第一話  二年後

 


 ――拝啓、ジュンタ・サクラ様


 夏の暑さも和らぎ、木々の葉が色づき始めた今日この頃、いかがお過ごしでしょうか?

 私は元気です。

 夏の間崩しがちだった体調も良くなり、最近ではお父様の手伝いもできるようになりました。最低でも片腕として動けるようになりたいのですが、手伝えば手伝うほど、どれだけお父様の手腕が優れているか、それを思い知って挫けそうになります。

 けれど、お父様や多くの人たちのお陰でランカは平和そのものです。

 知っていますか? どこから情報を仕入れてきたのか、最近街にある劇場では、私とあなたが主役として描かれた歌劇が上演されているんですよ?

 最初はなんてことだと中止させようと思いましたが、お忍びで公演を見に行って考えが変わってしまいました。だって、全然違うんですもの。
 私たちは妖精が祝福する大樹の下で出会ってなんていませんし、最初から好きあってなんていませんでしたから……と書いたところで、あなたが一目惚れだと言ってくれたことを思い出して照れてしまいました。

 字、歪んでいませんか? 

 何度も下書きしてから慎重に清書したので大丈夫だとは思いますが、照れずにいられるのは無理でしたので、ちょっと心配です。なので、もしも歪んでると思っても、それは気のせいということにしておいてください。あるいはここを読んだあなたが照れているから、かも。

 コホン。

 そんな感じで、私は精力的に動いています。

 二年前を境に身体が弱くなってしまった私をあなたは心配しているかも知れませんが、心配いりません。大丈夫です。周りのみんなに支えられて元気にやっています。

 ……だからといって、会いに来なくてもいいということではありませんので、あしからず。

 ランカに用事があったときのみならず、近くへ来たとき、暇なとき、暇ではなくても足を伸ばしてください。私は確かに元気にやっていますが、あなたの顔を見られずとても寂しい思いをしています。

 否が応にも、来月からは毎日顔を見合わせることになりますが、そんなこと関係なく一日一日がとても長く感じられます。それが女の子というものなんです。あなたが今何をしているか気になって、気になって……正直お父様が心配していることよりも気になっています。

 だから、一日でも早くあなたが二十歳になる日を楽しみにしています。

 早く私を迎えに来てください。


 あなたの恋人、リオン・シストラバスより――


 

 


       ◇◆◇

 

 


「あれからもうすぐ二年か」

 窓の向こうに広がる青空を見ながらそう呟いたのは、安楽椅子に座った物憂げな顔の少年だった。

「過ぎてみれば早くて、長かったな。あの日のことは今も鮮やかに思い出せるのに、こうしてのんびりと空を見上げられるんだから、短いようで二年は長い。一昨年の今頃は怒りと憎しみで居ても立ってもいられなかったのに……」

 年齢は十七、八ほど。襟首を隠すくらいに伸びた髪は珍しい黒色で、肌の色や顔立ちもどことなく異国の雰囲気が漂っている。

 服装は白い法衣で、裾や襟元に金糸で細やかな刺繍が施され、幾重にも重ね着されていた。

 それ以外にも耳や胸元、靴といった細部に至るまで金や白金、大粒の宝石などの装飾品で飾られている。身につけているものを合計すれば、小国なら買えてしまうほどかも知れない。生まれながらに輝く芸術品ではないが、市井の人々が思い描くような『高貴な姿』を見事体現した少年である。

 そんな大国の王族もかくやという姿と雰囲気を醸し出す彼は、しかし少年少女ならば一度は夢想する立場にありながら憂鬱な表情で独り言を口にしていた。

「この二年で俺は何ができた? この二年で俺の何が変わった?」

 そう、それは独り言だ。誰に問うているのではなく自分に問うている。答えは欲しいが返答はいらない。

「それはもちろん。御身は救世主への階段を着実とあがっております」

 ……だというのに、少年の足に絡みつく妖精のような少女は当然の如く答えた。

「この二年。あの日誓われた想いを胸に、御身は前へと進まれています。そうして我々、御身の僕たる子は、導かれるままにその道を歩いていくのです」

 腕と太股で少年の足を抱きしめ、頬と胸とをすり寄せながら、情感のたっぷりこもった声で褒めそやす。興奮しているのか、額にうっすらと汗をかいていた。白い肌に張り付いた金色の髪や上気したうなじが男を惑わせる色香を放っている。そういった欲望をぶつけても受け入れてくれそうな、不思議な包容力を感じさせる少女だった。

