第十五話 奇跡よその名は 『死ぬのはともかく、肉体を破壊されるのは困るね』 ユースはその場に倒れ込みながら必死に衝動に抗う。呼吸も、鼓動も、自分が持つべき全てが剥奪されていく中、それでも抗う。 「あぁああァ――ッ!!」 ユースの左目に焼きごてで押されたかのような、黄金色の罪の烙印が浮かび上がる。 それは神と契約した者の証。 消え行く意識の中、ユースは慟哭に似た絶望の呟きをもらす。 「どうして、こんな、こと……全部、嘘……だったのですか……母親の……愛、は……?」 奇跡に代償を求める、人に。 「どう、して……?」 神と呼ばれる存在に。 異変は突然に、されど必然の如く起きた。 「なんですの?」 地震が起きたかのように地面が揺れている。それも尋常じゃない揺れだ。空を飛んでいるジュンタたちには振動は届かないが、地面が揺れ動いていることがわかるくらいなのだから、地面に立っていた者たちは揃って立っていられなくなっていた。 「魔獣が、蠢いている」 ウェイトンを下し、ディスバリエを探し出そうとしていたジュンタとリオンは、次の異変にいち早く気が付いた。 揺れの正体。それは地震などではなかった。 足音だ。無数の足音が重なることによって、地震にも似た振動が引き起こされていた。震源地をいうならばウェイトンが消えた『ユニオンズ・ベル』の跡地であり、地震が震源地を中心に広がっていくのとは逆に、黒い波が震源地めがけて集ってくる。 ゴブリンが。ワームが。ガルムが。コカトリスが。オーガが。ワイバーンが、現れる。 揺れは続く。まだまだ続く。続けば続くほどに魔獣が集まってきて、ウェイトンが没した場所を中心にして立ち止まる。 「何なんだ?」 「これは……」 上空にいたため、眼下に揃った魔獣の規模を正確に見て取ったジュンタとリオンの二人は、声を揃えて呆然となった。 『封印の地』における戦いを通して、幾度となく魔獣が群れる様を見てきた二人だったが、これは規模が違う。眼下に集まった魔獣の数は二十万を超える。『封印の地』に存在する魔獣全てがここにいるといわれて、ようやく説明できる数だった。 「魔獣が……ウェイトンの死を偲んでる、のか?」 「偲ぶって、そんなことがありえますの?」 これほどの数の集結がおかしな話なら、その魔獣たちの行動も一貫としておかしかった。 集合の最中に遭遇した『騎士百傑』ら別働隊には目もくれず、魔獣たちはウェイトンが消えた場所を見つめて足を止め――そして泣いていた。 全ての魔獣が、まるで悲しみに涙しているかのように金切り声をあげている。その様はまるで、王の死を嘆く臣下や臣民のようだった。魔獣全てが足を止めたことで地震は止んだが、今度はその音量で大気が震え始める。 一体ここで何が起きているのか? ……それは魔獣にしかわからないことなのだろう。 ここに集った魔獣たちにはわかっているのだ。ここで消えた者が何なのか。自分達が何をすべきか、わかっているのだ。 だから集い、泣いている。偉大なる王を偲んで、涙を流している。 ……願いは何か? もしも彼らにそう聞けば、恐らく誰に聞いても同じ答えが返ってくるだろう。 ――生き返らせて欲しい。王を。我々の救世主を。 そのとき確かにジュンタは、そう魔獣たちが涙ながらに訴えたのを、その望みを受理した力があったのを感じ取った。 『救われざるあなた方を、この私が見捨てるはずがないでしょう? 安心なさい。私はあなた方の味方です。放逐されし者。裏切られし者。哀れな者たちよ。神に見捨てられたあなた方を、しかし私は決して見捨てません』 柔らかな笑顔と共に、闇の中より再び生まれいずるは闇のドラゴン。 「私はあなた方の味方。私はあなた方の望みを叶える者。私は救世主。私は神」 ジュンタもリオンも、この復活劇には声を失った。たとえドラゴンが不死の存在といえども、彼らは死なないだけであって――決して、今ウェイトンが起こしたように、死したあとに復活する存在ではない。 不条理の中の不条理。奇跡の中の奇跡。 ウェイトン・アリゲイが起こしたのは、『蘇生』という名の奇跡であった。 「神に祈りを捧げなさい。救世主に救いを求めなさい。さすれば叶う。私が叶えて差し上げる。あなた方の求めが我が肉となり血となり力となる」 闇の中より蘇生を果たしたウェイトン・アリゲイの姿は、前と同じようで、明らかに違う。 死を超越した存在が持つ歪み。今度は感涙にむせびなく魔獣らの祈りを一心に背負い、魔獣たち神に見捨てられし者の救世主は力を得る。世界のルールをも退ける力。神の愛すら汚す力を。 「共に行きましょう。共に生きましょう。私――ウェイトン・アリゲイこそが、あなた方を導く王になる」 全てを許すように、ウェイトンは微笑んだ。 途端――パンッ。と、その場に集っていた全ての魔獣が、内側から緑の血をぶちまけながら破裂した。 全てだ。一体の例外もなく、ウェイトンの復活を祈願した全ての魔獣が、ジュンタたちの目の前で息絶えた。 死したものは甦らない。けれども、この場では世界のルールさえも歪む。ウェイトンによって歪められてしまう。 オォオオオオオオオオオオ――ッ! 破裂音の数だけ、今度は生誕の叫びが天をつく。 『封印の地』の神となったウェイトンの祝福を受けて、魔獣たちは散乱したキメラの肉を新たな自分の肉として復活した。ワームはガルムに。ゴブリンはオーガに。コカトリスはワイバーンに。オーガやワイバーンはガーゴイルへ進化して生まれ変わる。 「こんな……ことって……!」 「これが、ウェイトンの力。ウェイトン・アリゲイが手に入れた特異能力とでも言いますの!?」 ジュンタとリオンが黙って見守っていられたのはそのときまでだった。 今ウェイトンが見せた力こそが彼の特異能力。彼の核となった『偉大なる書』と取り込んだドラゴンの力とが融合した結果の力。否、さらに別の何かすら吸収した結果、他者の望みを叶え、生まれ変わらせる【転生】の特異能力を得たのだ。 「存在しないはずのガーゴイルを生み出したのは、他でもないウェイトンでしたのね。ウェイトンは反転と混沌とを融合させ、新たに強力な魔獣を作り出すことを可能としている。擬似的な破壊の君。ディスバリエの言っていたことはこれでしたのね……!」 再び、破裂音がいくつか響く。 では、キメラは何に進化するというのか? ジュンタとリオンはすでに見ている。