第二話  新たなる日常


 

 二年前、『封印聖戦』と名付けられた戦いがあった。

 ベアル教という異端宗教と聖神教が、聖地の裏側にあった異空間――『封印の地』でぶつかり合ったため、そう呼ばれることになった聖戦だ。多くの犠牲を出した戦いの傷跡は、今も人々の心に残っている。

 今まさに聖地ラグナアーツは、終戦二年目と、その一週間後に降誕した使徒サクラを祝う『降誕祭』へ向けてのお祭り期間中にあった。静粛を是とする都は、今ばかりは誰もが浮かれている。

 そして、ラグナアーツ南部の大通りから少し外れた先にある比較的大きな店舗でも、二人の男が平和を満喫していた。

「いやぁ、しっかしヨリちゃんはなんていうか、過激な女性だと思わへん? 日に日にワイへの対応が恐ろしくなっとるし、下のメイドさんまで誘導してワイを襲わせとるし。ああいうのを、なんやったっけ? ツンデレ言うんやっけ?」

「馬鹿。何言ってるんだよ、ヨリはツンデレじゃないって。だってメイドさんだぞ? 俺は断固としてツンデレメイドは認めない!」

「ご、ご主人様のためじゃないんだからねっ、みたいな?」

「うむ。色々な意味でメイドさんへの冒涜だな」

「メイドさんといえば、自分また神居のメイドさん増やしてへん? 前遊びに行ったのが……二ヶ月くらい前やったっけ? あのとき見てへん顔が三人増えとった気がするんやけど」

「お、さすがはラッシャ。よく気が付いたな。そうなんだよ。いやぁ、今回はさらってくるのに苦労したのなんのって。いつもみたく悪徳商人や盗賊団じゃなくて、一国が相手だったからな。俺が使徒じゃなかったらやばかったぞ」

「ちゅうことは、新人さんは傾国の美女ってことかいな。是非ワイにも紹介して欲しいところやで。何ならワイの店で働かせてみいへん?」

「おいおい、何言ってるんだ。自分がどれだけうちのメイドさんたちに嫌われてるか理解してないのか? ラッシャがもし店で働かないかって誘ったら、貞操の危機だって全員が完全武装して命を狙ってくるぞ」

「やったら、ジュンタがその誤解解いてくれたらええやん。最近は向けられる殺意にも慣れて気持ちようなってきたけど、そろそろ本気で殺られそうな雰囲気やで。貞操の危機いうたら自分のところにいた方がよっぽど危険なのに、理不尽やないか」

「何のことやら。メイドさんに手を出すような、そんなダメ主人と一緒にしないでもらいたいね」

「周りを全員美女美少女で固めて、なおかつメイド好きという自分の趣味を強制しておきながらなにいうとんねん、このエセ紳士は。むしろエロ紳士は!」

「ラッシャ。俺は使徒である前に一人の男なんだよ。――かつて我らが盟友は言った。男には向かう先が地獄だとわかっていても挑戦せずにはいられないときがあると。男の子はいつだって冒険心で満ちあふれているのさ!」

「お、おおう? 開き直っとるだけなのに、同じ男として否定できない何かがここにはある……何やろ? この胸のわくわく感。もしかしてこれが――

「そう、冒険心だ。ラッシャ。この胸の冒険心に従って、二人で冒険に出かけようじゃないか!」

「おう、女体の神秘を知るっちゅうめくるめく大冒険やな! よっしゃ、行こうジュンタ!」


「行くな、このアホんだらぁああああ――ッ!」


「へぶっ!」

 厨房から飛んできた四角いお盆の角が、立ち上がったラッシャの頭を強襲した。

 痛そうの前に惨いと言いたくなるような音がして、ラッシャがその場に崩れ落ちる。頭を抱えて床の上をのたうち回る姿は哀れで、同時に滑稽だった。この箒みたいな髪が特徴のラッシャ・エダクール。とにかくこういう姿が似合ってしょうがない。

「割れる割れる頭が割れるぅ! さっきお尻に矢が突き刺さったときよりもまずいでこれは?!」

「まずいのはテメェの頭だクソ店長!」

「うぎゃあ!」

 口汚く罵りながら、厨房からやってきた女性店員が悶えるラッシャに追撃を仕掛けた。

「つうか働けよテメェ。見てわかんだろ? 店内満員なんだよ。大繁盛なんだよ。なんで忙しそうにアタイらが働いてる横で、店長であるテメェが堂々とサボり発言してるんですかぁ?」

「なに言うてんねん。ワイはここからみんなの仕事ぶりをチェックするっちゅう大事な役目うぎゃあ踵でグリグリしたららめぇ!」

「気色悪い声出してんじゃねえ。つうかテメェは窓の外見てただろ? かわいい子いないかウォッチングしてましたよ。こっちがテメェの仕事ぶりをチェックさせて頂いていたんですよ、この変態店長!」

