第十三話  此処より始まる

 


 少女の意識は、燃えるように熱い魔力の気配によって浮上した。

 目覚めた場所は、戦火に燃える空の下。そこで、知らない男性に背負われていた。

 ここはどこなのだろう?
 この人は誰なのだろう?

 寝起きとは別の、混濁した意識の中からその答えを拾おうとするが上手くいかない。まるで記憶が欠けているように思い出すことができなかった。

 あるいは、最初からそんな記憶など存在しないのか。まるで生まれたての赤子のように何もわからないし、おかしなことに、自分のことすら思い出せなかった。

 ただ血の臭いが酷いな、と、そう地獄みたいな風景を見て少女は思うだけ。

 ならばきっと――自分は今この瞬間に、この世界に生まれ落ちたのだろう。

 血と炎の地獄の中、空虚と疑問だけを抱えて生まれ落ちた存在。それが自分。
 少女は自己を認識し、己を知る。この世界に生まれたものが最初に行う自己の確認作業は、滞りなく成功した。

 だがそうすることで、少女は気付いてしまった。

 人は普通、父と母に愛されて生まれてくる。
 両親の愛に守られ、神の祝福を受けて生まれ落ちてくる。

 しかし、少女に父もいなければ母もない。生まれ落ちた場所は地獄の中。
 そんなところで生まれたものはきっと人間とは呼ばない。化け物というのだ。神の祝福など受けていない、生まれてきてはいけなかった子供……。

 少女には、自分を罵る世界の声が聞こえていた。
 弾ける炎の中に木霊する、この地で死んでいった者たちの怨嗟の声が。

 ――どうして殺した?

 ――どうして死ななければならなかった?

 ――どうしてワタシタチは死んでしまったのに。

 ――ワタシタチを殺したオマエは生きているのだ!?

 罵倒。呪詛。拒絶。
 地獄で奏でられる死者たちのオーケストラは、生まれてすぐの少女の無垢な心に刻み込まれる。

「そうか。わたしは……」

「起きたのか? クーヴェルシェン」

 怨嗟の声に話し方を知り、背負ってくれていた人の言葉で少女は自分の名を知った。

 知識だけは生まれる前から持っていた。
 自分という存在を正しく認識できれば、後は自ずと推測できる。

 自分は――呪われた存在。許されざる罪人。この地獄より生まれ落ちた、この地獄を作りだした張本人。生まれる前よりその手は罪で濡れ、身体は喰らった者の血肉よりでき、炎の熱で血を巡らせ、殺戮の歓喜で心臓を鼓動させる化け物。

 それを人はこう呼ぶ――終わりの魔獣ドラゴン』と。

「わたしは、ドラゴン。私は、神様に見捨てられた……」

「お主、一体何を……?」

 背負ってくれた人が問うてくるが、少女――クーヴェルシェンに返せる言葉はない。
 なぜなら、クーヴェルシェンの言葉は毒となって他者を縛り、その魂までもを侵すだろう。ならば、どうして語りかけることができるのか?

「……ごめん、なさい……」

 クーヴェルシェンは震えながら謝罪の言葉を口にする。

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい……」

 何度も何度も。自分を罵りながら、世界全てに対して謝り続ける。

「そう、全部私が悪かった。だから……」

 そして、自らの過去を忘れたまま、自分の存在意義を思い出せぬまま、自分の役割を理解する。

 一人殺したのだから、百人を救わないとダメだ。
 百人殺したのだから、万人は救わないとダメだ。
 幾千もの想いを踏み躙ったのだから、この世界を救わなければダメなのだ。

 そうしなければ許されない。生きていることを許されない。いや、そうしても許されないかも知れない。それに無理だ。自分にそんなことはできない。何もなせない。自分は見捨てられたのだから……。