キメラよりドラゴンが生まれ落ちる様を。 「ウェイトンの力がもたらす行き先は――全ての魔獣のドラゴン化」 「ああ。生誕の儀を邪魔されるとは、悲しいことですね」 突っ込んでくるジュンタを見て、ウェイトンは翼をはためかせ、上空へと浮かび上がって避けた。それとまったく同じタイミングで魔獣の進化が止まる。 「やはり、魔獣を進化させるにはウェイトンが取り込んだ『聖母』が必要不可欠。ウェイトンを引き留めてさえおけば、これ以上の進化は阻めますわ」 集っていた魔獣を風圧で跳ね飛ばしながら、ジュンタは地面すれすれを飛翔し、再び上空へとあがりながらリオンの説明を聞く。 再び対峙する虹のドラゴンと闇のドラゴン。 かつてジュンタは、ウェイトンが道は違えど正義を志していることを感じ取った。そしてウェイトンの正義の形こそが眼下の姿。 新たな形を得た魔獣たちは喜びの声をあげている。人間にとっては敵でしかない彼らだが、ウェイトンにとっては愛しい子。ならば間違いなくウェイトンは正義を行い、救世主となった。 (なら、俺だ) 人間が魔獣を悪と認識するならば、また逆も然り。魔獣にとって人間は悪。 正義だ悪だと意味はない。だからジュンタは守る。大切な人を守るために、戦う。 「未だ儀式は途中です。全ての魔獣の望みを叶える役割を、私は全うしておりません。邪魔をするというのなら、排除させていただきます」 「ドラゴンを増やすなんて真似、これ以上させてたまりますか。あなたは私たちが必ず倒します」 「そうだ。お前にとっては正義かも知れないが、俺らにとってそれは正義でもなんでもない」 「……自ら、正義に仇なす悪を選ぶと?」 「それが俺の願いを果たせる道なら」 ジュンタとウェイトンは瞳を交わし合う。奇妙な縁で互いに結ばれていることを自覚しながら。 「わかりました。それではここから先は救いをかけた殺し合いを、ジュンタ・サクラ」 「望むところだ、ウェイトン・アリゲイ。これ以上誰も傷付けさせない」 正義の観点が違うのならば、決して相容れることはない。ここまで価値観が決まる前に出会えれば、あるいは友になれたかも知れないが、ここに至った今それは不可能。考えるだけ詮無きこと。考えることは相手を倒す方法のみ。 先んじて仕掛けたのはウェイトンの方だった。 先程が嘘だったように好戦的に吼えると、ブレスを撃ちながら迫ってくる。 横を掠めていくだけで、皮膚が焼けただれ腐っていく。ジュンタは双剣を発生させて攻撃を受け流しながら、返答のブレスを真っ正面へ撃ち抜いた。 一直線に突進してくるウェイトンは、これを見事な見切りで避けて見せた。速度は減衰することなく、大きく口を開く。 彼我の距離――ほとんどゼロに近かった。 超至近距離からの射撃では、どうがんばっても避けきれない。ジュンタは双剣をブーメランのように投げつけると、その隙をついて滑るように上空へと飛翔する。ウェイトンはほぼ直角に曲がると、その後を追随してきた。 「飛翔速度もあがってますわね。ジュンタ、こちらも速度を上げないと追いつかれましてよ!」 「そんなことを言われても――いや、俺ならできる!」 後ろから迫るブレスをきりもみ回転を交えて避けながら、ジュンタはリオンの指示に強く頷いた。自信は精神性だけではない。きちんと自分の属性を顧みた上での発言だった。 ジュンタの魔力性質は『加速』。 ドラゴンになった段階で、もう一つの魔力性質『侵蝕』が強く発揮されているとしても『加速』が消えたわけではない。 心の水面に落ちる一滴の虹の粒。 「ジュンタ、後ろ!」 ウェイトンの放ったブレスは、そのときには僅か数メートル後ろにまで迫っていた。それはドラゴンの速度とブレスの速度を考えれば、数センチもないも同然で、 「しっかり掴まってろよ、リオン!」 「え? きゃっ!」 しかし放たれたブレス以上の速度を発揮したジュンタは、虹の雷となってこれまでの数倍の速度で空を駆け抜ける。 ブレスがまるで止まっているかに見えるほどの速度の差。さしものリオンも目眩に似たものを覚えた様子だが、これだけの速度の差があれば得られるアドバンテージは圧倒的なものがある。 音速の数倍の速度で飛ぶジュンタは大きく旋回すると、何とか追いかけてこようとするウェイトンの背後へと瞬く間に回り込んだ。 両手に握っていた双剣を、振り向こうとした闇のドラゴンの眉間に突き刺すと、後方に高速移動しブレスを放つ。放たれたブレスは光の剣と共鳴し、飽和した破壊の力は内側から爆発、ごっそりと頭部の肉をそぎ落とすことに成功した。 そこからジュンタの一方的な攻撃が始まった。 蘇生前とは違って、やはり普通のドラゴンに比べれば遅いがウェイトンの傷口は塞がっていく。ジュンタは傷口が完全に塞がる前に追撃を喰らわせていった。 接近戦での剣技。遠距離からのブレス。速度があがったため、血しぶきのことを気にしないで済むのが幸いした。速度を活用した縦横無尽のヒットアンドアウェイ戦法に、まだドラゴンの身体で戦う経験の浅いウェイトンは為す術もなく翻弄されていく。 「これは……さすがに」 人としての顔を苦悶に歪め、ウェイトンは治りかけの口元からブレスを放つ。それは途中で拡散して弾幕となる。攻撃のためではなく牽制のための一撃なのは丸分かりだったが、あえてジュンタはそれに乗って距離を取った。 「大丈夫か? リオン」 「ええ、なんとか」 それは搭乗者を気にしてのことだった。 ある程度の加護を受けて、Gの影響などないリオンといえど、あまりにめくるめく音速の戦いには目眩を起こしていた。これほど速く動く人間などそれこそトーユーズでも無理なくらいなものだから、三半規管も限界なのだろう。 「ですが、大したものですわね。私の援護などほとんど必要ないではありませんのよ」 「いいや、リオンがそこにいてくれることが重要なんだ。俺はお前がいてくれたら、永遠にだって戦っていられる」 「……恥ずかしいことをさらりといいますわね」 戦闘中とは思えない和やかなムードの二人を睨むウェイトンとしては、たまったものではないのだろう。多大なダメージを負った肉体を何とか再生させつつ、大きく間合いをとっていた。 ウェイトンの特異能力が他者の変化のみだというのなら、こと戦闘においてはジュンタの方に圧倒的にアドバンテージにある。元の基礎ポテンシャルが同じなら、それに加えて戦闘系の特殊能力を持っている方に軍配はあがる。 