第十話  好敵手ライバル




 ズィールの神獣としての力は双眸に依存する。神獣としての歪みの器にあたる双眸を傷付けられたズィールの身体は、元の人としての殻に覆われた。

 その際傷つけたオーケンリッター、傷つけられたズィール双方にとって予期していないことが起きた。ズィールの年齢が下がったのである。

「ふ――

 しばらく無言のまま見つめ合っていた両者。
 沈黙を切り裂いたのは、突如としてオーケンリッターがあげた哄笑だった。

「ふははははは、なんだその姿は?! あまりに情けないぞ!」

「ぐっ」

 ズィールは一度驚愕をくぐり抜ければ冷静だった。
 起きあがると同時に丈が余った衣服を絞り、距離を離してマントを外す。

「何たる様か! そのような幼子の身になって、まさかとは思うが私が槍を引くと思っているのではないだろうな? だとしたら片腹痛いぞ、ズィール・シレ!」

 甲冑をカタカタ震わせるほどに嗤うオーケンリッター。ズィールは甘んじて屈辱を受け入れ、代わりに今の自分の身体を走査した。

 身体能力は間違いなく衰えている。加えて急激な変化で感覚が混乱していた。魔力も半減しているが、これは身体の所為ではなく神獣化をキャンセルされた弊害だろう。戦闘続行が可能がどうかは調べるまでもない。オーケンリッターが槍を止めた時点で勝機はまだ残っているのだから。

「その様では神獣にももはやなれまい。神の使徒が聞いて呆れるな。どうだ? 降参するというのなら、聞いてやらぬこともないぞ?」

 オーケンリッターの言うとおり、再びの神獣化は当分不可能だろう。愚かなのはかつての巫女と戦うというのに、対抗策が用意されていると考えずに神獣になったことにあった。

「……自分の失態だ。罵倒は謹んで聞こう。だが、諦めろという言葉には従えん!」

「戦うか、そのような身になっても!」

 ズィールが魔力を練るのを見て取ったオーケンリッターが、笑いを止めて槍を構えた。

 大蛇の血に濡れた漆黒の槍は、より禍々しい気配を放っていた。オーケンリッターの鬼気がついには魔槍すらも呑み込み始めているのだ。

 そうして再び始まる攻防――

 ズィールは魔法を駆使して戦うが、肉体の変化に色々なものがついていけていない。自分が想像する動きに身体はついてこれず、魔力制御もいつもより甘い。そして何より弱体化したことで、ギリギリの攻防を繰り広げていたオーケンリッターの攻撃を避けきれなくなった。

 鋭い刺突が放たれる。

 ズィールは無理矢理作った土の防御壁でこれを防御する。精度が甘くなったのなら数で勝負。それでも刺突は三つ作った防御壁の二枚を容易く貫通すると、最後の防御壁を粉々に砕いてズィールもろとも吹っ飛ばした。

「ぐはっ!」

 大地からせり上がった岩肌にズィールは背中を打ち付ける。それ以上の痛みは毒の痛み。世界で最も強力な解毒の丸薬を飲んではいるが、身体につけられた十以上の傷から入り込んでくる毒を、致命傷にしないよう阻むだけで精一杯だった。

 戦意喪失こそしなかったものの、肉体は限界を迎えつつある。
 ズィールは鈍くなった足に活を入れるも、両足は子鹿のように震えるばかりだった。

「諦めろ。貴様では私に勝てん。さっさと諦めて楽になれ」

「言ったはずだ。諦めろという言葉にだけは頷けない、と」

「……愚かな」

「ぐあっ!」

 一瞬で肉薄したオーケンリッターに、ズィールは岩肌へと杭を打たれ縫いつけられた。槍が貫いたのは右肩。じわじわと激痛が首筋までせり上がってくる。

 毒が脳まで及ぶのにもう時間はあまりないだろう。
 ズィールは最後にできる精一杯の抵抗として、オーケンリッターの頭を拳で狙った。しかし短くなった手は彼に届くことはなく、ちょうどそのヘルメットを弾き飛ばすだけだった。

 カランカランとヘルメットが地面に落ち、擦れる音がする。
 
 至近距離でズィールは巌のような老雄の顔を見て、

「……なぜだ? どうして自分を裏切った、オーケンリッター……?」

 聞くまいと、聞く必要などないと思っていた質問が口から飛び出した。

「ふっ、貴様の口からそのような問いかけをされるとはな。どうした? 肉体が若返り、精神までもが引きずられているというのか?」

 冷たい瞳をしていたオーケンリッターは口の端をつり上げるように嗤った。

「ああ、だとしたら心底憎たらしい。軽々しく若返ったことも、望みに近付いたことも、全てが憎らしい!」

「づぁ――!」

 オーケンリッターが握った槍を捻る。
 ズィールは焼けた鉄を打ち込まれたような激痛に顔を悶えさせた。

「不思議だ。どうして貴様は私の癇に障ることばかりをするのだろうな? いや、私と貴様だからこそこうなるのか」

「何、を……?」

「貴様にはわかるまい。貴様は奪っている。私は奪われている。盗む者は盗まれる者の痛みを決して理解できない」

 屈折した歪んだ笑みを浮かべたオーケンリッターの瞳は、暗い嫉妬で濁っていた。

「なぜ私が貴様を裏切ったかと問うたな? 簡単だ。私が貴様の巫女だから裏切ったのだ」

「自分の、巫女だから……?」

「そうだ。私の裏切りを呪うのならば神を呪え。使徒ズィール・シレの巫女はやがて必ず裏切るという制約をかけた神を呪え。代わりに私が貴様を呪おう。使徒は神と。巫女は人と。それが正しい形だろう?」

「待て。オーケンリッター、貴公は何を言っている……?」

「貴様が心底から羨ましいと言っているのだ!!」

 喉の奥から迸ったオーケンリッターの叫びに、その胸に燃えている裏切りの根源に、ようやくズィールは気が付いた。

 嫉妬。それがオーケンリッターを狂わせ、ズィールの許から奪った要因。

 妬ましい。羨ましい。使徒という存在が愛しくてたまらない。

「多くの人が私の人生を羨ましいと思うように、私は貴様の人生が羨ましくてたまらない。貴様が過去へと遡っていくのなら、私の願いは常に未来へ向いている。
 使徒と巫女は二人で一つ。お互いにないものを持ち、足りないものを補完し合う……ああ、そんなものは間違いだ。巫女は使徒に捧げるのだ。人生を。全てを!」

