第十六話  天使は微笑む


 

 月明かりが決して届かない場所で、満月に祝福されたお姫様は笑う。

「あなたたちの状況はそれなりに把握しているつもり。ううん、わたしはあなたたち以上にあなたたちの状況を知っているわ」

「あなたは……誰、なんですか? どうしてご主人様の心の中に?」

 ジュンタの心象世界の奥底で出会った少女の振る舞いに、クーは怯えるように上目遣いで尋ねた。見た目は同年代か年下に見える少女だが、その存在規模が全てを裏切っている。まるでドラゴンを目の前にしたかのような――もしくはそれ以上の圧迫感をクーは強いられていた。

「ふふっ、そういうこと言うんだ。むかつく」

 質問に少女は酷く痛快そうに声を潜めて笑う。
 足下までのびる長い髪をかき上げると、小さな身体で見下すように胸を張った。

「あなたはわたしを知らないっていうけど、わたしはあなたのことを知っているわ。ずっとずっと昔からね。あなたはただわたしのことを忘れてるだけ。あなた、わたしを見て何も思い出さないの?」

「思い、出す……?」

「そうよ。あなたが昔わたしに何をしたか、本当に覚えてないの?」

 くるんと右足を軸にして少女は一回転。手を背中で組んで、下から覗き込むように見上げてきた。先程と変わらないのは、黄金の瞳の奥で光る猛禽の輝きだけだ。

 幼いのにどこか大人びた神秘的な立ち振る舞い。高貴なお姫様のようにも、純粋な子供のようにもクーの目には映る。髪も肌も真っ白な中、その黄金の瞳の美しさといったら、一瞬でも気を抜けば魂を飲み込まれてしまいそうなほどだ。

 ヒトガタの魔性。神秘が人の形を形作ったもの。……どうしてだろう? 初めて会ったはずなのに、クーはそんな少女に既視感を覚えた。

「私、わたしは……」

 ズキンと頭が痛みを発して、クーは顔を顰めて額を抑えた。

 それを見た少女はにんまりと嬉しそうに笑うと、無邪気にそんなことを言った。

「どうやら一応は覚えているらしいのね。良かった。ここで何にも反応しないっていうなら、拷問も辞さない考えだったもの。たとえ時間が意味のない空間だとしても、ほら、無駄な労力は惜しむべきじゃない?」

 ゾクリと、頭の痛みがそれ以上の生物としての本能による震えに消える。冗談のように宣った少女だが、その瞳はどこまでも本気だった。

 不興を買えば、一体どうなるかわかったものじゃない。たとえ精神のみの存在とはいえ、逆らえば完膚無きまでに転生も不可能なほどに破壊される。おおよそ考えられうる全ての苦痛を、この少女は相手に与えることができる。
 
 恐怖。絶望。あるいは絶対。そう呼ばれるものを前にしているのだと否応なく気付かされたクーは、けれども自分がここに来た意味を思い出して気丈に瞳を合わせ続けた。

「質問に答えてもらっていません。あなたは一体誰なんですか? どうしてご主人様の心の中にいらっしゃるのですか?」

「……そうね。一応自己紹介は必要か」

 しばらくの間じっと見つめていた少女は、ふいに興味をなくしたように視線を逸らすと、ぱっとその場から消える。そして瞬き一つの内に数メートル離れた場所に忽然と現れると、いつのまに纏っていたのか、純白のドレスの裾をもって優雅にお辞儀をした。

「自己紹介が遅れました。わたしはリトルマザー。そう呼ばれる存在。かつての使徒にして使徒でないもの。救世主にして破壊者……といっても今のあなたにはわからないだろうから、ストレートに名乗ってあげる」

 それは淑女の鑑ともいえる所作だったが、頭をあげた途端服をどこかへ消したリトルマザーと名乗った少女は、悪魔のように口端を吊り上げる。

「まぁ、あなたなら大丈夫でしょうし、よしんばそれでどうにかなってもわたしは全然気にしないし。むしろ心地良いし」

「あの――

 理解をえない、一方的に理解され続けている会話にクーは戸惑いを隠せずに質問の答えを再度催促しようとした。

 それをリトルマザーは眼圧だけで封じて、再び、名乗った。


「わたしはメロディア・ホワイトグレイル。あなたがご主人様って呼んでいる、サクラ・ジュンタの母親よ」


 救世主にして究極の毒――そしてそれ以上に意味のある、その役割を。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 ジュンタの様子に変化が起きたのは、彼が苦しみだして五分も経たない頃だった。

 理性を反映していた苦痛の声はそのままに、消えかけていた虹の翼に輝きが戻る。
 目に痛いほどの虹の光は彼が回復したことを教えていたが、回復し始めているのはその体力のみで、呪いの方はいっそう侵攻が進んでいた。

「っ!」

「ぬぉ!」

 ジュンタの首もとに身を寄せていたリオンは、眼前で弾けた雷気によって後方に弾き飛ばされた。リオンの肩の上にいたサネアツも同様に雷気を浴び、毛を逆立てて地面に転がり落ちる。

 見れば、ジュンタの体表面を無数の稲妻が横切っていた。体内に蓄積された魔力が色をもって暴れ始めているのだ。洩れだしているのは少量とはいえ、人の身にはあまりある雷気。ジュンタを中心に半径五メートル近くは稲妻が渦巻き近付くことさえできなくなった。

「リオン。一体何がどうなっておるのだ?」

「説明してもらえないか? でなければ、我々もどう動いて良いかわからない」

 倒れ込むリオンの許へと、事態の推移を見守っていた別働隊の面々が駆け寄ってきた。

「それは俺の方から説明しよう」

 まずロスカとキルシュマがこの状況の説明を求めてきたが、リオンとしてはジュンタが気になって説明どころではなかった。代わりにサネアツが皆の前に出ると、ベアル教の儀式のこと、ジュンタの状態もろもろを一から説明し始める。

 こうしてある程度余裕をもって説明できるのは、皮肉にも、ジュンタがリオンたちを守る盾の役割を果たしているからだった。

 無数の魔獣に囲まれているが、魔獣たちはドラゴンに対して攻撃することが躊躇われるのか、ジュンタを中心に数十メートル内には決して近付いてこない。

「なるほどな。そういうことか。吾が輩たちを守るために我が身を呈して……なんたる漢気。このロスカ・ホワイトグレイル、感動を禁じ得ない!」

「とはいえ、このままジュンタ様を放っておいてもいいものかな。魔竜に堕ちるとなればそうなる前に……」

 ロスカが感情的に、キルシュマが理性的に意見を述べる。
 それぞれ極端ながら、この場に集まった面々の意見の代表として機能していた。

 現在必死に抗っているとはいえ、ジュンタには魔竜に堕ちる可能性がある。可能性があるのなら、そうなる前にどうにかした方がいいという意見もわかる。たとえ自分たちを守ってくれたために負ったものだとしても、作戦成功を前提とすれば、今ジュンタは大きな障害になりかけているのだから。

