第一話 オルゾンノットの姫君 緊張感に凍る壁。圧迫するような重厚な天井。 「諸君。私はとても残念に思っている」 触れれば壊れてしまいそうな空気。 金髪をオールバックにした、まだ二十代と思しき男性だ。仕立てのいいフォーマルなスーツに身を包み、性格の良さを思わせる柔和な笑みを浮かべている。貴族としてこうあるべきという姿を若くして体現したかのような、そんな男性である。 だが目だけが笑っていない。微笑んでいるのに、まったく笑ってない。 「それで、何か弁解はあるかい?」 腕を組んで男性――ゴッゾ・シストラバスが見下ろす先は、円卓の上座とも呼ぶべき場所に座る相手だった。 簡素なドレスに身を包んだ、起伏に富んだプロポーションを持つ女性。ゆったりと革の椅子にもたれかかる姿には、深窓の令嬢を思わせる気品がある。 ゴッゾがこうであるべきという貴族の形を体現しているなら、女性は魂そのものが貴族として在った。見ただけで輝きが違うとわかる。誰もが彼女を前にしては見とれ、騎士であれば頭垂れることだろう。 「ほら、初めてのお使いって重要じゃない?」 「意味がわからない!」 ……もっとも、それは彼女が頭に紅い羽根を突き刺した、鳥の頭を模した被り物を被っていなければの話だが。 「とりあえず、誰か灯りをつけてくれ。今更雰囲気を出すんじゃない」 ゴッゾの指示に、円卓に座っていた誰かが慌てて灯りを灯した。 一瞬にして明るくなる円卓にゴッゾは目眩がした。今は昼間だとしても、ここは地下。太陽の光は届かない。というのに、ここまで一瞬で明るくなったということは、高価な魔法灯を持ち込んだということだ。 額を抑えたゴッゾは、ジロリとした視線を円卓に腰掛ける、なんというかもう色々と哀れな面々を見やった。 騎士甲冑、ドレス、スーツ、執事服、メイド服。着ている服は様々で、やはり身につけた被り物も様々だった。共通して同じなのは、皆動物を模していることか。なんだろう? ここはどこの愉快な森なのか。 「まったく、全員揃って何をしているかと思えば。前に言わなかったかい? 恋愛推奨騎士団は解散だって」 「ふっ、そこに恋愛がある限り、我々は何度でも甦るのだよ。ゴッゾ君」 「お小遣い減らすよ?」 「ごめんなさい。これ以上減らさせたらもう何も買えない。許して!」 卓に肘をついて決めようとした鳥仮面が、ずざーと滑るようにゴッゾの足に縋りつく。 「許して欲しければ全員を引き上げさせなさい。城の地下にこんなスペースを用意して……はぁ、一体どれだけお金をかけてるんだ、君たちは?」 鳥仮面と呼ぶらしい元凶の腕を、ゴッゾは持って立たせる。 「お前もあまり馬鹿なことをやらないでくれ」 「馬鹿なこととは失礼な。恋愛推奨騎士団は高等なわたしの暇つぶしだよ」 「暇つぶしだと認めてたのか!」 「じゃあ、趣味で」 「じゃあって何だい、じゃあって! しかも趣味でも同じくらい悪い!」 これ幸いと体重を預けてきた彼女は、開き直ったのかにんまりと笑った。 「すでに今回の任務は始まってるから、今更止められないよ。そんなことしたら、あの子が路頭に迷ってしまうからね」 「お前に任せると、ここにいる全員路頭に迷いかねないということか?」 「ううん。路頭に――というか、さらわれるかも。かわいいし」 要領の得ない鳥仮面の説明にゴッゾは首を傾げる。 そこで、何やら円卓に揃った皆が一様に気まずい空気を醸し出しているのに気が付いた。その視線は部屋の中央に置かれた、これまた高価な水晶玉に向けられていた。 水晶はここではない別の場所の光景を映し出す魔法の道具で、 「なにぃっ!?」 そこに愛娘が映っているのを見て、ゴッゾは円卓から身を乗り出して飛びつく。 水晶玉には六歳になったばかりのゴッゾの一人娘にして、オルゾンノットの姫君が映っていた。周りをきょろきょろ見回しながら、人々の間をかき分けるように歩いている。 「なんでリオンが?! というより、リオンは今どこにいるんだ!?」 「ふっ、ようやく気付いたようだね。ゴッゾ君。我々、恋愛推奨騎士団の今回の作戦に」 鳥仮面は両手を広げて、高らかに告げた。 「今回の作戦名は、『ドンドンパフパフ! リオンの初めてのおつかい〜!』です!」 「恋愛にまったく関係ないな!」 律儀にツッコミをいれつつ、ゴッゾは苛立った視線を首謀者に向けた。この馬鹿は一体何を考えているのか? 「どうしてリオンがおつかいになんて行っているんだ?」 「最初に言ったでしょ? 初めてのおつかいは重要だって。そろそろリオンにも外の世界を知ってもらうべきだと考えてね。過保護なのは良くないよ、ゴッゾ。リオンも六歳になったんだから」 「……言っていることはまともだね」 たしかに、六歳ともなれば平民ならば家の手伝いをしている年齢だ。 ただ、リオンの場合はやや事情が異なる。たとえば、少し前まで身体が弱かったということや、貴族という立場がしがらみとなって単独行動を許されないといった事情があるのだ。 「さすがに君とはいえ、リオンを一人で行かせたとは思えないが、安全面は?」 「恋愛推奨騎士団の全面的なバックアップの下、すでに何人もの騎士を派遣してるよ。