第六話 親友
それはまるで、走馬燈を見ているかのような夢だった。
過去にジュンタが過ごした思い出が、情景となって蘇った夢――
幼かった日の体験。
幼なじみでと出会った日。
小学校へと通っていた頃。
中学校を卒業した春。
初めて誰かと喧嘩をした夏。
トラブルに巻き込まれた秋。
海で凍死しかけた極寒の冬。
それどれもに喜怒哀楽の感情があって、思い出があった。
その時その時に出会った人達との触れ合いがあって、今なお続く縁もあった。
幼なじみの実篤は、小学校の頃に出会ってから、ずっと一緒にいた。年中新婚気分の両親は、いつもどんなときでも味方でいてくれた。
思えば…………独りになったことなんて、一度もなかった。
気が付けば誰かが近くにいた。両親や実篤、友達や知り合いといつも一緒だった。
それがあまりにも幸せなことだったから、それが当たり前だったから、続く日常というものをジュンタはとても愛したのだ。
これ以上の幸せなんてないと思ったから、日常が一番大事なものなのだと思った。
なくすにはあまりにも怖くて、もったいなくて…………こんな日がいつまでも続いてくれるよう祈っていた。
でも、それが手から零れ落ちてしまった日。今まであった日常をなくして、立ち尽くしてしまった自分。
立ち止まって――――そしてようやく気が付いた。
日常は大切なもので、失いたくないものだった。けれど、なくなったからと言って、そこで立ち止まってはいけないものだったのだ。
これまでの日々を生きてきたように、するべきことは変わらない。
これまでの幸せのように、新たな幸せを見つけることこそが大切なのだろう。
後悔にはまだ早い。そんなものは、続きがなくなったその時にすればいい。
嘆くのはもう終わりにして、一度立ち上がったのなら後ろを見るのはもうやめよう。
生きている限り、後悔は思い出に変わるかも知れない。いや、変えるために生きていく。
過去の思い出は流れていく――それは佐倉純太が持っていた、そしてこれからも持って行く思い出。
失ってしまった日々は、未だ色褪せることなく綺麗な世界を残している。
これまで自分を幸せにしてくれた日常に感謝をして、そしてそんな綺麗な日々を過ごした自分が、幸せになれないはずがないと信じて、歩き出すことをしよう。
夢の中での誓いは、結局目を覚ませば忘れてしまうだろうけど、それでも誓ったと言う事実は消えることはない。
過去じゃなく、未来じゃなく、現在を幸せに生きるために誓う。
「日常をこの手に。俺は自分だけの居場所を、何度だって作ってみせる」
過去の日に、未来の瞬間に、現在の自分の前に広がる――――彼方の世界に。
「んぁ……?」
ジュンタはカーテンの隙間から差し込む光を受け、ゆっくりと覚醒した。
冬の静かに冷えた早朝の空気。外気には触れていないとしても、冷たいのだと分かる不思議な空気。
目覚めは今までにないほどすっきりとしていた。
何か夢を見た気がするが、それは覚えていない。ただ、その夢は自分にとって大事なものだったのだろう。頬には濡れた痕があるが、とても幸せな気分で朝を迎えられたのだから。
「そんないい朝だってのに、どうして俺の両脇で寝ている輩どもは、その雰囲気をぶち壊しにしてくれるかなぁ」
実篤の部屋の床――二つの布団をくっつけて、自分を含めた三人がここで眠っていた。
昨夜、こちらの世界では行くところのないジュンタとリトルマザーの今日の寝床として、候補に上げられる唯一の場所が実篤の部屋だった。
ジュンタはともかくとして、リトルマザーは相当嫌がったが、最後には折れた。
そうして自分を真ん中にして、三人一緒に眠ったのだが…………リトルマザーと実篤の眠り方は些かおかしい。
す〜す〜と安らかな寝息を立てているリトルマザーは、寝相こそいいのだが、なぜか身体を思いきりこちらに擦り寄せながら眠っている。身体の半分以上がジュンタの身体の上に乗っている状態だ。
リトルマザーは軽いし女の子だ。
彼女の今までの生活を考えてみれば、そういう風に眠られることに、さして問題は感じない。
しかし実篤の方はダメだった。
宮田実篤という男。何気に完璧超人に近いのに、その寝相は最悪なのである。
今はどうしてか、眠っている向きが昨夜とは反対となり、その足はジュンタの顔に微妙に当たっていた。身体は捻れたように床に投げ出されているし、毛布などドアの前へと弾き飛ばされている。
「まったく、なんだか似た二人だよな」
ジュンタは白い目を向けるのを止めて、子供みたいな二人に笑みを作る。
実篤の足を退かし、リトルマザーを優しく抱えて所定位置に戻し、毛布をちゃんと掛けてあげる。 それから音を立てないように起きあがり、部屋の窓へと近付いた。
カーテンが引かれた窓の外には、見慣れた住宅街の風景が見ることができた。