 同時にそれが直接意見として出ないのは、またジュンタが使徒の一柱であることを皆が理解しているからか。使徒に対する畏怖と崇敬は今なお健在だった。

「どちらにせよ、ここで全員が足を止めているわけでにはいかんな」

 沈黙が支配する中、みんなの前にグラハムが出て、一同を見回し最後にリオンを見た。

「リオン・シストラバス。俺はこの方がどのような方であるか知らぬし、そこの猫の説明も完全には理解できたわけではない。魔竜に堕ちることはないと信頼する貴様に、だからこそ問いたい」

 リオンに比してなお高みに身を置く騎士は、一軍を率いる代表者として問いを放った。

――責任、取れるのか?」

「取れます」

 厳かな口調に、リオンは凛とした返答を返した。

「ジュンタは必ず呪いなどはね除けて再び羽ばたきます。けれど、それでももし魔竜に堕ちたとしたら、そのときは私が全ての責を負います。使徒殺しの汚名を被っても、私は愛する人をこの手で殺します。これは他の誰にも譲ることのできない、私だけの責務です」

「……俺が見た限り、分が悪い賭けだぞ?」

「お言葉ですが、妻となる女が夫となる男を信じずして、一体誰が信じるというのでしょう?」

「くっ、なるほどな」

 グラハムは威圧しても揺るがぬリオンの在りように敬意を示し、脇に控えさせた軍馬へと乗りかかった。

「相分かった。我らを守り墜ちた翼については貴様に全権を委ねよう。代わりに、俺が貴様の持つ指揮権を持っていく。竜滅騎士団の力を借り受けるぞ」

 軽く顎で、グラハムは控えた紅の甲冑を身につけた騎士らを指し示した。

 それはシストラバスの騎士の宿願を思えばあり得ないことだ。ドラゴンを前にした竜滅姫を置いていくことなど、紅の剣を担った騎士たちには到底できないこと。

 しかし、リオンがジュンタを信じるというのなら、また騎士たちも信じ抜く。

 紅の騎士たちは深く頷くとグラハムのあとを追随した。

 全てはリオンに託された。代わりに、リオンが託されていた儀式の制止を騎士たちが担う。

「行くとするか。騎士の正道をッ!」

 グラハムが力強く手綱を引き、怪馬に活を入れる。
 怪馬の蹄は地面を揺るがし、一陣の風となって別働隊は魔獣の軍の中へと突き進む。

 たとえ敵が強大でも、圧倒的に数で勝っていても、成さねばならぬことのためならば立ち止まることはできない。共に戦場へ行き、今はここにいない戦友のためにも、刻一刻と迫っているタイムリミットまでにベアル教の悪意は止めなければならない。

 魔獣の群れの向こう。近いのにあまりに遠い城の残骸。

 燃え尽きた『ユニオンズ・ベル』より、ほの暗い闇色の光が浮かび上がっている。今や儀式の中核と成りはてたウェイトン・アリゲイだ。

 そこから生まれる『何か』は、決して誕生させてはいけないもの。
 騎士の軍はリオンとサネアツを残した全ての人員を引き連れ、最後の決戦に挑む。

 それを見送ったリオンの肩を、軽く叩いた人がいた。

「大丈夫よ。その程度でどうこうなるほど、柔な鍛え方はしてないから」

「トーユーズさん」

 ジュンタの師である女性は力強くウインクして、

「さっきの言葉、感動したわ。そこまで愛する人を見つけられるなんて女として幸せよ。あなたとジュンタ君が結ばれてあたしは本当に嬉しい。うん、やっぱり夢の続きはハッピーじゃないとね」

 リオンの肩から手をどけて、トーユーズは苦しみ今なお必死に抗う生徒のところへ行き、その額に触れた。迸る雷気はトーユーズが静かに纏う雷の闘気に退けられ、押さえ込まれる。

「がんばりなさい、ジュンタ君。今のあなたは少し格好悪いわよ?」

 慈しみと激励を最後に残し、トーユーズは稲妻となって小さくなっていくグラハムたちの後に追いすがる。

「……ありがとうございます」

 リオンは頼れる仲間を見送って、再び跳び乗ってきたサネアツを肩に乗せ、ぎゅっと紅い本を抱きしめた。
 
 燃えるように熱い『不死鳥聖典』は、何かを欲するように魔力を放出しつつある。

「がんばりなさい、ジュンタ。そうしたら、とびきりのご褒美をあげますから」

 けれど、今はそれをぐっと封印して、リオンは愛する人へと近付いていった。

 


 

       ◇◆◇
 




「ご主人様のお母様? メロディア・ホワイトグレイル様……?」

 二重の混乱を突きつけられ、クーはよろめくように胸を押さえた。

 動悸がおかしいのは、リトルマザーとも名乗った相手が敬愛するジュンタの母親だからか。あるいは『始祖姫』が一柱メロディア・ホワイトグレイルだからか。恐らく両方が理由で、それ以上に動悸がおかしい理由は存在するのだろう。驚きとは別の次元で、身体が灼熱するような痛みを発している。

 メロディアの名乗りを発端にした痛みに顔を顰めつつ、クーはじっと自分を好奇の眼差しで見つめる彼女を見返した。

「やっぱり、あなたは平気みたいね。さすがは創られた巫女」

 嘲りとも哀れみとも取れる呟きのあと、リトルマザーは腕を組んで笑みをひっこめた。

「とはいえ、これ以上無理させると説明する時間もなくなっちゃうか。仕方ない。まだ虐めたりないけど、今日はこの辺で許してあげる。感謝なさい」

 一人ではじめて一人で納得するメロディアにクーの理解は付いていかない。ようやく収まった胸を押さえつつ、メロディアの顔をうかがった。

「あの」

「ストップ。どうせ今の言葉の意味とか、さっきの名乗りの意味はどういうことなのか訊きたいんでしょうけど、止めときなさい。もたないわ。死にかけの分際で、あなたジュンタを助けたいんでしょ? なら、今はわたしがジュンタの母親で『始祖姫』であることを無条件で信じてなさい」

「…………わかりました」

 色々と尋ねたいことはあるけれど、クーはジュンタのためにぐっと飲み込んだ。あるいは頭のどこかで理解していたのかも知れない。目の前の少女が口にしたこと全てが嘘偽りのない真実であると。

「素直なところもあいつそっくり。その方が今は助かるけど。それじゃあ、建設的な話をしましょう。あなたの目的、わたしの望み、両方を満たせるお話を」

 パチンとメロディアは指を鳴らす。するとどこからともなく丸テーブルと椅子が現れた。
 灰色の大地の上にはこの上なくそぐわない美しい椅子にメロディアは腰掛けると、テーブルを挟んで反対側の席をクーに勧めた。

「座りなさい。ジュンタを助ける方法を説明してあげるから」

 クーは頷いて椅子に腰掛けた。そこで、クーは不思議な光景をさらに見ることになった。

 瞬き一つの間に、テーブルの上にティーセットとお茶菓子が現れたのだ。クーとメロディアの前には温かな紅茶が入ったティーカップが湯気を立てて置かれている

「その前に最初の質問に答えてあげるわ。わたしがここにいる理由……それを聞くことに意味はないのよ。正確に言えば逆なの。わたしがここにいるのがおかしなことなんじゃなくて、あなたがここにいることがおかしいのよ」

