第十二話  竜滅姫

 


 凍てつくブリザードが都の体温を奪っていく。

 この時期、陽が暮れれば、ジェンルド帝国の帝都ジハールにある家の戸は全て閉じられることになる。
 
 吹雪の日に防寒具もなく外に出ればたちまち身体が凍り、一時間も無防備に晒せば命の保証はない。そんな中では騎士ですら取り締まることができないため、外は犯罪者たちによる無法地帯と化す。

 唯一治安が保たれているのは貴族の邸宅が並ぶ階層。そして帝都の最上層、ル・バテン城周辺だけだ。冷たい帝都の中、暖炉の火に守られるように立つその姿は、まるで周りから温もりを吸い上げているかのよう。

 そう、帝国の民にとって地獄とは、炎ではなく氷の形を取っている。

 ル・バテン城にある私室でくつろぐ皇帝グランヌスは暗い自分の都を見渡して、今頃明るく輝いているだろう敵国の古都を思う。凍りついた都からあがる無辜の民の悲鳴は無視し、業火に焼かれる悲痛な叫び声を思う。

「ああ……どうせならば、この耳で直接聞いてみたかった」

 今、グランヌスの耳には阿鼻叫喚の声が聞こえている。それは現実味を伴った慟哭。かつてグランヌスがその手で起こした戦乱で聞こえていた声だ。

 しかし、それはあくまでも人と人が奏でる音。ドラゴンという人在らざる厄災にあったとき、人がどのような声をあげるのか……それは想像の範疇を出ない。ただ、それは未知なる音楽としてこの胸を打つだろう。

 知らないものを知りたい。
 見たことがないものを見たい。

 それは人として当然ある欲求。それを満たすためにグランヌスは行動しているに過ぎない。

「その辺りはどうなのだ? ギルフォーデ。そこで聞こえる音楽は、貴様の心を打つかね?」

『はい。震えるほどの感動ですとも』

 遠話の水晶玉から聞こえてくる腹心の声は、たしかに喜びを露わにしていた。

『皇帝陛下に目の前の光景をお見せできないのが残念です、はい。この世界はゆるやかに停滞という名の平和を築き上げてきましたがぁ、この場所だけは未だ神話の風が息づいている。私もついつい、炎の中へ飛び込んで行きたいと思ってしまうくらいですよぉ』

「好きに飛び込めば良かろう。余は関知せん」

『いえいえ。私としましても、作戦失敗の報告はきっちり五体満足で迎えなければならないと思っておりますからねぇ』

「ほう、また戯れに走って何かを失敗させたか?」

 僅かにグランヌスは声を冷たいものに変える。
 同じように、ギルフォーデの声から笑いが消えた。

『はい。竜滅姫リオン・シストラバスの排除には失敗してしまいました』

「なんだ、そのようなことか。捨ておけ。どうせそれは余ではなくアンジェロが言いだしたことだ。余は生きていようと死んでいようとどちらでも良い。それよりも、余はてっきりディスバリエの奴が本性を表したかと思っておったのだが」

『今回は別行動でしたので。ですが、そもそも彼女は最初から本性丸出しと思うのですがねぇ』

 声に張りと笑みを取り戻し、人の命を時に救い、時に弄んだ結果、人の心というものに精通するようになった男は、もう一人グランヌスがアンジェロに与えた女について語り始めた。

『どうしようもなくあの方は狂っていましたし、どうしようもなくあの方は優しかった。我々と同じです。人を愛して愛して愛して愛しすぎて狂おしいから、人の領域からはみ出てしまった。私からしてみれば、あの方は最初から誰かを救おうと足掻いていただけの子供に見えましたが』

「なるほど」

 グランヌスは思い出す。あの水色の髪の温かな笑顔を持つ女と出会ったときのことを。

 出会いは今から三十年近く前。当時、まだ小国の皇子に過ぎなかったグランヌスの教育係として彼女は雇い入れられた。驚くべきことに、エルフでもないのに、そのときから今の今まで彼女の容姿はまったく変わっていない。

 人ではないのだ――子供ながらにそう感じ取ったものだ。
 一目見て、これは自分と同じ人ではないナニカなのだと、そう親近感を抱いた。

 結局、グランヌスには彼女が何を求めていたのか最後までわからなかったが、ギルフォーデと共にアンジェロのところへやったときに少しだけ理解した。

 彼女が自分の許へ戻ってくることはもうないだろう、と。
 彼女は自らの望みを果たすため盛大な地獄を作り上げるだろう、と。

「ああ、やはり余も出向くべきだったな。そこにある惨劇を思えば、興奮してとても眠れん。外の吹雪も余の熱を冷ましてはくれぬよ」

『すぐにこの熱は帝都にまで届くことでしょう。そうするためにアンジェロさんに協力しているのですから』

 もっとも。と、ギルフォーデは続ける。

『上手く行けば、の話ですがねぇ』

「そう。上手く行けばの話だ」

 無論、二人ともそうなることを願っている。願って止まないでいる。が、物事とは裏切られるものだ。良くも悪くも。

『それにですね、我が君。あなたは惨劇に想いを馳せているようですが、私は此度の戦い、喜劇であって欲しいと思っていたのですよ』

「ほう。貴様お得意の裏切りの哲学か?」

『ええ。惨劇は確かに人の心を震わせます。人間とはそういうものです。喜怒哀楽のどれを露わにするかは人それぞれですがぁ、残酷さは人の感情を揺さぶる。
 ですが、惨劇よりも喜劇の方が人は感情を表に出すと思うのですよぉ。でなければ、劇場で悲劇よりも喜劇が好まれはしないでしょう?』

「同じ惨劇など見るに値しないか。しかし、それは喜劇もまた同じと思うが?」

『いえいえ。楽しいものはまた見たくなるでしょう? たとえ鮮度は落ちようとも、繰り返し見ることができる。なぜなら滑稽だからです。物語ではなく、道化を演じる役者そのものが滑稽だからこそ、人は繰り返し笑うことができる。そして、それは役者が本気であればあるほど良い』

「なるほど。つまりはこう言いたいのであろう?」

 グランヌスは心の底から、この邪なる者に敬意を払った。

「戦場において、必死に戦い、抗い、藻掻く者たちがいる。そんな彼らにとって惨劇に彩られた結末は許し難いものではある。しかし、その舞台が喜劇でしかないというのならば……彼らが必死であればあるほど、それは酷く滑稽な姿だろうよ」

