第九話  強者の意地


 

 その手はゴツゴツとして硬かった。

 長い年月、毎日欠かすことなく槍を振るい続けたその手は、岩の如き無骨な手となっていた。指も太い手だから、頭を撫でられるというより頭を持ってシェイクされている感じだった。

 本人としては優しく撫でているつもりだろうが、武の道に生きた彼の優しいは子供にとってはかなりの強さである。グリグリというよりはゴリゴリ。侍女が朝時間をかけて整えた髪が、本来の癖毛を取り戻してぐしゃぐしゃになったが、文句など出ようはずもなかった。

 痛みすら伴う手の感触には、ただただ誇らしさが込み上げる。

 この巌の如き揺るがぬ強い意志と体躯を持つ男は、子供でもわかるくらい、文字通り大きい男だった。皆が頼りにし、その大きな背中に憧憬を寄せる。柔らかく包み込むでも凪いだように静かでもない、ただそこに揺るがない背中がある。それだけで他者に憧れられる。

 それは、とても素晴らしいことだと思った。

 かの人こそは世界最強の男。並び立つ者なき武人。

『鬼神』コム・オーケンリッター――

 そんな男が今自分の頭を撫で褒めている。胸には熱い達成感と、それを上回る次なる努力への挑戦心が沸き立つ。

 正義とは何か――幼い頃より漠然と抱いていた疑問の答えを、その無骨な手に見た気がした。

 いかなる辛酸にも揺るがない、そこにいるだけで周りの皆に安心感を与える存在。
 どのような悪に対しても冷静に、きちんと道理をもって立ち向かう心構えと姿勢。

 ズィール・シレは使徒という名を持って生まれ、偉大なる巫女の主となった身として、それを決して忘れまいと思った。この心構えと姿勢を忘れずに生きていけば、きっといつかは自分も揺るがぬ背中を手に入れられるだろう。

 正義とは何か――それは、何ものを前にしても決して揺るがぬことにあり。

 たとえそれがどれほど悲しくとも。
 たとえそれがどれほど辛くとも。


 

 

 一分の隙もない黒い全身甲冑を身に纏い、毒の魔槍を手に現れたかつての巫女を前にして、ズィールは動じることも慌てることもなく、淡々と呼びかけた。
 
「コム・オーケンリッター。投降するというのなら、こちらには貴公を受け入れる用意ができているが?」

「笑止。今更私を許す貴様ではあるまい。みすみす死しか用意されていない場所へと戻る馬鹿がどこにいる。ご託はいい。さっさと構えよ」

「……そうか」

 仮面の奥から鋭い眼差しを向けられるのと同時に、槍の切っ先を突きつけられたズィールは、一度目を閉じて様々なものを受け入れる。

 やはり立ちはだかった裏切り者に対して、言うことなど何も残っていない。聖神教を裏切りベアルの信徒に堕ちた時点で、もはや敬愛する巫女はいないものとし、ズィールはオーケンリッターを敵と認識している。そこに割り入るものはなく、何の後ろめたさもない。

 構えるオーケンリッターに応じるように、またズィールも内なる膨大な魔力を練り上げる。

 五十年以上を共に過ごしたため、呼吸は自然と合致する。

 一息――吸い込んだ微かな呼吸音が、戦闘開始の合図となった。

 魔槍『朽ちた血ロトゥンブラッド』を突き出した姿勢のまま、オーケンリッターが距離を詰める。
 尖った矛先はそのままズィールの首を貫く矢と化したが、それはズィールが構築した岩の壁の前にせき止められた。

 初手に攻撃を選んだオーケンリッターに対して、ズィールは冷静に相手の行動を呼んで無詠唱での防御を選択した。地面から突き出た岩盤を盾として、まずは距離をとる。剛槍の圧力に砕け散る岩の向こうから、鬼気を発する騎士が突っ込んでくるのを見て、相応の魔法を手のひらに翳した。

大地に潜む魔性よ 恵みの糧に消えたまえ

 大地とは魔性をも飲み込む堅固なる牢。
 爆発じみた茶色の閃光を浴びた大地は一斉に隆起し、上にいるオーケンリッターを内に包みこもうと変動する。

 ドーム型に閉じていく岩の中、ズィールが最後に見たオーケンリッターの行動は、突進の勢いのまま壁に足をつけ、槍を巧みに使って駆け上がっていく姿だった。

 土埃を立てるほどの圧力をもって閉じた岩の天辺が、それ以上の圧力によって破られる。

 高々と小石を跳ね上げたオーケンリッターは、地面から一番遠いため一番薄い岩盤を突き破り、ドームの上に堂々と立つ。そのまま斜面を駆け抜け、終着点にいたズィールへと襲いかかった。

波打つ波紋 騎士の進軍の音となれ

 しかしズィールとてただそこに突っ立っていたわけではない。
 閉じたドームへと手をつけていたズィールは、すでに地面の一部と化したドームを操り、無数の岩の棘を創造した。

 足下から突き出た棘にオーケンリッターは飛び退き、ズィールの位置から少し離れた場所へ着地を果たす。それはちょうど最初の距離と同じ距離を間に敷くことになった。

巨人よその手に礫を握れ

 敵の背中を振り返り様に見やったズィールは、棘つき甲羅を背負った亀の如き隆起した岩盤から、無数の礫を容赦なく撃ちはなった。無防備な背中をいくつもの岩の礫が強かに打ち付けるが、オーケンリッターはのけぞることすらなくゆっくりと振り返る。

「『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』……これほどか」

 都合五十発近い直撃を受けたというのに、オーケンリッターが身につけた漆黒の甲冑には少し傷がついただけ。ドラゴンの防御力に匹敵する防御性能を誇る甲冑――竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』の面目躍如。『封印』の魔力性質を持たぬズィールの魔法では、その防御を突破することは容易ではない。

「これで終いか!」

 攻撃を全て受けきったオーケンリッターは反撃に移る。

 魔槍を前面に押し出し、まるで弾幕を張り巡らすかのような怒濤の突きを撃ち放つ。
 ズィールは最初と同じように岩盤をもって盾としたが、岩盤は削岩機の如き一撃に割れ、砕かれ、瞬く間に地面に還る。

「逃すか!」

 続けざまに盾を完成させて距離を取ろうとしたズィールの前で、オーケンリッターが槍の代わりに前足を伸ばし、盾の上を踏み砕いて思い切り跳んだ。

 大地の盾が隆起するタイミングと速度を見切ったオーケンリッターの跳躍は、全ての盾を超えてズィールへと届いた。振りかぶられる魔槍を前に、ズィールは瞬間的に障壁を張って横へと転がる。

「くっ!」

 空から獲物に強襲する大鷲の如き一撃が、回避運動を取ったズィールの二の腕を浅く切り裂いた。服と共に肌から血が滲む。それだけで鋭い激痛をズィールは味わうことになった。

「どうだ? 食いしん坊な正義の味方よ。我が『朽ちた血ロトゥンブラッド』の味はお気に召したか?」

 槍を脇へと引き戻し、ゆるりと振り返るオーケンリッターは、二の腕を抑えて激痛に顔を顰めるズィールを満足げに見やった。

 彼が握るかつては封印を余儀なくされた武具『朽ちた血ロトゥンブラッド』は、恐ろしく殺傷性が高い毒の魔槍だ。

 漆黒で塗り固められたような柄と穂先には、常時見えない毒を滲ませている。本来は武具として輝きを放っていただろう業物は、漆黒の毒に汚染されて禍々しい鬼気を放つようになったのだ。

 その穂先が抉った対象は何であれ毒に見舞われる。浅い傷であってもそこから毒は侵入し、対象に激痛をもたらしたのちジワジワと衰弱死させる。柄を握る持ち主にさえ毒を見舞う魔槍の直撃は、確実に致命傷を与えるのだ。

「……自分もなめられたものだな」

 手甲をつけることで毒の汚染を防いでいるオーケンリッターは、余裕の態度で臨んでいた。
 魔法使い相手に最強の武具を纏った騎士たる自分が負けるはずがないと思っているのか。すでに一度対峙した以上、対抗策は考えているというのに。

 油断している隙をついて、ズィールは懐に忍ばせておいた布袋から解毒の丸薬を取り出し口へと放り込んだ。噛み砕けば蜂蜜に似た芳香と共に舌がピリリと刺激される。

 まずい。

「ほぅ、治癒の魔法を使えぬ代わりに薬を持ち合わせていたか。道具に頼るとは情けない」

「それを貴公が言うか。『朽ちた血ロトゥンブラッド』と『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』、共に道具でその身を固めた貴公が」

