第四話  その席に座る者





 喫茶店シルフィーをどうしてかリトルマザーが嫌がったため、後にすることになったジュンタは、昼食をどこで食べようかと悩んでいた。


 隣を歩くリトルマザーは、シルフィーを出てから繋いでいた手こそ離したものの、未だ挙動不審な態度を繰り返している。周りをキョロキョロと見回し、まるで自分の予想と違うとでも言い足そうな表情をしている。

 あまりにもその姿はおかしいのだが、何を聞いても『何でもない』の一点張りなので、事情を聞くことも出来ていない。

気にはなるが、取りあえず放って置いた方がいいらしい。

(まぁ、マスターと話をするのはまたの機会でいいか……)


 できればさっき話を付けておきたかったが、こうまで同行者に嫌がられては仕方がない。
 ジュンタは昼食をどこで食べるか悩むのに意識を傾ける。シルフィーは後にしてしまったが、ここは観鞘市中心部のアーケード。まだ昼食を食べるお店はいくらでもある。


「リトルマザーは何か食べたいものあるか?」

「え!? う、ううんっ! なんでもいいよ!」

「なんでもいいか……」


 自分に食べたいものがなかったためリトルマザーに訊いてみたが、返ってきた返事は自分と同じ答えで、


「そ、それより、一つ訊いて良い?」

 そして昼食より大事なことがあると、リトルマザーは質問をぶつけてきた。

「別にいいけど?」

ジュンタがリトルマザーに顔を向けると、彼女は真剣な顔で周りを注意深く見ていた。

 何がそんなに気になるのかと周りにジュンタも視線を向けるが、そこには人が増えた通りがあるだけだ。おかしなところなどない。
だが、そんなジュンタからして見たら普通の光景の中に、リトルマザーはおかしな点を見つけたらしい。

それは増えてきた通行人の中、ちょこちょこと見るようになってきた、とある格好をした少年少女。ジュンタと同じ学校の制服を着た高校生たち――彼らをどうやらリトルマザーは気にしているらしかった。

「どうして……」


 リトルマザーが驚いたように唇を震わす。

「どうして、もうジュンタと同じ学校の生徒がここにいるの? 午後の四時まで学校は終わらないって言ったのに……」

 リトルマザーの言葉を受けて、そう言えばとジュンタは思い出す。


「それは今日は土曜日だからだな。平日は確かに四時までだけど、土曜日だけは午前中で終わるんだよ。二週間に一回。まぁ、世間は週休二日だけど、一応俺の通ってる学校は進学校で私立だしな」


「っ! そんな!? どうしてそれを早く言ってくれなかったのよ、ジュンタのバカ!!」


「バカって……確かに黙ってたのは悪かったけど、そんなに怒るようなことでも――

 ないだろ? そうジュンタが言葉を続けようとした時、突然リトルマザーがいるのとは反対方向で、ガコンと比較的大きな音が響いた。

 なんだろう、と思って反射的にジュンタが音のした方を見ると、そこには店の看板に突き刺さった大きめの石ころの姿があった。

 看板は固めのプラスチック製。
 それなのに突き刺さった石は、もうほとんど全部突き抜けかけている。相当なスピードで放たれなければ、ここまでねじ込まれるのはかなり難しいはずだ。

 ジュンタは一体誰がやったんだと辺りを見回そうとして――――背後で小さな悲鳴と、誰かが走り抜けていくのを感じ、慌てて振り返った。

「リトルマザー?」


 ジュンタが背後を振り返った時、そこにはリトルマザーの姿はなかった。


 辺りにもいない。本当にいなくなってしまっている。


「…………誘拐?」


 一人その場に取り残されたジュンタは、そうポツリと呟いた。


 周りの通行人は特に気にした様子もない。
あっという間の出来事だったからか、ほとんどの人は気付いていないのだろう。

 しかし間違いなくリトルマザーは何者かに攫われた。誰かも、どうしてかも分からないが、今目の前で攫われた。


「…………はっ! ゆ、誘拐されたらなら探さないと!」


 急展開に付いていけなかったジュンタは慌てて回りを見回し、リトルマザーを捜そうとし、



 

――――だがその前、見回した視界の中に、信じられない人を見つけた。



――――え?」

 その声が自分のものであったと気付くまで、ジュンタはそれなりの時間を必要とした。それぐらい、目の前に現れた誰かは信じられない姿をしていた。

(あ、う……え? お、れ……?)