 股間をハイヒールの踵でグリグリ踏みつけられ、ラッシャが声にならない悲鳴をあげる。

 ジュンタはティーカップを優雅に傾けながら、ラッシャの苦しみ悶える顔を見て、何ともサディスティックな笑みを浮かべているミニスカ店員に話しかけた。

「相変わらず、ノリエラちゃんは過激なサービスを売りにしてるよな」

「ノリエラちゃん言うな」

 シャギーがかかった褐色の髪の、そばかすが残る若い店員の名前はノリエラ・ノックスという。

 この店――外観こそ周囲との調和を考えて白い石造りだが、店内は聖地の建築様式とロスクム大陸の内装技術のコラボレーションで、他の店にはないエキゾチックな雰囲気を醸し出している『鬼の灯火亭』の創業時からの店員で、看板娘的な女の子だ。

「つうかオーナー。テメェも同罪だから優雅に紅茶なんてすすってんじゃねえよ。股間出せよ、踏んでやるから」

「俺、そういう趣味ないから。あと一応お客だからさ」

「わかってんよ。だから勘弁してやってんじゃねえか。オーナー権限で金も払わず他の客がドン引きするような会話繰り広げてたら、この馬鹿店長と同じく踏み踏みの刑だぜ」

「その店長だけど、さっきから根性出してスカートの中覗き込もうとしてるけど?」

「え?」

 人を食い殺そうな表情から、年相応のあどけない表情になってノリエラは足下を見る。

「もうちょい。もうちょいなんや。くぅ、しっかし見えそうで見えへん絶対領域は、なんでこんなにも男心をくすぐるものなんやろね?」

「きゃあ!」

 そこで床に這い蹲ってスカートを覗き込んでいるラッシャを見て、かわいらしい悲鳴をあげた。
おおー、と店内にいた他の客からどよめきが生まれる。

「ノリエラちゃんがあんなかわいい悲鳴をあげるなんて」「ああ、新しい発見だ」「俺、いつもの女王様なノリエラ様に踏まれたい派なんだけど……」「ラッシャ羨ましいぜ」「ていうか、すげぇよ店長」「このお店の女の子はみんなスカート短くて思わず覗き込みたくなるが」「ああ、あそこまで大胆に覗き込めるのは奴しかいない!」

「うるせぇ、この豚野郎ども! 脂肪揺らすな!」

 うぉおおおおお、と歓声をあげながらウェーブを起こす客たちにノリエラが怒鳴る。
 言動から誤解されやすいが、ノリエラは年相応の羞恥心を持つ少女だったりする。ラッシャは見たままただの変態だ。

「死ね! この変態店長死ね死ね死ねぇ!」

「ちょ、それは洒落に……潰れる! 潰れてまうでぇ!」

 短いスカートを下に引っ張りながら、顔を赤くしたノリエラはラッシャに向かって何度も踵を踏み下ろす。

「そうだ、ラッシャ。いわばツンデレというのはノリエラちゃんみたいな子のことを言うんだよ。デレないけど」

「そんな報告いらへんから助け……あ、あ、あぁあああああああ――――ッ?!」

 ラッシャが絶望の雄叫びと共に床に沈んだ。お盆攻撃といい鋭い蹴りといい、一撃で昏倒するはずの攻撃を数十発受けないと気絶しないとは、さすがはラッシャ。ミニスカ喫茶を異世界で初めてオープンした男の名は伊達ではない。

 もっとも、同じくらいオープンに尽力したのはジュンタその人であるが。

「まったく、油断も隙もありゃしねぇ」

 ノリエラはラッシャが完全に沈んだあと、念入りにさらに十発くらい蹴りをお見舞いし、ようやく上からどいた。

「オーナー。テメェもその紅茶飲んだらさっさと出てけ。もしくは店を手伝え、店を。アタイはこんな気持ち悪い男どもが集まる店よりも、オーナーが作るお菓子に群がる女臭ぇ店の方がマシなんだからな」

「需要と供給のバランスから言うと、ミニスカもお菓子も欠乏してるって意味では同じくらいだからなぁ」

 ジュンタも甘いものは大好きなので、ノリエラの言に同意する部分はある。

 ただ、このお店のコンセプトはあくまでも『スカートの短いかわいい女の子が給仕してくれるお店』という聖神教の文化に真っ向から喧嘩を売るようなものであり、開店当初の客集めのために振る舞った甘味はあくまでも付加価値に過ぎないのだ。

「それが無理なら、せめてアタイにレシピを教えやがれ。そうしたら、アタイが店を乗っ取ってまともにしてやんよ」

 働きだした理由が、甘味を食べて感激したからという見習いパティシエールのノリエラとしては、流行ってきた最近の経営状況に文句があるのだろう。あとから働きたいと希望してきた女の子と違って、制服を恥ずかしがる彼女が主に働いているのは厨房の中だった。

「まあ、その可能性もなくはないから、これからもがんばって働いてくれ。ノリエラちゃん」

「ちっ、テメェにいいように扱き使われてる気がしてならねぇけどな。がんばって手伝ってくれてるクーの奴に免じて許してやらぁ」

「ごはぁ!」

 最後にもう一発ラッシャの脇腹を蹴り上げると、鼻を鳴らしてノリエラは厨房へ戻っていった。

 そうなると、お客の視線は一人の少女に集まる。

「はい、ご注文の品は以上になりますね。ありがとうございました」

 他の店員同様、お店の制服を着たクーだ。

 膝上のスカートから黒タイツに包まれた足を出し、ほんわかした笑顔を振りまいて注目を集めている。十六歳ながら見た目は幼いため、ややコンセプトから外れている気がするも、その容姿は頭一つ飛び抜けている。

