第十七話  歌が聞こえる

 


 あなたに水をあげましょう

 

 

 ――歌が聞こえる。

 どこからかささやかな賛美歌が聞こえていた。

 それは神への賛美ではなく、人への賛美がこめられた歌。
 何でもないことへの感謝。人にはたくさんの可能性があるのだと。決して諦めてはいけない。絶望してはいけない。この世には希望があるのだと、そう謳う歌。

 なんて綺麗な歌なのか――耳にした誰もが、そう思った。

 目の前に立ち塞がる魔獣に対する恐怖心がどこかへと吹き飛ぶ。生きて帰れるのかという心配が消え失せる。この歌を聞いているだけでとても幸せな気持ちに、とても強い気持ちになれた。

 まるで後ろで優しい人が見守ってくれているように。
 あるで隣で大切な人が支えてくれているかのように。

「おぉおお!」

 仲間の誰かが大声をあげた。必死に抗う声を、苦難を吹き飛ばす気迫をもって。

 振り下ろされたオーガの棍棒を、振り上げた剣で弾き返す。常ならば防ぐことすらできないはずなのに、今はなぜか弾き飛ばしたあげく、オーガの巨体をぐらつかせることさえできた。

 返しの刃でバランスを崩したオーガを一刀両断。その屍を踏み越え、前へと進む。

 それは一人の男だけの変化ではなかった。

 隣にいた男の仲間も、周りにいた者も、皆が皆いつも以上の力を発揮して敵を打ち砕いていた。
 圧力に押しつぶされそうになっていたのを、息を吹き返しただけでは飽きたらず、今度は自分の方から押しつぶしに行く。

 全滅の危機に瀕していた別働隊は、どこからか聞こえる賛美歌に支えられ、圧倒的な物量差のある魔獣たちを瞬く間に蹴散らし進んでいく。折れた足はしっかりと地面を押し返し、砕けた拳には十全以上の力が宿る。
 
 まるでそれは神に祝福されたかのような力の猛り。
 一人一人が自らの役割と才覚を理解し、発揮し、周りと調和して一つの軍となる。

「驚きね」

 そんな勇壮なる隊列の最後尾についていたトーユーズは、殿を務めるが故に、彼らの変化の一部始終を目の当たりにして一番驚いていた。

 一体いかなる奇跡が起きたのか。まるでいくつもの魔法によって怪我の治癒、体力の回復、身体能力の強化のみならず、個人個人に最も適した戦闘技法を叩き込まれたかのような変化だ。

「『救世の軍勢』、か」

 トーユーズはこれによく似た現象がかつて起きたと記された文献を知っていた。

 あまねくその偉業を轟かせる『始祖姫』の巡礼の旅。
 絶望に瀕していた地でドラゴンと争っていた人間の前に天馬が現れ、その勇壮なる声を耳にした戦士は、たとえ重病人でも歴戦の猛勇のように活躍したという。

 それら神の眷属たちに支えられた人の軍勢を、当時こう呼んでいた。

 地獄の世を救う人の軍勢――『救世の軍勢』と。

「ふふっ、かわいい人間がピンチだからって、死の淵から古の使徒が甦ったとでもいうのかしら? それとも、ここには死んじゃいけない誰かがいるっていうこと?」

 響く声は透明で、誰が歌っているかはわからない。けれど、トーユーズには不思議と聞き覚えのある声である気がした。ささやかな勇気を奮い立たせ、健気に誰かを応援するその様子が、一人の優しい少女の姿と被さったのだ。

 トーユーズは背中からとても強い、安心感と恐怖が両立する力の波動が広がっているのを感じていた。

 歌のバックアップも合わさり、一振りで百を超える魔獣を屠る『誉れ高き稲妻』でさえ恐怖を覚えてしまうほどの存在が、今再び戦場へと飛び立とうとしている。

 もしもこの歌声の主が彼女なら、真に応援したいのは彼だろうから。

 トーユーズは師として自分がなすべきことを行おうと思った。

「さぁ、道を開けなさい有象無象。ここは我ら救世の軍勢を従える、神の使徒の御前よ!」

 

 

種を植えて
芽を芽吹かせて
背丈を伸ばし、葉を茂らせて
いつか花を咲かせて、実を実らせるように
あなたに水をあげましょう

 

 


 ――歌が聞こえる。

 神が天より放った矢の如く突き進む別働隊とは逆方向より、同じように魔獣を蹴散らしつつ『ユニオンズ・ベル』目指して進軍する影があった。

 その速度は一騎当千の別働隊とほぼ互角。叩き潰す魔獣の数を見れば数倍だ。

 白銀の騎士団はすでに勝ち鬨をあげ、使徒の貴さを口々に讃えつつ槍を振るい、敵を切り崩していく。その足並みは軍の速度ではありえないスピードだった。
 大地を駆ける歩兵が、騎馬に近い速度で駆け抜けている。囮として魔獣の群の相手をして疲労しているはずなのに、それをうかがわせないほどに強壮だ。
 
 別働隊を癒し、勇気づけた透明な声は、また彼らにも有効だった。

 疲れていた足も、傷ついた身体も、応援する声を耳にしていっそう燃え上がる。別働隊に比してなお、彼らが受けた祝福は大きなものだった。それは精神性によるものが大きい。使徒を冠に掲げた彼らこそ、信仰の守り手であるために。

「我が騎士たちよ。この尊き歌を聞け! 愛する者を救うために、我が身を呈して賛美歌を歌う人の声を聞け! 死した者たちの無念を背負い、負けるなと激励する叫びを聞け!」

 歌の存在を使徒フェリシィール・ティンクが肯定すれば、与えられる力の滾りを二倍にも三倍にもしてみせよう。それが信仰。それが聖殿騎士。

「今またここに我々は救世の軍勢を名乗ろう! 千年前に果たされなかった地獄の軍勢を今打ち破ろう! 臆するな。絶望するな。挫けそうになったときは、あなた方へ届くこの歌を聞け。希望を信じるささやかな愛の歌を知れ!」

『『歌い手のための聖戦を!!』』

 誰からともなく口にされたかけ声。金糸の使徒の言葉を背負い、白銀の津波が肉塊を大きく抉る。放たれた矢と魔法との波状攻撃により、魔獣の隊列もなき隊列に穴が開き、またたくまに総崩れになっていく。

 ここに至って、あれだけ手こずっていた魔獣に圧倒的な優勢を持つことができた。先程から報告される死者の数が激減し、怪我を負う者も少なくなっていた。

 この奇跡のような現象の発端は聞こえてきた歌であり……『自然の予言者』たるフェリシィールは、この歌が愛しい子が最後に人よがんばれと祝福してくれているものだと、そう気付いていた。