「あなたの道があたしの道。あなたの足跡が人の足跡。ああ、どうか我々を導いてくださいませ」

「……ふんっ」

 しかし色香に惑わされず、少年は足を軽く振って少女の身体を振り払った。見下ろす金色の瞳は酷く冷たい。

「触るな。お前がそう呼ぶたびに、そうするたびに、俺のやる気が削がれることにいい加減気付け。アーファリム」

 アーファリムと呼ばれた少女は床に座り込んだまま、形の良い眉を悲しそうに曲げる。

「まだ、あたしをクーヴェルシェンと呼んではくださらないのですね……」

「…………」

「あたしはクーヴェルシェンです。あなたの巫女、クーヴェルシェン・リアーシラミリィです」

 その訴えに少年は顔を歪める。

「違う。お前は俺が知ってるクーじゃない」

「……それでもあたしは、こうして触れ合うことができるだけで嬉しい」

 立ち上がった少女は少年の膝の上に座ると、今度は正面から首に腕を絡めた。

 不快感に少年はより顔を歪めるが、押し飛ばすような真似はしない。できないのだ。それをわかっていて行為に踏み切ることが忌々しい。

 少女は自分のツンと横に伸びた長い耳を少年の唇に押し当てながら、ついばむように頬へ口づけた。

 そのあと、耳に舌を這わせながら、囁く。

「では始めましょう。時は来ました。この二年であなたは第七のオラクルを達成し、分岐点へと辿り着きました。
 ここから先は神をも知らぬ新たな神話。――あなたが描くのです、救世主様」

 

 


 世界中の聖神教徒の縁として存在する聖地ラグナアーツには現在、三柱の使徒がいる。

 一柱は『金糸の使徒』フェリシィール・ティンク。

 最古参の使徒で、恐らくは顔が一番市井に知れ渡っている使徒だろう。
 波打つ金色の髪が美しいエルフであり、実質的な聖神教の最高指導者。聖母と讃えられるほどの人徳を持つ、まさに人々の導き手としての使徒そのものといえる。

 一柱は『翡翠の使徒』ズィール・シレ。

 五十年あまりを生きた使徒であり、聖地の内外で積極的に活動している使徒だ。
 蛇のような鋭い眼光と巌のような意志を持った、聖神教の武力を掌握する武人。敵味方から畏怖される、まさに人々の守り手としての使徒そのものといえる。

 この二柱の使徒によって統治されていた世界に、最近になって新たに加わった使徒がいる。

 ――『虹翼の使徒』サクラ。

 亡き先代の使徒スイカ同様、生まれてから十年以上経ったのち使徒として降誕し、以後も表舞台に顔を出したことはほとんどなく、その姿や性格がほとんど知れ渡っていない『隠者』と呼ばれる類の使徒である。

 代わりに多くの人々が知っている使徒サクラに関することといえば、その偉業か。

 二年前に起きた『封印聖戦』において、かの使徒は異端の神を崇めるベアル教に勝利する、大きな働きをしたという。

 かの竜滅姫リオン・シストラバスと共に聖地に平和をもたらしたという逸話は、二人のラブロマンスと共に吟遊詩人に語られ、世界中の人々が知るところとなっている。謎めいた姿がより想像をかき立てられるのか、人々からの人気は高い。

 しかし、同時に怪しい噂が付きまとう使徒でもある。

 曰く、ベアル教の本当の黒幕は彼である。
 曰く、悪徳商人や悪事を重ねる司祭などを擁護している。
 曰く、使徒の道を踏み外した鬼畜外道であり、毎夜女子をさらっては手込めにしているなどなど。