「…………救わないと……」

 しかし、諦めてはいけない。それだけは決して諦めてはいけない。

「救わないと!」

 それはなぜか、その理由がなんだったのかは思い出せないけれど、クーヴェルシェンの魂が、世界を救い、人を救えそう叫んでいる。

 それが全て。クーヴェルシェン・リアーシラミリィに残る全てだった。

 そうして地獄に生まれ、自分が悪魔であることに絶望した少女は見ることになった。

 地獄を終わらせる、その紅き炎を。






 ゴッゾの姿が見えなくなったところで、カトレーユは背後を振り返った。

 目の前には三眼のドラゴン。すでに再生を終えているが、地面に座り込んだまま、まったく動こうとしない。まるで飼い主に従順に従う子犬のように、ドラゴンはカトレーユを見つめたまま石像のように固まっている。

 ドラゴンとしての本能が訴えているのだろう。もう暴れても意味はないことを。破壊の限りを尽くさなくても、ここに用意された終わりはあるのだと。

「よしよし、いい子だね」

 その姿はまさしく忠犬のそれだ。
 カトレーユは首を下げるドラゴンの鼻先に左手で優しく触れて、

「じゃあ、終わらせようか」

 右手に持っていた『不死鳥聖典』へと力を送り込んだ。

『不死鳥聖典』は血液を送られた心臓のように鼓動する。一つ一つの鼓動が、法外の魔力を発していた。

――許された終わりへ、わたしは旅立つ

 そして、最後の聖句が紡がれた刹那――高熱の魔力は暴風のように吹き荒れると、カトレーユの身体をつま先から頭の先まで、一瞬にして包み込んだ。

 苦痛は感じなかった。感じたのは、さながら蛇が脱皮したかのような、そんな変身の予兆。

 果たして、本来の持ち主の魔力を送り込まれた『不死鳥聖典』は今、本の形でも剣の形でも、ましてや指輪でもなく、燃えさかる鳥に変わっていた。

 体長はドラゴンにも匹敵するほどの巨体。羽根の一枚一枚が高温度の炎でできており、双眸が金色である以外、尾の先まで全てが紅蓮で形作られている。まさに『死』と『再生』の象徴たる不死鳥の威容であった。

「さて――

 不死鳥は、木琴のような声をどこからともなく発した。

 人間が話すときと同じだ。特に意識せずとも、不死鳥は話すことができる。たとえどのような姿形であろうとも、それが『神獣』である以上、人の言葉は忘れるものではなかった。

 そう、不死鳥の人格となっているのは、まさしくカトレーユ・シストラバスと呼ばれていた女であった。

『不死鳥聖典』の中に封印していた本来の肉体を取り戻した彼女は、翼を広げて軽やかに空へ舞い上がる。

 そこからはオルゾンノットの都全てが見えた。
 カトレーユが役割を果たすためにクーヴェルシェンのところへ赴いていたからだろう。ドラゴンによる破壊は、街の半分近くを炎で包み込んでいた。

 炎は消える予兆を見せない。が、天高く舞い上がったカトレーユからはその一団もまた見えていた。

 白銀の騎士団。使徒フェリシィール・ティンクが率いる聖殿騎士団だ。
 かの使徒は水を操る。すでに燃えている部分は無理でも、これ以上炎が燃え広がることはないだろう。とはいえ、半壊した都の機能を取り戻すのは並大抵の苦労ではない。

 願わくば、ゴッゾがそれでも果たしてくれることを。人在らざる不死鳥といえど、妹が開き、夫や子供と過ごした都に愛着めいたものは感じているのだ。

「まあ、大丈夫かな」

 ただし、カトレーユに不安はなかった。

 人というのは諦めが悪いし、努力家だ。
 いずれ再びこの都はこの地に花開くことだろう。恐らくは、前よりも美しく。

 カトレーユは眼下で自分を見上げる親しい人や見知った人、知らない人など大勢の人々の祈りを受け止めながら、一際強く祈っているドラゴンへと視線を向けた。

 終わりを告げるために。

「さよなら。終われる君が、わたしは羨ましいよ」

 不死鳥は一直線にドラゴンへと向かう。
 空に一条の火線が生まれ、さながら流星のようにドラゴンの巨体を粉砕する。あれだけ攻撃を受けてもビクともしなかったドラゴンが、断末魔の声もなく、灰も残さず消え伏せる。

