第十二話 燃え落ちる欠片 「ディスバリエ・クインシュからの反応はなし、か」 「気配も一切感じられません。魔法が転移される様子も見受けられませんし、もしや逃走を測ったのでは?」 サネアツの言葉にユースが推察を入れる。ディスバリエが何かしらの儀式の鍵を握っているのなら、その鍵を破壊されないよう逃げることは考えられる。冷静さを失っていた彼女とはいえ、そう長い間我を失っているとも思えない。 「ディスバリエ・クインシュは間違いなく儀式の鍵を握っています。このまま逃がしてしまっては、別働隊として動いた意味が何もありません」 今回の作戦の肝がベアル教の儀式阻止なら、このままディスバリエに逃げられてしまえば大敗も同じ。ここで散った多くの戦士の魂が無意味なものになってしまう。 それを避けるためには、何としてでもディスバリエを誘き出す必要がある。けれど謎深き彼女をどうやって誘き出せばいいのか? クーとユースの視線は自然とサネアツへ集まっていた。彼ならば何かをやってくれる――もとい、何をやってもおかしくないという奇妙な信頼が、視線を彼へと集めさせていた。 「……ふむ。難しいな。俺はディスバリエ・クインシュについて多くは知らんし、この儀式が彼女にとってどのような意味を持っているかわからない。が、このままずっと身を潜めているとも思えんな」 「と、言われますと?」 「これがここにある意味を考えると、だな」 サネアツは自分が足をつける灰色の床を軽く尻尾で叩くと、 「『封印の地』にわざわざこんな城を構築する必要性など存在しない。むしろ私はここにいる、と目立ってしょうがないだろう? つまりこの『ユニオンズ・ベル』には、ここに存在しなければいけない確たる理由があるわけだ」 「それが儀式に関わりがあると?」 「恐らくは、ここは神殿に近いのだろう。神殿は特定の魔法を使うための最大級のバックアップ。儀式はここを中心に行われる可能性が高い。ということは、ディスバリエ・クインシュを捕まえられなくとも、この城に儀式を阻害する仕掛けを施せばあるいは妨害も可能なのではないか?」 まさに驚嘆すべきはサネアツの推察力だった。『狂賢者』ならば何をやってもおかしくないという先入観が目を曇らせていた。確かに、神殿魔法の特性と魔法の限界を鑑みれば、聖地を崩壊させるほどの魔法行使には、神殿のバックアップが必要不可欠のはずだ。 「とはいえ、サネアツさん。ここが本当に神殿ならば干渉することは容易ではありませんよ」 サネアツを尊敬の眼差しで見つめるクーの横から、ユースが冷静そのままの様子で水を差す。 「加えて、神殿魔法は接続さえ叶ってしまえば、あとは契約者不在でもどうとでもなります」 「ユース。以前『ナレイアラの封印の地』を司る神殿と契約したように、ここの神殿の権利も書き換えられないか?」 「不可能です。この神殿との契約条件が不鮮明ですし、私の特異性と契約の特異性が合う可能性は万が一つもないでしょう」 「物理的な破壊は不可能。書き換えも無理。ならば、やはり契約者であるディスバリエ・クインシュをどうにかするのが一番てっとり早いか」 ユースの助けを借りて持論を纏め上げたサネアツは、ニヒルに笑う。 大気の壁を炎が切り裂き、酸素を取り込んで炎の温度がさらにあがっていく。 「はぁああああ――ッ!」 熱がリオンの紅の髪を、まるで自ら燃えているかのように発光させている。 骨を砕かれた一撃、ウィンフィールドとの戦い、それらからボルギィが狂戦士化によってどれだけパワーアップしたかは把握している。正直両者に横たわるのは絶望的な差。だがそれがどうした。勝てる相手だから挑むのではない。勝ちたいから、勝たないといけないから挑むのだ。 まるで未来を視ているかのような動きでボルギィの攻撃を避け、剣を振るうリオン。 傷を負うたびに、本来傷口から出るはずの血を血色の吐息として狂戦士は吐き出す。筋肉は際限なく膨れあがり、それに伴い攻撃の速度と威力が増していく。 離れようにも、速度でさえもはやリオンを凌ぐボルギィからは逃れられない。挑むと決意したあの瞬間よりすでに退路はなかった。 身体が痛い。剣を握る手に力が入らない。 紙一重で攻撃を凌ぎつつも、時折かする攻撃がリオンの身体から鎧や肉を削いでいく。砕かれた骨は高揚によって繋ぎ止めているが、絶え間ない激痛が駆けめぐる。 偉大なるこの身にここまで傷を負わせる戦士など、一体いつぶりか。まさにこのボルギネスター・ローデの実力は達人の領域にある。普通の人間ならば辿り着くことが出来ず、才ある者でも血反吐を吐いてようやく辿り着ける境地だ。 そこに至る理由は人それぞれ。リオンはボルギィが何を糧にしてそこまで強くなったのかは知らない。そもそもリオンはボルギィについて何一つ存じていない。 ボルギネスター・ローデはリオン・シストラバスの原初の敵であり報復の相手。戦いを願っていた宿敵。 (私が考えても詮無きことですわね、そんなこと) 何てことはない。それだけだ。 雄叫びと共に突っ込んでくるボルギィ。 これまでの僅かな激突でボルギィの手の内を読み切ったリオンは、これより四手先に自分が彼の攻撃を凌げないことを悟り、五手先に何とか反撃できる糸口を視た。 避けられない。敗北しかない。そうと知りながらも、リオンは笑みを浮かべて剣を振るった。 一手二手三手が同時来た。それらはリオンの逃げ道を完全に防ぎきり、そうしてこの血を絶やさんとする止めの一撃は振りかぶられる。 死を予感して、なおそれに挑んだリオンは、真っ向からそれに立ち向かうことを選んでいた。 敗北の未来を覆し勝利を掴むには、この一手を凌ぎ切るしかない。それには自らの強者への渇望、その糧なるものが燃え上がることが必要。 リオン・シストラバスの糧。それは―― 「我が矜持によって燃え落ちよ!!」 この血とこの愛に対する誇り! それを戦いの中で勝利を引き寄せる要素と信じ、リオンは灼熱に光る剣を迫る大槌目がけて振り切った。 腕力差を矜持で塗り替える。達人への扉を、剣の腕のみならずその魂の叫びをもって切り開く。 柄以外を失ったボルギィの動きが一瞬完全に止まる。 炎の帯を伸ばして、リオンは剣を振り抜いた状態でボルギィの脇をすり抜けた。 灼熱の刃は、鋼鉄よりも硬いボルギィの肉体を容易く切り裂いた。どれだけ筋肉によって防ごうとも、避けようのない致命傷を刻みつける。 血の代わりに炎を振り払い、剣を指輪に変える。 切り裂いた傷口を中心に燃え広がっていく不死鳥の炎――魔を燃やす炎は、ボルギィの肉体を怪物へと変えていた力そのものを消滅させていく。虚空をじっと見つめていたボルギィの瞳にうっすらと理性が戻る。 浅く吐息を吐き出したボルギィは、何か憑き物が落ちたような顔をしていた。 「我が名はリオン・シストラバス。報復の誓い、確かに果たさせていただきました。