「クーちゃん……あなたの歌が、届いていますよ」

 心の中で泣き、表面上は決して泣かずにフェリシィールは自分の直上で儀式魔法を構築していた。

聖脈に流るる水の音 海原へと降り注げ月下の光

 周りにいた近衛騎士たちが詠唱を重ねていく。
 
 築かれた儀式場の上、フェリシィールは全軍へと響くような声で、魔法を発動させた。

祝福よ天へと 月まで流れよ

 その魔法の名を[水月リン]という。
 
 戦場の使徒の名を冠したこの魔法こそ、フェリシィールが行使できる魔法の中でも最高のもの。その力とは、かの使徒が用いた武器『深淵水源リン=カイエ』の『理想の英雄ミスティルテイン』の具現にも匹敵する威力。

 空中より生じた膨大な水が、未だ聖殿騎士も別働隊も辿り着かぬ『ユニオンズ・ベル』一帯に凄まじい勢いで流れ込む。両側より中心を押しつぶすように包み込んでいく波濤は、その圧力で中心部を圧殺するように収束する。

 あらゆるものをその水圧で押しつぶす、水の威力の具現。
 水面の抱擁により生まれた新たなる人口の湖は、まるで空に浮かび上がる月のごとく崩れることのないまん丸。

 ついに攻撃の手が伸びた『ユニオンズ・ベル』の中で生まれようとしている黒い何かが、そのとき雄叫びをあげた。悲鳴じみた金切り声は、人を怯ますには十分な異音。

 だが、人の耳に届いているのは美しい歌。だから異音が差し込む余地などどこにもなかった。

 だから異音が祝福したのは自らの配下である魔獣たち。騎士たちの猛攻によって総崩れになっていた魔獣たちは、自らが守る存在から激を受け、何とか体勢を立て直す。

 囮としての役目を立派に果たし終え、仲間を助けるため馳せ参じた聖殿騎士団は、別働隊が相手にすることができない魔獣たちと斬り結んでいく。今まで別働隊のみと戦えば良かった魔獣たちに残る有利な条件はその数のみ。

 数の差は十倍以上。だが、戦力は五分と五分。
 
 最終決戦。まさにそう称するがふさわしい激戦が続く。

 その中で、変わらず空より歌は聞こえ――その応援に最も祝福された虹の翼が、ついに戦場へと舞い戻った。

 

 


わたしはただ、水をあげることしかできないけれど
それでも愛だけは贈れるから

 

 

 ――歌が聞こえる。クーの歌が。

「ジュンタ、大丈夫ですの?」

「当然だ。大丈夫じゃないだなんて言えるもんか!」

 首にしがみつくリオンの心配そうな声に、ジュンタは嘆きの咆哮で答えた。

 呪いより立ち直ってまだ数分。強い覚悟を決めていただろうリオンが心配するのも無理はないとはいえ、もう無理をするしないと言っていられる状況ではない。ジュンタは確かに自己を見失いかけたとき、助けてくれた少女がいたことに気付いていた。

 そして今、その少女がどんな状況にあるのかも……。

 ずっと自分の中にあった、失って初めて気付いた繋がりの糸を今は感じられない。
 クーヴェルシェン・リアーシラミリィという巫女との間にあった絆の糸が、今は感じられない。

 あの優しくて健気ながんばり屋がいることを示すのは、聞こえる歌のみ。その歌が彼女の命の結晶。祈りの形。

 がんばれ、と。そういわれている自分が、どうしてこれ以上立ち止まっていられるのか?

「クーが応援してくれてるんだ。がんばれ、って。それに応えてあげられなくて、何が使徒だ。俺はクーの優しさに報いるために、あいつのご主人様になったんだ!」

「ジュンタ……ええ、わかりました。クーの分まで、私たちがやり遂げましょう!」

 待っていてくれたリオンは、クーの身に何が起きているかまではわからないだろう。ジュンタだって詳しいことまではわかっていないのだ。それでもジュンタの心内を察して、クーに何かが起きたことはリオンにもわかったのだろう。

 響く歌はクーの祈り。その恩恵を受けて神速の飛翔を見せるジュンタをリオンは強く抱きしめる。

 ジュンタは目元が滲むように熱く感じた。涙を出す機能は神獣形態にはないはずだが、まるで涙が伝うように目元までのびる金の線が紋章のように形を変える。

 嗚咽の代わりに咆哮を放つのに合わせ、尾の先の指輪より伸びる金色の線が淡く輝く。

 直後――金色の軌跡と虹の線を延ばして、さらなる加速に入った。

 剛雷が天に轟き、蜘蛛の巣状の雷気が迸る。

 音速の壁を破るたびに衝撃波が地上を揺るがし、この空に誰が現れたかと知らしめた。
 虹の翼を持つ白き獣の王。その背に騎士の国の至宝を乗せたドラゴンは、ただ一人の相手を敵と見定める。

「ズィールさん。俺がやります。代わってください」

 獰猛に口の端から稲妻を散らせながら、ジュンタは獲物と戦っていた巨大な大蛇の目の前で立ち止まった。

「ジュンタ・サクラとリオン・シストラバスか」

 敵――ウェイトン・アリゲイの動きを封じ込めていたズィールは、【時喰い】によって巨大な神獣と化した姿だった。しかし以前ドラゴンを倒したときほどの巨体ではなく、あくまでも視認できる範囲内での巨大化だ。

 その戦闘力も以前よりは下がっているのか、ドラゴンと相対するズィールの姿は疲労困憊の様相だった。美しい鱗は剥がれ落ち、口元辺りは血で汚れている。さしものズィールも、オーケンリッターを倒したあとにドラゴンと戦うのは無理があったようだ。

「すまんが……頼、む……」

「畏まりましたわ、聖猊下」

 それでも魔獣を進化させないため何とか持ちこたえていたズィールは、ジュンタの姿を見るなり後を託して人の姿に戻った。地面の上に倒れ込んだ少年のところへ待機していたクレオが駆け寄るのを見て、ジュンタは改めてウェイトンのみを見定めた。

「ほぅ、どうやら立ち直られたようですね。素晴らしい胆力です」

 ウェイトンのドラゴンとしての姿は、先程撃ち落としたときに比べてパワーアップしているように見えた。復活するたびに能力値が上がるのか。だとすると倒すことは不可能ということになる。