 ちょうど喫茶店シルフィーがある方から歩いてきて、そして目の前で立ち止まったのは、自分と瓜二つの顔をした学生服の少年だった。

 真っ黒な髪に同じ色の瞳。同じ学校の制服に、黒縁眼鏡がトレードマーク。

 ほぼ毎日鏡の前で見かけるその顔は、間違いなく、自分の顔と同じ顔をしていた


 ボトン、と顔を見合わせた相手――自分と瓜二つの容姿の少年が、持っていた鞄とケーキでも入っていそうな箱を地面に落とす。その表情を見ていると、自分もきっと同じ表情をしているのだと知ることができる。驚愕に見開かれたその顔は、確かに今の自分と同じ表情だろう。

 ……………………意味が、分から、ない。

 何か、自分の中で壊れていくものがあることを感じつつ、未だ動かない世界の中でジュンタは、ただそれしか思うことができなかった。


(なんで、こいつは、俺と同じ顔を、しているんだ……?)







「きゃっ!」


 かわいらしく悲鳴をあげた白い少女を脇に抱えたまま、少し進んだ先で、実篤は建物の影に身を隠した。


 ジタバタと暴れるリトルマザーの口を塞ぎ、そのまま店と店との間という狭い道を通り抜け、誰も来ることのないだろう細い裏道に出る。そしてそこでリトルマザーを抱えていた手を離し、彼女を壁に押しつけるようにして睨み付け、


「リトルマザー、どうしてお前がここにいる?」


 簡潔に、ストレートにそう訊いた。


 実篤を見るリトルマザーの目は冷たい。

 それも当然。大事な人と歩いていたところを、何の了解もなく突然拉致されたのだ。憤るなという方が無理な話か。


「……誰だかは知らないけど、随分人を攫うのに手慣れているみたいね。ジュンタの注意を物を投げて逸らして、その間に拉致する。それに走るスピードも常人より遥かに上だったわ。――いいわ、名乗らせてあげる。あなた、誰?」

 見下すような視線で、そうリトルマザーが尋ねてくる……完全に見知らぬ相手への対応で。


「………………待つがいい。お前、俺を覚えていないと言うのか?」


 実篤はリトルマザーに面識があった。

 会っていた時間は短かったけど、彼女との接触で重要なことを知った。だから彼女も自分のことを覚えている……当然そう思っていたのだが、どうやらそれは違ったらしい。


「あなた、わたしと前に会ったことがあるの? ……でもおかしいわね。わたし、この世界に知り合いなんていないはずなんだけど?」

 眉を顰めながらそう言って、リトルマザーは実篤の身体をジロジロと見始める。


 短い茶髪が混じった黒髪に、切れ長の黒眼。

 凛々しく整った眉に、男らしい色気を感じさせる甘いマスク。


 街で見かけただけでも目を惹く実篤の容姿を、上から下まで観察したリトルマザーは、一言――


――分かんない。誰よ、あなた?」


 すぐに思い出すことを諦めました宣言を口にした。

 実篤は軽く脱力しつつ、改めて自分の名前をリトルマザーに告げる。

「実篤だ、宮田実篤。お前は俺を忘れたと言うのか、リトルマザー?」


「ミヤタサネアツ?」

 名乗ってなお、リトルマザーは首を捻り続けている。
 まるであなたはサネアツではないと、そう物語っている表情であった。

 しかしやがてリトルマザーは思い出したのか、ポンと手を叩いた。納得したように、うんうんと頷いている。


「そう言えば猫のイメージが強すぎたんだけど、サネアツって元は人間だったんだっけ。うん、忘れてた。確かに思い返してみれば実篤ね…………で? その実篤はどうしてわたしを攫ったりしたのかな?」

「猫? いや、それはまぁいいか。――そして疑問があるのはこっちの方だ。リトルマザー、どうしてお前がここにいる?」

 リトルマザーに再度詰め寄り、有無を言わさぬ態度で実篤は尋ねる。


 迫る実篤には中々に迫力はあるのだが、まったく動せず、リトルマザーはのんびりとした様子で口を動かす。


「そんなのあなたには関係ないでしょ? あなたは異世界に渡ったあなたじゃないんだから。わたしの巫女でもなんでもないし、教える必要性はまったくないわ……さっさとどいて。わたし、ジュンタとデートの最中なんだから」