 メロディアは当然のことのように現れた紅茶に口をつけ、

「ここはジュンタの世界とも繋がる、世界の果ての追放世界。わたしの世界なの。
 三つに分けた『封印の地』が重なり合ったあの世界は、最もわたしの世界に近い場所。あなたはジュンタの世界を通じて、わたしの世界まで迷い込んじゃったのね」

「では、あなたはわたしと同じ、精神だけの存在ということですか?」

「正確にいえば精神と魂だけの存在よ。肉体は封印されてるし。まぁ、精神と魂を物質化する術はあるから、肉体なんてあんまり意味がないんだけど」

 こともなげにとんでもないことを言う。確かに、彼女が本当にあのメロディア・ホワイトグレイルであるなら、そんな規格外も可能であるかも知れない。

「む? なんか話が逸れてる。わたしのことは今はどうでもいいの。重要なのはジュンタのこと。まったく、仕方がない子なんだから。仲間を庇って自分が酷い目にあってるなんて、ジュンタらしいといえばらしいけど、見ているしかできないわたしは心臓が止まる思いよ」

 カップを小さな両手で包み込むメロディアの眼差しは、ここではないどこかを捉えていた。その瞳には慈愛と思慮の両方がこめられている。

「このままじゃ、そう遠くない内に自分の中の矛盾に飲み込まれてしまう。ここまで神獣化を多用するのはまだ早すぎたのよ。なのに駄馬がはしゃいで……もっと時間をかけて色々なものを育んでいかなければならなかったのに」

「あなたは、ご主人様の身に起きていることの詳細についてわかっているのですか?」

 質問をぶつけると、メロディアの視線がクーに戻った。

「言ったでしょ? わたしはあなたたち以上に理解してる、って。わたしはここから動くことができないけれど、見ることはできるの。ジュンタが一人で苦しんでいたときも、ずっと見ていた。何もできない自分を不甲斐なく思いながら、ずっと見守っていた」
 
 すぐにメロディアは視線を悲しげに伏せて、

「本人が望まなくても、否定しても、神のシナリオは動き出している。ジュンタはそのシナリオの主人公。苦しむことを、辛い思いをすることを決定づけられた神の道化……でも、わたしはそれを許さない。ジュンタが望まないものを与えたくないし、ジュンタが否定するものを肯定はしない」

「あなたは、ご主人様のことを大切に思われているんですね」

「当然よ。子供を思わない親がいる? ……いるわね。でも少なくともわたしは違う。だってわたしはジュンタのことが大好きだもの」

 幼い容姿に似合わない母性溢れる笑顔を見せる少女。クーにはそれだけで十分だった。

 かつての使徒の名を持ち、年齢的にも体格的にもジュンタの母親であるとは思えない相手。けれど彼女が心底からジュンタのことを大事に想っていることはわかった。なら、それで信頼するには十分だった。

「教えてください。私は、私もご主人様を大切に思っています。だから今ご主人様が苦しまれている原因を取り除いてあげたい。ご主人様には、私がもらった以上の幸せを差し上げたいんです」

「……そっか。ん、よろしい。そこまでいうなら教えて進ぜよう。どちらにしろ教えるつもりだったけど、本人がそこまで乗り気なら好都合だわ。
 いい? 今回のジュンタの衝動は、前もって予測されているものだったの。予定調和。起こるべくして引き起こされたものなのよ」

 カップを置き、どこからともなく眼鏡を取り出しかけたメロディアは、ピンと人差し指を立てて説明を開始する。

「ジュンタの魂に根付く力は可能性の力。最大級の特異能力。だから、与えられた神獣の肉体もまた最大級のもの。神――マザーが知る限り至高の肉体。それがドラゴン。おおよそ考えられうる、あらゆる自体に対処することができる理想の翼よ」

「では、なぜご主人様は苦しまれているのですか? 一体、ご主人様は何に追い詰められているのでしょう?」

「呪いと歪み。即ち『矛盾』。自分の理想と現実との軋轢。ドラゴンの肉体と人の精神との摩擦。簡単にいってしまえば、ジュンタは自分の力をもてあまして暴走させてるの。
 ドラゴンでありながら使徒でもある。正反対と呼ばれるこれは、その実かなり似通っている。魂と肉体が同一化しているもの……とでもいうべきなのかしら? ドラゴンにとって魂こそが肉体であり、肉体こそが魂。肉体は魂から生まれるの。ほら、神獣化の原理と同じ感じでしょ?」

「……ごめんなさい。正直に言ってしまうと、意味が全然わかりません」

「うっ、あなたもわたしが説明下手っていいたいの?」

「そ、そういうわけでは……」

 眼鏡の奥で金色の瞳を半眼にするメロディアの眼圧に、クーは身体を縮めた。たぶんメロディアが説明下手ではなく、前提条件として知っておくべきものをクーが知らないだけなのだ。

「わかったわ。あなたの殊勝さに免じて優しく教えてあげようと思ったけど、そういうならしょうがない。折角精神の世界なんだもの。あなたの心に直接刻み込んであげる」

「きゃっ」

 再びパチンとメロディアが指を鳴らすと、テーブルも椅子もティーセットも何もかもがなくなっていた。唐突に椅子を取られたクーは地面に尻餅つく。メロディアの方は元々座ってなどいなかったため無事だ。視線が下がって初めて気が付いたが、メロディアの足は地面より数センチ浮いていた。

 すーと歩くことなく地面の上を滑ってきたメロディアは、尻餅づくクーに手を差し出す。それは助けの手を差し伸べるように見えて、その実違う。

「見なさい。世界の真実を。そして知りなさい。ドラゴンの正体をね」

 指先に輝くのは無数の色を混ぜ合わせた虹の魔法陣。歪んだ正円。

「っ!」

 原初の魔法を直接叩き込まれたクーは、目を大きく見開いて強制的にメロディア企画のイメージツアーに連れて行かれた。

「あ、違ったか。思い出しなさいが正解だった。どちらにしろ、価値観は変わるわよ?」

 その呟きを遠く耳に捉えるのを最後に、クーの意識は、意識の世界の中でも暗幕に包まれる。

 


 

 ――マザーは救世主に与えるべき肉体がなんであるべきか、長い間思考していた。

 肉体とは魂と精神の器であると同時に枷でもある。
 肉体が物質である以上、魂や精神の可能性を縮めてしまうのはしょうがないことだった。

 とはいえ、肉体なき救世主に肉体を持って初めて『個』を認識する人間は救えない。何らかの肉体を与えなければならないのは決定事項だった。

 マザーはあらゆる肉体が用意できたが、それは世界に記録されたものでなければならなかった。マザーは管理者であって根元的な創造主ではない。現在においてはそう呼ばれても、この世界が始まったそのときにはまだ、マザーなモノは世界に存在していなかった。

 悠久の歴史を記録するマザーは、様々に進化した種のデータを記録している。
 それら無数のデータの中から、適格者の持つ歪みにもっとも適した器を見つけ出し、宛う。それが、マザーが適格者に肉体を与える工程だった。