 だが、ジュンタの憶測は違った。ウェイトンは復活するたびに強くなるのではなく、蛇が脱皮を繰り返して成長するように、本来の能力値へ近付いているだけなのだ。

 最初からウェイトンの威圧感はかなりのものだった。キメラという贅肉に囲まれていた所為で、本来のドラゴンとしてのポテンシャルを発揮できていなかった。だから復活する度に不必要な部分をそぎ落とし、パワーアップしていく。

 今目の前にいるウェイトンの姿は、威圧感にふさわしい堂々とした姿。恐らくこれがウェイトン・アリゲイのドラゴンとしての全力。

 睨み合う両者。視線が力を持っているようにぶつかり合い、空気の流れがせき止められる。

 翼の羽ばたきなく風の動きを操って――

 魔力の猛りがいっそう跳ね上がるのに合わせ、両者は同時に動いた。

 速度はジュンタの方が上。さらに歌のバックアップを受けて、まるで分身しているかのように無数の白きドラゴンが空中に現れる。ジュンタはリオンと接続し、その剣技を体感。両手から双剣を生み出し、一気に背後に回って斬りかかった。

「見えていますよ!」

 しかしウェイトンも先程とは違う。前回と違い、速度は劣るがジュンタの動きを目で追えていた。先読みして移動したウェイトンは広範囲に広がるブレスを吐き出す。

「ジュンタ!」

 斬撃を避けられた直後に炎を浴びせられたジュンタに、リオンから悲鳴じみた声が飛ぶ。ブレスにこめられた反転の呪い。それに再び飲み込まれないか不安なのだろう。

――効くか、そんなものが」

 そんな不安は杞憂だと断じ、炎から飛び出したジュンタの斬撃がウェイトンの両腕を切り裂く。

「この歌が聞こえる限り、反転するなんて格好悪いってクーが言ってくれる限り、俺は魔竜に堕ちたりはしない。お前の呪いは通じない!」

「ですが、ブレスの威力は私の方が高い!」

 斬撃をさらに加えようとしたジュンタから下方向へ距離をとり、連続してウェイトンが炎を吐き出す。
 
 圧縮された炎の礫は物理的なダメージをもってジュンタに命中する。漆黒の炎にこめられた呪いはもう通じないとしても、威力は正しくウェイトンがいうように高かった。

 すでにお互いの動きが目で追える以上、弾速と命中性がかなり高いブレスを避けることは至難の業だった。加速と急停止を繰り返すことでダメージを最低限に抑えながら、ジュンタは双剣に合わせてブレスも駆使する。

 七色に変幻する翼に合わせ、またジュンタのエンチャント・ブレスも七色に変化する。
 状況に応じて属性を変更しながら、ジュンタは至近距離からのドッグファイトを仕掛けた。

 ウェイトンは完全体とも呼べる形になった段階で、ドラゴン特有の回復力を発現していた。互いの攻撃は大きく肉を抉るが、次の瞬間には塞がる。お互い決定打に欠けるまま、二つの光は空中で激しくぶつかり合う。

 その様を見ている余裕が地上にないとしても、魔力のぶつかり合いと大気が唸りをあげる様はどうしても聞こえていることだろう。物理法則が壊れ、それに伴い世界が悲鳴をあげている。剥がれ落ちていくように亀裂が空に走った。それは『封印の地』そのものが崩壊する兆しを見せている音だった。

「急ぎますわよ、ジュンタ! このまま『封印の地』が砕け散れば、聖地が崩壊するかも知れませんわ!」

「任せろ!」

 ドラゴン同士の戦いが最後の後押しとなり、ベアル教が仕掛けていた聖地崩壊の序曲が始まる。

 時間はない。そろそろ決めるとしよう。

 今以上にジュンタはドラゴンとしてのポテンシャルを有効活用する術はない。エンチャント・ブレスが現在の最強の攻撃力を持っているが、真の最強が何かといわれればジュンタはそれをあげたりはしない。本当の切り札は、自らの出番を今か今かと待っている。

「たとえ攻撃が強くても、どれだけ復活しても、お前は俺には勝てない」

「根拠もない虚勢になんの意味があるのですか? それとも、正義だ悪だなんて語るつもりではございませんよね?」

「そういえば、お前は言ってたな。前に自分こそが正義だと」

「そう、私こそが正義。救われざるものを救う正義! ああ、そうでした。最後には必ず正義が――勝つ!」

 ジュンタが吐き出したブレスを、ウェイトンが吐き出したブレスが打ち破る。虹の輝きを、混沌の闇が塗りつぶすように飲み込んでいく。

 強い。

 純粋にジュンタは感嘆した。目の前にいる敵は強い。そしてその強さの源泉は、自らが奉じる正義にある。

 ウェイトン・アリゲイは正しく正義の味方だ。ただ、彼の正義が大衆の正義とは反目しているだけで、彼自身は純粋なまでに正義の味方だった。救われざるものに救いの手を差しだし、祝福を与える救世主。

 だが知れよ。それは尊いが故に歪んでいるのだと。
 ありとあらゆる正義がすべからく勝つ定めにはないことを。

 全身から力を抜くように、ジュンタの身体ががくんと真下に下がる。ブレスの速度をも凌ぐ速度で下方修正したジュンタは、ブレスを放った直後のウェイトン目がけて重力を押し破って急速上昇した。

――今ッ!」

 お互いにすれ違った刹那の瞬間を見計らっていたドラグーンが、ジュンタの背を蹴って空中に身を乗り出した。

 紅の髪を風に靡かせて、リオンは華麗に着地する。そこはウェイトンの背中の上。

 ジュンタが持つ侵蝕の守りなきドラゴンの背で、音速を超える速度に全身を揺さぶられながらも、虹を余韻として花びらのように散らせ、リオンは剣先を揺らすことなく、これだけは人の姿を取ったウェイトンの首筋へと剣を突きつけた。

 ウェイトンは突きつけられた剣先を見て、それからリオンの顔を困惑に揺れた眼差しで見やった。

「……なぜ、あなた方は理解されない? 私のしていることは正義だと、それを邪魔することは悪なのだと!」

「悪、ですか。ええ、あなたは確かに正義を騙っても間違いではないようですわね。けれど――

「お前が正義というのなら、俺は悪で構わない。確かにお前は正義の味方だ。俺なんかよりよっぽど世界や人のことを考えてる。その誰かを救いたいって気持ちに嘘偽りはないだろうさ」

