第五話  結婚式前日
 



「買い物に付き合いなさい」

 朝の鍛錬を終えたジュンタを南神居の前で待っていたのは、にっこり微笑む白百合のような少女だった。

「もちろん、このあたしが誘ってあげてるんだから断らないわよね?」

「その自信がどこから来るのか、本当に不思議でしょうがないよ。ミリアン」

 汗をタオルで拭いながらミリアンに引きつった顔を向ける。

「かわいい女の子からのお誘いとあらば、断るなんて無礼な真似はしないけどな。それがお前みたいに猫被った奴だと、正直なんか裏があるんじゃないかって疑いたくなるんだが」

「相変わらず失礼な男ね。別に油断させたところに後ろから魔法を叩き込む、なんてことしないわよ」

「さらりとそういう返しが来るところが信用できないって気付いてくれ!」

「うっさいわね! いいから黙って荷物持ちになりなさいよ! あたしのストレス発散に付き合え!」

 ムキーと怒鳴りつけてくるミリアンは、どこに人の目があるのかわからないというのに猫を被ることを半分止めていた。それくらい腹立たしいことがあったということなのだろう。

「はあ、まったく。二年ぶりに会って、お祝いの言葉を伝えに来ることもなくこれか」

「お祝いの言葉? なんであたしが人の幸せを祝福しないといけないのよ。むしろ何勝手に幸せになってるのよ。呪われろ」

「酷いなぁ。俺とはそんな関係ないとはいえ、リオンとは親友だろうに」

「だからむかついて会いたくないのよ。容姿とか性格はともかく、使徒相手なんて玉の輿にも程があるわ」

「玉の輿て。……ああ、そういやホワイトグレイル家は資産を全部国に寄付したって話だったな。もしかしてお金ない?」

「お兄様の給料なんて微々たるものなのよ」

 すごい。何の淀みもなく兄の金を使い潰しているとミリアンは答えた。
 キルシュマは聖エチルアにおいては宰相とも王の右腕とも言われているのだから、給料だってそう低いものではないだろうに。前はどれだけ浪費していたのか恐ろしくなる。

「というわけで、あたしのストレスの何割かはあんたたちの所為なんだから、責任とってあたしの財布になりなさい!」

「それがお嬢様のお望みとあれば。破産させられない程度に、馬車馬のごとく」

 ビシリと女王の貫禄で人差し指を突きつけてくるミリアンに、ジュンタはとても首を横には振れなかった。






 ――それが結婚式を翌日に控えた早朝のこと。

「まさか、本当に破産させられそうになるとは……」

 買い物を始めて半日。噴水を中央に構える人気のない公園で、山のような荷物を前に、ぐったりとした様子でジュンタはベンチに座っていた。

「この程度で情けないわね。というか、使徒の癖にどうしてあんまりお金持ってないのよ」

「女の子の相手は金がかかるんだよ。いやもうほんとに。今日ほどそれを自覚させられたことはないけどな」

「このミリアン・ホワイトグレイルとデートできた代価としては、これでも安すぎるくらいよ」

「こっちには何らサービスなかったけどな」

 包装された宝石や服の山は、もう一つの噴水を形成するほどの高さを誇っている。かかった費用をいえば、ジュンタがフェリシィールよりもらっている日々のお小遣いの、約三ヶ月分に該当する。

 しかし、それだけを一人の少女に貢いだ効果はあった。荷物から装飾品を取り出し、耳や胸元に当てているミリアンの横顔は、朝に比べてだいぶ穏やかになっている。

「とはいえ、次はこれを神殿まで運ぶのか。店から直接運んでもらえば良かったものを」

「それはダメよ。ジュンタにこれだけお金を使わせたことをお兄様が知れば、良くない顔をするもの。他にも変態やメアがこれ幸いとからかってくるに決まってるしね。ストレス発散のための買い物なのに、さらにストレスが溜まったら意味ないわ」