 それはオーケンリッター、巫女になったことを後悔していると言う意味だった。
 心底後悔している。巫女になどなるのではなかった。そう後悔して、彼は慟哭していた。

「ああくそ、巫女の誓約は正しく事実を謳っている。巫女は神に選ばれた瞬間から使徒に全てを奪われ続ける。願いも理想も未来さえも! それを取り戻したいと願って何が悪い? 理想の未来を勝ち取りたいと願って何が間違っている?!」

「自分は……違う。何も奪ってなど……」

 ズィールの胸に去来するのは、かつて誰よりも自分の巫女を誇らしく思い、その姿を理想と胸に刻もうと思ったあの瞬間。

 そんなズィールの幼い憧憬を、オーケンリッターはその背で悟ったのだろう。

 故に――


「私は――巫女コム・オーケンリッターは、使徒ズィール・シレの踏み台では断じてない!!」


 故にオーケンリッターは嫉妬した。やがては自分を踏み越えていくだろう、その幼い憧憬を。

「私からしてみれば、理想がいつか叶いさえすればそれでいいなどという、シストラバスの騎士の誓約など馬鹿げている。継承? 馬鹿馬鹿しい。それは自分の手による到達を諦め、惨めな負け犬になることを肯定する自殺の儀式だ。自分が刻んだものを追い越され、ただの踏み台にされたとき、人は本当の意味に死に絶える。殺されるのだ!
 私は違う。私は誰にも殺させない。私は誰にも追い越させない。私は、必ずこの手で全てを掴んでみせる。自分の理想は自分だけのもの。理想は、自分の手で叶えなければ意味がない!」

 最強とかつて呼ばれた男がいた。だが果たして、最強と呼ばれるに至る男の道程を、一体誰が知っていただろうか? そこまで辿り着くために必須な努力を、なぜ彼が行ってきたのか、その心内を理解した者がいただろうか?

 答えは否。誰もいない。いてはいけない。

 揺るがぬ背中は孤高の背中。誰にも負けない。誰にも追いつけない。誰にも追い越させない。
 それは達人が弟子をとって己が全てを継承させるのと同じくらい人間らしい、自分こそが唯一無二の全てという男の矜持。

 騎士コム・オーケンリッターの理想は、自分が一番であること。在り続けること。

 そんな彼がなぜ自分に憧憬を寄せる者を愛せよう? 
 そんな彼がなぜやがては自分を追い越すことを願う者を愛せよう?

「貴様はずるい。人は百年も生きられぬのに、使徒は何故百五十年も生きながらえる? 同じ理想を抱き満身する使徒を前に、人はどうやって自らを高みに置き続ければいい? やがては先に止まる。やがては追い抜かれる。それがわかっていて、どうやれば焦らずにいられたというのだ!?」

 立ち止まれば追いつかれてしまう。死ねば追い抜かれてしまう。そうやって知らない内に殺されることが、オーケンリッターには何よりも苦痛だったのだろう。

 人間と使徒を比べれば、どちらが優秀であるかは問うまでもなく。どちらが長く生き続けられるかは問答するまでもなく。同じ理想を抱くのならば、どちらがより上に行くかは自然の理も同じだ。

「我が願いは使徒になること。同じ舞台に立てたのなら、応とも、存分に競い戦い合おう。平等の上の死ならば私は神を恨まない」

 そうか。と、ズィールは理解する。

 平等を愛するズィールが理想としたからこそ、コム・オーケンリッターという男もどこまでも平等を愛す。不平等に異を唱え、平等な舞台になるまで抗い続ける。

「……問いたい、コム・オーケンリッター。自分が父と憧れた人よ。貴公は、自分を息子と愛してくれていたか?」

「否よ」

 まったく迷いなく、オーケンリッターは首を横に振った。

「私は湖の賢人のように穏やかではいられなかった。黒曜の片割れのように肉親のための献身を良しとはできなかった。竜の花嫁のように主に全てを捧げることが存在意義など到底思えなかった。
 聖猊下、我が主よ。故に私は貴公を息子と思ったことは一度もない。
 私にとって貴公は最も恐ろしい後輩であり、何よりも競い甲斐のある友であり、一生傍にいて欲しいと願ったパートナーだった。そして――

 槍を引き抜き、コム・オーケンリッターは笑った。

 今までズィールが見たことのない、けれどきっと見ようと思えばいつでも見えたはずの、その笑顔を向ける意味は――


――ズィール・シレ、貴公は私の好敵手ライバルだ」


 その言葉を嬉しいと、心の底からそう思った。

「なるほど……よくわかった。確かに貴公が裏切ったのは自分の所為だ。自分が貴公を憧れとし、貴公の理想を自らの理想としなければ、貴公が裏切ることはなかったのだから」

「ああ、そのときは私も裏切らなかっただろう。私は貴公以外を好敵手と思ったことはない。クレオメルンのそれは父親への憧れだ。貴様と私が理想とするものとはまったく違う。私は誰かではなく、世界全てを導きたいと思ったのだから」

「自分は世界を救いたいと思った。揺るがぬ背中を後を行く者に見せたいと……それは誰よりも先へ行きたいということだったのだな」

「然り。さあ、わかったのならそろそろ死んでくれ。ライバルは取り除くものだ。貴様が私を殺そうとしたように、我々が殺し合うは必然。未だ平等の舞台の上とは言えないが、構わん、今は私の方が不平等を強いている」

 傷口を押さえ、ズィールも笑った。かつてここまで誰かに認められたことがあっただろうか?