 リオンの背後を守るように、ジュンタは大きく翼を広げて滞空する。
 その美しさすら孕む姿を憎悪と疑問の視線で睨んで、ウェイトンは声を張り上げる。

「ならば、なぜ!? なぜ、私の邪魔をするのです!?」

「決まってますわ」

 リオンは即答した。

「そこに正義と祝福しかなく――愛がないからですわ」

 凄まじい速度で飛び交うドラゴンの背から背へと飛び移るという、人の身を超えた反射速度と動体視力を見せたリオンを、ウェイトンが目を見開いて凝視した。まるで本当に得体の知れない何かを見るように。

 ドラゴンを神と信じたウェイトンにとって、あるいは、リオンは本当の意味で理解できない怪物だったのかも知れない。

「私が奉じるのは正義ではなく、愛。誰かを大切に想う心と大切な誰かを守りたいという矜持。だから――ごめんあそばせ。私もう心に決めた殿方がいますので、あなたの魅力には振り向けませんの。求道者様」

 リオンは優雅に微笑むと、紫電一閃、ドラゴンスレイヤーを振り抜く。

 紅の炎をまき散らして、ウェイトンの首と胴体とが泣き別れする。飛び散る黒い泥はもはやウェイトンが人間ではないことを如実に表していた。

「愛、など……私は、知らない…………」

 あれだけ五月蠅く思えたウェイトンの声が、首が焼け落ちるのと合わせて急に途絶える。傷口から燃え広がる炎を受けて、ウェイトンの上半身部分も焼け落ちた。残ったドラゴンの部分は変わらず飛行を続けているが、その動きが僅かに鈍る。

 リオンが再び空中に身を踊らせる。
 ジュンタはそれを優しく受け止めながら、絶好の機会がやってきたことを悟った。

 ウェイトンの特徴として、あのドラゴンの顔部には目が存在しない。代わりにウェイトンの人としての瞳が視力の代わりを果たしていた。そのため、その部分を失ったドラゴンは視力を見失っている状況だ。

 他の感覚器官が発達しているために前後を見失うことはないとしても、一番頼っていた情報が急にシャットアウトされた影響は大きい。僅かとはいえ、ジュンタはウェイトンの動きが鈍ったのを感じ取った。

「決めるぞ、リオン。それがきっと誰にとっても救いになる」

「ええ」

 ジュンタは双剣をウェイトンの翼目がけて投げつけた。
 飛ぶ最中巨大なジャベリンへと姿を変えた光の剣は、見事ウェイトンの両翼を貫き、背後にあった建物へと彼を縫い止める。

 背後にあった建物――それは『ユニオンズ・ベル』。

 ウェイトンが拘束から逃れようと身をよじる僅かのときで、ジュンタが最強の攻撃を準備するのは十二分に事足りた。

 指輪より伝達する金色の線は、ジュンタの黄金の双眸を輝かせる。
 それに合わせ、虹の翼が紋章を形作るように広がり、虹の光が空に本物の虹をかける。

 ジュンタを地平線とし、その上にかかる虹。その下に映り込む虹。

 ――オォオオオオオオオッ!!

 虹の環はジュンタの背中を後光のように照らす。
 それはもはや皆が考えるドラゴンの常識を越えた、あまりにも美しすぎる神獣の勇姿だった。

 戦っていた誰もが、敵味方問わず見惚れる中、日の出を思わせる光はジュンタの口に生まれる。

 色は――真紅。

 虹ではなく真紅。竜を滅する姫の色。

 ジュンタの背で、リオンがドラゴンスレイヤーを天高くかかげていた。その切っ先は虹の光を受け、剣は大地を照らす開闢の光の如き存在となる。

(光だ)

 ジュンタは今、自分が光を背負っているのだと気が付いた。

(リオンは、光だ)

 人がドラゴンの存在に絶望しないための、希望。
 世界がドラゴンの脅威に死なないための、希望。

 希望の光こそがリオンという少女。それは奇跡のように輝く、太陽よりも眩しい光。

 その加護を受け、寵愛を受けるドラゴンは化け物にあらず。そう、我こそが――


――ドラゴンスレイヤーッ!!」


 リオンが剣を振り下ろす。
 竜滅のブレスが解き放たれる。

 共に竜殺しの名を持つ者たちの輝きが世界を切り開く。

 それは闇のブレスを塗りつぶし、絶望を淘汰する光。
 人々の切望たる光が絶望の天より地を貫き、漆黒のドラゴンごとその背後に守られていた漆黒の繭を吹き飛ばした。

 

 

わたしはあなたに、水をあげましょう

 

 

 灼熱の塊はドラゴンの身体を容易く貫く。それは肉体的な意味ではなく、精神的な、魂的なものまで貫いた。

 ドラゴンの歪みに埋没する形で隠されていた漆黒の本。
 黒い背表紙に金色で形なき泥が描かれたその本の名を『偉大なる書』という。

 それこそがウェイトン・アリゲイの本体と呼ぶべきものであり、彼をドラゴンたらしめる要素。そこまで虹のドラゴンの光は辿り着いたのだ。

「ああ……どうやら、こんな私にも終わりがやってきたようです」

 ウェイトンは直接魂にまで光を浴びせられ、自らの敗北を悟った。その輝きがあまりにも目に眩しかったから、死を認めてしまった。

 死を受け入れることがドラゴンの不死性を剥奪する要因となる。それが竜滅の火である以上、たとえ死を認めなくても滅せられたかも知れないが、ウェイトン・アリゲイは自らの死を認めることで、最も自然な形で死に行こうとしていた。

 心残りは哀れな者たちを此処に残していってしまうことだが、それは本来ウェイトンではなく彼が守っていたものの役目。それだけは守り抜いたから、今は託し、この光に抱かれよう。

 ウェイトンの眼前に、光の中から二人の人影が現れる。

 それぞれが剣をウェイトンに突きつけながら、固く手を結んでいる。まるで決して離れない一心同体の存在というかのように。それぞれが希有な輝きを纏っている様は、まるで一羽の鳥が、雄々しく翼を広げているようだった。

 その光景は、ウェイトン・アリゲイにかつての日を思い起こさせる。

 この世界を救う力を、自らが生きていく意味を見出したあの日。目撃したものは圧倒的な破壊の権化だったが、あるいは、あのときこの光を見つけられたならば、別の生き方もあったかも知れない。

 そうか。と、ウェイトンは比翼の鳥が自分ごと『偉大なる書』を貫いたのを感じながら気が付いた。

 世界は可能性で満ちあふれているのだと。

 ならばきっと――救われないものにも救いがやってくる日が、いつか来るかも知れない。

「どうか。神よ……」

 異端導師と呼ばれた男は、最後に自分ではなく自分以外の全てに向かって祝福を残した。それが自分の愛の形だと、最後まで気付くことなく。


 神よ――救われざるものたちに、どうか救いの光を……。

 