「……しかし」

 ジュンタは手伝いに忙しそうなクーを見て、店員によって店の隅に運ばれていくラッシャを見て、最後に空になったカップを見て、

「あれ? これってもしかして冒険に出かけるチャンスじゃないか?」






 そんなわけでやってきました大通り。
 道の端を陣取ると、ジュンタはコートのポケットに手を突っ込んで道行く人々を観察する。

「クーのことだ。そう長い時間、俺がトイレからいなくなってることに気付かないはずがない。数撃ちゃ当たる戦法はダメだ。一発必中。そうだ。絶対に当てないといけない」

 黒いカラーコンタクトレンズで隠された金色の瞳は、まさに狩人。かつての友人のごとき必中の呪いを瞳に込めて、観察に徹する。

 向こうの方でさっきから一人でいる十代後半の少女は……ダメだ。あれは誰か人を、しかも化粧の気合いの入れ具合を見れば十中八九恋人を待っている。向こうのお店の店員さんは……ちぃ、結婚してるじゃないか。未亡人ならともなく旦那がいる相手だと、下手すれば修羅場に発展しかねない。あれは……身体よりも精神がきついっす。

「できれば、ラグナアーツにやってきたばかりで迷子になってる、かわいい女の子とかがいいんだけど」

 さらにいえば胸が大きかったり、眼鏡をかけた理知的な美女で、実はメイドさんだったりするとなおよろしい。

「お祭りだからいそうなもんなんだけどな」

 そこまで高望みするのは無理でも、ラグナアーツは聖地の中央であり、毎日何百何千という人が出入りする場所。そんな場所でナンパなんてしているんじゃないというツッコミはあるが、チャンスは必ず転がっているはず。

 ジュンタは諦めない。最近は『封印聖戦』の終戦記念パーティーやら降誕祭関連で色々忙しく、さらにはヨリやクーの監視もあって、まあ、男としてはゴニョゴニョ。今日のアーファリムからの積極的なアプローチはその辺りを読みとったものに違いないわけで、毒牙にかからないためにもこれは必要なことなのだ、うん。

「お、何か迷子っぽい子発見」

 自分にいい訳しつつウォッチングを五分くらい続けていると、ジュンタの視界内にいかにもという迷子が現れた。

 どれだけの迷子具合かといえば、誰かを捜すようにキョロキョロと周りを見回し、半泣きでスカートを握りしめている。さらにいえば親とはぐれただろう年齢――つまるところ子供だった。

「うぅ……」

 癖のある白銀の髪を揺らしながら、寂しそうに唸りつつジュンタの目の前を通り過ぎていく。
 放っておいても、この聖地ラグナアーツなら親切な人はごまんといるし問題ないのだが、いくら相手が対象外でも無視するのは紳士の名が廃る。

「もう十分立派なレディだ。行きますか」

 それに、その特徴的な髪色に十歳ほどの容姿だと、とある相手を思い出して気になったのもあったので、ジュンタは声をかけることにした。

「そこのかわいらしいお嬢さん。よければ俺とお茶しませんか?」

「なぬ?」

 当然の礼儀として身嗜みを整えてから声をかけると、ぐすりと鼻水をすすりながら少女は振り返った。くりくりした赤いドングリ眼が、じぃっと下から見上げてくる。

「お茶か? お茶とはあれよな? 美味しい紅茶とお菓子がついている、あのお茶のことじゃな?」

「そのお茶だよ。もちろん俺の奢りで」

 ジュンタは変わった言葉遣いをする少女だと思いつつ、首を縦に振った。

「今なら美味しいケーキをつけちゃうけど、どう?」

「行こうぞ!」

 即決だった。

「……誘っておいてなんだが、こうも簡単に釣られるのは、いささか警戒心に欠けるのではなかろうか?」

「何を言っておる? 妾は空腹じゃ。さっさと案内せい」

「まあいいか。了解です、お嬢様。お手をどうぞ」

「うむ。くるしゅうない」

 気取った風に左手を胸に当て、右手を差し出せば、少女はそれが当然とばかりに頷いて手を取った。

「ん?」

 その際、ジュンタは少女の人とは少し変わった部分に気が付いた。

 耳だ。髪の合間に見えた彼女の耳は、普通よりも尖っていた。尖っているといってもクーのようなエルフほど長くはない。普通の人と耳の大きさはそのままに、先が少しだけ尖った形をしている。

「なんじゃ? レディの顔をじっと見よって。失礼であろう?」

「あ、ごめん」

 耳を見られたことに気付いた少女はかわいらしく頬を膨らませ、髪で耳を隠した。

 普通とは違う耳の形がコンプレックスなのかも知れない。だとすると悪いことをした。やはりここは美味しいお菓子でご機嫌を取るしかないだろう。向かうべきはその辺りのお店ではなく、美味しいお菓子を出せる店でないといけない。