リオンでさえ素直に感嘆したように、ジュンタの持つ虹の力は凄まじいの一言だった。 ドラゴンの豊富な魔力で、属性を無視した魔法行使を可能とする。魔法行使は最低でも儀式魔法レベルとくれば、それは熟練の魔法使いがドラゴンになったかのようなものだ。それを呼吸するように扱えるというのだから、一生懸命魔法を勉強している人は涙目だろう。 「虹の翼に虹の魔力……前々から思ってましたけど、ジュンタ、あなた『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイル様と何か関わりがあるのではなくて?」 「そうだな……ある、って言ってもいいんだろうな」 リオンが口にした古の使徒の名を聞いて、ジュンタが思い浮かべるのは故郷の地で出会った白銀の少女のこと。虹の魔力を持ち、あらゆる魔法を使ったという使徒と似通った自分の魔力の色等、関わりがあるのは明確だった。なにせ、彼女曰く自分は子供らしいから。 「今頃、地上ではキルシュマやミリアンが色々と騒いでいるかも知れませんわね」 「そんな余裕があってくれると嬉しいんだがな」 チラリと視線を視界の隅に送る。そこでは夥しい魔獣を前に、別働隊が一塊りとなって必死に抵抗を続けているところだった。 ウェイトンの特異能力によって追い詰められたのは、ジュンタではなく直接魔獣と戦う彼らの方だった。さすがに多勢に無勢。一騎当千の英傑たちが揃っているとはいえ、強力な魔獣になった軍勢に敵うべくもない。防戦に徹しながら徐々に後退している。 『……仕方がありませんね。神が取るべき手段、とはいいませんが』 地上の仲間の無事を確かめたジュンタへと、ぞっとするようなウェイトンの声が届いた。 『あなたは強い。まさに最強といっても過言ではありません。ですが、だからこそ悲しいほどに弱い。あなたが最強であっても――あなた以外は弱き人なのですから』 「ウェイトン。お前まさか!?」 「ジュンタ? どうしましたの?」 ウェイトンの声が聞こえていなかったリオンが不思議そうな顔をする中、ジュンタは[加速付加]を使って最高速でウェイトンに肉薄した。 『選ぶのは私ではなく、あなたですよ』 悪意の声をあげながら、闇のドラゴンが漆黒のブレスを撃った。 目標はジュンタではない。その背で必死の抵抗を続ける、地上の別働隊だった。 「くそっ!」 ウェイトンの攻撃の方が零コンマ数秒早かった。 「間に合え!」 ジュンタは駆けた。リオンが叫ぶ中、必死に加速した。 視線の先では自分たちが攻撃の目標にされたと気付いた騎士らが防御魔法を張ったり、回避行動に出たりしている。幾人かは大丈夫だろうが、過半数が避けられない。 相殺ができる距離じゃない。だが――追いつくことはできる! 全身に魔力を張り巡らせ、できうる限り速度を底上げする。本来なら防御力も上げるべきなのだろうが、それではギリギリ間に合わないかも知れない。全ての魔力を加速に費やし、ジュンタは雷光の数十倍の速さで別働隊と漆黒のブレスの間に身体を差し込んだ。 「ジュンタ!」 最後にリオンを自分の背に守るために振り払うことは、焦っている中でも決して忘れたりはしなかった。 『その選択に――幸あれ!』 異端導師の祝福の中、リオンの悲痛な声と共にジュンタの身体を激しい衝撃が揺さぶる。 痛みと熱が身体中で暴れ回る。絶叫をあげながら、しかしジュンタはその場から逃げたりはしない。 ブレスは数十秒の間続いた。その中でジュンタは必死に堪えて、後ろにいる人たちを守り抜いた。だがその結果、白い身体は血と傷で赤黒くそまり、虹の翼は魔力切れを示すように明滅を繰り返す。 ふらりと力を失ったジュンタの巨体は地面に落下し、 「お前も――墜ちろ!」 その間に、ジュンタは儀式の続きを行おうとするウェイトンめがけてカウンターのブレスを放っていた。 「ざまぁ、みろ……」 地面に墜落しながら、ジュンタは一矢報いたことに笑い――ぐっと牙が並ぶ歯を食いしばった。 「ジュンタ! しっかりなさい!」 いち早くリオンが駆け寄ってくるのがわかったが、それでも無事を伝える言葉を紡ぐことができなかった。 「はな……れ、ろ…………」 それを言うので精一杯だった。 「俺から――離れろッ!」 それを言わなければいけなかった。 ――ドクン。 自分の心臓ではない闇の心臓が鼓動する。 変われ、と。裏返れ、と、歪め、と。 「アァアアアアアアアアアアアアアアアアアァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアァア――ッ!!」 ◇◆◇ リオンの目の前でそれは起こった。 みんなを守るために自分の身体を盾にしたジュンタのドラゴンの肉体が、内側から溢れ出た黒い泥に包まれていく。触れれば呪われると本能的に理解できる呪いの泥に。 「嘘でしょう? ジュンタ、あなた……!」 リオンはその泥の正体について知っていた。 他でもないウェイトン・アリゲイが用いた、人を魔獣に落とす反転の呪い。それが今ジュンタの身体を蝕んでいた。 (このままではきっと、ジュンタは良くないことになる) すでにドラゴンであるジュンタが反転した結果、どうなるかわからないリオンだったが、それだけはよくわかった。 「ジュンタ!」 近付くなと言ったジュンタの言葉に従わず、リオンは彼の首筋に近付くと思い切り抱きついた。 ぬめりと血が指を汚すが、それも気にならない。呪いが侵蝕して来ようとするがそんなものが通用するものか。 「下がりなさい! この人がリオン・シストラバスの良人と知っての狼藉ですか!」 一喝、烈昂の気合いと共に叫べば、まるで怯んだように呪いの泥が身動きを止める。けれどそれはリオンに及ぼうとした部分だけで、ジュンタを包む呪いに陰りはない。 いいや、何かが違う。普通の反転の呪いとは何かが違う。ジュンタの身を襲っているこれは一体……? 「くっ、俺としたことが。間に合わなかったのか!」 「サネアツ?」 ジュンタを元気づけるように抱きしめながら、何をしていいかわからなかったリオンに光明が差し込む。どこからともなく駆けつけてきたのは行方知れずになっていたサネアツだった。 サネアツはリオンの肩の上までよじ登ると、苦悶にのたうちまわるジュンタを酷く悔しそうに見つめた。その顔は何かを知っている顔だった。 「サネアツ。