 まったく理解できないと思っていたのに。目の前の男が何を考えているかわからないと思っていたのに。今はわかってしまう。自分の心がわかってしまう。

 何もわからないということは同時に、この男へ向かう自分の気持ちをわかっていなかったということ。けれども今ズィールは全てを理解した。自分は、オーケンリッターを……。

「傲慢だな。相手も自分も平等でなければ、本気で戦うこともできないとは」

「それは貴様も同じだろう? 平等を愛するのは傲慢なことだ。それを理想だ輝かしいと憧れた貴様は、この上なく傲慢な獣だ。使徒斯くありき。そろそろ認めろ、ズィール・シレ」

 そうだ。正義だ何だと誤魔化すのはもうやめにしよう。因縁だ責務だと偽るのはやめにしよう。

 目の前の男だけは……
 目の前にいる同じ理想を抱く男だけは……


「私を超えたいと、常々そう思っていたのだろう?」

「ああ、貴公は邪魔だ。そこを退け」


 殺意の波動を撒き散らし、世界という名の天秤に乗る相容れない分銅の二人はぶつかりあった。

 ぶつかりあう熱力はこれまでとは桁違いに。ただ、相手を否定するためだけに魔法と槍が振るわれる。

「貴公がいるから釣り合わない。貴公は自分と共に天秤へ乗った者だ」

「貴様がいるから傾いている。貴様は私と共に天秤を傾け合う両極だ」

 邪魔だ消えろ目障りだ。

 釣り合わせることだけが『平等』ではないと、今ズィールは理解した。天秤には均等に計ること以外にも、もう一つ使い方がある。

 どちらが真に価値があるか、それを計るが天秤の役目。

 目の前の好敵手を倒すことがお互いにとっての存在意義だ。この理想を貫くのならば、これは決して避けては通れぬ道。

 交わってはいけないのに重なっている。

 だからもう、終わらせるにはぶつかり合うしか他にない。

 それが――好敵手ライバル』というものだとしたら。





 
 オーケンリッターは歓喜していた。

 子供の姿になったからか。雄叫びをあげて魔法を乱射するズィールの姿はまさに、因縁に終止符を打つためにふさわしい姿だった。

 先程は思わず諭すように叫んでしまったが、別にオーケンリッターとてズィールとのお互いの在り方について理解していたわけじゃない。ただ、頭の隅にずっと引っかかっていて、胸の奥にずっと燻っていたのを感じていた。

 だからオーケンリッターにとっても先程の遣り取りは、長年の疑問に答えが出たということ。

 もはや繰り出す槍はただの一度も容赦はなく、ぶつかり合う殺意は相手を殺すためだけに磨かれている。

 そして辿り着くべき場所もまた既知の事実。

天秤の計り手に敬意を払え

 オーケンリッターは知っている。神獣としての力を奪われた今、ズィールが取るだろう策を。彼が持ちうる最強の魔法を。

豊壌の祈りに恵みの賛歌を 生まれいずるは大地の子 生まれいずるは星の獣

 長々とした詠唱を聞き、オーケンリッターはわかっていても焦りを感じた。
 この魔法――星の獣スターチャイルド]の威力と脅威を、他の誰よりも知っている。

其は高く這うもの 星の仔よ

 今更止めても遅い。もとより止めるつもりもない。
 オーケンリッターはさらに距離をとって慎重に槍を構え――そして魔法が完成する瞬間をじっと待ち望んだ。

 前面へと突きだし展開した魔法陣を中心として、ズィールが立つ半径十メートル近い大地が深々とえぐれる。くり抜かれた地面は宙に浮き、引力に引き寄せられるように魔法陣へと集まってくる。

 ミシミシと圧力に音を立てながら集った大地は球体を形作った。丸い、丸い、艶やかな球となったところで土の移動はなくなるが、魔法陣は消えない。完成した球体は魔法陣にはめこまれるように空中を浮遊し、恒星のようにクルクルとズィールの身体の周りを回る。

「さぁ、行くぞ。オーケンリッター。『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』の防御力がいかほどか、この[星の獣スターチャイルド]をもって調べてやろう」

 目を閉じたまま右手を高々とあげたズィールは、民衆へと演説するときのように力強く大仰に前へと突きつけた。そこに傷の痛みは感じられない。幼い風貌はずっとオーケンリッターが見続けてきた、翡翠の使徒のものと寸分も変わらず。

 ここに決着の時は来た。

 ズィールの手の動作に引かれるように、小さな小惑星――星の獣スターチャイルド]が飛ぶ。

 音速に迫るほどの速度で走る[星の獣スターチャイルド]を見て、オーケンリッターは即座に回避行動を選んだ。

 あれはさすがにこの甲冑とはいえ受け止めきれない。巨大な土団子のように見える[星の獣スターチャイルド]だが、その正体は人工的に模倣された小さな星だ。ズィールの魔力がある限り存在し続ける星の中の星。それが飛ぶ様は正しく流星――

 轟、とけたたましい音を立てて飛んでくる[星の獣スターチャイルド]に万物の法則など関係ない。避けた先へと法則を無視した動きで軌道を変え襲いかかってくる。オーケンリッターはギリギリまで引きつけたあと、全身をバネにして飛び退くことで避けようとした。

 だが、それが星であるのならその周りには引力が働く。気を抜けば地面から足を奪われてしまうほどの引力に、何とか逆らいながらオーケンリッターは効果範囲外へと逃れ出た。

 地面と接触した[星の獣スターチャイルド]は、半径数十メートルにわたる地割れを生み出しながらも、一切欠けることなく再び獲物を見定める。

 人間である以上――いや、この世界に生きる以上必ず囚われる法則を、一切無視する力を持つ[星の獣スターチャイルド]。ズィールの十八番であり虎の子であるこれは、万全の装備を固めたオーケンリッターにも匹敵する魔法だ。

 無論、これほどの魔法を常時展開しているのだから、魔力消費量は激しく、また展開中は他の魔法は一切使えないという制約があるが、それを置いても破格の威力だ。

「どうした? オーケンリッター。自慢の鎧を信じられぬのか?」

星の獣スターチャイルド]を自分の許へと呼び戻し、クルクルと周りを回転させることで牽制するズィール。攻撃中は無防備になるが、[星の獣スターチャイルド]を自在に操ることでその隙も最小限のものになる。オーケンリッターが[星の獣スターチャイルド]を打ち破るには正面から撃破するか、攻撃中法則を無視する[星の獣スターチャイルド]の速度に勝ってズィールの首をかっ切るしかない。

 それが可能なのか? [星の獣スターチャイルド]の力を知るオーケンリッターの経験と知識が、それは否など答えている。

――是、だ」

 だが、自らの経験と知識を否定するのはオーケンリッター自身。
 再び攻撃を仕掛けようと手をあげたズィールを、オーケンリッターは鋭く睨む。

 この魔法こそがかの使徒の歪みそのもの。普通の人では扱うことができない星を生み出すその力――理を、条理を逸するその在り方こそが、使徒ズィール・シレに課された罪科なのだ。