「やれやれ。お持ち帰りしたのがこれじゃあな」

 ジュンタは今日の冒険が終わったことを察し、むくれるレディをエスコートすることに務めた。

 もちろん、そんなことをしている男が使徒であると気付いた人間は、誰もいなかった。






「あ、ご主人様。お帰りなさいませ」

 ジュンタが少女を連れて『鬼の灯火亭』に戻ると、入り口で制服姿のままキョロキョロと周りを見回していたクーが出迎えてくれた。

「悪い。心配かけたか?」

「いえ、お気になさらず。ご主人様が私を置いて行ったりしないこと、私は知っていますから」

「うっ」

 悪意ゼロの笑みで信頼を寄せられたジュンタは胸を押さえる。罪悪感で胸が痛い。

「こらっ、何を立ち止まっておるか。目の前に美味しい匂いをさせておる店があるのというのにこんな場所で待たせるとは、なんと酷いジェントルマンなのじゃ」

「ああ、悪い。それじゃあ中に入ろうか……って、クー? どうかしたか?」

 ジュンタが少女に引っ張られていると、クーは笑顔を消し、わなわなと震えた。

 一体どうしたんだと、ジュンタと少女は顔を見合わせる。

「……ご」

 そんな仕草をどう受け取ったのか。クーは二人の繋がれた手を見て、涙ぐんで叫んだ。


「ご主人様がついに犯罪に走ってしまわれましたぁ――――!」


 直後、『鬼の灯火亭』の中から飛んできた三角形のお盆の角が、目にも止まらぬ速度でジュンタのこめかみに突き刺さった。


 



       ◇◆◇






「そうか。オーナー、テメェついにそっち方向にまで守備範囲を広げちまったんだな」

「昔に比べて色々とノリが良くなったとは思っとったけど、まさかここまでとは……このラッシャ・エダクール、ジュンタという親友を誇りに思うで!」

「ああ、これは自分の容姿がご主人様の守備範囲に入ったことを喜ぶべきか、世間的なものを考えて嘆くべきか、どちらなのでしょう?」

「うん、とりあえずお前ら全員落ち着いて、まず俺を床に下ろすことから始めような」

 気が付いたとき、身体を縄でグルグル巻きにされ天井から吊されていたジュンタは、尋常ではなく痛む頭に顔を顰めながら、自分を見つめる軽蔑、賞賛、動揺の眼差しを見返した。

「というか、ノリエラちゃん。さっきの一撃は本気で洒落にならなかったぞ。俺じゃなかったら死んでたかも」

「だから投げたんだよ。全力で投げたんだよ。世界中の女性の代表として変態に物申したんだよ、このロリコン野郎」

 あからさまに軽蔑の眼差しを向けてくるのはノリエラその人だ。
 さっき――気絶していたのは恐らく十分くらい――のお盆投擲は彼女のもので間違いない。もはや十分凶器の領域である。

「テメェ、店から出てけとは言ったけど、クーを置いてくなんて馬鹿か? しかもナンパしてこんな小さい女の子を連れて来るって狂ってるんじゃねえか? 人間として大切なもの、どっか落っことしちまったんじゃねえのかぁ?」

「そんなこと言って、実は俺が他の女の子にちょっかいをかけてたことが嫌なだけの癖に」

「ばっ、ばば馬鹿! 何言ってるんだよ?! んなわけねぇだろ死ね!!」

「ノリエラさん、ご主人様にそんなこと言ってはダメです!」

 顔を赤くして、どこからともなく星形のお盆を取り出すノリエラを、クーが止める。

「止めんな、クー! コイツはテメェの信頼を裏切ったんだぞ!」

「そんなことありません! ご主人様はそんな人ではないです!」

「クー。やっぱりお前だけは信じて……」

 クーは拳をぎゅっと握ると、

「確かに、以前に比べてご主人様は女の人にだらしなくなってしまいました。この二年間、修行と言ってあちこちを旅しては、帰ってくるときはいつも女の人を連れていましたし、目を離せば甘いものを食べているか女の人に声をかけているかです。世間的にはそれをダメ人間というのかも知れませんが、それでも私だけは信じていますから!」

「そこのどこに信じられる要素があるんだよ!」

「うぐっ」

 すごい勢いで信頼という名の鋭い刃で胸を抉られ、ジュンタは呻いた。言い逃れできないけど、まさかクーがそんな風に思っていたなんて。まったく言い逃れはできないけど。

「とにかく、たとえ私はご主人様がそちらの趣味に走っても全力で受け入れて見せます! むしろ私の独壇場です! 全然成長してくれませんから…………しゅん」

「涙ぐむなよ。自分で言って落ち込むなよ! ああもう、面倒くせぇ! これも全部オーナーの所為だかんな!」

「まあまあ、ノリエラちゃんもクー嬢ちゃんも落ち着きぃや」

 女の子二人を取りなすのはラッシャだ。この件に限っては、ジュンタの最大の理解者と言ってもいい。共にミニスカ喫茶を成功させようと盃を交わし合った夜は今も瞼の裏に焼き付いている。