「やっぱり、ストレスの原因はアースか」

 ジュンタは目を細めてミリアンを見た。

 ミリアンの方も視線に気付いて、付けようとしていたネックレスを荷物の山に戻した。

「なに? あんた、あの変態に興味があるの?」

「仮にも自分の国の王だろ。変態扱いはあんまりじゃないのか?」

「ふんっ、仕方ないわ。アレは変態としか形容ができない生き物だもの。あたしはアレを普通の人間とは認めないわ。ええ、絶対に認めない!」

「そんなに変な奴なのか?」

「性格も生態も、王としての手腕も全て変態級よ! あいつはただ自分のやりたいようにやってるだけなの。革命だって、貴族が平民を虐げてるのが気にくわないからって理由なだけだし。あたしをことあるごとにトラブルに巻き込むのも、反応が楽しいからってだけで……ああ、思い出したら腹が立ってきた!」

 ミリアンの銀髪が逆立ち、ワンピースタイプの洋服の裾が風に揺れる。感情の高ぶりによって魔力が漏れ出ていた。

「お兄様とお父様はともかくとして、あたしは別に臣下じゃないっての。なのになんでこんなにも毎度毎度振り回されないといけないのよ? ねえ、最終的にはあたしが最有力王妃候補って何? ねえ、なんなのよコラァ!」

「無関係な俺にキレるな!」

 静電気を纏った手で襟首を掴んでくるミリアンに、ジュンタは微かな痺れを味わいながら叫び返した。

「違うわ。これは正当な怒りよ。あたしがあんな変態の結婚相手として見られてるのは、あんたの所為でもあるんだから」

「俺の所為?」

「そうよ。あんたとリオンが盛大に婚礼なんてあげようとするから、便乗したうちの臣下団が国の基盤を固めるためだとかで積極的にあたしと変態をくっつけようとするのよ。メアの奴が嫉妬して燃やそうとして来るのよ。あんたたちが幸せになるほどにあたしは不幸になってるのよ!」

「な、なんかごめん。幸せそうでごめんなさい」

 ジュンタは反射的に謝ってしまった。それくらいの魂の叫びだった。

 ミリアンは謝られたところでジュンタから手を離し、「ちっ」と舌打ちしてベンチの隣に腰掛けた。広場に来る前に買っておいたクッキーと果実水を手に取り、ガツガツゴクゴクとすごい勢いで胃に収めていく。

「まったく、ジュンタやアースみたいな変態共の所為で、あたしの未来設計は無茶苦茶よ」

「同列扱いされてもな。ちなみにどんな未来設計だったんだ?」

「もちろん、誰か素敵な人と結婚して、たくさんの子供に囲まれて幸せな家庭を築くことだけど?」

 当たり前でしょ――という感じで答えられたため、ジュンタは感心することも笑うこともできなかった。

「何よ、その珍妙な顔? ああはいはい、似合わないって言いたいんでしょ?」

「そんなことはないが、意外だったのは事実だな。ミリアンのことだから、てっきり王様を裏から操って国を支配するくらい言うと思ってたから」

「ぶっ飛ばすわよ?」

「すいません。とてもかわいらしい夢で素晴らしいと思います」

 にっこり笑顔で手に雷気を纏う小さな竜巻を生み出され、ジュンタは全力で謝った。それにその夢を素晴らしいと思ったのは半分以上本当だ。

「ま、信じておいてあげるわ。ある意味あたしの夢ってこの上なく現実的で、一番わかりやすい幸せの形なわけだしね」

「幸せの形? 言っちゃ悪いが、平凡なそれが?」

 手に付いたクッキーの粉をハンカチで拭き取ってから、ミリアンは自分の顎に手を当てた。

「あたしはこう思うのよ。幸せって、喧嘩は偶にするけど根っこのところで繋がってる家族や友人がいて、愛する人と結婚して子供を生んで、そうやって大事な人を増やしていくことだってね」

「それは……確かに」

 かつてジュンタが愛した日常こそ、そんな平凡だけど誰もが認める幸せなものだった。

「特別なんて求めないでいいのよ。そんなもの求めたら、普通の幸せから離れていく一方だもの」

 ミリアンは少しだけ遠くを見るような目をしたあと、微笑を口元に浮かべてジュンタを見た。

「そういう意味では、あんたに感謝してるわ。ジュンタ」

「俺に?」

「そう、リオンの親友としてね」

 頬を染め、照れたように顔を背けると、

「ほら、リオンってあれじゃない? 竜滅姫としてドラゴン殺して死ぬことが一番の幸せって思ってた極めつけの馬鹿でしょ?」

「ああ。リオンは本気でそう思ってた。死ぬなんて馬鹿げてるなんて言っても聞かないくらいには馬鹿だったな」

「シストラバス家もホワイトグレイル家も特別だからね。リオンが人間じゃない幸せを求めたのを見て、あたしは怖かったわ。だから、逆にあたしは誰もが認める幸せを手に入れてやろうって思ったわけ。特に、リオンが『わたくしの夢はかわいいお嫁さんになることですわ!』って言ってた頃からの知り合いとしてはね」