位置的に横へと視線を注げば、懐かしの我が家を見ることもできる。自室こそ見えないが、それもベランダに出れば可能だろう。
しかしそれはできない。
もしそんなことをして、この世界に暮らす佐倉純太に見つかったりしたら大変だ。こちらから見えると言うことは、向こうからも見ることが出来るわけであるからして。
ジュンタは宮田家に泊まったが、実篤の両親とは顔を合わせていない。いや、こっそりとやってきたために、実篤の両親はジュンタたちが泊まったことを知らない。自分の姿を実篤以外の誰かに晒せば、後々問題が起きる可能性があったために、自由に出歩くことさえできないのだ。
自分も佐倉純太であるために、こちらの世界の自分とまったく同じ姿をしている。
今でこそ目の色が黒と金で違うが、遠目から眼鏡越しだと、それもほとんど分からないだろう。
佐倉純太が同じ世界に二人いる――その弊害は、気にしなければどうってことないこと。しかし気にしてしまえば、とても強い束縛を与えるものだ。
これからこの観鞘市で生きていくということは、つまりはその束縛を背負い続ける…………そういうことになる。それは、少し想像するだけでも疲れそうだった。
(これから、どうするかな……)
昨夜、自分が生まれた理由を知ったジュンタだが、それを聞いたからといって、これからの目的が決まったりはしなかった。
異世界のマザーに望まれた、救世主であるために生み出された自分――
勝手と言えば勝手な話だが、今更どうこう言っても仕方がない。
こうして一人の存在として自我を持っている限り、今更一人の佐倉純太に融合でもして戻ることなど許容できるはずもない。それは結局違う自分になることで、自分の消滅を意味している。
「どうするかなぁ……」
未だ、悩みは尽きない。
これから自分がどうなるか、それもまだ分からない。
しかし、ジュンタはもう絶望に似た空虚など抱いてはいなかった。
これから自分がどうなるか不安だというのではなく、むしろ何でも出来るが故に何をして良いか分からない――そんな贅沢な悩みと思えば、こんな悩みは全然平気だった。
そのまましばらく、ジュンタは外を見ながら悩む。
「よしっ」
その時、何か予感を感じ、ジュンタは窓を開いた。
人間一人くらいが通れるだけの隙間を開くと、そこから冷たい外気が入り込んでくる。
外気は相当冷たく、部屋の中を振り返ってみると、リトルマザーが暖を求めてゴソゴソと動いていた。その小さな身体は、やがて実篤の身体へと辿り着く。リトルマザーは彼から毛布を奪い取ると、身体だけを器用に蹴飛ばしてみせた。
「……んぅ…………」
一枚毛布を獲得して、リトルマザーが幸せそうな声を上げる。逆に実篤は寒さで身体を震わした。
その微笑ましい様子に軽く笑みを浮かべて、ジュンタはベランダへと出る。
先程この行動を忌諱したのは忘れ、窓を閉めると、ベランダの手すりへと登り始めるのだった。
◇◆◇
吐く息は白く、ジュンタはもっと暖かい格好をして来ればよかったと、高校の廊下を歩きながら思った。
格好は起き抜けと同じ。昨日からずっと着ている制服姿である。
コートの一枚でも羽織って来ればよかったと、そう思うのも当然の格好だった。
「寒い」
制服のポケットに手を引っ込め、すっかり冷えてしまった手を温める。
校舎の中は外に比べれば遥かにマシだが、宮田宅から学校まで歩くだけで、睡眠時に上がった体温はすっかり下がってしまった。
(ちょっと考えなしだったかな、学校に行こうなんて)
今いる場所はジュンタの通っていた高校である。
日曜である今日、早朝のこの時間は当たり前として校門が閉まっていたが、無理矢理乗り越えて入ってきてしまった。
そんなことをしたのは実は結構な回数だったりするが、それは特に気にしない。
ただ日常を過ごしていた頃、一日の間、そのほとんどを過ごしたこの学校に行ってみたかっただけなのである。きっと門越えも許されるに違いない。
実篤もリトルマザーも起きていなかったし、早朝なら誰かに見られる心配も少ない。
昨日はのんびり校舎を見る時間もなかったため、一度こうして見ておきたかった。それが今の自分には必要なことだと、ジュンタは感じていた。
ジュンタは一人、のんびりと校舎を回る。
特に懐かしさを感じるほど離れてもいないが、それでも鍵束片手に校舎を歩き回っていると、昨日なんかとは比べものにならないほどに感慨がこみ上げてくる。
昇降口に張られた、学生新聞。
廊下の窓から見える、観鞘市の景色。
何度も呼び出しで通ることになった、職員室前廊下。
よく昼食を食べた中庭や、よく呼び出された裏庭。
実篤のイベントに付き合って、色々と使用したグラウンドや体育館。
馬鹿なことに巻き込んだ罪滅ぼしに、実篤によく奢らせていた食堂。
一年と半年――その間、ほぼ毎日のようにやって来て、そして過ごした学校。
隣には騒がしい幼なじみがいて、その他の友人も、類は友を呼ぶ要領なのか何かとおかしな連中が多かった。
