第三話  最後の団欒




 古都オルゾンノットは過去数回ドラゴンの襲撃を受けて一度も壊滅したことがない、不死鳥の都の名に恥じぬ都市である。

 聖地の隣にあるとは思えない防衛機構は、全て内側に対して機能するように作られている。つまり、オルゾンノットとはドラゴンを捕らえるための檻でもあるのだ。そのため住人たちはドラゴンが来るとき、すぐさま避難できるよう常日頃から教えを受けているし、全員を収容できる避難施設も充実している。

 ……というのが、今から百年ほど前のオルゾンノットだった。

「報告します。問題が発生しました」

 山のような書類に追われていたゴッゾのところへ、騎士エルジンが報告を持って現れた。

「ああ、避難が思うように進まないことかい? それとも謎の病気のことかな?」

「避難の件です。市民の避難率は七割弱といったところですが、残りの市民の中に問題が」

「スラムの住人、か」

 サインする手を止めずに書類を秘書官に渡し、渡されながらエルジンの報告を聞く。書類仕事に慣れているゴッゾが当主代行として今頭を痛めているのは、その件だった。

 他の街の例にもれず、伝統深きオルゾンノットにもスラム街というものがある。職にあぶれたりした貧民層がオルゾンノット南西部に形成した場所だ。他の大都市に比べたらまだ小規模なものだが、治安が悪く領主の声も届きにくい。

「状況が状況ですので、逃げ出す者も確認されていますが、多くの住人は避難しようとは考えていないようです」

「説明に行かせた騎士は?」

「追い返されたようです。危害を加えるな、というご命令でしたので」

「なるほど」

 ゴッゾはサインする手をいったん止め、顎に手を当てた。

「王宮から勅命が来て今日で三日……いつドラゴンが現れてもおかしくない。一刻も早い避難が望ましいんだが。これは少々手荒な真似も辞さないべきかな」

「私見ですが、ゴッゾ様。避難したくないものを無理に避難させなくてもよろしいのでは?」

「というと?」

「はっ。我々がドラゴンを倒す際、どう立ち回っても街への被害が出ることでしょう。しかしながら、今ここで避難誘導に人員を割けば、それこそ迎撃に出る際に足並みが乱れます。結果的に被害は拡大すると思われるのですが」

「道理だね。特に、スラムの住人相手だと避難させるのも一苦労だ。それでドラゴンへの迎撃が遅れては意味がないだろう。しかし、仮にドラゴンが降り立った場所がスラムだったなら……」

「……住人への被害は大きなものになります」

「それもある。しかし、それよりも問題なのは、スラムが戦闘場所になったとき彼らが足枷になる可能性だよ」

 ゴッゾは書類を書く手を再開させながら、淡々と言う。

「負けられない戦いだ。少数を切り捨てて大を守るという観点とは別の意味で、彼らを避難――いや、取り除かなくてはならない」

「…………」

 エルジンは狼狽えるように、愛娘のこと以外ではほとんど動かない表情を動かした。
 共に同じような年齢、娘の父親ということで、身分を挟んだ友人というべき関係を結んでいる相手であるため、彼が驚いているのがゴッゾにはわかった。