「それが問題だと言っているんだ。リトルマザー、どうして異世界にいるはずのお前がここにいる? どうして純太と一緒にいる? それを答えて貰わねば、俺は――

「何? わたしを拘束するとでも? ふふっ、そんなこと言わないわよね。あなたはわたしがどれくらい強いか、分かっているはずだもの」

 凄む実篤を意に返さず、リトルマザーはただ笑うだけ。
 自分より力のある男に詰め寄られている恐怖も不安も、そこにはまったく感じられない。逆に恐怖と不安を感じているのは、実篤の方だった。

 力の差を言えば、リトルマザーよりも実篤の方が圧倒的に下だった。
 
 
そもそも人間である実篤が、人を超えた高みにいるリトルマザーに勝てるはずがない。薄く笑うリトルマザーの笑みに、実篤は薄ら寒いものを感じていた。


「……そんなことは百も承知だ。だが俺も男だ、やると決めたことには全力を尽くす。例え敵わないと分かっていようとな。それがナチュラルボーン格好いい実篤君の基本スタイルだ。
 ――さぁ、答えろリトルマザー、どうして純太に関わった? お前はこちらの純太には関わらないと、そう言っていただろう…………いや待て、まさか?」

 実篤はリトルマザーの威圧に負けじと、まなじりに力をこめて彼女を睨む――そしてその途中、恐ろしいことに気が付いてしまった。


 リトルマザーは実篤の視線から顔を背け、面倒くさそうに横目で見やる。


「そのまさかよ。わたしが一緒にいたのは、この世界の佐倉純太じゃないわ。

 これで分かったでしょ? ならさっさとどきなさいよ、これ以上わたしの時間を奪うなら殺すわよ?」

 言葉だけは酷く冷徹なことを言うリトルマザー。だが実篤は彼女の言葉をまったく気にせず、他のことに慌てて、リトルマザーの顔の横についていた手を離す。



 そして、もうリトルマザーは一切無視して、元来た道を戻り始めた。


 

 バカなことをしてしまった――内心で舌打ちしつつ、実篤はアーケードに戻るために全力で走る。

 実篤はリトルマザーが、異世界にいるはずの使徒の少女が、この世界にいる理由に気が付いた。だから焦る。焦らずにはいられない。


「どうしたのよ突然? 何か問題でもあるの?」

 あっという間に並走してきたリトルマザーが、声をかけてくる。


「ああ、まずいな! かなりまずい! 考えても見るがいい、俺は純太の親友だぞ。そんな俺がここにいるということは――

 最後まで言葉を言い切る前に、隣を浮かんでいたリトルマザーが光と共に消え去った。

 アーケードまでの僅かな距離。それすら遠いと、彼女は転移魔法を使ったのである。


「ちっ」


 実篤は今度は声に出して舌打ちをし、リトルマザーの後を追う形でアーケードへと飛び出す。


 ――そして時すでに遅かったことを悟った。

 地面に落ちた鞄と白い箱。

 制服の上からコートを着た、飾り気が少ない黒髪黒眼の少年。


 実篤の親友である佐倉純太が、アーケードの中、意味が分からないと言った表情で突っ立っていた。

 立ち尽くす親友の姿を見て実篤は悟る。先程自分が目撃した佐倉純太は、自分が学校から一緒に歩いてきた佐倉純太ではなかったのだ、と。


 実篤は純太に近付き、呆然としている彼の前に立つ。

 彼もこちらに気が付いたようで、視点を定めた後、うわごとを呟くようにして言った。


「実篤か……」

「純太、大丈夫か?」

 見るからに動揺の色を隠せていない純太は、実篤の言葉にいくらか冷静さを取り戻したようである。地面に落ちていた鞄と箱を拾い、付いた汚れを払いながら、


「今日、アルバイト休みだったんだ。それを急に聞いて、ケーキをお土産に貰って、それからお前を追おうと思って急いで歩いてたら…………ここで俺を見たんだ」

 事実を確認するように、純太は先程見た信じられない出来事を口に出して説明する。


「驚いた。まったく俺と同じ顔だった。似てるとか、そういうのを度外視して……なんて言うかな? 俺だったんだ。それがすぐに分かった。どうして分かったかって聞かれると困るんだけど、とにかく分かったんだよ。

