第七話  散らばる夢


 

 行進の列が神居の中央に開かれた水門の奥へと吸い込まれていく。

 途切れることのない騎士の列。その手に武具を。その身に甲冑を。その心に誓いをもって前進する騎士たちは、前を行く仲間があげた叫びに呼応して、剣を、槍を携えて灰色の地を踏みしめる。

 尖兵となった騎士たちが魔獣たちとの間に交わす熱は、最後尾にまで届く。

 すでに皆の心は一つ。

 目的はベアル教を殲滅すること。
 望みはこの聖地を、聖地に生きる人々を守ること。

 ――――始めよう、聖戦を。

 再び灰色の大地を白き輝きが染め上げる。

 希望の声を高らかに上げて、信仰の守り手たちは雄々しく戦場へと身を投じた。




 

 戦いは最初から全力で。余剰戦力など一切ない、大規模な乱戦から始まった。

 使徒フェリシィールが開いた門を通り抜けた聖殿騎士たちの前に広がるのは、踏み固められた灰色の荒野。どこまでも続く寂寥の大地の上には、埋め尽くすように魔獣たちが徘徊している。

 餓えた封印の魔獣たちは騎士を見て、涎を垂らして殺到する。槍や剣を持った騎士たちは、このとき彼らにとって新鮮な肉以外の何ものでもなかった。そして騎士たちが現れる門の向こうには、かつて魔獣たちにとっては天国だった時代においてありつけた、黄金にも勝るご馳走が山盛りになっている。

 本来群をなさない魔獣たちは、食欲という名の団結の元に聖殿騎士たちに襲いかかる。鮮血の瞳を爛々と輝かせ、爪や牙を閃かせてのど元を噛み千切ろうと飛びかかる。

 それら魔獣に対して、尖兵の役を担った聖殿騎士団の中でも指折りの武勇を誇る騎士たちが応戦する。
 
『封印の地』へと繋ぐ門の大きさには限界があり、一度に送れる人員にも制限がかかる。入り口付近に当然控えているだろう数多の魔獣の相手を、トップを飾る者たちは少人数でしなければならないのだ。おのずと選ばれたのは、一人で十人分の働きをする者らだった。

 津波のように襲いかかってくる魔獣たちに対して、後続のためにも前進したまま聖殿騎士たちは得物を振るう。

 駆け抜けてくるガルムの喉へと槍を突き入れ、隊列を組んでゴブリンの圧力に耐え、空から襲いかかってくるワイバーンや、一体のみに集中しなければならないオーガを相手どるときは協力して倒していく。

 四方から襲いかかってくる魔獣相手に、大規模な殲滅は行えない。しかし着実に一体、また一体と倒しながら前進を続ける。進めば進むほど後続の騎士たちの到着は早まり、戦力は増えていく。

 その進軍の様子は、まるで波紋のようだった。

 灰色の水面に落ちた、輝きの水滴。
『封印の地』に現れた騎士たちは、アーファリム大神殿へと続く門を中心として、汚れを払うように外へ外へと広がっていく。

 あれほど勢いよく襲いかかった魔獣たちは、その波紋に為す術もなく押しのけられていく。もたらされた光によって、絶望という名の軍勢は斬り捨てられていく。

 断末魔の悲鳴と剣戟の音が支配する戦場の始まりの風景は、そんな光景。

 陣地確保のための初戦の終わり。最初の区切りとして示された、使徒フェリシィールとその近衛騎士隊が放った大規模魔法によって魔獣が殲滅されたのは、おおよそ三十分ほどあとのことだった。

 

 

『封印の地』結合の影響により、これまで聖地周辺の地図と一致していた『アーファリムの封印の地』の地形図がゴミ屑となった。

 時間の歪みとでもいうのか。陸続きのはずの道が目に見えるものが全てではなくなり、本来の一歩が実際の一歩ではなくなった。これは三つの地形が同じ座標位置にあるからだとルドール老は分析したが、多くの人にとって彼の説明は難しすぎた。

 簡単にいってしまえば、どこから敵が来るのか、どこに敵がいるのかわからない状況となったということだ。道が通じた場所一帯に生息していた魔獣は一掃したが、どこからともなく魔獣が現れては襲いかかってくる。

 フェリシィールを最高指令と仰ぐ聖殿騎士団は、その場に急ごしらえの陣地を形成したあとは、ひたすら魔獣の駆逐作業に移っていた。その傍ら、各師団が整列し、どの方角から攻め入られても対応が可能となるように動いている。

「大方の予想通り、ベアル教が従えている魔獣は全体の半分程度と思われます」

 首脳部のテントの中、フェリシィールを前にして理知的なエルフの女性が情報を纏めていく。

 大きなテーブルの上には聖地周辺の地図、グラスベルト王国シストラバス領ラバス村周辺の地図、エチルア王国王都周辺の地図が並べておいてある。それとは別に今も書き込みが急ピッチで進められている新しい『封印の地』の地図も広げられていた。

「観測班と調査班からの報告によりますと、ベアル教の本拠地、彼らが語る『ユニオンズ・ベル』は変わらず南端にあります。そこからは濃密な魔獣の気配が感じられていることもあり、これが敵の主力部隊といってもいいでしょう」

「本隊を動かず、本拠地の防衛に従事させるつもりか。ならば、我々も動かざるをえない」

 ルドールの代わりに参謀を務めるエルフ――フローラの報告に、同じく戦闘指揮の要を担う、初老の騎士。第一師団長にして聖殿騎士団団長――オルサレムが苦しげに呻き声をもらす。

「我らの役割は今だ神居で待機している別働隊と精鋭部隊が敵首脳陣を壊滅させるまで敵主力を引き留めておくことにある。この場にこもっての徹底籠城とはいかないのだ」

「承知しています。ただ、そうと決めつけるのは早計かと。これまで戦った魔獣は、敵の本隊へ招集されなかった野良の魔獣でした。統率もなく、列もなしていない有象無象。敵の魔獣を統率する能力には限界があるのか、はたまた必要ないと判断したのかは定かではありませんが、これ以上敵主力が膨れあがることはないと予測されます」

 その場に集まった面々の顔を見つつ、フローラはベアル教の本拠地である城を指差す。

「直線距離という概念が意味をなさない以上、敵本拠地へと進軍を開始した場合にかかる正確な時間がわかりません。そこで第二師団を実際に走らせ時間を計測しましたところ、おおよそ一時間から二時間ほどということがわかりました」