 ほとんどの人はこの噂を聞いて使徒への敬意から顔を顰めたが、これは市井に素顔を晒さないため起きた必然だった。しかし、同じような立場に身を置いた使徒スイカですらここまでは言われていなかった。

 その原因はやはり、かの使徒の神獣としての姿が、これまで人間の敵として恐れられていた『終わりの魔獣ドラゴン』であることが最大の要因だろう。

 善性の象徴である使徒。悪性の象徴であるドラゴン。
 使徒の本質は神獣にあると言われているだけに、善悪両方の要素を秘めた存在として、一部に憶測を呼ぶのは仕方のないことだった。

 とはいえ、使徒を崇める人々にとっては些細な問題だ。

 金色の瞳を持っている――それだけで、『虹翼の使徒』サクラは偉大なる使徒以外の何者でもないのだから。

 

 


 ぴちゃぴちゃと耳を舐める水音が聞こえる。

 人々に崇められるところの使徒サクラ・ジュンタは、むず痒そうな顔で、アーファリムの肩を掴んで引き剥がした。

「いい加減耳を舐めるのは止めろ」

「はい、救世主様」

 とろんと目を潤ませたアーファリムは、唾液をなすりつけるように自分の唇を舐め、胸元のボタンを外し始める。

「待て。誰が服を脱げって言った?」

「ご自身で脱がせるのがお好みですか? ではご随意に」

 金で出来たボタンを二つ外したところで、アーファリムは慎ましい胸を押し出すように手を後ろで組んだ。

 自分の膝の上でかわいらしい少女が誘っている――となれば、男として取るべき道は決まっていたが、ジュンタはコツコツと苛立ったように膝掛けを指で叩いた。

「冗談は止めろ。そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ」

「それが救世主様のお望みとあれば。どうぞ、あたしに怒りをぶつけてください」

「……今日はいやに絡んでくるじゃないか、アーファリム」

 黒々としたものが胸の奥から浮かび上がってくるのを感じ、ジュンタは右手の人差し指と中指を揃えてアーファリムの胸を突いた。

 そこは心臓の上。大して脂肪もついていないため、このまま素手で突き破れないこともない。

「いいのか? ここで死ねば、お前の望む未来って奴を見ることは叶わなくなるぞ?」

「それがあたしたちの望む未来を作るのならば」

「そうかい」

 ほんのりと膨らんだ胸を押す。
 すぐに指先は肋骨にあたり、アーファリムは微かな痛みに小さく喉を鳴らすように呻いた。

 このまま何ら躊躇なく心臓を貫ければ、どれだけ楽か。

 二年の間、何度も思ったことを今日も思い、また思い直す。
 それはできない。できないのだ。いくらこのアーファリム・ラグナアーツという女が憎かろうとも。

 ここで死のうと後悔はない。そう口にする彼女の気持ちは本物でも、それが禁じられたジュンタからしてみれば、いいように弄ばれているとしか思えない。暗い気持ちは、胸の奥底に泥のように沈んでいく。かつて反転の呪いがこの胸を焦がしていたときと同じように、ジュンタの中にある獣の衝動が吼える。

 目の前にいるのは敵だ。
 愛しい人が死んだ一端を担った魔女だ。

 復讐の牙を剥けばいい。もう、自分が大切に思った巫女はいないのだ……。

「さあ、どうか御身の思いのままに。あたしはあなたの所有物です、救世主様」

 そんな気持ちを察したように、アーファリムは黄金の双眸で見つめながら両手でジュンタの頬を押さえた。

「偉大なる人。愛しい人。あなたの憎しみがあたしには心地良い。あなたの執着があたしには甘美に過ぎます。今あたしはきっと、そう、きっと――

 そして、唇へと自分の唇を近付けながら、ジュンタにとってその口から呼ばれることの許せない名前を口にした。

――リオン・シストラバスと同じくらい、あなたの心を奪っている」

 

 