 



       ◇◆◇



 

「ジュンタ、やったのね……」

 目覚めながらにして夢を見る少女は、瞼の裏に映り込んだ光景を見て口を綻ばせた。

 どんなものだ、ざまあみろ。

「あなたなんかにジュンタは負けないんだから!」

 夢から離れ、リトルマザーは自分にとっての唯一の現実を見る。

 この外部から隔絶された追放世界。卵の殻のように覆い隠す黄金の障壁に全ての光を奪われ、黄金の反射によって銀色に輝いて見える灰色の世界。時も何もかもが意味をなさないここに括られたリトルマザーにとって、現実と呼び、語りかけられる相手は一人しかいない。

 その名を、憎しみをこめて、呼ぶ。


「マザー!」






――ああ、観測していた』






 黄金の月の中心にして灰色の世界の核として、それは在った。

 男のような声を持つ、女のような声を持つ、大人のような、子供のような、老人のような、赤子のような、希望を歌うような、絶望を詠うような声をした存在。

 滅びた世界の人工知能。この世界の『世界権限』。疑似人類たちに『神』と呼ばれるもの。

 ――マザー。

「へえ、やっぱり、今回は出てくるんだ」

 リトルマザーをここに括った全ての元凶は、ひた、ひたと、荒涼とした大地の上を裸足で歩いてくる。じゃらり、と擦れて音を出しているのは足首につけられた拘束具から伸びる鎖。拘束は足だけにおさまらず全身に及んでいた。
 首には絞首跡。両手は背中の後ろに回され、身体ごと冷たい鎖に囚われている。歩く度に何も纏っていない青白い素肌と擦れ、血を滲ませる。

 見る者を痛々しい気持ちにさせるその姿を見て、同情の念を抱かないかと言われれば嘘になるが、それをかき消すくらいリトルマザーは気持ち悪さを覚える。

 目の前で立ち止まったマザーの貌は吐き気がするくらい自分とうり二つだ。目線も上、身体も幾分か成長しており、外見年齢にして五歳くらい違うが、双子よりも酷似している。

 足首まで伸びる髪に人形のような身体。明確な違いをはっきり認識できるのは、リトルマザーの髪が白銀のそれであるのに対し、マザーの髪は明るみの一切ない灰色であることと、瞳もまた灰色をしていること。

 暗い瞳……マザーを前にして、いつもリトルマザーをそう思う。

 マザーのそれは死人の瞳だ。あるいは人形。光など何も映っていない。
 それもそのはず。マザーのこの自分そっくりの姿形は、あくまでも自分が認識する『マザー』と呼ばれる存在の影でしかない。

 元来、マザーに明確な形というものはない。

 見る人の認識によって姿形が変わるらしい。らしい、というのは、マザーとこうして直に会ったことのある人間がリトルマザーしかいないためだ。だからリトルマザーはマザーの姿を、この自分と同じ姿をした、痛々しい虜囚の姿でしか見たことがない。

 同じ姿をしているからこそ、マザーの姿は違和感の塊だ。その、まるで死刑台を登っていく者が見せる絶望しきったような、達観したような、そんな顔が目障りでしょうがない。

 できることなら別の姿にしてやりたい。痛々しい姿だが、これは所詮インターフェイス。実際のところマザーは何ものにも束縛されていないのだから。囚われているのはむしろ自分の方。あるいは、そんな認識がマザーをこの全知全能とは思えない姿に貶めているのかも知れない。

『興奮しているようだな、リトルマザーよ』

 舌を抜かれた口を僅かに開き、マザーは無機質な声をもらす。

『何をそんなに喜んでいるのか。叶うなら、ワタシにも教えてはくれないだろうか?』

 声こそ定まらないが、その語りかけはまるで親愛なる相手に近付きたいかのようだ。だが、違うということをリトルマザーは嫌というほど知っている。

『汝の考えはワタシにとって未知である可能性が高い。叶うなら収集し、分析し、判断材料の一つにしたい』

「自分のことばっかり……」

 これは人間じゃない。どれだけ優れていようとも機械に過ぎない。
 マザーにはどうしてこんなにも嬉しいかわからないのだろう。そういう感情が一切ないのだ。あくまでも合理的に、自分の望みを果たすために思考するのみ。

「いつもなら口をきくのも冗談じゃないけど、いいわ。今回は教えてあげる」

 そう言ってもマザーは感謝するでもなく、微動だにせず立っていた。

 憎らしい。恨めしい。おぞましい。
 リトルマザーがマザーに抱く感情は常に負と共にある。だから、今は口も滑らかになった。

「二つも嬉しいことが重なったんだもの。これが喜ばすにいられるわけないわ」

『一つはワタシにも推測できる。汝が『聖母』として産み落とした個体識別番号――

「ジュンタをそんな風に呼ばないで!」

 まるでジュンタをモノのように呼ぶマザーの言葉をリトルマザーは遮る。
 たとえマザーにとってジュンタは現段階ではモノでしかないとしても、それでも自分の前では絶対にそんな風には呼ばせない。

 これと同じ注意をしたのは一体何度目だろう? このスクラップは最高の人工知能の癖に、学習するということを知らない。

『リトルマザー。汝は現在重度の興奮状態にある。毒素が通常時に比べ108%まで上昇。障壁の耐久力には問題ないが、沈静化することを推奨する。述べられる理由としては主に四つあり」

「黙れ! うるさい! しゃべるな!」

 全身から魔力を放出し、マザーを威嚇する。

 高密度の魔力が物理的な威力を伴ってマザーの四肢を抉り、血をぶちまけるが、本人は痛みすら感じていないように無感動な瞳でこちらを見ている。

「苛々するのよ! あなたとしゃべってるとむかつくの! いいえ、あなたとは会話すら成立しない。まるで鏡に向かってしゃべってるみたい!」

 今回ばかりはいつもと違う反応が返ってくるかと思えば、いつも通り。

 再生する貌。これまでどんなときも飽きるほど見てきた貌だ。

「わたしが嬉しいのはジュンタが無事だったこと。神のシナリオからまた一つ外れたことよ!」

 これ以上見ていたくなくて、リトルマザーは目を閉じて愛しい子供を夢に見る。

「わかるでしょ? わたしの願いはあなたと反目してるの。だから、わたしの願いが通じた現状を悲しみなさい。わたしが手助けしたことを怒りなさい。世界を救うことがあなたの夢なんでしょう? なら、どうして何の反応も示さないの?」