「本来半日はかかる時間が、そこまで短縮されるのか」

「そのためもう少し様子を見てから動いても問題はないでしょう。別働隊の存在を隠匿するためにも、この場に本隊を滞在させておくのも効果的です。少なくとも『ユニオンズ・ベル』の正確な位置、またドラゴンの位置を把握してからでも遅くはありません」

 参謀の意見はそこで全て出そろった。
 フローラは静かに耳を傾けていた金糸の髪の総司令へと、最終判断を委ねた。

「フェリシィール様。ご裁可をお願いします」

 さっと地図へと視線を走らせたフェリシィールは、フローラの方を向き、一つ頷いた。

「フローラさんの提案通りに致しましょう。今しばらく敵の動きを見ながら、少しずつ隊を動かして制圧範囲を広げていきます。敵の動きが判明次第、本隊を移動させるか籠城するかを選択します。別働隊にもそう報告を」

「了解」

 応えたのは諜報と情報伝達を主とする第二師団の師団長ウルキオ。
 彼はすぐさまテントを後にすると、今しばらくは開かれている孔へと走っていった。

 これで、しばらくの間取るべき行動は決まった。

 フェリシィールは立ち上がり、テントを出る。

 アーファリム神殿へと繋ぐ門を背にしたテントを囲むように、円状に整列する白銀の騎士たち。

 ――来るなら来い。たとえどのような敵だろうとも、神意の下に打ち砕く。

「さぁ、選びなさいベアル教。自らの行いへの責任を、果たすために」


 

 

 同じ頃、ベアル教の本拠地『ユニオンズ・ベル』の中でも、同様の会議が行われていた。

「ルドールが戦場に出てこない以上、参謀を務めるのは奴の一番弟子であるフローラリアレンスだろう。戦闘能力こそ乏しいが、百年以上生きたエルフだ。頭もきれる」

 石台の上に置かれた地図を囲み、オーケンリッター、ギルフォーデ、ボルギィ、そしてディスバリエがいる。少し離れた場所には、柱に背をつけてグリアーとウィンフィールドが腕を組んでいた。現在、動くことが叶うベアル教メンバーの全員が部屋には集まっていることになる。

「ただ、多少保守的ではある。恐らくはこちらの動きを見てからの即時行動のために、待機状態で待たせていることだろう。先手はこちらが取れる」

「しかし待ちかまえられているとすれば、下手に動けばカウンターを入れられてしまいますよぉ? いくら二十五万の魔獣がここには生息しているとしても、ボルギィに統率できる限界は依然として十万程度なのですからぁ」

 魔獣を統率するシステムを作り出したギルフォーデが、夢遊病患者のように地に足ついていない相棒を見ながら意見を差し込む。

「ドラゴンを守護におけばこちらに魔獣たちが攻撃を仕掛けてくることはないとしてもぉ、そう戦力に差があるわけではありませんねぇ」

「あちらは揃えられて二万が限度か。しかし、奴ら一人が魔獣の二倍近い能力を持っている。儀式魔法等の戦略を用いれば、それはさらに上がる。実際のところは五万対十万の戦いと考えて間違いではないだろう」

「では、殊更作戦が重要ですねぇ。軍師オーケンリッター。あなたは敵の動きをどう読みます?」

 皮肉混じりの呼称にも動じることなく、オーケンリッターは頷き返す。

「恐らくは、聖殿騎士団本隊は足止めだろう。敵の本命は別動部隊による敵本陣に対する奇襲だ」

「なるほどなるほど。いやはや、相手の手の内をよく知るあなたがいてくれてほんと助かりますねぇ」

「逆をいえば、あちらにも私が気付くことは想定しているということだがな。別働隊には有無を言わさぬ精鋭を揃えてくるだろう。使徒の近衛騎士隊か、あるいは『騎士百傑』。両方という可能性も考えられるか」

 敵に合流を果たした盟友国の強者どもは、聖殿騎士団とは別のベクトルに秀でた、まさに一騎当千の強者である。機動力も戦闘力も人の道から半歩ほど抜け出ている。

「奇襲を読んだ上での防御網をも、こいつらは軽く突破してくるはずだ。本隊をそのままぶつけでもしない限り、歩みを止まらせることは不可能に近い」

「つまりはこういうことですかぁ」

 オーケンリッターの過大評価のように聞こえぬ実際の評価に、ギルフォーデがしたり顔で笑った。

――敵の切り札には、こちらも切り札を。さて、どんな戦いになることですかねぇ」

「ギルフォーデ。あまり遊びに興じすぎてはいけませんよ? あなたには他にやるべきこともあるのですから」

 愉しげなギルフォーデに釘を刺すのは、今まで黙って微笑んでいたディスバリエだった。
 彼女は自分の腹を優しくさすりながら、戦いを前に興奮も露わな同志諸君らに改めて今回の目的を通達する。

「今回の目的はあくまで、『破壊の君』の聖誕にあるのですから。聖神教壊滅は二の次、三の次。それぞれの思惑を成就させる、これはその始まりの儀式に過ぎません」

「わかっておりますとも、『狂賢者』様。このギルフォーデ、ご恩には忠誠をもって返す所存でございますから」

「でしたら、よろしいのですが」

 至福の笑みを浮かべつつ、『狂賢者』は腹をなで続ける。

 ドクン、ドクン、と胎動を続ける偉大なる子。この力そのものが生まれ落ちたとき、世界はディスバリエの望む姿となることだろう。空は焼け落ち、大地は腐り落ちる。そんな世界へと。

「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。早く産声をあげておくれ、『破壊の君』。終焉へと導く獣よ」

 人の悲鳴が渦を巻き、嘆きが時間すらも歪めるだろう。そして祈りは至高の音楽の如く奏でられる。その音色は天上の神までも届くだろう。

『狂賢者』ディスバリエ・クインシュは世界の新たなる始まりにして、回帰の始まりを告げる我が悪意に祝福を贈る。

「あなたは世界を支配する。あなたは世界を滅ぼす。あなたはそう――この世に再び、『地獄ドラゴニヘル』を再現する魔王となりなさい」

 


 