騎士ボルギネスター・ローデ」 炎の中、輪郭が人のそれに戻ったボルギィは、笑みを作った顔で振り向いた。 狂戦士に堕ちた破壊者は、最後に騎士の礼を取って燃え尽きる。 リオンは静かに目を伏せ、一人の騎士の最期に黙祷を捧げた。 「なんのつもりだァ? ジュンタ」 ジュンタが行った無意味としか思えない魔力の無駄遣いを見て、ヤシューは警戒を強めている。無意味な牽制とは思っておらず、そこに何かしらの意味があると気付いている顔だ。 再び虹色の雷を纏ったジュンタは、軽く倦怠感のある両手足を解すように構えを取りながら、飄々とした態度で答えた。 「なんのつもりも、ただの時間稼ぎだよ。ヤシュー。お前を倒す秘策を用意するためのな」 「もしかして、他の奴らが来るまで待とうって腹じゃねぇよな? ちげぇか。テメェは真正面からやるといったら、真正面からやる奴だからなァ」 「なんか最近俺を過大評価する奴が多いな。ま、悪い気はしないけど」 こっちの時間稼ぎを警戒するヤシューに誤解を与えようとしても、こと戦いに関してはまっすぐ過ぎる彼は騙されてくれない。このままでは、魔力を無駄遣いした理由にもすぐに気付くに違いない。 そう、まさしくジュンタは魔力を無駄遣いしていた。魔法使いが見たら顔を盛大に顰めるだろう無意味な暴発。しかし、多大な魔力を有するジュンタからしてみたら必要なこと。 つまりジュンタが思いついた作戦とは、魔力量を故意に減らすことにあった。 常に自分の魔力の底知れぬ膨大さと強大さを感じているジュンタは、細心の注意をもって魔力を汲み取っている。ならば魔力を減らしている状況ならもっと上手く[加速付加]が叶うはず。実際、ヤシューに気付かれないためこれまでと同等の[加速付加]を維持しているジュンタではあったが、今以上の出力を出せる確信を感覚として得ていた。 「どっちにしろ時間をかけて邪魔が入るのが困るってことには変わりねぇ。愉しい時間は過ぎ去るのがはえぇが、ここらで終わりにしとこうや」 できることならもう少し魔力を減らして起きたかったが、全部が全部上手くいかないか。 「ああ、終わりにしよう。お前からの誘いばかりにかまけて、他の奴の誘いに遅れたら格好悪いからな」 深く呼吸をし、ジュンタは瞬き二つ分の間目を閉じた。 刹那の内に、自身の内面へと埋没する。 自己暗示。ジュンタが描く魔力の波――虹の波紋はこれまで以上に広がっていく。感じ取ることができなかった暗闇を照らし、さらなる水平線まで広がっていく。無限とも思える心象の湖。見たことがないのに、どこか懐かしさすら込み上げる、抱擁の水面。 それはさながら上から見たら円形の虹の如く。満月が虹色に染まったかのような、虹の月。 目をしっかりと開き、相対する好敵手を睨んだジュンタの身体には、これまでよりも虹の発露が少ない、けれども密度において数段増した[加速付加]の輝きがあった。 ヤシューの方もこれからの激突に全てをかけるため、破壊の右腕に全ての力を注ぎ込んでいる。束縛の左手からは大地の籠手が崩れ落ち、左腕は骨を抜き取られたかのようにだらりと垂れ下がっていた。 「さぁ、とびきり熱い獣のベーゼをくれてやる」 凶悪的なフォルムへと姿を変えていくヤシューの右腕。彼の口からは一線どころか溢れるように血が顎を伝っては落ちていく。十を超える魔法陣を使って破壊の右腕を支えるヤシューがその力を手に入れた代償は、恐らくジュンタが想像していたよりも大きいものだったのだろう。 (このままじゃ――敗北の未来しかない) 戦う前から悟ってしまった。ギラギラと瞳をぎらつかせ、命の炎を燃やしているヤシューにはこのままでは勝てないと。文字通り命をかけてこのあとの戦いに臨もうとしているヤシューには、速さを底上げしただけじゃ勝てないのだと。 それでも、静止の言葉はここにはない。止められる者などどこにもいない。 「なら、せめて格好つけて、それでも勝ってやるって笑うしかないよな」 敗北の未来を否定する。 いつ剣を失っていたのか。ジュンタは素手で、笑うようにヤシューの強さを歓迎した。立ち塞がる敵。避けては通れないと思った好敵手。そんな相手が強ければ強いほど、今のジュンタには嬉しく思える。 「行くぞ、ヤシュー」 「行くぜェ、ジュンタァ」 血化粧した顔で笑うヤシューは、重く響く足取りで、ジュンタの加速を超える速度で肉薄してきた。 「ハッハー!」 フェイントのない愚直なまでの破壊の右。全てを費やし燃やした拳をもってヤシューは好敵手に挑み、ジュンタはそうなる前に飛びつきえぐり取ったドラゴンスレイヤーを構えて応対する。 (紛い物を見逃し続けたことに全ては責任があるのでしたら――ええ、答えは簡単。ここで全てを終わらせるとしましょう) それは冷静に狂った声で嗤うディスバリエ・クインシュ。クーの手で輝く虹が、貪欲に持ち主から魔力を奪い取り、組み立てた魔法陣の残滓を歪んだ円の形で揺らしていた。 どのような準備も策略をも無に帰す愛が、この世には存在する。 呼び出されたキメラの能面の如き顔が左右に開かれる。 暗い、暗い、泥の奥底より、眠れる狂気は姿を現した。 「神、神、神ヨォオオ」 そこにいたのは心臓より下を怪物と変えた異端導師――ウェイトン・アリゲイ。 泥より生まれ出たドラゴンの顎が大きく開き、灼熱の太陽は現れる。 二人の少女たちがその手で誰かを救うのなら、それができない自分は救われた誰かのための居場所を整えようと。自分が良かれと思う法を、自分たちに賜った奇跡が証明する神を、救われた人々に届けた。 聖なる神を讃える教え――自分とは違う、本当の救世主たる二人の友達のために、大切な二人が相応の幸福を手に入れるために、彼女はやはり笑いながら働いた。 世界は彼女が願ったように、光が満ち始め、笑顔で満ち始めていた。 『ありがとう』 けれど――彼女が自分なりの精一杯で贈った感謝は、二人の友達には届かなかった。 二人は言う。 『わたしたちよりも褒められるべき人は他にいる』 『別に誰かを救いたくて戦ったわけじゃない。感謝されても困る』 彼女には、どうして二人が感謝を受け取ってくれないのか、それがわからなかった。 結局の話、二人は世界のために戦ったわけではなかった。 二人は彼女が褒められない限り、褒められるつもりはなかったのだ。それを彼女は、最後まで気付くことができなかった。 与えられるべきふさわしい賞賛を何一つ受け取ることなく、二人は去った。 『あたしには報いてあげられる力がない。もう、応援してあげられる人も、いない……』 讃えられた彼女には、もう、応援すべき相手がいなくなっていたのだ。 『あたしには、誰かを応援することしかできないのに』 彼女は自分の手では世界を救えないのだと、そう思っていた。この手は何一つとして救うことができない。この身は救世主を応援することしかできない存在なのだと。 なのに、人々は、世界は、自分こそが救世主なのだという。 ああ。と、彼女は全てを理解した。 自分が救世主だというのなら――この世界はもう、誰にも救われないのだと。 けれども、彼女の前には人々の笑顔があった。期待に、希望に輝く笑顔があった。 そうして――彼女は再び探し始める。 この世界を救うために、
