Epilogue ――どこかで、奇跡の音がした。 ステンドグラスで描かれた一枚の宗教画。 かつて、昼間に此処へ来たときこれを見たことがある。 陽光が差し込み虹色に輝く様は圧巻の一言であり、どのような苦悩を持ったものでも、この絵を前にすれば頭を垂れたくなるほど神々しい。 けれど、夜これを見たのは初めてのことだった。 陽光ではなく月の光を受けて輝くステンドグラスは、黄金の色でのみ浮き彫りになる。虹という無数の色彩で描かれたとき、その絵は満月を目指すかつての使徒たちの絵になるが、本物の月が頭上に現れるときもう一枚の真実を露わにする。 ――神、だ。 使徒たちが目指すべき月が白銀に染まる。その中央には月に抱かれた獣が眠っていた。 それは正しく神の絵だった。 神座。神がおわす場所を目指す使徒たちと、彼らが決して追いつくことができない神がいる場所が描かれている。 『神の座』――それは黄金の月の向こうにある白銀の満月のこと。そこに、神はいるのだ。 その絵を見て、打ちのめされたような気がした。 死した神獣はこのステンドグラスに描かれる。それは使徒たちを讃えてのはず。なのに、これはまるで非難しているかのようだ。神の座に至れなかった愚か者たちめ、と。そう神に天罰を受けているかのような絵ではないか。 しかし……その衝撃が今はむしろ心地良かった。 風の匂いを感じる。土の匂いを感じる。水の匂いを感じる。 生きている。 そのことを、受けた衝撃から実感した。 現実味がないけれど、どうやら、自分は生きているらしい。 そういえば、前にもこんなことがあった。 前も死んだはずなのに生き延びた。どうやら今回もまたそうらしい。つくづく酔狂な身の上だとは思いつつも、込み上げる喜びを感じて、こんな奇跡なら大歓迎だと思う。 死を覚悟したし、ここで死ぬのなら本望だと思った。 大きく深呼吸して、今ここで生きていることに感謝する。 奇跡は起きた。なんて安いんだ、奇跡。と笑いながら、 ジュンタは知っている。この世で最も貴く、尊い紅色を。だから、それを失った世界にもう紅色は存在しない。 どうして気付けなかったのだろう? 知っていたはずなのに。サクラ・ジュンタは知っていたはずなのに。 自分には敵がいることを。ヤシューでも、ウェイトンでも、ベアル教でも『狂賢者』でもなく、自分にとって本当の敵はたった一人なのだと知っていたはずなのに……。 奇跡は代償をもってなされるのだと、そう弁えていたはずなのに……。 これが代償なのか。こんなにも大きなものが奇跡の代償だというのか。 けれども、奇跡は起きた。サクラ・ジュンタは世界に望まれて、リオン・シストラバスは世界に望まれていなかったから、奇跡は起きてしまった。リオンは――誰よりも何よりも愛した人は、自分の代わりにこの世からいなくなってしまった。 なんて――酷い。これが守りたかったのに守ろうとはせず、一緒いようとした罰なのか? 「成さなければならない。至らなければ終わらない。あなたは死なない。あなたは絶対に死なせない。全てに至れるのだから、最果てに至るまでは死ぬことを許されない。それが――救世主」 黄金の月光に佇む黄金の影。黄金の髪と瞳をもった、黄金の獣の姿。 愛らしく微笑み、何にでも一生懸命なかつての巫女そのままの姿で、けれどジュンタの知っている彼女ではない少女は嗤っていた。 「幸福な終わりには至れない。この死に行く世界を救うまでは。神の戯れを果たすまでは」 少女はジュンタに決定的なオラクルをもたらし、跪いて深く頭を垂れる。 「この肉この血この魂の一欠片まで、全てを主に捧げん。 その聖句は自分にこそふさわしいのだと謳って、救世主の従者たる『竜の花嫁』は黄金の瞳で聖約を求める。 「我が愛しき救世主様。終われないことを嘆くのならば、此処から全てを始めましょう。救世の意味をはき違えた神を殺し、世界と人を救いましょう。他の誰でもない、自分と――愛した人のために」 それが意味することは神殺し。サクラ・ジュンタにとって唯一無二の本当の『敵』たるマザーを殺し、世界を救う救世主の聖約。 そうしなければ幸福にはなれないと、そうすれば幸せになれると、巫女は誘う。 自分の幸福を思えば。 さぁ、全てが終わったそのあとの、許されてしまった旅の続きを始めよう。 新世界の始典に至るまでの――――救世の旅を。 同年・ウガストの月 聖地に第二十使徒降誕す ――その髪黒く、異国の面立ちをした少年なり。 背には虹の翼を纏い、ドラゴンを神獣とする使徒 号は『虹翼』 第二十使徒――『虹翼の使徒』サクラ・ジュンタと神は呼ぶ
見上げた先には、美しい一枚の絵があった。
天井全てを使って描かれたそれは、かつての使徒たちの絵。黄金の満月へ向かって駆け上っていく英霊たちの絵だ。
かつての使徒たちはそこへと向かおうとしているが、決して触れることができない。まるで、そこまで行ける試練をかいくぐることができなかったかというように。
確かに死んだはずなのに、どうしてか生きて『神座の円卓』に寝転がっているらしい。
思い残すことはあのときには思い出せなかったし、つまりあの最後はこの上なく幸せだということで間違いない。それは生き延びた今でも変わらないし、あれ以上の終わりがあるとも思えない。
なら、そんな終わりが決まり切っているなら、そのときまで、許された今残っている幸福を甘受するのみだ。終わりの瞬間には思い出せないようなことだけれど、それでもそれはきっと楽しいことなのだから。
「――リオン」
生き延びたサクラ・ジュンタは、隣を振り返った。
――――世界の中心に突き刺さった紅の剣。それは、愛しい人の墓標にも似て……。
世界から紅色が消えた。
風の匂いを、土の匂いを、水の匂いを感じるのに……炎の匂いは、感じない。
どうして思い出すことができなかったのだろう?
これでは奇跡の価値に代価が釣り合っていない。サクラ・ジュンタとリオン・シストラバスの命など比べようがなかったはずなのに!
「――そう、奇跡は代償なくしては起こりえません。だから世界は、代償なき奇跡を求めている」
純白の羽根が舞う。世界の中心に愛しい少女の形見として突き刺さった『不死鳥聖典』の傍に、その少女は虹の残滓と共に現れる。
救世の道を辿り、神託を賜る我こそ、唯一救世主の従者を許される者なり。
隷属こそ我が愛。我が愛は永劫にあなたの傍に」
「使徒サクラ・ジュンタ聖猊下が巫女――クーヴェルシェン・リアーシラミリィ=アーファリム・ラグナアーツ」
絆の糸は、今また此処に。
愛しい人の幸福を想えば。
サクラ・ジュンタの選択肢は決まり切っていた。
聖神歴995年・ジュリウスの月 『封印聖戦』終結
名はサクラ
その日一人の少女が英雄となって。
その日独りの少年が救世主になると誓った。
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