大丈夫大丈夫……けど、ゴッゾが引き上げろなんて命令すると、リオンが一人人混みの中に取り残されてしまうことになるね」 「ぐっ、卑劣な」 「ほら? どうするの? わたしのお小遣いをアップしてくれるっていうなら、これまでと同様にリオンを見守ってあげてもいいよ? ん?」 「母親の言葉とは思えない! 娘を人質にとって夫を脅すな!」 はぁ、とゴッゾは叫んだあと溜息をついた。 とはいえ、今回は鳥仮面の運の良さが自分を上回った。 リオンはおつかいということで都の中を今一人で歩いているらしい。ゴッゾ――書類上では鳥仮面――の統治している場所だ。その容姿からリオンがどんな立場かは一目瞭然にしても、そう易々と危険な目に遭うことはあるまい。 それに、どうせ暇つぶしの建前だろうが、鳥仮面の言にも一理ある。そろそろリオンにも、外の世界を自由に歩くことを教えてもいい頃合いかも知れない。 ……というか、そんな風に前向きに捉えないとやっていられなかった。 「わかった。わかったよ。今回に限り恋愛推奨騎士団の活動を認めよう」 「わたしのお小遣いは?」 「それは関係ないだろう?」 「ああ、かわいそうなリオン。ゴッゾがお小遣いを出し渋るから、怖い男たちに連れ去られ、あんなことやこんなことやゲヘヘ恨むならケチな父親を恨むんだなあ〜れ〜みたいな目に遭っちゃうんだそうなんだ」 「……お小遣いを、あげようじゃない、か」 「わ〜い」 きゃっほう、と万歳三唱する鳥仮面に、ゴッゾは断腸の思いで約束した。 「代わりに采配にはきっちり参加させてもらうよ。お前一人だと怖くてしょうがない」 「それじゃあ、ゴッゾにもこれを渡しておかないといけないね」 色々と疲れたので円卓の席に腰掛けると、鳥仮面がずいっとそれを差し出してきた。 自分と同じ、鳥を模したファンシーな被り物を。 「ほれ」 「いや、さすがにこれは」 「ほれ」 「人としての尊厳が――って、何だお前たち?! どうして私の腕を掴む!?」 ゴッゾは四肢を屈強な仮面の騎士たちに拘束される。そのファンシーな瞳が『お前だけ逃れられると思うなよガオ?』『大丈夫。すぐに慣れるモグ』『僕たちは森の愉快な妖精さキシャー』と語っていた。 そんなこんなで…… 「ペアルックだね」 「…………」 「ラブラブカップル。こういうの何て言ったかな? 新婚さん? 比翼の鳥?」 「…………頼む。何も言わないでくれ」 鳥の仮面を被せられて、なぜかいつも以上に妻に甘えられる――ゴッゾ・シストラバス、二十代最後の冬だった。 水晶玉に映るリオンは紅い髪をはね回らせ、オルゾンノットの都に住む人々の視線を集めながら、小さな身体をいっぱいに動かしてはしゃぎまわっていた。 ゴッゾとて、リオンを連れて市井を散策したのは二度や三度ではきかない。しかし誰もいない、一人で見回す景色はやはり違うのだろう。小さな瞳は星がいっぱい散らばっているかのように輝き、落ち着きを知らない小動物のようにきょろきょろ首を動かしている。 「和むね」 「ああ、癒されるよ」 隣りあって鳥仮面×2は娘の微笑ましい光景を観覧していた。 ついでに、リオンが動くたびにコソコソとあとをついていく、市民に扮装した騎士たちの働き様も。 どれだけ鳥仮面♀の采配が雑でも、リオンを影ながら守る騎士たちの練度は優れている。物影からリオンを見つめる怪しい男の影がちらついた瞬間、背後に回った一人が暗がりへ連れ込んだ。 「これならリオンの身に危害が加わるような事態はなさそうだね。良かった良かった」 「映像としては面白味にかけるけど。リオン、お笑いがわかってない」 酷評家のようなことを隣の馬鹿が言っていたが、ゴッゾは娘の成長を純粋に喜びながら映像を見続けた。 「そういえば、お前はリオンに何のおつかいを頼んだんだ?」 「ん?」 あっちへ行ったりこっちへ行ったりしてお店を外から覗き込みつつも、いつも道草は節約の敵と教え込んでいるからか、リオンは目的地へと順調に進んでいた。となると、気になるのは彼女がどこへ向かっているかということだ。 「こういう場合は大抵リオンの好きなものだが、お前がそう考えるとは思えないし、どうせ変なものでも頼んだのだろう?」 「失礼な。わたしがリオンに頼んだのは――」 「なぜに焼き芋!?」 映像の中で、ついに目的地――焼き芋の屋台へ到着したリオンが店主に小銭を渡しているのを見て、ゴッゾは鳥仮面に思い切りツッコンだ。 「どうやらゴッゾ君は焼き芋をお使いに頼む、その高尚な理由がわからないようだね」 「ああ、わからない。どうか高説願いたいね、鳥仮面殿」 「わたしがとても食べたかったから」 「低俗にも程がある理由だったな!」 ただの欲望だった。 「というより、ただ単に自分で買い物行くのが面倒だから、リオンを行かせただけだろう?」 「ば、馬鹿なっ?! なぜわかった!?」 「それくらいいつもお前を見ていればわかるよ」 「お、今の殺し文句は胸に来たね。今日の夜は眠らせないよ?」 「勝手にしてくれ。はあ……」 妻に頭痛を覚えながら、癒しを求めてゴッゾは娘を見た。 