 グランヌスは想像したものに、居ても立ってもいられず椅子から立ち上がった。

「目を覆いたくなるほどの惨劇と、勇者の決意を無価値な道化芝居に貶める喜劇……ああ、果たして真に残酷なのはどちらなのか?」

 バルコニーへと出て、眼下の凍りついた帝都を見下ろす。

「……この都は、余そのものだ」

 凍っている。凍りついている。この冷たくて寒い場所を燃やし尽くす炎を、いつもグランヌスは求めて止まない。

「かの地の地獄は誰の采配によるものか。さあ、クライマックスだぞ。幕が下りるぞ! 惨劇か喜劇かわからぬが、華々しい終わりにするために――誰でもいい、薪をくべよ。炎を広げよ! 余の身体を焦がすほどの大火をみせてくれッ!!」

 遠く炎の地獄を夢見ながら、グランヌスは幕引きのときが来たことを悟った。

 もうすぐ――夜が訪れる。 






       ◇◆◇






「諸君らにはまずわかって欲しい。我々の力だけでドラゴンを殺すことは不可能だ、と」

 スラムに一番近い避難所で、開口一番、そう断言したのはゴッゾであった。

 崩壊した居城の代わりに騎士団の仮設本部となったその場所には、生き残ったシストラバスの騎士のほとんどが集まって、悪夢から目覚めた団長の話を傾聴していた。

 そんな彼らにとってゴッゾの宣言は予想できていたもの。誰もが無言で拳を握りしめる。反論があろうはずもない。誰よりも辛いのは、自ら敗北宣言を下したゴッゾなのだから。

「だから、これより行う作戦はドラゴンの封印を最優先とする」

 彼がそう決めたのならば従うしかない――そう思っていただけに、続けられた内容を騎士たちは咄嗟に理解できなかった。

「この避難所の近くにある広場にドラゴンを追い込み、その動きを封殺する。そのために皆には危険な橋を渡ってもらうが構わないね?」

 しかしゴッゾは無視して作戦の説明を続けた。時間はもうないのだ。
 そして騎士たちもゴッゾが諦めていないことを悟ると、顔を引き締め、より一層真剣な顔で耳を傾ける。

「よし。では作戦概要を説明する。まずは――

「待て」

 そのとき、一人の騎士が制止の言葉を投げかけた。

 シストラバスの騎士ではない。この避難所に控えていた、王国騎士団の騎士だった。ゴッゾよりも年若く、まだ二十歳そこそこに見えたが、その迫力たるや歴戦の勇士を思わせる。肩には紅き称号が飾られていた。

「まだドラゴンと戦うだと? そのような話を承諾することはできん」

「その『片翼』……『騎士百傑』に名を連ねる騎士とお見受けしますが、どちら様でしょうか?」

「『騎士百傑』序列一位――『騎士団長』グラハム・ノトフォーリア」

 剣呑な雰囲気を放つシストラバスの騎士たちに見られながらも、堂々と名乗った彼の名前と称号には、さすがのゴッゾも自らの国王に対する悪態を隠せなかった。

 竜滅にあたって、物資の補給と要事の際の連絡役として『騎士百傑』より騎士が派遣されてくるのは通例だったが、まさか虎の子の団長を送って来るとは思ってもみなかった。
 連絡役などは建前で、その実派遣されてくる騎士とは、竜滅姫がきちんと竜滅を行うかを見張る監視役なのは暗黙の了解だったが、前もって届けられた報告書さえ誤魔化して来るとは念が入っている。

「そうか。あなたが名高い『騎士団長』殿ですか。しかし、いかな『騎士百傑』の長とはいえ、我々の行動を止める権限はないはずですが?」

「貴族が有する騎士団には、国の有事でなければ命令系統は確かにない。が、もはや見逃せん。貴公らが行おうとしていることは暴挙に過ぎない。その結果、この歴史あるオルゾンノットの都が滅びるなど許せることではない!」

 幼い頃より騎士の長となるためだけに育てられたグラハムの迫力は、貴族のゴッゾには本来耐えられないものだったろう。

「お言葉ですが、暴挙と決めつけるのは待っていただきたい」

 その背中に守っているものがなければ。

「我々にはドラゴンを滅しうる手段がないことは認めましょう。しかし、封印することもできないとは見くびられ過ぎていますね。我々の紅き剣は魔を断つ剣であると同時に、万物を封じる鍵。魔獣の封印は得意としているところです」

「ならば、なぜこのような状況になるまでそうしなかった? いくらドラゴンの特異能力に侵されていたとしても、もっと早い段階に封印することができたはずだ」

 グラハムは厳しい目を向けて、

「それができなかったということは、貴公らにはドラゴンを封じる手段などないということ。できる、という言葉は敗北を誤魔化すための戯れ言に過ぎん」

「では聞かせてもらいたい、騎士グラハム・ノトフォーリア。あなたは我々に何をお望みか?」

「無論、早期のカトレーユ・シストラバスの確保を。一刻も早く、竜滅姫による竜滅の儀を執り行っていただきたい」

 はっきりと言い放ったグラハムの言葉に、騎士たちがにわかに殺気立つ。

「ドラゴンは最低限の足止めをしておけばいい。その間に、戦場へカトレーユ・シストラバスをお連れするのだ。そのためなら喜んで我々も手を貸そう」

 竜滅姫を守る立場ではなく、グラスベルト王国そのものを守護する立場にいるグラハムからしてみれば当然の言葉だった。そもそもここまでの被害が出てしまったことが許せないのだろう。下手をすればこのまま殺し合いが始まるかも知れないというのに、グラハムは口を噤もうとはしない。

「否とは言わせない。いや、言えるものなら言ってみろ。これは俺一人の言葉ではない。グラスベルト王国国王、ならびに全国民の意志と受け取ってもらいたい!」

「戯れ言はそこまでにしろ!」

 それは裏を返せば、この場で全員から狙われても生き残れるという自信があるということ。
 果たして、騎士の中から飛び出したトーユーズの最速の一振りを、グラハムは一瞥することなく素手で受け止めて見せた。

「いくら『騎士百傑』のトップだからって、竜滅姫様を守るために散っていった先輩たちのことを馬鹿にするのは許さない!」

「心外だな。俺は英霊を貶したつもりなどまったくない」

「っ! 自分の一撃を素手で受けて傷一つない……!?」

「ふんっ」

 驚くトーユーズの身体をグラハムは腕を振るって弾いた。その手はドラゴンスレイヤーを受け止めておきながら、傷一つ見あたらない。

「無駄だ。すでに決闘の申し込みは終わっている。あのドラゴン以外がオレを殺すことはおろか、傷つけることもできん」

「それは、あなた自らドラゴンを足止めするという意思表示と取っても構いませんか?」

 ゴッゾは双剣を構えるトーユーズを押しとどめて、グラハムの前に立った。

「あなたの『理想の英雄ミスティルテイン』の効力は存じていますが、だからといってそれはドラゴンとの戦いにおいては何ら効力を持ち得ない。戦えば十中八九あなたは死にます」