ガーゴイル全てを倒しても、ディスバリエからの反応は何もなかった。
「あの女は何というか、色々と反則過ぎやしないか? 『聖獣聖典』を用いた出鱈目な魔法もそうだが、何より俺が見た限りだが、確かにクーヴェルシェンの魔法で死んでいただろう?」
それはクーもまた思っていたことだった。
ディスバリエを凍りづけにしたとき、間違いなく彼女の心臓は止まっていた。人間として死んでいたはずなのだ。しかし、動きだし再び襲ってきた。生物的にいささか以上におかしい。
「まさかドラゴンと同じように、心臓を潰しても死なないとは言わないだろうが、そのからくりを突き止めない限り倒すことは無理だ。二人とも、何か気付いた点はないか?」
「私が見た限り、身体的な動きは人間の限界を超えてはいませんでした。しかし、こと耐久力が異常です。まるで……」
ユースがそこで言葉を止めた。自分で言っていて、あまりに馬鹿げていると思ったのだろう。
しかし同じ考えをまたクーも持っていた。
「ふむ。まるで人間ではなく人形のようだと、そうユースは言いたいのだな」
そしてサネアツも持っていた。
「はい。ディスバリエ・クインシュの肉体が人間を模造された人形のそれであるとするなら、心臓を氷漬けにされても生きていられる理由にはなります」
「人間を模造した人形……つまりは死体か。すでにディスバリエ・クインシュの肉体は死を迎えており、真に倒すべきは操っている人形師だということか。しかしユース、それは可能なのか?」
知識に溢れた万能メイドはは首を横に振った。
「私が知る限り、現在の魔法技術では死んだ人間の肉体を、生きているかのような動きで操るのは不可能です。生きている人間の脳を弄くり記憶を改ざんすることはできても、そんなことは――」
「いえ、できます」
ユースの常識を、クーは強い口調で否定した。
「クーヴェルシェン、あるのか? 死体を生者の如く操る秘技が?」
「はい。それは『狂賢者』自身が作り出した魔法――[共有の全]。意識や感覚全てを共有することができるあの魔法なら、あるいは」
「しかしクーヴェルシェン様。意識や感覚の共有は、自意識が空っぽでなければ混在を起こしてしまうのではないでしょうか? 実をいえば、以前クーヴェルシェン様に[共有の全]の魔法を使われた際の繋がりが今も私には残っていますが、それを逆算してクーヴェルシェン様の肉体を操ることができるとは思えません」
そう、本来なら[共有の全]は人形にしか使えない魔法だ。意識を空っぽにして相手に同調することで、ようやく本来の機能を持つ魔法。だからクーは人形として育てられた。
けれど、今まで考えもつかなかった方法だけど、死体を動かす分には不可能ではない。
「自分が人形ではなく、使用対象が人形であっても理論的には可能のはずです。その場合、相手のことを知ることは何一つできませんが、その肉体を操ることは恐らく、できます」
「なるほどな。どこかに本物のディスバリエが存在し、[共有の全]を用いて意識だけを死体に共有させ、操っているということか。それが事実とするなら難しいな。どんな攻撃を受けても殺すことはできないし、傷も回復させられてしまう」
サネアツの言葉にユースも頷く。
「倒す方法はただ一つ。いずこかにいる本当のディスバリエ・クインシュを倒すことだけになります。相手の能力を読み取れない以上『真言』の能力などは元々本体に備わっていたものでしょうから、手がかりといえばそういった能力を持つ人間……それがディスバリエの本体とくらいしか」
三人はお互いに視線で聞き合う。もちろん、誰もそんな能力を持つ人間を知るよしもなかった。
これで推察は止まってしまう。
今からディスバリエの存在するだろう本体を探し出すには、時間も何もかも足りなさすぎる。
「『真言』……他人に命令を遵守させる力……」
クーは一生懸命考えてみた。この中で最もディスバリエのことを知っているのは自分だ。あるいは十年前、自分は彼女の本当の姿を見ていたかも知れない。
もう覚えてもいない記憶……おぼろげに浮かぶのはやはりディスバリエの顔。あのときにはすでに自分はディスバリエの顔は今のあの姿をしていた。
いや――果たして本当にそうか?
「っ!」
「どうかしましたか? クーヴェルシェン様」
「今、何かに気付いて……」
頭に走る激痛。自分の記憶のおかしさに今気が付いた気がする。
「……そうだ。私はどうして……」
ディスバリエ・クインシュの顔だけを覚えているのだろう?
他の人の顔なんて覚えていないのに。本来覚えているべき両親でさえ、うっすらその輪郭と、呪いの言葉を覚えているだけなのに。どうしてディスバリエの顔だけは他と違って鮮明に覚えているのだろうか?
まるでそれが忘れられないもののように。いや、忘れてはいけないもののように。
あるいは……他に何か、理由があるのだろうか?
「……覚えているもの。あのとき覚えていたもの……覚えていないもの……」
誰の記憶もないのに存在するディスバリエの顔。弧を描く口元。閉じられた瞳。閉じた、閉じた、閉じた……。
あれは閉じていたのではなく――――閉ざされていたのではないだろうか?
「私が会っていたのは、閉じた瞳の、放置された肉体の、ディスバリエ・クインシュ……?」
だとするなら、どうして自分はそれを見ていたのだろうか? 記憶するほどに、毎日それを見ていたのだろうか? 大事そうに、あるいは憎しみながら、心に刻むほどに見ていたのだろうか? どうしてあの肉体は、いつだって幸せそうに笑っていたのだろうか?
――だって、嬉しかったから。この眼でそれを見ることができている自分が。
「あ、ああ……! 私、わたしは……どうして、こんな覚えてない。違う。覚えている? 違う違う違う覚えてるけど思いだしてはいけない……!」
「おい、クーヴェルシェン! どうした!?」
サネアツの声が遠く聞こえる。今はあの日々の言葉が耳の奥にリフレインして、頭が酷く痛いイタイいたい。
これは自分が自分に下している警報だ。
思い出してはいけない。絶対にそれを思い出してはいけない。そう警鐘を鳴らしている。
この感覚をクーは知っていた。あのとき、ディスバリエと神居で出会い何かされたときも同じ痛みを、思い出すことに対する痛みを……。
この痛みを我慢しよう。そうだ。この痛みの先に、自分の知るべきことがある。
カチリ。と、果たして耳の奥で捉えた音は何の音だったのか?