騒々しい毎日。進学校で出来た思い出とは思えない思い出が、次から次へと思い出される。
ジュンタは一周グルリと校舎を回ってから、それから自分の教室へと歩いていく。
胸が少しだけ痛かった。もう、ここには自分のいる居場所はないのだと、そう分かっていたから痛かった。
ジュンタにとって、学校は日常の象徴の一つであった。
幼い頃から、当たり前のように通っていた場所。
小学校、中学校と来て、そして少し前まで通っていた高校は、親友や家族と並んで日常の象徴だった。
実篤には会った。だけど昨日、両親に会うことは出来なかった。
そして学校に来ることも、たぶん、これが最後のことになる可能性が高い。
最後になる…………だから、最後にしっかりと目に焼き付けたかったのかも知れない。だから、自分は学校に行こうと思い至ったのだろう。
そんな自分の行動こそが、きっと、サクラ・ジュンタにとっての答えに違いない。
無意識と言うつもりはないが、勝手に行った行動には間違いない…………勝手に、こうしようと思ったのだ。
「そうか、俺はやっぱり……」
ジュンタは自分の教室の前まで辿り着き、その戸に手をかけたところで気が付いた。
これからどうするかなんて、リトルマザーと実篤から話を聞く前に、あのもう一人の自分と出会った時に――――もしかしたら、この世界に来た時に決まっていたのかも知れない。
それを認められなかったことが、恐らくは本当の弱さだったに違いない。
自分はもう選ぼうとしていたのに、もう片方の選択肢に未練タラタラでしがみつこうとしていた。
まったく情けないな、とジュンタは苦笑しつつ、教室の戸を開く。
「――遅かったな。お陰で風邪を引きそうだ」
そして教室に制服姿で突っ立っていた実篤の言葉に、より苦笑を強めた。
ジュンタは後ろ手で扉を閉める。
瞼を閉じれば、この教室で授業を受けていた時、友人と談笑していた時、実篤と昼食をとっていた時と、色々な瞬間が思い出せる。
あれから二ヶ月――愛すべき我が教室は、何の代わり映えもしていなかった。
ガランとした机と椅子は少しもの悲しいが、それを払拭して余りあるトラブルメーカーがいる。それだけで、ここは世界一騒がしい日常風景を生み出していた。
ジュンタは窓際にある自分の席に歩いていき、椅子に腰掛ける。
そして同じように目の前の席に座った実篤に、静かに声をかけた。
「実篤、お前こんなところで何してるんだよ?」
その問い掛けは、恐らく佐倉純太が幼なじみにかけた言葉としては、最も多い言葉だろう。何かと意味深で意味不明なことを好んだ実篤だから、ことの次第を尋ねる言葉は多かった。
そして実篤はいつもそれに笑って答えるのだ。
「なに、一番の親友の悩み相談などをしてみようかと思ってな」
「そっか……そりゃあ、お前にしては珍しくまともなことだな」
二人、顔を見合わせて笑みを浮かべる。
軽口もいつも通り。例えサクラ・ジュンタという少年の存在は少しおかしくとも、実篤に取っては変わらぬ幼なじみであるということなのだろう。
それが嬉しくて、ジュンタは実篤に心境を吐露し始めた。
「……もうこの世界には、俺のいるべき居場所はないんだろうな。大事だった、大切だった場所には、俺はもういることはできない」
「そうか」
「新しくこっちの世界で居場所を作ろうにも、観鞘市内だと色々問題があるだろうし……どうしても昔のことを思い出して辛いと思う。新しい居場所を作る自信はあるけどな」
「確かに、ジュンタならばゼロから新しく始めても、すぐに居場所を見つけ出すことは可能だろうな」
実篤が穏やかな声で相槌を打つ。
ジュンタは、人に言うことで自分の中の考えを急速に纏めていった。
(そう、もうこの街にはいられないんだ)
もう自分の持つ、幸せな過去には縋れない。
それはもう、居場所を作ってくれる過去ではなくなってしまった。美しく、楽しい思い出で、それは今を生きる原動力としてのみ、心の中に在り続けるもの。
「新しく居場所を作る。それなら少しでも居場所のある場所に、ここ以外で居場所を作りたい場所に行きたい……そう思っている自分が、確かにいるんだ」
ジュンタは昨日のことを思い出す。この世界に戻ってきたことを、認識した時のことを思い出す。
あの時、確かに自分は思ったのだ。大きな喜びの影に隠れた、小さな悲しみと寂しさを。
こちらの世界に戻ってきた時、それはこっちの世界で生きて行くことだと思った。日常に戻って、もう非日常には出会わないことだと思った。
その時、僅かながらに迷ったのだ。あの世界から遠く離れ、自分は本当にこっちの世界で生きていきたいのか、と。
「その場所は、どこにある?」
答えを言うのではなく、答えを言えるように、実篤は促す言葉を向けてくる。
すでにジュンタの心の片隅には、明確な答えが見つかっている。それを認めろと、そう実篤は言っていた。