「そうだ。ラッシャの言うとおり、これは二人の早とちりで――

「むしろワイ的にジュンタは昔からそういう趣味だったげぶらほっ!」

「よし、お前はもう一生床に這い蹲ってろ」

 縄を引きちぎって、ジュンタはラッシャの上に着地を決める。ちょうど頸椎に深刻なダメージを与えてしまったのは、単純な着地ミスという奴だ。

「誤解するな。こちとら巨乳主義者だぞ。俺が連れてきたそっちの子はナンパしてきたわけじゃない……わけでもないけど、事情があるんだ。その子迷子だったんだよ」

「迷子ねぇ。攫ってきたの間違いじゃねえのか? あと唐突なカミングアウトやめろ」

「なるほど、そうだったんですか。すみません、誤解をしてしまって。あと胸小さくてごめんなさい」

 怪しむノリエラに謝るクーと、見事に正反対の反応だった。

「はぐっ、はむ! もぐもぐ……ごっくん!」

 同じなのは、この状況下で無心にケーキを食べている少女を見る、軽く尊敬するような、呆れたような視線だけだ。

 ジュンタが目を覚ます前からケーキを食べていた少女は、もうすぐワンホールを食べきってしまうという有様だった。一体どれだけの時間迷子だったのか、よほどお腹が減っていたらしい。もっとも、ジュンタなら平時この三倍は余裕だが。

「ぷはぁ、なんと美味なケーキじゃ! これは城で食べておったものと比べても、相当な代物じゃぞ!」

「お嬢様、ご満足いただけましたか?」

「うむ、妾は満足じゃ!」

 少女が食べきったところで、ジュンタはノリエラの『テメェ、さっさと事情訊いてこいや』という視線に脅される形で話しかけた。

「それでちょっと聞きたいんだけど、君の名前を聞いても大丈夫か?」

「妾の名か? うむ。親切にしてくれた礼じゃ。名乗ってやろうぞ」

 ぴょんと椅子から飛び降りると、少女は長いスカートをついと持ち上げて、行儀良く頭を下げる。

「我が名はプラチナ・ウリクス・タダト。ジェンルド帝国が『魔法研究所アカデミー』のお姫様であるぞ!」

「ジェンルド帝国の――

――アカデミー、ですか?」

 このエンシェルト大陸の北部を占める軍事国家の出身で、さらには悪名高いアカデミーの名前まで出されて、ジュンタとクーは共に目を僅かに細めた。

「左様。妾は『教授』の……と、これは言ってはいけなかったことだったかの?」

 プラチナと名乗った少女はそんな態度には気付かず、失言に気付いて口を手で塞いだ。

「すまぬ。名前以外は忘れてたもれ」

「よくわかんねぇから、アタイは別にいいけどさ。変なガキだな」

 アカデミーのことを知らないノリエラが普通に対応する横で、ジュンタはクーに目配せし、耳元で囁き合う。

「気にするな。ジェンルド帝国は他国への渡航を原則禁じてるが、聖地は多くの国が貿易を禁止してる中、例外的に取引してる組織だ。降誕祭のこともあって、ジェンルド帝国から旅行客、あるいは巡礼客がやって来ることは決してないわけじゃない」

「はい、ご主人様」

 問題は、ジェンルド帝国の魔法研究の要であるアカデミーの人間であることだが、この年齢ではアカデミー研究員の子供なだけと読み解くべきか。どちらにしろ、変に警戒しなければいけない相手ではないだろう。

「で、じゃ。妾は名乗ったのじゃから、其方の方も名乗るのが礼儀であろう?」

 内緒話には気付かなかったのか、プラチナは自己紹介を要求してきた。

「アタイはノリエラだ。ノリエラ・ノックス。この店で働いてるパティシエール見習いだよ」

「俺はジュンタ。この『鬼の灯火亭』のオーナーだ。ちなみに横で伸びてる変態がラッシャ。店長だな」

「私はクーと言います。ご主人様の従者をさせていただいております」

「ノリエラにジュンタにクーか。ふむ、ジュンタ、のぅ……」

「何か気になる点でもあったか?」

「なに、珍しい名前と思うてな」

 顎に手を当てて目を細めるプラチナに、ジュンタは少し困った顔をした。

 使徒であることを極力隠すことにしているジュンタは、主に下の名前だけで通している。そのため、サクラ、という名字の方が使徒サクラの名として通りが良い。

 無論、フルネームがジュンタ・サクラであることはそれなりに情報を集められる人なら知ることができるので、外国のご令嬢だろうプラチナが気付いても何ら不思議ではないのだが。

「なるほどなるほど。ここでの出会いは、なかなかに乙な神の悪戯というべきか」

 プラチナはぴょこぴょこ癖毛を揺らしながらジュンタに近付く。

「言われてみれば、妾とよく似た匂いがするのじゃ。甘い菓子の匂いに気を取られておったわ」

「えっと、プラチナちゃん。もしかして気付いてたりする?」

「はて、何のことやら? 妾にはとんとわからぬな」

 くんくんと顔を近付けて匂いを嗅いでいたプラチナは、ニヤリと八重歯をのぞかせて笑った。

「道に迷って途方にくれておった妾を慰めようとしてくれた礼じゃ。今ここでは何も言うまい。たとえ物事は複雑であり、お互いに立場があるとしても、今ここで友誼を結んではいけない理由にはなるまいて」