 常ならば、この世に生まれた適格者の歪みを観測し、その歪みを最も育むことができる器を選ぶ。そこに葛藤も迷いもない。計算により機械的に最高のものを選ぶことが叶うからだ。

 だが今回の適格者は違う。

 その適格者の重要度が他よりも高いという理由のみならず、その適格者の歪み自体が一つの可能性に止まらないのが問題だった。あらゆる可能性を持つというその適格者には、何を与えても問題はなく、何を与えても制限を与えてしまう。

 だから、マザーは最大限枷を課さないために、それに対して観測してきた中で最も危険度が高く、最も自由度が高く、最も救いようがない存在を選び抜いた。

 それはマザーのシステムにさえ影響を与えた、かつての候補者によってこの世に提示された至高種のデータ。

 他者の望みを叶える能力を持っていたその候補者には当初、単細胞生物の肉体を与えたのだが、それは成長の過程で他者の願望を反映し、その肉体を次々に進化させていった。

 他者の願いを叶えるほどにそれは精神を見失っていったが、完成した肉体には目を見張るものがあった。

 それは紛れもなく、種の進化への願望の果てに位置するもの。矛盾の限界地点に存在する生命体だった。

 疑似人類はそれに災厄という概念を与え、ドラゴンという名を与えた。

 それを生み出したのが自分たち種の願望であることを知らず、忌み嫌い、恐れ続けた。その恐怖こそがドラゴンが世界を滅ぼす理由を与えることとは知らずに。やがて進化の限界に達したドラゴンと人類との間で長い戦争が始まることになるのは必然だった。

 原初のドラゴンは、今の世界から見て一つ前に滅んだ時節の住人に該当する。ドラゴンは滅び去ったその時節に生きた疑似人類の『生存』の望みを反映させ、新たに始まった時節に『魔獣』という形で、自らの身体の一部を分け与えて同胞らを転生させた。

 ただし、同じ人類でありながら生きるべき時節が違ったため、ここでもやはり争いが起きた。かつての人類と現在の人類は敵対し、終わりのない闘争が開始される。

 その闘争の中でドラゴンがしたことはやはり他者の願いを叶えること。

 無数の時間の中、ドラゴンは他者の願いを叶え続けた。だが、ドラゴンが叶えられる願いの限界値は種のドラゴン化であるが故に、彼に願いを叶えられた存在は例外なくドラゴンに至り、世界に破壊をばらまいた。

 原初のドラゴンはそのときにはすでに世界のシステムの一部となっていたのだ。世界を回すパーツの一つに。
 
 マザーは彼の有用性を認め、彼というシステムを利用することを決めた。彼の力を有効活用すれば、限りなく使徒を誕生させるリスクを減らせると計算が弾き出したためだ。

 前提としてこの問題があげられていたということだ。――新人類候補者を誕生させるには相応のリスクが伴う、という問題が。

 新人類候補者の力は歪みの力。この世ではない別の世界の法則に似た『特異』能力。生まれ持った力は、その持ち主が死したとき世界に影響を残していく。とはいえ『世界+1』として生まれた力が与える影響は『世界−1』であり、逆に死ぬことによって整合性は取れていた。

 それはマザーが歪みを育まなければ、の話だが。

 マザーの与えるオラクルによって、特異能力持ちは自らの力を発展させる。つまり『世界+1』として生まれた特異能力持ちは『世界−1X』として消える。超過分は世界に影響を残し、消えない歪みとしてマザーとしても計算外の事象を引き起こした。

 それは例えば別世界からの住人を紛れ込ませたり、宇宙規模の破壊振動だったりする。
 それらがまた新たな可能性を育んだのも事実だが、世界の消失さえ起こりうるその歪みを調整することは、マザーにとっても急務として案件に上げられていた。

 原初のドラゴンによるシステムはこの歪みの調律に非常に有用なもの。

 そのシステムを一言で説明してしまえば、死した候補者の持つ特異能力の完全無効作用だった。

 死した候補者は器をデータとして回収され、新人類に至らなかった精神や魂は必要ないものとされ破棄される。マザーはドラゴンのシステムをこの破棄までの過程の中に加えて、自分が手を下すことなく完璧に特異能力が生み出す歪みを消すことに成功した。

 候補者死亡時に観測された歪みの物質化、とでもいえばいいのか。
 ドラゴンの他者の願望を叶えるという力をもってして、死した候補者ののぞみを成就させるのだ。

 願望の果てにあるものはドラゴン。歪みはドラゴンという形をもってこの世に現れる。『世界+1』で生まれたものを『世界−1X』で消し、そのXをさらに『世界+X』として誕生させることで整合性を得る。

 原初のドラゴンに望まれたシステムは、このX分を誰かによって破壊できる形に――破壊しても世界に影響を残さない形に変換することにあったのだ。 

 マザーの望みは確かに叶い、候補者の死亡により新たなドラゴンが生まれ、そのドラゴンを疑似人類が倒すことによって世界の歪みは整合性を持つようになった。

 とはいえ、候補者の歪みから生まれるドラゴンは、候補者の特異能力を有してしまうという弊害もある。精神こそドラゴン化による負荷で埋没するも、魂が作りだした仮初めの肉体は異界法則の塊。普通の人間では傷を与えることさえできないことが唯一の欠点。正しくそれは『災厄』であったのだ。

 もっとも、これも特別な力を受け継ぐ一族による責務とすることで解決している。
 マザーが長い時間をかけて築き上げたデバッグシステム――『竜滅』の仕組みがこれである。

 そして、これらの結果こそがある意味マザーにとって一番の収穫だった。

 ドラゴンは種の限界であると同時に最も適した『至高』の形である。
 特別な肉体を用意するのではなく、魂から直接肉体を創造するというこの方法を、マザーは救世主の神獣にすることに決めたのだ。

 故にドラゴンこそが至高の獣。

 終わりの神獣となることを願われた、救世の王の証となった。



 


「待ってください」

 思考の旅より戻ってきたクーは、蒼白な顔で唇を震わせた。

 理解できない概念を直接頭にたたき込まれ、クーは短時間の間で多すぎともいえる情報を処理させられた。一種の常識の崩壊に近い。今クーは、先程までは理解できなかった概念を理解するに至っていた。

 それでも価値観の根底は変わらない。だから、一番に気になったのはそれ。

「では、ドラゴンは? ドラゴンという存在の正体は……?」

「過去の使徒、っていうことになるわね。厳密にいえば、その使徒の魂から生まれた歪みの具現。特異能力そのもの。精神はまず完全になくなってるし、システム上自分を殺してくれる相手に殺されに行くようプラグラムされている。『竜滅』……ほんと、よくできたシステムよね」

「……ドラゴンの正体が、使徒様なんて……そんな……」

 クーは愕然となった。まさか自分が忌み嫌っていたドラゴンの正体が敬愛する使徒の死後の姿だなんて、そんなの想像したこともない。

「ふ〜ん、衝撃受けてるのね。確か、あなたの遺伝子提供者が似たような仮説を立ててたはずじゃなかったけ?」

「『救世存在仮説論』……あれは真実だったのですか?」

「ドラゴンと使徒を同じ存在と仮定しているあたり、間違いなく理論者は天才ね。同時に最大級の大馬鹿者かも。そんなもの、解き明かされてもされなくてもどちらでもいいものなのに」