「騎士にとって槍も甲冑も己が一部よ。頼っているわけではない」

 槍を大きく振り払ってから構えを取るオーケンリッター。
 油断はあっても隙はない。戦いの中にあって、彼の闘争心は激しく燃えている。

 ズィールの戦い方は、常に悪道に堕ちた者に槍を突きつける騎士を前衛に置き、後衛から砲台として殲滅する形にあった。しかし何の因果か、今は前衛として頼りにしていた相手に槍を向けられている。

 ズィールとて生まれながらの膨大な魔力量と恵まれた身体能力もあり、自分が強者であるという自負があった。が、前回のフェリシィールとの一戦。そしてこのオーケンリッターとの戦いを経て、その自信は揺らぎ始めている。

 強い。自分以上の時を生き、自分以上に技術を会得した先達者はとても強い。

 確かな力をもって揺るがぬ自信に変える。それはたかだか五十年程度生きたズィールでは未だ持たぬ、自分が積み重ねてきた時間に対する信頼だった。

「…………」

 無言で睨み合う二人。外部では魔獣と人との激しい戦いが繰り広げられているが、今の二人には目の前の相手が見せる一挙手一投足しか瞳には映っていない。

 共に相手を知り尽くした間柄。
 先読みは一手先でも二手先でもなく、五手、十手先まで及ぶ。

 いかに相手の予測を上回れるか。いかに相手を出し抜けるか。思考が駆けめぐり、想像の中で敵を凌駕する。それを現実でも達成するために、ズィールはその両目に魔性の力を灯らせながら大きく後ろに飛び退いた。

 ガツン。と、大砲の弾の如き速度で、オーケンリッターが少し前まで立っていた大地を貫き砕いていた。

 そこに彼が踏みとどまっていたのは一秒以下。流れるような動きでさらに接近し槍で広範囲に薙ぎ払いをかけてくる。着地地点を狙われたズィールにそれを逃れる術はないように思われたが、地の魔法使いは地形を操る。たとえ不毛の大地とはいえ大地は大地。咄嗟に隆起させた地面に手をつき、空中で強引にさらなる跳躍を行い、着地地点を強引に変える。

奉ぜよ武能 我が手に大樹の加護を

 突き上げた大地が砕かれるのと同時に無事に着地を決めていたズィールは、詠唱を口にし右手に尖った石の杭を形成する。それを模範演技のような見事な動きで、オーケンリッター目がけて投げはなった。

 途中杭は分身するように、その影に入った地面から同型の杭を幾つも放出させ、オーケンリッターの許に到達するまで十の弾丸にまで増えていた。

 槍を回転させてこれを寄せ付けないオーケンリッターだが、十もの弾丸を受けジリジリと後退する。開いた距離は今日最大。時を食らいつくす時間は手に入れた。

「奪わせてもらうぞ。貴様の時間を!」

 発動する[時喰らい]と湾曲する視界。
 時間が意味を成さない空間上でズィールは死に絶え、新たなる姿となって生誕する。

 大地が拍手するように鳴動するその上で、時を喰らった大蛇は大きな口をオーケンリッタに向けて開いた。

 未だ自己の時間が足りぬのならば、意地をもって比類する。相手の時を食らいつくし、同じ条件下で牙を剥こう。

 見上げる巨体。宝石の如き翡翠の鱗。
 神獣としての大蛇の姿を見せたズィールは、この展開を待ち侘びていたように佇むオーケンリッターへと襲いかかった。

 神獣と人間。その差は歴然。こうなった時点でもはや結末は明らか――

「人を舐めるなよ、若造!」

 だが、それを超える。神獣がドラゴンと匹敵するなら、かつて人は意地と誇りだけでドラゴンに立ち向かったのだから。

 猛然とせまる大蛇の頬めがけて、オーケンリッターは槍を繰り出す。翡翠の鱗を貫き、槍は深々とズィールの口を横方向へ串刺しにした。

「ぉ、ぉおおおお!」

 オーケンリッターは片手をズィールの口の中へつっこむと、中へとめり込んだ槍の柄を掴み取る。そして両手に渾身の力をこめ、全身の力を余すところなく使って横へと振り抜いた。

「馬鹿、な……!?」

 ズィールが愕然と声を震わす。大地に横たわるはずの自分の巨体が、今ただの人間一人に持ち上げられていた。

「おぉおおおおおオオ――っ!」

 巨体を持ち上げたオーケンリッターは思い切り地面に叩き付ける。ズン、と世界全てが沈むかと思えたほどに地面が悲鳴をあげる。衝撃で槍が頬肉を抉ったのだろう。夥しい血が飛び散った。

 その最中をオーケンリッターは駆け抜けてきた。

 口から浴びたものを石に変える石化の吐息を吐き出すズィールに対し、甲冑の抵抗力をもって抗う。

 そう。そこにいたのは朽ちた老雄ではなく、世界最強とまで謳われた力を持つ英傑。

「神獣となって人を見下そうとしたこと、それが貴様の敗因だ! ズィール・シレ!」

 これまでとは桁外れの動きでズィールの吐息をはね除けると、上空より槍を下にしてオーケンリッターは落ちてくる。

 再び血しぶきが舞う。

 オーケンリッターのその槍が抉ったもの。

「その魔眼――もらい受けた」

 それはズィール・シレの神獣としての根元を司る、黄金の魔眼だった。

「ぐぁああああああああああ!」

 かつて感じたことのない類の痛みと共に、身体に変化が起きる。
 
 強制的な神獣化のキャンセル。自分で戻るときとはまったく違う、身体が作り替えられるかのような嫌悪感の中、渦に飲み込まれるような錯覚と共に大蛇の巨体が消失する。

「終わりだ!」

 二本足で立ったことを確認する暇もなく、止めを刺すためにオーケンリッターが迫ってくる。

 視界が揺れる。痛みに気が狂いそうになる。
 その中でズィールができたことは、身体の前に障壁を張ることだけだった。

 しかしそんなもの、オーケンリッターの勢いを遅らせることすらできない。ガラスよりも簡単に砕け散り、粒子が溶けていく中を一撃必殺の毒槍が疾駆する。

 これで、終わりか……。

 もうどんな回避行動でも間に合わない。ズィールは静かに自分の敗北を受け止めた。

 敗因は、なるほど、オーケンリッターの言う通りかも知れない。
 傲慢だったのか。正義を貫き、正義をもって世界を救おうなどと、傲慢な考えだったのか。巫女一人理解できぬ身で世界を救おうとした、これが傲慢の代償なのか……。

「自分は……」

 もれた自嘲の呟きが、ズィール・シレが最後に聞いた自分の声だった。

 声に、なるはずだった。

 眉間を狙い、音もなく迫ってきていた槍が突然止まった。

 薄皮一枚、額を切り裂いたところで停止した槍。それでも毒の侵入により激痛をもたらしたが、むしろその痛みが混濁していたズィールの意識をはっきりさせた。

 何が原因かは知らないが、オーケンリッターが攻撃の手を止めた。

 その隙を見逃すことなくズィールはバックステップで距離を取ろうとして、

「え、あっ!?」

 すぐ後ろにあったマントの裾を踏んで、その場に尻餅付いてしまった。

 幼い頃に忘れた転倒の痛みより先に、こんなタイミングで転んだ自分の愚かさに死にたくなった。額から流れ落ちた血が右目に入り、涙のように頬を伝い落ちる。

 滲む視界はやはり涙で曇らせた幼き頃のようで、
 高く見上げなければ顔が見えないオーケンリッターの姿も、また幼き頃と同じだった。

 理解はようやく訪れた。槍を止めたオーケンリッターが、あの老雄が我も忘れて呆けている様を見て、ようやくズィールは理解した。

 視界が低くなっている。

「馬鹿な。なんだ、これは……?」

 声もまた高く、まるで少年の声のよう。
 きっちり裾を合わせていたはずの服はダボダボで、マントに至っては引きずる有様。小さな自分の手のひらを見るに至って、ズィールは自分の身に起きた変化に気が付いた。

「子供の姿に……なっている」

 時を喰らう蛇の使徒は、幼い子供の姿でコム・オーケンリッターを見上げた。

 ただ、大きいなぁ、と。そんなことを思いながら。






       ◇◆◇


 

 