「それで、あの猫かぶりなのか?」

「ま、そう言えるかも知れないわね。半分以上趣味みたいなものですけど」

 ミリアンは広場へやってきた仲睦まじいカップルを見て、口調を変えてベンチから立ち上がった。

 そして、果たしてそれは本心からのものか、それとも演技か、曇り一つない完璧な笑みを顔に浮かべて、

「そういうわけですから、リオンに普通の幸せを与えてあげられたジュンタには、少しだけ感謝しているわけです。
 だからリオンのことをうんと幸せにしないと、末代まで呪いますからね?」

 そんな、もう果たせない約束を口にした。

 いや、まだ間に合う――マザーさえ倒せば、きっと、ジュンタが愛した人は笑ってくれるはずだから。






       ◇◆◇






 広大な敷地を誇るアーファリム大神殿において、この度の式に使われることになったのは、礼拝殿の南部に位置した巨大な聖堂だった。

 造り自体は一般的な教会と同じもの。高い天井からはステンドグラスを通して七色の光が降り注ぎ、シンボルマークである天馬の像を祭壇に置いて、そこから扇状に長椅子状の客席が百席並んでいる。すでに特別な飾り付けが終わっており、荘厳な中に華やかさが混ざった会場となっていた。

 そんな『婚礼の間』で数十年ぶりに婚礼の儀が行われる前夜のこと。

「こうして、実際に顔を合わせるのは久しぶりですね」

「そうだね。また会える日が来るなんて、思ってもみなかった」

 神殿自体が寝静まる中、その再会は成し遂げられた。

 介したのは二人の女。まだ少女と呼んでも間違いではない者たち。月の光も恥じらうような黄金の光と真紅の光を髪に宿して、訪れたこの再会に戸惑っている。

 そう、これは本来ならば起こるはずのなかった再会だった。

 殺した者と殺された者。
 アーファリムはこの親友のことを恨んでいたし、シストはこの親友はもう立ち直れないものと思っていたのだから。

「止めましょう。お互いの関係性なんて、もう敵でしかあり得ないのですから」

「クーがそう言うならそうしておこうか。わたしは別に恨んでるわけじゃないし、敵として見てるわけでもないけど」

「それでも、邪魔ならあなたは容赦なく殺すのでしょう? 親友と、そう笑いながら」

「さすがだね。わたしのことよくわかってる」

「……あたしはあなたとは違います。これから殺さなければならない相手と友誼を結ぶことなんてできません。たとえ一度は親友と信じた相手であっても」

 すでに道は違えてしまっている。これより二人の道が交わるときは戦うときなのだと思っていただけに、お互いにこうして出会えたことはやはり予期せぬことなのだろう。クーヴェルシェン・リアーシラミリィとユース・アニエースが再会してしまった以上しょうがないことだが、ややこしいことになった。

 二人は顔を見合わせたまま、自分の目的を果たすためにここで何をすべきか考える。此処に至って、世間話など交わせようはずもない。

「目的はどうあれ、わたしも君も【全てに至る才オールジーニアス】を進化させないといけないことは変わりないよね?」

 先に口を開いたのはシストだった。

「そのためには結果的に使徒を一人ずつ宛っていかないといけないわけだけど、誰をまず狙って行く気?」

「もちろん、最初にあたしたちの前に立ちはだかる相手です。たとえ誰が相手でも容赦はしません」

 アーファリムは暗に敵意を宣言したが、シストはあくまでも飄々と頷くのみ。

「そっか。特別な優先順位とかないんだ。らしいと言えばらしいけど、わたしはきちんと優先順位は決めてあるよ。だってそうでしょ? 消えて行くべきは、一番古い使徒からって決まってるんだから」