『いやっほう! その程度でこのラッシャ・エダクールさんを捕まえようなど片腹痛いでぇ――――!!』

 

 


 唇が奪われるその前に、心臓が抉られるその前に、いきなり響いた奇声にジュンタとアーファリムは揃って椅子から滑り落ちそうになった。

 ジュンタの友人の、声である。

「はあ……まったく、ラッシャめ。なんてタイミングで割り込んで来るんだ」

「そういえば、今日はラッシャさんと遊びに行かれる約束をされていましたね」

 完璧に雰囲気を壊されたアーファリムは、素直に膝の上からどいた。

 また座られてはたまらないためジュンタも立ち上がる。その足下からは、ドタバタと雄叫びやら悲鳴やらが聞こえてきていた。

 二人がいるのは、『神居』――美しい庭園と四つの大きな塔を構えた使徒の居住区域にある、『南神居』という南側の塔の最上階にあるジュンタの私室だ。

 白が基調となったワンフロアぶち抜きの部屋で、半分が天蓋付きベッドやソファーなどが置かれた洋風、もう半分が畳や囲炉裏などを設えた和風の造りになっている。家具一つ、畳一つとっても最上級の素材が使われたもので、どれだけここに住む使徒がこの世界にとって重要かを知らしめている……のだが。



『ワイの逃げ足はまさに世界一! それに神居の中じゃ飛び道具は使えなうぉう!? なんか矢が飛んできた?! 思い切り魔法や矢が飛んできとるでぇ!? めっちゃ高そうなツボやら何やらぶっ壊しとるし、自分らそれでええんか!?』

『構いません! 所詮金貨にして百枚千枚程度の代物! 汚らわしい変態の血が飛び散っても掃除すればそれで済む話です!』

『ありえへん経済感覚?! つうか、そもそもなんで友達の家に遊びに来て、ワイはメイドさんに矢を射かけられへんといけないんや!?』



 破砕音。悲鳴。怒号。神聖なる神居とは思えない音が響いている。
 これにはアーファリム大神殿の起源にもなった少女が笑みを引きつらせていた。いい気味だ。いいぞ、ラッシャ。もっとやれ。

「……これでは、これ以上蜜月を過ごすことは無理ですね」

 悲鳴轟く中、とても残念そうな顔でアーファリムは外したボタンを留めた。

「救世主様。あたしはこれで失礼させていただきます。もしもお望みとあれば、いつでもお声をおかけくださいませ」

「ああ、ない。それはないから。安心しろ」

「……残念です」

 さらに残念そうな顔になって、アーファリムは背中を向ける。

「そうだ、アーファリム。一つ教えろ」

 そのまま部屋を出て行こうとした彼女の背に、ジュンタは声をかけた。

 酷く平坦な、冷たい声で。

「何かが始まろうとしているなら、そこには当然敵が現れるんだろ? ――俺は一体、どの敵を滅ぼしてやればいいんだ?」

「もちろん、我らが敵はただ一つ」

 アーファリムは扉の前で足を止めて振り返った。
 そこにも暗く、狂おしいほどの愛にまみれた微笑みがある。

――神です」

 

 


       ◇◆◇

 

 


「ジュンタ様、ご無事ですか?!」

 部屋の扉が思い切り開かれたのは、ちょうどジュンタが着替えのため、重い装飾品と衣服を脱ぎ終わったところだった。

「きゃっ!」

 つまりパンツ一枚なわけで、ノックもせずに入ってきた女性は悲鳴をあげて後ろを向く。

「す、すみません! お着替え中とは知らず!」

「いいさ別に。見られて困るものでもないし」

 鍛えてますから――そう呟いて、ジュンタは部屋にあった姿見に身体を映す。

 曇り一つない姿見には、引き締まった身体のなかなかの美少年が映り込んでいた。

 とはいえ、筋肉が鎧のようについているわけではない。腹筋だってくっきり割れているわけでもない。それくらいはなって当然の鍛錬を二年以上続けているのだが、使徒であるため、『覚醒』した日に身体の成長が止まって以来、筋肉なども付きにくくなっているようだ。