 前後左右が意味をなくし、大地と空が逆転する。

 トーユーズがドラゴンとの戦いに見せた一つの極みは、つまり『速さ』という形にあった。

 黄金にも似た雷光を纏い、流星の如く大地より空へ、空より大地へ駆け抜ける。踏みしめるはずの宙には大地がないはずなのに、その足取りは大地をしかと踏みしめたように重心はぶれない。

 乱れ舞う閃光は目にも止まらぬ百花繚乱。
 居合いと双剣術を極めたトーユーズだからこそ叶う神速が咲き乱れる。

(そろそろ動く、か)

 都合百を超え二百に斬撃が迫ろうとしたところで、トーユーズは敵に動きがあることを見抜いた。

 こちらの斬撃に四苦八苦していたドラゴンは、ようやく立ち直りを見せた。
 口元に僅かに熱が帯びたのを感じ取ったトーユーズは、思い切りドラゴンの鼻っ面に回し蹴りを叩き込み、その反動を用いて百メートル以上離れた地面へ着地した。

 空中でドラゴンが炎を、自分を中心に周囲へまき散らすように吐き出している。
 灰色の空が紅蓮に染まり、その熱波は地上まで届く。さすがにあれの直撃を受けたら命がない。

 後ろに滑りながらトーユーズは大地の上で衝撃を逃がす。ガリガリと削れた地盤はさながら地割れのようだったが、勘違いされては困る。別にトーユーズの体重が重たいわけではない。小さな質量といえど勢いよく落ちれば、相応の重量となるだけだ。

 とはいえ、それだけの威力を生み出す速さからの一撃を受けていながら、空を高速で行き交うドラゴンにダメージらしきダメージはない。

「ドラゴンスレイヤーじゃなくても、一応業物のあたしの剣で傷つかないとなると、何かされてるわね」

 トーユーズは自分の斬撃が、一度たりとも敵の肉を断つ確かな感触を得られなかったことに、冷徹に思考を巡らす。

 あれがドラゴンである限り、あれには本来のドラゴンのポテンシャルの他、特異能力があるはずだ。まずはそれを見極めないことには打破は望めない。

(まず普通のドラゴンよりも飛翔速度が速い。代わりに炎の射程が短い。戦法はヒットアンドアウェイってところかしら)

 トーユーズの頭には古今東西のドラゴンの知識が詰め込まれている。その情報量はかの『狂賢者』には劣るものの、『満月の塔』の一流研究者にも負けてないと自負できる。

(ドラゴンとしての防御能力、回復力に何らおかしい点はなし。ジュンタ君との交戦経験で見せた瞬間移動と速度……これがこのドラゴンの特異点。まずはそこから論理を立てる)

 強敵を前にした高揚のただ中でも、冷静さは失わない。勝利にはまずは敵を知ること。敵を知り尽くすこと。初めての相手だからこそ、まずはその手のひらを暴き尽くす。

(敵の速さを暴くには――

 大きく息を吸い込んで、トーユーズは鳳が羽を広げるが如く反り返った双剣を構えた。

「やっぱり、こっちも速さよね!」

 それをまさしく翼と変えて、雷気を纏った女傑は空へと跳んだ。

 ドラゴンの方も今度は待ちかまえているだけじゃない。向かってくるトーユーズの方へと、牙を剥き出しにし威嚇の雄叫びをあげながら立ち向かう。

 このままでは激突は必死。そうなれば体格差から跳ね飛ばされるのはトーユーズの方かと思われたが、その前に運動エネルギーの法則に逆らい、空中で急ブレーキをかけたかと思うと、その場を地面に目立てて横へと跳躍した。

 ドラゴンの巨体を飛び越えるアクロバティックなエアジャンプ。
 空中で一回転しつつ、まるで刃がついたコマの如くすれ違ったドラゴンの背を切り裂いた。
 
 予想外のタイミングで背中に刃を通されたドラゴンは、悲鳴をあげて地面へと落ちていく。しかし空の支配者は墜落することなく地上すれすれで体勢を整えると、ゆっくり地上に落下していくトーユーズへと再び牙を剥いた。

 炎を前面に展開しつつ飛び込んでくる高速のドラゴン。
 空へ挑んだものの末路として、重力に逆らえずに落ちていくトーユーズに今度こそドラゴンの攻撃を避ける術はないように思われた。

 だが――それを覆す力こそが速さ!

「遅いッ!」

 巨体を裏切る速度を誇るドラゴンに対して、不遜なまでの一喝は正しく事実。
 トーユーズは再び法則に逆らって空中で跳躍に及ぶ。ドラゴンの速度を上回るスピードで横へと逃れると、右手の剣を振り上げた。

 鏡のような刀身を塗りつぶす黄色の魔法光。トーユーズの手と一体化した雷の刃はその刀身を二倍に延ばし、巨大な包丁の如く今度はドラゴンの腹を切り裂いた。

 二度もカウンターをもらったドラゴンは、血飛沫をばらまきながら空へと駆け上がる。
 対してトーユーズは悠々と無傷のまま着地を果たし、丁寧に編み込んだ長い髪をかき上げた。

「やはり獣は獣ね。あまり優雅な様とはいえないわよ?」

 男の心臓を高鳴らせる雅な流し目を空に向けながら、剣についてもない血を払う。

 そして地面を高く蹴って再び空へ。
 その様はまさに飛翔であり、空中でのトーユーズの動きは翼が生えているかのようであった。

 トーユーズが宙を蹴るたびに、足の下で蜘蛛の巣状の雷気が迸る。それがまるで見えない足場となっているかのようにトーユーズの足を受け止めている。
 事実、雷気が迸った瞬間これまでの勢いのベクトルが、さらなる加速のベクトルに塗り替えられ、空中では叶わないはずの方向転換を可能にしていた。

 風の魔法使いが風を操ることで飛翔を可能とするように、トーユーズは雷をもって擬似的な飛翔を成功させていた。

 本来風の魔法使いに現れることの多い稀少性質である『加速』の魔力性質。これは疾走や衝撃等らで起こる勢いを、魔力を用いて起こす魔力性質である。それはたとえ地に足がついていなくとも構わない。魔力の流れを操ることで、任意の方向に文字通り加速することができるのである。

 トーユーズが空中で跳躍や方向転換を可能としたのはこれを発現させたからであり、迸った雷気は、足の裏からベクトルとは反対方向に伸びた加速の羽だ。
 魔法使いの杖の効力を持つ『英雄種ヤドリギ』を用いて、一方方向にのみ加速を可能にする弟子とは違い、トーユーズは絶妙ともいえる魔力制御で天も地も変わらぬ美しい疾走を可能としていた。

 振るう剣は無謬の技。移動の速度は雷光にも匹敵する。

 不滅のドラゴンに挑む麗しき稲妻の騎士は、もはや人間の枠組みを外れ、天候にも等しき力を有していた。

 ドラゴンは天より落ちる稲妻と戦っているように翻弄され、その身に切り傷と共に火傷を負う。

 だが――全ての自然災厄の中で最も凶悪なのはドラゴンそのもの。

 戦術をもって本能で戦うドラゴンを追い詰めていくトーユーズの攻撃は、ことごとく空を切るようにドラゴンの再生速度を上回ることができない。

「これでもダメか。これは本格的に謎の力量を推し量るのに務めないといけないかしら」

 立ちはだかったのはドラゴンの特異能力。使徒と災厄しか持たぬ異能の力。追撃を全てドラゴンは瞬間移動することでかわしていた。

 魔法でも説明できない異常を前にして、改めてトーユーズはドラゴンの詳細を観察する。

 体長は二十メートル強。漆黒の鱗に覆われ、毒々しく法外な魔力を絶えず放っている。
 鮮血の瞳はぎょろりと巨大で、全体的には鋭角的な、海を泳ぐ鮫に似たドラゴンである。

 ドラゴンにはそれぞれ特徴とでもいうべきものがあるというが、トーユーズが過去実際に見たドラゴン――オルゾンノットの魔竜と知識の中にあるドラゴンと当てはめても、際立った特徴は見あたらない。

(瞬間移動。こちらの攻撃が直撃しない見切り……)

 それが普通のドラゴンにはない目の前のドラゴンだけの特異性。このドラゴンの特異能力は敏捷性に関わるものの可能性が高い。

「ふふっ」

 そこまで理解が及んだトーユーズは口元に艶やかな笑みを浮かべ、小さく唇を舐めた。

 血が滾る。心が震える。総身に甘い痺れが駆け抜ける。
 
「速さを競えと、そう言いたいのね」

 だらりと両腕を垂らす構えを取って、トーユーズは宿命の敵に視線で笑いかけた。
 炯々と輝く眼孔の強さだけで見る者の魂を抜くかのよう。ドラゴンが放つ『侵蝕』の魔力を眼圧だけで跳ね飛ばし、疾走の構えを取る。

