足音も優雅かつ繊細で大胆なもの。近寄られただけで吸い寄せられる不思議な魅力もまた同じ。

 だが――違う。

「こんにちは。少々お時間よろしいでしょうか?」

「はい――って、え……?」

 ジュンタの前で立ち止まったのはリオンではなく、見知らぬ少女であった。

 まず最初に目に付くのは、その髪か。何ものにも汚されていない無垢なる雪原の色。肌も透き通るほど白く、白を基調にした服も相まって、夏なのに冬景色に迷い込んだように錯覚する。

 まるで今は遙か遠くに去った故郷で、最後の冬景色を一緒に過ごした少女のような、白。

「リトル、マザー……?」

 それら清き白さの中で、瞳だけが紫色だった。思わず呟いてしまった少女とは違う色であった。

 見事に白と調和しており、その可憐な花のつぼみのような儚さを壊していない。まるで神に存在を祝福されているような、人とは違う美しさを持った白い少女だ。

「突然話しかけ、驚かせてしまい申し訳ありません。少々道を尋ねてもよろしかったでしょうか?」

 リオン・シストラバスという世界が誇る美少女を見慣れていたジュンタでも見とれてしまった少女が、控えめな微笑を見せたところで我を取り戻す。どうやらこの少女、迷子であるらしい。

「ああ、別にそれくらいなら。といっても、それほど道に詳しいわけじゃないから、ご期待に添えるかはわからないんだけど」

 年齢は同じくらいに見えたので、特に敬語等は使わずにジュンタは立ち上がった。

(ん? 今、何だか眉がピクンと動いた気がするが、気のせいか?)

 少女が口を閉ざしたのを見て、ジュンタは軽く眉を顰めるが、特に理由も思い当たらなかったので詳しい話を求めることにした。

「それで、どこに行きたいんだ?」

 一度見とれてしまえば、あとはリオンをほぼ毎日のように見続けてきたジュンタである。どもることはない。

「え、ええと、アーファリム大神殿へ行きたいのですが」

 代わりに、なぜか少女の方が詰まった。

「アーファリム大神殿、と」

 ジュンタも、少女の目的地を聞いて言葉に詰まる。
 理由は簡単だ。アーファリム大神殿。そこへ行こうとするのに、人に道を聞く必要性など皆無だからだ。

 アーファリム大神殿は、聖地ラグナアーツの中央に広く高く屹然する巨大な建造物である。その眩い白さは、今この場所からでもはっきりと見えた。

 ジュンタはアーファリム大神殿を指差して、

「アーファリム大神殿はあれだ。あれ。見えるだろ?」

「はい、見えますね。それで、どう行けばいいんでしょうか?」

「どう行けばって、そりゃ……」

 そのまま目指せばいいんだけど、というのは簡単だったが、少女が心底困った顔をするので、ジュンタは代わりに的確に辿り着く方法を教えることにした。

「いいか? アーファリム大神殿は水路の水の出発点だから。水路の流れを見て、流れてくる方流れてくる方に向かっていけばいい。水路によってはちょっと遠回りになるかも知れないけど、ずっと追っていけば必ず辿り着けるから」

「それが、その、ごめんなさい。実はもうかなりの時間迷っていたので、足が少し痛いんです」

「そりゃ大変だったな。がんばれ。もうすぐだから」

「…………」

「…………」

 なぜか無言になる少女に、ジュンタも口を閉ざす以外に方法がなかった。

 というか、何なんだろう? この少女。目をまん丸にして驚いているのだが。

 ジュンタは別におかしなことを言ってはいない。自身も教えてもらったこれが、一番的確にアーファリム大神殿へと辿り着く方法である。そもそもあんなどでかい建造物へ行くのに迷うことの方が難しいのだが。

(嫌だな。なんだか、嫌な予感がヒシヒシと伝わってくる)

 にっこりと見るものを虜にする笑顔を浮かべた少女は、すっと髪をかき上げた。
 陽光によって白銀に輝く肩程までのばされた銀髪は、目に痛いほどに映り込んでくる。というか眩しい。