 傲慢なる使徒には必ずや隙ができる。奴は自分が油断しているといったがそれは大きな間違いだ。オーケンリッターは嫌というほど知っている。人間の限界と使徒の規格外を。油断などしていない。最初から全力だ。証拠に、すでにもう息があがっている。

 使徒と普通の人間の性能差を努力と経験によって覆すためには、蛮行もやむなしだ。必ずできるその隙を狙い、今人生最大の賭けに打って出よう。

朽ちた血ロトゥンブラッド』による急所への直撃はズィールにとっても致命傷となる。治癒の使い手であるフェリシィールとは違って治癒魔法を一切使えぬズィールが喰らえば、その命の灯火はすぐに費える。

 武器は二つ。老いたこの身を全盛期以上の領域にまで押し上げる要素は、この槍と武具以上に執念に燃えるこの心。

 聞こえる。魂が人間の枠を超えろと叫んでいる声が!

「行くぞ! ズィールッ!!」

 漆黒の矢となって大地を駆け抜けるオーケンリッター。
星の獣スターチャイルド]は空から降り注ぐ隕石のように落下してくる。地面を揺らし、辺りの大気を沸騰させるほどの一撃を、オーケンリッターは『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』をもって受け流す。

 直後、まるで時間が巻き戻ったかのように逆走する[星の獣スターチャイルド]を視界の隅に見咎めた。

 方向転換を余儀なくされたオーケンリッターは転がるようにこれを避け、迂回するルートをとってさらなる接近を狙う。ズィールの位置を見て[星の獣スターチャイルド]を避けられるギリギリのルートを即時発見、即時行動をもって駆け抜ける。

 数秒が数時間にも感じられる一瞬。自分の身体を押しつぶし、沸騰する星の眼球につけねらわれている恐怖心を押し殺し、一歩の距離が勝敗をわかつ距離にまで接近を果たした。

 ズィールは自分を中心にして広がるように回転させながら[星の獣スターチャイルド]を放つ。

 地面ギリギリに動く[星の獣スターチャイルド]が地表をガリガリと削っていき、独自の磁場を放って無数の石礫を高々と空へと打ち上げた。

 まるで地雷がいっせいに爆発したような炸裂にオーケンリッターは飲み込まれる。ミシリと音を立てたのは甲冑か骨か。知らない。そんなものはどうでもいい。オーケンリッターは足を一歩踏み出す。抗うために。

「ぉおおおおおおオオオッ!」

 横を流星が通り過ぎていく中、弾かれそうになる引力を気合いではね除ける。

 そして、ついに間合いの中へズィールをおさめることに成功した。

 一撃必殺の槍を引き絞り、全てに決着をつけるためにさらに一歩歩を刻んだ。

 人の肉を失い、甲冑そのものと化した両腕に力をこめる。ぎしぎしと骨が軋むように引力に囚われた甲冑が歪んでいく。指があらぬ方向へと折れ曲がり、留め具が四散するようにはじけ飛んだ。

 しかしその人間には計り知れない星の力をも、オーケンリッターの執念はついに完全にはね除けおおせた。

 軋む両腕が破壊されかけたのは刹那の間、同時にオーケンリッターは魔槍を必殺の構えへと移行していた。

 ――突き穿つ。

 ただそれだけに特化した刺突の構え。
 全身の全てをただ突きこむことに注ぎ込んだ必殺の一撃。

 武人として特殊な攻撃手段も技も持たなかったオーケンリッターが辿り着いた極地。基礎の刺突を絶技に変える一刺し。

――殺す」

 呟かれるのもまた飾り気のない一言。

 数えるのも馬鹿らしいほどの積み重ねを、オーケンリッターはかつての主の前で、何よりも実感できる敵に対して披露する。漲る力を切っ先に乗せ、必殺の突きを放った。

 槍が曲がったかと思えるほどの見事な一撃。咲き誇る血の華はそれ自体が一つの芸術にも似て、貫いた肉の感触はカタカタと魔竜の甲冑を揺らした。

 ずるり。と、命を抜き出すように槍を引き抜く。

 溢れ出す血と共に目を大きく見開いたズィールが膝を付き、前のめりに倒れ込んで――

「ああ、殺そう。我々が平等であるために」

 傲慢な呟きと共にたぐり寄せられた星の仔に、オーケンリッターの身体は跳ね飛ばされた。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 ドラゴンの恐ろしさというものを嫌と言うほど聞かされ続けた頃があった。

 その獣がどれだけ強く、また凶暴なのか。
 厄災と呼ばれる由縁とそれがもたらした惨禍について、どの先達と話しても話題にあがった。

 正直、辟易していた。

 そんなものは一度聞かされれば覚えきれるし、同じことを聞かされるたびに心に刻んだ想いを深められるほど殊勝な性格はしていない。一度言われればそれでいいのだから、二度も三度も、十度も百度も言わないで欲しい。

 同年代の他の騎士は、皆そこまで念を押されなかった。自分にだけみんな口うるさく言う。

 それだけ期待されていると思えば悪い気はしなかったが、困るものは困る。いつしかそんな口うるさい先輩方とは距離をとって、のんびりとすることが多くなった。

 それでも自信はあったし、何ら先達たちに悪いことをしている気はなかった。

 安心すればいい。自分こそが紅き騎士の祈りの結晶。騎士姫の故郷の地が生んだ最強の騎士にして無謬の才能。新たなる次代の夜明けと未来を切り開く騎士の誉れにして、ドラゴンを滅する竜滅紅騎士――

 それを弁えてさえいれば、再三の説教になど耳を貸さなくてもいいと思っていた。問題など何もないと思っていた。

 そのときは本当に、心の底からそう思っていた。

 


 

 炎の中から飛び出したトーユーズは、焼けて半ばが溶けた服より先に、頬についた煤を気にして拭った。

 髪を留めていたリボンが灰になって、ぱさりと長い髪が解ける。
 炎の残滓が辺りに火の粉を舞い散らせる中、トーユーズは深く深く深呼吸した。

 大きく吸って、短く吐く。

 体内に流れる目に見えない何かを整えるように。腹の底に力を溜め込むように。ドラゴンが再び動き出すまで、その反復動作を繰り返した。呼吸の度に身体のあちこちから間欠泉のように血が噴き出す。血管が表面に出るまで焼かれてしまった部分もあるらしい。焦げた肉の臭いがする。