「……だな」

 これは確実に気付かれているなと思いつつ、プラチナの心遣いに感謝する。今ここにいるメンバーの中では、ノリエラだけジュンタが使徒であることを知らない。店の客は言うまでもない。

 プラチナは何度か頷いたあと、回転するようにステップを踏みながら身体を離し、その足で店の出口へと向かった。

「さて、お腹もいっぱいになったことじゃし、迎えも来たようじゃ。名残惜しいが、妾はこの辺りでお暇するとしようかの」

「迎え?」

「うむ。妾にはわかる。苦労性の執事が近くまでやってきておるわ」

 止める間もなく、プラチナは踊るように店を出て行ってしまう。

「さらばじゃ! ケーキ美味じゃったぞ。これからも精進するとよい。そしてジュンタよ! 次に会うときを楽しみにしておくぞ!」

「あ、おい!」

 慌てて追いかけて店を出るジュンタ。

 プラチナは人混みの中をすいすい進んでいき、通りの向こうにいた二人組へと近付こうとしていた。この場所からは遠すぎて、手前に立つ男の顔しかわからない。

「あいつ……!」

 ただ、ジュンタはその顔に見覚えがあった。

 男の方もまた、ジュンタに気付くとプラチナの手を掴んで慌てて走り去っていく。

「ご主人様、どうかされましたか?」

 店から出てきたクーが心配そうな表情でジュンタの顔色をうかがう。

「いや、大丈夫だ。風みたいな女の子だな、って。見失っちゃったよ」

 安心させるようにそう言って、クーの背中を押してジュンタは店に戻る。

 その前に、今見た男の顔をもう一度だけ頭の中で反芻した。
 間違いない。今のは二年前の『封印聖戦』の折、手合わせした敵の顔だった。あの戦いの中のことは、小さな出来事まで憶えている。

「……ウィンフィールド・エンプリル」






 プラチナの手を引いて走り、人混みを目隠しにして路地裏に逃げ込んだウィンフィールドは、額に滲んだ汗を拭った。

 茶色の髪をざっくりと後ろに撫でつけた、二十代前半ほどの青年だ。どことなく気怠げな雰囲気を纏っており、若々しさといったものがまったくないためか、やけに黒い燕尾服が似合っていた。

「はあ……寿命が縮まったぜ」

「それはこちらの台詞じゃ。いきなりレディの手を引っ張りおって。同じ執事を気取るにしても、ジュンタの方がよほど気が利いておったわ」

 路地裏に引っ張り込まれたプラチナは、わかりやすく頬を膨らませている。

「おいおいおい。迷子になったかと思えば、一番顔合わせたらまずい相手と一緒に現れるなんてことしでかしておいて、その言い草はないだろ?」

 この祖国の大事なお嬢様と一緒にラグナアーツまでやってきたウィンフィールドは、格好の通り、言ってしまえば彼女の執事役だ。

 しかし、隠れ潜まなければならない立場にありながら都を案内させられ、目を離した隙に迷子になられ、ようやく見つけたかと思えば『敵』と一緒にいるという精根尽き果てる事態に遭遇したわけで、これはもう文句の一つや二つは言ってやらないと気が済まなかった。

「この我が儘姫。完全に目が合ったぞ。向こうがオレのこと覚えてるかどうか知らないが、下手したら計画に気付かれる。嫌だぜ、オレは。宰相閣下と皇帝陛下に精神と肉体の両方で嬲られるのは」

「案ずるな。ばれようがばれまいが、妾が万事抜かりなく成功させてやるでな。それに、あの二人がこのように些細な問題を気に留めるはずなかろう?」

「それもそうだろうけどな」

 ウィンフィールドは自分の上司である二人の顔を思い出し、苦笑する。

 そのとき、くいくいと上着の袖を小さな力で引っ張られた。

「どうかしたか?」

「…………」

 引っ張っているのは、プラチナと違って自主的についてきてくれた小柄な少女だ。目深にフードを被っており顔は見えない。

「へ? ああ、大丈夫だ。プラチナの言うことじゃあないが、これで計画そのものがどうこうなるようなことはない。心配する必要はないだろ」

 少女はポソポソとしゃべると、口を噤んで黙りこくった。

 ウィンフィールドには彼女が安心したのだということがよくわかった。
 それが気にならないかと言えば嘘になるが、今どうこうできる問題でもないので、物憂げな表情で路地から見える街並を眺める。

 すでに迷子になったことなど忘れたのか、今にも突貫していきそうなプラチナの目が輝いているように、聖地ラグナアーツはお祭りムードだ。かつてこの街で、人生でもっとも密度の濃い時間を過ごしたウィンフィールドにとって、この光景は懐かしくもあり悲しくもあった。