「そちらこそ見くびってくれるな。一対一の決闘において『騎士団長』に負けはない。そちらがこちらの意を汲んでくれるなら、俺は喜んでドラゴンの足止めをしよう。――返答をもらいたい。竜滅姫を捜し出すか否か?」

 剣の柄に手をかけての問い掛けに、ゴッゾは微笑みを浮かべて、

「否です。まだ我々は負けてはいない」

「そうか……此度の竜滅姫の番は、それほどまでに愚かだったか」

 グラハムの手の中で白刃が揺らめく。

 ゴッゾの傍らでトーユーズが殺気を放ち、

「そして、私は狂ってもいません。ええ、あるのですよ。ドラゴンを封じる方法が。都が血に染まるほどの流血がなければ使うことができない、シストラバス家の切り札たる封印魔法が」

「なに?」

「騎士グラハム。あなたの言葉はよく分かる。世界中の人々がそれを望んでいることも。カトレーユを探すというあなたを止められる言葉を私は持っていません。
 けれど、同時にあなたも我々を止められはしない。なぜなら我々を止められるのは、竜滅姫だけなのだから」

「…………」

 グラハムはしばし躊躇ったあと、無言で剣を鞘にしまい、背中を向けた。

「封印など、結局は結末の先延ばしに過ぎない。王国騎士団は独自にカトレーユ・シストラバスを捜索させてもらおう。……その間、貴様らが何をしようと俺の知ったことではないが」

「ええ、感謝します」

 最後までもう一人の竜滅姫の名前は出さなかったグラハムの背中を見送り終わる前に、ゴッゾは振り返って自分に付き従う騎士たちを見た。

「では諸君――最後の悪足掻きを始めようか」






 ドラゴンによる被害は止まるところを知らなかった。

 屍は積み上がり、血は運河を作り、炎は海を形作る。
 都の灯りは風前の灯火だ。吹けば消えてしまう程度のもの。悪夢は広がり続け、もはや立っている者など一割にも満たないだろう。

 もう、古色豊かだったオルゾンノットの都は、ない。

 護り手たるシストラバスの騎士も、勇敢な者から先に死んでいった。残った者たちが最後の反撃の準備をしているが、それが間に合う保証はどこにもない。間に合ったとしても、それはグラハムの言うとおり、所詮は結末の先送りに過ぎない。

 勝敗はここに決した。――否、勝敗などとうの昔についている。

 あとは本当に悪足掻き。自分たちは臆病者ではないと、そう言い張りたいがためだけの負け犬の遠吠えだ。

 そこに価値を見出すとしたら……そう、次代に引き継ぐための儀式と思おう。

 理想とユメだけは諦めないで済むように、たとえ絶望的であっても自分たちの代で終わらせないための戦い。

 そう思えば――

「ああ、自分はまだ戦える」

 ドラゴンとの距離は五百メートル。
 まるで鳥が翼を広げているかのような構えで戦場に立つのは、全身を甲冑に覆い隠した若き天才騎士。

「ああ、自分はまだ自分でいられる」

 魔力を揺らめかせる双剣は真紅の輝きを放ち、フルフェイスに隠された容は、恐怖で引きつった無様な泣き顔だった。

 もはや自分でも偽れないほどに、ドラゴンと再び相まみえるに至って、トーユーズの全身は恐怖に支配されていた。生物として当然持っていたのに、これまで正常に働いたことがなかった恐怖心が、目の前の怪物とは戦ってはいけないと、戦ったら死ぬと警告を鳴らしている。

『騎士トーユーズ。断ってくれても構わない。逃げてくれても構わない』

 それでも先程、ゴッゾから乞われた作戦における役割にトーユーズはこう答えてしまった。

『それでも悪夢に負けていない君の強さにかけて、ドラゴンの足止めをお願いしたい』

――はい、もちろん。傲慢だったツケはきちんと払います」

 全身を甲冑で守り、涙をヘルメットで隠し、手の震えを握りしめた剣の堅さで偽り、心を虚構の誇りをもって保ちながら、

「自分は逃げない。逃げるはずがない。逃げることなんて、許されるはずがない」 

 そして、トーユーズは自身に刻む。

「最後にドラゴンと矛を交える自分は、シストラバス家で最も臆病者で、けれど最も強い騎士だから。かけられた期待と受け継がれた想いの分は、絶対に果たしてみせます。ええ、それだけは裏切れない。たとえこの身が滅びようとも」

 ――戦うという誓いを。

 ついにドラゴンが広場に足を踏み入れた。
 丸く形作られた大きな広場。トーユーズとドラゴンの決闘場。そして恐らくは、此度の悲劇の最終地点となる場所。

「我が名はトーユーズ・ラバス! さあ、ドラゴンよ! 自分の弱さに付き合ってもらおうか!」

 震える声で、弱さを誤魔化す台詞回しで――


「紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤーとなるッ!!」


 ――シストラバスの騎士、最後の戦いの火蓋が切って落とされる!

「うわぁああああああああああああああああああ――――ッ!」

 悲鳴じみた雄叫びと共に、トーユーズは果敢にドラゴンへ斬り込んでいく。

 特段、それは語るべきもののない戦い。
 相手の攻撃を避け、敵の隙を見計らって剣を突き出す。それを死と隣り合わせの中、何度も何度も、神業的な動きで行うだけ。

 足止めという役割である以上、魔力を絞っているトーユーズの纏う雷光の輝きはか細い。

 むしろ美しいのはドラゴンの方。爪が建物を切り裂き、尾が大地を砕き、炎が全てを溶かす。

「ぁあああああああああああッ!!」

 トーユーズはそんな攻撃を避けて足掻き続ける。
 
 ……思えば、こんなにも必死に戦ったことがあっただろうか?

 ラバス村に生まれた『神童』のトーユーズは、これまで一度だって負けたことがなく、戦いに対して恐怖を覚えたことがなかった。故郷にいた剣の師などは、戦うことは恐ろしいことだと、恐怖こそが力になるのだと言っていたが、そんなものは才無きものの考えだと鼻で嗤っていた。

 そんなトーユーズが二十に満たない人生の中、行き着いた戦いの理念。

 それは――美しくあること。

 いかなる状況、いかなる強敵であっても、決して美しさを忘れず、見る人を魅了する自分でいること。敵など向かうところいなかったトーユーズにとって、それは戦いを楽しむために自分に課した遊びのようなものだった。

 元々、男の身体ながら女の心を持つトーユーズである。その理念は上手く合致した。美しい戦い様を突き詰めていった結果、トーユーズはさらなる力を手に入れたのだから。

 そもそも、騎士とはそういうものだろう。

 少年が夢見る、格好良い英雄。
 物語に描かれる主役であり、人々に夢と希望を与える尊い存在。それが騎士であったから、トーユーズもまた夢見て目指してきたのだ。

 泥臭くなんてまっぴらごめん。暑苦しいのも止めて欲しい。必死なんて無様なだけで、いついかなる時も優雅で美しく戦っていよう。

 ……それがトーユーズ・ラバスであったはずなのに。

「……苦、しい……」

 今、トーユーズは甲冑で顔を隠し、泥にまみれ、恐怖に震えながら必死に戦っている。

「……苦しいよ…………とても、苦しい……」

 戦うのが苦しい。戦うのが辛い。
 騎士とは美しく尊いはずなのに、なぜ、こんなにも醜いのか?