「油断も驕りも、もう微塵もないっていうのに……それでもこの様か」

 頬に広がった煤を舐めとり、苦々しい味にいつかの涙の味を思い出す。あのときほど苦々しく感じないそれは、正しく無力さ故についた傷。自らの命が飛び散る代わりに負った消えない傷は、今もこの胸を締め付ける。

「だから――

 トーユーズは双剣を構え、視線を細く閉じた。

 地上で起きあがるドラゴンの影と、その影が落とす本体を見やる。
 三次元の影と二次元の本体。どれだけ影を倒そうとも、本体に影響がないならば、狙うは漆黒の平面のみ。

「あたしはあなたを――――滅す」

 殺意を超えた闘気を纏い、トーユーズは手を両の腰へと送る。その瞬間、持っていた双剣が目に見えない不可視になった。

 身動ぐことなきドラゴンの本体――人間でいうところの影に該当するものが縦の方向に伸びていた。ちょうど口から前方広範囲に伸びているそれは熱を持たない影絵の炎。が、それがトーユーズの影まで伸びた瞬間、ドラゴンの影が口を開いた。

 影とは本体を忠実に真似るもの。ドラゴン口を開いた瞬間、トーユーズの目と鼻の先の空間に炎が生まれていた。

「ふっ」

 一秒を切る炎の速度にも、トーユーズの反射速度は勝っていた。後ろに飛び退くが早いか、トーユーズは六歩ほど後ろに移動していた。

 普通に考えるならば、炎の勢いを考えればそこも射程圏内に入ると思われた。だが、炎はちょうどトーユーズの目の前で不自然に勢いを消失して消え去る。僅かな熱波がトーユーズの前髪を揺らすも、それだけだ。

 つまり目の前のドラゴンの『速度』と『瞬間移動』の正体がそれだった。

 ドラゴンの特異能力である【逆さ影】は、本体と影を入れ替える能力なのだ。人間にとって影に該当する部分がこのドラゴンの本体であり、人間では本体に該当するものがドラゴンにとっての影。どれだけ斬っても手応えが薄いのは当然。影である以上、敵を斬った感触が乏しいのは当然である。

 このドラゴンの速度が素早く思えたのも、実際は影より先にその本体が足下から近付いてきていたというわけ。瞬間移動も同様だ。
 影は本体に追随するもの。平面の本体が獲物の足下に近付いていたのなら、影は本来の速度を無視して獲物まで到達できるという寸法である。

 影の炎が、本体が吐いた平面の炎に該当する部分までしか具現できないところを見る限り、恐らく影は本体の影響下を超えられないのだろう。つまり影と本体が自由に交代できるわけではない。

 ならば、このドラゴンを倒すには平面の方を破壊し尽くせばいいのだが、まだ一つ試していないことがある。その結果如何によっては攻撃手段が限られてくる。

 トーユーズはドラゴンの手の内を暴くため、これまでよりも低い体勢で疾駆した。

 空へと飛翔した影が襲いかかってくるも、これを見切って避け、相手にはしない。
 今見るべきは敵の本体のみ。腰へと寄せたトーユーズの右手が閃き、残像すら残す勢いで刃が奔る。

 居合い――鞘走りを利用した神速の剣技。

 一瞬の交差で放たれた斬撃は四つ。平面のドラゴンを映す地面そのものを切り刻んだ。

 しかし、影絵のドラゴンが本体には何のダメージもないことを証明するように尾を振るう。トーユーズは舌打ちしつつ尾を飛び越え、大きく距離をとって着地した。

「別に地面そのものが本体ってわけじゃないようね」

 検証の結果わかったことは、ドラゴンの本体はあくまでも『影が落とす本体』であって、映り込んでいる地面そのものではないということ。恐らく本当の意味でドラゴンは平面なのだ。三次元に生きる自分たちとは、根本的に存在する異相が違うのだろう。

 これを断つには次元を切り裂く攻撃か、あるいは平面のドラゴンが三次元へと攻撃を仕掛けてきた瞬間を狙うしかない。

 さしものトーユーズにも次元を超える斬撃は放てない。あと数年あれば放てる自信もあるのだが、現時点では無理だ。

「となると、乾坤一擲。身を切り裂いて敵を切り裂くしかないわね」

 ここに来て再びトーユーズの意識は影のドラゴンへと移る。

 先程平面のドラゴンが立体化したのは、影のドラゴンの首を切り落としたとき。つまりは動物的な本能により、その一瞬の油断をついて仕留めようとしてきたのだろう。この平面のドラゴンに確固たる理性があり、三次元への影響を断たれればトーユーズに勝ち目はないが、相手が獣である限りまだ打てる手はある。

「さて、それじゃあ切り札を切るとしましょうか」

 トーユーズにとっての切り札。それは普通の斬撃では切り裂けぬものを切り裂く、大破壊の一撃だ。十年あまりの探求の果てに生み出した魔法と剣技の融合。自分の属性と性質の極みともいえる奥義。

無情の夜に鳴きたまえ

 口ずさむ加速の韻にして起動の言葉。
 トーユーズは両手を腰元に添えながら、起きろと不可視の鞘に語りかけた。

 目には見えない鞘の感触をトーユーズは常に感じている。その手は愛剣の柄を見誤ることはない。けれども、このときトーユーズは本来柄があるべき部分の上で手を彷徨わせていた。

(ど〜ちだ?)