「この世界じゃない、遠い世界に」
ジュンタは実篤の言葉に答え、そして自分の気持ちを少し認めた。
今残っている、自分だけの居場所。故郷に居場所が作れないならば、その次に居場所を作りたい場所――それはたった一つ、僅か一ヶ月にも満たない思い出に他ならないと、そう認めた。
「そこには、ジュンタが見てみたいと思うものがあるのか?」
再び、実篤が質問を向けてくる。それにははっきりと頷いて答えられた。
この世界から遠く離れた、残された居場所。
そこには望んだ日常はなかったが、それでも楽しいと思った場所があった。出会えて嬉しいと思えた人たちがいた。綺麗だと、そう焦がれた少女がいた。
その少女を想う気持ちは、自分にとって決して譲れないものの一つ。命を賭けたように、それは決して譲れない想いとなっている。
ジュンタは自分の気持ちを、今度はちゃんと認めた。
「ああ、ある。見てみたいものが、ある。会いたい奴が、そこにはいる」
「なら、答えはすでに出ているのではないか? 会いたい奴が、そこにいるのならばな」
たった二つ。答えを促したあと、実篤は早くもそう述べた。
そう早くも述べたのなら、実篤はそれが正しいと、そう考えているということ。お前はどう思っているのだと、実篤は訊いているのだ。
ジュンタは実篤の真剣な眼差しを受けて、瞬きをする。
瞬きの間――一瞬だけ、自信満々に笑う紅い少女の姿を幻視した。
本当にまだ少ない思い出だけど、その少女との思い出は心の中に確かにあって、そして強い輝きを放っている。
ジュンタに日常を諦めさせたほど、その輝きは強く、美しい。
今は遠く離れているけど、恋い焦がれるほどに、あまりにも眩しい光――
「俺は……」
認めてしまえばいいと、そう実篤は言った。
認めるべきであると、そうジュンタは考えた。
我がことながら、少しだけ気恥ずかしく思うが、それは本音である。
ならば認めてしまえばいい。これから自分はどうしたいのか、どうしようと思っているのか、それをただ認めてしまえばいい。
――――心奪われた少女にもう一度会いたいと、そう認めてしまえばいいのだ。
「そうだな、認める。認めたよ。
実篤。俺は、リオン・シストラバスっていう奴に会いたい。いや、会いに行くよ」
ジュンタはそれを認めた。一度は日常という名の下に押し殺した想いを認め、自分の一番の親友である少年に言い切る。
「――――俺は、もう一度異世界に行く」
別離の言葉は、だけど穏やかに。
「そうか。なら、行ってこい」
背中を押してくれる実篤の言葉も、やはり穏やかな声だった。
◇◆◇
「異世界に行くですって!?」
実篤の家に戻ったジュンタが、ようやく目覚めたリトルマザーに、決まった答え――異世界にもう一度行くということを話したところ、なにやら衝撃を受けたような表情をされた。
眠気は一瞬で覚めたようで、動揺を隠しきれていない。
この一言は彼女にとって予想外のものだったらしく、怒っているのか、悲しんでいるのか、喜んでいるのかよく分からない複雑怪奇な表情となっている。
そんなリトルマザーとは違って、頷き一つでジュンタの異世界行きを納得した実篤が、腕を組んで神妙な顔で言う。
「一度異世界へと連れて行ったのだ。可能だろう?」
「た、確かにそれは可能だけど……それでジュンタは本当に良いの?」
リトルマザーの戸惑いの瞳に見つめられながらも、ジュンタは決意を鈍らせたりしない。
「ああ、もう決めた。俺は異世界に行く」
「で、でも、まだこっちの世界に来てから一日しか経ってないし、そんなに早く決めなくても!」
どうやらリトルマザーは異世界には行かせたくないらしい。いや、それは違うか。たぶん彼女は、僅かな期間で異世界行きを決めたことに憂いているのだ。もっとじっくりと考え、それからでも選択するのは遅くないと、そう彼女は言いたいのだ。
だが、揺さぶられそうなことを言われても、ジュンタに変更の意思はない。
すでに学校で決心したのだ――異世界に行く、と。
「ほら、こっちの世界で生きていく道もあるし、そのための協力ならわたしもするからっ!」
「いや、もう決めたんだよ。答えを出すまでに費やした時間とかは関係ない。俺は、向こうの世界に行くって決めたんだ」
「でもっ!」
リトルマザーは声を荒げ、
「もう一回向こうの世界に行ったら、もう戻って来られないんだよ?」
「なに、そうなのか?」
初耳だといった感じで、実篤が眉を顰める。
「一度も二度も、三度目以降も移動するのには変わらないのだろう? ならば、どうして一度向こうに行ったら、二度と戻ってこられないということになるのだ?」
確かに、実篤の言っていることはもっともだ。
一度異世界に連れて行き、そしてこの世界に戻ってきた。それならもう一回異世界に行き、戻ってくることも可能なのではないか?