 そのあとで、もう一つ、竜滅の最後に破壊しなければならないもの。

「さようなら。カトレーユ・シストラバス」

 不死鳥は自らの抜け殻である肉体を最後に包み込み、その身体を全て焼き尽くすと同時に火の粉になって風と散る。

 神獣の肉体は再び『不死鳥聖典』に。

 そして『主人』の魂は、次なる『従者』の身へと、その存在を宿らせた。

 

 


       ◇◆◇

 

 


 美しい炎が戦いの終わりを締めくくる。
 綿雪のように空から降り注ぐ火の粉を見て、トーユーズは何もかもに負けたことを知った。

「……ねえ、先輩。騎士って、素晴らしいものじゃなかったんですかね……?」

「わからない」

 トーユーズのすぐ横にはエルジンの姿があった。
 彼は直立不動のまま涙を流し、膝を折って慟哭するゴッゾの姿と、炎となって空へ昇っていったカトレーユの姿を見ていた。

 凛々しい横顔。力強い背中。

「ああ、そっか」

 トーユーズは思う。この人こそがシストラバスの騎士なのだと。

 なぜこんなにもエルジンに惹かれるのか、トーユーズは今更ながら気が付いた。なんてことはない。理想の姿を体現した人が傍にいれば、惚れずにはいられないだけの話だ。

 ……トーユーズにも、男の身体を持ちながら女の心を持つ自分を、歪んでいると思うことはあるのだ。

 幼い頃はそんな素顔を必死に隠し、自分はただ普通の男の子だと、全てを偽って生活していた。そんな中で騎士の格好良さに憧れた――それだけは嘘偽りのない本当だったから、やがて色々なものが吹っ切れたあとも大事にしていた。

 だけど……自分は、こんな風にはなれない。

 目の前で主君を失った悔しさから涙を流し、それでも決して顔を俯けることなく、膝を屈することがないエルジン。本人は気付いていないだろうが、その手は固く握りしめられていた。そこには未だ希望がある。自分の背中にはまだ守るべき主君がいると、だからまだ絶望してはいけないのだという強さがあった。

 ドラゴンの強さを思い知りながらも、エルジン・ドルワートルは諦めていないのだ。

 対して、トーユーズは絶望していた。自分の力ではどうがんばっても勝ち得ないドラゴンに、倒せるはずもないドラゴンに、諦めてしまっていた。

「これが、騎士。シストラバスの騎士……」

 トーユーズは静かに思い知る。シストラバスの騎士の宝は、受け継がれてきた先に生まれた最高の騎士は、剣の強さ如きに酔っていたこんな子供ではなかったのだと。ひたすら心を鍛え続けた、エルジン・ドルワートルこそがそうだったのだと。

 だからこそ――

「紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤーとなる、か。笑わせる」

 ――シストラバスの騎士のやり方では、未来永劫ドラゴンなど倒せない。

「トーユーズ。何を?」

「いいえ、ただ気付いてしまっただけです。どれだけ時間をかけても、どれだけ諦めずに受け継いでいっても……結局、繰り返されるのは今日みたいな悲劇だけだと。騎士の聖句なんて、所詮は無意味なものに過ぎないと」