「オレたちは、これを壊さないといけないのか……」

「阿呆。興が醒めるようなことを言うでない」

 尖った耳をピクピク動かして、プラチナは空気の読めない男を睨む。

 一方で、フードを被った少女だけは淡々と、まるで蟻の行列でも観察するかのような眼差しで祭りに浮かれる人々を見て、

――全ては我らがジェンルド帝国のために、です」






       ◇◆◇






 ジュンタが『鬼の灯火亭』から撤収したのは、陽ももうすぐ暮れようかという刻限だった。

 結局、ノリエラに文句を言われつつもひたすらラッシャと店でだべりまくったジュンタは、満足な顔で家路を急ぐ。

「最近は随分と涼しくなってきましたね」

「そうだな」

 その斜め後ろを歩いているのはクーだ。

 ジュンタと違って一生懸命忙しい店のために働いたクーは、浴室を借りて汗を流したあと、まだ乾ききっていない髪を首の後ろで二つにくくって流している。どこかいい匂いが漂ってくる気がするのは、果たして気のせいか。

「ご、ご主人様?」

 気になったので、手を伸ばして一房クーの髪を取って顔を近付けてみた。石けんの匂いというより、甘い砂糖菓子のような香りがした。

「ずっと働いてたから、お店で出してたバターケーキの匂いがついちゃったのかもな」

「あの、その……」

 クーはわたわたと胸の前で手を動かす。頬は夕焼けよりも赤くなっており、心なしか髪も火照っているような。

「もしかして、こういうの恥ずかしい?」

「いえ! ど、どうぞ、私の髪などでよろしければ、いくらでも嗅いでください!」

「おっと、それだとなんか俺が匂いフェチみたいだな」

 というか、この状態は誰がどう見ても匂いフェチ野郎で髪フェチ野郎である。

 恥ずかしがるクーにジュンタも照れくさくなって、かといってすぐ離すと彼女が悲しみそうなので、一本一本滑り落とすようにゆっくりと手を離した。

「そういえば、クーって会ったときからずっとこの髪型だよな」

「え? あ、はい。旅をしたり戦ったりしていると、やはり纏めておいた方が楽ですから。もしかして、ご主人様的にはあまりよろしくないですか?」

「いや、良く似合ってると思うぞ。ただ他の髪型でもクーなら似合いそうなものだけどな」

「たとえば、どのような髪型がいいでしょうか?」

「そうだなぁ」

 触った際の手触りを、人差し指と親指を擦り合わせながら思い出しつつ、ジュンタはちょっと考えてみる。

「王道なところでストレート、ポニーテール、あとクーならツインテールとかも似合うかもな」

 幼い感じで。

「ツインテールですか? ちょっと縛るところを上にするだけでできますが……」

 そう言うと、クーはリボンを解いて縛った髪を下ろした。

 出会ったときから変わらない幼い顔が、髪を下ろしただけでどことなく大人っぽくなる。ストレートに下ろした髪は、神居で一緒に暮らしているため眠る前などに見ることがあるが、やはり髪型一つで印象はかなり変わるものだ。

 今のクーはどちらかというと、あのアーファリムの印象に近かった。

「その、どうでしょうか? 似合いますか?」

 内心に黒いものが湧き上がってきたのは一瞬のこと。クーがいつもより高い位置で髪を結んだことで簡単に消えてしまうようなもので、ジュンタはすぐに穏やかな顔になった。

「とてもよく似合ってる。やっぱり、そういうまとめた髪型の方がクーらしいって感じがするな」

「ありがとうございますっ」

 些細な褒め言葉がそんなにも嬉しかったのか、クーは結んだ髪を揺らしながら弾むように歩き出す。いつもはジュンタの斜め後ろを、控えると表すのが正しい感じでついて行くクーだが、居ても立ってもいられないらしい。

 ……本当に、かわいらしい子だと思う。

 この世界へ覚悟を決めてやってきて、一番に出会った少女。
 使徒であるジュンタの巫女であり、守ってあげたい女の子。
 今も隣にずっといて、支えてくれる大切な人。

 だけど……

 ピタリ。と、長く伸びていた人影がジュンタの目の前で止まる。

「クー?」


――そういえば、伝え忘れていたことがありました」


 そして、クーヴェルシェン・リアーシラミリィであり、クーではない彼女が振り返った。

 青空のように色づいていた瞳は、今はどこか無機質な黄金の色に輝いている。
 使徒の証であり神に愛されている証。その瞳の色をしているとき、クーはクーではなく古の使徒となる。