「……方法としては可能だわ。でも、異世界で唯一それが出来るわたしが、それを行使することができないの。だからもう一度異世界に行ったら、ジュンタは戻れない」
「なるほど、そういうことか」
リトルマザーのその言葉に、実篤は納得したように頷くが、ジュンタには今一言葉の意味が分からなかった。
どういうことだ? と視線に念を込めて実篤を見ると、
「リトルマザーはな、異世界ではジュンタを手助けすることができないのだ。全てが始まる前か、全てが終わった後にしか彼女は動くことができない。今回のようなことは、例外中の例外なのだよ」
「そうなのか?」
ジュンタが視線を向けると、リトルマザーは小さく頷いて見せた。
「うん。正確に言えば、オラクルを行っている最中に介入して、手助けすることが出来ないの。
ジュンタが異世界に行くってことは、望む望まないに関わらず、次のオラクルに挑むということになるもの。わたしは手助けすることが出来なくなる」
「そうか、オラクル…………そういうことか」
使徒が新人類へと至るために必要な、肉体的及び精神的試練――オラクル。
それは新人類になろうとしなくても、使徒である限り絶対に付きまとってくるものだ。
自分が行動を起こさなければいいオラクルならともかく、ジュンタにとっての一番目のオラクルであった『竜殺し』のように、試練が向こうからやってくる場合もある。
世界渡りが出来るほどの力を持つリトルマザーは、オラクルを手伝えない――恐らくは、そういうマザーとの契約になっているのだ。オラクルをしている最中は、いかなる状況でも手助けをすることはできないという契約に。
(まぁ、言われてみれば、リトルマザーが助けてくれるなら、俺が死にかけることもなかっただろうし……)
少し思い返してみて、ジュンタはリトルマザーの言葉に得心する。
異世界にもう一度行ったら、もう二度と――少なくともオラクルを全て達成するまでは――リトルマザーに会うことはできず、こっちの世界に戻ってくることが出来ないのは、変えようのない事実に違いない。
「どうするジュンタ? もう一度考え直してみるか?」
「いや――」
確認を込めた実篤の問いに、ジュンタは首を横に振って答える。
ジュンタは、二度と戻って来られないかも知れないということを納得した上で、
「――俺はやっぱり異世界に行く」
そう、言い切った。
二度目の決意の表明。それはリトルマザーにも届いたのか、彼女は一度目を伏せた後、
「分かった。元々わたしはジュンタを連れ戻しに来たんだから、そう言われたら是非もないわ…………でも、一つだけ約束して」
「約束?」
リトルマザーは外見年齢に似合わない、母親のような面持ちで、
「幸せになって。わたしが言ってもいいような言葉じゃないけど、わたしはジュンタに幸せになって欲しい。だからこっちの世界に残るより、幸せになるって約束して」
「リトルマザー……」
真剣な、嘘偽りない想いが伝わってくる。
彼女が本当はどんな気持ちを自分に向けているか、それはよく分からない。しかし紛れもない愛情を、ジュンタはリトルマザーから感じた。
それがジュンタにはとても嬉しく思えた。こっちの世界では居場所をなくした自分でも、少なからず自分を想ってくれる人はいるのだ、と。
「――ああ、もちろん。約束する。行くからには、絶対に幸せになるさ」
ジュンタはリトルマザーと約束を交わす。
リトルマザーは一つ頷くと、一瞬で態度を豹変させる。いつも通りに戻った、と言った方が正しいか。
「うん。ジュンタがそう決めたなら、わたしはもう何も言わないよ。よしっ、ならオラクルを無視して幸せになって、そうやってマザーに復讐しちゃえ!」
そう言って、リトルマザーは飛びついてくる。
ジュンタは軽い身体を受け止めつつ、異世界に行くことに対する詳細を尋ねる。
「異世界に行くのはいつでも出来るのか?」
「いつでも……っていうわけじゃないけど、月が出ている日ならいつでも出来るよ。満月だったらベスト。新月は……う〜ん、ちょっと無理かも」
「ほぅ、月の満ち欠けに魔法行使は関係有るのか?」
リトルマザーの説明に実篤が食いつく。
なにやらやけに熱意を感じるが、何か魔法に関係あるのだろうか?