 顔も相変わらず、この世界では童顔に見られる十七歳の顔から変わっていなければ、髭も生えて来ない。身長も止まってしまった身からすればもう少し威厳が欲しいところだったがしょうがない。伸びたのは髪くらいのものだった。

「これでももうすぐ成人なんだけどなぁ……」

「? ジュンタ様が成人なされたのは、十八歳になられた二年前では?」

「個人的には二十歳で成人ってイメージなんだよ。……というかヨリ、なんで後ろ向いたままなんだ?」

「ジュンタ様がいつまでも下着姿のままだからです!」

 そう叫んだ女性――ヨリ・ヨルムは耳まで真っ赤になっていた。

「今更なのに……」

 二十三歳の女性にしては初な反応であるが、それも仕方ないのか。

 艶やかな灰色混じりの茶髪に、ぱっちりとした明るい紫色の瞳。優れたスタイルといい高貴な姫を思わせる佇まいといい、ヨリはどこからどう見ても引く手数多の美女だが、その立場は南神居の管理を一手に引き受ける侍従長。そのため、結婚どころかこれまで異性とお付き合いしたことさえないという、灰色の青春を過ごしてきた乙女だった。

「何だったら別に見てもいいぞ。最初とか、着替えを手伝おうとしてきたじゃないか」

「そ、それは、まだジュンタ様が……」

 ごにょごにょとヨリは言葉を濁し、

「とにかく服を着てください! 結婚前の女性に対し、それは紳士的ではありません!」

「ま、そうだな」

 ヨリが結婚前と言うのはなんか違和感があるだけで。

 使徒を最高指導者に仰ぐ聖神教は、シスターや司祭に婚姻を禁止していないが、彼女の場合話は別だ。結婚することは可能だが、それを理由に神居から出て行ったり、侍従長を辞めたりはできない。

 人よりも長い時間を生きる使徒を慰撫するため、一生を捧げるのが神居の侍従長という役職であり、解放されるには仕える使徒が死ぬ以外にない。

 しかしヨリは一度解放されたのにも拘わらず、自ら立候補して再び侍従長になった猛者だった。

「惜しいなぁ、実に惜しい。どうしてこう、俺の周りには女性としての幸せを平気で捨てる人が多いのか。いや、別に結婚だけが女の幸せってわけじゃないけども。世の中には百年以上もそれを夢見ながら叶わないって人もいるのに……」

「あの、ジュンタ様? 本日この時間は、フェリシィール様はご自身の神居の方でお休みになられていますが」

「俺は別にフェリシィールさんのことだって言ってないけど?」

「あっ」

 ヨリが失言に気付いて縮こまる。かわいい人だ。

 そんなかわいい人にいつまでも後ろを向かせておくわけにもいかないので、最後にジュンタは顔に三層くらい塗られた化粧を落としてから私服に袖を通す。

「ヨリ。もうこっち向いても大丈夫だぞ」

「はい。……ジュンタ様」

 振り返ったヨリはすぐに不満げに眉を顰めた。

「またそのような格好をされて。ご自身の立場をお自覚ください」

「そう言ってくれるな。楽なんだよ。それに、これも立派なロスクム風の装束って奴だよ」

 姿見に映っているのは、ロスクム風の武道着にフード付きのコートという旅装の少年だ。化粧を落としたため顔から華やかさがなくなっていたが、ジュンタとしてはこの方が楽だった。後ろになでつけていた前髪を適当にかき乱し、後ろ髪を首の後ろで纏め、黒いカラーコンタクトをつけて最後に黒縁の眼鏡をかければいつもの格好が完成だ。