コイツは誰だ? そう思って呆然としてたら、突然光って消えたんだけど…………って悪い、何言ってるんだろうな俺は。最近不良相手で疲れてたし、白昼夢でも見たのかも知れないな」


「いや、気にするな」


 ハハハ、と渇いた笑みを浮かべる純太は、未だ動揺が抜けきらないようだが、それでも何とか折り合いをつけようとしているように見受けられた。

 そして実篤は、今の純太の説明だけで、今さっきまでここであった異常な光景を瞼の下に描くことができた。

 一度瞬く。その間に、一瞬脳裏に思い描かれる光景――向かい合った二人の佐倉純太という光景。

 そうと分かったらのんびりとはしていられない。

これ以上純太を巻き込まないためにも、自分ががんばらなくてはいけない。


「バイトはなくなったのだろう? なら一緒に帰るか、純太?」


「あ、ああ…………そうだな。そうするか」


 取りあえずは親友を家まで送り届けてから、探しに行かなければならない。

 恐らくはこの世界に嫌われてしまった――もう一人の、
助けなければいけない親友を






 

       ◇◆◇







 思考にノイズがかかっている。


 ――ガーガガガーガガガガーガガガガガ――


 視力に、聴覚に、嗅覚に、味覚に、感覚に、五感全てにノイズがかかっている。

――ガーガガガーガガガガーガガガガガガガガガガガーガガガガガガガガ――

ノイズはどんどんと大きくなっていって、酷く耳障り。

消えろと心の中で叫ぶも、止めろと心の中で祈るも、うるさいノイズは聞こえ続ける。

――ガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガガ――

ノイズは騒音だ。

掘削機のようなけたたましい雑音は、あまりにも神経を逆撫でる。精神を衰弱させる。魂を汚していく。

世界の全てがノイズで包まれている。いや、ノイズこそが世界だ。

 真実を覆い隠す
ノイズのかかった世界こそ、サクラ・ジュンタの世界。そんな世界が自分に相応しいと、誰に言われるまでもなくジュンタは気付いていた。

そう…………気付いてしまった。

見たのだ――綺麗な、混ざりっけのない純白の真実というものを。

その少年は当然のようにそこにいた。

世界に命の鼓動を刻んでいた。

当然のように、何の疑いもなく自分の日常を送り、またその日常を愛していた。

分かる…………他でもない自分だけは、分かってしまう。

本来なら明らかに異質に見えるはずの彼が、ジュンタには酷く普遍なものに見えてしまった。その時点でもう、全ては決まり切っていた。


――オマエハダレダ?


ノイズに混ざって、そんな疑問の音が落ちてくる。

それに対し、「その答えを知りたいのはこちらの方だ」とジュンタは答える。


 耳障りなノイズは止まらない。

真実がそうなのだと、認めてしまったために起きた『歪み(ノイズ)』は、限りなくジュンタの世界を蝕んでいく。

しかしノイズが続く限り、ジュンタは自分を見失うことはない。

ノイズが続く限りは、サクラ・ジュンタは在り続けていられる。矛盾を嫌う世界から弾き出されることなく、誰かが用意した抱擁の中で確固たる存在を維持できる。

それはとても嬉しいこと――だけど疑問も今は覚える。それは本当に正しいことなのか、と。

見つけてしまった本当の自分。正しい佐倉純太。

彼がいるというのに、果たして自分はこの世界に在って良いのか? 



 ――イイワケガナイ、ニセモノハキエロ!



 排他的な世界が矛盾を吠え立てる。

 消えろ、返れ、帰れ、還れと叫んでいる。


 だけど、だからこそジュンタは世界に問い掛けたい。


(……俺は一体、どこに帰ればいい?)


 帰れと言われても、もう帰る場所なんてないというのに……その帰る場所を見失ってしまった自分は、果たして一体どこへと帰ればいいのだろうか?