 処刑者の言葉は重く、残酷な響きを持っていた。
 最古の使徒たるアーファリムは一瞬身構えたが、彼女が向けている矛先が自分ではないことに気付き、その真意を悟った。

 新しい使徒が現れるためには、一番古い使徒が死ななければならない――千年も前から続いてきた、この創られた法則において該当するのはアーファリムではない。シストでもない。二人の最初の名は最も古い神話に刻まれているが、法則における最古とは不必要と同義なのだ。

 二人は新しい肉体を得て再誕した使徒。ある意味では最も新しい使徒に数えられる。

 そうなるとシストの語る一番古い使徒とは……

「だいたいさ、新人類のことを知らない使徒なんて邪魔なだけでしょ? 使徒同士がぶつかり合って高め合わないといけないことすら知らないなんて、場違いに過ぎる。彼女を削ったところで定員にならないんだから、まずはそこから攻めるべきだとわたしは考えてるんだけど?」

「それはつまり、使徒フェリシィール・ティンクをあなたは狙うということですか?」

 アーファリムの金色の瞳が細められる。理屈こそ理解できたが、それは受け入れがたいものだ。

「救世主様にあの方を討つ意志はありません。よって、あなたにも手を出させるわけには行きません」

「救世主様、ね」

 同じようにシストの目も細められた。ただしそれは敵意の現れではなく、失笑の表れだった。

「本当に相変わらずだね、クーは。何かにつけて誰かのためって、そんなにいい子でいたいの?」

「あたしの評価など関係ありません。それが多くの人が望んでいることだから、あたしと救世主様は目指すのです。自分のためだけでしかないあなたと一緒にしないでください。それに使徒フェリシィールともう一人、使徒ズィールはこの世界を回す使徒。二人がいなくなれば、この世界は混乱してしまうでしょう」

「それこそ関係ないね。クーの言うとおり、わたしは自分の都合が一番だから。でも、あの二人を狙いたがっているのはクーも同じなんじゃないの?」

「あたしが、お二人を?」

「だって、クーの言ってることってジュンタとフェリシィール、ズィールの三人を生き残らせるってことでしょ? ほら、そこにはクーの席がない」

「最初からあたしの席など必要としていません。救世主様のために、この命を捧げる覚悟はできています」

「なるほど。自分を生け贄にして世界を救う、か」

 毅然と胸を張る友人の姿にシストは笑みを消した。まるで誰かを思い返しているように、小さな憐憫を視線にのせて語りかける。

「……痛ましいね。ずっと、君は昔から同じ夢ばっかり見てたくせに、せっかく叶えられるかも知れないときが来てもそんなことしか言えないなんて」

「それは、どういう意味ですか?」

「さあ、こればっかりは自分で気付かないと意味がないことだから。ただ、これだけは言えるよ。本当の夢を叶えたいなら、君は自分の手で他の使徒を殺して、救世主と一緒に生き残ろうとするべきだね。アーファリム」

「あり得ません。あたしが救世主様の決定を裏切るなんて……」

 これは悪魔の囁きだ。

 一瞬悩みそうになったアーファリムは頭を振って、頭の中から不死鳥の言葉を追い払う。シストの意志はマザーの意志。神に屈することなど、主に対する最大の裏切りにも等しかった。