「あぁあああああああああああああああああああああああああああああ――――ッ!!」

 それでも戦わないと。

 たくさんの人が、こんな普通とは違う自分を叱ってくれた好きな人が、死んでしまう。
 自分に想いを託してくれた人を、自分こそがシストラバスの宝だと笑ってくれた人を、裏切ってしまう。

 そうなってしまえば、きっと、もう自分はトーユーズ・ラバスでいられない。
 だから必死に、泥にまみれても、どんなことをしても勝たなければならない。

「勝たないと、何の、意味もないっ!」

 トーユーズは自分を敵と認め、襲いかかってくるドラゴンとがむしゃらになって戦う。

 人々の希望を背負って。
 託されたユメに押しつぶされながら。





 
       ◇◆◇






 遙か昔にこの世界に起きた一つの『歪み』の話をしよう。

 ある意味では始まりと呼べるものの一つであり、今回の発端も遡ればそこに行き着く。

 神話の時代よりさらに前、ドラゴンがまだこの世に僅かばかりしか生まれていない頃。人ならざるヒトはこの世界に流れ着いた。

 見た目はこの世界の疑似人類と酷似していたが、その実、生きてきた法則が違った。
 
 同じように、人ならざるヒトといえば、この世界にはエルフなる者たちもいたが、あれらは一つ前に滅びた時節の遺物である『世界樹』を守るために造られた人造人間の末裔であり、同じ世界に生まれたことには変わりない。

 対して『彼女』は、たとえまともな思考回路を持ち、この世界の疑似人類と意思疎通ができるまでに成長したとしても、始まった地点が違えばそれは永遠にヒトではない。異世界からやってきた異邦者だった。

 どうして『彼女』が流れ着いてきたのかは定かではない。
 異世界、あるいはこちらの世界で歪みが生じた際に偶然世界を超えることになったのか、あるいはそういう世界を超える力を持つ存在に飛ばされたのか。

 それはわからないが、異世界へやってきてしまった以上、『彼女』はこの世界で生きて行くしかなくなった。

 見た目はまったく変わらなかったのが幸いした。エルフのように迫害されることなく、親切にしてくれた人に言葉や文化を教わり順応していった。やがては助けてくれた青年と恋に落ち、家庭を持つまでになる。

 しかし、たとえ人間のように振る舞おうとも、所詮『彼女』は異邦者――愛した人には黙っていたが、その身体の奥底に『怪物』を飼っていた。

 幸いにも、『怪物』は世界間を移動する際に力の大部分を奪われたのか、消えたわけではなかったが『彼女』の生活に干渉してくることはなかった。寿命のときが来るまで黙っていても、決してばれることはない。

 事実、『彼女』は夫が死ぬそのときまで怪物のことは黙っていた。が、自分の一番上の子供にだけは教えていた。

 なぜなら、その子供の中にも『怪物』は住んでいたから。『怪物』は『彼女』の血筋の中に在り続ける存在であり、たとえ『彼女』が死のうとも、その直系が途絶えるまでは決して消えることはない。『彼女』は『怪物』の在り方と自分たちの存在意義を長女に教え込み、やがて夫と同じところへと旅立った。

 残された長女が生きた数十年の人生においても、『怪物』が目覚めることはなかった。

 代わりに、務めとして母親から教えられたように、自分の生んだ長女に『怪物』のことを伝え聞かせた。その子もまた自分の子へと言い含める。

 そうやって子から子へと語り継がれていった『怪物』は、一つの情報がこぼれ落ち、一つの逸話が欠け落ちて、やがて『彼女』の子孫たちが作った集落がラバス村という名前で呼ばれるようになった頃には、『怪物』の存在すら忘れ去られていた。
 

 ――しかし心せよ。『彼女』の血が途絶えぬ限り、『怪物』は決して消えることはない。

 
 結局、『怪物』の名残は、ラバス村には精神構造に障害を持った子供が生まれやすい程度の異質さを残すばかりになった。たとえ直系で『怪物』を飼ってなかろうと、どれだけ血が薄まろうとも、始まりがヒトではなかったのだから、そういったおかしな子供が生まれてくるのだけは仕方のないことだった。

 そういった子供たちは、他の集落では忌み子として迫害を受けるのが常だ。しかし『怪物』の話が忘れ去られていったとしても、そういった子供を肯定してきたことは忘れられなかったからだろう。神に愛された子供――『神衣を纏った者』と呼ばれて、普通の子供たちと同様に育てられた。

 そうして長い年月が流れ、『神衣を纏った者』が生まれることも年々少なくなっていった頃のこと。村の近くにあった火山が活発化し、かつてない暴威を振るおうとしていた頃。運命に導かれるように一人の『神衣を纏った者』が生まれた。

 生まれた子の名はナレイアラ。当初、二重人格という形を神から授かった『神衣を纏った者』として扱われていた少女。

 ナレイアラは生まれながらにして、二つの人格を持ち合わせていた。天真爛漫な明るい顔と、神秘的で冷たい顔を。主には天真爛漫に振る舞っていた姿を見て、村の人々はそちらの人格こそが主人格であると認識していたため、ナレイアラはよく愛された。

 しかしその中で二人、本来の人格は冷たい顔にあると気付いていた者がいた。

 他でもないナレイアラ本人である。その二つの人格の両者ともが、どちらが『主人』の魂で、どちらが『従者』の魂であるか、生まれたときから理解していた。

 つまり『彼女』が伝えようとしたのは無意味だったのだ。『怪物』が目覚めたとき、その『従者』は全てを正しく理解する。始まりからしてそういうモノだったのだから、わざわざ伝えることに意味はない。

『彼女』――『従者』の血脈は、その身に『怪物』――『主人』の魂を宿す。

 それがある異世界における貴族の在り方であり、この世界に染まってなお消えなかった異界法則だった。

 ナレイアラは二つの精神を持ち合わせるだけの二重人格にあらず。同じ肉体に二つの魂を共有するこの世在らざる双子なのだ。ただの些末ごとにわざわざ『主人』が出向く必要などないと、ただ常には『従者』の顔が表に出ていたに過ぎない。