 目を細めるジュンタに対して、少女は無言で髪をかき上げ続けた。もはや意味不明もここに極まりである。

 ……関わらない方がいい。ジュンタの磨かれた危険察能力は、満場一致の結論を出した。

「そ、そういうわけだから。健闘を祈る。じゃ」

 さぁて、リオンはどうなったかなぁ。と、ジュンタはいいことしたという笑顔を浮かべながら少女の前を立ち去ろうとする。

「待ってください」

 制止は当然の如くかけられた。

「いやいや、別にお礼とかは良いですから。これしきのこと、人としては至極当然ですのでではさらば」

 何かを言われる前に先んじて早口で言い切り、足を止めることなくジュンタは歩き続ける。


――待ちなさい」


 再びの制止の声にジュンタは今度こそ立ち止まった。いや、立ち止まらざるを得なくなった。

 物理的に進行が止められる。見れば、足下に見えざる風がまとわりついていた。魔法行使による風の束縛であるのは、風の魔法使いが近しい人の中にいるジュンタには一目瞭然だった。

「よ、予感的中かぁ。嫌だな、ほんと」

 風の流れの出発点へと視線を向けていけば、迷いなく白い少女へと辿り着く。

 手のひらをこちらに向けた少女は花咲くような笑顔。けれども、そのこめかみには青筋が浮かんでいた。制止に使われたドスのきいた命令形といい、見た目の柔和さに騙されてはいけないのは疑う余地のない真実だった。悲しいことに。

「あなた、どうして立ち去るの? このわたしを見て、何か思うところはないんですか?」

「人を拘束しておいて最初の一言がそれって……」

 ジュンタは自分の不幸さに五秒嘆いてから、投げやりに少女の質問に応じた。

「思うところって、特にないけど?」

「ないっ!?」

 白い少女はお化けでも見たような顔をして、それから不審者でも見るかのような蔑みの視線で射抜いてきた。

「もしかしてあなた、本当に気付いてない? あたしのこと、知らない?」

「ああ。そっちが地なんだな」

「いいから答えなさい! この髪を見て、あなた何も気付かないの!?」

 自分を手のひらで指し示す少女の口調は、最初の馬鹿丁寧な口調とは違い、ざっくばらんとした口調だった。下品ではない程度の強気な口調である。どうやら先程は取り繕っていて、こっちが彼女にとっての地であるらしい。

 髪を気にしろと彼女はいうが、それよりもジュンタとしては少女の性格の方が気になったので、髪の観察は二秒で終わった。

「……綺麗な髪だな。知り合いと似てる」

「うわっ、あんた無知極まりないわね」

 心底からそう思って褒めたというのに、返ってきたのはどうとっても罵倒以外の何ものでもない言葉だった。

「まさか、あたしを知らないような無知がまだいるなんて……世も末だわ。まぁ、いいわ。いくら何でもこう言えばわかるでしょ。
 始まりたくもなかったけどはじめまして。あたしはミリアン。ミリアン・ホワイトグレイルよ」

 ドレスの裾を軽く持ち上げ名乗る様は、気品溢れるお姫様の様。
 名乗った名前を聞けば、なるほど、とさすがのジュンタも気が付いた。

「ホワイトグレイル。そうか、お前が」

 ホワイトグレイル――その名を持つ家は世界広しといえども一つしかない。魔法大国と謳われるエチルア王国の大貴族。魔法使いたちの総本山『満月の塔』の学長であり、聖地においても高い地位を有す盟友の一派。

『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルと血縁を同じくする貴き家系。
 ミリアンという名は確か、次代のホワイトグレイル家当主候補の名であった記憶がある。