 戦端の開幕から一時間。それはフェリシィールにより開かれた孔が、限界に達する制限時間でもあった。

 白銀の騎士たちが通り抜けた道を、今再び戦士たちが行く。
 聖殿騎士団ほど統一感のない軍ながら、その迫力は勝るとも劣らない。無言で進軍するその様は、見る者に強い安心感を与える。

 聖殿騎士団より使徒ズィール・シレ近衛騎士隊。
 グラスベルト王国より『騎士百傑』と竜滅騎士団。
 エチルア王国より『満月の塔』の栄えある『魔軍レギオン』。
 
 そのどれもが憧れと共に高き名として語られる者たち。それに続き、今回の切り札が行く。

 それは戦いに行く者らの中にあっては、あまりに頼りない姿だったかも知れない。
 頭に猫を乗せた少年やメイドをお供に据える少女など、ふざけていると思われるかも知れない。

 しかし、その心に迷いはない。前を行く者らと彼らの想いは同じ。

 ――日常を守る。

 ただ、そのためだけに、今は戦おう。

「それじゃあ、行ってきますわ。お父様」

「ああ、朗報を期待しているよ」

 リオンが見送りに来たゴッゾにそう言って片腕をあげた。
 それだけで十分なのか、柔和に笑ったゴッゾも片腕をあげた。

「ジュンタ君。リオンは私にとっては自慢の娘で、何よりもかけがえのない宝だ」

 娘への激励の代わりにゴッゾが見るのはジュンタだった。

 目と目があって、近くでゴッゾの顔を見て、ジュンタは気付くことがあった。

 飄々としていて、年齢の割に若々しい印象を与えるゴッゾだが、近くでみれば小さな皺もあり、老いがゆっくりと蝕んできているのがわかる。それは歴史を刻んだ証。今まで彼が生きてきた証だった。

 ゴッゾ・シストラバス。カトレーユ・シストラバスから次代の竜滅姫への繋ぎとして、シストラバス家の当主の座を受け継いだ男。商才においては右に出るものはいないとされる傑物。そして――リオンの父親。

「カトレーユが生み、私や屋敷の皆が守り続けてきた、たった一人のお姫様。ずっと見てきた。ずっと見守り続けてきた。そして、これからもずっと愛していく子供だ」

「お父様……」

 彼の人生の半分はリオンと共にあった。カトレーユとの出会いを経て誕生した娘。リオンにとってゴッゾとの時間が人生の全てに含まれるように、彼は一番近くで、父親として彼女を守り続けてきた。

「そんなリオンが選んだ男だ。君は自信を持っていい。君はこの世界にいる他のどんな男よりも魅力的で、この世界の誰よりもリオンを幸せにできる奴だ。だから――

 それでも認めて、託す。父親として。

 全てを理解したリオンの前で、そっと握手を求める手を差し出すゴッゾ。重い、重い、その手を、ジュンタは力強く握り替えした。

 ふっとゴッゾは穏やかに笑った。力が抜けた、夢が叶ったそんな笑顔で。

「託すよ。君にリオンを。私の大切な娘を」

――はい。託されました」

「お父様……!」

 感極まったリオンがゴッゾの胸の中に飛び込む。
 涙を浮かべて、何をいうでもなく、いつの間にか小さくなっていた父親の温かさに彼女は震えた。

 ゴッゾはリオンの肩を優しく抱きかかえて、いつかそうしたように、ポンポンと頭を叩く。

「リオン。幸せにおなり。こんなときにいうのは少し間違っている気もするし、いうべきは結婚式の日だとは思うんだが……どうしても我慢できないから言うよ。
 ジュンタ君に幸せにしてもらいなさい。お前がジュンタ君を幸せにしてあげるように、うんと甘えなさい。そして二人一緒に、いつまでも笑っていておくれ」

 コクンと小さく頷くリオンへジュンタは歩み寄り、その肩をそっと抱いた。

 ゴッゾから離れ、リオンとジュンタは強く手を結ぶ。
『封印の地』へは行かないゴッゾは一歩後ろに下がると、写真を撮ろうとする人のように目の前の光景に目を細めた。

「いい絵だ。私が夢見ていた絵だよ。さて、と。これ以上他の人を待たせるのも悪いからね。私は最後にこんなお願いをしよう」

 ジュンタはゴッゾが何をいうかわからずとも、その言葉は忘れないようにしようと思った。

 何か予感があったわけでもない。ただ、リオンと思いを通じ合わせたときから感じ続けた幸せの余韻から、このときこの瞬間を忘れないようにしようと思ったのだ。

 触れ合った手の温もりと、その温もりを見守り続けた一人の父親の言葉を。

「さあ、では早速私のことを呼んでみようか、ジュンタ君。我が息子よ」

 ガバリとゴッゾは両手を広げて、満面の笑顔で見送りを締めくくった。


――――パパと呼びなさい!」




 

 磨き上げられた黒き竜の鎧を身につけ、腰に誓いの双剣を携え、頼れる仲間と共に、ジュンタは今戦場へと舞い戻る。

 涙の夜に誓ったもののために。
 今度は違う未来を描くために。






       ◇◆◇



 


「詠唱開始。次弾急げ!」

「ゥガアァアアアアアアアアアア――!」

「第十師団、これ以上の敵の前進を許すな!」

 何もない広い荒野の中、せめぎ合う軍勢同士の姿は、さながら千年前に起きたという人対魔獣の戦争のようであった。

 中心の戦場で激しい戦いを繰り広げる両者。戦場の場所はそれぞれの陣地の中央。様子見と行動のせめぎ合いは、結局真ん中を取るという形になった。どちらも籠城することなく、相手にもそれを許さず、決戦は平野での戦いに移っている。

 最前列では一進一退の戦いが続く中、聖殿騎士団側は中衛・後衛からの援護射撃が飛ぶ。
 山なりに飛んで敵を貫く矢の大群や、戦略級攻性魔法は、一度で敵の一部を大きく抉っていく。

 両者とも、信仰と飢餓という絶対の志気に支えられ、恐怖や痛みを薄れさせている以上、魔獣は倍近い数を、聖殿騎士は策を前面に押して戦列を支えていた。

 どちらが優勢、というほど戦いはまだ続いていないが、聖殿騎士団がこの場で戦う目的は敵の軍勢をこの場に引きつけておく囮としての役割が大きい。この場の戦いの行方がどちらにも傾いていないのなら、着実に使命を果たしている聖殿騎士団の方がやや有利といえるか。