 ナレイアラは『主人』を姉と呼び慕っていた。姉もまたナレイアラを妹とし、愛でていた。

 そういう意味では、ナレイアラという名前は『従者』であり妹の方のものなのだろう。与えられた名前が一つのみであり、また『主人』もかつてはあっただろう異世界における自分の名も思い出せなかったため、彼女もまたナレイアラという名ではあったが、誰かがそう呼ぶことはなかった。

 双子の姉に名前がつけられたのは、生まれて十五年が過ぎたとき。

『あなたたちは二人で一つじゃない。同じ場所に二人いるのね』

『それなら、みんなで名前を考えませんか? 名前がなしではかわいそうです』

 妹以外で初めてナレイアラは二人いるのだと気付いた少女たちによって、彼女は名前をつけられた。名前など意味はなく、やはり仲間たちしかそう呼ばなかったけれど、彼女はシストと呼ばれるようになった。

 ラバス村の『神衣を纏った者』。双子の姉妹。
 姉の名はシスト。妹の名はナレイアラ。――後の『不死鳥の使徒』シスト=ナレイアラ。『不死鳥の巫女』ナレイアラ・ラバスである。

 シストは異界法則の体現者であり、『死』と『再生』の具現者たる永遠の存在である。

 神より与えられた神獣の姿も燃え尽きてなお甦る不死鳥。姉妹は仲間たちと共に世界を救うほどの活躍を見せた。

 やがて妹のナレイアラは結婚し、敬愛なる姉と故郷の名を取り、シストラバスという貴族の家を興す。戦いが終わったため、あるいは親友をその手にかけたからか、シストは自由を欲すことなくナレイアラの身体の中で、妹が女として、また母として幸せに生き、死ぬまでを見守り続けた。

 その魂の間柄は主従であっても、二人は紛れもない絆で結ばれた姉妹だった。
 シストにとって、ナレイアラと生きた時代こそが、あるいは人間として生きた時代と言えるのかも知れない。
  
 ならばきっと、妹の死によってシストは永遠となったのだ。


 ――ゆえに心せよ。従者シストラバスの血が途絶えぬ限り、不死鳥は決して終わることはない。







 カトレーユが家に戻ってきたとき、愛娘は血でドレスを汚したまま呆然と座り込んでいた。

 崩れた居城とリオンに構う暇もなく走り回る人たちの様子を見れば、ここで起きた惨状など推察するに容易かった。果たして、リオンはどんなものを見てしまったのか。心の傷ができていないかが心配だ。

「リオン。大丈夫?」

「おかーさま……?」

 顔を上げたリオンは目を大きく見開いた。

「おかーさま、ですか?」

「そうだよ。リオンはわたしがわたし以外の何かに見える?」

 ゆっくりと立ち上がったリオンの姿に、カトレーユは両手を広げて応えた。傷ついた彼女は母の胸の中に飛び込んでくるものとそう思って、

「はい。おかーさまが、おかーさまではないように見えます」

 しかし期待は裏切られた。

 リオンは自分の足でしっかりと立って、涙で濡れた瞳でまっすぐ母親を見つめる。

 これにはさすがのカトレーユも驚いた。リオンは自分の家で起きた惨劇を経験しても、膝を屈することなく、悲嘆に暮れることなく、それらが現実であると受け止めて休んでいただけなのだ。さながら次の戦いが始まるまで瞑想する騎士のように。救いを信じる囚われの姫君のように。

「そう。リオンはわたしの娘だからね。わかっちゃうか」

「おかーさまは、わたくしのおかーさまではなくて何になってしまわれたのですか?」

「そうだね。世界で一番我が儘なお姫様。人呼んで竜滅姫、かな」

「竜滅姫……」

 その称号の意味を確かめるように、リオンは何度も口の中で転がして、

「では、おかーさまはもう戻っては来られないのですね」

 幼い姿に似合わない超然とした佇まいで全てを了解した。

 その姿はもはや幼子とも、普通の人間とも乖離し始めていた。

 自らの死をもって世界を救う聖者の業を是というのだ。
 異邦者の血を濃く受け継ぐシストラバス家の直系は、ある種正常な異常者、真性の『神衣を纏った者』であり、だからこそ竜滅姫たり得ていたのだが、目の前の少女は一線を画す。

(でもそれも当然か。なにせ、正真正銘の『不死鳥の聖君』で、しかも双子の姉なんだから。ここまでの因果が揃えば、こんな怪物も生まれて然るべきかな)

 事実、長女はリオンの方なのに、『従者』の立ち位置を獲得したのは妹の方だった。これまでの法則を問えば、それはあり得ないことだ。竜滅姫でありながらも不死鳥の従者ではない……果たしてリオン・シストラバスとは、神にも計算できぬ奇跡の上に生まれた一粒の宝石であった。

「だからこそ――

 救世主の花嫁としてふさわしいのだと、微かな背筋の震えと共にカトレーユは改めて確信する。

 王子様であればどう足掻こうとも、目の前にいる紅いお姫様に傅かずにはいられまい。

「ああ、リオン。大好きだよ」

 このまま待っているだけでは永遠に一人で輝いているだろう娘を、カトレーユは自ら駆け寄って抱きしめた。

「本当に、リオンが生まれて来てくれて良かった。この瞬間に、わたしの娘として生まれてきてくれたことが嬉しくてたまらないよ」

「……おかーさま……」

 神々しい姿に罅が入る。
 震える声で母親を求めて、リオンは自分からも抱きしめ返した。

「わたくしも、おかーさまの娘として生まれてくることができて嬉しいです。他の誰でもなく、おとーさまとおかーさまの娘として生まれてくることができて、とても幸せでした……!」

「そっか。わたしが望んで、リオンが望んで、そうしてわたしたちは出会ったんだね。うん。それはまるで――

 幸せな終わりへ導いてくれる――

――運命の子みたい」

 強く、強く、万感の想いをこめて娘を抱きしめながら、カトレーユは愛おしさでどうにかなってしまいそうだった。

 今はまだ幼く完成には至らないが、いずれリオン・シストラバスは自らを磨き高める従者を得て、世界を揺るがすほどの美姫となろう。それは千年近くも停滞し続けていた救世主を誕生させるための、最後の鍵となるに違いない。