「どうやらわかったようね、平民。このあたしが一体誰か。あたしも鬼じゃないわ。これまでの無礼は許すことにしましょう」

「そいつはありがとう。それじゃあ、そういうことで」

「ええ、気を付けて帰りなさい。……って、ちょっと待ちなさいよ!」

 うんうんと満足げに頷いたあとに的確に突っ込んでくる。ノリツッコミとはやるな、と思いつつ、仕方がないのでジュンタは歩き出した足を再び止めた。

「まだ何か用なのか?」

「用ってそりゃ……というか、いつ拘束を解いたのよ? ああもうっ、それはこの際どうでもいいわ!」

「どっちなんだよ」

 ホワイトグレイルの名を耳にしたジュンタは、相手の厄介さ加減を再認識する。この世界、偉い人間にまともな人種がいたためしがない。

 現にミリアンの頬はピクピクと震えていて、瞳は凍える怒りを放ち始めている。

「ふざけないでよ、あなた。このミリアン・ホワイトグレイル様を放ってどこへ行こうっていうの? あたしはあなたに道を尋ねたのよ?」

「ああ。それで俺は道を教えたな」

「そうね。けど、その上であたしは言ったわ。疲れてる。もう歩きたくないって。それなら気を利かせて馬車を用意くらいするのが当然でしょ?」

「……悪い。その発展の仕方がまったく理解できない。一体どのあたりが当然なんだかも。こっちだって用事があるんだから、はっきりと言ってくれ」

「はぁ……最悪。なに、この使えない平民。聖地だから、誰に話しかけても喜んで馬車を用意してくれると思ってたあたしが馬鹿だったってこと?」

「勝手に自己完結されると本気で困るんだけどな。あと、たぶんその自己評価は間違ってない」

 もう本気で逃げてもいいだろうか? 
 ジュンタは半ば決意を固めていた。だが、同時に止めた方がいいとも警報が鳴っている。

 本気を出せば逃げるのは簡単だろうが、その場合後々まずいことになりそうな気がする。だって、この最初はおしとやかなお嬢様だったのに、今は勝ち気で生意気なお嬢様になったミリアン・ホワイトグレイル。逃げたら最後、あらゆる手を使って仕返しをしてきそうな気配がある。

「理解した。つまりお前、猫かぶりなんだな。俺が聞いたミリアン・ホワイトグレイルって奴は、理想のお嬢様を体現したような優しい美少女って話なんだがな」

「……ふ〜ん。そういうことまだ言うんだ。いいじゃない。そういう挑戦心、あたし嫌いじゃないわよ」

 口元から笑みを消して、ミリアンは鋭い睨みをきかせてくる。

「そう。ホワイトグレイル家次期当主ミリアン・ホワイトグレイルは、国の内外問わず愛される『理想の白百合』。全てが許される麗しき淑女。あたしの言葉は万人にとっての絶対となり、全てはあたしの前にひれ伏すのよ。この意味、あなたにわかるかしら? 無礼な平民さん」

「意味はよくわからん。だが、お前が厄介な奴だってことだけは嫌ってほどわかるな」

「ふふっ、憎たらしい口をまだ閉ざさないなんて。やるわね。いい? あたしは貴族の中の貴族であるミリアン・ホワイトグレイル。それで、あなたは何? 貴族?」

「じゃないな」

「でしょうね。あなたが貴族だっていうなら、全ての貴族に対して失礼よ。やぼったい姿といい、気品がまるで欠けた言動といい、どこからどう見ても平民よね。まぁ、安心なさい。あたしが知る限り最低最悪の二人組よりはいくらかマシだから」

「……そういうことか」

 馬鹿にするような見下す視線を受けて、ジュンタはミリアンの言いたいことに気付く。
 何てことない。つまりは平民なら貴族に対して相応の言葉遣いをしろ、敬えということなのだろう。なんかそこには切実な理由がありそうな気がするが。

「どうやらわかったようね。あなたみたいな平民、あたしならどうとでもできるの。うん、できる……できるはず……できるわよね?」

「何か自信なさげだな」

「うっさい! 最近ちょっとあまりにもぞんざいに扱われてるから、自分の立ち位置をちょっと見失いかけてるだけよ!」

 何か本当に切実な理由があるらしい。その最低最悪の二人組とやらは、ミリアンに対してどんな態度を取っているのだろう?

「大丈夫。問題ない。あたしはミリアン・ホワイトグレイル。『理想の白百合』だもの。
 ふふっ、直接手を下さなくても、あたしを取り巻く有象無象にちょっと囁けば、何百人と喜んであなたを消してくれるでしょうね」

「世も末だな。お前みたいな奴に、そんなに取り巻きがいるなんて。あとがんばれ。負けるな」

「同情付け足すな! って……ふ、ふんだ。当然でしょ? あたしは理想の淑女よ。こういうときのためにずっと猫被って生きてるんですもの。あなたが何を言ったとしても、ミリアン・ホワイトグレイルは良い子と認識しているみんなには聞こえないわ。むしろ誹謗中傷ということで、それだけで裁かれるわね」

「本当に、世も末だなぁ」

 つまり、これがミリアン・ホワイトグレイル。『理想の白百合』と讃えられたお姫様の本性というわけか。

 猫を被って周りを騙し、自分に都合がいいように操る。偶に自分の思い通りにならない相手が現れたなら、脅していうことを聞かせる。つまるところ、ミリアンは超がつくほどの我が儘だということだ。