 リトルマザーは夢の中で、マザーの隙をついてジュンタの巫女に接触した。

 どうがんばっても此処から抜け出すことが出来ないリトルマザーにとって、それは奇跡としか呼べないものだった。愛しい子供が傷ついているときでも何もできなかったリトルマザーにとって、それは望外とも呼べる僥倖だった。

「それとも何? 今回ジュンタがしたことも、わたしがジュンタの巫女と接触したことも、あなたのシナリオからしてみたら何の意味もなかったっていうの?」

『否。双方共に大きく意義があった。シナリオもまたいくつか変更をせざるを得なくなったのだから』

「はっ、ざまあみろ。破綻させられなかったのは残念だけど、どうやら遅延させられたみたいね」

 マザーの感情を揺らすことはできなかったが、それはもういい。コレが自分で失敗を認めただけで十分だ。

 目を閉じて夢を見れば、大切な息子が笑っている姿に安堵を覚える。その隣にいる奴は酷く目障りだけど、今は宝物が笑っていることにただ喜びを抱く。

「やっぱりジュンタはすごい。さすがはわたしの子供ね!」

 駄馬が表舞台に現れたときはどうしたものかと思ったが、所詮千年近く経っても駄馬は駄馬だった。最後の最後で自分で仕掛けた罠を自分自身で外してしまうなんて……本当に、馬鹿すぎる。

 リトルマザーは神のシナリオを知らない。誰が協力しているかも予想だけに過ぎない。

 マザーに夢として見ることを許されたのは、ジュンタの周りの光景のみ。それだけだから。

『やはり、ワタシには汝が歓喜の感情を抱いている理由がわからない』

「でしょうね。あなたに子供なんていないんだから」

 子供の幸せが己の幸せ。リトルマザーを包み込むのは母親としての幸福。マザーという名を持っていても、決して彼女が理解できないもの。

「精々考えてみたら? あなたにできることなんて、所詮その程度のことでしょう?」

『では推測しよう』

 人間が呼吸をするように、恐らくこの一拍の間で、マザーは無駄でしかない思考を無数に行ったに違いない。

『仮定する。汝が歓喜の感情を抱いているのは、汝の産み落としたものが生きているため』

「ええ、その通り。でも、どうしてそれが嬉しいか、あなたにはわかる?」

『仮定する。それは救世の確率が減少しなかったため』

「全然違う。ダメダメね」

『仮定する。新人類プランに起きていた大きな狂いが、彼が六番目を乗り越えた現段階をもって、大きくプラスに働いたため』

「全然違…………」


 ――今、こいつは、なんて、言った?


 反射的に嘲笑おうとして、リトルマザーは言葉を止め、現実に目を向けた。

『仮定する。プランにおける第三段階を行う時節が大幅に短縮されたこと』

 しかしマザーの推測は終わらない。
 呆然と、あるいは愕然と、リトルマザーは無慈悲な言葉の羅列を受け止める。

『仮定する。第三段階へ移行する舞台が整ったこと』

「…………待って」

『仮定す――

「待って! 待ってよ。お願いだから待って!」

 大きな声で魔力をぶつけることで、ようやくマザーの思考は止まる。

 彼女は今の答えこそが正解と判断したのか、

『汝の歓喜の意味をワタシはようやく理解した。そうか。汝もまた、ワタシと同じくプランの順調稼働を喜んでいたのか』

 そんなことを、言った。

 ……ああ、なぜだろう? 見た目は何も変わっていないのに、長らく共に居続けて、初めてリトルマザーはこのスクラップが笑っているように見えた。

『これまでは相互理解に齟齬があったため語らなかったが、今喜びを感じている汝にならば、わたしは新人類進化プランにして救世プランであるこれを説明することを選択する』

 止めて。と、声を出して遮りたかった。

 でも、耳障りなマザーの声にずっと耳を澄ませていた理由を、今からコレは語り聞かせてくれると言ったのだ。

『プランは新人類候補者に十の過程を踏破させることによって達成する。この前提に基づいて、プランは四段階に分かれている』

 ――神のシナリオ。

 これを知ることができれば、あるいは、奇跡が何重にも重なって、ジュンタの助けになるかも知れない。それを思えば遮ることなんてできなかった。

『第一段階は以前汝にも語ったとおり、異世界に在る【全てに至る才オールジーニアスを複写し、その魂からドラゴンの肉体を生み出して、この世界で機能させること。
 第二段階は複写体の【全てに至る才オールジーニアス】を、魂・精神・肉体の均衡を保ちつつ、実用に耐えられるレベルにまで成長させ、そして世界を救う意志を持たせること。
 第三段階は候補者同士の相互干渉により、世界を変革する直前まで歪みを形成し、至高概念を誕生させること。
 そして四段階目こそが『救世』――新人類へのシフト。
 他でもない、汝が前例として見せてくれたプロセスに則りながら、ワタシは望む結末を描く』

 マザーのシナリオのそれが、自分が新人類になったプロセスを踏襲していることには気付いていたから、リトルマザーは三段階目、四段階目については予想がついていた。

 けれど……第二段階目のそれは、まさか……。

『そして今、多くのイレギュラーが発生した第二段階をクリアするタイミングは来た。これより第三段階に移行するための最後の介入を開始する』

 ああ、だけど。これは聞いてはいけなかったものなのだ。

 なぜならば、リトルマザーの喜びこそマザーの悲しみ。
 だからマザーが笑っているのなら、そこにはリトルマザーの悲しみしかないのだから。

 リトルマザーの前で、マザーの姿がよりいっそう機械的な様相を帯びる。
 夥しい計算式。世界の中心に在る彼女より、世界全てへと機械のラインが繋がれ、その手の上に三つの重要な式が収束する。

『消去実行。第三段階への完全移行完了と共に完全消去も完了する』

 そしてリトルマザーの目の前で、マザーにより三つのシステム全てがあっけなく破壊された。

『イレギュラーの排除、あるいは有効活用によってシナリオの一部の再計算・再構築を開始。演算――成功』

 一つはメロディアという猛毒によって、世界が滅びないようにするためのプロテクトシステム。

 これが破壊されることによって、世界がSFからファンタジーへと本当の意味で移行する。神秘が科学を超越する。マザーでは成せない新人類への夢が現実味を帯びる。

『現時点における世界が破綻する確率――100%。
 今回のプランにより世界が救われる可能性――演算不可能。
 プラン回避した場合における世界が破綻する可能性――絶対』