 世界に正しい音が戻ってくる。

 
 瞼を開いてみれば、いつの間に夜になったのか、空に満月に近い月を見ることが出来た。


「…………史上最悪の悪夢だった……」


 ジュンタはボツリと呟いて、痛む頭を抱えながら身体を起こす。すると身体に被さっていた白いサラサラとした何かが、身体から滑り落ちた。


 何だと思って、ジュンタは滑っていった白銀の糸に手で触れる。

艶やかで、最上級の絹のような手触り。月明かりに照らされた純白の銀糸は、ぼんやりと輝いているようにも見えた。


 その銀糸が何であるか、ジュンタが気付いたのは小さな寝息を聞いたあとだった。

 触れていた銀糸は少女の髪であった。

 処女雪のような美しい髪――これを持つ相手など、ジュンタは一人しか思い浮かばない。

 髪の先を眼で追っていくと、こちらの太股に頭を乗せて、気持ちよさそうに眠っているリトルマザーの姿を見つけることができた。とても心地よさそうに、全てのしがらみを忘れたかのように眠っているその寝顔は、見る人の気持ちを癒す不思議な力があるかのよう。

 ジュンタは上半身を手の力だけで起こしていたのだが、リトルマザーが下半身を占拠しているのを見て、動くのをあきらめてもう一度寝転がる。

(……なんでこんなことになったんだろう?)

 固いコンクリートの地面に、少し埃っぽいマットレス。その上に毛布もなく寝かされていたジュンタだったが、リトルマザーの体温のお陰か寒いということはなかった。


 しかしそれは身体だけの話で、
ジュンタの心はぽっかりと穴が開き、そこへ悪夢のような現実という隙間風が吹き込んで、とても冷え切っていた。

 ジュンタはぼうっと天井に開いた穴から差し込む光を見つつ、目を覚ます前のことを思い出す。

 リトルマザーが何者かに攫われたと思った矢先に現れた、その少年この世でジュンタだけは決して間違えるはずのない、その黒髪黒眼黒縁眼鏡の少年――あれは間違いなく自分だった。

 いや、自分というのは違うか。

 自分というのは、こうして考えているサクラ・ジュンタのことを指す。出会った少年を言い表すのなら、そう、『佐倉純太』というのが一番正しい。


 背格好、容姿、発する空気から魂の輝きまで、まったく同じに見えた他人――明らかに何かしらの異常である彼を見たジュンタは、ただの一目で思い知った。

目の前にいるのは『自分に似た誰か』ではなく、『自分が似た誰か』なのだと。

お前は誰だと、そう『自分が似た誰か』に尋ねる前に、ジュンタは自問自答していた。


「俺は…………誰だ……?」

――ジュンタだよ」

 独り言だった言葉に答えをくれたのは、眠っていたはずのリトルマザーだった。


 酷く優しい声で、彼女は言葉を続ける。

「あなたはジュンタ。佐倉純太でありサクラ・ジュンタ。間違いなく、一人だけの唯一存在」


 恐らく全ての答えを知っているだろうリトルマザーの声は、すんなりとジュンタの胸に落ちてくる。それこそが絶対の真実だと、これ以上ない自信を込めて訴えてくる。

 誰か、自分を認めてくれる人がいる。それだけでこんなにも救われた気持ちになれるのだと、ジュンタは初めて知った。

「…………リトルマザー、お前は知ってるのか? あの佐倉純太がいる理由……いや、俺っていうサクラ・ジュンタの偽物がいる理――


「違う!」

 質問を最後まで言い切る前に、リトルマザーの口からは本気の否定が飛び出す。

「偽物なんかじゃない! ジュンタは間違いなく本物だよ! 偽物だなんて言わないで!!」

「リトルマザー……」

 本気で怒るリトルマザーは、ジュンタの頭を寝転がったまま、強引に抱きしめる。
 そうして、母親の胸に身を預けるような安心した温もりを分け与えてくれながら、真剣な顔をする。


「全部ちゃんと話すから。ううん、話さなくちゃいけないの。

 そうよ。こんな日が来ることは予測済みだったもの。確かに……まさか初日なんて予想外だったけど、でも、ジュンタがちゃんと自分自身を認められるように、わたしがちゃんと教えてあげるから」

「…………」

 ジュンタはリトルマザーの言葉に、無言を持って返答とする。

 混乱しているジュンタにとって、それが最大限できる返答だった。

 ジュンタは今、限りなく思考の渦に飲み込まれている。それに気付いたリトルマザーが、恋人の耳元に囁くように、まず最初にそう言い放った。


――ジュンタも気付いたみたいに、この世界には、二人の『佐倉純太』と言う存在がいるわ」






       ◇◆◇







「しかし、本当にあれはなんだったんだろうなぁ」

 自室に足を踏み入れた純太は、ぼんやりと先程のことを考えていた。

 いきなり目の前に現れた、自分とまったく同じ顔をした誰か。理由とか理屈とかを抜きにして、『佐倉純太』だと思った誰か…………あれは一体なんだったのだろう?