「なに?」

 エルジンの顔に怒りが混ざる。それも当然だ。トーユーズの吐いた言葉は、これまで戦い続けてきた騎士たちを嗤ったものなのだから。

「……もう一度言ってみろ、トーユーズ。何が無意味だと?」

「ええ、何度だって言ってあげます。シストラバスの騎士では絶対にドラゴンは倒せない。これまでの千年は全て間違いだったんです。だって――

 エルジンが剣の柄に手を伸ばす前に、トーユーズは彼の首筋に二振りの剣を突きつけていた。

「ほら、こんな自分は、それでも先輩よりも強いんですから」

 シストラバス家にエルジン以上の騎士は現れない。ならば、諦めないという祈りを受け継がせ続けるというやり方では意味がないのだ。

「勝たないと何の意味もない。ドラゴンを殺し尽くすやり方は、別にある」

「トーユーズ。お前……」

 何かに気付いたのか、怒りを和らげたその隙だらけの顔に、トーユーズは不意打ちの口づけをした。

 それは区切り。初恋に対する、シストラバス家の騎士に対する、そして何より自分の心にあった少年としての夢に対する。

「さよなら、先輩。自分は――いえ、あたしは、夢を継がせる男ではなく、全てを継がせる女として生きます」

 幼かった自分の全てを、この理想の騎士に託して。

 トーユーズは最後に炎を見上げ、終わった戦場に背を向けた。

 エルジンは何も言わなかった。代わりに、強い迷いと葛藤の視線が背中に当たっては散っていく。理想の騎士の心にも、一つの迷いが生まれてしまったのだろう。

 ただそれでも、エルジン・ドルワートルという男はシストラバスの騎士として在り続ける。やがて自分たちのユメを果たしてくれる『少年』に全てを託すまで、たとえ無駄だとしても同じことを繰り返す。

 それを無様と嗤うことは誰にもできない。
 それを愚かと蔑むことは誰にも許されない。

 ただ、トーユーズ・ラバスはその道へは行けない。ドラゴンを本当に滅そうと思うなら、紅き騎士のユメでは無理だと悟ったのならば、もうあの尊い聖句を謳うことはできないのだ。

 さらば、幼き日よ。唯一生まれた少年としての理想よ。

「いつか絶対に、あたしがドラゴンを――殺すッ!!」

 

 


       ◇◆◇

 


 

 オルゾンノットを襲った悪夢から一週間が経過した。

 竜滅姫がその身と引き替えにドラゴンを葬り、その後援軍を率いて駆けつけた使徒フェリシィール・ティンクが炎を消したところで、古都オルゾンノットの地獄は終わりを告げた。

 それでも区切りと言うのならば、今日この日こそがそうなのだろう。

――この世、この地で散った我らが隣人たちの魂が、今神の身許へ旅立つ」

 つい二週間前までは活気に溢れていただろう広場には、今、啜り声が満ちていた。

 街の中心でフェリシィールの手によって執り行われているのは、今回のドラゴン襲来で亡くなった者たちへの葬儀だった。多くの献花が捧げられた祭壇に炎がくべられ、煙となって神がいるとされる遙かな空の果てへとのぼっていく。

「……まさか、ただの里帰りがこんなことになるなんてねぇ……」

 葬儀の列を囲む人々の中に紛れた少女の隣にもまた、悲しみに涙する女性がいた。

「…………」

 はぐれないようにと握られた手には、痛いほどの力が込められている。

 少女たちの暮らすラバス村へ、クロード・シストラバスの訃報が届けられたのが四日前のこと。 彼との付き合いは女性の方が長かったからだろう。特に、最近ではほとんど一緒に暮らしていたようなものなのだ。一人の家族のことを思い、心の底からの祈りを捧げていた。

 対して、自分はどうだろう?

 少女とクロードの関係をいえば、女性――トリシャ・アニエースよりもずっと深い。ただ、素直に悲しむことができないのは、彼のことを心のどこかで憎んでいたからか。

 少女にとって、クロードとは自分を鳥かごに閉じこめていた男だった。
 ずっと、ずっと、彼の所為で少女は外の世界を知ることが許されずにいた。

 それが自分を守るためだったということはわかっている。それでも……。

『カトレーユ。良く聞きなさい。お前はもうすぐ死んでしまう』

 ……思い出すのは、あの日の言葉。
 
『それは変えられない。終わらないものはないからだ。だが、もう一度最初からやり直すことはできる』

『そう、あなたは死ななくてもいい。またわたしが生んであげるから』

 右目を押さえた父親と、生まれたときからずっと自分の中にいた彼女に与えられた選択肢。

『心配しなくてもいいよ。わたしたちは血によって魂を巡らせる不死鳥。肉体の死は死であって死ではないのだから』

 少女は正しく理解していた。これが悪魔の取引で、自分の中にいる彼女は全てを要求しているのだと。

――わかりました。あなたと契約します』

 けれど死を恐れ、生を望んだ少女は頷いた。

『こんな身体でよろしければあなたに差し上げます。ですが、どうか一つだけお願いを聞いてはくださいませんか? もう一度生まれることが許されるのなら、あなたの夫となり、私の父となる人は……』