 トーユーズの戦闘スタイルは高機動戦。まさに速さを体現し、疾さの頂点を極めることがその本領。

 ドラゴンがその速さを力とするなら、同じ力を根元とするトーユーズがその部分で負けるわけにも退くわけにもいかない。敵の情報を分析することは重要だが、わからないことを考え続けて大事なことを忘れてはいけない。

 大事なこと――美しさというものを。

 トーユーズの身体がぶれる。

 黄金の燐光が舞い散ったその刹那、速度の限界を超えてトーユーズは加速する。瞬きの間にその身体はドラゴンの鼻っ面にあり、鋭い眼光同士が交差する。空中での方向転換や跳躍に費やす力を全て加速に注ぎ込んだトーユーズの速度は、ドラゴンの瞼のない眼でも止まらない。

 あらゆるものが畏怖する対象であるドラゴン。それを目と鼻の先にして、トーユーズは怯えることなく微笑みながら両手を動かした。同時に全身を伸ばし、踊るように剣を振るう。

 ゆったりと、見るものを楽しませる動きに見えるその仕草の中、人が知覚できない速度で数十の刃が放たれたと一体誰が信じるか。

 斬撃が分裂するように別れ、一つの傷口に収束する。敵のいかなる防御が作用して攻撃が通らないかは定かではないが、一撃で無理なら無数の斬撃を重ねることで強引に突破する。トーユーズが選んだのはそういう方法だった。

 双剣の刃が無数に舞う。

 一撃一撃が致命傷に匹敵する刃。それが収束する様は、雷が避雷針に集まって落ちるかのようにも見えて。

「ギィイォォオオオオオオオオ!」

「まだまだ!」

 これにはさしものドラゴンも苦悶の声をあげて瞬間移動で退避に出るが、トーユーズは攻撃の手を緩めない。

 転移した先へと虚空を蹴って移動し、再びの神速斬撃。
 双剣が流れるように左右の役割を交代し、交互に同じ軌跡を描く。

 ドラゴンの速度を圧倒し、反応できない場所から連続攻撃を仕掛ける。比喩ではなくその姿は雷。人の身では避けることの叶わない自然の現象への同化を果たしていた。

『誉れ高き稲妻』――それは速度をもって人知を越えた騎士。

 かつての悔恨より血反吐を吐き、目に見えない何かを削ってまで行った蛮行としか思えぬ鍛錬により、トーユーズの戦闘能力は特異能力を使わぬ状態のドラゴンにも匹敵していた。その全力は万軍に匹敵する災厄を退け、耐え凌ぐほど。

 どれだけの才能を持ち合わせれば人はここまで来れるのか。
 どれだけの苦行を味わえば人はここまで至れるというのか。

 そこにいるトーユーズ・ラバスという騎士こそが人の祈りの結晶。人の可能性。それを体現した――そう、あまりにも美しすぎる女傑。

(あたしはそう、ドラゴンと戦える)

 逃げまどうドラゴンに寄り添い、無謬のダンスを演じる。

(だけど、それでもドラゴンを滅することが叶わない)

 千に迫る斬撃の嵐の中、何か得体の知れないものを打ち破る感触が手に伝わる。

(ドラゴンとは一体なに? 人の限界はどこにある? 自分を許せる美しさとはどれだけのもの?)

 感じ取る。今まさに自分はドラゴンの速さを上回ったのだと。

 トーユーズは左の剣を浴びせたあと、右の剣に一際激しく雷気を纏わせ、演舞の締めの一動作を取った。最初から最後まで計算され尽くした美しさ。残身とも呼ぶべき剣を振り抜いた格好のまま、一瞬空中にトーユーズの姿が静止する。

「尽きない美への探求の答えを――得る。そのために、今は夢の続きの中で戦おう」

 その背後で断たれたドラゴンの首が宙を舞い、派手に血しぶきをあげる。さながらカーテンコールの祝砲の如く。

 高々と宙を舞うドラゴンの瞳が、自分の首を狩り取った人間を睥睨する。
 獲物としてしか見ていなかった相手を好敵手と見定めたかのように、獣の瞳に理性が過ぎる。

 鮮血の瞳が瞬きを一つ。

 それが、トーユーズが相手取ったドラゴンがその真の力、真の姿を晒した瞬間だった。


 ――影が、蠢いた。


「っ!」

 地面へと降り立ったトーユーズは、生まれもっての第六感に従って身体を横へと投げ打った。

 上体を逸らすように、少しでも地面から離れんと飛び退く。その最中空を仰ぐことになったトーユーズは、肉体から離れたドラゴンの瞳が、自分をじっと見つめていることに気が付いた。

 際立った特徴のないドラゴンの身体。真っ黒な身体。それが大気中に溶けるように消え失せる。

 ドラゴンが死んだとしか思えない瞬間を見てなおトーユーズはドラゴンの死を信じなかった。その悲しいほどの絶対視が、トーユーズを窮地より救った。

 上にあったはずのドラゴンの気配が、瞬時に背後に現れる。
 まるで最初からそこに潜んでいたかのように、濃密な気配が地面より現れる。

「なるほど、道理で手応えが薄いはず。なんてことはない、あたしが今まで戦っていたドラゴンは――

 空中で強引に半回転。低空飛行を続けながら真下を見たトーユーズは、地面に落ちたドラゴンの影の頭部、そこで爛々と鮮血の色が光っているのを見た。
 ドラゴンの影が蠢き、突如として膨らんで実体を持つ。巨大な顎が現れたかと思ったら、強襲をしかけて食らいついてきた。同時に尾と翼が広がり、トーユーズの逃げ道を塞ぐ。

 つまりそれが本当のドラゴンの本体。空を駆け抜けることがドラゴンの強みと先入観があったため、まさか本体が地に潜んでいるとは予想もつかなかった。

 今まさに影より現れ出でたドラゴンの巨体は、空にあったドラゴンとまったく同じ姿のドラゴン。当然だ。空に映り込んでいたドラゴンこそ、このドラゴンの『影』だったのだから。

「影が本体で、光源の方向に実体のある影を作る。それが、このドラゴンの力……!」

【逆さ影】――それがこのドラゴンの特異能力。

 トーユーズは理解したと同時に、思い切り上空へと飛翔する。

 影を消し飛ばしても所詮は影。本体が無事ならば影は必ずまた現れる。トーユーズの飛翔を拒んだのは空中に結んだ黒い像、新たな影法師たるドラゴンであった。

「やばっ」

 天と地をドラゴンで囲まれる中、上下より同時に紅蓮の炎が放たれる。

 逃げ道を塞がれたトーユーズは、その二重の炎に飲み込まれた。


 

 

      ◇◆◇


 

 

 その日、始めて人が死ぬ様を見た。

 自分を守って倒れたその人は、大切な祖父だった。

 その人は遠くに住んでいたが大事な家族で、おじいさまと呼ぶと顔を綻ばせて、剣を教えて欲しいといえば喜んで手ほどきしてくれた。彼は勇敢に戦い、そして勇敢に敵の剣に倒れた。これが騎士の死なのだと、幼いリオンは思い知った。

 だけど震えてばかりもいられない。

 祖父を殺した騎士は、じっと無感動な瞳で血塗れた剣を持っていた。小さな少女からしてみれば巨人のようなその男。怖くて、身体が震えて、勝手に涙がこぼれてきた。
 だけど、偉大なる祖父の骸の傍で、その手ほどきを受けた自分が怯んではいけないのだとそう思って。祖父が持っていた剣を構えてがむしゃらに立ち向かった。

 重たい剣を長時間持つ経験なんてなかったリオンの手は緊張に強ばり、筋肉は肉離れがしそうなほど硬直していた。だけど柄だけは手放すまいと、血の流れが止まるほどきつく柄を握りしめて剣を振り続けた。

 首を捻り、身体を横にずらすだけで剣を避け続けた騎士は、変わらず無感動な瞳で見ていた。
 剣を弾き飛ばし、返す刃で首を切り落とすことなど祖父を倒したほどの騎士ならば容易かったろうに、じっと見てきた。