屋台の親父――現在騎士が変な性癖がないか尋問中――が一つサービスしてくれたため、合計三つの大振りのお芋がリオンが持参した布に包まれて湯気を立てている。冷まさない内に大好きな母親に届けたいのだろう。最近元気になった身体をやや酷使していた。 「走れっ、走れっ、冷める前に。冷ましたら承知しないぞ〜」 「お前は本当にあの子の母親か!?」 転ばないか心配する父親とお芋が冷めないか心配する母親。そりゃ、父親が過保護になるのも当然というものだろう。 そして――ゴッゾの不安は的中してしまった。 『わ――きゃっ!』 「リオン!」 小石に躓いたリオンが派手に転倒した。円卓にざわめきが走り抜け、 「わたしのお芋が!」 その手から放り出され、布からも出て地面に転がった焼き芋を見て、鳥仮面が悲鳴をあげていた。今夜にでも正しい親子の在り方について三日ぶりに説教しなければならないだろう。 しかし今はその前に―― 「総員戦闘準備! 街中の石という石を撤去する!」 ――リオンが転んだ原因を取り除かなければ。 ゴッゾの指示に、ビシリと礼をとってメンバーの一人が走っていった。うん、これでいい。リオン、お前の仇は取ったぞ。 『……おかーさまへさしあげるお芋に泥が……どうしよう…………ぐすっ』 映像の中では、むくりと起きあがったリオンが、地面にへたり込みながらお芋についた泥を一生懸命拭っていた。転んで膝をすりむいても流さなかった涙を目尻に溜めながら。 これには見守っていて騎士たちも、街の人々にも動揺が走る。ゴッゾは今あの場に自分がいないことを後悔した。あの場にもし自分がいたら、思い切り抱きしめて慰めてあげるのに。 『――これを』 そうゴッゾが思っていると、周りにいた人々の中から、フードを目深にかぶり顔を隠した小柄な人が進み出てきて、落ちていた他二つの焼き芋を拾いリオンを手渡した。 『大丈夫です』 泣く寸前のリオンの姿を見たその人――声からすると少女――が小さく唇を震わす。するとその指先で小さな円が弾け、一瞬で三つの焼き芋全てから泥が取り除かれた。 「凄腕だね、あの魔法使い」 魔力と魔法陣をもって神秘を起こす技術――魔法だ。 汚れを取り払う程度の魔法だが、柔らかい芋についたものとなると、かなり繊細な制御が必要とされる。鳥仮面の言うとおり、フードの少女は凄腕の魔法使いだ。様子を見ていた騎士たちがゆっくり近付いていく。 『少し冷めてしまったけれど、これで大丈夫ですから』 『あ、ありがとうございます!』 少女はそんな騎士たちの動きに気付いたのか、一言リオンに言葉を残すと、身を翻して人混みの中に消えてしまった。リオンは立ち上がって勢いよく頭を下げる。 「ん?」 一瞬、親切な少女のフードの下から尖った耳がのぞいたように見えたのは、果たしてゴッゾの気のせいか。何はともあれ、リオンは泣かずに済んだ。誰かは知らないがその優しさに感謝しよう。 「さて、と。もう心配は要らないだろうし、そろそろ私たちも上へ行かないとね」 リオンが再び、今度は少しだけスピードを落として走り出したのを見て、ゴッゾは立ち上がる。 「折角おつかいへ行ってくれたのに、お願いした人が出迎えてくれないのではリオンがかわいそうだ」 「たしかに、冷めてしまうのはお芋がかわいそう」 「お前はだから何の心配をしているんだ?」 最後の最後までお芋に釘付けの鳥仮面に嘆息し、ゴッゾは仮面を脱ぎ捨てる。 「わかってると思うけど、どうがんばってもあれでは焼き芋は冷めてしまうだろう。だけどそれをリオンには――」 「わかってる。お芋に罪はない、ってことだよね?」 「全ての会話において、お芋と娘という単語を取り替えたら、とても理想的な母親になっていただろうね!」 「さらに殺し文句。朝まで寝かせないつもりだね、このエロエロな旦那様は」 そんな意味不明な言葉を返したあと、鳥仮面もまた仮面を脱ぎ捨てた。 流れるように零れる真紅の髪。炎のように紅い瞳。初めて見たときから変わらぬ絶世の美貌は陰ることなく、衰えるということを知らない。決して燃え尽きない炎のような女が――もう一人のオルゾンノットの姫君がそこに現れる。 「さて――それじゃあ、リオンをバカップル状態で出迎えてあげようか」 どこかで今も誰かが言っていそうなことを口にしたカトレーユが、背中からひっついてくる。 「人に優しく、他人に優しく、それがきっと幸せに生きる道だね。自由である必要なんてないし、ましてや自分で自分を管理しなければならないってルールも関係ない。助け合いの精神こそがもっとも重要だとわたしは考える」 「……だから?」 容赦なく体重をかけてくる妻に、執務をしていたゴッゾは頬を引きつらせる。怒りが今堪忍袋の緒を切ろうとしているのが誰の目に見ても明らかだった。 それをちょっと黙って見ていたカトレーユは、 「お小遣い頂戴」 特に気にすることなく言い切った。 「あのなぁ、昨日やったばかりだろう?」 「あんなはした金じゃ、大した欲望は満たせないのだよ。ゴッゾ君」 「一応私が汗水垂らして働いて稼いだものなんだがね」 思い切り脱力したゴッゾは、嘆願書の山の上に額を乗せる。