 しかし、それはまた魔獣側にも言えること。

「第十師団は戦列をそのまま維持。第八師団は第九師団の撹乱によって乱れた敵の戦列を集中的に崩しなさい。踏み込みすぎてはいけません。あくまでも現状維持を優先しつつ、敵戦力を削っていくのです」

 決戦の場に、聖殿騎士団側は総司令たるフェリシィールを後衛といえ出していたのにもかかわらず、この場にベアル教のメンバーは一人も顔を出していない。

 哨戒からの報告によれば、敵は魔獣のみを進軍させたらしい。有象無象の魔獣ではなく、戦術とはいわないが戦列を形成している魔獣たちが相手となっている以上、これが敵本隊であるのは間違いないが、ならばどうして敵の主要メンバーは足を運ばないのか。

 つまり敵の目的もまた同じということ。魔獣たちの役割は敵の殲滅ではなく、足止めなのだ。

 敵にもまた時間を稼ぐ必要性がある。それは儀式を執り行っているからか。数日前から聖地ラグナアーツにまで届いていた魔力の波動は、今も『ユニオンズ・ベル』より時折放出されている。感じる密度は、さらに大きくなっている。

 もはや直接尋ねるまでもなく、これこそが敵の儀式の予兆であろう。ベアル教の目的とはこの儀式にあり、魔獣はそれを邪魔させないための捨て駒。このままこの戦場で足止めをされ続けられれば、敵の儀式は阻めない。

「聖猊下。ズィール聖猊下よりご報告がありました。別働隊、無事に配置についたと」

 後方より指示を出していたフェリシィールに、参謀フローラが耳打ちする。

「そうですか。では、我々は当初の予定通りこの場を死守し、敵の動きを封じます」

 フェリシィールとて、ベアル教による魔獣の運用方法には見当がついている。が、何か特別な方法や特攻などは行ったりはしない。あくまでも堅実に、被害を最小限に控え、戦いを膠着させる采配を下している。

 ベアル教の目的が儀式の成就になるのなら、それを阻む役目はズィールたち別働隊にある。フェリシィールにできることは、彼らに追っ手が及ばないよう敵をこの場に引きつけ続けること。

「信じましょう、ズィールさんたちを。ジュンタさんたちを。彼らならばきっとやり遂げてくれるはずです」

「はい」

 仲間を信頼し、全てを託した総司令は、金色の瞳で戦いを見つめる。

 この場にドラゴンが現れないことだけが、フェリシィールにとって気がかりだった。


 

 

 別働隊を率いたズィールたちは、ベアル教が従えた魔獣の軍勢ではなく、野良の魔獣を蹴散らしつつ順調に進んでいた。

 敵本陣を目指す道程は、主戦場となった平野を大きく迂回する道。
 直線距離に直すとおおよそ直線の三倍の距離を走破して『ユニオンズ・ベル』に迫る道だ。

 フェリシィールたち本隊が魔獣を引きつけておいてくれるお陰で、慎重に、それでいて迅速に動いていた歩みが遅滞する事態は起こらなかった。

 その身に敵の本陣を制圧するという重責を帯びた彼らは、真面目に、沈黙を友として一心に歩いていたり…………はしなかった

「しかし、イクス氏。本当にこの『封印の地』は全て繋がってしまったのでしょうか?」

「本当でしょう、アブスマルド氏。私は魔法使いではありませんが、この何ともいえない距離と空間の歪みはわかるのです。魔法騎士であるあなたがわからないわけでもないでしょう?」

「確かに、前回足を踏み入れたときからずっと違和感は付きまとっていますね。世界そのものがおかしい、とでもいうべきですかね。これが三つの『封印の地』が融合した証というなら、もう疑う余地もないんですが」

 なんともおかしな『封印の地』について話し合う騎士らもいれば、

「ちっ、まったく手応えのある敵が現れない。絶滅した魔獣もいるっていうから、それなりのもんを期待してたが、所詮魔獣は魔獣か。我が剣の前では石ころと同じぐらいの意味合いしか持っておらんわ」

「そういうわりに、倒した数はあたしに負けているようですけど? 騎士団長。身体がなまるとか言いつつ一番前にいるのに、どうしてブラブラしてるあたしに負けるんです?」

「なんだと! 貴様ぁ、トーユーズ! 偉大な騎士たるこの俺を侮辱する気か。喧嘩なら喜んで買うぞ!」

 顔を付き合わせては喧嘩する騎士もおり、

「最終的に父様とは別に動くのか……これは父様に近衛騎士隊の指揮を任せられた我が身の幸運を喜ぶべきか、それとも娘として共を任されなかった我が身のふがいなさを恥じ入るべきか……私は、私は一体どうすればいい……!」

「お、落ち着いてください。クレオさん! クレオさんの分まで私ががんばりますから! ズィール様も、きっとクレオさんを信頼してあとを任せてくれたんですよ!」

「本当か? 私はただ、お荷物なだけではないのか? 私は娘というだけで守られるか弱い娘にだけはなりたくないんだ! 迷惑をかけてしまうくらいなら、いっそのこと今この場で……!」

 悲哀と疑問に陥る騎士もいた。

「ダ、ダメですよぅ! クレオさん。早まっちゃいけません。考え直してください!」

「クレオメルンは色々あった結果、ネガティブキャラに定着したようだな。クーが脱却したことによって空いた穴を埋めるいいチョイスだ」

「サネアツ。お前は一体何を言ってるんだ? あとキャラいうな」

 その最たるものがのんびり猫と会話をしている使徒だったり、

「お兄様、ミリアンはとても眠たいです。到着したら起こしてください……」

「眠いのは僕も一緒だ。まったく、手綱を僕に任せたのはこのためだったのか」

「おぉい、ミリアン。枕にするならキルシュマのひょろひょろな胸板より、この父の厚い胸板の方が気持ち良いぞ。それ、ふんぬっ!」

 微笑ましいとはお世辞にもいえない家族劇場を繰り広げている魔法使い一家だったりする。

「と、とても使徒様より最重要な役割を託された者とは思えませんわ……」

 一糸乱れぬ隠匿の行軍を続けているシストラバス家の先頭で、ちょっと離れた場所で色々とマイペースなムードを醸し出しいている仲間たちに対し、リオンはひくひくと頬を引きつらせる。