 そんな彼が口にした言葉をリオンは忘れていない。

『……騎士は、敵に剣を向ける前に名乗るものだ』

 彼はそう言って剣を構え直すと名乗りをあげた。

『オレはボルギネスター・ローデ。破壊者だ』

『わ、わたくしは、リオン・シストラバスですわ!』

 ボルギネスターと名乗った男に名乗り返したそのとき、何か得難いものを胸にしまったような、そんな気がした。

『……いい騎士になるな』

 名乗り合いの直後――その呟きと共にリオンの意識は断たれた。
 次に眼を覚ましたとき、そこには安堵の笑みを浮かべる母の姿があった。

 リオンは知った。自分はまったく敵わなかったのだと。敵に教えを受けてしまうくらい惨めで幼い、弱くて騎士とも呼べない存在だったのだと。

――だから私は誓いましたわ。あなたに必ずや報復すると。私を庇って亡くなったおじいさまのために、騎士としてあなたと決着をつけると」

 剣を手に、ベアル教のメンバーの一人である禿頭の巨漢ボルギィと鍔迫り合いを続けながら、リオンはそう過去の記憶を掘り返して言った。

「擦り、潰す」

 対するボルギィの返答はその一言。
 馬鹿の一つ覚えのようにそれだけを口にして、ボルギィは棘が無数についた槌を振り下ろす。

 ついには真っ向切っての力勝負に負けたリオンは、ハンマーで押しつぶされる前に素早い動きで間合いの外へと逃れていた。そこで、ルギィの夢遊病患者めいた言動に、憐憫とも怒りとも違う感情を抱いた。

「変わりましたわね」

 総重量にして百キロを超えるだろう巨大槌を振り回す巨漢の姿は、在りし日の彼の姿とはだいぶ変わっていた。外見も、内面もだ。

 叩き落としたあと、ほとんどタイムラグなしに薙ぎ払いが来る。大気を叩き潰すほどの豪腕による攻撃は、一撃でもまともに受けたら多大なダメージを負うだろう。頭に喰らったらそれこそ一撃でお陀仏だ。

 リオンはフットワークを駆使し、剣をハンマーの横っ面に叩き付けることによって軌道を変えたりしつつ、接近したまま避けていく。

 偶にあまりに無骨な直線の攻撃が混ざることを、すでに数度の打ち合いから読みとっていたリオンは、今回もやってきた真上からの振り下ろしを冷静に見切って、斜め前へと飛び込むように移動し、すれ違い様に思い切り横腹を斬りつけた。

「お、ぉお」

 肉を断つ確かな感触に、ボルギィが悲鳴をあげたまま振り返って槌を振るう。
 傷を負ったことを理解しつつも気に留めない大振り。力んだことによって血が内側からの圧力によって飛び散るが、そんなことは微々たることだと連続して振り繋いでいく。
 
 自らの身を顧みぬ、おおよそ理性ある人間としてはあまりに向こう見ずなその在り方……リオンは顔を顰めて、大きく距離を取った。

「本当にお変わりになられましたのね。ボルギネスター・ローデ」

 怪力を存分に振るった結果、陥没だらけの地面を、のっそりと槌を振りかぶりつつ歩いていくボルギィの瞳には理性の光が乏しい。

 かつて祖父を殺したときの冷徹な眼差しも、幼き日の自分を見たときの人間らしさもない。戦うことに特化し絞り込まれた筋肉は見る影もなく、骨と皮だけという骸骨を連想させる姿。頭ははげ上がり、暗い光を瞳にたたえる様は幽鬼と見間違わんばかりだ。

 得物として使っていた剣を捨て、握っているのは拷問具とも思える巨大槌。そのやせ細ったどこにそんな力があるのかと思うくらいの怪力は健在だが、理性を剥奪し人を廃人へと変える薬でも服用しているかのように、人としての立ち振る舞いを忘れた獣のようだ。

 これが、リオン・シストラバスが騎士として最初に報復の相手と誓った、祖父の仇……あまりに想像していた相手とかけ離れた敵の姿に、リオンが抱くのは悔しさだった。

「ええ、私はあなたに何があったのか、それを知りません。だから同情も怒りも抱きません。ただ、悔しい。敵ながら騎士の教えの一つを私に教示したあなたが、騎士の心得を忘れてしまったことが」

 原初の敵に剣を突きつけ、リオンはカチャリと籠手に力をこめる。

「ですが、それでも心の根底には小さくも確かな誇りが息づいていることを、ぶつけ合いの最中にしかと感じましたわ。ならばこの戦いにこれ以上文句は申しません」

 相手は違うと思っても、騎士として名乗りをきちんとあげた上での戦いである以上、これはリオンにとっては決闘だ。一方的なものでしかなくとも、それでもこれは決闘なのだ。

 油断も隙も見せない。与えない。決闘である以上、全力を賭して相手を砕く!

「ここから先は、取らせていただきます」

 真紅の瞳に炎を燃やし、リオンは下段に剣を構える。
 その切っ先より生まれた真紅の輝きが、ドラゴンスレイヤーを包み込んでいく。

「行きますわ!」

 身体の中心に置いておいた重心を、後ろに僅かに傾けたあと思い切り前へと倒す。それに合わせて勢いよく右足で踏み込み、リオンは攻撃をしかけた。

 足を踏み出した圧力により、ボルギィに陥没させられた地面と同じように、リオンによって踏み砕かれた地面が土煙を上げる。鋭い踏み込みをもって一気にボルギィの間合いに入り込み、リオンは振り下ろされる槌めがけて剣を振り上げた。

 先程は純粋な贅力の差によって押し切られた上段からの一撃を、今度は弾き返す。
 突進の勢いと共に、相手を弱らせる『封印』の魔力性質の恩恵。それ以上に、剣に込められた騎士の魂が贅力による差を拮抗に持ち込んだのだ。
 
 同じだけの威力をもってぶちあたった武器がそれぞれ弾かれあう。衝突は互角。しかし結果はリオンの勝ちだった。

「はぁッ!」

 柄の先に巨大な鉄塊をつけたハンマーは、遠心力を利用した一撃必殺の攻撃が特徴であり、反面長柄の武器としての宿命により建て直しに時間がかかる。いかに怪力をもって最小限の隙で振り回せるボルギィといえど、リオンが次に攻撃を繋げるより早くはなれない。

 弾かれた状態のまま重心を後ろに取られたボルギィへと、体当たりを喰らわせるようにリオンは接近し、当て身と同時に突きを前方へと放つ。

 鋭い呼気と共に繰り出された切っ先は、深々とボルギィの横腹を抉った。驚嘆すべきは、線ではなく点での攻撃のため見切りにくく避けにくい突きに対して、こんなにも接近しているのにも関わらず咄嗟に身をよじって避けたボルギィの判断能力か。

 流れるように次の攻撃へと繋ぎながら、リオンは内心で喜びの声を上げていた。

(確かに人としての判断能力を失ってしまったようですが、戦闘における判断能力だけは喪っていない、ということですのね!)

 敵が強敵であればあるほど燃えるタチであるリオンにとって、宿願の相手であるボルギィが難敵であることが、これほど嬉しいことはない。戦闘狂の笑みをもって怒濤の攻撃を加えるリオンの目は爛々と光を放っていた。

 袈裟懸け。薙ぎ払い。突き。

 間合いを開かずに鋭く短く放つリオンの攻撃は、一撃必殺を狙ったものでこそなかったが、そのことごとくをボルギィは避けていた。ハンマーの柄を巧みに使って、石突で軌道を逸らしては攻撃を凌いでいる。負った傷は、またもや無視しているようだった。

 敵の傷に躊躇するような人間では、もちろんリオンはない。

 相手の傷こそ武勇の証。ここに来てリオンはさらなる熱を剣へと集め、威力を増した大振りの一撃をボルギィにぶつけた。

 至近距離で爆発したかのような威力の攻撃を受けて、ボルギィの巨体が宙へと吹き飛ばされる。柄の中心で攻撃を受け止めた彼は、ドシンと着地を決めると、柄の端を両手でもって頭の上でグルグルとハンマーを回し始めた。

「砂が!」

 攻防の最中宙に舞い上がった土煙が渦を巻き、砂塵となってリオンの目に入り込む。拭うような蛮行こそリオンはしなかったが、咄嗟に怯んでしまった。

「擦り、潰す!」

 それがボルギィにとっての反撃の好機。

 回転させていたハンマーを片手に持ち替えてボルギィはリオンの脳天を狙った。

(これは、受けきれないっ)

 迫る一撃を見て取ったリオンは、遠心力による力が加わったこの攻撃は弾き返すことができないと即座に判断した。瞼の裏に映りこんだ、自分が叩き潰されミンチになる未来から逃れるために身体を捻って肩を内側に巻き込む。