 クスクスと笑ってから、メロディアはクーが衝撃から立ち直るのも待たずに話を進める。

「つまりドラゴンっていうのは単細胞生物の一種なの。その一つの特異能力っていう細胞があまりにも規格外すぎるだけのね。だから普通の人間じゃ倒せないし、あらゆる死滅因子を持つ馬鹿鳥の力を使って滅し続けるよう世の仕組みはできている。
 ジュンタも同じ。ジュンタの特異能力が根付く魂を紐解き、そこから肉体を作りだした。どうやらコピーの理由もここにあるみたいだけど――って、あなたに言ってもわからないか。
 ジュンタが普通のドラゴンと違うのはね、本来放逐されるべき精神が肩を並べてるってことなの。だからこそ今苦しんでしまっている」

 つまりドラゴンとは本来狂っているのが当然の存在であり、これまでのジュンタの方がおかしかったということ。

 今ジュンタはドラゴンの歪みに精神が圧迫されている状況だ。これで精神が放逐されてしまえば、残るのは魔竜――つまりは死に場所を求めて彷徨う魂のみということになる。

「ジュンタを救う方法は簡単。精神が壊れないようにすればいいだけの話。何とか我慢して、それで神獣としての力を使わなければそれでいい。それで、何もかもが変わらずにいられるんだから」

 ついに明らかになったジュンタを救う方法は、彼の心を信じる以外にない、結局そういう結論だった。

 クーは目に見えて気落ちした様子で、長い耳を大きく垂らす。

「では、私には何もすることができないのでしょうか? ここまで来た意味は、何もなかったのでしょうか?」

 自分にできることは何もない。そう突きつけられ、クーは意気消沈と瞳に涙をにじませる。

「私は苦しんでいるときご主人様に助けてもらったのに……私は、何もすることができない」

「ふんっ、当然じゃない。あなたはその手じゃ何も救えない。そんなこと、千年も前から決まっていたことよ。身分不相応の何かを求めるのは愚か者のすることね」

 涙するクーにメロディアは辛辣な声をかける。その顔はどこか辛そうだった。

「だけど本当に愚かなのは、手を使わないと何も救えないって信じ込んでるその固定観念の方。あなたは知ってるはずじゃない。何かしなくても、何も出来なくても、それでも言葉だけで、一緒にいるだけで救われるものがあるってことを」

「……!」

「何もできないからって何かをしちゃいけないわけじゃないし、何もできないからって本当に何もかもが無意味なわけでもない。何もできないからこそできることがある……あなたには誰かを勇気づけられる、希望を持たせられる、そんな素敵な力があったはずなのに……本当に、大馬鹿者よ」

「メロディアさん」

 辛そうに、何かを堪えるように下唇を噛み締めるメロディアを、クーは驚いた目で見た。

「本当に何もできないのはわたしの方。わたしはここから動けない。ジュンタを元気づけてあげることも、一緒にいることもしてあげられない。できることは祈ることだけ。ここから、ジュンタが幸せでいてくれることを祈っているだけ。――でも、あなたは違う」

「私は、ご主人様に伝えることができます。がんばって、と。それだけしかできなくても、それが私にはできるんです!」

「そう。まったく、それを思い出すまでに一体いくら時間がかかるのよ。本当にあなたはダメダメな駄馬ね」

「ひ、酷いですっ」

 なぜか『駄馬』呼ばわりされると、クーは心の底から落ち込んだ。と同時に、なぜか懐かしさが込み上げる。こんな悪口初めていわれたはずなのに、なぜか何度もいわれてきたような、そんな奇妙な既視感がある。

 思えばメロディアに会ったときから既視感は続いていた。

 何かを思い出しかけている。何か、そう、もっと何か。応援することしかできない自分にも、できることがあったはずなのに……。

 口を開けて、また閉じる。そんなことをクーは繰り返す。

 メロディアは何かを思い出そうとするクーを見て、これまでとは違う、怖いくらい真剣な眼差しになった。

 口を開けて、また閉じる。そんなことを一度してから、メロディアは徐に尋ねた。

「ねぇ、あなたは本当に――全てを思い出したいの?」

「何か知っていらっしゃるんですか!?」

 意味深なメロディアの台詞に、クーは飛びつくように彼女の肩を掴んだ。

「知っているのでしたら教えてください! 何か、何か大切なことを私は忘れている気がするんです! それを思い出せれば私、きっとご主人様を助けることができるはずなんです!」

「わたしは知ってるし、あなたに思い出させる方法も持ってる」

「本当ですか!? でしたら私に――

 射抜くような金色の視線が、鼻がくっつくほど近くに寄せられる。
 強引にクーの言葉を遮った小さいのにあまりにも大きすぎた少女は、感情の伴わない透明な声を零した。

「けれど、それでジュンタを救うつもりなら――――代わりにあなたが死を超える終焉を迎えることになるわ」





       ◇◆◇






 グラハムが先頭で縦横無尽に敵を打ち砕き、トーユーズが後方で追撃を阻む。

 巨大な弓から放たれた矢の如き疾走をもって魔獣の群を蹂躙していた別働隊の突撃も、やがては肉の前に勢いを奪われる。着実に先頭付近では肉塊が散乱するが、四方八方より押し寄せる圧力にじわじわと動きが鈍くなっていく。

 十万対五百。あまりにも彼我の差は明らかで、一騎当千の強者たちも一人、また一人と命を散らせていく。歩みが完全に止まったとき、それが全員の命が尽きる瞬間だろう。

 せめて相手が半分の数なら、まだやりようはあるのに。

(呪うぞ、陛下。我が最強にして理想を持っていくことを許さなかった、御身を)

 誰よりも敵を屠りながら、あと少しなのに辿り着けない城への距離感にグラハムはほぞを噛む。

(かくなる上は俺自らが血路を開くしかないか)

『ユニオンズ・ベル』まで辿り着かないといけない以上、誰かが道を切り開かなければならない。それが可能なのは最強部隊の中でもグラハムとトーユーズしかいなかった。となれば、グラハムがトーユーズにその役割を譲るはずもない。

「エルマ。悪いが、お前には付き合ってもらうぞ」

 グラハムが威風堂々とした顔つきでそう告げると、愛馬エルマが獰猛に嘶いた。

 地中から襲いかかろうとしていたワームを踏みつぶしながら、エルマが疾走の体勢に入る。グラハムは大剣を、突撃槍を前に押し出すように構えて、猛き騎士の国の筆頭騎士として血を吐くような大声を出そうとした。