 そのときまでは、まだほんの少しだけ時間がかかる。ならば自分は、ゆるりとそのときを待つとしよう。次代の器は、予定とは些か違ったがすでに誕生している。

「じゃあね、リオン。わたしの大事な宝物」

 頭を撫で、頬をすり寄せ、額にキスを落としてから、カトレーユは微笑んでリオンから離れた。

「ゴッゾの言うことをよく聞いて、ちゃんと幸せになるんだよ。幸せを知らない人に、人を幸せになんてできないからね」

「はい、お母様。安心してください。わたくしは、今幸せになるための方法がわかりましたから」

「そっか。それなら安心して眠りにつけるね」

 もはや心配事は何もない。やり残したこともない。

 魔法使いが願った救世主。不死鳥が産み落とした花嫁。
 次に自分がリオンと会うときは、きっと、この二人が結ばれたとき。そのとき何もかもが終わり、何もかもが始まるだろう。

――さようなら、お母様。どうかお幸せに」

 そうして自分と娘の運命を決定づけた別離は終わり――カトレーユ・シストラバスは一人、戦場を目指す。
 





       ◇◆◇







 ゴッゾはドラゴンとトーユーズが戦う音を聞きながら、魔法騎士の手を借りて、切り札を使う準備を行っていた。

 神殿との契約、である。

「オルゾンノットという都そのものを神殿として起動する神殿魔法の話を、以前先代から聞いたことがある。発動条件は魔法陣に大量の血と魔力を注ぎ込むこと。神殿との契約条件は、竜滅姫の番であること」

 ゴッゾは両手でドラゴンスレイヤーを掲げ、切っ先を地面に向けた。

神殿接続

 そして、契約の詞を口にした瞬間、外界に対するあらゆる感覚を失った。

「これは……」

 まるでドラゴンの悪夢に取り込まれていたときのよう。白に染まる世界で、ただドラゴンスレイヤーを手にゴッゾは立っている。

 白き世界の中、唯一人工の建造物としてゴッゾの目に映るのは、真っ赤に染まった巨大な城だ。

 城の造りは色を除けば、シストラバスの居城とよく似ている。

「これが神殿の核か?」

 ゴッゾはドラゴンスレイヤーを左手で持ち、右手を城にかざす。

「ギッ!」

 瞬間、まるで刃で突き立てられたかのような痛みが全身を襲った。

 身体ではなく中身に刻み込まれる術式。頭に様々な情報と歴史が流れ込んでくる。
 神殿を作り上げた初代・竜滅姫の夫。ナレイアラと共に乱世を駆け抜けた騎士。そして、そこから今に続くまで存在した契約者たちの記憶。

 ――守れなかった。

 ――我々は守れなかった。

 ――我々は大切な姫を守れなかったのだ。

「グゥウアアアアアア――――!!」

 後悔で彩られた無数の記憶に、ゴッゾは濁流に呑まれた小枝のように翻弄された。これは人が背負いきれる痛みではない。

 しかし、これを乗り越えなければ、ゴッゾが味わうのもまた彼らと同じ。大切な人を守れなかったという後悔だ。それを思えば、この程度の痛みで屈するわけにはいかない。

「辛いだろう。悔しいだろう。大切な人を守れなかったその痛み、全て私が引き受けた!」

 ゴッゾはドラゴンスレイヤーを杖に紅き城の尖塔に立つと、声を張り上げた。

「私はゴッゾ・シストラバス! 今代の竜滅姫カトレーユ・シストラバスの夫であり、不死鳥の番だ!!」

 ――守れなかった。

 ――我々は守れなかった。

 ――我々は大切な姫を守れなかったのだ。

 ――ならば託そう。我々が叶わなかった夢を叶えるために。

「ああ、あなたたちの遺した意志を無駄にはしない!」

 ゴッゾは確かに自分が神殿を掌握したのを実感し、強く拳を握りしめた。

 目の奥でバチバチと火花が飛び散り、意識が一気に浮上する。それは悪夢から覚めたとき以上の爽快感。

「大丈夫ですか? ゴッゾ様」

 ゴッゾの意識がはっきりしたとき、隣ではエルジンが顔色をうかがっていた。意識を飛ばしていた時間は数分のことだったらしい。

「大丈夫だ。神殿とは契約できた。神殿魔法[閉鎖魔女クローズウィッチ]の行使は可能だ」

「[閉鎖魔女クローズウィッチ]というのですか? その魔法は」

「ああ。この魔法は最大規模の封印魔法で――

 ドラゴンを二日は閉じこめておくことができる。

 神殿と契約したため、正確に把握できた魔法の力にゴッゾは愕然とした。たとえ[閉鎖魔女クローズウィッチ]を使ったところで、たった二日猶予を延ばせるだけなのだ。世界最大級の封印魔法でも、ドラゴンを恒久的に封印することはできない。

「馬鹿な。なぜ先代たちはこんな魔法を……」

 そう呟いたゴッゾは頭を振った。たとえ二日でも、猶予を設けられれば次の策を見つけられるかも知れない。

「エルジン。騎士たちに配置につくように指示を出してくれ。そのあと、騎士トーユーズに後退命令を」 

「はッ!」

 指示を受けたエルジンが広場へ走っていく。

「戦ってくれている騎士トーユーズのためにも、やるしかない」

 ゴッゾはエルジンを見送ったところで、魔法騎士たちの指揮を執るためにドラゴンスレイヤーを振り上げた。

 そう、決意は最初から。ゴッゾは最後まで足掻くと決めていた。

 それを止められる者がいるとすれば、それは――……。






 そして悪夢は終わりに至る。長い夢は終わりへと辿り着く。
 
 あらゆる疑問を置き去りにして。あらゆる約束を置き去りにして。

 ――戦場に今、竜滅姫が現れる。

 

 



 
 トーユーズの奮戦も、やがてはこれまでの歴史がそうであったように、徐々にドラゴンの再生能力の前に影を落としていた。

 すでに一度ならず三度もドラゴンとの戦闘を経験した上での全力を振り絞っての戦いだ。すでに魔力は底が見え始め、ドラゴンを凌ぐ速度は鈍っている。

「はぁ、はぁ……」

 周囲は戦闘の余波で紅蓮に包まれ、トーユーズは乏しい酸素に喘ぎながら、必死に折れそうになる心を繋いでいた。

 すでにヘルメットを始めとして防具はドラゴンブレスの余波で溶け、用をなさないために脱ぎ捨てていた。下に着ていた服もほとんどが焼け落ち、まるで浮浪者のようは出で立ちだ。剣はドラゴンの血で濡れ、切れ味を半減させている。