最近急激に肉体の衰えを感じてきたゴッゾももうすぐ三十歳。妻の若々しい冗談についていける体力はもうなかった。 質よく纏められた瀟洒な執務室に、ゴッゾは深々と溜息を吐き出したあと、胸が潰れるくらいもたれかかってきている妻に疲れた声を向けた。 「カトレーユ……重いからどいてくれ」 「ふっ、そんな言葉でこのカトレーユがどくと思うてか。体重重たい大いに結構。ぶっちゃけ胸が大きくなったんじゃない?」 「それはないな。感触でわかるよ」 「なにげにむっつりなゴッゾ。だけどそこがいい。流石はわたしの旦那様」 「褒めてくれてありがとう」 意味があるのかないのかわからない会話をして、ようやく満足いったのか、カトレーユが背中からどいてくれる。魅惑の感触が消えたのは若干あれだが、紳士を自称しているゴッゾはおくびにも態度には出さず、肘掛け椅子を反転させてカトレーユに向き直った。 「結婚してそこそこ経つけど……お前は本当に変わらないね、カトレーユ」 「ゴッゾは少し年を取ったかな。ナイスミドルディ」 カトレーユとてゴッゾが年を取ったように、結婚してから年月を経たのだが、容姿も性格も、初めて出会ったときと変わらないように思える。 ただ、それでも変わったものはあった。それは絶対だ。 コンコン。と、カトレーユが入ってきたときには響かなかったノック音が響く。 「入って来なさい」 「しつれいします」 中へ入ることを促せば、少し舌っ足らずながら、きちんとしたあいさつを口にした少女が扉を開けた。 ペコリと頭を下げる様も微笑ましい、まだ幼い少女だ。 「あ、おかーさまもご一緒でしたのね」 「リオン〜」 「わぷっ」 少女――ゴッゾとカトレーユの一人娘であるリオン・シストラバスは、顔を上げた途端、そこに両親が揃っていることを知って嬉しそうな顔をした。その顔を見て頬を緩ませたゴッゾと違い、カトレーユが我慢できずに飛びついて抱きしめる。さらには頬ずりまで。羨ましい。 「お、おかーさま。くすぐったいですわ」 「うりうり。うへへ、ここがええんのか?」 「止めなさい。お前は変態親父か? それでリオン、どうかしたのかい? お前が執務中にやってくるとは珍しいね」 「あ、はい」 母親に構われて嬉しさと恥ずかしさが混ざった表情をしているリオンは、これがとてもとても喜ばしく幸いなことに、カトレーユに似ず聡明で礼儀正しい子だった。 「もうすぐおじーさまがご到着なされる頃ですが、おとーさまもおかーさまもお見えにならなかったので、呼びにきましたの」 「ん? ああ、もうそんな時間だったのか」 ゴッゾは部屋の隅に置かれた柱時計で時間を確認する。カトレーユに邪魔されている間に、約束の時間に差し迫っていたらしい。 「ありがとう、リオン。お前のお陰で、遅刻なんて優雅でないことを回避できたよ」 「えへへ」 椅子から立ち上がると、ゴッゾはわざわざ呼びに来てくれた娘に近寄り、その頭を撫でてやる。リオンはとても嬉しそうな顔をすると、照れくさそうに微笑んだ。 「む〜」 それを面白くなさそうに見るのはカトレーユだった。未だ強くリオンを抱きしめたままの彼女は、表情の変化が乏しい顔をむっとさせると、次の瞬間何かが閃いたような顔をした。カトレーユの閃きがゴッゾにとっていい閃きだったことなど、百回に一回程度のものである。 「リオン、聞いて。ゴッゾったら酷いんだ」 「おとーさまがですか?」 「待て、カトレーユ。お前はいきなり何を言い出す?」 「うぅ、聞くも涙、語るも涙なお話の始まり始まり」 「おかーさま……!」 リオンの小さな身体を抱き上げ、ゴッゾから離れながらカトレーユは泣き真似を始める。これにはゴッゾは嫌な予感から慌てて、リオンは純粋に心配して慌て始める。 「ゴッゾってば、わたしが寂しいからって遊びに来たのに、邪険にするの」 「おとーさまは忙しいのですから、あまり邪魔をしてはいけませんわ。おかーさま」 まったくもってその通りだと、ゴッゾは頷く。なんてできた娘だろう。 「わたしもそれはよく分かっている。でもリオン、覚えておくといいよ。仕事を邪魔しないことが手助けとは限らないから。若い男は狼。下手に忙しくて禁欲させておくと、それはもうエロエロしいことに」 「きんよく? えろえろ?」 「わからないならあとで教えてあげる。で、良き妻たらんもの、定期的に発散させてあげることがとても重要なの。そうしないと浮気に走ったり、ペドフェリアに走ったり、最終的には性犯罪者として打ち首に……わたしはそうしないためにがんばったのに、ゴッゾったら邪険にするの。酷いでしょ?」 「よ、よく分かりませんが、浮気や打ち首はいけませんわ。おとーさま! おかーさまと、 「カトレーユ、そこを動くな。今日こそ娘の情操教育を歪める悪の根元を刈り取るから」 娘にそんなことをいわれた父親の気持ちを、果たして何人の同志がわかってくれるだろうか? 人差し指をリオンに突きつけられたゴッゾは、嘘八百を並べたカトレーユに向かって殺気を放つ。まあ、全てが全て嘘とはいえないところがあれだが。グラスベルト王国貴族としてはそれらの性癖も特段珍しくもないが、断じて自分は違う。 