もしかしたらそれは幻聴かも知れない。存在しえない音だったのかも知れない。けれど今何かが噛み合って、何かがずれた。
噛み合ったものは、ディスバリエを無効化する方法。ずれたものは封印したはずの記憶。
「…………ディスバリエ・クインシュを無効化する方法を思いつきました」
クーは頭を抱えるのを止めて、静かな声で心配する二人の視線に答えた。
「それは僥倖だが、大丈夫か?」
「よろしければ治癒魔法をおかけしますが?」
「いいえ、問題ありません。問題は、ないんです」
クーははっきりと答えた。そう、問題は何もない。これでディスバリエを無効化する方法はわかったのだから。
たとえ、そう、覚えているはずのそれを覚えていないことを疑問に思っても、
――十年前の自分がどんな姿をしていたのか、覚えているはずのそれを忘れているとしても。
「ディスバリエ・クインシュを、ここで倒しましょう」
まだ、もう少しだけ、今は気付いていない振りをしておこう。
全てを本当に思い出さなければいけないときは、きっと、すぐにやって来るから。
◇◆◇
悩む暇もなく、リオンを狂える怪物が死地へ追い詰めていく。
ディスバリエが去っても、ボルギィの理性が戻ることはなかった。
雄叫びをあげ攻め込んでくる。その手には拾い上げたハンマーが握られ、先程の数割増しの破壊の一撃が、それこそ幾重にも突風を巻き起こす。
まさにボルギィの一撃は怪力。
スプーンがスポンジ生地を削り取るように、ぶつかったものは何であれえぐり取られる。
地面に巨大が穴が開き、壁はほとんどが砕け散った。その向こうに見えるのは『ユニオンズ・ベル』の眼下で繰り広げられる戦い。戦火と魔法の煌めきが瞬き、灰色の大地を血で染め上げていく。
人間と魔獣。どちらが優勢かはここからではわからない。
いや、たとえどちらが優勢であっても関係ないといえばない。ベアル教の、『狂賢者』の目的はすでにこの地で聖戦が起きた時点で達成されている。あとは両者が食いつぶし合った結果、ドラゴンが倒れるまで儀式場に魔力を注ぎ入れていくのみだ。
聖なるかな、その降誕。あるいは暗黒の生誕祭。
生まれるのは使徒かドラゴンか。地獄か破滅か。
「とはいえ、ええ、あなたの言うとおりですわね。ディスバリエ・クインシュ。竜滅姫である私に元より選択肢など一つだけ」
世界を守ると、人々の理想を守ると、そう決めた。
「私は『竜滅姫』リオン・シストラバス。すでに世界を担うものと、そう決めてましてよ!」
後ろに引いたかと思ったら、瞬きの間には頭上に迫るボルギィのハンマー。
リオンは肩を内側に捻りこんで、弾丸のように前へと回避する。傍ら、魔力を注ぎ込んだドラゴンスレイヤーを一閃。ボルギィにお見舞いした。
炎の剣と化した剣先が筋肉の束を貫くことはなかった。ボルギィの身体を強かに叩き、遅れて衝撃が巨体を宙へと押し上げる。無茶な動きをしたことに身体が痛みを発するのも束の間、炎の剣を構えてボルギィに追撃を仕掛けた。
部屋中の酸素を吸い尽くすかのような燃え盛る剣を振りかぶって、リオンは炎の翼を広げて飛ぶ不死鳥のように駆け抜けた。
炎色の残滓を延ばし、リオンは槌を振り回すボルギィへと鍔迫り合いを挑んだ。
もはや人外の筋力で繰られる槌の軌道は、閃光や落雷といったところ。目で追いきれないその速度に、リオンは直感のみで対応する。
ボルギィは先程と同じく自らのダメージに躊躇せず攻撃に徹していた。少なからず斬撃は筋肉の鎧を傷付けていくが、みちみちと筋肉がさらに膨れて傷口を握りつぶす始末。
リオンは必死に食らいついていきながら、一秒に十の攻防が潜む、濃密というより脳の神経が焼き切れそうな戦いを繰り広げる。
心が痛い。剣を振るう心に力が入らない。
あのときボルギィをそのまま行かせれば、こんな苦労はしなくても良かったのに――なんて後悔するのは軟弱だ。どうせそうなったらそうなったで、今とは比べものにならないほど後悔するのが目に見えているのだから。
「ボルギネスター・ローデ。狂戦士に堕ちてしまうとは嘆かわしい」
最初から最後まで変わらず、この目の前の男は全身全霊を賭して倒すべき相手なのだ。
ジュンタなら、あるいは彼の素性を聞き、過去を知り、そうしたあとで許すかも知れない。
けれどリオンはそんな風には考えられない。この身には熱い血潮と共に、冷たい血が流れている。
リオンがこれまでに殺した相手の数は、両手の指では数え切れない。無辜の民を傷つけたことはないが、それでもそんな姿でリオンはジュンタと語り合い、笑いあってきたのだ。
ジュンタは泣いていた。大切な人を殺め、傷つき、涙を流して泣いていた。
けれどリオンは泣かなかった。震えなかった。自分が間違っているなどとは疑わなかったし、後悔もなかった。
いつだって、リオンが疑い、後悔し、泣くのは誰かを守れなかったときだけ。
世界を担うと誓った。そのために守ると決め、敵は排除すると心に決めた。
だから、時折ジュンタとは住む世界が違うのだと、そうふいに感じるときがある。ジュンタとの間に境界線が引かれ、間の距離がとても遠く感じるときがある。
日だまりのような温かさは、きっと、自分は一生持てないだろう。守り、支え、受け継ぐことはできても、自分はジュンタの傷は癒せない。隣にいて支えることはできても、一度負った傷を埋めてあげることは、たぶん、できない。
それはジュンタ自身であり、別の人の役目だ。
共に生きよう。共に支え合おう。この身、この血、朽ち果てても――。
それがリオンが世界と共に担った誓約。愛という名のもう一つの力。
故に、
「ボルギネスター・ローデ。私はこれより先、決めに行かせていただきます」
リオンは巨体を駆け上り、踏み台にして跳躍する。
距離をとって着地し、振り向く狂戦士に決着の時が来たことを視線で投げかけた。
「ですから最後に伝えたいことがあるというのなら、全身全霊と賭して狂気に抗いなさい。私は私が愛する人ほど優しくはない。何も言わないのら、何も言わないまま滅すのみです」
「…………簡単に……言って……くれるな……」
臓腑を吐き出すような苦痛の声をあげながら、ボルギィの瞳に理性が戻る。
「……ああ、殺すというのなら感謝をしよう」
「感謝など不要。遺言はないかと聞いているだけですわ」
「……そう、だな……」
理性は瞳と口のみに戻った。ボルギィの足はしっかりと地面を踏み固め、手は正中線に剣を構えるようにハンマーを握っている。忌々しいギルフォーデの呪いは今も彼の身体を縛り上げていた。
「……もしも……もしもこの先……お前がミステルという女に出会うことがあったなら……」
それでも縛れない、大切な宝物がある。
慈しむような穏やかな目で、ボルギィは言った。
「もしもその女が怪物になっていたら……頼む、解放してやってくれ……」
愛しい女を殺してくれ。と、そうボルギィは言ったのだとリオンにはわかった。
愛に生きる乙女に向かって、残すとしては最低の遺言だ。
それでもリオン・シストラバスは騎士として此処に立っている。謹んで、その願いは聞き届けよう。
「その言葉、しかと。では偉大なる騎士よ。覚悟あれ」
リオンもまた正中線にドラゴンスレイヤーを両手で構える。
燃えさかる炎は真紅の刀身に凝縮され、灼熱の息吹を奏でる竜滅の刃をさらに研ぎ澄ませる。
美しいものだと、そうボルギィは思った。
――騎士。
それはボルギネスター・ローデにとって、何ら意味を持たないものだった。
憧れたことなど一度もない。ジェンルド帝国の貧しい寒村に生まれたボルギィにとって、騎士とは雲の向こうにいる存在だった。物語の中にのみ存在し、一生出会うことなく死んでいくものと、そう思っていた。
しかし戦争が起きた。
戦争が起きて、ボルギィは鍬以外に初めて持つ鉄の武器を持って戦った。
戦いは勝利に終わったが、終わってみれば村はなくなっていた。行くあてもなく帝都に住み着き、盗賊崩れになるか傭兵崩れになるか選択を迫られ、それならばと傭兵になった。
才能はあったのだろう。傭兵としてそこそこ名が知れるようになった頃、帝国騎士にならないかと打診が来たことがあった。
しかし何ら迷いもなく断った。騎士の名声に興味などなかった。少し前まで、ようやく擦れ違うようになった騎士を見て、あれならば喰うには困らないなと思っていたくらいで、今はむしろ傭兵家業を続けていた方が金は稼げた。
別に死なない程度にお金があればよかったけど、礼節なんて知らなかったし、騎士とかそういうのは面倒だと思った。それくらいで断ってしまう、その程度の認識だった。
なのに……なぜ、今こうして騎士の栄えたる姫を見て、こんなにも美しいと思うのだろう?