異世界に行った方のサネアツの方をジュンタは思い出し、そう言えば彼が魔法を嬉々として使っていたことを思い出す。やはり同じ宮田実篤なので、その辺りの興味は変わらないようだ。
「別に満ちかけが関係あるわけじゃなくて、わたしは月を『ゲート』にしてこっちとあっちを行き来してるから。よく分かっているものの方が、入り口出口としては使いやすいのよ。わたしの世界にも月はあるし」
「ほぅ、つまりは自己暗示のイメージを強固する意味合いか? しかし月が実際に満ちかけしているわけではないのだから、あまり関係ないと俺は思うのだが?」
「何言ってるのよ? 月のイメージですぐ思い浮かぶのは、夜空に浮かぶ月の方じゃない」
あーだこーだと言い合っているリトルマザーと実篤――ジュンタはそんな二人から離れ、部屋の窓へと近付いていく。
(二度と戻って来れないかもしれない、か……)
窓の外の、故郷の姿を見つめながら、ジュンタは軽く胸を痛める。
生半可な気持ちで異世界に行くことを決めたわけじゃないし、異世界に行きたい理由も確かにある。だが、他にも様々な気持ちがあるのは隠しようもない。
この世界にいることが辛い。自分じゃない自分がいる、この世界を見ているのが辛い。
それも理由としては大きい。正直に言えばジュンタは、もう一度もう一人の自分に出会ったら、自分が何をしてしまうか分からなかった。
佐倉純太にその意思はなかったとしても、自分の居場所は彼に奪われたと言ってもいい。
こちらの苦労も知らず、のほほんとしている彼を見たら、恐らく拳の二、三発は飛ぶだろう。いや、五、六発…………十発くらいは。
でも結局、彼から居場所を取り戻すような真似はできない。
奪い取るという行為は、彼から居場所を奪う行為は、とてもじゃないが出来そうもない。
なぜだろうかと言われたら、それは一人の少女の所為である。お陰、と言い換えても良い。彼女に出会う前の自分だったら、命を賭ける前の自分だったら、あるいはあの時のリトルマザーの言葉に頷いていたかも知れない。
「…………リオン」
ポツリと、ジュンタは遠い世界にいる少女の名を呼んだ。不思議と、そうすると傷む胸が癒された気がした。
彼女がいる異世界と、もう居場所のないこの世界――その天秤の受け皿には、思い出や感情という名の分銅が乗っている。
未練はある。――だが、後悔はない。
「旅立ちは、明日か……」
故郷の朝の空に浮かぶ、薄い大きな月をジュンタは見上げる。
異世界に渡るのに最適な満月の日は、ちょうど明日に迫っていた。
◇◆◇
半日街で遊んだ疲れは、どうやら異世界の魔法使いの身をすぐに眠りの世界へと誘ったようだ。
幼い子供のように、安心しきった無垢な寝顔を見せるリトルマザーに、ジュンタは布団を被せてから、静かに部屋を後にする。
今夜の宮田家には実篤の両親がいない。
証券マンの実篤父は地方へ出張。ファッションデザイナーの実篤母は、ファッションショーに招待されてこれまた出張。よって、今夜は実篤の部屋に閉じこもっている必要はなく、ジュンタは一階へと下りることが出来たのであった。
何度も来ているため見慣れたリビングには、すでに猫の足跡がプリントされたパジャマを着た、実篤の姿があった。
彼の手にはワインボトルと二つのグラス。ジュンタは目敏くワインの種類を確認した。
「それ、親父さんの秘蔵のワインじゃないのか?」
実篤の父親は酒には弱いが、コレクションするのは好きなのである。
以前も実篤が勝手に持ち出し、大目玉を食らったことがあるのをジュンタは知っていた。まぁ、そこは実篤だから、最後の辺りではなぜか、コレクションはするが飲まないなんて悪だ、いやコレクションすることに意味があるのだ、と親子で論争になっていたが。
「親友の旅立ちの門出を祝うのだ。説教の一つや二つくらい別に構わんさ」
楽しそうに笑って、実篤は言い切る。それからグラスをリビングにあるテーブルに置き、当然のように二つともに並々と注いだ。
促されるようにソファーに座ったジュンタの手に片方を渡し、自分も持って掲げる。
ジュンタは諦めたようにグラスを持って、実篤のグラスへと近付ける。
「何に乾杯するんだ?」
「もちろん、ジュンタの旅の門出を祝ってだ」
当然だろう? と実篤は視線だけで訊いてきて、先に言葉を口にする。
「ジュンタの旅路が――」
「――平和であることを切に祈って」
『乾杯』
ジュンタが一番相応しいと思う言葉を返して、そして最後に二人声を揃えてグラスを合わせた。
小さめのグラスに入ったワインをジュンタは一気に煽る。
香りよい味が口の中に広がり、脳が膨れあがったような何とも言えない多幸感が染み渡る。
「うむ、さすがは親父だ。こんなワインを隠し持っていようとは」
ジュンタと同じように、一気にグラスの中身を開けた実篤が、ワインボトルを掴みながら自分の父を賞賛する。そう彼が言うからには、このワインは相当高いものなのだろう。
コルクを抜いてしまっているため今更だが、複雑な味も分からない自分が飲むことに少し遠慮してしまう気持ちが働く。