一体ジュンタに何が起きましたの?」 「……強い力には代償が伴う。ジュンタの心には、あの日神獣となった日からずっと負担がかかっていたのだ。ドラゴンであることに対する狂いと反転の呪いの両方に」 「っ! そんな……」 リオンは青ざめた顔でジュンタを見た。 今ジュンタを苦しめているのは、やはり反転の呪いともう一つ、ドラゴンとしての狂いなのだという。戦闘時にも感じていたが、ドラゴンが持ちうるべき狂気というべきものをやはりジュンタも持っていたのだ。それと彼は必死に戦っている。 「……もしも耐えきれなかったら、どうなりますの?」 「お前のよく知るドラゴンになる。魔竜――そう呼ばれる存在に」 ウェイトンの一撃がそのトリガーとなってしまった。溢れ出す黒い泥はジュンタの心の中にあったもの。リオンはジュンタが人知れず戦っていたことに小さな怒りと悲しみ、それ以上の責任感を抱く。 「あのとき、あのときジュンタが私を助けるためにドラゴンになったというのなら……それは、私の責任ですわ」 ランカの街で初めて神獣となったときにドラゴンの狂いを、ラバス村でのときに反転の呪いを背負ったというのなら、そのどちらの責もリオンが被るべきものだ。ジュンタがドラゴンになったのは、リオンに理由があったから。 「リオン。お前、まさか……」 強い覚悟の眼差しでジュンタを見るリオンに、サネアツは大きく目を見開いた。 「――旅の終わりは、まだ見つからない」 紡ぐ聖句。紡ぐことが叶った歴史。詠唱に伴い、『不死鳥聖典』は聖骸の形へと姿を変える。 そこにこめられた力はドラゴンを滅す不死鳥の力。 「ジュンタが魔竜になるというのでしたら、彼のために私が止めますわ。何をしてでも。たとえ――」 ジュンタならば大丈夫と信じる傍ら、リオンは竜滅姫として、この男の人を永劫に愛すると誓った女として覚悟を決める。 「――ジュンタを滅することになろうとも」 クーの意識は暗い闇の底へと沈んでいた。 ドラゴンのブレスの直撃を受けたことで、かつてないほどの肉体的ダメージを受けた。呪いは抵抗力からはね除けることができたが、今クーの精神は、死の淵に近い場所でゆるやかに二度と醒めることのできない闇へと落ちつつあった。 『儀式紋』と肉体のポテンシャルで即死することはなかったようだが、これ以上の回復は望むべくもない。クーの瞼の裏には消えない光が刻み込まれていたが、それでも今度こそはダメみたいだった。 「では、今こうして自らの死を悟っている私は何なんでしょうか?」 おかしいといえばそれがおかしかった。 ダメージを受けて意識は閉じているはずなのに、クーは自分の身体の具合を確かめ、現状を認識することができた。 意識がないはずなのに意識がある。そんな矛盾する中にいるクーは見るのは、光でも闇でもない無意識。無意識の海の中、意識をもってクーは漂っていた。 それは正確な表現ではないのかも知れない。漂っているというのは目的地がない場合の話。この場合は流されている、といった方が正しいかも知れない。そこに自分の意志が介入する術はないけれど、目的地は決まっているようだから。 やがて、クーは流されるままに一つの浜辺へと辿り着く。 意識の浜辺。それは自分の意識が表に出る場所ではない。無数の意志と思い出で満たされた小世界。人が持つ自分だけの世界。クーは自分ではない誰かの心象世界に迷い込んでいた。 「誰の、世界……?」 何もない無意識の海に、他人の意識という多くの光が溢れ出す。それは降り積もる雪のようにクーへと降りかかってきた。そのときクーは一糸まとわぬ姿という形で、自分が仮初めの肉体を持っていることに気付く。 次々に切れ変わる映像。次々に移り変わる情景。 思い出の中に現れる人の中に、よく見知った人たちがいた。 一番多いのはリオンとゴッゾ。次にサネアツ。その次にクーとジュンタが来て、知った人知らない人がそこに続いていく。 「ここは……そう。以前にも来たことがあります」 既視感があるのも当然だった。過去二度他者の心象世界に溶け込んだことのあるクーにとって、ここは一度訪れたことがある場所だった。 「ここは、ユースさんの心の中」 ここはユース・アニエースの意識の海――そうと気付いた瞬間、濁流のように続いていた記憶の流れがぴたりと止まる。代わりにぼんやりと光り輝く球体の光がクーの目の前に現れた。 他者の世界に入ったことがあるクーでも初めて見る現象に、驚きつつも警戒心はわかなかった。なぜだかその光が優しいものであると、そうクーにはわかっていた。 光はピカピカと明滅し、クーの周りを構って欲しいかのように飛び回る。いや、構って欲しいのではない。自分のことを知って欲しいと叫びながら飛んでいる。 「繋げて欲しいと、そう言いたいのですか?」 クーは光に必死である何かを感じ、求められるままに手を伸ばした。 触れる。温かくも冷たくもない。ただ触れたとだけわかった。 『――私の声が、届きますか?』 掠れた、しかし確かに聞き慣れたユースの声が、そのときクーには聞こえた。 「はい、聞こえます。ユースさん……なんですか?」 『ええ。以前繋げていただいた魔力のラインを遡り、今度はこちらから繋げさせていただきました。失礼かとは思いますが、緊急時にてご容赦願います』 淡々と事実を語るユースを前に、クーは開いた口が塞がらなかった。 驚きは、いくらラインが繋がって魂的に近くなっていたからといって、再接続という荒技に成功したということにあった。恐らく現実世界においても肉体的な距離が近かったのだと思うが、それでも驚嘆に値する。ユースも以前それは無理だといっていたのに。 『申し訳ありません。もう時間がないのです。私の意識がこうして持っていられるのも、あとどれくらいか』 「どういうことですか?」 クーの意識を本題に誘導したのは、珍しいユースの焦燥に駆られた声だった。 「ユースさんの身に何かあったのですか? 精神的に繋げるとなると、ユースさん自身も現実での意識を閉じていないといけないはずですが……いえ、それだけでは。『儀式紋』のないユースさんがそれをやろうと思うなら、精神を独立した形で……」 それが意味することに途中で気が付いたクーは、血相を変えて光を見た。 ヒトガタを取ることができない、光の球という形をしたユース。彼女が精神を独立――つまり肉体のくびきから隔絶した場所に置くということは、即ち一つのことを意味していた。 