「戯れ言はそこまでにしなさい神の使徒。何の用もないのなら、もうあたしは行きます」

「それには及ばないよ。わたしの方がもうそろそろ行かないといけないからね」

 肩をすくめると、シストは背中を向けてひらひらと手を振り、

「またね、クー。できることなら、わたしが本格的に動き出す前に邪魔者は間引いておいてよ。わたしの望みと君の望み、その両方に近付くためにね」

 紅い髪を翻し、南神居の方へ立ち去った。

 アーファリムとしてもさっさと風呂に入って眠りたかったが、それらがあるのも同じ南神居の中。今行くのは躊躇われて、張りつめたものと一緒にその場に残った。

「……あたしがフェリシィール様をなんて、そんな馬鹿なこと……」

「あらあら。わたくしがどうかしましたか?」

「っ!?」

 後ろからいきなり話しかけられ、アーファリムは勢いよく振り返った。

 一瞬、夜闇がはね除けられたかのように感じられるのと、アーファリムが魔法で光を屈折させ、瞳の色を蒼色に見えるようにしたのはほとんど同時だった。

「こんばんは、クーちゃん。いい夜ですね」

 果たして、歩み寄ってきたのは使徒フェリシィール・ティンクに他ならなかった。

「フェリシィール様、今おかえりですか?」

「ええ。クーちゃんは下見か何か?」

「はい。そんなところです」

 穏やかな顔で微笑まれ、アーファリムも笑い返した。フェリシィールが向ける笑みには好意だけがある。

「式は明日ですからね。誘われてしまうのもわかる気がします」

 会場を眺めるフェリシィールの横顔を見て、アーファリムはシストが言っていたことを思い出さずにはいられなかった。

 聖神教の崇める『神』の正体と使徒の存在意義。そして、今このときが転換期になっていることを知らない使徒は七柱の中、フェリシィールとズィールのみ。そういう意味ではシストの言葉は正しい。彼女たちほど場違いな使徒はいないだろう。

 しかし、だからこそ必要だとアーファリムは思うのだ。事情を知っている者らは、是が非にでも自分たちの願いのために救世主の力を求めるだろう。たとえ他の使徒を犠牲にしてでも。そんな中で純粋に、この世界の人々のために信仰を回す彼女たちがどれだけ尊いか。フェリシィールとズィールは神の使徒とは違うが、この世界に必要な使徒には一番近い。

 無論、アーファリムにとって最も優先すべきはジュンタと共有する願いだ。世界と人とを救うために、もしもフェリシィールたちが邪魔になれば切り捨てる覚悟はある。が、決してそれは自分の欲望のためではない。シストの言葉は何の根拠もない戯れ言に過ぎない。

「……クーちゃん。お顔が曇っていますが、何か心配事でもあるのですか?」

「え?」

 気遣うように顔を覗き込まれ、アーファリムは慌てて顔の前で手を振った。

「そ、そんなっ、大丈夫です! 何の問題もありません!」

「そうは見えません。わたくしを舐めてもらっては困ります」

 誤魔化しは、しかし叱るように断言するフェリシィールには通じなかった。

「わたくしが何年クーちゃんのお母さんをやっていると思っているのですか? たとえ血は繋がっていなくとも、わたくしにとってあなたは娘も同然。よって、わたくしがクーちゃんの悩みを見間違うはずなどありません」

「そ、そんな……恐れ多いです……」

 大きな胸を張るようにして腰に手を当てたフェリシィールを前にして、アーファリムは上手く口が回らない。

 それは、本来の身体に戻ったことで見た目の年齢に精神が引きずられてしまっているからだけではない。アーファリムは、オルゾンノットの魔竜と呼ばれた事件のあと、聖地でフェリシィールに育てられた記憶を有している。どれだけ彼女に愛され、慈しまれたか。記憶の中において、まさしく彼女は母であった。

「あらあら、相変わらずクーちゃんは謙虚ですね。まったく、誰に似てしまったのでしょうか」

 とりわけ『封印聖戦』後は、フェリシィールは娘だと豪語して構うようになった。それは恐らく、クーヴェルシェン・リアーシラミリィにとっての唯一の肉親が、今は傍にいないことに起因するのだろう。

「遠慮しないでいいのですよ。ルドールがいない今、存分にどうぞわたくしに甘えてください」

 巫女ルドーレンクティカ・リアーシラミリィ。
 彼の姿は『封印聖戦』終戦を境に聖地から消えてしまった。大規模な捜索が幾度となく行われ、それ以上にフェリシィールが召喚の魔法を使っているが、未だに消息は掴めていない。

 新しい巫女が現れない以上、生きていることは間違いないが、だからこそ失踪の理由がわからない。フェリシィールは心配しつつも、それを表には出さないよう振る舞っていた。それどころか行方不明になったルドールの代わりに家族としての役目を果たそうとしてくれていた。

 それは嬉しく思う。家族というものをもう思い出せないアーファリムにとって、フェリシィールの温かさは染み入るほどありがたい。

 けれど、アーファリムは彼女の笑顔の下にある不安を見透かしていたし、何よりルドールがいない理由にも見当がついている。

 だから、優しくされればされるほどに申し訳なく思うのだ。
 発端が自分にあるとしても、ルドーレンクティカ・リアーシラミリィが神に与するならば――いずれこの手が排除すると、そう心に決めているのだから。