 今にしてみれば、今日はなんだかおかしなことが多かった。

 朝の不思議な衝動然り、向かったバイト先で、なぜか今日来店したのが二回目みたいな対応をされたこと然り、さらには覚えのない白銀の髪の女の子と一緒に食べてくれと言われてケーキを貰い、そのあげくにもう一人の自分のような相手との遭遇だ。


「確か、世の中には自分と似た顔の人間が三人はいるって話だよなぁ」

 考えてみれば他人の空似か、自分の勘違い。あるいは白昼夢ぐらいしか考えられない現象だったのだが……不思議と常識的なそれとして受け取ることが出来ない。それならば非現実的なドッペルゲンガーだったと言われた方が、まだ納得できるくらいだ。

「ドッペルゲンガーだとしたら、俺、死ぬんじゃあ…………いやいや、まさかな」


 浮かんだ嫌な予感を打ち消しながら、純太は着ていたコートを椅子にかけて、財布を机の中にしまおうと引き出しを開ける。


「ん?」

 そこで引き出しの中にしまっておいたはずの、財布外の現金が入った封筒がなくなっているのに気が付いた。


「あ、あれ?」


 机の中を探してみるが、封筒は存在しない。どういうことだ? と、純太は心当たりがある場所を探してみるが、しかし見つからない。


「……また、一つ不思議追加か……」


 ここまで不思議なことが重なったら、安易に強盗とも考えられない。まったく持って不思議である――仕方ないので財布をしまい、ベッドに座った純太は、そこでふと思い出す。


「そう言えば、不思議なことと言えば、二ヶ月前にもあったな」


 それは今から二ヶ月前、まだ秋の頃のお話。

 実篤というトラブルメーカーと幼なじみであること以外、極々普通に生きてきて、そして死ぬはずの自分が体験した、奇怪な出来事。バイト帰りの夜道で遭遇した、不思議な発光体の記憶――

「あの光に触れたあと、結局、朝までその場で気絶してたんだっけ? ……こうして考えてみると、案外世の中不思議なことが多いのかも知れないな」

 まぁ、だからどうしたと言う話ではあるのだが。

 それが世界だというのなら、別にそれで構わない。その世界で今まで生きてきたのだから、認識こそ変化しても、これまでの日常に何ら変化などは起きないのだから。


 純太は眼鏡を外し、ボフリとそのままベッドに倒れ込む。

(今日の夕飯は店屋物でいいか。ちょっと、眠い……)

 そう、何も起きない。変化などしない。佐倉純太の日常は、これまでもこれからも変わらない。

 例え、もう一人の自分としか思えない人間に出会っても、純太の立ち位置は揺るがない。そうであるのがこの世の日常として、ただ受け入れて過ごすだけ。

 ――佐倉純太は日常を愛している。

 誰かがどこかで過ごしている、何ともない普通の生活――両親がいて、友達がいて、他人がいて。朝起きて、学校に行って、甘い物を食べて、眠りにつく。そんな当たり前の平穏を酷く愛していた。

 だから純太は、それがこれからも存在し続けると思っていた。

 それが当たり前なのだから、純太はこれが無くなることは想像もしなかったし、ましてや誰かと奪い合う可能性なんて思いもしなかった。

 だから、その居場所が狙われる対象になりうるのだと、その時、純太が気付けるはずもなかった。

 それが当然だから――
 それが佐倉純太の当然だから
――

 そうやって純太は、自分に似た誰かに知らず突きつける。


 ――――この日常世界での佐倉純太の席には、もうすでに自分が座っているのだ、と。







      ◇◆◇






 この世で最も大きな枠組みである『世界』ではない、個人が持つ自己という世界は、リトルマザー曰く『魂』と『精神』と『肉体』からなるのだという。

 存在そのものである『魂』。心の動きや思考を司る『精神』。そして魂や精神の器である『肉体』の三つからなる、世界
――それが他者と己とを区別する、それぞれが『唯一存在』であることの証明らしい。