「ふふっ、今ここで額を地面に押しつけて謝るなら許してあげてもいいわよ?」

 ミリアンは自身の勝利を確信して、サディスティックは笑顔を浮かべている。周りの視線がないことをいいことに、もうやりたい放題だ。

「はぁ……ごめん被る。そういうことは、そういうのが大好きなお前の取り巻きとしてくれ」

「……へぇ」

 しかし、ジュンタとしては無論謝る気など毛頭無い。誰が謝るかという具合だ。

 ミリアンは笑顔を消して氷のような無表情だが、それがどうした。謝るいわれがないのに謝る必要などどこにもない。

「別にあたしはいいのよ。ここでちょっと悲鳴をあげたって。不埒な男に襲われた……そんな風に言ったらあなた、間違いなく死刑ね。ここは聖地ラグナアーツ。信仰が息づく都だもの」

 恐らく、この少女はやるといったらやるのだろう。最初は冗談だったかも知れないが、ここまで馬鹿にされたら許さないと怒りを露わにしている。そして彼女のいうとおり、何も後ろ盾のない平民など、彼女の手にかかればイチコロだろう。

「断るよ。信仰に謙るのは性に合わない」

 ただの平民なら、だが。

「後悔、しないわね?」

「後悔はしないな。微塵たりとも」

 最後通告を突きつけるミリアンに、平然とジュンタは答える。やれるもんならやってみろという構えである。

 ミリアンは聡いのか、その余裕の態度を怪しむ素振りを見せる。だがそれ以上に自身に対する自信があるのか、あるいはそろそろ自信を取り戻さないといけないと思っているのか、徐に服の裾をはだけると思い切り息を吸い込んだ。

 至近距離で悲鳴を上げられたらたまらないとジュンタは耳を押さえようとして、


――ジュンタ。あなた一体、何をしているのかしら?」


 ミリアンを前にしてもまったく感じなかった恐怖を、怒りを押し殺したリオンの声に感じた。

 振り向けば、本日初めての怒り顔を見せる紅いお姫様が、コップを持つ両手をプルプルと震わせているところでした。

 さて、何も知らない第三者が、それも恋人のために飲み物を買いに行ってくれた彼女から見て、この状況はどういう風に見えるのか?

(……まずい)

 大人しく休んでいろと言った相手の前には、見目麗しき美少女。しかも服は微妙にはだけ、とんだ女優根性で目元には涙を浮かべている。ちょっと『道を聞かれた』だけでは説明できないやりとりがあったのは明白だろう。

 その上――キランと、こちらの恐怖に気が付いたミリアンが意地悪な笑みを浮かべた。

「リオン、助けて! この野蛮人が、突然ミリアンに襲いかかってきたの!」

「このっ、ほんと最悪だな。お前!」

「なるほど。そういうことでしたのね、ミリアン」

 目から真珠のような涙を零し、リオンへと縋り付くように駆け寄るミリアン。シストラバス家とホワイトグレイル家は深い盟約によって結ばれている、非常に懇意にしている家同士だと聞いたことがある。リオンとミリアンもまた知り合いだったよう。

 ミリアンはリオンの後ろに隠れると、怯えたように身体を震わせる。リオンに比べたらいささか背が小さい彼女が身を縮める様は小動物を彷彿とさせる。猫かぶりだとわかっているジュンタでも庇護欲を沸くのだ。これがかわいいもの大好きなリオンだとしたら……考えたくもない。

「いや、リオン。落ち着け。落ち着けよ。そいつの言っていることは嘘っぱちだ。どこにも真実はない!」

「騙されないで! リオン。その男は巧みな話術で人を騙す詐欺師なの!」

「詐欺師はどっちだ?!」

「あなたに決まってるでしょ?!」

「あなたたち、少し落ち着きなさい!!」

 自分を挟んで応酬し合う声を、リオンがピシャンと止める。

「安心なさい。ここで何があったかは、よ〜くわかりましたから。ええ、そんなもの日頃の行いを見れば一目瞭然ですわ」

 凛々しく瞳を輝かせるリオンは、まず背中に隠れたミリアンを見た。

「お久しぶりですわね、ミリアン。あなたがラグナアーツに来ていたのは知ってましたけど、まさかこんな再会になるとは思ってもみませんでしたわ」

「ミリアンもよ、リオン。あなたとはもっと素敵な再会をしたかったわ。だってあなたはミリアンのたった一人の親友だもの」

 だから助けてくれるわよね? と、潤んだ瞳で訴えるミリアン。すごい。その演技はもはや主演女優賞ものだろう。

 こいつはまずいか。沸々とリオンの身体から湧き上がる怒気を感じ取って、ジュンタは逃げ腰となる。これまでのリオンとの日々を思い出せば、十中八九白刃が飛んでくる。自分の信用度――特に女性関係に対しては著しく低いのは、もう自覚ありありである。