 たった一つだけ、ずっと胸に秘めていた想いだけを残して。

「……それが、この結果」

 素性を隠すために被ったフードの下の顔を沈鬱に歪め、少女は大きな炎から視線を逸らした。

 そこで一組の親子を見つけ、強く心臓を震わせる。

 フェリシィールのすぐ傍で、まっすぐ炎を見つめる金髪の紳士と紅い髪の幼子。
 男の方はどこか泣き疲れたような表情をしていたが、少女には一目であの人だと、ゴッゾ・シストラバスだとわかった。

 ならば、あの幼子こそがリオン・シストラバス。竜滅姫を継ぐ者か。

「…………どうして、あんな眼……」

 複雑な面持ちで少女は二人を見つめた。

 妻の死を嘆くゴッゾの顔は見ていられなくて、まっすぐ、強く、泣くでもなく悲しむでもなく前を見るリオンの年齢離れした姿に、疑問を抱いた。

 なぜ、母親の死に泣かないのだろう?
 なぜ、そんなにもまっすぐ前を向いていられるのだろう?

 あるいは……あれが彼女なりの、母の死を嘆き、母の死を認め、母の死を受け入れるための姿なのか。だとしたら、何と悲しく美しいのだろう。

 その心に触れてみたいと、少女は思った。
 彼女とよく似た、けれどまったく似ていない少女が今何を考えているのか、それを知りたいと。

「リオンを頼む、ですか」

 少女はこの街を救った英雄が遺した言葉を思い出し、もう一度、祭壇の炎を見つめた。

 ……そうすると、不思議とクロードと過ごした日々が甦ってくる。風邪を引いたとき、看病をしようとしてはトリシャに追い出される姿が。頼んだ本とはまったく違う本を持って来られて悲しかったとき、慌てて頼んだ本を探して持ってきてくれたときの顔が。お母さんのことを話してくれるときの、あの優しい笑顔が。

「いたっ」

 眼に鋭い痛みを覚えた少女は、慌てて目元に手をやった。その際、被っていたフードを外してしまう。

 フードから零れたのは、肩ほどまでのびた紅い髪。
 瞳の色が翠色と普遍的なものだったのは、少女が目を擦るときまで。あまりに痛くて強く擦ったために、つけていた翠色の色ガラスが落ちてしまった。

 手のひらの上にこぼれ落ちたそれを見て、ようやく少女は理解する。自分が涙を流していることに。

「……ああ」

 それが答えだ。クロードの死を嘆いていないなんて、嘘にも程がある。
 彼から愛されていたのと同じくらい、少女は彼のことを愛していたのだから。

「お疲れ様、でした……よく、がんばったね……」

 ユース・アニエースと今は呼ばれるようになった少女は、愛する女性のところへ旅立ったクロード・シストラバスへ、今だけはかつて別の名前だった頃と同じ気持ちで、感謝と別れを告げた。

「ありがとう。さようなら。――大好きな、お父様」

 

 


 ドラゴンの襲来で亡くなった人たちに対する一斉葬儀が終わり、悲劇に一つの区切りをつけたところで、ゴッゾ・シストラバスは家へと戻ってきた。

 とはいえ、シストラバスの居城は何者かによる攻撃によって半壊してしまった。今は多くの使用人共々、ドラゴンの攻撃によって家を失った市民同様に、王国騎士団や聖殿騎士団が持ってきてくれた天幕などで寝泊まりしているため、休むために戻って来たのではない。

 ただ、見ておきたかったのだ。カトレーユと一緒に過ごした、自分の家を。

 恐らくは、こうして見ることができるのはこれが最後になることだろう。すでにフェリシィールとの話し合いで、再生計画は決まっていた。その手始めとして、都の象徴でもあったシストラバスの居城を建て直すことになっている。