 名を、クーヴェルシェン・リアーシラミリィ=アーファリム・ラグナアーツ――『始祖姫』の一柱であり、千年を超えて現在に生き長らえる、狂った天馬の使徒である。

「神は、確かにあなたを救世主だと認めています。しかし、それでも他の使徒にも救世主たる可能性があるのも事実」

 そう、全てが変わったのは『封印聖戦』が終結した日。あの日、クーは消えて、代わりにアーファリムが現れた。

「よって、敵とは即ち迫り来る脅威そのもの。あなたの求道を阻むもの全て」

 アーファリムは語った。全ては神のシナリオ通りであると。サクラ・ジュンタは神の手のひらの上で踊っているに過ぎないと。この悲劇は、最初から仕組まれたものだったと。

 だからジュンタは、全てが神のシナリオと知りつつも、それを利用する形で暗躍していたアーファリムと手を組んだ。今度は自分が利用するために。

「自らが欲するままに。どうか、全ての破滅に鉄槌を」

 そうやって、アーファリムを受け入れたことが良かったのか。
 あの日、永遠に失ってしまうはずだったものの一つをジュンタは失わずに済んだ。

「それでは。……あ、あれ?」

 言いたいことを一方的に告げたアーファリムは黙し、その瞳が金色から再び蒼色に変わる。

 アーファリムからクーに。

「今、私は何かをしていた気がするんですが……」

 瞳の色と共に戻ったクーは額を抑えると軽く頭を振って、恥ずかしそうにジュンタを見た。

「すみません。ご主人様に褒めてもらったことが嬉しくて、ぼーっとしてしまいました」

「いや、気にするな」

 クーは自分の身体がアーファリムに乗っ取られていた間のことを覚えていない。
 また『封印聖戦』の最後の戦いも忘れている。共に『アーファリムの封印の地』へ行ってから、『封印の地』そのものが消失するまでの全てを忘れてしまっている。

 しかし、その程度で済んだことを僥倖と思うべきだろう。ジュンタはわかっていた。あのとき、自分を助けるために一度クーという少女は消えてしまったのだと。

 アーファリムは自分こそが本物のクーヴェルシェン・リアーシラミリィと言い、このクーの人格は生まれるはずがなかったバグのようなものと言っていたが、そんなはずはない。こうしてここにいて笑っているクーは、ジュンタにとっては唯一無二のクーヴェルシェン・リアーシラミリィだ。

 だから、感謝しなければいけない。手放しで喜ばないといけない。
 クーが生きて、こうしてまた笑い合えることを、あるいは涙を流しながら抱きしめて、柔らかそうな頬に頬ずりするくらいしなければならない。

 ああ、だけど……ジュンタは恐れている。疑ってしまっている。

「さあ、急ぎましょう。ご主人様。そろそろ約束の時間になってしまいます」

 蒼く澄んだ瞳。天使みたいな笑顔。
 アーファリムが浮かべる、狂気にも似た女神のような微笑みとは違う、温かくて、優しくなれる微笑みを――


「クーは、クーだよな?」


 ――アーファリム・ラグナアーツの演技であると、そう疑ってしまっている自分がいる。

 突然の意味不明な質問に、クーはきょとんとした顔になった。

 記憶を失っており、自分の中にもう一人の人格があることに気付いていないクーにとっては当然の反応。が、それがジュンタを油断させるために計算され尽くした仕草ではないと、一体誰が保証できるのか?

「はい、私はクーヴェルシェン・リアーシラミリィです。ご主人様の巫女ですよ」

 誰にもできない。アーファリムがクーの演技をする意図は多すぎて。意義は大きくて。
 たとえ柔らかく微笑む姿も、胸に手を当てる姿も、ジュンタが知る巫女のものだとしても、

「ずっと一緒です」

 その笑顔の裏で『狂賢者』が嗤っていないとは、誰にも言い切れない。






 そして――……






 アーファリム大神殿まで帰ってきたジュンタの目に映ったのは、入り口の前に横止めされた一台の馬車だった。

 軍馬もかくやという雄々しい二頭の馬に引かれた大型馬車だ。
 御者は紅い甲冑を身につけた騎士であり、風にはためく旗には不死鳥の紋章が刻まれている。

 世界広しとはいえ、その家紋を掲げることが許されるのはただ一つの家系のみ。

 ――いと高きシストラバス。

 馬車の中から出てきたのは、まさにグラスベルト王国の名門侯爵家にふさわしい、一人の美しい令嬢だった。

 年齢にして十七、八歳ほどの彼女は、騎士の手を借りてアーファリム大神殿の入り口に降り立つ。そこで、何かに気付いたように振り返った。

 時が凍った――そう思えるほどの、美貌。

 風にゆらめく炎のような真紅の髪。同じく紅蓮を閉じこめたかのような真紅の瞳。

 褒め称えるところはあれど、貶す点はない端整な顔立ち。背筋がまっすぐ伸びた凛とした佇まいに、優雅なドレスがよく映えている。頭の先から足の先、指先に至るまでもが洗練され、夕焼けに彩られた立ち姿は誰もを振り向かせることだろう。

 男であれば足下に跪かずにはいられない姫君は、ドレスの裾を片手で持ち上げると走り出した。

「ジュンタ!」

 そのまま腕の中へ飛び込んでくる。

 柔らかな身体を受け止めながら、ここで再会することを想像していなかったジュンタは、僅かに手を迷わせる。その間に真紅の少女は胸へと愛おしそうに頬を寄せると、この場にいる誰もが見とれるような笑顔を見せた。

「ジュンタ。会いたかった」

「……ああ、俺も」

 そこでようやくジュンタは小鳥に触れるような優しさで抱きしめ返して、自分の婚約者である少女の名を、呼んだ。


「俺も会いたかったよ――リオン」










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