十年前。クロード・シストラバスより騎士だと言われ、あんなにも胸が高鳴ったのだろう?
(……ああ、そうだ。お前だ、ミステル)
歌劇が好きだった帝都の女。お前があんまりにも舞台に立つ騎士に目を輝かせるものだから、夫として、少し騎士というものに嫉妬していた。
(……ミステル。妻よ。愛する人よ)
もしも騎士になっていたら、今もまだ一緒に歌劇を見に行けただろうか?
ロマンスを、サーガを、喜劇を、あるいは二人で一緒に作り出せただろうか?
今ならわかる。今ならわかる気がする。
騎士を見て、お前が目を輝かせていた、その理由が今なら――……。
「もしも……」
消えいく理性の中ボルギィが言った一言を、リオンは忘れまいとそう思った。
「もしも妻が怪物になっていなかったら――愛していると、そう伝えてくれ」
「必ず」
安堵の笑みが浮かび――消えた。
そうしてボルギネスター・ローデは、今度こそ本当に狂える怪物となった。
「――――――、――――――――――――――――――――――!!」
全身が粟立つ。一方で研ぎ澄まされる才覚が、リオンの直感をさらに際立たせる。
「ならば今こそ矜持と愛をもって、我が騎士道は未知の領域に至らん!」
眩しいほどに研ぎ澄まされた炎の熱に、ボルギィのハンマーが形状を失い、溶けた鉄が泡が弾けるように四散した。
リオンが視た五手先の好機を前にして、全ての勝敗は決していた。
並びあう紅と金の指輪。その誓約の証をつけた右手を胸元へとあて、リオンはボルギィへと振り返った。
倒した人は、やはり幼い頃に見た騎士のままだった。
リオンは胸に当てた手に熱い何かを掴んだまま、凛と胸を張って騎士の礼を作った。
昔日の、幼い頃のリオンを何か思い悩みながら視ていたあの顔で。ボルギィは自分を通して何かを見ていたのだろう。大事な、愛おしいものを。
◇◆◇
「まさかリオン・シストラバスと語り合うことがあるなんて……」
ディスバリエは空間の境目に漂いながら、一つの戦いの終わりを見る。
ボルギィがリオンに全てを語ってしまった。儀式の詳細。それは誰にも伝えるつもりもなかったもの。リオンでまだ良かった、と思うしかないのかも知れない。彼女ならば、その先にあるものについてまでは突き止められないはずだ。
問題があるとすれば、それは彼女の口からあの人に伝わってしまう可能性。
今はまだそのときではない。
あと少し、この身を捨て去ることができるまでは、まだ……。
「……あたくしの、瞳……」
自然と開いた自分の目にディスバリエは触れる。
蒼い瞳。空を映した瞳。
あの日、大切な、とても大切なものを失ってしまった日、閉ざしてしまった瞳。
だけど開くことができた。もう一度開くことができたのだ。そして、
――世界を救う。
その言葉をもう一度口に出して言うことができた。
竜滅姫の前で、真紅の騎士の前で、はっきりと言い切ることができた。
これが自分の役割だと。
これが自分の願いであると。
あの、リオン・シストラバスを前にして、言うことが出来たのだ……!
「嬉しい……嬉しい! そっか。あたしは、やっぱり、そうなんだ……!」
たとえ誰に憎まれても、誰に理解されなくとも、それでもこの願いこそが自分の全て。この願いの成就こそが未来の全て。
正しいのかどうかは、わからないけれど。
きっと、間違っては、いない。
「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな」
お腹を撫でる。ここにある術式によって生まれる、魔王を祝福する。
さあ、早く生まれておくれ。
さあ、早く地獄を作り出しておくれ。
早ければ早いほど、いい。嬉しい。嬉しい。嬉しい。
だって、
「早くこの汚れた身体なんて、捨てたい、から」
汚いのだ。醜いのだ。この顔もこの髪もこの眼も全部全部汚い汚い要らない必要ない。
誰かに見せるのも嫌だ。誰かに見られるのも嫌だ。触れられるなんて冗談じゃない。こんな罪と汚れに満ちた身体冗談じゃない。
本当は必要なこととはいえ、世界を滅ぼす魔王など産み落としたくない。愛するほどに憎らしい。自分がその母体となっている現実が耐えられない。だから早く、早く、一刻も早く。魔王と共にこの汚れた身体を捨てて、本当の肉体を戻りたい。
「そのためには……くっ……そろそろきつくなって、来ましたね……」
抱えていた『聖獣聖典』が放つ虹色の光が心許なくなる。度重なる転移に魔力を使いすぎた。
元々この肉体は魔力を貯めることには向いていない。容量も小さく、そのくせ消費は激しい。どんな魔力でも吸収・変換することができるという利点はあるが、それを上回る欠落がある。
人は生きていく中で魔力を生み出すことができる。けれど、その根源たるものを瞳の色と共に移し替えたこの身体には、その機能が欠けている。
ディスバリエが使う魔力は吸収して持ってくるか、あるいはか細いラインを通じて供給されるしかない。
今までは供給されたもので十分『聖獣聖典』を操れていたが、今は供給される先の魔力が急激に減っている。他でもない、自分の手で奪ってしまった。彼女を戦闘不能に追い詰めることは、同時に自分も戦闘不能に近付いていくことになる。
「[共有の全]を維持できている内に、何とか……もう、時間がありません」
魔力を使い果たしたら、完全にこの肉体は動かなくなり、魔王を生み出す肉の胎盤に変わる。
それが本懐とはいえ、タイミングが悪ければ色々とまずいことになる。そのタイミングだけを追い求めて、ディスバリエはあらゆる物事に自分の手を加えてきたのだから。
「終わらせるしかありません。ここから、始まりへと終わっていく」
『聖獣聖典』を起動させて、ディスバリエは境界を渡る。
その歪みに肉体は耐えきれず死を迎えるが、何らディスバリエには支障がない。
たとえこの奇跡の聖骸が使う度に肉体を蝕むものだとしても……すでに死んでいるものは、殺せない。
身体から急速に魔力が抜け落ちていく。
今クーは閉ざしていた魔力の蓋を外し、魔力の放出を行っていた。
相当な量を誇るクーとはいえ、ディスバリエに奪われたあとの放出はかなりきつい。しかし、今は延々と流し続けるしかない。
屋上に浸透するのは、クーの『侵蝕』の魔力。触れたものを蝕む毒のようなもの。それらは外部へ放出される際、僅かに大気中の水分を凝固させ、雪の結晶を舞い散らせていた。
冬の訪れを告げる雪のようにも、冬の終わりを告げる雪景色のようにも見える。
ただし、今行っていることは見る者に情緒を抱かせるものではない。ディスバリエ・クインシュを倒すための秘策、そのために必要な下準備だった。
少し離れた場所では、ユースとサネアツが同じことをしている。風が吹き、砂塵が舞い込んでくる。三つの異なる魔法属性が生み出しているのは、『ユニオンズ・ベル』に対する干渉の式であり、儀式を阻害する妨害式。
たとえ破壊することはできなくても邪魔することはできる。
真にサネアツの仮説が正しいのなら、敵は決してこの行為を許しはしないだろう。
ディスバリエ・クインシュは必ずもう一度現れる。そのときが、勝負。
足下では、ジュンタかリオンか、わからないけど激しい戦いを繰り広げている。
きついのは自分だけじゃない。全員ががんばっている。一緒に、がんばっている。
……幸せだ。半年前の自分では考えられない状況。果たして巫女に選ばれたとき、自分がこんな幸せな状況になれると想像できていたか?