 同じように、都も聖神教の全面的な協力の下に再建が約束されている。ゴッゾはこの機会に、より発展するように、そして何より次にドラゴンが現れたときのために、新たな都を作り上げるつもりでいた。それはオルゾンノットにあらず。まったく新しい街となるだろう。

 ドラゴンの悲劇と共に、古い全てを捨て去るのだ。そうして、人々は未来のために歩き出す。

 そう、カトレーユの死をいつまでも嘆いてはいられない。
 結局は何もできなかった自分を許せることは一生出来ないとしても、それでもまだ守らなければならない大切なものはあるのだから。

「お父様。大丈夫ですか?」

 手を、小さな手のひらが握り返してくる。

 隣を見れば、リオンが心配そうに見上げてきていた。

 大切な母親を失って悲しいだろう娘にそんな顔をさせてしまうことが申し訳なくて、ゴッゾは誤魔化すようにしゃがみこんで、リオンの頭を撫でた。

「ありがとう、リオン。だけど大丈夫だよ。私にはリオンがいてくれるからね」

 そして、必ずこの子を守ってみせると決意する。

 リオンはカトレーユが死んだことで、竜滅姫の名を受け継いでしまった。他に竜滅姫がいない以上、もしも次にドラゴンが現れたとき、生け贄にならなければならないのは彼女だ。たとえ次の襲来が六十年前後あとだとしても、妻を守れなかった男として、娘から母親を奪ってしまった父親として、それは到底許せることではない。

「リオン。安心してくれ。お前は絶対にお父さんが守ってあげるから。ドラゴンを倒すために死ななくていいんだ。ドラゴンには絶対に、殺させてなんてやらないよ」

「それは違いますわ、お父様」

「違う? 何が違うんだい?」

 にこりと笑ったリオンに、ゴッゾもがんばって笑顔を作った。どうか、上手くできているようにと祈りながら。

「はい。お母様はドラゴンに殺されたのではありません。大切なものを守るために、自ら死を迎えたのですわ。
 だから安心してください。私も、ちゃんと笑って死んでみせますから」

 しかし、それは無理だった。リオンが笑顔で口にした終わりを聞いて、どうしようもなく悲しみが込み上げる。

 ああ、娘は人間ではなくなってしまった。
 カトレーユと同じように、この子は自らの死を肯定する竜滅姫になってしまった。

「お父様?」

 強くリオンを抱きしめて、静かに理解してしまった未来を否定しようとしてもしきれない自分に涙を流す。

 この子は、死んでしまうだろう。カトレーユと同じように、笑って、死んでしまうのだろう。

 それはきっと止められない。どれだけがんばろうとも、どれだけ準備をしようとも……リオン本人が竜滅姫の在り方を肯定し続ける限り、決してこの子が生き残るという道はあり得ないのだ。

「あ、ああ……」

 それがわかってしまったから、より一層の決意をこめて、ゴッゾは誓う。

 守る。何があっても、何を犠牲にしても、この子だけは守ってみせる。死なせはしない、絶対に。

「あ、ああ、あああアア……!」

 だから――今だけは泣かせて欲しい。

 こんな小さな子が死を認めてしまうこの世界に。
 カトレーユが必死に守ったあげくに残った呪いに、今だけは泣かせて欲しい。

 あれだけ美しかった世界がゴッゾには色褪せて見えた。リオン以外の紅い色が霞んで見えるのだ。それはゴッゾが知るこの世で最も美しく尊い紅が、この世界から消えてしまったから。

「ごめん、カトレーユ……私は、私は…………!」

「大丈夫。大丈夫ですわ、お父様」

 愛する妻を失い、愛する子もいつか失われてしまうのだと気が付いたその日――
 ゴッゾ・シストラバスは涙を流し、リオン・シストラバスはその涙を受け止め、父親を慰め続けた。

「リオン・シストラバスは、お母様みたいな立派な竜滅姫になりますから」

 その指には、当然のように真紅の指輪が輝いていた。

 

 