『クーヴェルシェン様。私のことは気になされないでください』 「ですが、私がユースさんを守ることができていたなら……」 『いいえ。まだ間に合います。私を救っていただけるというのでしたら、これからするお願いにどうか肯定をお願いします。クーヴェルシェン様。今状況は最悪という言葉も福音に聞こえるほど、最悪の状況下にあります』 自分のことは無視して、こうして意識を繋げた理由についてユースは話し始めた。 『他でもありません。クーヴェルシェン様、あなたの主人と私の主人にかつてない危機が迫っております。このままいけば、お二人がお二人とも死んでしまう可能性があります。そこまで行かずとも片方が死に、残った片方にも致命的な傷が残る可能性が』 「ご主人様とリオンさんが、死……!?」 クーは仮初めの肉体が崩れるかのような衝撃に殴られた。 「ご冗談……というわけではないのですね?」 『残念ながら。我々は大きな見誤りをしていたようです。私が広げた探索の糸が知り得た限りの状況において、ジュンタ様は反転の呪いに晒され、今まさに魔竜に変わろうとされています。そしてリオン様は、ジュンタ様が魔獣に変わり慟哭と破壊をまき散らすのならば、ジュンタ様のためにもご自身で滅されるつもりです』 それが意味することはリオンの死。あるいは、二人ともの死。ヒズミ・アントネッリが挑もうとして失敗した奇跡に、二人もまた挑もうとしている。 「そんなのダメですっ! ご主人様が死ぬのも、リオン様が死ぬのも、それがお互いに向かって放たれるのも絶対にダメです!」 『同感です。それは絶対に食い止めなければならないこと。ですが、こればかりは意志の力でどうこうなるものではないのです。ジュンタ様は必死に抗っておられますが、遠くない未来に魔竜となられてしまう。何とかするのなら、その前になんとかしなければなりま――』 「ユースさん?」 そこまで語ったユースの言葉尻が、ふいにノイズのようなものに攫われる。 『どうやら、私に許された時間はもうほとんどないようです。よく聞いてください、クーヴェルシェン様』 ノイズは酷く、明滅は激しく、大きさはどんどんと小さくなっていく。まるで考える力が失われるように、心臓の鼓動が不規則になっていくように、魂が燃え尽きていくように。 クーは本当にユースの時間がないことを悟った。 『私にはお二人を助けるほどの時間と力がございません。あまりにも身勝手なお願いとは思いますが、あなたに託す他ありません。どうか、何卒お二方をお救いください』 「はい。ご主人様も、リオン様も、私にとっては大事な人です。身勝手でも何でもないです。それは私の方からお願いしたいことなんですから」 『ありがとうございます。それでは――』 そこで一際大きなノイズに言葉がえぐられる。 『託します。私が何とか繋いでいる探索の糸を――ジュンタ様の元まで伸びている糸をクーヴェルシェン様の意識に重ねます。ジュンタ様の巫女であるクーヴェルシェン様なら、それを辿り、ジュンタ様の意識と重ねることが叶うはず。何とか救う手だてをお探し下さい。直接ジュンタ様の世界に重ねて、どうか……リオン様を救えるのは、ジュンタ様だけ、ですから――……』 そこで一際大きな明滅により、ついにユースを構成していた光が消える。 『あ、あ……私、……何も、できなかった…………』 最後に、ユースの悲しみに溢れた独り言が、クーの耳に届いた。 『ごめん……なさい…………お母、さん…………ジュンタ様………ゴッゾ、様…………』 それを聞いたから、クーは絶対にがんばらなくちゃ、と思った。 『…………リオン様……こんな私が従者になって…………ごめん、なさい……』 この命が尽きる、その瞬間まで。 無意識の海に映り込む外の世界。灰色で満たされた寂しい世界。 世界を広げる。 快楽――それを上回る幸福感。 大好きな人とむき出しの精神で触れ合う行為は、甘美に過ぎる行為。ともすれば快楽の波に意識が浚われてしまいそうになるほど、クーヴェルシェン・リアーシラミリィにとっては最大の麻薬だった。 自分という因子が消え、ジュンタの因子に融合する錯覚。 無限の悦楽と無限の幸福の中を通り抜け、クーは綿雪が地面に着地するようにジュンタの精神の中へと入り込んだ。 「ここが、ご主人様の心象の世界……」 まず目に映ったのは無限の記憶と無限の思い出。 あの闇こそが今ジュンタを蝕む猛毒。許せない。クーは睨みつけるようにそれを見て、しかし、ジュンタの記憶が蝕まれていく様を見続けることしかできなかった。 ここでジュンタを助ける方法を探さなければならないとはいえ、ここにあるという確証もなく、捜索の方法さえわからない。ただ、ここにあると信じることしかできず、クーが実際に取った方法は祈りを捧げること。 「ご主人様とリオン様が殺し合わなければならないなんて、そんなのは嘘。そんなことは許されない、世界の罪」 ここは今ジュンタの世界であると同時にクーの世界でもある。ならば、祈ることで望み欲する場所へと辿りつくことも叶うはず。 「それを認めることは神の傲慢。ご主人様は悪だけれど、それでも誰よりも格好よくて優しい悪だから……決して、正義が駆逐していい存在ではありません」 クーは今必死に戦っている大切な人のことを考える。 いつもはのんびりとしていてマイペース。周りの人々に巻き込まれる形で何かと忙しそうにしている。でも、口では大変だと言っているけど、全然苦しそうじゃない。いつでもなんだかとっても楽しそうな人。 お菓子を作るのがとても上手。甘いものが大好きで、その手は魔法みたいにとろけるスイーツを作り出す。あとエプロンがとても似合っていて、ケーキを食べているところは子供みたいで微笑ましい。 とても強くてまっすぐ。どれだけ大変でも、どれだけ辛くても、それでも前を向き続けていられてすごい。たとえ誰が相手でも受け入れ、受け止めてくれるその優しさは、きっと何ものよりも尊い輝き。 手を握る温度を覚えている。 「そんなご主人様が否定されるなんて嘘。ご主人様を否定することが正義だというのなら、私は悪で構いません。だって――ジュンタ・サクラは私のたった一人の主。あの方が悪を名乗るというなら、私もまた悪を名乗りましょう」 あの日、自分の罪を知ってなお好きでいてくれると言ってくれたあの日から――もうクーは世界を恐れはしない。 