「ですからほら、悩み事があるのでしたら相談してください。こう見えても長生きしていますから、人生経験は豊富ですよ」

「ありがとうございます。でも、本当に大丈夫ですから」

 フェリシィールの申し出に礼で返す。最近はずっと結婚式の準備で忙しかった彼女を、これ以上自分などの都合で足を止めさせているわけにはいかない。

「私はこれで失礼します。フェリシィール様も、どうか体調にお気を付けください」

 ペコリと頭を下げて、優しい使徒を見送ろうとする。

 いつもならここで立ち去るはずの彼女は、しかし今日ばかりは真剣な顔で立ち止まったままだった。

「フェリシィール様?」

「……クーちゃん。あなたは、本当にそれでいいのですか?」

「え?」

 果たしてそれは一体何のことか。シストに言われた似たようなことを意識せずにはいられず、ただ嫌な予感だけを胸にアーファリムは耳をピンと立てた。

「それは、どういうことでしょうか?」

「どうもこうもありません。わたくしの前でまで巫女に徹しなくても良いのです。クーちゃん。本当に、ジュンタさんとリオンさんがこのまま結婚しても良いのですか?」

 それは本当に不意打ちだった。
 ガツン、と、胸の一番強固な部分をハンマーで殴られたような気がした。

「お二人がお似合いだということはわたくしとてわかっています。その絆が強固なものであることも。ですが、ジュンタさんとクーちゃんの絆も決して劣るものではないとわたくしは思うのです。クーちゃんのジュンタさんへの気持ちも。それなのに……」

「止めてください!」

 なおも続けられようとした言葉をアーファリムは遮る。それはフェリシィールが驚くほどの大声だった。

 けれど、これ以上続けられると何かが壊れてしまうという予感がアーファリムにはあったのだ。特に、シストから言われた言葉が未だ耳に残っているときに、この問いだけはされたくなかった。

 このままジュンタとリオンの結婚を認めていいのか……その質問だけは。

「大声を出してごめんなさい。今日はこれで失礼します」

「クーちゃん……」

 アーファリムは頭を下げ、逃げるように『婚礼の間』を後にする。
 その足で礼拝殿を駆け抜け、南神居に飛び込んだときには胸の動悸はおかしく、息は上がっていた。頭ではシストの言葉とフェリシィールの問い掛けが渦巻いている。

「……眠りましょう」

 息を整える前に、階段を上がって自分の部屋を目指した。今は何よりもベッドが恋しい。

 塔の上層部にある立派な部屋の前に辿り着く。部屋の横にある階段を使って上がれば、すぐ主のいる最上階へ行ける巫女専用の部屋だ。

 扉の取っ手に手をかけたところで、ふいに、心に寂寥感が潜り込んできた。

 クーヴェルシェンでもなくアーファリムでもなかった頃に、いつも感じていた孤独感……昔ならいざ知らず、今のアーファリムにはそれを埋める方法が存在する。足は自然と階段へ向かい、救世主の笑顔を求めて身体と心を温かい場所へ誘っていく。

 ただし、ジュンタはアーファリムがクーヴェルシェン・リアーシラミリィであることを認めていない。悲しいが、会いに行っても邪険にされ追い払われるだけだろう。けれど今の瞳は蒼色――呼び方さえ変えれば、きっと、温かく出迎えてくれるはず。

 主を騙すことへの申し訳なさは、ある。

 けれど許して欲しい。あの温かな場所はアーファリムが長年求めて止まなかった場所であり、この命はやがては散らされる定めにあるのだから。

 さっきまでとは違う動悸の激しさを胸に、最上階へと足を踏み入れる。

「ご主人さ――


 そこで楽しげに笑い合う、信仰する主と紅髪紅眼の少女の姿を見てしまった。


 ギチリ。と、胸が引っかかれたような痛みを発する。

 ジュンタが婚約者に見せる、その微笑みに。
 ユースが振る舞って見せる、その微笑みに。
 孤独感とも嫌悪感ともつかない、未だかつて味わったことのない痛みが胸を焦がしていく。