否、だ。
主との出会いは、クーにとって誰よりも何よりも幸せになれた出会いだった。あの出会いがなかったなんてもう考えられない。
「ご主人様……」
……あるいはそうなのかも知れない。
ディスバリエ・クインシュがあれほどに怒っているのは、そういうことなのかも知れない。
「その名を呼ぶなと、そう言っているでしょう。紛い物」
押し殺された憎悪の呟きは、真正面から突然響いた。
瞬間、首へとのばされる細い腕。冷たい人形の腕によって宙に持ち上げられ、魔力を奪われていく。
「っ!」
クーは息を詰まらせた。それは喉を掴まれただけが理由ではなく、ついに現れたディスバリエの瞳が開かれていたことが大きな理由だった。
蒼い瞳。自分と同じく、蒼い瞳。
けれどクーはにはそれが瞳だとは思えなかった。作り物の残り滓。あるいはこれは眼球をくりぬいたのと同じ意味をもっているだけに過ぎないのかも知れない。
瞳が閉じていたのは、開いてもきっと意味がないことだから。
ディスバリエ・クインシュは瞳で世界を見ていない。耳で声を聞いていない。鼻で臭いをかかず、口で何も語らず、肌で人に触れていない。五感全てが残り滓。代用品のオブジェでしかなく、彼女の全ては人形に宿ったその意志に秘められている。
「クーヴェルシェン!」
「クーヴェルシェン様!」
同じくディスバリエの容姿に驚いていた二人が慌てて駆け寄ってくるが、それは空から強襲してきたガーゴイルによって止められる。
「これであたしとあなたの二人だけ。さあ、始めるために終わりましょう」
二人が驚くのも無理はなかった。なぜならば、瞳を開いたディスバリエ・クインシュの顔は、クーヴェルシェン・リアーシラミリィのそれを酷似していた。これまでどうして気付けなかったと思うくらいに。恐らく自分があと十歳ほど年を取れば、あるいはディスバリエの姿になるのかも知れない。
髪の色。耳。色々と違うところはあるけれど、クーははっきりとわかった。目の前にいるのは自分だ。別の可能性に支配されている自分だ。あるいは、自分が目の前の女の可能性なのか。
「……言いたいことは、一つだけ、です」
どっちでもいい。ただ、目の前の女が未来の自分の可能性だとするのなら、それを見てクーが思ったのは一つだけ。
大好きなご主人様の顔と共に、思うのは悲しみだけ。
「もっと胸は、大きくして、ください……!」
振り上げた手をディスバリエの顔に叩き付ける。
「あたしに触らないで紛い物!」
触れた瞬間、ディスバリエが目を見開いて首をへし折ろうとしてくる。その前に、クーは手を通じて触れ合ったディスバリエに干渉を仕掛けた。
地面に描かれた干渉の術式が変わり[共有の全]の術式になる。
「まさか、故意に混在を……!?」
術式発動を感じてディスバリエの顔が別の驚きに染まる。
驚いてももう遅い。クーの意識は一瞬にして、水色の賢者の肉体へと同調する。
風景が消え、変わりに白い海のような場所へと繋がる。そこには自分と同じように立ちつくす、ディスバリエ・クインシュの意識が……。
『……天に全てを預けるというのですか。ならば、よろしい。どちらが真に『竜の花嫁』としてふさわしいか、委ねるとしましょう』
全てを見る前に目の前の光景が揺らぐ。
そこにいた、顔が見えないディスバリエが苦々しげに笑ったのを最後に、クーの見る景色が『ユニオンズ・ベル』のものに戻る。
見ればぷつりと、それこそ本当に糸が切れた人形のようにディスバリエの身体が倒れていた。
「……上手くいきましたか」
動くどころか本当に死体のように倒れるディスバリエを見て、クーは胸を撫で下ろす。
これがディスバリエを無効化する、現時点では唯一無二の方法。どこからかディスバリエが[共有の全]で同調しているなら、さらにクーも[共有の全]で同調することで意識の混在を引き起こす。そうすれば必然的に[共有の全]は成立せず、お互いに意識が離れるという寸法だ。
「よくやったぞ、クーヴェルシェン」
「ご無事ですか?」
ガーゴイルを倒したサネアツとユースが駆け寄ってくる。
「はい……大丈夫、です」
かなりの疲労と頭痛はそのままだが、クーは笑顔を返した。これで倒すことはできなくとも、ディスバリエを無効化することはできたはず。
「では念のために」
サネアツがぴょんと跳び、ディスバリエが握っていた『聖獣聖典』を奪い取った。
長くその虹の煌めきを邪法に使われていた奇跡の聖骸は『狂賢者』から取り戻された。これでディスバリエの無効化、重要な鍵であろう『聖獣聖典』の奪取に成功した。儀式はもう成立することはないだろう。
「あとはご主人様やリオン様と合流さえすれば」
「大丈夫だ。ジュンタは負けん」
「リオン様も。恐らく今頃はこちらへ向かっている頃合いでしょう」
ディスバリエが何を企んでいたかはわからないままだが、これでベアル教の悪事は食い止められた。自分の始まりともいうべき、ベアル教の全てがここに終わったのだ……。
安堵が全身に駆けめぐる。同時にクーは勝利の感慨を感じて、
「サネアツさん。お口が疲れるでしょうから、私が『聖獣聖典』を持っていますよ」
激闘の後でそんなこと考える余裕なんてなかったのに――口が勝手にそんなことを言っていた。
(待って)
「うむ。そうか。確かに顎がきついからな」
(待ってください)
「いえいえ。気になされないでください」
(私にそれを渡してはダメです)
「それでは、はい、確かにお預かりました」
(待っ――)
「ありがとうございます。それでは一緒に死にましょう」
◇◆◇
部屋の中でいくつも雷撃の華が刹那の内に咲き、次の瞬間には花弁を散らす。
使徒としての膨大な魔力の所為で[加速付加]の限界の壁にぶち当たっているなら、魔力量を減らすことによってその壁を破ろうと試みたのだ。
これまでの強敵との戦いを見ても、自分にはスロースターターな部分があった。その秘密がこれだった。
心の水面に虹色の雫が落ちる。それは波紋を作り、広がっていく。
ジュンタは先んじて仕掛けた。
走り出す直前にドラゴンスレイヤーを鞘に収めて、柄に手を触れて肉薄する。
繰り出されるヤシューの拳をかいくぐり、旅人の刃を犠牲にしてさらに間合いを詰める。
これが最後だと、ジュンタは途中で[稲妻の切っ先]を行使した。
振りかぶられたヤシューの拳が当たる前にさらなる加速で最後の間合いを詰め、体当たりをするように、ヤシューに頭から突っ込んだ。
「ちぃいいい――!?」
まるでそびえ立つ岩壁につっこんだような衝撃。
それでも強引にヤシューを弾き飛ばし、ジュンタは最後の一撃にふさわしい間合いをはかる。
[稲妻の切っ先]のために纏った雷気を、全てドラゴンスレイヤーを収める鞘に収束させる。腰から一枚の大きな虹の翼が飛び出し、稲妻の騎士が享受し、紅き騎士たちが磨き上げた技の一つが再現される
滑るように身を縮め、雷の鞘と化したそこからドラゴンスレイヤーを引き抜く。鞘はそこに込められた加速の力を、まるでリボルバーにこめられた弾が飛び出すように押し出した。
雷光一閃。
「居合い・雷鞘!!」
振り抜いたジュンタですら目で追えない神速の抜刀。
魔を断ち切るドラゴンスレイヤーはヤシューに牙を剥く。さしもの動物的直感を持つヤシューでさえ、塵ほども反応できない速度で。
それを悟ったヤシューの行動は、むしろ彼らしい信じられないものだった。