 まさに満身創痍。終わりの見えない戦いに、トーユーズの命はもはや風前の灯火だった。

 一方のドラゴンは戦闘開始のときとまったく変わらない姿。都市の中心部で出会ったときと寸分の違いもない、巨大な威容。漆黒の翼。炯々と輝く、血塗れた瞳。

「これは確かに、何度も何度も何度も何度も辟易するほど先輩たちが言い含めるはずだ。ドラゴンを舐めるな、と」

 水分を欲して唇を舐めれば、自分の血かドラゴンの血かわからないが、血の味だけがした。

「……舐めてた、か。そうだ。きっと自分は、色々なものを見下していた」

 ドラゴンがゆっくりと動き出す。口の中に炎を灯らせてトーユーズを見据える。
 トーユーズの足はもう動かなかった。剣を握っているのが精一杯で、もう一歩も歩けそうにない。

 救いは、こんな無様な姿を誰にも見せないで済むことか。
 炎は避難施設とこの戦場とを隔て、互いに互いの様子がわからない状況になっている。

 向こうには騎士に憧れているだろうたくさんの子供たちがいた。そんな人たちに今の自分の姿を見せるのは、あまりにも恥ずかしいし惨めだ。だから都合がいいといえば都合がいい。

 あるいは、トーユーズからも向こうの様子がわからないから、こうして諦めることができるのか。守っている人たちの姿がもしも見えていたら、最後の最後まで足掻いていたかも知れないが、こんな一人きりの状況では見栄を張る気にもならない。

「でも……それなりに、がんばれた、かな……」

 これまで以上の魔力が注がれた炎のブレスを前に、トーユーズはゆっくりと目を閉じた。

 最後に見る光景がドラゴンの顔ではあまりにも悲しいので、せめて心の中で大切だった日々を思いながら、静かに短かった人生に幕を閉じる。

 ……そうなれば、あるいは美談になったかも知れないが、トーユーズにそんな終わりは訪れなかった。

 疲れ果ててもなお感じた、鋭い魔力の気配。
 何かが炎の壁を切り裂き戦場にやってきたことを悟り、トーユーズは瞼を開いた。

 そして見た。

「ルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオウ――ッ!!」

 自分がついぞ敵わなかったドラゴンの首を、ただの一刀をもって刎ね飛ばしてみせた、美しい真紅の姫の姿を。

「ふっ!」

 戦場に駆けつけたカトレーユは、ドラゴンスレイヤーを閃かせ、首に続いてドラゴンの双翼を両断せしめた。その剣技のなんと鮮やかなことか。トーユーズをもってしても未だ辿り着けない剣技の極限が、そこにはあった。

「竜滅姫、様……」

 真紅の髪を踊らせながら着地したカトレーユの後ろで、ドラゴンが地面に崩れ落ちる。

「ドラゴンの巨体を支えてるのは、足じゃなくて魔力。バランスを取ってるのは翼だから、頭と一緒に切り落としておけば、とりあえずしばらくは動けなくなる。ドラゴンスレイヤーによる傷なら尚更にね」

 剣についた血を払いながら、カトレーユはいつもの調子でそんなことを口にする。まるで何度も何度もドラゴンと戦い続けてきた戦士のように。

 それがそもそもおかしかった。トーユーズが知るカトレーユ・シストラバスという女性は、剣の修行になんて興味の欠片もない、自分以上にマイペースに生きていた女性であるはずだなのに。

 トーユーズほどの騎士になれば、カトレーユの尋常ではない強さを感じ取ることができた。日常ではまったく感じたことがなかった、それこそドラゴンと同等の恐怖を、今トーユーズは主君である女性から感じていた。

「ん? 何? そんな化け物を見るような目をして」

「いえ、その、竜滅姫様がこんなにも強いなんて知らず……」

 衝撃から立ち直れず、トーユーズは突っ立ったままそんな言葉を口にした。

 カトレーユはそれこそ質問されて初めて、自分が剣技なんて修めていないと思われていることを思い出したのか、軽く自嘲するように笑って見せた。

「まあ、わたしってやればできる子だから。君と同じように、才能だけは充ち満ちてたみたいだしね。けど、それでもドラゴンが相手だとあんまり意味がないね。才能じゃ勝てない。ドラゴンに勝つには、それこそ唯一無二の特別じゃないと」

「特別?」

「ドラゴンの不死性を剥奪できるような何か。つまり、わたしにとっての『不死鳥聖典』のようなもの」

 そこで、トーユーズはカトレーユの姿が、竜滅姫が竜滅に赴く際にのみ着る聖衣であることに気が付いた。

 今まさにカトレーユが剣から本の形に変えたそれこそが、代々シストラバス家に受け継がれてきた始祖ナレイアラの聖骸聖典。『不死鳥聖典』と呼ばれる、ドラゴンを滅す力を持つ奇跡の力だった。

「まさか竜滅姫様、ここで竜滅を!」

 竜滅姫が『不死鳥聖典』を携えて戦場に現れた――その意味を正しく理解したトーユーズは声を張り上げる。

「なりません! 今ここであなたに死なれては、この戦場で散った命が何の意味もなくしてしまいます!」

 気が付けば、トーユーズは剣を放り捨ててその場に膝をついて懇願していた。

「あなたは死んではいけない! 『不死鳥聖典』を使ってはいけません!」

「だけど、ここで使わないと、今度は民が死ぬことになる」

 聞いたことがない強い口調でカトレーユは断じた。
 
 彼女の視線の先には、自らが切り裂いた炎の壁の向こうから戦場を見つめる、市民たちの祈るような顔があった。同時にそれは竜滅姫の死を願うもの。それを受けて、カトレーユは此処こそが自らの死に場所と見定めたようだった。

「忘れてはいけない。間違えてはいけない。君たちシストラバスの騎士は、竜滅姫を守る騎士であると同時に、この街に住む人々を守る盾なのだから。自分たちの我が儘で竜滅姫を守ろうとするのなら、そこには決して違えてはいけないタイムリミットがあることを、絶対に忘れてはいけない」

 その刻限が、この今――
 民が竜滅姫の死を願ったとき、諦めなければいけない戦いと、果たさなければならない終わりがある。

 もうトーユーズは何も言うことができなかった。言えるはずがなかった。

「そう、ですか。自分たちは今回もまた、竜滅姫様を守れなかったのですね……」

 敗北の宣言を、自分が口にすることになったことが悲しかった。
 そして狂おしいほどの怒りを抱く。昨日までの、傲慢にもドラゴンも軽く倒してみせると勘違いをしていた馬鹿な自分に対して。

 このときになってようやくトーユーズは気が付いたのだ。託されてきたシストラバスの騎士のユメの重みに。

 目の前で主君を失うという、騎士にとって最大の罰を科され、ただただトーユーズは項垂れ続けるしかなかった。

 そんな負け犬の姿を見てどう思ったのか。カトレーユはふいに周りに視線を送ると、近くに転がっていた煤に汚れたワインボトルを拾い上げ、口の部分を熱で溶かしてトーユーズに差し出した。