「はぁ、はぁ……」

 気が付けば、アーファリムは階段を駆け下り、自分の部屋のベッドに飛び込んでいた。

「あたしは巫女。あたしは巫女なんですから。あたしはただ、世界を救うための生け贄になれれば、それで幸せなんですから」

 自分に言い聞かせるように、祈りを捧げる。

「あたしはただ、救世主様のために憎まれていればいい。あたしはただ、世界のために笑っていればいい……」

 確かに、シストの言うとおりジュンタと共に生き残れる方法は存在する。許容量さえ超えなければいいのだから、彼が生かすと言ったフェリシィールかズィールのどちらかを先んじて消してしまえば死ななくてもいい。

 けれど、そんなことは考えられない。これまで多くのものを奪い、傷付け、犠牲にしてきた使徒として、そんなことはできない。粛々と救世主の手助けする以外に何かを願うなんて、そんなことが許されるはずがない。

「大丈夫。あたしは祝えます。救世主様が救世主様なら、それでいいのですから」

 それはフェリシィールの問い掛けに対する答えも同じ。

 彼女は今のリオンの正体がユースであることは知らないが、言っていることに変わりはない。ユースがリオンになるというのなら、やはりジュンタが結婚する相手はリオン・シストラバスだ。

 あの美しくも貴い光。ジュンタが愛した唯一の女性。
 今まで形だけだった番という関係性が、此度の結婚式をもって人々の共通認識と変わる。それはとても喜ばしいことのはずだ。

 ……なのに、胸が痛む。不明の熱が身体を狂わせる。

「救世主様……」

 それが一体なんという感情なのかわからない。
 それがなぜ自分を狂わせるのか、わからない。

「…………紛い物は、あんなにも幸せそうだったのに……」

 ただ、頭から笑い合う男女の姿が消えず、アーファリムは眠れぬ夜を過ごすことになった。






       ◇◆◇






 日付が変わろうとする頃、正門から堂々とラグナアーツ入りをした人物がいた。

 フードを目深に被った男である。身のこなしは隙だらけだったが、旅装の上から見ても身体は引き締まっており、一目で戦うものであることはわかる。彼は露店や道行く乙女などには目もくれず、まっすぐ指定された集合地点へ向かっていた。

 祭りが嫌いなわけではない。むしろ心躍るタチだ。
 しかし、男にとっての最高の祭りは明日に待ち受けているのである。となれば、猛る心を些細なことで爆発させるなど愚かの極みだった。

――つうわけでよ、見逃してやるからどっか行っちまえ」

 路地に入ったところで前後を塞いだのは、鎧に身を包んだ四名の男たちだった。聖神教の固有武力である聖殿騎士ではなく、その下について動く衛兵だ。フードを被った男が覚えている限り、入国審査を執り行っていた者たちである。

「そうは行かん。我らの役目は、怪しい人間が聖地ラグナアーツに入ることを止めることにあるのだから」

「入ったあとに出ていけとか言われてもよ。そいつはちと理不尽じゃねえのかァ?」

「顔を隠し、人混みに上手く紛れていた癖に何を言う。身の潔白を証明したいというのであれば、そのフードを剥いでみせよ」

「ちっ、面倒臭ぇな。せっかく面倒ごとを避けて顔を隠してたっていうのに」

 舌打ちして、男は隊長格だろう衛兵に向き直った。

「俺様の顔がどれだけ広まってるかはわからねェが、騒ぎを起こすと色々小言を言われるからよォ。ま、悪いが全員ここで死んでくれや」

「総員、戦闘態勢!」

 衛兵たちが槍を捨て、腰に佩いた剣の柄に手をかける。路地裏では槍は使えない。

「さすがは聖地ってか。衛兵の練度もなかなかに高いようで何よりだぜ」

 男は喜悦の表情を浮かべ、無手のまま戦闘態勢を取った。
 まるで獲物を狙う肉食獣のような構え。部隊長は背筋に悪寒を感じ、目の前の男が相応の実力者であることを経験から悟った。

「応援を呼んで来い。コイツ、並の使い手じゃないぞ」

 部隊長はそう言って、剣を抜いて一歩前に出る。

 目の前にいる男に全神経を傾けたそのとき――彼らの命運は尽きたのだった。

 グシャリと肉を潰す音が突如として響いた。それは部隊長に命じられ、路地裏を後にしようと走り出した衛兵が奏でた音。彼は後ろを向いた瞬間、横から襲いかかってきた一撃を受け、上半身を吹き飛ばされていた。