 故に、自分とまったく同じ存在などこの世にはあり得ない。

魂と精神と肉体(せかい)』を作るものの内一つでも違えていれば、それはもはや別の世界を持つ、まったく違う他人となる。

「確かに、この世界の科学、異世界の魔法。こういった技術を使えば、魂だけ同じ、精神だけ同じ、肉体だけ同じ、あるいはその内の二つが同じ――そういった同じ世界の一部を持つ誰かを作り出すことも可能だわ。
 現にジュンタと、ジュンタが出会った佐倉純太も、同じ魂と精神を持つ相似存在よ。でも、決して同一存在ではない」

 リトルマザーは、黙り込むジュンタに静かに語りかける。

「確かに二人の顔形は同じだよ、元々同じ人間だったんだから。
 ジュンタと、ジュンタが出会ったあの佐倉純太の二人――二人はね、元々一つだった存在なの。でもとある事情から、その魂は同じだけど、精神も同じだけど、でも器である肉体だけは別々に、佐倉純太は二人になった」

 ジュンタという人間の他に、この世界には佐倉純太という同じ魂を持ち、同じ精神を持ち、だけど違う肉体を持った人間が存在するとリトルマザーは言う。

 その説明を聞いて、ジュンタは理解する。

(それが昼間見た、あの佐倉純太の正体――いや、俺の正体か)

 そんな風に知らず自嘲していたジュンタを見たリトルマザーが、声を大きくして、

「ジュンタと、ジュンタが出会った佐倉純太とは肉体が違う。それはつまり世界が違うということ。だからジュンタと彼はまったく別種の存在、同一視する意味はまったくない」

 ジュンタは唯一の存在あると、そう断じた。

 人はそれぞれ、個別の魂、精神、肉体を持っている。


その三つ全てが同じことはあり得ない。
 例えクローンでも、そもそも自分とは別個の存在だろう。ただ自分が元になっているだけで肉体は別々なのだから、それはもう一人の自分だとは言えても、自分自身とは言えない。

 
世界とは自分が自分だという認識に他ならない。
 世界とは他人と自分とは違うのだという確信に他ならない。

 目には見えないものだけど、それは世界という名前では無いのかも知れないけれど、間違いなく存在して、自分と他人とを区別しているものなのだ。

「俺とあいつが出会えた時点で、俺とあいつは違う存在だってことか……」


「そうよ。ジュンタと佐倉純太は元々同じだったけど、今は違う。ジュンタの魂と精神は元々佐倉純太から派生したものだけど、派生した時点で別のものになったの。――だからジュンタは自分を疑う必要なんてないんだからっ!」


 ジュンタも、昼間出会ったあの少年も同じ『佐倉純太』という人間である。しかし二人は別人だ。

故に自分を偽者と感じる必要はない――そうリトルマザーは訴えてくるも、ジュンタは安心することはできなかった。

 

 リトルマザーは恐らく、こっちが自分と同じ姿形をした人間を見て動揺し、自分の存在を疑ってしまっているのだと思っているのだろう。それは正しい。間違いなく正しい…………しかしそれよりも恐怖を感じていることは、大事だと思っているのは、まったく別のことなのだ。


 リトルマザーは心配するような眼で見てきて、


「ジュンタ。だから――


「分かってる。今こうして考えている俺とあいつは元々はまったく同じ、この観鞘市に父さんと母さんから生まれて、生きてきた佐倉純太だけど、今は違うんだってことは分かっている。理解した」

 その言葉を聞いて、リトルマザーの顔がぱぁっと輝いた。
 しかしその表情は、続くジュンタの言葉に再び曇ることになる。


「でも――ダメなんだ」

 ジュンタは間違いなく理解していた。自分が確かに佐倉純太の本物であることを、理解してなお――否、理解したからこそ、苦しんでいた。

 問題はそこではない。
問題視して、困惑して、動揺をしている理由はそこではなく……


例え俺とあいつが違う存在だとしても、ダメなんだよリトルマザー。
 この世界の佐倉純太は向こうの方なんだ。俺が異世界に行った時点で、俺はこの世界での居場所を無くしたんだよ」