       ◇◆◇


 

 

 ――そして此処に、オルゾンノットの地で行われていた本当の目的は結実を果たす。

 絶え間なく雄叫びをあげ、支配を拒んでいたメロディアの眼から、ついに光が消えた。

 マザーが増幅させたアーファリム・ラグナアーツの強制力の前に、抵抗する力が負けたのだ。細い身体は弛緩し、真っ白な髪が力無く地面に落ちる。

 ずっと進行を見守っていたマザーは、その小さな身体を抱き止めると、

『……ああ。ついに、ようやく、ワタシは見つけることができるのか……』

 あまりにも狂おしい感情をこめた呟きを、唇を動かすことなく口からもらした。

 形なき機械であるマザーにとって、アーファリムが果たした儀式は大きな意味を持っていた。なぜなら、彼女のかけた千年の努力など一瞬の瞬きとも思えるような悠久の時を待ち続けた瞬間が、ついに手が届く場所まで近付いたのだから。

『アーファリム・ラグナアーツ。汝に祝福を。ああ、今ならば汝が望み、果たすことにも否とは言うまい』

 マザーは拘束具を破って手を広げ、メロディアの脇に手を入れて、まるで母親が赤ん坊をあやすときのように抱き上げた。

『最後に望まれた救世主が現れるのならば……たとえ巫女が誰であれ、救いのときは来る』

 そして、まるで本物の人間のように愛おしげに微笑んだ。

『さあ、世界を隔てる境界線を崩しておくれ。ワタシのリトルマザー』

 メロディアの金色の瞳が見開かれ、全身より虹の力が放たれたかと思うと、灰色の虚空に黒い点が穿たれる。

 メロディア・ホワイトグレイルという新人類のみが持ち合わせる、世界の境界線を崩す力。この黒い孔の向こうは、マザーの理解すら及ばない『異世界』に他ならなかった。そして、そこにこそマザーが望む救世主はいる。

『観測する。観測する。観測する。救世主を、ワタシは観測する』

 マザーは目まぐるしく解析装置が動いているのを感じながら、孔の向こうに目を凝らした。

 最初は闇しか見えなかったそこに、少しずつ光が収束していく。

 それは理解の輝き。たしかにそこが異世界である以上マザーは知らないが、理解することはできる。そもそも、マザーとはこの世界にあり得ない可能性を計算するために生み出された進化する機械。瞬く間に闇は光に塗りつぶされ、一人の少年の姿を鏡のように映し出す。

 そう、それは少年だった。

 年齢は十歳前後。黒髪に黒い瞳を持つ、マザーの記録するこの世界の人類とよく似た少年。何がそんなに気にくわないのだろう。幼い顔を渋く歪め、手の中の黒縁眼鏡を睨んでいる。

 それは普遍的な、マザーの記録の中にあってはあまりにも普遍的な少年だったが、

――見つけた』

 その実、その魂にはあり得ない特異能力が宿っているのだと、まったくその少年の本質を理解できないでいる自分の初めての熱暴走の熱さを感じながら、マザーは知る。

 ならば間違いあるまい。

『ついに見つけた! 救世主の力を――全てに至る才オールジーニアス】をッ!!』


 彼こそは、メロディアが末期の絶望に願った、あらゆる可能性を有するもの。本気で願えば叶わぬことは存在しない、正しく救世主となることができる存在。

 ようやくマザーは理解する。この心に込み上げてくる解析不能の何かこそ、人が歓喜と呼び称するものなのだと。マザーを生み出した創造主が欲していた、彼女が人間に与えるべき全てなのだと。

 ならば――探さなければならない。描かなければならない。

 あの可能性を引き出す、神の如き肉体を。
 あの救世主の力を完成させる、絶対のシナリオを。

 そう、メロディア・ホワイトグレイルが辿った巡礼が、神話と呼び称されるものならば、彼の持つ可能性が描く物語もきっと――……。






 狂い笑う『世界権限』――
 その姿を、感情を失った空虚な瞳で、救世主ではなくなってしまった少女はじっと見つめていた。










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