しかし実篤によって二杯目が注がれると、そんなことはどうでもよくなる。どうやら、もう少しアルコールが回っているようだ。
ジュンタは二杯目に、今度は味を楽しむように少しずつ口を付ける。
少しだけ頬が赤みを帯び、少しだけほろ酔い気分と言ったところだ。
実篤は父親と同じく酒に弱いため、一杯ワインを開けただけでかなり真っ赤になっている。酒癖は大人しい実篤は、酒には強くも弱くもないが酒癖が悪いジュンタとは逆である。
互いにほとんど無言で飲んでいたが、ジュンタが二杯目を半分ほど飲んだ頃――実篤がつまみだと言って、チーズやら冷凍の唐揚げやらを皿に乗せて持ってきたのを皮切りに、会話の口火は切られた。
別にお互い遠慮をする間柄じゃないため、黙っていたのは純粋に雰囲気を楽しんでいただけだ。話し始めれば、ワインはほとんど無視される形になる。
二人の会話の内容は、互いが互いと一緒に過ごしていない間――つまりジュンタの異世界での体験がほとんどを占めていた。
「つまり、そのリオン・シストラバスなる女を助けるために、命を賭けたと?」
「ま、まぁ、そんな感じだな」
軽く酔っていたので、恥ずかしいこともジュンタは口を滑らして話してしまった。
特にこっちの世界では女っ気のないジュンタの、向こうで出会った少女の話になると、実篤の食いつき具合は断然違う。目を爛々と輝かせ、愉しそうな笑みで存分にからかってくる。
「なるほどな。ジュンタのタイプがそう言った感じだったとは、これからは要チェックをしておかなければ」
「言うな。自分でも、その、なんだ……」
当たり前と言えば当たり前なのだが、その辺りは異世界に行って猫になったサネアツと、まったく同じ反応である。
応答に困ったジュンタはワインに口を付けて、言葉を濁す。
実篤はしばらくニヤニヤと笑ったのち、少しばかり真剣味を帯びた表情に変える。
「ところでジュンタよ。旅立つお前に、何か俺に出来ることはないか?」
「なんだよいきなり?」
真っ直ぐに見られたジュンタは、意味が分からずきょとんとする。
ワインも二杯目を開け、アルコールが徐々に思考を蝕んできており、常の冷静な思考回路の働きが鈍い。どうして実篤がそんなことを言うか、ジュンタにはよく分からなかった。
「俺は、異世界に行った俺に全て任せてしまった宮田実篤だ。ジュンタが背負った問題に、俺は関われない、関わらない場所にいる。今こうしてお前と語り合うことが、そもそも奇妙なことなのだ。
ただ、こうなったからには無関係ではいたくない。この世界に残る俺が出来ることなどたかが知れているが、取りあえず――」
実篤はソファーの後ろに手を伸ばし、ジュンタの位置からでは見えなかった場所から、大きなリュックを取り出した。
「――サバイバル道具に、当分の食料や着る物。腕時計などの換金できそうな品物に、その他異世界に行くに当たって必要そうな物を用意してみた。リトルマザーに訊いたところ、身に着けている物ならば、一緒に異世界に持って行けるようだからな」
大きな――それこそ長期旅行用のスーツケース並のリュックは、パンパンに膨れあがっていた。
取りあえず、必要な物は全て詰め込んで見ましたけど何か文句でも? と言った感じの仕上がりである。
異世界に行くと言ったはいいが、まさかこっちから何かを持って行くという発想はなかったジュンタは、少しポカンとした後、実篤に対して頭を下げた。
「悪いな、助かる」
「いいさ、これぐらい。新たなる旅へと赴く戦友にしてやれることなど、俺にはこれくらいしかないのだからな」
実篤はリュックをテーブルの下に置いて、
「それで、だ。他に俺にしてやれることはないか? なんでもいい。欲しい物があれば遠慮無く言ってくれ。金は最近押収……ゲットしたから、たくさんある」
「いや、これで十分だ」
「そうか? まぁ、何かあったら遠慮なく言ってくれ。ああ、あと向こうの世界に行ったら、向こうの世界の俺に無理難題を押しつけてくれて構わんからな。むしろ押しつけてくれた方が、向こうの俺には喜ばしいことだろうからな」
「そうだ、そのことに対して言っておかなきゃいけないことがあったんだった」
心配顔で、本気で心配してくれている幼なじみにジュンタは改めて頭を下げる。
この騒がしくもお世話になった幼なじみには、言っておかなければいけないことがあったことを、今更ながらに思い出した。
「ありがとな、実篤」
「ん? 何がだ?」
「異世界まで、俺を心配して付いてきてくれて」
宮田実篤という少年は、二つの世界にそれぞれ一人ずついる。
目の前にいる人間の宮田実篤と、異世界にいる白い小猫のミヤタ・サネアツの二人だ。
肉体こそ違うものの、この二人ともが起源を同じくする存在だ。佐倉純太が二人いるように、また彼らも二人存在しているのである。
それもジュンタのようにマザーに勝手に創造されたのではなく、自ら望んで二人になった。
その理由が、新たに生まれた自分を手助けするためだというのだから、感謝しなければならない。
「ありがとう。俺のことを、心配してくれて」
「そ、そういうことは向こうに行った俺に言ってやってくれ。その方が俺も嬉しいと言うものだ」