 呆然と、部隊長は原型をなくした部下を見、凶行に及んだ相手を見た。

 路地裏に現れた相手もまた、追い詰めた男のようにフードで顔を隠していた。ただ、その体躯は華奢な少女のものだ。手には身の丈を悠に超える頑丈そうなハルバートを持っており、分厚い刃からは血がしたたり落ちている。

 その刃が再び振るわれる。

「ぐっ!」

 部隊長は咄嗟に剣で庇ったが、彼女が狙ったのは彼ではなかった。

「え?」

 再びの生々しい音。さらに続けてもう一つ。
 悲鳴というには素っ頓狂な声をもらして散ったのは、またしても彼の部下たちだった。少女は部隊長と怪しい男を飛び越え、突っ立っていた二人の衛兵の頭を潰していた。

 これで残るのは部隊長のみ。

「くそっ! 貴様は、貴様らは一体なんだ!?」

 目の前で部下を惨殺された部隊長は、恐怖と怒りで混乱しながら、誰何の声を放った。

 返ってきたのは、今度こそ自らを狙う鋼鉄の凶器。

「舐めるな!」

 部隊長は身を翻し、これを何とか避けた。
 ハルバートは地面に振り下ろされ、恐ろしいことに、両脇の建物が揺れるほどの破壊の跡を地面に刻み込んだ。

 尋常ではない破壊力。そして――殺意。

「おいおい、誰何の声に対して問答無用で攻撃ってのは、ちょい卑怯なんじゃねえか? ジェード」

「……異端者と口を利けば、喉が腐り落ちる、です」

 男にジェードと呼ばれた少女はそう小さな声で答え、さらなる攻撃に出ようとハルバートを持ち直し、

「悪いね」

 再び唐突に響いた声によって邪魔された。

 今度路地裏にやってきたのは執事の男だった。細いワイヤーを使って残った部隊長の首を切り飛ばすと、噴き出る血を避けながらジェードたちに近付いて来る。

「どうも、お久しぶりです。初っぱなから絡まれてますね」

「ウィンフィールドか。テメェまでいるってことは――

「ええ、全員でお出迎えにあがりました。皇帝陛下」

 フードの男――皇帝の疑問に答えるため、さらに二人路地裏に足を踏み入れる。笑顔のクォーツと顔を顰めるプラチナだ。

「ハッ、こんな血生臭いところで出迎えも何もあったもんじゃねえけどなァ」

「まったくよな。妾をこのような場所に呼びつけて、皇帝は礼儀というものをわかっておらんのじゃ」

「その台詞、そっくりそのまま返してやるぜ。プラチナ」

「皇帝陛下。旅装を」

 ハルバートを地面に置いて恭しく立て膝をつき、ジェードが皇帝に向かって手を差し出した。

「ああ。もうこの窮屈なもんで隠す必要もねェのか」

 闇に沈んだ空を見上げ、皇帝は自らのフードを掴んで投げ捨てた。

 こぼれ落ちたのは金色の髪。腰の辺りまで無造作に伸ばされた黄金の髪は、まるで獣のたてがみのようにも、のたうつ尾のようにも見えた。
 耳は路地裏に集まった少女たちのものより横に長く伸びたもの。鼻の上を横へ一筋傷跡が奔っており、エルフ特有の神秘的な容姿を貶めていたが、だからこその野性的な魅力で輝いていた。

 そして瞳――濁った黄金の色をした瞳は、縦に瞳孔が割れ、溢れんばかりの歓喜をもって聖地を見つめている。

「ついにこのときがやってきたなァ。ああ、ちくしょう。どれだけこの日を夢見てきたか、テメェにはわかるかァ?」

 犬歯を剥き出しにして笑う皇帝と敬われる男は、四人の部下に囲まれながら、今ここに運命の日が来たことを告げる。

 もちろん愛を向ける相手は、唯一無二の好敵手――

「ハッハー! ジュンタよォ、待たせたなァ! 今度こそ本当に同じ条件で、同じ立場で、お互い喰らい合おうや!」

 聖地ラグナアーツへ現れた最後の使徒は、ドラゴンの咆哮の如き声で笑った。


 ――そうして、来るべき日は静かに訪れた。










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