 それを待ち望んでいたかのように、突如としてエルマの足下に漆黒の門が開く。

「なにっ!?」

 渦巻く混沌の坩堝は腐敗した風を周囲に撒き散らし、首をあげる勢いでエルマを弾き飛ばした。

 そこで――完全に別働隊の足が止まった。

「ちぃ!」

 グラハムは盛大に舌打ちをして、目の前に立ち塞がった巨体を見上げた。

「まさか、あそこで反撃されるとは。やはり一筋縄ではいきませんね」

 泥人形のように、黒い渦が浮かび上がって現れたのは漆黒のドラゴン。虹のドラゴンによって撃ち落とされた最強の敵だった。彼はまるでここで全てが終わりというように立ち塞がると、じっと自分を見上げる者たちを見下ろした。

「しかし弱き子らよ。あなた方の闘争の日々もここで終わる。安らかな光に抱かれて眠りなさい。ここにはあなた方の救いも用意されている」

「救いなど、騎士道を欲すると決めたときに必要ないものと弁えているわ!」

 グラハムは一喝し、血路を開く決意を再燃させてドラゴンに斬りかかる。エルマは馬としての本能による恐怖を乗り手の勇猛さで打ち消して、破城槌のような勢いで襲いかかった。

――哀れな」

 だが、ドラゴンの歪な咆哮が直前に放たれる。至近距離からぶつけられた超音波は物理的な形をもって、エルマの身体を乗り手ごと吹き飛ばした。

 さらに最悪なのは、その咆哮が儀式の再起動の合図になっていたこと。
 ドラゴンではなく『ユニオンズ・ベル』を中心として、先程別働隊の目の前で起きた魔獣に進化の予兆が現れる。

 ここで何が起きているかは猫により明らかにされたが、あの説明では今ひとつ説得力に欠けた。が、正面で波紋が広がるように魔獣たちの身体に変化が起き始めれば、これが放っておいていいものではないことは一目でわかる。

 止めなければならない――グラハムも、他の騎士たちも、全員が全員そうと理解した。

 しかしドラゴンは騎士たちの前に立ち塞がる。まるで成長を続ける我が子らを守ろうとするかのように息吹を吐いて立ち塞がった。周りの魔獣たちも同胞らの進化の邪魔はさせないといっそう圧力を増して迫ってくる。もはや万事休すか。

――させん!」

 そうと諦めることはなくとも受け入れかけたそのとき、魔力の波動が数百メートル離れた場所から立ち上がったかと思うと、何者かが高速で詰め寄ってきて、魔獣たちを磨り潰しながらドラゴンを横殴りに頭突きで弾き飛ばした。

 巨体で足下の魔獣たちを踏みつぶしたのは翡翠の鱗が美しい大蛇。使徒ズィール・シレの神獣としての姿だった。

「ドラゴンの相手は自分に任せたまえ、騎士の国の騎士団長よ!」

「御意にッ!!」

 美しく雄々しいズィール・シレはドラゴンを睨みながら、グラハムたちに自らが囮となって開いた道を指し示す。

 ここにドラゴンはいたが、魔力の反応は変わらず『ユニオンズ・ベル』の残骸より広がっている。見れば、周りの魔獣を吸収し、肉の城がそこにはあった。

 グラハムを先頭に、別働隊は使徒の導きを受けて再び走り始めた。

 


 

 突然の死の宣告にクーは凍りついた。

 その隙に腕を振り払い、メロディアは大きく空中に浮かんで離れる。

「力にはリスクが伴う。確かにあなたには忘れている力があるし、その力があればジュンタを助ける大きな力になる。だけど、代償はあなたの死。それを使えばあなたはまず確実に死に至る」

 メロディアは笑う。悪魔のように、口の端を吊り上げて嗤う。

「だから思い出させてなんていわないで。そんな覚悟もない癖に」


「わかりました。すぐに思い出させてください」


 戸惑いも迷いもなく笑顔で言い切ったクーに、メロディアが愕然と笑みを凍りつかせた。

「ば、ば――っかじゃないのッ!!」

 メロディアは一瞬言葉を失い、次の瞬間爆発するようにクーに向かって言葉を叩き付けた。比喩ではなく、その幼い身体から放射される法外な魔力の所為で、空間が軋むような音をあげていた。

「馬鹿じゃないの! 言うにことかいて迷いもしないって、ありえない! 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い! あなたそんな長い耳してる癖に耳遠いの? わたしはジュンタを救えば、あなたが死ぬっていったのよ!?」

「はい。そして私はこう言いました。それでも構いません。ご主人様を助けられるのなら、私はそれで本望です、と」

 自分の胸元を手で指して、クーはやはり柔らかく微笑んでいた。

「私は馬鹿ではありません。メロディアさんの言葉の全てを全て理解できたなんて言えませんが、これだけはわかっているんです。
 ご主人様はとても強い人。けれど、このままではドラゴンの歪みに耐えられません。遠からず魔竜になってしまう」

「それは……」

 メロディアが表情を暗くして視線を足下に落とす。家をなくした迷子のようなその姿が、何よりも如実にジュンタの未来を物語っていた。心配してないように振る舞っていた少女の内面を鏡のように映している。

「否定、できませんよね? 私はご主人様の世界をこの目で見ました」

「…………だから、あなたは」

「はい、私はたとえ自分の命を賭してでも、ご主人様を助けたいと思います。悩みません、後悔もしません。だって私はあなたがおっしゃられた通り、ご主人様の従者ですから」

 メロディアはクーの言葉に感銘を受けたように押し黙り、ぷいっと視線を背けた。

「笑顔でとんでもないこと言うのね、あなた。本当うり二つな頑固者。救いようがないくらいの大馬鹿だわ」

「えへ、よく言われます」

「褒めてない! でも……そこまで言われたらしょうがないわ。わたしだってジュンタを助けたいもの。正直にいえば、あなたなんてどうでもいいし、ジュンタがあなたを大事に思っていなければ生け贄に捧げることを強引に実行に移してた。
 だからわたしは謝らない。ごめんなさいなんて絶対にしない。それでもいいっていうのなら、この死神の手を取りなさい」

 まっすぐに見つめて手を伸ばすメロディアを見て、クーは彼女がジュンタの母親であることもあながち嘘ではないと思った。まっすぐにこちらを見つめる視線は、ジュンタのそれにとてもよく似ていた。

「あなたは死神なんかじゃありません。私にとっては救世主様の手です」

 クーはこれから自分がどうなるか知らないまま、メロディアを信じてその手を握った。

「救世主、ね。まさかあなたからそう呼ばれる日が来るなんて、思ってもみなかった。いいわ。それじゃあ、あなたにわたしの力を見せてあげる。【奇跡執行マホウツカイ】……奇跡という名の猛毒を」

 温かいとそう思った途端、なんだか眠くなってきた。
 それは追放世界での意識を閉じ、心象世界での意識を浮上させる合図だった。

「いい? あなたはこれから本当の自分を思い出す。どちらにしろ死んでしまうはずだったあなただけど、思い出すということは溶けるということ。それは自分を自分で消す行為。死よりもきっと酷いこと」

 封印にメロディアの手が伸びる。それは過去二度破壊されたものだった。

「最初は馬鹿鳥。次は駄馬。そして最後は救世主という名の破壊者……あなた本当に幸薄いわね」

「いいえ……私は、幸せです……ご主人様と、出会えて……」

「そう。じゃあ救世主から一つアドバイスをあげる。あのね、紛い物が本物に劣るって決まりはないの。ジュンタはあなたを――紛い物の『竜の花嫁ドラゴンブーケ』であるあなたを大切に思っている。それを忘れないで。そうしたら、もしかしたらあなたは溶け切らないで済むかも知れない」