 受け流している熟練の紅き騎士らと違って、腕は勝るも経験で劣るリオンは、だらけきった軍の規律に物申したい気分だったが、大将たるズィールが何も言わない以上、何の権限も持たない身でいうことはできなかった。

 せめて『騎士百傑』だけは同じグラスベルト王国の騎士として、騎士然とした立ち振る舞いを要求したいのだが、それも叶いそうにない。一応誰よりも騒いでいるグラハム・ノトフォーリアは、この軍の副将にあたるからだ。

 騎士たるものいついかなるときも潔癖であり誠実であるべきと思っているリオンは、相応の期待と憧憬を持っていた『騎士百傑』の真実を見て、夢がぶち壊れる気分だった。前回はピンチのときに颯爽と現れたこともあって、やはり国の誉れは素晴らしいと思っていたのに、これはあんまりだ。

 どうしてズィールは注意をしないのか。自分たちの両肩に聖地の命運が乗っているのだと自覚していないのか。不愉快だ。不愉快の極みだ。

「ぐぐっ、こうなったら竜滅姫の権力に物を言わせて……!」

「リオン様、抑えてください。皆さん血気盛んなお年頃なのです」

 隣でメイド服のまま馬を操るユースの冷静な言葉に、シュラケファリの手綱を必要以上に強く引っ張っていたリオンは、慌てて興奮しつつある愛馬の首を撫でて落ち着かせた。

「血気盛んなお年頃って、どう考えてもこの中で最年少はクーで、次は私たちでしょうに。若い者が抑えているというのに、年長者たちは一体何を考えていますのよ?」

「盛大に暴れられると思ってわくわくしていたのに、最初は待機、次は隠密行動と来て、フラストレーションが溜まっていらっしゃるのではないでしょうか? あるいは、重たすぎる使命のため硬くなっている肩の力をを抜こうとしていらっしゃるのでは?」

「好意的に解釈しろ、ということですわね。ええ、わかっていますわ。ユース。あれは擬態。擬態なのですわね」

 確かに隠密行動をしているため暇ではあるし、もう少し別の暇つぶしの仕方があるのではないかといいたいが、そこをぐっと抑えてプラス思考。父親に見送られたあのときに、迷いも不安も全て打ち消したリオンのコンディションは最高だったが、全員が全員そう簡単に思考を切り替えられるわけではないのだ。

 彼らのそれは、ある種の儀式のようなもの。戦いへ赴く前に大切な誰かと交わされる、杯のような意味合いを持つのだ。

 そう好意的に受け止めることで、リオンは歪む口元を強引に引き締めた。

 一番前を突っ走るグラハムの振るう剣が、野良の魔獣を千切っては投げ、千切っては投げを繰り返しているため、空には緑の血が時折横切る。今こうしている間にもフェリシィール率いる本隊は決死の足止めを挑んでいるのに、何この和やかムード……いや、だからこそのこの雰囲気なのだと自分を誤魔化せリオン・シストラバス。

「しかし、実際にここが最後の無邪気に言葉を交わせる場所であることには違いありませんものね」

 チラリとジュンタを横目で見つつ、リオンはこうして行軍を初めてから経過した時間を思い出す。

 おおよそ一時間。『ユニオンズ・ベル』までの道程の半分近い場所まで、のんびりムードに反して驚くべきスピードで進んでいる。あと少し。あと少し敵側の影響下に足を踏み込めれば、予想されている足止めと出会うことになる。
 
 それは魔獣か、はたまたドラゴンか。あるいは、ベアル教のメンバーが直々にやってくる可能性もある。どちらにせよ、優雅に会話を楽しむ暇は失われることだろう。

 愛する人と共に戦場に立つリオンには心残りや思い残したことはないが、派遣されてきた彼らにはまだやりたいこと、やり残したことがあるはずだ。この危険極まりない任務へ挑むにあたって、こうして最後にただの会話とはいえ楽しむことは重要事項なのかも。

「しかし融合したのなら、『封印の地』を使えばエチルア王国への旅程がすごく短くなりませんか?」

「何が言いたいのかわかりやすいですな、アブスマルド氏。つまりかの雅な都のかわいい女性に声をかけたいというのですね。いい加減にしないと、奥さんに逃げられますよ?」

「どうだ! トーユーズ! これで俺が仕留めた敵は百体だ。これなら文句は出まい!」

「残念。あたしは今での百五匹です。ふぅ、それくらいで威張ってるなんて、小さい騎士団長様もいたものですわ。おほほほほっ!」

「そうだな。こんな私でも、みんなの盾となるぐらいはできる。死ぬのなら、せめて精々役に立ってから死ね。クーはそう言いたいのだな!?」

「どうしてそうなるんですか!? 死んではダメです。めっ、ですよ。クレオさん。皆さん一緒に生きて戻るんです。だからまくった服を戻してください!」

「ふむ。ところでジュンタ。ああいう女同士の友情というのもなかなかにいいものとは思えないか? こう、もう少し止める側の発育がよければ目の保養になると思うのだが」

「サネアツにしては珍しくいいことを言ったな。だけどクーの前ではそんなこと言うなよ。あれでかなり気にしてるんだから。風呂上がりにいつも……って、これはいいか」

「お兄様……あまり揺らさないでください……あと、お父様……ポーズを決めないで……」

「我が儘いうな、ミリアン。あと父さんは本当に筋肉を漲らせて近付いて来るのは止めてください」

「ガハハハハハ、羨ましいのなら今からでも遅くはない。一緒に鍛えるか? キルシュマ。お前はママ似だが、吾が輩の遺伝子も入っておる。きっと筋骨隆々の色男になれるだろう」

 ……この会話は、どちらかといえば宴会の席の会話だが。

「ユース……私のプラス思考にも限界があることを、彼らに教えて差し上げてもよろしいかしら?」

「今はまだご辛抱を、リオン様。すぐにストレス発散の道具は嫌でも出てくるでしょうから。今はやり残したことでも考えつつ、心穏やかにしてくださいませ」

「やり残したこと、と言われても正直困るのですけど」

 ユースのフォローに、リオンは手を口元にあてて考える。

「やり残したことなど、思い立ったが即実行をモットーとしている私には元々そんなにありませんでしたし、考えつく限りのことはジュンタが叶えてくれましたから、やはりやり残したことなんて……」