 一つは新人類への進化候補者を生み出すためのアシストシステムである転生システム。

 これが破壊されることによって、以後ドラゴンはマザーの管理を離れる。

 ドラゴンという存在は原初の意志に則って誕生、活動することになるのだ。それはすでにドラゴン化を完了している十五柱が没した順に世界へ堕ちるのではなく、歪みの大きい順に短いインターバルで生まれるということ。
 即ちアレが――『封印の地』と共に『魂』『精神』『肉体』の三要素のドラゴンに引き裂いた『魔王』が、全て死を迎えた瞬間最初に現れるということ。

 そして最後に破壊されたものと合わせて考えれば、リトルマザーはメロディア・ホワイトグレイルとしてこう考えるしかなかった。

 世界の終焉を加速させるとしても、この一度きりのチャンスに全てをかける。
 今の世界の有様。これは……これは、自分が知っている地獄の世に他ならないと。


『ではこれより、此度のプランとその演者たちに救世を――創造主とワタシの夢を全て託す』


 最後に破壊されたシステムこそ、地獄ドラゴニヘルを蘇らせないようにと生まれた――竜滅システム。

 これより先、世界を救う可能性はマザーの手を離れ、今を生きる疑似人類へ託される。つまり神に見放され、彼らは自分たちだけでどうにかしなければならない。滅びたくなければ進化せよ。救世主を完成させよ。マザーの慈愛にして最高のワクチンたる竜滅姫は、もう要らない。

「…………ジュンタ……」

 はらはらと、神のシナリオ全てを理解したリトルマザーは涙を流す。

 これより先ジュンタに訪れる苦難を思えば……涙を流さずにはいられなかった。





 ――そこは語られることなき地獄。

 誰も知らない。誰も気付けない。混沌という名の、戦いという名の、殺戮という名の、永劫という名の、地獄。

 殺し合い。殺し合い。殺し合い。

 敵も味方もない。武器も何も存在しない。あるいは意志さえ存在しないのか。死者が本能として秘める、生き返りたいという一つのままに殺し合う。

 生前には聖者と讃えられた男がいた。愚者と罵られた男がいた。生前には殺戮を行った男がいた、平凡に生きて死んだ男がいた、最強と讃えられた騎士がいた。

 女がいた。少年がいた。老人がいた。人ならざるものがいた。

 戦場で散った全ての命が地獄の釜の中、たった一つしかない座を争って殺し合う。

 大虐殺。
 大殺戮。

 それは生前罪ではあったが、この場では唯一無二の存在理由。他者を殺すたびに自己を確立していく。一を殺せば人殺し。十を殺せば殺人鬼。百を殺せば虐殺者。千を殺せば英雄だ。

 そう。これは殺し合いという名の、英雄を作り出す闇の儀式。
 血という名の賛歌を浴びて、生き残った一人が地獄より復活を果たす。組み込まれた『転生』という名の希望を享受できる一人の血の英雄が生まれるまで、殺し合いは終わらない。

 友人同士で。親子同士で。愛する者同士で殺し合い。

 やがて、生き残ったのは二人の獣。血で魂を補強した二人の獣。血が肉となり、血が武器となる。

 生前の関係がどうだったか、どんな姿をしていたかは関係ない。この世界に優劣など存在しない。全てが皆平等。全ての亡者に生き返る権利が与えられたのだから、敗北したのはただ渇望が足りなかったということ。生き返る理由が足りなかったということ。

 その点で鑑みれば、その場に立つ者たちの渇望は凄まじかった。

 片や、裏切りの老雄。
 片や、闘争に餓えた獣。

 二人にはそれぞれ現世でやり残したことがある。その渇望をもって、互いに殺し合う。

 その様をじっと見下ろすのは黒きもの。閉じた円環。深淵より自らにふさわしきものを見定める天の視線。

 語られることなき地獄における最後の殺し合いの結末は、やはり語られることがない。
 もし、勝者が誰かわかるときが来るとしたら、それは歌が聞こえる現世に、血の英雄が『聖誕』するそのときだけだろう。

 そして――そのときは近い。

 神の獣に次いで、終わりの獣が堕ちてきた。

 血の英雄が生まれ落ちるための産道である『聖母』の肉体もまた無事である。

 儀式場の上、全ての要素がここに集まった。儀式の力を吸い取っていた異物も消え、全ては正しい形へと導かれていく。余剰な力が儀式本来の意図とは別の儀式を稼働させ続けていようとも、それは執行者の願いには何ら関係ないところである。

 現世より、終わりをもたらす歌は響く。
 偽りの歌い手は消え、これより歌い手は真実の福音へと。

 聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。

 


 

 ウェイトンを倒し、ジュンタはドラゴンより人間の姿に戻っていた。

 けれども、そこで見たものは終わった戦いの姿ではなく、始まろうとしている食い止めたはずの儀式。魔獣全てをドラゴンへ進化させる堕天の儀。

 食い止めるには、もうジュンタの身体はボロボロで、皆の体力は尽きかけていた。
 残った魔獣は数万。それらが一度にドラゴンへと変わろうとしているのなら、それはかつての地獄よりなお酷い地獄となるだろう。

 空にはついに破られてしまった孔がひっそりと佇んでいる。もはや一刻の猶予もない。今日この場所よりドラゴニヘルが甦る。

 それはダメだ。食い止めなければならない。

 しかし、剣が切り裂いた魔獣は、決して死ぬことなく進化を続ける。異界の歪みに守られた魔獣たちはもう、ドラゴンにも似た生命体としてすでに存在をシフトしていた。

 彼らを倒すには、同じく異界法則の加護を得た神獣でなければならない。あるいは……。

「ジュンタ」

 リオンが最初に口にしたのは、隣にいるジュンタの名を呼ぶことだった。

 勇猛果敢な騎士たちでさえ立ち尽くしてしまう光景を前にしても、リオンだけはまっすぐ前を向いて、決して恐れることなく絶望することなく、瞳に燃えさかる炎を持ち続けていた。

 ジュンタには、リオンが何を言おうとしているかわかっていた。けれども、リオンが実際に言うのを待った。

「ジュンタ。私は、リオン・シストラバスは竜滅姫。大切なものを守るために戦う、騎士の姫です」

「ああ、知ってる。俺が誰よりも知ってる。お前がそんな奴だから、俺はお前を好きになったんだ」

「そして私もあなたのことを愛しました。だから、私はあなたに選択肢を委ねます。ジュンタがダメだというのなら、私は黙して反撃の機会を待ちましょう。ですが、もしもジュンタが許してくれるなら――