 心の中でそう呟いて、貪欲に魔力を吸い始めた鞘を選定する。
 
 トーユーズが持っている不可視の鞘『無限鞘』は、その鞘の内に込めた剣を鞘ごと不可視にすることができる、極めて貴重な奇襲用の魔法武装であると同時に、鞘の中に無限ともいえる魔力を溜めることができる杖である。

 その性質は『干渉の魔玉』に似通っており、常に魔力を装備している相手から吸い取っていく。あくまでも双方で干渉を起こして吸収するため、その配分量はトーユーズ自身が計ることができた。

 天才的な剣技の才、魔法の才などを有するトーユーズには、その力量に比べてしまえば唯一といってもいいほどやや欠けているものがある。それは総魔力量だ。

 高位の魔法使いに匹敵する量は持っているが、使徒やドラゴンはもちろん、高位のエルフにも到底敵わない。常の制御を万全にした戦闘には十二分でも、大破壊を引き起こすには少々心許ないというのが実際のところ。

 不死のものを殺すためには、多量の魔力が必要というのはトーユーズだけじゃない世の真理だ。使徒がドラゴンを倒せる理由にも、その常人の百万倍に匹敵する魔力が理由なのだと言われている。そんな使徒が一度に使う魔力量を出すためにはトーユーズクラスの魔力持ちが千人は必要なのだ。

 もちろん自身の才能を熟知しているトーユーズは、世の中に自分と並び立つ者が五人といないことを理解している。だからこそ、トーユーズに使徒並みの魔力を運用する大破壊は事実的不可能といえる。神殿や儀式場で増量するのにも限度がある。

 論理と計算の結果、トーユーズの才能に使徒並の魔力が合わされば、世にも絶する大破壊を行使することができるのだが……。

 魔力が足りない。事実的不可能。

 そこで諦めるトーユーズではなかった。

泣きながら剣を握りたまえ

 バチリ、バチリと鞘が内に秘めた雷気を徐々に鞘の外へと放出し出す。

 トーユーズが求めた結論がこの『無限鞘』にあった。自身の魔力保有の上限があるというのなら、上限のないものに自身の魔力を溜め込めばいいだけの話。

 剣匠でありながら剣以外の選れた武具を作った名無しの剣匠ネームレス・スミスの作品が一、この『無限鞘』は、担い手の魔力をそのままの形で保存・貯蓄することが可能だった。トーユーズはいかなるときもこれを身につけ続けることで、気配すらない鞘に日々使わない魔力を溜め続けていた。

 つまり使徒が一日に百万の魔力を使えるとして、一日に千の魔力しか使えないトーユーズであっても、千日の間溜め続ければ使徒に匹敵する魔力を用いることが可能なのだ。

 とはいえ鍛錬を欠かせば根本的な戦闘能力が低下するため、日々まったく魔力を使わないわけにもいかない。しかも一度『無限鞘』を解放すると、中の魔力を出し切ってしまうという難点もある。 
 少しずつ少しずつトーユーズは、『無限鞘』を手に入れた五年前より溜め込んでいたが、前回ラバス村の一戦でこれを解放している。現在『無限鞘』に込められている魔力量はトーユーズ本来の魔力量の十倍といったところか。

世は無情 生は無情 生きるも死ぬも世は地獄

 一時的に『無限鞘』にこめられた魔力を自分の魔力の上限にして放つ方法はすでに会得している。設定した詠唱を紡ぐことによって、『無限鞘』は解放のシークエンスに移る。

 煌々と秘め続けられていた魔力が帯を巻いてトーユーズの身体に絡みつく。濃密になった魔力にドラゴンは恐れをなして様子見に徹していた。

 不可視の鞘が雷光を輪郭に伝わせ、優美な曲線を露わにする。トーユーズの身体をも包み込む輝きは黄金の他に蒼銀も輝かせる。これまでの戦闘によって大気中に散った雷気が磁場によってトーユーズに収束しているのだ。

 ドラゴンはここに来て様子見よりも恐怖を覚えたのだろう。俄然と襲いかかってきた。

 本体と影が同時に動く。空へと駆け上って真っ直ぐ滑空してくる影と、直線で這い寄ってくる本体。二つ同時に襲いかかってくることこそがトーユーズの狙いだった。

故に ただ剣を握りたまえ

 人間という小さな相手を倒すためには、必ずや本体と影が接近しなければならない一瞬がある。ドラゴンにとって影は犠牲にしていいもの――つまりは囮だ。そしてトーユーズはその場を一歩たりとも動かない。自身を囮にする以外に平面のドラゴンを三次元に誘う手段はない。

 そして死ぬことなくドラゴンへと攻撃するには、一撃で影を消し去る必要がある。

誉れがために 主上のために 騎士よ今剣を握りたまえ

 そのために放つ一撃について――トーユーズには選択する権利があった。

 影のみではない。本体も、ともすれば一撃で消し去ることができるだろう『鞘』をトーユーズは有している。

 存在する『無限鞘』の数は四つ。その全てをトーユーズは手中に収めている。

 前回使った、もしものときの奥の手と決めている二対一組の鞘以外にも、トーユーズにはとっておきがある。かつての愛剣にして本当の愛剣をこめた、非常時用の百倍以上の魔力を溜め続けている鞘……それを使えば目の前のドラゴンを消し去ることができるかも知れない。

 そう、トーユーズは本体に攻撃する手段を見出したが、ドラゴンそのものを消し去れる可能性は低いと踏んでいた。キメラさえ一撃で倒せなかったのだ。ドラゴンを一撃で滅することができるとは考えられない。

 あの日の苦悩と屈辱を覆すにはドラゴンに勝つことが必要だが……しかし、それはこの場において本当の勝利といえるのか?

 グラハムが言っていた。トーユーズ・ラバスの役目はドラゴンの足止めだと。フェリシィールは言った。今回の勝利とは、即ちドラゴンを含めた魔獣の全滅ではなくベアル教の壊滅にあると。

 ここでたった一度しか使えない本当の切り札を切っていいのか? 
 倒しても竜滅姫の生存に繋がらないドラゴンを倒すことが、本当にあの日の涙に釣り合うのか?