「そうですね。たとえば、もう少しジュンタ様に強く抱きしめられたかったとか、もう少しジュンタ様に甘い言葉を囁かれたかったとか、もう少し関係を深いものに進展させておきたかったとか、いっそのこと子供が欲しかったとか」

「子供?! そ、そんな破廉恥ですわっ!? だって、子供ができるには作るための行為が必要不可欠で……は、初めては眺めの美しいコテージで、優しく抱きしめるようにって決めて……子供はやはり女の子が二人、男の子が一人は欲しいですわね……女の子の名前はアリアとジョセフィーヌ、男の子はレオンかしら……?」

「…………」

「そこっ! 自分から振っておきながら、いざ生まれてもいない子供の名前を事細に説明されてドン引きするのではありませんわ!」

「いえ、そんな。冤罪です。引いているのではなく、ただ微笑ましいと思っていただけです」

 本当に言葉通りクスリと小さな笑みを浮かべるユースに、リオンが顔を真っ赤にして指差した手を引っ込める。

「では、今あるリオン様の願望は子供が欲しいということでいいのですね? 困りました。最低でも一年近くはかかってしまいます」

「本気で考え込まれると、かなり恥ずかしいですから止めていただけます? 子供が欲しいというのは、その、あくまでも夢というか憧れというもので、願望は別にあるといいますか……」

「ほぅ、なんですか?」

「きょ、今日は押しが強いですわね。ユース」

 キランと眼鏡を開かせ、馬上にも関わらず顔を近づけてくる従者に、咄嗟にシュラケファリを走らせたくなるが、この愛馬はユースにとても懐いている。下手をしたら本気で走ってくれないかも知れない。

 リオンは妄想を広げる中、漠然と抱いた自分の願望に心当たりがあっため、赤い顔でごにょごにょと言葉を濁す。できればユースには諦めて欲しかったが、今日の彼女はいつもと少し違う。戦いの前で気が立っているのか妙な迫力で迫ってきている。誤魔化せるとは思えなかった。

「そ、その、これは願望というほどのものではありませんし、お、女としては当然の願いといいますか、ジュンタが指輪なんてものを贈ったから思ってしまったわけで、ですね」

 これだけは見逃せない前置きを入れてから、リオンはユースの耳元に口を近づけ、彼女にだけ聞こえるよう小さな声で囁いた。

――わかりましたわね?! ユース! 絶対に誰にも言ってはいけませんわよ!? 特にジュンタには絶対に!!」

「はい、畏まりました。ご安心下さい。このユース・アニエース。誰にもリオン様の本当に愛らしいお願いをばらしたりはしませんとも。そんなもったいな……従者失格なこと」

「……一応、信用しておいて差し上げましてよ」

 にやつく笑みを必死に隠しているあたり微妙に信用がおけないし、何気によくゴッゾに密告しているユースだが、これだけはばらしたりはしないと信じよう。主と従者だからというより、これは女同士の約束に近いから。

「ですが、リオン様。本当にこれだけですか? 本当は先も言ったとおり、どうやってジュンタ様に夜這いをされるか考えていらっしゃるのでは?」

「よ、夜這いっ!? そ、そんなジュンタとはキスもまだですのに、そんな大人の階段を一足跳びで……わ、私にも心の準備というものが……で、でもジュンタがどうしてもというのなら……ですけど、勘違いはしないでもらいたいですわ! あくまでもジュンタがどうしてもというから、私は……!」

「……………………」

「だから、引かないでって言っているでしょう!? 無言無表情で離れているのではありませんわ!」


 

 

「やかましい。少しは黙るということを知らないのか、騎士というのは」

 軍の中央にて守られるように囲まれていたズィールは、四方八方から聞こえてくる騒音に眉を顰める。志気と結束力を高めていると考えれば下手な口出しは不要と考えていたが、グラハムやリオンなど、リーダー格が率先して騒いでいるとなればここは一つ注意でも――

「む?」

 ズィールが近付いてくる、これまで以上の魔獣の気配に気付いたのは、眉根に寄せた皺が限界に達したあたりだった。

 ちょうど現在位置は、道程の半分に至ったあたり。踏み込んだ瞬間、そこに警報装置でもあったように空からワイバーンが飛翔してきた。

 その数、百を超える。

「総員、戦闘体せ――

 ズィールは声を張り上げ、気が緩んでいる者たちに危機を知らせようとした――その前に。

「新たな獲物!」

「活躍の好機!」

「睡眠の邪魔!」

「八つ当たりですわ!」

 騎士団長が馬を跳躍させ斬りかかり、翡翠の髪の聖君が槍を放ち、眠れる白き姫が雷撃をお見舞いし、真紅の髪の騎士が率先して斬り込んでいった。

「さて、そろそろ気合いをいれましょうか? イクス氏」

「そうですな。アブスマルド氏。隠れ潜むのは終わり、ということでしょう」

「騎士団長様。あたしより目立とうなんて百年早いわ」

「じ、自暴自棄な特攻はダメです! 援護します!」

「ふむ。本戦を前に、新たな魔法の実証でもするか」

「肩慣らしにはいい相手か。このあとを思えば、やるしかないし」

「父さん。筋肉を見せつけるなら、あちらにやってくれ」

「ガハハハハ! そうか、そんなに父の勇姿が見たいのだな!」

「お供します、リオン様」

 その他の面々もそれぞれ得物を手にとってワイバーンを見上げる。そこには先程と似た空気が残ったまま、強烈な威圧感が立ちこめる。

 剣閃が、鋭い矛先が、雷雲が、暴風が、炎の礫を跳ね返し空の王を八つ裂きにする。

 百体のワイバーンを下すにかかった時間は、数えるのも馬鹿らしい。それぞれの第一投が終了したそのときには、敵の姿は空にはなかった。

 騒がしかった彼らだが、気を抜いていたわけでもなかった。
 ただ自信満々に、いつでも向かい撃てる状態のまま他のことをしていただけか。

 精鋭。その意味を改めてズィールは理解する。なるほど、これほどの力があれば、魔獣など恐るるに足らず。豪快で鮮烈なこの軍勢に、一体どのような敵が敵うというのか?