カトレーユは突きつけられた殺意を軽く受け流して、ぴとりとリオンの頬に自分の頬をすり寄せると、重く溜息をついた。 「……手遅れだった。カトレーユちゃん悲しい」 「おとーさま…………くすん」 「……おとーさまは、精一杯がんばってるつもりなんだけどね……」 涙を浮かべる優しい娘と何とも傍迷惑な妻。 そのとき、リオンの顔に花咲くような笑顔が輝く。 「わぁ……!」 リオンは喜びの声をあげて、窓から見えるオルゾンノットの都に向かって手を伸ばす。 「雪ですわ!」 白い、まるで光のような綿雪が空より降り注いでいた。 ◇◆◇ その名を知らぬ者なき都市――オルゾンノット。 神聖大陸エンシェルトに栄える騎士の国、グラスベルト王国建国時にはすでに存在したとされる都だ。 未だ旧き建築様式の名残を残す街の景観は、華やかな王都とは違うが歴史の重みを感じさせる。 主な産業は観光と聖地との貿易で成り立っており、決して裕福な都市とはいえないが、市民の顔には笑顔が絶えない。 なぜならば、この都に住む人々は自分の街を誇るに足るものだと自負しているから。 シストラバス侯爵家が治める、歴史と誉れの都である。 そんなオルゾンノットの領主たるシストラバス家の居城は、街の南部に位置する。 敷地面積は王都の王城にも匹敵し、特に騎士たちが十分に鍛錬を行えるよう庭は広々とつくられている。どんな状況下でも戦えるように鍛えるためか、向かい合った小さな砦と岩山、森と湖まで存在する。貴族が庭に華を添えるためにという理由とは、何もかもが違うも豪快な庭だ。 今は誰もいないようだが、朝、昼、晩、決まった時間になると威勢のいいかけ声が響いてくるのが、シストラバスの古城における日常だった。 今日、そんな庭より響いているのは少女が両親を呼ぶ声。雪が空から舞い落ちる中、踊るように庭を駆け回るリオンは、雪を手の上に乗せては無邪気に笑っていた。 「リオン、あまりはしゃぎすぎて転ばないようにね」 は〜い。と、何とも信じるのが難しい返事が返ってきたことに、腕を組んだゴッゾは柔らかい笑みを浮かべる。 本当ならもうすぐ城を訪ねてくることになっている養父、クロード・シストラバスの出迎えのために待たせておくべきなのだが、礼儀正しいといえリオンはまだ六歳。珍しく雪が降っているのに落ち着けといっても意味がない。 「さむっ。ざむっ。ねむっ」 むしろ、どこの雪だるまだといわんばかりに着ぶくれした妻の方をどうにかすべきだろう。 「カトレーユ、もう少しまともな格好はできないのかい?」 「無理無理。ほら、わたしって寒いのに弱いじゃない? 夏でも長袖だし」 「ほぅ。私の記憶が正しければ、今年の夏、ほぼ下着同然の格好で城を闊歩していた淑女がいたはずだが?」 「あ〜、ベッドが恋しい。おっと、これは別に夜のお誘いじゃないからね?」 何枚も服を着重ねて、まるまるとした感じになってなお寒がっているカトレーユは華麗に無視してくる。季節感があるといえばあるのだが、ここでそうと認めるのは何かが間違っている気がする。 ただ、今更何を言っても無駄だろいうことをゴッゾは理解していた。何年夫婦をやっていると思っている。クロードも親だしわかってくれるだろう。 溜息を一つ付いて、ゴッゾは一人娘がはしゃぐ様子を見守ることにした。 母親譲りの紅い髪をなびかせて駆け回るリオンの姿は、まるで妖精が踊っているかのようだった。親のひいき目を抜いてもかわいらしい少女だ。目に入れても痛くないとはこういうことをいう。実際親になってみるまでは親バカな大人を馬鹿にしていたが、仕方がないと今では思う。子供はとてもかわいい。 「なんかゴッゾが実の娘を見て鼻の下を伸ばしてる。これは妻として、また母として、チョークスリーパーを決める場面かな?」 「やってみろ。やった瞬間、その服を引き剥がす」 「……前々から確信してたけど、ゴッゾってわたしにだけ優しくないよね?」 「優しくない妻に対するかわいい反抗だと思ってくれ」 「かわいい、ね」 顔も見ずにそういうと、徐にカトレーユがもたれかかってきた。 「……寒い寒い。人の体温あったかい」 「……たしかに、暖かいのは否定しないね」 「ん」 子猫が喉を鳴らすような声をあげ、カトレーユがさらに体重を預けてきた。ともすれば倒れそうなくらいもたれかかってくるから、ゴッゾは仕方なくその腰に手を回してバランスをとってあげる。 二人一緒に愛娘の元気な様子を見守る。何か特別なことでもない、貴族だからというわけでもない、たぶん多くの家族がそうであるように何でもない光景。 「あ〜、楽ちん。楽ちん」 「その一言でもう全てが台無しだ!」 甘えてくるのではなく純粋に立っているのが疲れただけらしいカトレーユに、ゴッゾは怒声をあげた。 「こっちか!?」 その声に釣られたのだろう。小走りで紅い甲冑を着込んだ男性騎士が駆けつけてきた。 盛大に眉にしわを寄せた、ゴッゾとそう年齢が変わらないまだ二十代後半の騎士だ。鋭い眼と身につけた甲冑が何とも剣呑な空気を作っている。今にも腰に佩いた剣を抜きそうな剣幕だ。 「騎士エルジン。そんなに急いで、何かあったのかい?」 