「は……い……忘れま、せん。私は……ご主人様の、優しさ、を…………」

 握った手からメロディアの思いと共に、何かとてつもない力が送られてくる。

 激流は容易くクーの中にあった最後の枷を破壊する。痛みも苦しみも何もなく、安堵に似た優しさの中、クーは本来の自分を思い出す。

 だから――――歌を歌おう。

 それが大切な主のためにできる、クーヴェルシェン・リアーシラミリィのやるべきこと。やりたいこと。

「頼むわよ、クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。わたしの大切な子供を、どうか助けてあげて」

 歌を歌おう。

 みんなが大好きだった、あの歌を。


 あたしにできる精一杯の応援――――花咲かす歌クーヴェルシェンを。




 

       ◇◆◇





 空虚の海に漂っている。

 過去と現在と未来が意味をなくし、天と地とが入れ替わる混沌。理も秩序も何もない原初の海。あらゆる可能性で満ちあふれるが故に、どんな可能性もない場所。

 蝕まれたものが何であったか、果たして今残っている自分の形は正常なのかそうでないのか。変質する前なのか後なのか。それを見失ってしまった以上、ジュンタが魔竜に変化するのは時間の問題だった。

 なんとか最後まで足掻いてはみたが、ドラゴンというものはあまりにも途方も無さ過ぎた。自己との戦いという根性論が重要そうなものではなく、それは一つの世界との戦いといった、根本的な存在としての価値が試される戦いだった。
 
 自分を人間とジュンタが捉えている以上、敗北の未来は覆せなかった。あるいは自らを救世主であると認識していれば違う可能性もあったかも知れないが、今騙っても詮無きこと。

「悪い。俺、馬鹿なことやっちまった」

 自分の内面の世界に埋没するジュンタは、歪みに追いやられる形で身動きが取れない自分ではなく、狂った自分と相対さなければならないかわいそうな相手のことを気にした。

「悪い、リオン」

 ジュンタは自分が魔竜に堕ちたとき、一体誰が一番に立ち塞がるものか予想がついていた。

 サクラ・ジュンタはドラゴン。
 リオン・シストラバスは竜滅姫。

 愛する二人がそんな肩書きを背負っている以上、もしも互いが道を誤ったとき、叩きのめす役目はもう片方と決まり切っていた。

――ふざけるな!」

 壁があったなら、ジュンタは思いきり殴っていた。
 
 魔竜に堕ちたとき、自分を止めるのがリオンであると理解していることに苛立ちが募る。
 リオンが立ち塞がる以上、そこには血の責務が関わってくる。その結果自分が死ぬ可能性があることが怖いのではなかった。
 リオンが死んでしまうことが、彼女の誇りの形が恋人の死という形になってしまうのが辛く、申し訳ないだけ。いや。これも全部じゃない。

 ジュンタが一番恐れているのは、ヒズミがそうしたように、リオンが死んで自分だけが生き残るという結末だった。

「ふざけるな! リオンを殺してまで俺は生きたくない! リオンがいなくなってまで生きていられるほど、俺は強くなんてない!」

 もう無意味を通り越して滑稽とわかっていても、ジュンタは足掻くことをやめられなかった。

 大丈夫だと思っていた。自分なら決して魔竜になんて堕ちないと。反転の呪いに取り込まれ、破壊をまき散らす殺戮者になどならないものと、そう確信していたのに。

「くそっ。これじゃあ、俺はただの最低最悪の悪役だ。格好いい悪の正反対だ!」

 善の反対が悪ならば、格好いい悪の反対が今の自分の有様だ。

 かつて約束した少女のことを思って、ジュンタは何もない空間を叩き潰すように拳を振り下ろしてしゃがみこんだ。

 寒い。

 何もかもあって何もかもないこの場所は、独りでいるにはあまりに寂しすぎた。ここにこれ以上独りでいたら、きっと精神がおかしくなる。この世界を形作る要素に押しつぶされてしまう。

 それが本当の意味での魔竜の完成なのだろう。なんて無様なのか。これからやれることは、ただそのときを待つことだけだというのか。リオンに殺されるまで、ここで待っているだけだというのか?

 ああ、ならば。その前に、叶うなら自分で自分の抹消を――……。


『ふむ。卿はそう考えるのか』


 どこからか、知らない誰かの声がした。

「誰だ? どこにいる!?」

『探しても無駄だ。卿には我を見つけられぬよ。なぜならば、まだ我々が出会うべき時節ではないのだから』

 炎のように熱い声。いつも隣で聞いていた声に似た、けれど知らない声。

 声の主が言ったとおりその姿は見えない。ただ、見下ろされているのはわかった。遙か高みから、この声は自分を見下ろしている。

『わかるだろう? 物語のはじまりは、常に災厄の降誕と共にある。十年前も、半年前もそうだった。故に、我々が出会うべきはこれより二年後……魔王が現れるその前後となろう』

「何を言ってるんだ? お前はなんだ!?」

『なんだ、か。では逆に聞こう。我は何なのだろうか? そして卿は何なのだろう?』

「答えに、なってない」

『ならばそれが答えだ。わからぬか? わからないだろう? 案ずるな。我にもわからんよ。
 我々は共に自分を知らぬ。あるのは未来のみ。ならばきっと、未来に我々の全てを知る瞬間はあるのだろう。その日まで辿り着く……それが我々の存在意義げんざいだ』

 まったく要領を得ない言葉。恐らく本人も言葉通りわかっていないのだろう。これは胸に燻る熱の行き場を探し、吐き出しているに過ぎない。

『それを踏まえた上で質問に答えるとするのなら……そうだな。今はこう答えておこう。卿が虹であるのなら、我は紅だ』

「紅?」

『そう。紅き翼こそが我が王道。卿はその王道の果てに待つ最後の敵だ。わかるか? 最後でなければならぬのだ。卿にとって我がそうであるようにな』

 もっとも。と、声の主は笑う。

『未来を語り合う前に、この苦難を乗り越えられなければ意味のないことなのだがな』

 そう、未来の話をする前に、今ジュンタは終端を前にしている。ここを乗り越えられなければどうしようもない。

 けれど、声の主は確信しているようだった。この試練など簡単に潜り抜けてくれるものと。

『あの女もたいがい心配性だな。卿がもたぬと思い、我に行くようにし向けたのだから。もちろん代価はきちんと受け取ったがな。卿には分からぬことだろうが、我がこんなにも自由に語り合うことが許されるのは、ずいぶんと久しぶりのことなのだ』

 ……ジュンタもようやくという感じで、目の前の姿も見えない存在を受け入れていた。
 
 コレが何か、どんな相手か、それは分からない。相手もまた知らないのなら、どうがんばったところで知ることはできない。が、どうして今このタイミングで現れたのかは理解した。