「ミリアン。あなたの訴えは理解しました。だから、はっきりと申し上げて差し上げますわ」

 怒りが爆発する兆候が見られる。さながら火山の噴火のように、静かな声には覇気が混ざり、


「これ以上私の愛する人を悪く言ったら、あなたとはいえ承知致しませんわよ!」


 はっきりと、そうやって鋭い視線をミリアンに突きつけた。

『………………え?』

 という驚きの声はジュンタとミリアンの両方からあがった。

「ええ!? ちょ、ちょっと待ちなさいよ! 愛する人って、ええ!?」

 さらなる驚きの声はミリアンから。どうやらミリアンの驚きはジュンタのとは違い、リオンの口にした台詞の中にあったらしい。

 そしてジュンタの驚きは、リオンがまったく淀みなく自分を信じてくれたことにあった。いつもなら間違いなく疑ってくるはずなのに、はっきりと怒りをミリアンにのみぶつけたのだ。恋人をこれ以上悪く言ったら許さない、と。

(うわっ、もしかして俺、愛されてる?)

 顔が赤くなっていくのを感じたジュンタは、パクパクと口を動かして何も言えない。言えるはずがなかった。

「ミリアン。騙そうとする相手が悪かったようですわね。私はあなたのそれが擬態であることは知ってますし、そもそもジュンタがあなたに破廉恥な真似に及ばないことも理解しているのですから」

「確かに、リオンがあたしの本性を知ってる数少ない相手だってことはわかってたし、信じてくれるかどうかは五分五分だったけど、そんなことはこの際どうでもいいわ。
 愛する人って何? どういうこと? どうしてこんな冴えない平民を、あたしと唯一肩を並べられるあなたが愛する人だなんて言うのよ?」

「そんなの決まってます。私とジュンタが、こここ、恋人だからですわ!」

 初めて誰かに『恋人』と告げたのか、照れるように、嬉しそうに、リオンははっきりと言った。

 ポカンと、『理想の白百合』と謳われた白いお姫様が口を開け、呆然となること一分少々、

「……人を見る目だけはあったと思ってたのに、まさか男の趣味が壊滅的に悪かっただなんて……ああ、なんかもうほんとどうでもいい。別の誰かに馬車は用意させるわよ……」

 リオンを呆れ眼で一瞥したあと、心底動揺した様子でさっさと立ち去ってしまった。

「ふんっ、本当に相変わらずですわね。ミリアンは」

 リオンは友人からの視線にも言葉にも何ら恥じ入る様子もなく、鼻を鳴らして見送った。ほんの少し怒っているのは、自分が馬鹿にされたからか。それとも……

「折角のデートだというのに、とんだお邪魔虫がいたものですわ。ジュンタ。あのミリアンには気を付けた方がいいですわよ。理由はわかっていると思いますけど」

「でも、少しだけ感謝、かな」

 振り向いてぷりぷり怒るリオンのかわいらしい様子と、先ほどの嬉しい言葉を言わせたのは間違いなくミリアンだったから、少しだけ感謝してもいいかも知れない。

 そんな風に思ったジュンタはリオンの手から飲み物を一つ受け取って、反対の手を差し出した。

「手、冷たくなってないか?」

「少しだけ、なってるかも知れませんわ。……温めて、くださる?」

 返答の代わりに、ダンスの誘いを受けるように乗せてくれたリオンの手を握る。

 指を絡ませ、しっかりと繋ぐ。

 まだ、初デートは続いている。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 そこからは、特に問題が起こったりはしなかった。

 リオンと一緒にいるとは思えないほどに穏やかな時間が過ぎていく。一分を何分割にもして引き延ばしたような濃密な時間。けれど過ぎ去るのはあっという間だった。

「ん、いい風ですわ」

 誰もいない高台で、リオンは穏やかに吹く風に身を預けていた。

 デートの最後にリオンが選んだ場所は、都の外れにある高台だった。恋人同士がデートコースに選ぶには少し寂しい、けれど二人きりになることだけを思えばとても静かで良い場所だった。二人以外に人の姿はない。

「確かに、いい風だな」

 海の方から吹き抜けてくる風に揺れるリオンの髪。
 夕焼けに美しいグラデーションを描き、まるで自ら熱をもって燃えているよう。

 リオンは眼下に見える街並みに、目を細めて見入っている。こうして都を見渡せる場所に来ると、時折リオンはこうした姿を見せる。てっきりそれは彼女の家が治めるランカや国であるグラスベルトだけと思ったが、ここラグナアーツでも変わらないらしい。