「総員に命令を下す」

 ズィールは自分の隊が魔獣に囲まれたことを悟りつつ、口元に笑みを浮かばせ、ただ一つきりの命令を口にした。

――道を切り開け」

 命令に対する返答は、まるで日常会話の延長のように行動で。

 それが何よりも頼れる返答だった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 それは醜悪で、恐ろしい、だからこそ尊い存在だった。

 うねる肉塊。黒い肉の怪物。人型でも獣型でも、そもそも何の形でもない無形の泥。夥しい触手をうねらせ、そこにある全てを飲み込んでいく混沌の魔獣は、どこにあるのかわからない口から求めの声を轟かせている。

「カミ、カカカミミミ、神ィイヨォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――!」

 それは人だったときの残照か。それとも、魔獣の姿になっても変わらぬ信念がなせる業か。

 ウェイトン・アリゲイのなれの果て――混沌獣キメラ』。ドラゴン消失による『封印の地』の結合の際、誰よりも早くこの地に馳せ参じた神の従僕である

『ユニオンズ・ベル』の全長とそう変わらぬ巨体へと膨らんだキメラを見ると、ディスバリエは清々しい風が胸を通り抜けたように爽やかな気持ちになれた。

 ベアルの意志を継いだ忠実なる求道者。彼の生き方は他の誰かに認められるものではないが、それでもディスバリエの目には尊いものと映った。

 それは自分と似た道を突き進んだ彼に対する敬意だったのかも、あるいは同志を得て自分は間違っていないと感じることができたからかも知れない。人の命を捧げ、魔獣の命を取り込んでまで救世主を求める彼は、多くを犠牲にしてもこの道を歩いてきた自分と強く重なる。

 夢は叶う。理想はやがて成就する。

「聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。ああ、ウェイトン・アリゲイ。あなたは神さえも予想しえなかった奇跡の欠片。人の夢の結晶。
 ありがとう。あなたがいてくれて、あたくしはとても嬉しい。あなたの求道に触れたからこそ、今あたくしは自分がやるべきことを自覚できる」

 黒き呪いに濡れ光る肉塊を強く抱きしめ、ディスバリエは柔らかな頬で頬ずりする。
 
 生けとし生けるもの全てを侵す反転の呪いそのものであるキメラに触れた途端、ディスバリエの身体に黒い呪いが牙を剥く。しかし、全てを汚すはずの呪いは、包みこんでも包みきれない、触れても何も起こらないヒトガタに困惑げに震える。

 ドクン。ディスバリエの中から放たれる波動に、キメラの巨体が呼応する。

 まるでディスバリエの中にいるものの心臓が、キメラそのものであるとでもいうように。ドクンドクンと、キメラは脈動を繰り返していた。

「神ヨォオォオオオオオオ……」

「ええ、共に救世主の誕生を祈りましょう。やって、くれますね?」

 問われるまでもなく、ウェイトン・アリゲイの意志はディスバリエ・クインシュと共に。
 肯定の代わりにゆっくりと進撃を開始したキメラは、道中にある全てを飲み込みつつ、心を共にした願いのために進んでいく。

 その願いに呼応するように、周りにいた魔獣たちが泥に沈み、新たに一つの泥人形となって起きあがる。

「そう、ウェイトン・アリゲイ。あなたもまた『破壊の君』。その魂に根付く力をもって、救われぬものたちに救いの手を。そしてあたくしは全ての人に救いの光を。
 そのためには、成さねばならないことがまだある。邪魔者を、消さなければ」

 全てはもうすぐ。

 もうすぐ――叶う。

 


 

 倒しても倒しても、一向に敵の数が減じない。

 倒せば倒すだけどこからともなく魔獣が現れ、本隊に合流を果たし、他の魔獣と足並みを揃えるのだ。

 確かに敵が魔獣を従えさせる数には限りがあるのだろう。しかし、それは永続的に発揮されるもの。倒されれば倒されただけ、『封印の地』に生息する野生の魔獣を使役し、補充する。敵の軍勢は十万であると同時に、やはり二十五万なのだ。

「フェリシィール様。陣形に僅かながら綻びが見えているところがございます」

 参謀からの報告に、フェリシィールは醒めた目つきで戦場を見渡しながら答える。

「倒してもキリがないとなれば、休息も叶わない。このままではやがて力尽きますか。全てはズィールさんたちが敵本陣を陥落させるまでの時間稼ぎ。フローラさん、どう見ますか?」

「予想されるズィール様方の敵地陥落より、我々の陣形が崩壊する方が早いかと」

 兵士たちを駒と見るフェリシィールの質問に、フローラは顔色を変えることなく持論を述べた。それはまたフェリシィールも同じなのか、冷たい金色の瞳を一度閉じ、艶やかな唇から深く細い息を吐き出した。

「……では、この辺りで一度、我が騎士たちに体勢を整える時間を与える必要がありますね」

 目を開いたフェリシィールは、すくりと腰掛けていた玉座にも似た椅子より立ち上がる。

 身につけていた白い外套を留めるためのボタンを外すと、すとんと外套が椅子の上に落ちる。その下にはいつもゆったりとした布をいくつも纏ったフェリシィールにしては、薄着の服のみが残る。

「我が近衛騎士たちに連絡を。わたくしは最前線へと赴き、これより十分間敵を足止めします。その間に、本隊の体勢を万全に整えさせなさい」

「御意に」

 深く頭を下げるフローラの眼前で、そのとき金色が瞬く。

 膨れあがる光は内に黄金を秘めた水となる。
 溢れ出る水と光の中、フェリシィールは人としての輪郭を失い、獣の輪郭を得る。

 ――曰く、金糸の使徒が神獣の形とは、『始祖姫』の神獣の形に似て。

 砲撃を避けようとするように、聖殿騎士団の配置が横へと移動する。その真ん中には敵の許へと続く一筋の道が作られていた。

 そこへと踏み込む金糸の使徒。頭を下げるフローラの前で、再び光が瞬く。
 それは蒼き光。大地に黄金の河川を生み出して、光となって神獣は征く。あまりに恐れ多く、また速いがため、その御姿を拝見することは叶わない。

 ただ、残滓として残るは金色のたてがみ。

 頭を上げたフローラが見たのは、夜明けを告げる太陽の如く、地平線に瞬く黄金の光だった。

 


 