避けられないと悟った瞬間、何の迷いもなく破壊の右腕をヤシューは振り上げていた。死ねばもろともというつもりじゃない。ただ、攻撃できずに死ねるか馬鹿野郎とでもいうべき顔で。
それでも『居合い・雷鞘』の剣速が全てを凌駕した。
「……ヤシュー。お前、それはないだろ?」
ヤシューの身体から飛び散った血がジュンタの頬を叩く。
愕然と、そこにあった結果を見て目を見開いたのはジュンタの方だった。
「ああ、悪ぃな。ジュンタァ。もしかしてこいつを会得するのに、死ぬほど修行したか?」
止まっていた。
放たれたドラゴンスレイヤーの一撃が、ヤシューの胸に一筋の血のあとをつけた状態で、完膚なきまでに止められていた。
「ああ、確かに速ぇな。見えなかったぜ。けどよ、どれだけ速い必中の一撃も、今の俺を殺すことはできねぇんだよ!」
振り下ろされる右腕。避けようにも、受け止めようにも、今のジュンタにはどちらもできなかった。左の剣は今は手になく、ドラゴンスレイヤーはヤシューの身体に食い込んだまま動かない。
「これが俺の――獣のベーゼだ!!」
破壊一閃。
振り抜かれた一撃が、そのとき全てを破壊していく。
まるで腕の先からレーザーでも飛び出したかと思うくらい、その右腕にこめられた熱量の解放は怪物の顎が全てをかみ砕いていったような有様を作り出した。
床を砕き、天井を砕き、壁を砕き、ジュンタの左腕を破壊した。
咄嗟に左腕を犠牲にしなければ、恐らく心臓も脳みそも破壊されて死んでいただろう。
「雷鞘であれだけの傷かよっ」
まさか必殺の威力をこめて放った一撃が、今の自分の限界ではヤシューを倒せないことを証明する結果になるとは。よく考えてみると、自傷で血を吐き出しまくっていたから気がつけなかったけど、この戦いでジュンタがつけた傷はこれが初めてだ。
必勝を祈願して伝授された『居合い・雷鞘』でようやくかすり傷。そんな相手に、一体どうやって勝てばいい?
「ああくそ、こうなったら仕方ない。俺の全部をお前にくれてやる!」
ジュンタはズタズタに引き裂かれ感覚を失った左腕に、ドラゴンスレイヤーの柄から離した右腕を据える。
右腕を通じて左腕に込めるのは雷。
「一撃で突破できないなら、左腕が本当の意味で使えなくなるまで何度でも打ち込んでやるよ!」
居合い・偽。
空間を切り裂いて迸る雷光の弾丸。
ジュンタの左腕より射出された旅人の刃は、ヤシューの身体に命中する。木々を薙ぎ払う一撃は、しかし僅かの血と火傷を刻むだけ。
「おらぁああああああああッ!!」
しかし繰り返されるのは射出と激突の光景。
命中した直後、再びジュンタは装填して射出を繰り返す。
都合十三。それがジュンタの左腕に、ついには魔力すら通じなくなるまでにヤシューへ放たれた雷の弾丸の数だった。
けれども、それでも倒れぬ獣がそこにいた。
十三の弾丸全てを受け止めきって、ヤシューの胸元は血で濡れていた。肩も半ば炭化し、脇腹はえぐれていたが、ただの一度もヤシューの身体を貫通していった弾丸はない。
「おうおうどうした? 痛くも痒くもねぇぞ!」
「なら、今度は!」
ジュンタは右腕で喚びだした旅人の刃を掴むと、思い切り地面を蹴った。
そのままジグザグを描きながら稲妻の切っ先と化し、ヤシューの一撃によって開けた壁から外へと出る。そのまま一度弧を描くと、地面すれすれを滑空し、ヤシューが立つ直前で浮き上がって突きを打ち込んだ。
地面より天空へ落ちていく雷光。
旅人の刃の力で強化された[稲妻の切っ先]の一撃が、地面を蒸発させ、吹き飛ばす。
それでも貫けぬヤシューの身体。喜悦の笑みを浮かべ、ヤシューは両腕を組んでたたき落とした。
雷気を四散させ、ジュンタは床にたたきつけられる。
そのまま落ちてきたヤシューの拳を何とか避ければ、今度は床すべてが砕け散った。
下の階へと落ちていく中、瓦礫を蹴ってジュンタは再び雷となる。ドラゴンの防御すら貫いた全身全霊の[稲妻の切っ先]――ジュンタの最強の破壊力を持つ一撃が、空中で身動きの取れないヤシューにぶち当たり、空中を引きずって壁に叩き付ける。
直後、ジュンタはヤシューの動かなくなったはずの左腕によって地面に叩き付けられていた。
飛び散った血は果たしてどっちのものだったのか。それは地面の流した血だったのかも知れない。
激突の度に地雷原で争っているように床が天井が崩れていく。破壊を撒き散らし、破壊を共とし、二人は暴れ回る。
ジュンタはこの世界へやってきて手に入れた力、身につけた技術全てを出し切って戦った。
ヤシューは色々と犠牲にして手に入れた力、植え付けられた本能全てを出し切って戦った。
正真正銘、全力のぶつけ合い。ぶつかり合い。
先に攻撃が尽きたのはジュンタの方。けれどジュンタは自分が負けている、負けるなんて思えなかった。
グリアーはヤシューの戦いを見るつもりはなかった。
何せあんな風に別れたのだから、見に行くなんてバツが悪いじゃないか。だけど、まさかいきなり天井が崩れて現れてしまったらしょうがない。今グリアーの前には、ダブル馬鹿が馬鹿みたいに戦っていた。
こちらになんてまったく気付いてない。ヤシューはともかく、敵であるジュンタも無防備に背中を晒している。
あの背中に魔法を放ちたい衝動に駆られる。
そうすれば、きっと驚くほど簡単にジュンタを絶命させられるだろう。
でも、そのあときっと自分は殺される。他でもないヤシューに。
そんな未来は…………なんていうか、絶対に嫌だ。殺されるのが嫌だとは思わなかったけど、あの単純な奴に、きっと本当の意味で誰かを好きにも嫌いにもなれない奴に憎まれるのは、嫌だと思った。
「まったく、最悪」
見守るしかない。これもまた何かの運命なのだろう。
グリアーは見つめる。最後の獣の喰らい合いを。
勝利の未来を肯定する。
これではリオンを笑えない。むしろ彼女に近付けて嬉しいとすら思うけど。
紅き剣はヤシューの血に濡れている。その血を利用して、ジュンタはヤシューに目つぶしを放った。
目玉が飛び出すくらい目を見開いたヤシューの視界を血が塞ぐ。しかしヤシューは止まらない。そこでジュンタはすでにヤシューが視力を失っていることに気が付いた。
「――――――――」
ヤシューが口から何かを迸らせる。声にならない歓喜の叫び。そこでジュンタはヤシューがすでに声を失っていることに気が付いた。
否応にも近付いていく終わりの時。
ジュンタは殴られ吹き飛ばされていく中、もう一度ドラゴンスレイヤーを鞘に戻して考えた。
(出し切った。全部)
今までの攻防で培ってきたもの全てを吐き出した。最も新しい『居合い・雷鞘』も最強の[稲妻の切っ先]も通じなかった。まさに万事休すだ。
しかし何かを忘れている気がする。まだ自分には何か力があった気がする。
そう、これらの技・力を手に入れる切欠になった、全ての最初が。
「ああ、そうだったな。俺が最初に誰かを守るために戦えたのは、この力があったからだった」
存在するが故に、当然の如くジュンタは思い出す。その力を。
動かない左腕。どこかに消えた旅人の刃。それでも右手一本でリオンを守ろうとしたあのとき、確かに不思議な力がジュンタの中で目覚めたのだ。
「ヤシュー。お前は強いよ。強すぎる。今の俺じゃ勝てそうにない。けど――」
力の差は歴然。全てに終止符を打つ一撃を右の拳に込めたヤシューに、果たして言葉は届いているのか。
どれだけ自分の身を犠牲にした? どれだけ力を求めた?