「じゃあ、俺はちょっと街の方へ出て来る。昼飯は食べてくるから、夜飯だけ頼むな」

「お待ち下さい」

 しゅたっ、と手を挙げて横を通り抜けようとしたジュンタを、ヨリが両手を広げて通せんぼする。

「危うく誤魔化されるところでした。ジュンタ様。現在この南神居は賊に襲撃されていますので、お部屋からは出ないでください」

「賊って……」



『たくさんのメイドさんがあんなに目を血走らせて追いかけてくる……もしかして、もしかしてここがワイのハーレムなんやないかっ?』

『ちぃ、なんて逃げ足と気持ち悪い発言だ。おい、誰か隊長呼んでこい!』

『ダメっす! 隊長ぉは、酔いつぶれてまっす!』



 下の階からは今もラッシャの悲鳴と、彼を追う南神居の住人たちの声が響いている。

「……一応俺の友達なんだけどな、ラッシャ」

「いけませんジュンタ様! 彼は敵です! ジュンタ様を堕落させる悪の手先です!」

「いや、だけど招待したのも俺だぞ?」

「確かに、神居に入ることができる条件はただ一つ、使徒様がお認めになることです。これは侍従長であるわたくしが口を出す問題ではありません。いえ、そもそもわたくし如きがジュンタ様のご意志に逆らうなど許されないこと」

「もしもーし、ヨリさん?」

 人の話を華麗に無視して、ヨリは胸の前で手を組むと祈り始めた。

「しかし!」

 と思えば、いきなりジュンタの手を掴んでぐっと顔を寄せる。

「しかしです! わたくしは一度何もしなかったことで後悔したのです! であれば、たとえこの身が罪の意識で苛まれようとも、自分が間違っていると思ったことには口を出させていただきます!」

「つまり?」

「あのラッシャ・エダクールのいやらしさは異常です! これ以上仲良くされて、ジュンタ様が手遅れになられたらわたくしは…………耐えられません!」

 個人的にヨリが毛嫌いしているだけだった。とはいえ、潔癖性な彼女とラッシャの相性が最悪なのは、南神居にいる人間なら誰もが知っていることだ。ラッシャもヨリを始めとしたメイドさんに追いかけ回されることに悦びを見出しているようだし。手遅れにもほどがある。

 しかし、ラッシャとは今日遊ぶと約束してあるのだ。それを不義理にすることはできなかった。

(強情なヨリ相手で普通の説得は無理だから……よし、あの手で行こう)

「だから申し訳ありません、ジュンタ様。たとえあなた様に恨まれようとも、わたくしはここを通すわけにはいきません!」

「恨む? ふっ、まさか」

「ジュンタ様、な、なにを……!? 」

 ジュンタは手を握り返し、その際に驚いて離された以上ヨリに顔を近付けた。

「俺がヨリを恨むはずないだろ? こんなにも俺のことを考えてくれてるのに」

「あ……」

 さらに後退ろうとする彼女の腰を抱き寄せて逃げられないようにすれば、男に迫られ頬を染める乙女の出来上がりだ。

「いけません、ジュンタ様。こんな太陽も高い内からこのようなこと……」

「何がいけないんだ? ヨリはもう俺の侍従長だろ?」

 ヨリに一度両手を上げさせ、さらに身体をくっつけながら頭の後ろに回させる。まるでダンスのために密着しているかのように、ヨリは無防備に顔と身体をジュンタに預けるしかなかった。

「や、それは、その……」

 枢機卿の長女であるというヨリにもダンスの経験くらいあるだろうが、まるで初めて社交界に出てきた少女のように肩を震わせる。至近距離から顔を覗き込まれ、ヨリは覚悟を決めて目を閉じた。

「……優しく、お願いします」

「うん、優しくするとも」

 頼まれては仕方ないので、ジュンタは優しくヨリの腕と扉の取っ手を、ポケットから取り出したロープで繋いだ。

「…………え……?」

 手による拘束から解放されたところで、新しい拘束にヨリは目をパチクリさせる。

「初めてでこんなプレイだなんて……はっ!? ま、まさかジュンタ様、またわたくしの乙女心を弄びましたね?!」

「俺はムードを大事にする男だからな。ヨリの純情を奪うのはまた今度にさせてもらうよ。ではさらば!」

「ジュンタ様ぁあああああああああ――――ッ!!」

 扉ごと破壊する勢いで手に力をこめる侍従長を部屋に置いて、窓から外へと身体を投げ打つ。

 高い神居の塔からは、吸い込まれていくような青空と、その色が映り込んだ水の都を一望することができた。

 落下を始めれば、神居を中心に円を描く『礼拝殿』『騎士堂』で働く人たちの姿も見えた。そして天へと聳える南神居を振り返れば、どこの戦場だという感じで矢を射られている友人と目があった。