 騎士の王国の旗を翻す軍馬を中央に据え、万の敵を砕く破砕槌となって『騎士百傑』らは戦場を蹂躙する。

 斬る。叩く。薙ぐ。殴る。貫く。

 あらゆる攻撃手段であらゆる敵を粉砕してのける。ただの一人も落馬することなく、騎乗すらしていない騎士らは足を取られることなく、幾度も方向転換を繰り返し魔獣の群れを引き裂いていく。

 戦いというほどのものでもない。それは一方的な蹂躙だった。

『騎士百傑』が切断した敵魔獣の軍団を、背後に控えた魔法使いの一団が屠っていく。
 まるで狙撃するかのように撃ちもらすことなく均等に破壊していく様は、機械のように正確だ。

 隊長を務めるズィールなど、ただ見ているだけで良かった。遭遇した千単位の魔獣が駆逐されるまで、五分ほどしか必要なかった。

「敵も少しずつ数を増やしていますな、聖猊下」

 騎馬隊の先頭に立って、誰よりも敵を切り倒したグラハムが、ズィールの許まで下がってそう言った。

「確かに。敵もこちらの動きに完璧に気付いたということだろう。この先どんどんと魔獣の数は増えてくるはず。今はまだこちらに損害はないが、徐々にそれも増えていくことだろう」

「聖猊下。御身らはいつ隊を離れられますか?」

「隊が歩みを止められたそのときだ。そのときが来たら、我々突入部隊は貴公らを囮にして敵本陣へと奇襲をかける」

「ズィール聖猊下はとても正直ですな。相分かりました。そのときが来たら、盛大に暴れ回ると致しましょう。もっとも、それはこの勇猛果敢な隊の足が止められれば、の話ですが」

 二十万と五千の兵力を有する敵と戦っているというのに、過剰ともいえる自信のほど。だが、実際にその力を目の当たりにすれば、あながち間違いでもないと思えるから凄まじい。

 当初の予定では敵本隊をフェリシィールらが、別働隊が『ユニオンズ・ベル』への道を直接切り開き、その道をズィールたち本陣へと突入する部隊が進むという方針だった。つまりは聖殿騎士団も別働隊も囮であり、その戦果に期待するのは敵の足止めである。

 だが、グラハムら精鋭にあっては、どれだけの数の敵が立ち塞がっても、敵の足止めでは終わらずそのまま倒しきってしまう。これでは囮には成り得ないが、計画自体に問題はない。

 敵本陣への距離はかなり縮まっている。出現する魔獣の数も増え始めている。

 最初は百で次が五百。そして今の千と、立て続けに敵は現れた。

「ひとまず敵とのエンカウントは終わりのようですな。少し進むとしましょう」

「ああ。全軍、前進せよ!」

 グラハムの言葉に頷き、ズィールは全軍を前へと進ませる。

 この先には『ユニオンズ・ベル』がある付近一帯を見渡せるほどの、少し小高い丘があった。そこまで行けば目的地までは十数分というところ。

 一糸乱れぬとは言い難くも、勇壮にて揺るぎない足取りで別働隊は進む。

 そして小高い丘へと集結したところで、

「これは……!」

 そこに広がっていた光景に僅かに動揺が広がった。

 灰色の古城『ユニオンズ・ベル』を中心にして集結した敵の軍勢。その数はさほど多くはないが、視界を埋めるほどはある。しかしそれだけの数を集めても精鋭たちの敵とは言い難い。数百人からなる別働隊を倒そうと思ったなら、せめて万単位で集めてもらわねば。

 だから精鋭たちが一瞬とはいえ動揺したのは、それら魔獣が見たことのない姿をしていたからだろう。

「あの魔獣、見たことがないな」

 魔獣に詳しいキルシュマが、モノクルを動かして遠い地点に揃い立つ魔獣の詳細を見抜く。

「身体はオーガの如き赤銅の硬質。両手両足はコカトリスの如く毒がありそうな鋭い爪。鮮血色の瞳はガルムのように顔の前に二つ、後ろに二つついている。背中からはワイバーンに似た巨大な翼。全体の形はゴブリンのような完成された醜悪なもの……」

「それってつまりどういうことだ? キルシュマ」

「全ての魔獣の利点を混ぜ合わせたかのような、合成された獣というわけだ。あれもまた一種のキメラといって間違いない。いうなれば『合成獣ガーゴイル』……その強さは並の魔獣とは別次元と予測できる」

「ほぅ。量より質を揃えてきたということか。真ん中にデカブツもいる。こりゃ、おもしろくなってきたぞ」

 ロスカの笑みはガーゴイルの恐ろしさをわかっているからか、わかっていないからか。
 キルシュマの説明を耳にしたズィールは、ガーゴイルの群れの中央にそびえ立つ、そのリーダーとも考えられる巨大な肉塊を見やる。

 古代に絶滅したといわれる魔獣を喰らう魔獣。
 ドラゴンに次いで恐れられたという、魔獣がいる限り無限の再生を繰り返す混沌。

「キメラ。ついに見つけた、大物だ」

 今も近くにいる魔獣へ触手を伸ばし、頭部にある人の顔にも見える部分にある口へと放り込んでいくキメラを見て、グラハムが獰猛に歯をむき出しにした。先程礼儀正しく話していたときとは違う、彼の本性を物語る笑みだ。

「……我々の動きは読まれていると踏んでいたが、本隊を出してなおこれほどの戦力を揃えてくるか」

「聖猊下。先程はああは言いましたが、ここで別行動に移られるべきでは?」

 そう言いつつも、グラハムの視線は魔獣を捉えている。その様を頼りになると思うべきか、あるいは不安に思うべきか。

 決まっている。その荒々しい闘気には信頼をもって応えるしかあるまい。

「……頼まれてくれ、グラハム・ノトフォーリア。自分が預かった皆の命を、貴公に託す」

「御意に」

 ズン! 地面を揺るがすほどの圧力をもって、馬から下り立て膝をつくグラハムは騎士の礼をとって、ここにズィールより指揮権を預かる。

「では――

 ズィールは大きく頷いたあと、周りに自分と共に隊を離れる面々を捜した。
 すぐ傍に、全て理解しているとでも言いたいように、五人と一匹の姿はあった。

 ズィールは口端に笑みを浮かべると、纏ったマントを翻し、眼下の灰色の城を指し示す。

「行くぞ。『ユニオンズ・ベル』へ。決着のときは来た」

 


 




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