「ああ、向こうのサネアツには一回言った。だから今度はお前に言わないと。二人共が、俺を心配してくれた実篤なんだから」
今まで誰より一緒にいた幼なじみは、軽く照れている様子だった。頬の朱は、アルコールだけの所為ではないだろう。こういった実篤の姿は、かなり珍しい。
「そういうことなら……まぁ、その言葉は受け取っておくが……むぅ、何かするつもりが逆に感謝されてしまうとは」
酒の力は恐ろしい、と照れ隠しに言った実篤を見て、ジュンタは心の中でもう一度彼にお礼を述べる。
(ありがとな、実篤。お前に会えて本当に良かった)
ジュンタが宮田実篤という少年に出会ったのは、まだ小学生低学年だった頃だ。
新興住宅街の一角に、マンションから引っ越してきたジュンタ。それと時を同じくして隣の家に引っ越してきたのが実篤だった。
同じ観鞘市内とはいえ、ジュンタは当時まだ幼く行動範囲は狭かった。
以前住んでいた場所とは校区が違ったため、友達もいない。それは県外から引っ越してきた実篤も一緒だったため、二人はすぐに一緒に遊ぶようになった。
学校も同じでクラスも同じ。当時実篤もそこまでぶっ飛んだ性格ではなかったため、二人は親友と呼べるほど仲良くなった。
他の友人は増えても、徐々に実篤の言動が変人と化してきても、やはり二人の一番の友達はお互いで、出会ってから今まで、ずっと色々なことを一緒にやってきた。
だからジュンタは、ふと考える。
もし自分と実篤。二人の立場が逆だったら、果たして自分はもう一人の自分を生み出してまで、彼を手助けすることができただろうか?
こちらの世界に残る方はいいだろう、大事な日常を捨てなくてもいいのだから。
でも異世界に行く――それもこちらの世界に戻ることは出来ず、異世界で生きることになった方の自分はどうだろうか?
それは自分の大事な日常を捨てることに他ならない。そこまでの決意を持って、自分は異世界へと行けるだろうか?
その時になってみないと分からないというのが本音だ。が、ジュンタはきっと出来るだろうと、そう直感的に思った。
日常とは昨日と何も変わらない一日のことである。
つまらない営みの繰り返し。同じ世界という名の枠組みの中だけで起こりうる、昨日とは違うけれど、やはり昨日と同じ今日の繰り返し。
それこそが日常であり、ジュンタが大事だと思ったこと。
その中には当然として家族がいて親友がいる。実篤が苦しんでいるのを放って置いて、一人日常を繰り返すことは、それはもう日常とは呼ばない。実篤を見捨てただけで、日常というものは簡単に崩落する。日常は簡単に壊れしまうものだったのだと、こうなって初めて気が付いた。
ならばきっと、自分は実篤を手助けするだろうと、そう思う。
(まぁ、やっぱりその時になってみないと分からないんだけど……)
おかしなことを考えてしまったと、ジュンタは苦笑する。明日故郷を離れるというのに、自分が今考えることはこんなものであるらしい。
…………明日、自分は異世界へと旅立つ。
この世界には佐倉純太が残り、自分が消える。それはきっと正常に戻るということだ。
誰も知らない、誰も気付かない、世界は何一つ変わらず動き続けるだろう。
そうであると願いたい。
自分がいなくなることで、誰も悲しまないことを願いたい。
「……なぁ、実篤。やっぱり二つだけお願いしてもいいか?」
三杯目のワインを明かしたところで、ジュンタは実篤に自分からお願いを口にした。
マイペースに二杯目をチビチビ飲んでいた実篤は、ジュンタの言葉にグラスから口を離す。
「なんだ? いいぞ、なんでも言ってくれて構わん」
「ああ、それなら一つ目。頼む。こっちの世界の俺をさ、よろしく頼む。佐倉純太はお前を親友と思ってる。だから、これからもよろしくしてやってくれ」
「――ああ、もちろんだとも」
赤い顔で頷いた実篤は、口元に笑みを浮かべて、勢いよく頷いた。
ジュンタは頷き返し、それから落ち着いた声で呟く。
「そうか、なら安心だ。もう一人の俺が幸せにならなきゃ、俺も幸せにはなれないだろうからな」
明日、自分は異世界へと旅立つ。
置き去りにするものは、この世界で佐倉純太が得られるはずだった未来だけ。過去も現在も、一緒に異世界へと持って行く。
おかしな力を持って生まれてしまったのだという自分だけど、過去にも今にも、それを自覚したことはない。まったく持って、極々平凡な人生だった。
でも明日、明後日、一月後、一年後…………自分に何があるかなんて分からない。
もしかしたら、異世界に行くことによって何かしらのトラブルに巻き込まれるかも知れない。いや、きっと巻き込まれるだろう。あの世界は、何かと危険に満ち溢れている。
「じゃあ、お願い二つ目だ――実篤、俺には明日一日でしたいことがある。それを、手伝ってくれ」
だからその時になって、こっちの世界に残ればよかったなんて思わないように、心残りは明日の内に果たしておこうと、そうジュンタ思った。
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