「俺との戦いにそれだけの価値があったって、お前が満足してくれてたらいいけどな。お前はサネアツに匹敵する馬鹿で純粋な奴だった。それが、お前の敗因だ」
ジュンタは足を引きずるにようにして駆け寄った。
修行をおさめた今からしてみれば、あまりに遅いその足取り。だけどこの世界に来て初めての戦いでは、この速度が全力だった。全力で走って、一撃を信じて叩き付けるだけ、それだけが全てだった。
「俺が望む未来へ。俺を導け【全てに至る才】」
身体を虹の光が包み込む。
身体が軽い。腕が軽い。剣が軽い。
軽くドラゴンスレイヤーの柄を握って、一撃を振り抜く準備だけしておく。あとは身体が勝手にやってくれる。手に触れたものの重さを取り除く。害意をはね除け身体の一部にする。その始まりの力が勝手にやってくれる。
ジュンタは自分の勝利を確信していた。
ヤシューは確かに強いけど、何ていうかあまりにも馬鹿すぎる。
自分が満足のいく戦いのためなら平気で仲間を裏切るし、勝てる戦いでも相手を見逃す。
人生損をするタイプだ。けど、人生を大いに楽しんでいるタイプだろう。
そんな真剣に馬鹿をやられると、恨む気持ちもなくなっていく。別に言う機会がなかったから言わなかったけど、
「なあ、ヤシュー。俺、お前のこと結構好きだったぞ」
そういうわけだから。
もしも今のジュンタが負けることがあるとするなら、それはヤシューに振られてしまったときだけだろう。もう少し賢く生きられたらこの勝負も勝てただろうに。それができないんだからヤシューはこんなにも強いんだろうけど。
もうしゃべれないヤシューはすぐ近くにまで近付いたジュンタに、言葉の代わりに拳で答える。
渇望を。欲望を。
「そうか。ありがとよ」
顔面に向かって放たれた、最強の破壊を掌握したヤシューの右腕。
それを避けることなく、ジュンタは最後の一歩を最高加速で踏み込む。
叩き付けられた拳が額に触れた瞬間――ヤシューの身体を虹の光が覆い尽くした。
ここまで一瞬で虹の光を共有することができたのは、サネアツとリオン、クーに続いて四人目だ。たぶん他の誰かじゃこうはいかない。ジュンタを少しでも拒絶する気持ちがあれば、この共有はとても長い時間がかかるのだから。
激痛が走り抜ける中、ジュンタの鞘と剣にさらなる魔力が集う。『加速』と共に現れるそれは、『侵蝕』の刃。
「じゃあ俺は、自分の身体がなくなる痛みだけ堪えることにするな」
虹の共有が全ての証。
ヤシューという男からの気持ちを確かに受け取って、ジュンタは剣を引き抜いた。
居合い・雷鞘。
虹の輝きが吸い込まれるように自分の身体を切り裂いたのを見て、ヤシューは自分の拳が何の破壊も起こさないことに対する動揺を止めていた。
『ジュンタ……テメェ、そりゃねェだろ?』
そんな声が聞こえた気がして、ヤシューはどことなくふてくされたように笑って、散った。
◇◆◇
三人は、空を見上げた。
サネアツも。
ユースも。
自分の身体を取り戻したクーも、全員空を見上げていた。
心の中で、クーは誰かを声を聞いた。
(いささか以上に早いタイミングですが、ならばこそ、ここから先は天に全てを)
発動されたのは空間移動の魔法。ただし、クーの座標は動いていない。
召喚したように、空間移動の魔法は対象を呼びだしていた。ジュンタとは似てもにつかない、黒き肉塊を。
それが呼び出されたときにはすでに、三人ともが持ちうる最強の防御魔法を構築し、相手からの攻撃に備えていた。
だが――あらゆる防御が意味を成さない力が、この世には存在する。
(世界の救いを妨げるもの。あなたは悪。あなたは世界の敵。人の敵。あたしが世界を、救う。あたしの救世主様が、世界を救う)
人とも悪鬼ともつかない中間の存在。人ならざる声を発する金色の正義と悪。それは世界を狂わす声を発す。
そこにいたのは額より上を狂信者に変えた魔獣の王――ドラゴン。
(故に死になさい。そうして全ては正しい形へと。安心なさい。救世主様の隣にはあたしが残る)
そうして、『ユニオンズ・ベル』での決戦の終わりを締めくくるように、呪われたドラゴンブレスは放たれた。
変わり始めた世界の中、彼女は変わらずに誰かを助けるために働いていた。
幼い少女が抱いた夢物語は奇跡を演じる姫君によって叶えられた。夢を叶えてもらった彼女は、ただただ感謝をする。
あくまでも世界を、人を救ったのはついでの話。二人が戦った本当の理由は、自分を決して褒めない彼女のためにあったというだけ。
そうして、二人に本来贈られるべき賞賛は彼女一人に捧げられた。決して受け取ることのない、誰かを応援することしかできない彼女に。
彼女は光差す世界において、その最も頂きに在った。誰も彼もが彼女の下にあって、彼女は世界全てに応援される側にいた。
裏切れるはずがなかった。笑顔を曇らせるわけにはいかなかった。皆が望む救いを、諦めるわけにはいかなかった。
自分が応援できる存在を。
『――――世界を、救いたいのなら』