「せめて、君一人くらい讃えないと、わたしは竜滅姫失格だと思うからね。――騎士トーユーズ。よくやった。貴公の忠義、しかと見届けた」

「あ、ああ……」

 それは何て誇らしく、なんて惨い賞賛なのか。
 突きつけられたワインの切り口は剣の切っ先よりも鋭くトーユーズの胸を抉る。一生消えない傷を刻み込む。

「……ああ、なんて、勿体なきお言葉……」

 滂沱の涙を零し、トーユーズは差し出された主からの盃を受け取った。一気にワインの中身を半分ほど煽ると、その酷すぎる味にむせ返りながらも、必死に吐き出さないよう堪える。

 この味を忘れない。この血と泥でしかないワインの味を、生涯忘れまい。

 この日の傲慢のツケを、科された罰を忘れないために、トーユーズはかつて飲んだどんな美酒よりも長く、存分に味わいながらワインを飲み込んだ。

 カトレーユもまた、トーユーズが残したワインの半分を飲み干すと、空のボトルを放り投げてドラゴンに向き直る。

 首と翼をなくして地面に落ちていたドラゴンは、翼のほとんどを修復し終わり、首ももう少しで再生しようという状態だった。残された猶予は幾ばくもない。もはや制止の力も残っていないトーユーズの前で、カトレーユは『不死鳥聖典』のページを開く。

――旅の終わりは、まだ見つからない

 そして、不死鳥の炎をページより噴き上げながら、今代の竜滅姫は聖句を紡いだ。






       ◇◆◇






 広場から天空を貫いた真紅の炎を見て、ゴッゾは自分が間に合わなかったことを悟った。

「カトレーユ……」

 神殿との契約こそ終わっていたものの、まだ魔力の充填が済んでいない。まだ[閉鎖魔女クローズウィッチ]は発動できない。

「カトレーユ!」

 気が付けば、ゴッゾは走っていた。

 広場へ向かって全力で走っていた。

 ドラゴンによる生命力の吸収と、神殿との契約による虚脱感の残る身体で、必死に、呼吸する暇すら惜しんで、妻がいる戦場を目指して走っていた。

 追いつけるだろうか?
 間に合うだろうか?

 そんな不安が脳裏を過ぎり、現実になってしまったときに喪うものを思えば、恐怖で押しつぶされそうになる。しかし、足を少しでもゆるめてしまえば絶対に追いつけないような気がして、ゴッゾは限界を超えた疾走を続けた。

 やがて、視線の先に炎の海が見えてくる。

 天を焦がすかのような大火だ。
 火は徐々に広がりを見せ、すでに街の四分の一を包み込もうとしていた。

 ……あるいは、最初からカトレーユが『不死鳥聖典』を使っていれば、こんなことにはならなかったのだろうか?

 たとえ胸にぽっかり大きな穴が開いても、一生騎士たちに許されないとしても、心を鬼にして世界のために、都に生きる人々のためにと決断していれば……あるいは、今日ここで死んだ人たちが死ぬことはなかったのではないか?

 それでも、ゴッゾは選んでしまったのだ。貴族としての庇護対象である住人よりも、妻を、一人の女を。

 ならば、戦いを始めた者の責任として、この炎の中で消えた命はゴッゾが背負うべきものだ。

 渦巻く炎の中を駆け抜けるゴッゾ。あちこちで焼ける人の臭いが、パチパチと焼け落ちる建物の悲鳴が、まるで怨嗟の声のように聞こえてならない。

 その中で、ゴッゾを導くものは美しい紅い光だけ。まっすぐ、決してどこかに迷い込むことがないように炎の迷宮を突き進む。

 そうして、耳に綺麗な歌声が届いた。

 まるで炎が誰かに吸い込まれてしまったかのように開けた広場の前。多くの人々が、一つの炎を囲むようにして立ち尽くしていた。その中にはシストラバスの騎士の姿も見られる。

 誰もが希望をこめて、人を焼く地獄の炎ではなく、それを切り開く不死鳥の炎を眺めていた。

「カトレーユ!!」

 ゴッゾは迷わなかった。

 不可視であり不可避である炎の中に誰がいるのかなんて決まり切っていて、迷うことなく炎の中へ飛び込むことを選んだ。あるいは、それが地獄の炎の残り火だったのならば、ゴッゾの身はまたたくまに焼き尽くされていたのかも知れない。

「カトレーユ!!」

 しかし、ゴッゾは火傷一つ負うことなくそこへと辿り着いた。

 紅い、紅い、炎に包まれた、愛する人へ。

 ゴッゾは声もなく全てを理解した。
 紅い聖典を手に、真っ赤な炎に包まれているカトレーユの姿を見た瞬間――もう、全ては手遅れなのだと。

 結局、間に合わなかった。
 結局、追いつけなかった。

 いや、そもそも……自分がこの戦いで、一体どんな役に立ったというのだろう? 何ができたというのだろう?

 何もできなかった。何一つ、成すことができなかった。
 決意は力に繋がらず、覚悟は結果に繋がらず、想いはこんな結末へと繋がってしまった。

 カトレーユは炎の中、ゴッゾの姿を見つけて口を開いたが、もう、その声すら届かない。

 せめて、また炎へと飛び込みたくて手を伸ばすが、今度の不死鳥の火はゴッゾの指先すら触れさせてはくれなかった。焼くでもなく溶かすでもなく、ただ拒絶する。

 ゴッゾはその場に崩れ落ちた。もはや自分には何も出来ないのだと、そう絶望して……。

――――

 そのとき、カトレーユが唇を動かした。

 どこか申し訳なさそうに、少しはにかみながら。
 それはこれまでゴッゾが見たことがない妻の顔。そんな顔で、カトレーユがなんて言っているのか、わかった。

「ああ、ああ、私もだ! カトレーユ!」

 ゴッゾは声を張り上げる。この想いよ届けと、必死に声を張り上げる。

「愛してる! 私も、私もだ! お前のことを、ずっと、愛している!!」

 最後の最後まで。
 炎が全てを閉ざし、炎の卵より不死鳥が空に舞い上がるまで。ずっと、ゴッゾは叫んだ。

 そして、そんな想いが一つの成就を結ぶ。何も出来なかった男がこの戦いで唯一叶えられた、その小さな願い。

 ゴッゾの愛は妻に届き、


愛してるヽヽヽヽヽカトレーユ!!」

「うん。わたしも愛してたヽヽヽヽよ、ゴッゾ」


 カトレーユの愛も夫に届いた。

 空には炎の翼を広げる不死鳥が。
 世界を救う炎が、悪夢と一緒に、カトレーユ・シストラバスの姿を全てのものから覆い隠していく。

 まるで劇の幕が下りるように。









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