カトレーユをひっぺ剥がしたゴッゾは、彼――シストラバスの騎士の一人、エルジン・ドルワートルに話しかけた。 エルジンはそこで初めてゴッゾたちに気が付いたらしく、足を止め、文句のつけどころのない騎士の礼を取る。 「これは失礼しました、ゴッゾ様、カトレーユ様。少々人捜しをしていまして」 「人捜しというと、ああ、彼かい?」 「ええ、あの大馬鹿者です」 一人カトレーユが首を傾げる中、ゴッゾとエルジンは名前を出さずとも同じ一人の騎士を頭に思い浮かべていた。 エルジンの後輩の騎士にして、現在シストラバスの正騎士の中では最も年若い騎士。この屋敷の中で彼の名と自由奔放さを知らないのは、働いたら負けかなと思っているカトレーユくらいのものだろう。 「申し訳ありませんが、そういうことですので。この場は失礼させていただきます」 「ああ、がんばってくれ」 「はっ!」 お辞儀をしてから、荒々しい足取りでエルジンは走り去っていく。 「なになに、何かおもしろそうな感じがしたけど?」 「人が大変な目にあっているのを見て、そう言えるお前は本当にすごいよ、カトレーユ」 「えへん」 「威張らない」 エルジンの背を見送ったカトレーユの額を軽くこづいてから、ゴッゾはリオンを探した。 「リオンは、と……ん?」 近くで遊んでいるはずのリオンを探したゴッゾは、すぐに娘を見つけた。 雪の中を走り回っていたリオンは、今はなぜか庭に植えられた一本の木の下にいて、何やら怒った様子で見上げている。 「リオン、どうかしたのかい?」 「あ、おとーさま。おとーさまからも言ってあげてください!」 近付いてみると、リオンは腰に手を当て、ぷりぷりとかわいらしく怒っていた。 ゴッゾはリオンがそうしていたように木の上を見上げてみる。するとそこには、一本の太い枝にうつぶせに寝転ぶ少年がいた。 「あらら。かわいらしい小鳥の傍には、親鳥がついているものですか」 目元の泣きぼくろが印象的な少年だ。十代後半くらいの、大人の色香と少年の儚さの中間にある美貌。また少女のようにも見える中性的な容姿で、赤茶色の長い髪を三つ編みにして垂らしているため、殊更に性別を惑わせる。 「騎士トーユーズ。そんなところで何をしているんだい?」 「団長にまで見つかってしまいました。残念無念」 美少年――トーユーズはゴッゾが現れたことに口を尖らせて、ひょいと地上に飛び降りる。木の葉一枚落とすことのない身軽さで、着地の音すらしなかった。 「改めまして、ご機嫌麗しゅう。ゴッゾ団長。幼き小鳥の姫君」 「む〜!」 「まぁまぁ、リオン」 ゴッゾの前に飛び降りたトーユーズは慇懃にお辞儀を一つ。そんな彼の様子にむくれるリオンを、ゴッゾは撫でて宥めた。 鎧さえ身につけていないトーユーズは、おおよそ騎士らしくない騎士だった。 よくぞこれで正騎士になれたという人間もいるが、彼こそは紅き騎士たちの期待を一心に背負う騎士であるために、その奔放さを知らぬものはいないが、誰も深くは制限を与えることができないでいた。 そんな相手であることなど理解できないリオンは、訓練をさぼって昼寝に興じていたトーユーズが許せないのだろう。精一杯怖い顔――それでも微笑ましくて仕方がないのだが――をしてぷんすか怒っている。 「いいですか、騎士トーユーズ。シストラバスの騎士たるもの、そんなふまじめな態度ではいけません。我々は、ええと、始祖さまの意志をつぎ、えとえと、人々の希望にならないといけないのでふてふっ!」 何とか思い出しながら格好いいことを言おうとしたリオンは、最後に思い切り噛んだ。口を押さえて顔を赤くするのは、果たして痛みからかそれとも羞恥からか。 トーユーズは小さな主君の様子に口に手を当て、上品にクスクスと笑う。 「そうですね。ええ、姫君のいうとおりです。不真面目なのはいけませんよね。この騎士トーユーズ・ラバス、自らの怠惰を恥じ、これからは誰よりも騎士道に忠実であることをお約束しましょう」 「わ、わかればいいのです。わかれば」 「ぷっ!」 「くっ!」 顔を赤くしたまま、腰に手を当てリオンは胸をそらす。そんな仕草がまた殊更かわいくて、トーユーズはついにお腹に手を当て笑い始めた。かくいうゴッゾも、これにはポーカーフェイスを続けられなかった。 「ど、どうして笑うのですか!? おとーさままで?!」 「ごめんごめん、リオン。そうだね。お前の言っていることには何の間違いもないよ」 頬を膨らませるリオンの頭を軽くポンポンと叩いて、ゴッゾは目の端に溜まった涙を拭うトーユーズを見た。 「騎士トーユーズ。今更何を言うというわけでもないが、騎士に憧れを抱く子供の前では、せめて良き騎士でいてはくれないかい? 子供の夢を守るのも、私は立派な騎士の仕事だと思うよ?」 「それはとても自分好みな言葉ですね。子供の夢を守るため……相分かりました。子供を落胆させるのは美しい生き様とはいえませんからね。さすがは団長、良きお考えをお持ちです。このトーユーズ・ラバス、心の底から敬服致しました」 軽く頬を抑えて、トーユーズは流し目を向けてきた。 「感謝する。では、私とリオンは先代を出迎えないといけないのでね。