怯える夜はなく。凍える朝はなく。 「私には奇跡を起こすことなんてできないけれど、それでも奇跡を探すことだけはできるから。だから――!」 強くクーは祈りを捧げた。 すると、世界が急激に傾いたような錯覚に襲われた。 あったはずの地面も天もがなくなり、混沌が現れる。原初にして終焉の果て。世界の全てがあり、何もかもがない場所。 ジュンタの中にあった、彼の魂の奥底にあったこの景色を、クーは以前にも見たことがあった。 罪が決定されたあのとき。魔竜と心重ねたあのとき。 ああ――と、クーは思い出す。 黄金の月に見守られたこの世界の真実を。あのとき心に描いた狂いを、思い出した。 千年前に『始祖姫』が地獄の世を終わらせてなお使徒が生まれ、世界が救いを欲する理由。サクラ・ジュンタという救世主を求める理由。 そうだ。救世主がいるのならば――救世主が救うべきものが存在していなければおかしな話。 「そうでした……私は、知っていた。世界は、この世界は、もうとうの昔に死病に蝕まれている」 世界の先にもう一つの世界があった。白銀に輝く、誰も知らない追放世界が。 「世界は死にいこうとしている。救世主が救わなければ、やがて死に絶えてしまう。それが……私たちの生きる、この世界。救世主は――生まれなければ、ならない……」 吸い込まれるように、そこへ意識は着陸する。 処女雪の如き白銀の髪。満月よりも美しい黄金の瞳。 「久しぶり。それとも初めましてかしら? ううん、どっちでもいいわね。今ここにいるあなたと、今ここにいるわたし。それぞれの役割は決まり切ってるもの」 何も纏っていない少女は虹色の光を衣服として、休めた翼を広げるように気安くクーに話しかけた。 「あなたもわたしもジュンタが大事。なら、やることは一つだけ」 奇跡を願い、奇跡を探した先にあった出会い。 「ジュンタを救う。ただ、そのためだけに。今はあなたを見逃してあげる」
一切の抵抗もできず、ユースはその場に跪いていた。
命乞いをするように膝をつき、手をついて、額を地面にこすりつけて金色の瞳を身仰いでいた。
そこで気が付いた。金色の単眼は愚者の証だが、目の前のそれは本来金色の双眸を持つ王者であると。なればこそ、逆らえるはずもなかった。魔力も何もかもが霧散して、肉体が命令を遵守せんと持ち主の意志をねじ伏せてくる。
「救世主の奴隷に対し、神の奴隷が抗えるはずもありません。身の程を知りなさい、代用品。紛い物が『竜の花嫁』の紛い物であるように、あなたは所詮『竜滅姫』の代用品に過ぎない。本物が完成しなかった際の保険でしかないのですから」
身体の自由がきかなければ、声もあげられなかった。王の前では言葉すらも無礼だということ。
跪け、その意味はおおよそ相手の全てを掌握する命令であった。
ただし『狂賢者』にとって自分は臣下ではない。氷の手錠で繋がれ引きずり出された罪人に過ぎない。
「ああ、もしや紛い物と同じように、自分が救世主様に選ばれるなどと愚かしくも思っていたのですか?」
嘲弄を浴びせられ、尊厳を踏みにじられる。王の言葉は罪人にとって、まったく別世界の言葉に過ぎない。ユースは『狂賢者』の話す意味がわからない。
「残念でした。あなたは代用品。姿形が同じだけのスペアなのですから」
一人の女として嫉妬を向けられる意味も、わからない。
「……どうやら、何を言っているかさっぱりわからないという顔ですね。なるほど。ラバス村で出会ったときもそう思いましたが、本当に何も知らないまま駒にされているに過ぎないわけですか」
つま先でくいっと顎を持ち上げられる。
喉を軽く圧迫されれば、嘘みたいに声を出すことができるようになった。
「かわいそうな子。何も知らない、何も知らされない、それでいて利用され続けるかわいそうな子。あなたの人生は常に縛られ続けている。奪われ続けている。唯一得られるはずだった栄光も自ら手放して、主に全てを奪われ続ける。ああ、あなたはなんて理想の従者」
「なんの、ことですか? 私が、奪われ続けている……?」
「そう。人生を。愛を。栄光を。全て奪われ続けている。それでいて、あなたはオーケンリッターとは違い、それを良しとしている。救いようがない。だから、かわいそうな子」
「違います! 私は、かわいそうな子じゃない!」
歪んだ半月のような笑みを見て、ユースは喉の奥から叫んでいた。
たとえ湖の妖精の姿をしていても、目の前にいるのは人を狂わす賢しき者。聞いてはいけない。受け止めてはいけない。抵抗し、拒絶し、否定しなければ、自分もまた狂わせられてしまう。
「意味が、わからない。あなたは狂っている! あなたはクーヴェルシェン様ではありません! あなたは『狂賢者』だ!」
「認められない。許容できない。ええ、だからあなたは利用され続けているというんです」
今度は『狂賢者』は激昂しなかった。
足を顔から離し、しゃがみ込むとそっと頬を慈愛をこめて撫でてきた。
「であれば、救われないあなたを救うことは救世主様の役目。つまりは、あたしの役目でもあるということ。少し真実を諭してあげましょう。
そうですね……こう言えばわかりますか? 救世主様は――サクラ・ジュンタ様は、たしかにあなたのことを気にしていた」
クーヴェルシェンの身体を持つ『狂賢者』にとって主――救世主様とはやはりジュンタなのか。そうと理解すると共に、ここで彼の名前が出てきた意味がユースにはわからない。けれど、これが自分を狂わす毒の一滴であることはわかった。
「ジュンタ様が私を気にしていた? ご冗談を。あの方は――」
「なぜならば、あなたは彼にとって理想だった。顔も、身体も、その性格でさえも理想です。恋愛に鈍感であるあなたは気付かなかったようですが、たしかに救世主様はあなたに心惹かれていた。けれど、本当の思い人がいたから、距離を置くことで自然と防波堤を立てていた」
そんなことは知らない。自分が一人の男性にとって理想の女性であることなんて自分の人生に関係ない。なぜならこの姿も、人格も、全ては生まれ育まれた結果なのだから。
「もしかしたら、あなたが望むのならばその寵愛を受けることも可能だったかも知れません。従者の分をわきまえず、主を差し置いて奪い去ることもできたかも知れません」
「そんなことはあり得ません。リオン様を裏切ることなんて絶対にしません!」