 見惚れるほどの力強い輝きの燃やしたまま、リオンは言った。


――私は、竜滅姫としての責務を果たしたい。私は地獄も破滅も認めるつもりはありません」

 
「……そっか」

 リオンは変わったのか、それとも変わらなかったのか。
 彼女はドラゴンを前にしたからではなく、大切なものを傷付ける存在が現れたからこそ、今決意を見せていた。

 変わらないものは、迷うことなく決めたその意志。
 変わったものは、選択肢を委ねてくれたその信頼。

 ジュンタはリオンに死んで欲しくない。けれど、今ここで起きたものを放っておけば、世界全てが地獄の釜のようになるのも理解していた。

 この事態を収めようと思うのなら、それは圧倒的な奇跡を用いなければならない。
 リオンにはそれをすることができて、そしてジュンタにもそれを成すことができる。

 リオンは剣から本の形に戻した『不死鳥聖典』を奪われないように抱きしめていた。ここで竜滅を行わないことを認めはするが、決して愛する人が代わりに事を成そうとすることだけは許さないと、その頑なな様子が物語っていた。

 ジュンタは首の後ろに手を当てて、大いに悩み込んだ。だが、実際に悩んだ時間は数秒もなかったらしい。

 結論は最初から決まり切っていた。
 たぶん出会ったあの日にはもう、この結末は決まり切っていたのだ。

「俺はリオンに死なれるのは許せないし、たぶん、リオンがいなくなったらどうしていいかわからなくなる」

 リオンの両肩に手を乗せて、ジュンタは情けない自分を笑うように目を閉じた。

「俺はな、今まで黙ってたけど、この世界の人間じゃない。遠い遠い、この『封印の地』よりも深い断層と遠い時間の彼方にある異世界――そこが俺の故郷なんだ」

「異世界?」

「信じられないかも知れないけどな。俺はそこで生まれた佐倉純太っていう人間のコピーなんだ。だからもう故郷には帰れないし、過去の居場所には戻れない。正直、さ。堪えたよ。ずっと当たり前だと思っていたものが崩れ去って、何もかもがなくなっちゃったんだから」

 初めてこの世界の住人に語る自分の過去。到底信じられるような内容じゃないけれど、リオンならきっと信じてくれるだろうと、ジュンタはそう信じられた。

「辛かった。自分自身がわからなくなって、世界全てに憎まれているように思えた。だけど、俺は前を向いてまた歩き出すことができた。それはな、リオン。お前がいてくれたからなんだ。
 お前がいてくれたから、お前が過去をなくした俺にとって、変わらない光でいてくれたから、俺は光を目指して歩いて来れた。憧れを置き去りにしても、憧れをもって、憧れることができた」

 だから……きっと、サクラ・ジュンタはまったく立ち直ってはいなかった。

 一番大切だった居場所を奪われて、一人で歩けるほど立ち直ってはいなかったのだ。

「きっと、俺はお前に依存してた。リオンさえいてくれればそれでいいと、そう思ってたんだ。
 リオンがいる世界が恋しくて、リオンに会いたくて、リオンが隣にいてくれればそれだけで生きていく力が湧いてきた。だから、お前がいなくなるって考えると怖くてたまらない。震えが止まらないんだ……!」

「ジュンタ……」

 目を逸らすことなく受け入れてしまった現実を前にして、リオンの肩を握る両腕は震えていた。 憧れたもの、唯一自分に残っていると思ったもの、それを失うことは本当の意味で、サクラ・ジュンタにとっての大切なものの消失だったから。

「私は、ここにいます。あなたの傍にずっといますわ、ジュンタ」

 震えるジュンタの手に自分の手を乗せて、リオンはトンと、軽やかに愛する人の胸の中に飛び込んだ。

「あなたがそんなに強くないことなんて百も承知です。人間そんなにすぐ立ち直れません。泣く場所を求めてしまうのは当然の欲求ですわ。あなたがたとえ私に依存していたとしても、それは私があまりにも頼りがいがありすぎるだけですもの。
 愛情の深さ――そう考えれば、これ以上嬉しいことはありません」

「リオン……ありがとう」

 抱きしめてくれたリオンの背中の後ろへと、ジュンタは手を回して強く抱きしめる。

 目の前の失ってはいないものの温度を確かめて、ようやくジュンタは、自分がずっと目を逸らし続けてきたものを見つめることができた。


 リオン・シストラバスはきっと、いずれ死ぬだろう。


 それは、彼女という少女を初めて見たときからわかっていた直感。
 
 あまりにも美しすぎて、あまりにも眩しすぎて、まるで人間じゃないそれ以上の存在のように格好良かったリオンは、いつだって燃える炎のような存在だった。消える直前にいっそう燃え上がる、そんな炎のような存在だった。

 いつか必ず消えてしまうもの。いつか失われてしまうもの。有限であるからこそ尊く、儚いからこそ美しい。それがリオン・シストラバスがあまりにも貴く見える理由。その仕草が人間らしいほどに、やがて来る瞬間を想い、誰もが彼女に目を奪われるのだ。

 ――リオン・シストラバスの死は、決して避けられない。

 リオンが竜滅姫である以上、決まり切ったそのことに、ジュンタは彼女が死ぬことなんて考えたくなかったから必死に目を背けていた。周りの全員が、そうと観念した上で足掻いているのに、ジュンタ一人だけ、決してそんなことは起こりえないと思いこんでいた。

 ずっと、ずっと目を逸らしてきたその真実を、今ようやくジュンタは受け入れる。リオン・シストラバスという愛しい人の全てを受け止める。

 二人の間で、昂る熱を上げる『不死鳥聖典』が炎を溢れさせた。

 言葉はもう必要ない。
 答えはもう関係ない。

「許してくれるよな? サネアツ。許してくれるよな? クー」

「たとえ誰が許さなくても、私が許しますわ。ジュンタ」

「そっか……なら、俺はお前と一緒がいい。リオン。最後まで、俺はお前の翼の片割れでいたい」

 ジュンタは嬉しかった。途方もない幸福感に包まれていた。だから、リオンもきっとこの時この瞬間にふさわしいのは謝罪ではないと気付いたのだろう。

 見る者全てを恋に落とす、そんな顔でリオンは笑った。

「ありがとう。私たちは、二人で一対の翼ですわ」

 


 

 歌が消えた。代わりに、不死鳥の炎が世界に広がっていく。










 戻る進む 

inserted by FC2 system