 迷いに費やした時間は本当に少なかった。
 つまり――ここで疑問を過ぎらせている時点で、答えなど決まり切っていたのだ。

「ドラゴンとは何か……それはあたしにとって永遠の好敵手。
 人の限界はどこにあるか……諦めたとき、それがその人の限界。
 自分を許せる美しさ……それは心の底から自分を褒められる一瞬に」

 トーユーズが選んだのはいつも使っている剣の柄。
 触れた瞬間、全ての雷気が再び鞘の中に――剣の中に秘められる。

「今日のところは速さであなたに勝ちましょう。いつか、そう――

 本体が先に辿り着く。刹那のあとに影が追随する。

 突如現れるドラゴンの顔と、その口の中に灯る炎の光。すでに平面の炎は放たれている。影が本体に追随するのにかかる速度は条理を逸する。

 ならば、今日自分はそれを超えよう。
 居合いという人の技術をもって、極限の速さに今挑もう。

 全ては、そう。あの日涙した騎士が再び、許されない聖句を紡げる日のために。


――永久に麗しき稲妻となるために


 条理を覆す速さがある。

 空間をねじ曲げる速度で閃いたトーユーズの右手が、鞘より膨大な破壊の魔力と共に斬撃を放った。

 上下に分割された影のドラゴンが、血さえ蒸発させるような破壊の光の中へと消えていく。

 灰の一つ、血の一滴も残さぬ破壊の顎がドラゴンの身体を食い尽くした。直線上の地面には惨たらしい破壊の傷跡が残る。が、平面のドラゴンには一切のダメージはない。

 鞘にこめられた全ての力が解放されたそのとき、トーユーズが纏っていた魔力が消え去った。刃もまた鞘より抜け出て、振り抜かれた格好のままトーユーズの脇ががら空きになっている。

 馬鹿め。と、せせら笑うように足下から平面が立体に変わる。

 影が蠢き、黒い漆黒のドラゴンが現れる。立ち止まった獲物の足に食らいつく。

「お馬鹿さん」

 トーユーズはせせら笑って、わざとがら空きにした左の脇腹に食いつく巨大な顎に向かって、血を吐きながら未だ柄を握る左手を再度閃かせた。

 直下に放たれる斬撃の閃光。
 影が存在することを許されないほどの光の直撃を受け、影のドラゴンはその肉体を四散させた。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 ヤシューが両腕を広げると、再び肉が割くような音と共に魔法陣が輝き、破壊の右腕と束縛の左腕が復活する。

 その間に飛ばされた剣を拾ったジュンタは、口に溜まった血を唾と共に吐き出して、静止した状態で[加速付加エンチャント]の効力を強めることに務めた。

 ヤシューの防御力の前では、生半可な攻撃は意味がない。切れ味の高いジュンタの双剣でも[加速付加エンチャント]なしでは傷一つつけられない。エルフが生まれ持つ魔法制御の力――その全てを肉弾戦の強化に費やしているヤシューに対抗するなら、限界ギリギリまで高めた[加速付加エンチャント]が必要不可欠だ。

(ヤシューは強い。正直、俺とじゃかなりの差がある)

 ジュンタはまだ剣を習い始めて半年にも満たない。経験の差、錬度の差は覆しようのない。

 勝機は薄い。ならばやることは一つ。

 前回はサネアツと協力することで奇をてらったが、今回はそういった隠しだねは用意していない。正々堂々と果たし合うと約束した以上、そんなことをして勝ってもジュンタは誰にも顔向けできないし誇れないだろう。

(だから、正々堂々正面から奇をてらう)

 罠ではなく技をもって奇襲となす。そのための方法なら最初から手の内にあった。

(先生が言ったことが本当なら、俺は先生よりも先へ行ける。もっと早く走れる)

 聖地に来てからの修行の最中、トーユーズが今回の戦いのため、言い含めるように改めて教えてくれたことがある。
 
(『加速』の魔力性質を具現化する[加速付加エンチャント]は、注ぎ込む魔力を完全に制御した量で、その速さが決まる)

 トーユーズの戦い方の基礎であり全ての根底である技法[加速付加エンチャント]は、会得するのは容易く、極めるのは難しい技であり魔法だ。

 発動するだけならば酷く簡単だが、これを戦闘でも使えるレベルに引き上げるのには、魔力を常時注ぎ込むだけの総魔力量と注ぎ入れた魔力を制御し続ける高い制御が必要となる。魔力量だけでは極みに至れず、集中だけでは最強は語れない。

 師であるトーユーズは集中力においてはつけいる隙がないが、彼女は自分の魔力量が高位の魔法使いに毛が生えた程度しかないと言っていた。それでもすごいのだが、逆にいえば彼女の百倍近い魔力量を持つ自分はさらにすごいということになる。

(俺の中にある魔力の内、制御して[加速付加エンチャント]に使えてる量は先生の半分以下……しかも極めて不安定で出力もバラバラ)

 しかし、あまりに多すぎるために制御が追いついていない。

 修行と度重なる危機の連続の結果、ジュンタの[加速付加エンチャント]はそれなりの高水準にまで持っていくことができた。とはいえそれは一般論での話、トーユーズの剣に必要な[加速付加エンチャント]としてはまだまだ制御も密度も甘々だ。
 使徒の魔力量の千分の一、万分の一以下しか[加速付加エンチャント]に使えていないのだ。それでも並の相手ならば十分だが、相手が高位の使い手となれば圧倒的に足りない。
 
 せめて百分の一の[加速付加エンチャント]が使えるようにならなければ、この敵は倒せない。
 一般の魔法使いレベルにおいては、今ジュンタの速度を高めてくれる[加速付加エンチャント]が限界だが、使徒の[加速付加エンチャント]ならまだこの先がある。トーユーズの限界を超える速さをジュンタは手に入れられるはずなのだ。

 速さであって速さではなく、速さの先にあるもの――師トーユーズが体現するそれをもってすれば、ヤシューに正面から奇襲を仕掛けられるはず。

([稲妻の切っ先サンダーボルト]じゃダメだ。あれは一直線にしか進めない。せめてあれ並の速度と威力で、一度は軌道の変更ができないと)

 静止状態でのみジュンタの[加速付加エンチャント]は高ぶり、密度を増していく。しかし戦いながらとなるとこの半分以下しか効力を発揮しない。さらに速度を高めるとなると、どうしても小回りがきかなくなるし軌道も単純になる。

 動物的本能で対応してくるヤシューには、フェイントをこめた攻撃でなければ直撃は不可能。彼はジュンタ最強の[稲妻の切っ先サンダーボルト]も受け止める。やはり軌道の変更は必要不可欠だった。

「ふぃ、さてそろそろお互い力は取り戻せたよなァ」

 構えたまま勝利するための思考に意識を傾けていたジュンタの視線を、完璧に復元された両手をグルグル回すヤシューが自分に引き戻す。

 相手の方は飄々とした態度を崩すことなくすでに準備万端。これ以上考えている暇はない。

「それじゃあ、そろそろ戦闘再開と行きますか。そうチンタラもしてられねェだろ?」

「同感だ。遅い。遅いんだ。色々とな」

「つーことは、何か俺に勝つ秘策でも思いついたと、そう好意的に解釈してもいいんだよなァ?」

「ご想像にお任せする」

 やはりヤシューも自分の優位には気付いていたか。ジュンタとしてもこの戦いのために用意してきた秘策の一つや二つあるが、パワーアップしたヤシューの力が想像を二回り近く超えていた。この程度の秘策が通じるとは思えない。

(やっぱり、先生が言ってくれたとおりの速さじゃないとな)

 惜しむべくは、あまりにも多すぎて制御するに厳しい使徒の魔力か。せめて総魔力量が半分ぐらいだったなら、もっと高度な[加速付加エンチャント]も使えるのに……

(ん?)