――ッ!?」

そう、問題とは、二ヶ月の月日を経て異世界から戻ってきた、佐倉純太という一人の少年の大事なこの世界での居場所に、別の佐倉純太がいることにある。

昼間出会った佐倉純太は、間違いなく秋のあの日――自分が異世界へと行ったあの日、この世界に残ったまま、今日までこの世界で日常を謳歌し続けてきた佐倉純太に違いない。

自分の持つ記憶と思い出――それとまったく同じものを持つ彼こそが、正しくこの世界の『佐倉純太』なのだ。ジュンタも『佐倉純太』には違いないが、この世界の『佐倉純太』という個人が持つ家族や友人、家や故郷、居場所を有しているのは、この世界で絶えず過ごし続けてきた彼の方なのだ。

異世界を知らず、ただ当たり前に人生を歩み続けている佐倉純太と、異世界に行き、命を賭けた結果この世界に戻ってきた自分……

この世界で一つだけある席に座ることが出来るのはただ一人。

そして今その席に座っているのは、自分ではない、もう一人の佐倉純太の方。

 ジュンタにはこの世界での居場所が存在しない。いや、かつて在った居場所に戻ることができない…………そこは、すでに埋まってしまっているのだから。

 それこそがジュンタが悩んでいること。恐怖していること。

 故郷に戻ってきたジュンタが直面した事実――気付いた真実は、もうこの世界に自分の居場所は残っていないと言う真実だった。

「……俺は、どうしたらいい?」


 道に迷った子供のように、ジュンタは顔を歪める。


 二人の同じ人間がいて、一つの席しかないのなら、後は席取りゲームと一緒だ。

 

 たった一つしかないものを二人が欲しがるなら、そこには必ず弊害が生まれる。それは至極当然のことで、だからこそ『先に席に座った方が勝ち。優先され、席を取れなかった方はただ立ち尽くすのみ』というルールが存在している。

 そして、その席取りゲームに知らず負けてしまっていたのが自分なのだと、ジュンタは否応なく理解してしまった。

「俺は、どうすればいい? 居場所がない世界で、俺はどうやって生きれば良いんだ?」


 当然のように、戻ってくればあると思っていた居場所。

それが手に入らないと気付いてしまったとき、ジュンタは途方に暮れてしまった。こればかりはどうしようもない。それは自分の全てを奪われてしまったのと同義なのだから。

確かに、この世界で生きていくことはできるだろう。だが、それはまったく違う人間として、今日から築いていくということになる。それはジュンタが求めていたものとはまったく違う。

 悲しみに顔を歪めるジュンタを見て、リトルマザーは下唇を噛む。

 ここに来てリトルマザーも、ジュンタが問題視しているものに真に気が付いた。


「…………泣かないで、ジュンタ……」

 呆然と空虚な瞳を見せるジュンタを見て、リトルマザーは慰めるために、強く抱きしめた。


 ジュンタは瞳から涙を流していない。しかしリトルマザーの金色の目には、ジュンタが涙を流しているように見えた。


 全てを無くしてしまったかのように、独り、寂しそうにしているジュンタの姿…………それを見たリトルマザーは、何かを決心したように口火を切った。

「あるよ。ジュンタが、元の居場所に戻れる方法が」


 リトルマザーのその一言は、ジュンタの瞳に輝きを取り戻させた。

 ジュンタの視線が動いて、リトルマザーの姿を映す。

 月明かりに照らされた彼女の姿は、あまりにも美しすぎる、残忍な女神を彷彿とさせた。
 その姿に息を呑んだジュンタには分かった。
リトルマザーにその先の言葉を言わせてはいけない、と。彼女がこれから口にする言葉は、悪魔の囁きに他ならないと、ジュンタには分かってしまった。

 だけど、止めるのにはあまりにも甘美な囁き過ぎた。

リトルマザーはジュンタに告げる言葉を少し逡巡したようだった。

その一瞬が唯一のチャンスだったのに、結局ジュンタは彼女の口を塞ぐことが出来なかった。

リトルマザーの金色の瞳は、母親として子を慈しむ、子供のためなら何でも出来るという狂おしい意志を秘めていた。

 リトルマザーは、ジュンタが決して考えないようにしていたその悪魔の方法を、囁きもたらす。


――――佐倉純太を殺しちゃえばいいのよ。そうすれば、ジュンタはこの世界での居場所を取り戻せるわ」










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