 身体のすぐ横をボルギィの放ったハンマーがすり抜けていく。

 これまで以上の陥没音と振動が部屋を駆け抜けた。骨のみしかない腕が放ったとは思えない、まさに異常極まりない破壊力だった。

 しかし大振りの一撃のあとこそ、今度はリオンにとっての好機。

「もらいましたわ!」

 陥没に左足を取られたとき、リオンの身体はそのバランスの変化を利用することを脳が戦術として弾き出すより先に選んでいた。身体をさらに捻って左足を身体の横にあるボルギィのハンマーに置くと、深々と床に突き刺さって動かぬそれをスタート台代わりにして、これまで以上の速度で間合いを詰める。

 反射的にボルギィが防御のため左手を突き出してくるが、リオンの身体には触れられない。

 振り下ろした直後の硬直時間を完璧に狙いきったリオンは、ついには闘志が募るあまり燃えさかる炎を顕現したドラゴンスレイヤーを、股下から左の心臓目がけて完璧に振り抜いていた。

 相手の命を奪い取る感触が手に伝わり、甲冑に血が付着する。

「あ、が……」

 ぐらりと後ろに倒れ込むボルギィの身体から、するりと肉どころか骨をも切断する刃が引き抜かれた。

 手はハンマーから離れ、支えを失って倒れたボルギィは、白目を剥いてピクリとも動かない。

「報復の誓い――果たさせていただきました」

 リオンはここに決着をつけた宿願の相手を、きちんと礼をもって弔おうと胸へと手を当てようとして、

「擦り……潰す……」

 ゆらりと時が巻き戻ったかのようにあり得ない動きで起きあがったボルギィを見て、目を見開いて距離を取った。

「ぉおおおおぉオオオオオッ!!」

 変化は唐突にして劇的だった。

「なんですって!?」

 起きあがったボルギィが不自然にその動きを止めたかと思うと、空に向かって咆哮をあげた。
 その後、彼の細い身体についた筋肉が、力を入れたというだけでは説明できない膨張を見せ始めた。

 骸骨のような細い身体が、ボコリ、ボコリと体内で小さな爆発が断続的に起きているように膨れあがる。血管が千切れたのか、その病的な肌の色は黒く染まっていき、凶相はすでに人の顔つきから逸し始めていた。

 健康的ならばそれなりに見れた顔であったろう姿からはかけ離れた怪物の相。
 深い傷口が肉に押しつぶされ塞がっていく。人外の筋肉で全身を余すところなく覆い尽くしたボルギィは、口から血色の吐息を吐き出した。
 
 変化は外見だけに止まらない。
 放たれる殺意が、圧力が、段違いになった。

 怪物。人間でありながら人間ではないもの。それが今目の前でいると本能的に理解する。リオンの背筋を貫いた目の前の怪物に対する感情は、偽れず飾れぬ恐怖。

――!!」
 
 言語ならざる叫びを上げて、変貌したボルギィが槌を振るう。

 致命傷をも乗り越えた敵にたじろぎながらも、これまでと同じように迎撃に出たリオンは、ボルギィの得物と触れ合わせた時点で自らの失態を悟った。今の狂える戦士の攻撃を受け止めたいと思うなら、これまでと同じ力ではダメなのだ、と。

 悟ったときには遅かった。

「けふっ!」

 ただの一撃。ただの一撃で、リオンの身体はズタズタに引き裂かれた。

 振り抜いた剣ごと押し切られたリオンの身体は、ボルギィの槌を叩き付けられ小石よりも軽々と飛んだ。飛んでいる内に何度衝撃で意識を失い、痛みで覚醒したか。壁へと叩き付けられた痛みで最後の覚醒を果たしたリオンは、それを覚えていなかった。

 ずるりと陥没した壁ごと地面へと落下していくリオンの手から、剣がこぼれ落ちる。
 
 同時に落下を始めたリオンとドラゴンスレイヤー。だが、実際に地面に落ちたのは剣だけだった。

「あ、ぐっ」

 恐るべき速度で近付いてきたボルギィに首にほど近い部分を掴まれ、リオンは背後の壁へと縫い止められる。

「あ、ああっ!!」

 あまりの圧力に身体が軋む。

 悲鳴を上げるままに上を向かされたリオンは、そこで自分を見下ろす視線に気が付いた。

 殺意に理性を凍らせた狂戦士の双眸。この目は人間ができる目ではない。彼の戦いの奥に息づいていた騎士の礼が何か暗いものに押しつぶされ消えている。

「とんだ……無粋な客人も、いた……ものですわね……!」

「いえいえ、何のこれしきのこと。ちょっとした戦友へのサービス、という奴ではないですかぁ」

 口から血を吐きながらリオンが睨んだのは、壁際にたたずむ邪魔者の姿。細い瞳をさらに細めて嗤う男と、その後ろに無言でたたずむ青年。ギルフォーデとウィンフィールドだった。

「もちろん、これ以上の邪魔なんて致しませんよぉ。あなたとの決着はボルギィの願いでもあったのですからぁ」

「卑、れっ……ですわね……」

「お褒めにあずかり恐縮です。お礼に正々堂々の戦いをプレゼントいたしましょう。もっとも、この状況を脱することができれば、の話ですがねぇ」

「地獄へ……堕ちろ……!」

 上手くしゃべれない状況でも、リオンは全力を出してギルフォーデを罵った。

 彼がボルギィを生還させ、狂戦士に作り替えたのは一目瞭然。
 否、今のボルギィという男へ変貌させてしまったのがギルフォーデという外道なのだろう。

――!!」

 しゃべる権利すら失った狂戦士は、吼えながら手に力を込めていく。

 この世で最も醜い、人の混沌に覗き込まれたリオンは声なき悲鳴をあげた。まるで誰かに助けを求めるように。

 けれども助けは来ない。これはリオンが選んだ一対一の決闘。それをジュンタたちは認め、信頼し、託してくれた。だから今ここにいるのは自分一人。仲間が、友が、恋人が同じ戦場で戦っている。ならば騎士たる自分は一人でこの困難を凌ぎ、皆の助けに行かなければ。

 邪魔者は消す。ぶっ潰す。騎士の決闘をなんと心得る!

 呼吸する権利を奪われてもなお奪われることのできない矜持。それを最後の武器にして、リオンはがむしゃらに右腕を振るった。

「お、ぉお」

 振るった拳は、狂戦士となっても鍛えられないボルギィの眼球に命中した。
 拳に――右手薬指につけた指輪にゼリー状のものを潰す感触が伝わる。さすがの狂戦士もこれには悲鳴をあげ、一瞬力を抜く。

 リオンは下がった足の先で強く剣の柄ごと床を叩いた。バウンドして上がった剣先を具足の甲で蹴り上げ右手で掴むことに成功したのは偶然だったかも知れない。

 輝きを欠いていたドラゴンスレイヤーが、リオンの手に戻った瞬間これまで以上に輝きを発す。
 何の前触れもなく吹雪いた炎の風を纏った剣を、リオンは軽く、自分を拘束したままのボルギィの右肩につけた。

「……ふふっ」

 掠れた声で笑って、さらに剣先を押し入れる。

 筋肉の鎧の先へとするりと侵入した焼けた魔鉄。
 唸れ。と、声に出さずにリオンが呟いた瞬間、渦巻いていた炎が剣の軌道上に向かって駆け抜けた。
 
 刃は肩からボルギィの頭部にかけてを切り裂いていった。
 常人ならそのままよろめいただろう一撃は、しかし怪人を怯ませるほどではなかったらしい。

「無駄ですよぉ、無駄無駄。その状態のボルギィはあらゆる痛みもダメージも意味がありません。狂戦士。そう、狂戦士! 私の最高傑作、それがこのボルギィなのですからぁ!」

 冒涜者の声が響き渡る。破壊者の手が緩むことはなかった。

 今度こそ、リオンの手からドラゴンスレイヤーが滑り落ちた。

 ドサリ。リオンが自分もまた地面に落下していたのに気付いたのは、消えた意識が蘇ったあとのことだった。

「……え?」

 解放された理由がわからずボルギィに視線を向けたリオンは、そこで彼が思い切り手を振り抜いているのを見た。

 放たれたハンマーは剛速球となって、壁際に立つギルフォーデに向かっていた。

 ボルギィの豹変に驚いていたのはリオンだけじゃなかったらしい。咄嗟に動くことができないでいたギルフォーデの代わりに、短槍でハンマーを受け止めたウィンフィールドの手の中で、粉々に槍が砕け散った。