 何かに、ジュンタは気が付いた。

 今はまだ辿り着けない[加速付加エンチャント]に辿り着く方法を、今閃いた気がした。

「行くぜ!」

 今一度自分の考えを纏めようとしたジュンタを、本能からか、見事に邪魔するタイミングでヤシューが仕掛けた。

「ちっ」

 思考を中断して、ジュンタは集中しておいた力を解き放つ。
 静から動へ。尾を引く虹の稲妻を虚空に描きながら、ヤシューが放った右ストレートを避ける。床が砕け散るのを見ながらドラゴンスレイヤーを構えたまま背後から遅いかかる。

「見えてるぜ!」

「だろうな!」

 完全に死角に紛れ込んだあとの攻撃というのに、ヤシューはまるで背中に目があるように、完璧に左腕を盾にして防ぎきった。ドラゴンスレイヤーで攻撃したのが幸いした。左腕の束縛に巻き取られることなく、ジュンタは距離を取ることができた。

「動物的本能による反射防御と絶対の防御力……前から思ってたけど、普通戦闘狂ってのは攻撃力が高くて装甲薄いものだろ?」

「なぁに、俺は普通の奴らとは犠牲にしているものが違うってことだ。それに装甲硬い方が楽しい時間も長く味わえるだろうが!」

 右腕で強く床を叩き、砂埃を立ち上げる。
 それを目隠しに使って、ヤシューは予想していた角度より僅かに外れて迫ってきた。

 攻撃を受け流すことによってヤシューの拳の威力を最小限に止めてきたジュンタにとって、軌道がずれた分だけ受けるダメージは増す。左の剣で受け流したが、受け止めきれない衝撃が左半身にしびれを残す。

 さらにそこから至近距離から猛烈なラッシュを加えてきたヤシューへの対応も、初撃で遅れた分が次へ次へと積み重なってダメージが加算されていく。右の剣も使うことで左右の攻撃を受け流し続けられてはいるが、ヤシューの左腕の攻撃は魔を断つ力のない左の剣では受け流せない。実質、防戦一方で追い詰められているに等しい。

「おぉおおおおおオオオ――ッ!」

 視界内に、ついに[加速付加エンチャント]の制御が崩れていく予兆が現れる。制御しきれていた部分が攻撃への対応で集中が削られ、暴発のスパークとなって弾ける。虹色の花びらの如くいくつも咲き乱れる様は、まるで魔力そのものが拳によって削られていくよう。

 魔力量が豊富のため枯渇することはないが、それでも無制限ではない。少しずつ、少しずつではあるが魔力量は減っていって……

 ――そこでジュンタは、さらなる高みへ至る渾身の方法を思いついた。

「あ?」

 全身の力を抜くように重心を後ろにずらし、ジュンタはドラゴンスレイヤーを前面、旅人の刃を後ろに置くことでヤシューの威力が若干少ない左腕の攻撃を受け止めた。

 重心が傾いていたことによってふんばりがきかず、攻撃の衝撃と共に視界が急速にずれていく。思い切り吹き飛ばされたジュンタを訝しげに見たヤシューは、次の瞬間その場でこれまで以上に拡散していた雷気を全身に浴びることになった。

――加速付加エンチャント]!」

 ジュンタは着地した先で、自らの意志で全て暴発させた[加速付加エンチャント]を再起動させる。虹がゆらめき筋肉が膨張するように力が漲る。

「おいおい、ジュンタ。こんな不発弾残して何するつもりだぁ?」
 
 至近距離でそれなりの電撃を喰らったはずのヤシューは、しかしまったくの無傷で平然と笑っていた。

 元々の防御力に加えて、指向性のない雷撃など意味をなさない。
 量にして魔法使い一人分程度はあったろうに、地属性に雷属性の攻撃はききにくいのだろうか?

 スタイルでの優劣こそあるにせよ、魔法属性間そのものの優劣はなかったと記憶しているジュンタはそんなことを思いつつ、今度は自分から仕掛けていった。ヤシューに今の不発弾の意味を悟られない内に。

 連続してドラゴンスレイヤーだけで攻撃をし続ける。反撃とカウンターを旅人の刃のみで受け止め、ドラゴンスレイヤーは攻撃に徹しきる。

 さすがに凌ぎきれないと判断したのか、ヤシューが横へと軸をずらす動きを見せた。その瞬間を見逃さず、ジュンタは再び全身から力を抜いて[加速付加エンチャント]を暴発させる形で解除した。

 大気が異音を奏でて、再び雷撃がヤシューを見舞う。

 ジュンタは身体に微かに感じる脱力感に――自分が思いついた策の成功確率を確信した。

 よくあるだろう。ピンチになるとパワーアップするとか、つまりジュンタが目指すのはそういうこと。この戦いの間でもう一つ上を目指すのだ。

 もしも作戦が首尾良くいけば、ヤシューにとびっきりのものをお見舞いしてやることも可能だろう。使うタイミングを見出せていなかった新必殺技もお披露目できるかも知れない。

「戦いの間に進化する……なるほど。そんなアホみたいなことを実際に言えるなら、俺の力は愉快だな」

「おいおい、どうした? ジュンタ。顔が引きつってるぜ?」

「引きつってるじゃない。笑ってるんだよ。なんてったって楽しいからな」

「ああ、同感だ!」

 かわされる笑みはお互いに終わりが近いことを予感させた。

 雷気が二人の決闘場に無数の稲妻を呼び起こす。
 落雷のような音が振り落ちる中、全身から魔力を放出するジュンタは、静かに虹色の雷の中に自身を埋没させていった。

 水面に虹の滴が一滴……。

 波紋は起きる――――さあ、決着をつけよう。









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