 ――先に店へ行ってるぞ。

 ――ワイも満足したら行くわ。

 目と目で語り合って、ジュンタは膝を曲げて衝撃を逃がしながら地面に着地した。

「さて、ヨリが追いかけてくる前に行くとしますかね」

 風をはらんで膨らんだコートを直し、礼拝殿へと足を向ける。

「ジュンタく〜ん」

 その際、後ろから声をかけられビクリと肩を震わせる羽目になった。

 後ろを振り返ってみれば、赤らんだ顔で手には酒瓶という、あからさまな酔っぱらいが南神居の入り口にもたれかかっていた。

 赤茶色の髪を三つ編みにして垂らした、左目の下の泣きぼくろが印象的な美女である。ジュンタと同じロスクム風の、胸元が大きく開き、腰までスリットの入った扇情的なドレスを着ている。生足も隠す聖地の住人としては、いさかか以上に目に毒な格好だ。

 ジュンタは丁重に胸の谷間を楽しんだあと、素知らぬ顔で話しかける。

「驚かさないでくださいよ、先生」

「気付けないなんて修行が足りないわねぇ。それよりも、あんまりヨリちゃんを虐めちゃダメよ。あの子真面目なんだから」

「そういう先生も、昼真からお酒は禁止されてなかったですっけ?」

「あたしを拘束したかったら、きちんと上から命令を通してくれないとね」

 剣の師であり、使徒サクラ・ジュンタ聖猊下近衛騎士隊の隊長を務めているトーユーズ・ラバスは、酒瓶に直接口をつけながらウインクを贈った。

 ところで、さっきまでジュンタは都合一時間かけた化粧までして謁見を求める客に応対していたわけだが、護衛筆頭は南神居内にある酒蔵で酔っぱらっていたというわけである。すごい。

「ああ、毎日浴びるだけお酒を飲んでいいなんて、ここは天国ね。『騎士百傑』から出向して来て良かったぁ」

「ヨリを泣かさないでくださいね?」

「ジュンタ君が慰めてくれれば平気よ。がんばりなさいな」

 ひらひらと手を振ってトーユーズは神居の中に戻ってしまった。何だかんだと言いつつ、見送りに来てくれたのだろうか?

 あるいは……なるほど、時間稼ぎか。

 トーユーズ相手では気を付けないと気配は察知できないが、彼女が顔を出せば嫌でもわかる。
 引き寄せられるように南神居を見上げれば、そこには最上階近くの窓から身を乗り出す少女がいた。

 頭には大きな白い帽子。黄金色の長い髪が風に揺れて、太陽の光にキラキラと輝いている。

 彼女が何を言いたいか、そんなものは考えるまでもなく明らかで。

「おいで」

 ジュンタは両手を広げて、少女の名前を呼んだ。


 

 

――クー」

 


 

「ご主人様!」

 嬉しそうに笑った、蒼い瞳の巫女は躊躇なく窓から飛び降りた。

 それを難なく受け止めて、ついでにジュンタは軽く二、三回転振り回したあと、


「それじゃあ一緒に出かけますかね、俺の巫女クーヴェルシェン・リアーシラミリィ?」

「はい。ご一緒させていただきます、私の使徒サクラ・ジュンタ様」


 お姫様抱っこしたまま、ドタバタ騒ぎに包まれている我が家を背に駆け出した。

 


 

 あれから二年――
 異世界から旅立ったサクラ・ジュンタは、此処にいる。










 戻る / 進む

inserted by FC2 system