「そう、できなかった。そして救世主様はあなたの主を選んだ。もう一つの理想を。当然ですね。あの方の理想の女性はあなたでも、理想の存在はあなたの主だった」
当たり前だ。ユースがリオンに敵うわけがない。たしかに顔立ちは似ているが、それ以外の部分はまったく似ていない。ジュンタは似ていると言っていたがまったく似てなんていない。
彼女は王者。自分はメイド。
主と従者なのだから、ジュンタが主に心惹かれるのは当然の結末だろう。
「……なるほど。ここまで言ってもまるで折れない。曲がらない。やはり素晴らしい従者です、あなたは。紛い物が理想とするのも頷ける話ですね」
『狂賢者』が立ち上がる。同時に氷の手枷が砕け散り、身体が解放された。
素早く立ち上がったユースは、『狂賢者』を睨みつける。しかし、彼女はそんな視線をまったく気にせず、胸に手を当てて満面の笑顔を浮かべていた。
「であるなら、自ら望んで利用され続け、結果的に従者として主を完成させたあなたに価値を与えましょう。誰も褒めてくれないその献身。誰も知らないその影の引き立て役に、あたしは敬意を表しましょう」
ふと、ユースは祝福に満ちた笑顔を見て寒気を催す。
聞いてはいけない。知ってはいけない。
仮に、本当に自分が利用され続けてきたならば、使用されたまま捨てられなければならない。
気付いてはいけない。
なぜならば、気付いてしまえばこれまでの人生全てがゴミに変わる――その予感を前にして、けれどユースは『狂賢者』の口を止められなかった。これで彼女が別の肉体をしていたら、あるいは全身全霊で燃やし尽くしたかも知れないのに、主のために目の前の身体を消し去ることができなかった。
ユースは、リオンの従者だったから。
故に、福音は響く。
「ありがとう。よくぞ、竜滅姫の従者を全うしました。ユース・アニエース」
「………………あ……」
労いの言葉。それを聞いて、なぜかユースは自ら膝を屈し、その場に崩れ落ちていた。
あえて説明するなら毒を盛られたのだ。『真言』を持つ彼女の言葉は猛毒だ。言葉の響き以上の意味をもって胸を貫いてくる。
だからだろう。ユースは今まで考えたこともなかったことを考えていた。
自分は従者である。世界で最も気高き紅の華の従者である。
『竜滅姫』リオン・シストラバス。
騎士姫を仰ぎ、その輝きに焦がれ、絶対の忠誠を誓って献身を重ねる。主のためならばこの命をかけても惜しくはない。そう母親に教えられ、実際に主と出会い、その輝きに惚れ込んだ。
たしかに嫉妬することがなかったと聞かれれば否だろう。
その美しさに、気高さに矮小な人間として嫉妬することもあった。けれど、嫉妬するほどに自分と主と違いを理解して、より一層惚れ込んでいった。
主の幸福が従者の幸福であり、そういう意味では確かに自分は理想の従者だろう。そうであろうと思い、がんばってきたのだから、それを認められるのは嬉しいことのはずだ。
なのに……
「どう、して……どうして、あなたが私を褒めるのですか? 私を労うのですか? あなたは私に何の関係もない!」
「ええ、関係ありません。むしろあなたはあたしの敵側にいる」
だからこそ、『狂賢者』は謳うのを止めない。
「けれど救世主様はおっしゃられた。努力には賞賛を。悲しみの涙は拭い去ろう。報いるために……他の誰もあなたを褒めないというのなら、あたしだけは褒めて差し上げます。それが救世主様に捧げる忠誠の証。
簡単に言ってしまえば、何の関係もない他者でさえ感嘆させる。それだけあなたががんばった――そういうことですよ」
これがリオンからかけられた労いだったらユースは涙を流して喜んだ。
これが母親から、ゴッゾからかけられた賞賛だったなら、ユースは感激に胸を熱くした。
けれど、これは違う。良き従者であることを褒められたのではない。そうだ。『狂賢者』はこう言っているのだ。
よくぞ『従者』の役割を貫き通した、と。
「違う! 私は心から望んで、自分で選んで、そしてリオン様の従者になったんです!」
「ええ、そうですね。主がいなければ『従者』はあり得ない。同時に、従者がなければ『主』はあり得ない」
「そ、れは……」
「ユース・アニエース。あなたがいなければ、リオン・シストラバスは機能しない。完成しない。あなたが理想的な従者であればあるほど、竜滅姫は理想に近付いていく」
故に――福音はこう言うのだ。
「ありがとう。よくぞ、竜滅姫の従者を全うしました。ユース・アニエース。あなたの所為で竜滅姫は完成した」
「あ、あああああああああああアア――――!!」
ユースは頭を抱えて絶叫した。
ユース・アニエースの願いはリオン・シストラバスの幸福。
幸せになるために生まれ、育ち、選んだ。だからユースの人生の全てはリオン・シストラバスの前に跪くことにある。
故に、彼女を殺す竜滅姫の呪いはユースにとって悪性の癌なのだ。
ああ、だけど。
だけど、その癌を育て、手遅れなものにしてしまったのが自分ならば、自分がリオンと出会い、リオンと過ごし、リオンに仕えたことが竜滅姫とを完成させてしまう原因となったなら。大切な人を巻き込んで、不幸へと自分自身を引きずり込んでいったことになる。
「わた、私は、だって、自分で選んで……自分で望んで!」
「そして、殺す」
「っ!」
「あなたが願い、あなたが呪い、あなたが殺す。竜滅姫として完成していくことがリオン・シストラバスにとって死に近付くことと知りながら、あなたは普通の女の子として育てるのではなく、揺れない、ぶれない、燃え続ける炎に育ててしまった。
あなたは知っていたはずです。あなただけは知っていたはずです。主としてふさわしくなることが、炎として燃え尽きることと知っていたはずでしょう?」
知っていた。知っていたし、わかっていた。
けれど、気付けなかった。リオンに仕えることが正しいことと、そう思っていた。アニエースの名前が大切だった。
けれど母親は言った。幸せになれ、と。幸せであればそれでいいと。
別に彼女は竜滅姫の従者になることが全てでないと言っていた。そういう風に歪めてしまったと後悔していた。けれど、ユースはこの道を選んだと叫んだ。……その可能性に、気付かずに。
選んだのではなく、選ばされたのだとしたら?
竜滅姫の代用品として、主を輝かせる従者になることを強制されたのだとしたら?
それは果たして何が発端で、どうしてそうなったのか?