 治まっている。停滞している。

 あれだけ苦しかった痛みが、嫌悪が、この目の前の存在を認識してから薄れている。つまりどんな理由かは知らないが、目の前のコレは自分を助けようと、少なくとも今はそう思っているのだろう。

「一つ聞かせろ。お前は誰に差し向けられた? それとも、お前自身が選んでここへ来たのか?」

『前者の問いには答えられんが、是、とだけ言っておこう。後者の問いにもまた然り。
 会いたかったぞ。卿と一度心行くまで語り合いたかった。この胸の歓喜は許されたがためのものだけではない。目の前にどんな形であれ卿がいる、語り合うことができるのが理由だ。しかし……それはこれ以上叶わぬ願いのようだな』

 天の高みにいた声の主の視線が逸れる。

『そら見たことか。我の助けなど卿には必要なかったではないか』

「これは……?」

 その視線の先に、小さな綿雪のような光が現れる。

 光は声の主とは違い、徐々に輪郭を持ち、人の形を取り始める。それに取って代わられるように、声の主の気配が遠ざかっていった。

『ではな、くれぐれもよろしく頼むぞ、虹よ。白にも黒にも染まってくれるな。未来永劫変わらず、紅と比類する虹の翼であってくれ。
 未だ名も持たぬこの身とはいえ、やがて我らが相まみえるそのときには、我も未来を手に入れるための名を謳うと誓おう』

 声の主の声が消え、視線が消える。

 熱を伴う声が消えて冷えていく世界。けれど、ジュンタは寒いとは感じなかった。
 
 代わりに、そっと、前から誰かに抱きしめられていたから。


「遅れてしまい申し訳ありませんでした。ご主人様」


 手で触れることができる感触も、匂いも全て慣れ親しんだもの。黒い侵蝕の中、指し込んだ温かな白い光。それはクーの姿を形作っていた。

「クー? お前、どうしてこんなところに……?」

「だって私はご主人様の巫女ですから。あなたの傍にいつもいる、それが私の役目です」

 クーは柔らかく微笑むと、強ばったジュンタの手を包み込み、くすぐるような力加減で解していく。

「聞こえていました、ご主人様の嘆き」

「…………そっか……情けないよな、俺。あれだけクーに偉そうなこと言っておいて、結局こんな格好悪い有様だ」

 泣き言をもらえば、クーは首を横に振ってくれた。

「私にもご主人様の辛さ、わかります。負けたことが悔しくて、勝てないことが悲しくて、迷惑かけてしまうことが何より苦しい……そんな気持ち、私も知っています。そんな気持ちをずっと抱えて生きてきました」

 どこまで事情を知っているのか、クーは手に顔を寄せてきた。
 触れれば汚してしまう今の自分。それを恐れずクーは触れてくれた。

「巫女として選んでくださった、私を欲してくださったあなたがいたから、私は抱えていた辛さを受け入れることができました。ご主人様がいたから、私は強くなることができました」

 この手はとても大きくて強いのだと、そうクーはくっつけた額から伝えてくる。どうしてここにクーがいるのかは分かり切ったことだった。彼女は、自分を見つけに来てくれたのだ。

「ありがとうございます。ご主人様との出会いが、私の人生の宝物です。あなたの巫女という称号が、クーヴェルシェン・リアーシラミリィがもらった人生最大の贈り物です」

「何を……何を、そんなこと……」

 嫌な予感がジュンタの心を抉った。

 クーが目の前にいて、まるで別れ話のようなことを言っていることに、先程までとは違う恐怖が身を焦がす。

「何をする気なんだ? クー。お前は、何を」

「ご主人様。あなたは死にません。消えたりなんてしません。リオンさんを悲しませるような悪になんてなったりはしません。私の主は人々の救い手で、私の道標で、最高に格好いい悪なんですから。だから、そんな役回りは演じなくてもいいんです」

「お願いだ、クー。待ってくれ!」

 そっと手が離され、笑顔のままクーが離れていく。

 いいや、違う。離れていくのはジュンタの方だった。

 あれだけ遠かった現実へと、吸い寄せられるように引っ張られていく。何もないはずの空より白い光が差し込んで、そこへとジュンタは浮上していく。

「待て! クー、待ってくれ!」

 けれどクーは一緒にはいなかった。さっきまでジュンタがいた場所で、一人微笑んでいる。

「クー!!」

 ジュンタは手を伸ばした。精一杯手を伸ばして叫んだ。今手を伸ばしてクーの手を掴まなければ、もう二度と彼女と触れ合うことはできないのだと、そうわかって。

「私を選んでくれてありがとうございます。私を好きだと言ってくれてありがとうございます。あなたの巫女クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、サクラ・ジュンタという人と出会えてとても幸せでした」

 そんなのは、嫌だ。

「ですから、私はご主人様に幸せになってもらいたいんです。ここで終わるのはご主人様にとって幸せではありません」

 クーもまた手を伸ばす。けれどそれは触れるためではなく、何かを思い出すように、決して触れられないものへ憧れるような仕草。遙か世界の底より、少女は光差す世界に生きる人々へと祝福を贈る。

「誰にとっても、今日幸せな終わりが訪れますように。
 幸せに終われる私のように、ご主人様が幸せになれますように」

 名前を呼んだ。喉が潰れ、口が裂けるほど大きな声で呼んだ。けれど、ジュンタの叫びは音にならずに光にさらわれる。

 それは天より差す光と同じくらい、いや、それ以上に美しい純白の光。はらはらと地より天へと白い羽根が舞い落ちる中、クーは背中から一対の大きな純白の翼を広げた。

「あなたに――

 最後にジュンタが見たのは、幸福を抱きしめて幸福を歌う天使の姿。


―― あなたに水をあげましょう ――


 白い翼と小さな幸せの夢がジュンタの視界を塞いでいく。

 この世界でのジュンタの意識は、見送られるままに閉じていく。

 


 

 目を開ける。眼を覚ます。

 長い、長い、悪夢を見ていた。醒めるはずのない悪夢を見ていた。

 けど、悪夢の中に出てきた幸せな笑顔が、その悪夢から覚ましてくれたのだ。子守歌のように優しいあの歌は、きっと、世界一番優しい目覚ましの音だった。

「……サネアツ。頼む。近くにクーがいると思うんだ。行ってやってくれないか? たぶん、独りで寂しがってるだろうから」

 身体に力を入れて、しっかりと地に足をつけ、翼を起こし、ジュンタは立ち上がって開口一番そう言った。幼なじみが近くにいることは、気配を感じるより前に確信としてあった。

「俺が行ったらきっとクーは怒るだろうから……頼む、サネアツ。あいつの傍にいてやってくれ」

「ああ、いいとも。クーヴェルシェンの帽子の中は、なかなかに落ち着くのでな」

 軽口を残して、全てを理解したサネアツが静かに去っていく。

 残されたジュンタは鼻先に優しい温もりを感じた。

「ねえ、ジュンタ。あなたにも聞こえていますか?」

「……ああ、聞こえてるよ」

 ジュンタは静かに闘志を燃やしながら、

「クー……お前の歌が、聞こえるよ」


 全ての戦いを終わらせることを此処に誓った。










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