これで失礼させてもらうよ」 「はい。今度は是非、自分の戦姿もご覧になってください。退屈はさせませんから……ふふっ」 「そ、そうか。それでは今度視察させてもらうよ」 男とは思えない艶やかさに、ゴッゾは居心地が悪くなってリオンの手を引いて足早に歩き始めた。リオンはまだトーユーズに思うところがあるのか、むくれたままだ。 「おとーさま。こういうときはビシリといわないとダメです!」 「物事には適材適所という言葉があってね。安心なさい。すぐに彼はさぼりのツケを払うことになるから」 「トォオオオユゥウウウズッ!!」 小さくリオンが首を傾げるのと同時に、背後で落雷が落ちた。そうとしか思えないほどの怒鳴り声だった。 「せ、先輩!? これは別に訓練をサボっていたわけでは――」 「黙れ! 今日という今日はもう許さん! そこに正座しろ! その腐抜けた根性叩き直してくれる!」 「そ、そんなぁ〜」 何やらトーユーズが慌てて弁明をする声と、その弁明に聞き耳持たずにお説教を始める声が聞こえる。シストラバスの騎士団においては、主に先達の騎士が後輩の騎士の面倒を見ることになっている。そしてトーユーズの担当は、たとえゴッゾが甘くしても、むしろそれでちょうどいいくらい厳しい男だった。 「わ、悪いことはやっぱりできないんですね……」 怒声に驚いて足にリオンがしがみついてくるのを何とも心地良く思いながら、ゴッゾは冬眠を始めた動物のように玄関で丸くなっているカトレーユに近付いていく。 さて、今日はどうやって、この妻に客人の前に出しても恥ずかしくない格好をさせようか? 「おお、リオン! 元気だったか!」 「わぷっ、くすぐったいですわ。おじーさま」 クロード・シストラバスは馬車から降りてくるなり、リオンへ駆け寄って思い切り抱きあげた。 もう初老という年齢に差しかかるのに、衰えをしらないすらりとした肉体を持つクロードは、白い髭を揺らしながらリオンに頬ずりする。リオンは久しぶりに会った祖父の愛情表現に、くすぐったそうにしながらも笑顔を浮かべている。 「こんなにも成長しおって。すぐに立派な淑女になるぞ、リオンは!」 「すぐにおじーさまも抜かしてみせますわ!」 「おお、そうかそうか」 だらしなく笑って、満足したのかリオンを地面に下ろしたあと――表情を厳しいものに変えて、クロードはゴッゾを見た。 「久しぶりじゃな、ゴッゾ君。ご健勝そうで何よりじゃ」 「お義父さんも。お変わりがないようで安心しました」 「うむ。ラバス村の温泉に毎日浸かっておるからの。老いにはまで負けぬよ。さて……」 ゴッゾが軽く礼式も交えたあいさつをしたあと、クロードの視線が着ぶくれしたカトレーユに向いた。 お互いにじっと見つめ合う親子。色々と曰くというか、複雑な背景のある親子である。前回クロードが遊びに来たとき、ついぞカトレーユはあいさつをしなかった。ゴッゾはどんな会話がなされるのか、興味と不安を混ぜ合わせながら見守る。 「……カトレーユ」 「ん」 無言で見つめ合っていた二人は、やがてクロードからの歩み寄りでアクションを起こす。 差し出される手。 「「取引成立」」 「ちょっと待て! なんだその写真は!?」 お互いに持ってきていたものを手渡したあと、がっしりと握手を交わす。ある意味感動的な光景ではあるが、クロードが後生大事に持つ写真が、リオンの隠し撮り写真となればゴッゾも父親として黙っていられない。 「お義父さん! その写真はなんですか!?」 「喝! 祖父が孫の成長を楽しみにして何が悪いと言うんじゃ!」 「そうそう。母親が娘を隠し撮りするなんて普通普通」 ゴッゾはこの二人の間にある遺伝子に恐怖した。 「今後ともよろしく頼むぞ、カトレーユ」 「これからもいい取引を、パパ」 「リオンだけは……リオンだけはまともに育ててみせる!」 「おとーさま?」 どれだけ身近にいる二人が危険かわかっていない娘を守ってやれるのは自分しかいないと、ゴッゾは遅まきながらこのとき気が付いた。 「カトレーユ。あまり変な写真を撮ったら承知しないからね?」 「心配性だね、ゴッゾは。エロを出すべきタイミングはきちんとわかってるから」 「何もわかってないな!」 カトレーユと隣り合って廊下を歩きながら、ゴッゾは目の前を歩くリオンとクロードに視線を注いだ。 「おじーさま! また剣のけいこをつけてください!」 「おお、任せておけい。おじいちゃんがリオンを強くしてあげるからな」 騎士として名を馳せたクロード・シストラバスが、孫の前ではただのおじいちゃんだった。まあ、元から彼はこういう人物だったみたいだが、だからといってゴッゾの目にはすごいギャップに映った。 話していること自体に口を出すつもりはない。ゴッゾとしてはあまり娘に危ないことはさせたくないが、以前クロードが遊びに来たとき剣を手ほどきしてもらい、結果としてリオンはここまで身体が丈夫になった。怪我がない程度ならよろしく、と言っておきたい。 「しかし、リオンは本当に丈夫になったね。