『――お願い。リオンのこと、見守ってあげて』
脳裏に閃く、紅の背中。
真紅の色に染まった全ての始まり。
『あの子は大変な運命を背負ってる。一人じゃきっと歩けない。誰かが支えて、誰かが憧れなければ歩けない』
かつて自分が背負ったものを、今も背負っている少女がいる。
『強いからこそ弱すぎる。けれど、リオンは死んではいけない。その望みを果たすまでは、然るべきそのときまで決して死んではいけない』
だから守って欲しいと、そう言った。
いつも気まぐれにやってくる彼女がある日、真剣な顔でそう言ったのだ。
『わたしを嫌っているのは知ってる。憎んでいるのを知ってる。それならそれでいい。わたしを主なんて思わなくていいし、ましてや母親と思う必要はない』
人としてはダメダメで、妻としてはボロボロで、母親しては史上最低だと思っていた。
けれど、それでも彼女にも母親として守りたい子供がいるのだと知って、嫌いだったけど感謝していたから、仕方がないと頷いた。
『ありがとう、ユース』
お礼の言葉が、くすぐったかったのを覚えている。
『それじゃあ、がんばって。リオンの――竜滅姫の従者になって、そしてユース・アニエースとして好きになって。やがてリオンに運命の日が訪れるその日まで、愛し続けて』
素直に言ってしまえば、自分を助けてくれたその人が、母親として誇らしい人だったということが嬉しかったのだ。
だからだろう。胸に芽吹いた、小さな違和感は忘れた振りをしていた。
あの人は見守れといった。守れといった。支えて、憧れて、好きになれといった。
けれど、一言も助けろとは言っていない。救えとも言っていない。やがて自分の娘が死にいく運命と知りながら、彼女は一言も娘を竜滅姫の呪いから解放してくれとは言わなかった。
死なせるなとは言った。けれど、それは無駄死にを恐れただけのこと。
運命の日。そのとき竜滅姫として死ぬ前に、死なれることを恐れただけということ。
ああ、そうか――ようやくユースは気が付く。
「お前、か……お前が……!」
つまり最初から囚われていた。自分も、リオンも、囚われていた。
あの女の腹から生まれ落ちたときから一つの運命に囚われていたのだ。いや、自分の場合は、あるいは二十年前にあの女と契約したその瞬間から、全ては決まっていたことなのかも知れない。
ユースはもう『狂賢者』を見なかった。
全ての怒りも悲しみも憎しみも、ゴミくずのような自分自身へ向いている。
「なるほど。そういう道を選びますか。さすがは理想の従者。憧れます」
ユースが全身から放っていた魔力がそのとき炎の風となって、術者本人を焼き尽くそうとする。
もしも『狂賢者』がいうように、ここに神がいなければ、あるいはユースの身体は跡形もなく消え、ここに代用品は破壊されていたかも知れない。
だが――それでもここに、神はいた。
「ぐっ」
耳の奥に響く声。纏っていた炎が全て消え去る。
ユースは全身に血が滾るような、燃えるような熱を感じた。まるで器に入りきらない力を注ぎ込まれたかのように、肉体が抗いようのない力に押さえつけられる。存在として自分より上位のものが、内側から跪かせる。
「そう、か……私は今もまだ、あの鳥籠の中から出られていない、のですね……」
誓ったのだ。母の墓前に。もうこれ以上大切なものを失わないと。失わないように戦うと。戦って、そんな大切な人たちの傍で自分も幸せになると。
けれど全ては徒労に終わり、ユース・アニエースは沈黙する。
逆らえない絶対の契約を、かつて、今ユースと呼ばれている愚者は結んでしまった。
神の愛を受け入れたがために、決して神とその遊技に抗うことが許されなくなった罪人の証。
つまりは骨の髄から、救いようがないほどユース・アニエースは『従者』なのだろう。唯一と認めたリオン・シストラバス以外にも、強き者を前にすれば跪かなければいられない。愚かで汚らわしい、弱い女。
「――――面倒くさいね、人生色々。だから神様は酷いんだ」
◇◆◇
『――泣く必要はありません、我が子らよ。救われざる者たちよ』
異端信仰の城の残骸から、黒いしみが浮かび上がる。底なし沼にして底なしの闇。その内より、優しい声は届けられる。
まるで魔獣たちの願いを聞き届けたかのように、ウェイトン・アリゲイは再び生まれ落ちる。
死したものも甦る。さらなる力をもって甦る。
何度も聖地を襲った魔力の波がウェイトンの身体から放出され、魔獣の死骸に侵蝕していく。
「リオン?」
「破滅より地獄の方がマシですのに。ドラゴンを殺すことが我が道と……なのに、なぜ? なぜ聖誕ではなく、暗黒の生誕祭が始まろうとしていますの?」
リオンが何かジュンタの知らない知識から、悲嘆の呟きをもらしていた。
今度は全ての魔獣からではない。生まれ変わったいくつかの魔獣の中で起きただけ。けれども、その破裂した魔獣は再び姿形を強壮なものに変えて生まれ落ちる。ガーゴイルはキメラへと。
「リオン! 何を知ってるかわからないが、今はウェイトンを!」
「わかっています! ウェイトン・アリゲイを、もう一人の破壊の君を完全に滅さなくては!」
眼下でドラゴンを生み出す儀式が始まっていると気付いた瞬間、ジュンタはウェイトンめがけて遮二無二最高速で降下した。
「任せろ。これ以上は一秒たりとも見逃さない」
色々と聞きたいことはあったが、今は信じてウェイトンを倒す。
あまりに規格外な特異能力に焦燥を露わにするジュンタと、救われざる者たちに救いの手を差し伸べられたことに満足げな笑みを浮かべるウェイトン。その温度差は大きかった。
漆黒のブレスは先程に比してなお規模も威力もあがっていた。復活したからか。いや、魔獣たちに祈られ、望まれているためにそれだけの力を獲得したのだ。
あらゆる性質の中でも、速度を早めることにかけては右に出るものがいない魔力性質。
人間のときに[魔力付加]を使う要領でジュンタはドラゴン状態で[加速付加]を発動させる。
照れたように顔を背けるリオンに、ジュンタはあまり変化させることができないドラゴンの顔で笑う。
耳ではなく別のところで聞くようなその声は、リオンには聞こえなかったよう。それはドラゴンのみが知覚するドラゴンの声だった。
ジュンタが制止させる前に攻撃は放たれた。ドラゴンのジュンタでさえ危険な一撃。人間が喰らえばどうなるか、想像に容易い。
まさか反撃されるとは思っていなかったのか、ウェイトンは真正面からブレスを浴び、黒い血を吐き出しながら地面に落下する。
自分の身体ではない獣の身体が脈動する。
自分の中に潜む魔性が嗤い出し、厄災の種がここに発芽を迎える。
リオンは辛そうに目を伏せると、剣を指輪の形に戻し、それを一度強く握りしめてから本来の形へと戻す。
そこに込められたものは大切な人を守るという姫の誓い。
それが意味することはリオン・シストラバスの大きな覚悟。
比較的近い過去から、遠い過去までを遡っていく過程の中、クーはどこか既視感を覚えた。
そして繋がった。指先が光に触れた瞬間、自分の意識の糸と光の意識の糸が繋がった。
ここに至って、ユースがこうまで焦っている理由を悟る。なんてことはない。彼女がここまで焦るなんて、主であるリオンが関わっていないとありえなかった。
『不死鳥聖典』による竜滅……それを愛する二人が愛故にやるというのか?
同時にクーが触れていた光の明滅が大きくなり、大きさが一回り小さくなった。
涙をぐっと堪えて、余計な言葉を口にせず、彼女の言葉を待った。
――世界が広がる。
けれど、クーが見るのは美しい彼方の世界。偉大なる光が輝く、地上の星。
何よりも自分の主を大事に思っていた人から受け取った風の糸を紡いで、自分の意志を大切な主に重ね合わせる。それはユースの想いに呼応するように、偉大なる主――ジュンタ・サクラの世界に溶け込む。
黒く、暗い闇に蝕まれているジュンタ・サクラの小世界だった。
頭を撫でられる優しさを知っている。
そう。今がどれだけ大変だとしても、あの人との旅路には笑顔が似合うとそう思うから……。
クーは確かにこの世界を――自分たちが生きる世界の、ありのままの姿を見たのだ。
「へぇ、やるじゃない。ここまで来るなんてね」
クーはぼうっとした視線を、何もない世界で待っていた少女に向けた。
立っているだけで圧倒的な存在感と威圧感を持つ少女は、艶やかで空恐ろしい笑みを浮かべていた。