「……俺は…………」

「ボルギネスター……ローデ?」

 リオンが最初にボルギィの再びの豹変に気付いた。

 際だった変化はその瞳。
 狂気が消え、確かな理性が映り込んでいた。

 そこにいたのは、リオンの知るボルギネスター・ローデその人であった。





        ◇◆◇




 名乗りも何もない。目線を合わせ、約束を果たすことを確認したその瞬間から、二人は剣を振るい、拳を振るい続けた。

 それは決闘と呼ばれるものではあったが、元より騎士の教えよりも格好いいことを目指せと教えられたジュンタと、獣であるヤシューの戦いだ。騎士の礼儀などどこ吹く風。そんなものは余分だ邪魔だと、相手ののど笛に噛みつく勢いで終始攻防に徹する。

「ハッハー!」

 ガントレットもない素手を掌底の形に似た、指先全体を使って敵の肉を抉るような構えでヤシューは腕を振るう。今まで戦ったどんな時よりも疾いその攻撃を、ジュンタは左の剣で逸らし、同時に右の剣で肩口を狙って突き出した。

 相手の腕を目隠しに使った奇襲気味の刺突。

「当たらねェよ!」

 勢いを受け流すつもりで出した左の剣を、こともあろうにヤシューは素手で掴み取っていた。硬質の手には傷一つつかず、万力のような力で旅人の刃を絡め取る。

 いきなり左手にかかった負荷に抗うため、ジュンタは身体の左側に重心を置いて踏みとどまる。
 それがヤシューの狙いだと気付いたときには、すでにヤシューの身体は右手を支点にグルンと宙を舞っていた。

 跳躍した勢いのまま、今度は蹴りを放ってくる。右での回し蹴りのあと、左足による裏蹴り。その二つを両の剣で防ぎきったところで、大きく上へとさらに跳んだヤシューが、両手を交互に突き出してきた。

「ぐっ」

 回し蹴りを受け止めたドラゴンスレイヤーで最初の攻撃を受けきったジュンタだが、続く左手が右腕に当たる。初めて命中したヤシューの攻撃の威力を、ジュンタは甲冑越しにもかかわらず響く痺れという形で知ることになった。

「ようやく一発かよ。しかも、俺の身体とどっこいどっこいな硬さだなァ、その甲冑」

「そっちこそ。素手の硬さが前とは段違いだ」

 最強の甲冑であるところの『竜の鱗鎧ドラゴンスケイル』だが、ヤシューの攻撃を喰らって僅かに陥没していた。それは微々たるものだが、最強たる由縁をよく知るジュンタからしてみれば、ヤシューの一撃がとんでもない魔手であったことを悟るには十分だ。

 語り合う時間もなく戦いに突入した相手の顔を、ジュンタはここでようやくしかと目に焼き付けることができた。

 鼻筋を横へと走る傷跡。露出度の激しい格好等、粗野な印象の容姿は前と変わらない。しかしくすんだ金髪だった髪は腰辺りまで長くのび、灰色に近づくほど色素が抜け落ちている。
 蒼色だった鋭い瞳も暗く濁り、右目に至っては白目が腐り落ちたように黒く変色し、眼球が血の色に染まって瞳孔が縦に割れていた。

 身体には最初から毒々しい枯れた大地の色を思わせる光の線が駆けめぐり、両腕の筋肉が鋭角的に尖って膨らんでいる。魔手――言い得て妙だ。今のヤシューの両腕は『儀式紋』の力を付加され、触れるもの全てを砕く破壊の腕となっていた。

「色々と変わったな、お前」

「だけど変わってねぇぜ。テメェに対する愛だけはなァ」

「そうかよ。俺としては、前のお前の方が好みだったけどな」

 ジュンタは呼吸を整え、右のドラゴンスレイヤーと左の旅人の刃を構える。

 前に比べて凶悪さを増した顔。魔力の質も変わっているように見受けられる。今のヤシューからは、ドラゴンに似た凶暴な魔力の波動を感じる。同時に痛々しいほど悲鳴をあげる筋肉の音までも聞こえてきそうだ。

 これはヤシューと戦ったことのあるユースから聞いた話だが、彼はかつて『狂賢者』の実験の被害に遭い[魔力付加エンチャント]が止まらない体質になっているという。それは彼の寿命を蝕んで、年々強力になっているらしい。ジュンタが今のヤシューから感じる新たなる力の波動は、そんな代償を必要とする力を、さらなる代償をもって手に入れたという感じだ。

 戦闘狂。

 ヤーレンマシュー・リアーシラミリィというエルフを示す言葉としては、これ以上ふさわしいものはない。なんてことはない。やっぱりヤシューは、

「ま、確かに馬鹿っぽいところは変わってないみたいだけどな」

「言ってくれるぜ!」

 再確認の後激突。今度はジュンタの方から攻め込んだ。

 まっすぐなヤシューの初手を交わし、左の剣を盾に徹せさせて、右の剣を矛とする。

 長剣の類に属するドラゴンスレイヤーのリーチは、ヤシューの腕のリーチを凌ぐ。単純な白兵戦では間合いが広い方が有利だ。その例にもれず、ジュンタの剣はヤシューの防御陣を削っていく。

 常道の相手ならば大抵得物は一つ。槍や剣などを持っており、ジュンタが攻撃に使っているのはそれらの相手をするときの同じ戦法だ。両手のどちらも武器にできる双剣の利点は手数の多さ。なら、これを最大限活用するには、怒濤のラッシュを上手く活用しなければ。

 しかし、あと一歩のところでジュンタの攻撃はヤシューに当たらない。武器に頼らず己の鋼鉄をも凌ぐ拳を武器とするヤシューは、つまり両腕どころか全身が武器。両腕による攻撃を得意とするヤシューだったが、その足は移動のみに使われるのではない。

「しッ!」

 身体能力はほぼ互角。実戦経験や戦闘判断においてはヤシューに軍配が上がるが、戦術でその上を行ったジュンタの攻撃が届こうとした瞬間、腰を落としていたヤシューが蹴りの動作に移る動きをした。

(左!)

 重心が僅かに右に傾いている。左の蹴りが来る予兆だ。ジュンタは前もって察して右に移動し、十分間合いをとってドラゴンスレイヤーを押し込もうとし、

「残念。右、だ!」

「がはっ!」

 予兆とはまったく反対の右の蹴りを横腹に叩きこまれ、地面の上を大きくバウンドしながら転がった。

 回転受け身を取って跳ね上がるジュンタは、目の付近に付着した泥をぬぐい取る。そしてしっかりとニヤニヤ笑うヤシューを見た。

 間違いなく今ヤシューの重心は右に傾いた。ならば来るはずの攻撃は左のはずだ。が、実際の蹴りは右……。

「フェイントか」

「正解だ!」

 呵々と笑うヤシューの攻撃方法は、今までまっすぐというか、フェイントらしいフェイントが少ない攻撃方法だった。自分の身の硬さと身体能力のみを頼った攻撃だったからこそ、格下のジュンタでも付けいることができたのだ。

 しかし、ここに来て完璧なフェイントを用いてきた。そういえば、今日は前戦ったときよりも足による攻撃も増えた気がする。

「手に入れたのは、その破壊の力だけじゃなかったのか?」

「ああ、なんつうか、どうやらあの腐れフェチ野郎に頭ん中軽く弄られたようでなァ。今まで知らなかった知識が詰め込まれちまっているようでよ」

 こともなげにそんなことをヤシューは笑って言う。普通変な記憶を植え付けられたら嫌悪を抱くというのに、それさえ自らの糧になったのならばと、気にせずに笑えるヤシューはどれだけ大物なのか。

 清々しいほどの戦いへの渇望を前にして、ジュンタは一層気を引き締め直す。

 自分よりも格上の相手という認識はあったが、その認識を若干上方修正する。
 この戦うことを避けられない――いうなればライバルとさえ認識する男、新たな力を手に入れて強さのみならず戦い方までが巧くなった。