 リオンの字は竜滅姫。それは『始祖姫』の系譜である竜殺しの姫の証。リオン・シストラバスとはつまり世界を守る者である。見つめる視線の先にあるのは、果たして街でもなく国でもなく、この世界全てなのかも知れない。

「もうすぐだな」

「ええ」

 主語を省いたジュンタの言葉に、頷いてリオンは振り返る。

 輪郭線に夕焼けの朱を伝わせたリオンは、後光を纏ったかのように神秘的だった。
 凛とした瞳は決意に燃えて、口元には自信満々で不敵な笑みが浮かんでいる。彼女に、とても似合う笑顔だ。

「いつまでも悪意をのさばらせておくわけにはいきませんもの。たとえ苦しい戦いでも、今は行かなければなりません。この美しい世界は、誰かの悪意によって決して汚していいものではありませんわ」

 敵はベアル教であり魔獣であり、そして――ドラゴン。

 強壮となった聖殿騎士団だが、また敵も凶悪になった。ドラゴンが二体に魔獣二十五万。加えてベアル教までいる。今や『封印の地』には悪意が満ち、この聖地を、ひいては世界を狙っている。

 世界を守るのがリオンの役目なら、高潔な騎士である彼女が真っ向からそれに挑むのは当然だ。 止めることなど無理。ドラゴンとの戦いでは必ず付きまとう宿命を自覚してなお、リオン・シストラバスは決して敵に背中は見せない。

「負けっ放しは趣味ではありません。今、再び我が名と剣にかけて、立ち塞がる敵はことごとく竜滅の炎によって焼き貫いて見せましょう」

「ほんと、お前らしい宣言だな。俺しか聞いてないのがもったいない」

「何を言ってまして? あなたにだけ聞いていただけたら、それだけで私はこれを誓約にできるのですから」

「ん。そっか」

「ええ、そうですわ」

 ふわりと、年相応の女の子の笑みをリオンは浮かべた。

(ああ、眩しいな)

 こんな女の子と知り合えた幸運に、こんな大好きな人と恋人になれた幸福に、ジュンタは一つの意志を再度固めた。

 隠しておいた小箱を取り出して、ジュンタはそっとその蓋を開ける。

 驚くリオンの前で、指輪を片方取り出して、彼女へと近付いた。

「ジュンタ、それ……?」

「守るよ」

 ジュンタはリオンの手をとると、その小ささと細さにいつも驚かされる。こんな女の子の手でリオンは剣を握り、戦っているというのか。肩も小さく、その両肩に背負うものとしては、この世界はあまりに重すぎるように思えた。

 それでも、君が世界を守るというのなら。サクラ・ジュンタが守るものは決まっていた。


「守るよ、絶対。リオンが世界を守るっていうのなら――俺は、世界を守るリオンを守る」


 リオンの右手薬指に指輪を通す。黄金の指輪は、沈み行く夕焼けの最後の光に、燃えるように輝いた。

「……ありがとう、ジュンタ。私の愛しい人」

 ふいに、リオンが涙を零した。

「ずっと、私は思っていました。あなたみたいな人を好きになって、あなたみたいな人に好きになって欲しいと。だけど、それはきっと叶わないものと、竜滅姫という在り方を貫くのなら届かない憧れと思っていました。
 けれど違いました。私はあなたと出会いました。あなたを好きになって、あなたに好きになってもらえました」

 涙を零したまま、笑った。

「それが今――こんなにも嬉しい。ジュンタ。ありがとう、こんな私と出会ってくれて」

「それをいうなら俺の方だ。ありがとう、リオン。俺と出会ってくれて。好きになってくれて」

 なぜか、ジュンタの目にも涙が浮かびそうになった。幸せ過ぎたから、なのかも知れない。

 リオンは涙を拭うことなく微笑んで、自分の右手薬指に輝く指輪を、色を変える空へと掲げた。

「私の、聖約の証」

 空にはその色を濃くしていく月。星々の輝きが瞬きだし、まるで空に描かれた星々の海原のようだった。

 そんな海で一際強く輝く、二つの星。

 隣同士で輝く、黄金と紅の指輪。

「それを持つお前が、俺の聖約の証だ」

 それを見つめて寄り添う二人もまた、この世で輝く星となろう――繋いだ手は決して離さず、二人はいつまでも星を見つめ続けていた。









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