生まれたときは魔竜の毒のこともあったし、色々と心配したものだが」 「まあ、わたしが色々とがんばったしね」 「別にお前がどうこうしたわけじゃないだろうに」 自分の手柄のように胸を張るカトレーユに、ゴッゾは呆れた眼差しを向ける。 たしかに、シストラバス家の女が数代前から患っている毒竜の呪い、これをカトレーユは打ち破り、リオンにも遺伝することはなかった。身体を蝕み、生気を奪って死に追いやるという病を消すことができたのは素直に喜ばしいことだ。 どうして消えたのか? 不治だったそれだが、効果の持続に時間制限があったのか、あるいは何か別の理由があるのかはわからないが、少なくともカトレーユが何かしたとは思えない。 「どうかな? もしかしたらわたしが、神様にお祈りを捧げて治してもらったのかも知れないよ?」 「その発言がすでに自分の力じゃないことを証明している事実に、早く気が付いて欲しいね」 「わたしが神だったのだ!」 「はいはい」 無理のある解釈に適当に相づちをいれつつ、広間を目指して歩いていく。 「あ、そうですわ! おとーさまもおかーさまもご一緒にたんれんしませんか?」 「ほぅ、それは面白い。歓迎するぞ」 「そうだね。時間があれば、そうしようか」 途中で、愛娘が笑顔を浮かべて振り返る。 「え? やだ。寒いし面倒」 ダメな母親は娘からのお願いをそんな理由で却下する。 「それは残念じゃな」 「カトレーユ……お前はまったく……」 「え? かわいい?」 「はい! おかーさまはとってもかわいいですわ!」 纏まっているのか、纏まっていないのか。よくわからない家族の関係。けれど、穏やかな日々。忙しない人生を歩んできたゴッゾには、この自分の妻のようにのんびりとした日々がどれだけありがたいか、それがわかっていた。 続けばいいと思った。こんな日々が。 永遠に、続けば。 「――ああ、そんな。また誰かが犠牲にならないといけないというのですか? 神よ」 聖地ラグナアーツにて、金髪金眼のエルフが恐ろしい託宣を受けていた。 ならば、その託宣は決して避けられない世界の決まり事。 「災厄が……オルゾンノットの地に、現れる……!」 再び、この世界に悪魔が生まれ落ちようとしている。 其は神に対する悪。 平和と平穏に生け贄を求める――『終わりの魔獣』が。
ほの暗い会議室の中、十数名の人影が円卓を囲んでいる。
牢獄や地下といった場所の一角なのか、沈黙も合わされば、息苦しいほどの空気が張りつめる。
それを作りだし、そして突いて破裂させたのは、毅然とした男性貴族だった。
何でこれが自分の妻なのだろう? あの子の母親なのだろう? 理解に苦しむ。
束の間の喜びに浸っていろ。リオンの安全を確保したときがお前の命日だ――そんなことを考えながら。
『おじ様! そのお芋を二つくださいな!』
「――焼き芋だね」
買い物をやり遂げたリオンは、白い息を弾ませながら走っている。
それもまた汚れているのを見て、リオンがひっくとしゃくりをあげる。
カトレーユ・シストラバスは、よだれを拭いながらそう言った。
◇◆◇
「――だからね、わたしはこう思うんだ。世界はもっと人に優しくあるべきだと」
肩胛骨のあたりまで伸びた真紅の髪と、好奇心に輝く真紅の瞳。柔らかな頬は高揚しているのか赤くなり、暖色系のミニドレスがよく似合っている。
父親が領地の経営で忙しいことに子供心に気付くと、執務室にいる間は遊びにこないという心配りさえできている。本当に、爪の垢を煎じてカトレーユに飲ませたいくらいだ。
えと、えろえろしいことをしないとダメではないですか!」
二人の紅髪紅眼の姫に囲まれて、ゴッゾは思い切り肩を落とした。
国の内外問わず、この都の名を知らぬものはいない。かの『始祖姫』が一柱、ナレイアラ・シストラバスが興した紅き不死鳥の姫の都――それが古都オルゾンノット。
街を見守るように建つ、厳めしい古城こそが代々シストラバス家の居城であり、また名高いシストラバスの騎士団の総本部であった。
「雪! 雪ですわ! おとーさま! おかーさま!」
そろそろクロードがやってくる頃合いだ。リオンにも隣にいてもらわないと。カトレーユがこんなだから、せめて彼女にだけは。
一言でいうなら自由奔放。正式にドラゴンスレイヤーを帯びてシストラバスの正騎士になったあとでも、訓練はサボるは居眠りはするは、果ては仰ぐべき主をからかう始末。
どことなく潤んだ瞳に、ゴッゾは何とも落ち着かない雰囲気を感じる。なんだろう。相手は同性のはずなのに、まるで貴婦人に見つめられているように落ち着かない。
待ち人がやってきたのは、それから五分も経たない後のことだった。
カトレーユの方は写真。クロードの方は現金。
クロードのやや怖い笑みが気になるが、ゴッゾは折角のお誘いだと気のいい返事をし、
けれど、シストラバス家の、『竜滅姫』が背負った業を思えば……それは永遠に続くはずのないものだったのだ。
エルフの名はフェリシィール・ティンク。号を金糸の使徒と呼ばれし最古参の使徒。そして、もう一つの二つ名が『自然の預言者』という。
この世界に神がいるというのならば、それは神から与えられた試練なのか。
其は人に対する毒。
其は世界に対する災厄。