 本能的な部分で戦うヤシューに戦術を使わせるなら、なるほど、直接頭へ知識を流し込むしかなかったのか。ディスバリエ・クインシュ。獣の躾方をよく心得ている。

「いいぜ。そろそろ前菜の時間は終わろうじゃねぇか。お互い色々と時間制限はあるしよォ」

「確かに、俺はさっさとお前を倒してみんなのところに行かないといけないが、お前にも時間制限があるのか?」

「まぁな。俺にも色々とあるってことだ。
 というわけで提案じゃねぇ、命令だ。ギアを上げろ。もっと吼えろ。でなけりゃテメェ、俺の進化についてけねぇぜ?」

 歯をむき出しにして嗤うヤシューの身体に変化が起きる。

『儀式紋』の輝きが強くなったと思ったら、線が枝分かれして、まるで細い毛細血管のようにヤシューの身体を覆い尽くしていく。

「オォオオオオオオ――ッ!!」

 すぐに彼の肉体すべてが光に多い尽くされる。それはまさしく『侵蝕』の魔力であり、まるで精巧な土の像か土色の全身甲冑に埋め尽くされたかのよう。それら甲冑の材料とも呼べる光はヤシューの両腕へと収束していき、それ以外の部分は、まるで殻から生まれる雛の如くヤシューの顔を露わにする。

 そうして両腕以外の全ての光が消えたとき、両腕の光もはじけ飛んだ。

「ハッハー!!」

 雄叫び一つ。頭上で手を打ち鳴らしたヤシューの両腕は、いつぞやの岩が付着した魔手へと変貌していた。前と違うのは、より岩が流線的になっていることと、いくつもの茶色の魔法陣が消えることなく腕を中心に展開されていることか。

 新たなる破壊の右腕と束縛の左腕を構築したヤシューは、痛みかそれとも力の滾りにか、恍惚の表情で息を吐くと何かを促すように睨んできた。

「[加速付加エンチャント]!」

 ここが唯一パワーアップを許される時間と否応なく気付かされた。ここで[加速付加エンチャント]を用いなければ、以後は使う暇さえ与えられないだろう。

 ジュンタの身体を包み込んでいた不可視の虹色が可視の虹色へと転ずる。バチリバチリとスパークが起こり、ジュンタの身体に『加速』と『侵蝕』の力が付加された。ちょうどヤシューが両腕を中心に『変質』と『侵蝕』の魔力を付加させたように。

「行くぜェ」

「俺より先に――行けたらな!」

 ヤシューが一歩を刻んだときには、すでにジュンタは彼の目の前で剣を振り上げていた。

 ジュンタが唯一絶対の自負をもってヤシューを凌いでいるといえるところ。それは速さだ。これだけはパワーアップしたヤシューの上を行っている。

 だが、逆をいえばそれだけだ。雷を付加して威力が増したはずの攻撃は、ヤシューの左手一本の防御も貫けなかった。

「押し切る!」

 ならば、これはもう手数で圧倒するしかない。
 防御された瞬間もう片方の刃と盾と矛の役割を交代する。

 流れるように半月を描き、次々と同じ箇所に攻撃を加えていく。触れた相手を束縛するヤシューの左腕が、ガリガリと音を立てて削れていった。
 流線型になったヤシューの腕は前よりも装甲が薄くなっている。このまま押し切れるかとジュンタはさらにギアをあげるが、このまま押し切られるのを許すヤシューでもない。

「ジュンタ。俺が手に入れた力って奴を教えてやらァ」

 身体の一部ともいうべき箇所を削られながらも笑みを絶やさないヤシューが、歯を食いしばって左腕に力をこめた。すると展開されたままの魔法陣が強烈な光を放ち始める。

 なんだと疑問に思う前にジュンタはヤシューから離れていた。正確には、何か見えない力によって離されていた。

「あァ、逆か」

「なっ!?」

 いきなり身体を弾かれたジュンタは、今度は逆に見えない力に身体を引っ張られた。まるで背中を思い切り手で押されているかのように、ぐんとヤシューの方に身体が移動を始める。

「コォオオオオオオオオ――

 身動きが封じられた身体にジュンタが四苦八苦している間、ヤシューは右の拳を腰ダメに構えていた。

 鋭く息を吐くのと同時にヤシューの右腕に展開された魔法陣が揺らめき、彼の足下の地面が陥没していく。まるでヤシューからかかる重量が何倍にもなったかのように、彼を中心にしてメキメキと地面がヒステリックな音を立てていた。

 重力。もしかしたら本当に今、ヤシューはそれに近いものを操ってみせているのかも知れない。

「切り裂け、『竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』!」

 ジュンタは見えない拘束の腕を切り裂くため、自分の身体の周りを、魔を切り裂くドラゴンスレイヤーで薙ぎ払った。見えない魔力の腕が紅い輝きに切り裂かれ、身体に自由が戻る。

 攻撃の構えを取るヤシューを近距離から睨む。ヤシューの右腕を中心に魔力の高ぶりを感じる。
 恐らくあの両腕の魔法陣が、魔法を使えないヤシューに擬似的とはいえ魔法を使わせているのだ。束縛の左腕は見えざる手で対象を縛り、破壊の右腕は圧倒的な力場で敵を粉砕する。

 真正面からあの破壊の右腕に対峙するなんて馬鹿げている。けれど、ここで退くわけにもいかない!

「貫くぞ!」

 ジュンタは左の剣にヤシューと同じく魔力を束ねていく。担い手の力を吸収・増幅する旅人の刃は、その刀身を虹色の雷光によって本来の二倍近く伸ばしていく。大気が人工的に生み出された雷に轟々と唸りをあげ、強風が二人の間を吹き抜けた。

 それぞれの前髪を風が撫でつけていく。

 思えば、ほんの数ヶ月前までは互いに知りもしなかった関係。実際に会ったのも僅か数回。しかも戦いの最中というだけ。

 なのに――どうしてか何年も前から知っていたかのような目で、二人は互いを睨んでいた。

 語る言葉も、語られる思いも一つだけ。

「負けたくない」

「ああ、負けられねぇよなァ。テメェにだけは!」

 咆哮が放たれ、それを皮切りに同時に攻撃に出た。
 
 ジュンタは左の剣を横から振り下ろし、ヤシューは破壊の右腕を思いきり突き出す。
 ぶつかり合う衝撃に、今度こそ大気の流れが暴風と化した。反対のベクトルから同時に歪められた流れは、お互いの身体を押しのけるほどの暴威となって突き抜ける。

「ぐっ!」

「ちぃ!」

 それ以上に二人の身体を貫いた衝撃は、激突で相殺しきることができなかった相手の一撃だった。それぞれが相手の防御を貫く二段攻撃だったために、ジュンタの左手から旅人の刃が弾き飛ばされ、ヤシューの右手を覆っていた籠手が破壊される。

「まだ――

――だぜ!」

 空間が湾曲するような、味わったことのない衝撃と激痛を左腕を中心に味わったジュンタと、雷撃を拳から通電して喰らったヤシューは、逆の腕をそれぞれ相手目がけてぶち抜いた。

 魔を断つ紅き剣と束縛の左腕。相性上は拮抗する性質を持つ一撃は、やはりお互いに命中して弾かれあう。

 これでお互いに攻撃の手を止んだ――そう思うのは、戦いに礼節を用いる騎士くらいのもの。

 ヤシューは足を動かした。ジュンタは一歩前へと踏み出して、勢いが乗る前にこれを押しとどめた。

 ヤシューは頭を思い切り後ろに引いた。ジュンタもまた、歯を食いしばって額に気合いをこめた。

 互いに歯を食いしばり、睨み合いながら頭突きをお見舞いする。頭蓋が割れるような音が額の間で奏でられ、それでも離さず二人は痛みに引きつったような顔のまま、ジリジリと額を押し込んでいく。

 お互いの額を支えにすることで立っている状態。泥臭くて騎士には理解できない獣の戦い。

(やっぱり強いな、お前)

 ジュンタはそう声に出さずにそう思った。

『やっぱ最高だぜ、テメェ』

 声には出さなかったけど、そうヤシューが思ったことを理解した。

 相手の考えが手に取るように分かる。
 お互いに敵意をぶつけ合いながらも、憎悪などの後ろめたいものは何もない。

 純粋な敵意は純粋であるが故に好意にも似ている。今この瞬間、世界に二人だけしかないかのように相手しか目に入らない。

 そんな関係をなんて呼ぶかはわからないが――やっぱり好敵手ライバルなんて呼ぶのではなかろうか。

 ニッとヤシューは笑った。たぶん同じことを思ったのだろう。ジュンタもつられて笑って剣を引き絞った。

 それぞれがもう一度右手を至近距離から撃ち放つ。
 今度はそれぞれの腹部に直撃して、その衝撃で二人の身体は反対方向へと吹き飛んだ。

 







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