「酷い判断だと思うかい?」

「いえ、目的のためを思えば妥当な判断かと。出過ぎた言葉でした。申し訳ありません」

「気にしないでくれ。では、騎士エルジン。避難誘導にあたる騎士たちにこう伝えてくれ。――抜刀を許可する。尻を蹴り飛ばしてでも避難させろとね」

「はっ!」

 礼を取って、エルジンは部屋を出て行った。

 それに入れ違いになるように部屋へと入ってきたのは、寝ぼけ眼を擦る母と娘だった。

「なんかお尻とかエロエロしい単語が聞こえたけど、ゴッゾ、変な趣味に目覚めてないよね?」

「はふぅ……おとーさま、おはようございまふ……」 

「おはよう、リオン。そしてカトレーユ、寝言は寝て言いなさい」

「…………すぅ……むにゃむにゃ…………ゴッゾって両刀……?」

「本当に寝てから言い直さない! 器用だね、お前は!」

 振りか、本当に寝ているのか、目を瞑って娘に身体を支えさせるカトレーユに思わず大声を出せば、「おはよう」と遅いあいさつと共に彼女は起きあがった。

「ところでゴッゾ、今何時?」

「お昼が少し回ったところだよ」

「そか。じゃあ、リオン。ママと一緒に朝ご飯兼お昼ご飯食べて来ようか?」

「わかりました。ごいっしょします」

 リオンは頷いてから、うかがうようにこちらを見てきた。

「あの、おとーさまは……?」

「すまないね。ちょっと片付けないといけない仕事があるから、先に食べててくれるかな? 食後のお茶会には参加しよう」

「はいっ、お待ちしておりますわ!」

 嬉しそうに笑って、リオンは母親を引っ張るようにして食堂に向かった。寝室から直接来たのだろう。カトレーユだけではなく、リオンの後ろ髪もところどころはねていた。

「状況が状況でなければ、いつまで寝ているんだと叱るところなんだけどね」

 昼食という単語を聞いて思い出した、用意してもらって食べるのを忘れていた朝食のサンドイッチに手を延ばししつつ、ゴッゾは秘書官に笑いかける。

「リオン様はまだ幼いですが、賢い御方。この状況を全て理解はできずとも、感じるところがあるのでございましょう」

 秘書官――シストラバス家の執事長でもあるアルゴーは悲しそうな目をしていた。

 ドラゴンが現れることが知らされたあの日から、リオンはことあるごとにカトレーユと行動を共にした。これまでも忙しい父親の分まで母親に甘えていたリオンであるが、眠るときもお風呂のときも、片時も離れないのは珍しい。

 アルゴー執事長のいうとおり、リオンも察しているのだろう。今甘えなければ、もしかしたらもう二度と母親には甘えられないかも知れない、と。

「そうならないために私たちは行動しなければなりませんね」

「その通りだ。このままではリオンまでもが、カトレーユのように自堕落な人間になってしまう。きちんと叱れるようにしないと」

 最後の一切れを口の中に放り込み、ゴッゾは再び書類整理に取りかかった。ドラゴンが来るまでにやらなければならないことは、まだたくさんある。

 ……そして、重要なことも残っていた。

 リオンが察しているように、またカトレーユも自分の運命については把握しているはずだ。ゴッゾ自ら説明したことでもある。

 それなのに、前と何ら生活が変わっていないのはなぜだろうか?

 昼まで寝て、ぼうっとして、お昼寝して、ふいにいなくなって……もうすぐ死んでしまうかも知れない身の上としては、それはあまりにものんきな姿に思えた。

 ゴッゾは守ると言った。それを信じてくれているのならばいいが……。

「なあ、アルゴー執事長。カトレーユが今何を考えているかわかるかい?」

「いや、どうでしょう」

 シストラバス家にはゴッゾよりも長く仕えているアルゴーは、どこか焦がれるようなものを瞳に浮かべて、

「竜滅姫様は、私のような凡人にはわからぬ御方であらせられますから。恐らくはきっと、カトレーユ様のことを理解することができるのは、同じ竜滅姫様か、あるいは使徒様だけでございましょう」






 エルジン・ドルワートルがサボっている後輩を見つけたのは、住人の避難誘導を担当している騎士隊に連絡し、次の指示をもらいにゴッゾの執務室へ向かっているときだった。

 誰も彼もが忙しなく走り回っている城の中庭。その大きな木の一つから、尻尾のような三つ編みがのぞいている。あの巨木にのぼれ、そしてこの状況で遊んでいられるのは、もう一人しかいない。

「トーユーズッ!!」

「ひゃっ!?」

 大きく息を吸って思い切り怒鳴ると、木の上からトーユーズが降ってきた。

 打ち付けたお尻をさすりながら、トーユーズは睨みつけて来る。

「ひどいですよ、先輩。驚いたじゃないですか」

「きちんと受け身を取っておいて何を言う? わざと痛がるな。それより仕事をしろ、仕事を」

「……先輩だってサボってるじゃないですか」

「ほう。俺がサボっているように見えるか?」

 まだ騎士団内では若輩者であるエルジンが受け持っている仕事は連絡役だ。やらなければならないことが多い現状、最も忙しい役といっても間違いではない。

「トーユーズには俺がサボっているように見えるのか。かわいいエリカが待つ家にも帰れず、汗を掻いて走り回っている俺が、サボっているように見えるというのか。なるほど」

「う、嘘です。全然がんばってるように見えますから、腰の剣に手を伸ばさないでくださいよ! 自分丸腰ですよ!」

「なにっ!? お前、ドラゴンスレイヤーはどうした?」

「あ」

 剣も鎧も身につけていないトーユーズは、あからさまにしまったという顔になって、口笛を吹き出した。

 とりあえずエルジンは殴りかかった。
 避けなかったので、ひとまずお説教は止めておくことにする。時間が惜しい。

「痛い……もう、頭をそう毎回毎回殴らないでくださいよ。ハゲちゃったらどうするんですか?」

「ずっと兜を被っていればいい。お前は鍛錬のときすら被らないのだからな」

「当たり前ですよ。あんなの被ったら、自分の麗しい顔がわからなくなっちゃいます。剣も忘れたんじゃなくて、あんなものつけてたらかわいい子が寄ってこなくなるから部屋に置いてあるだけです」

「なお悪いわ!」

 怒鳴ってから、エルジンは呆れ過ぎて疲れてきた目頭を揉みほぐした。

 このトーユーズ・ラバス、数年前に正騎士になったばかりのエルジンにとっては初めて直接教えることになった後輩なのだが、如何せん自由人過ぎた。まったく自分の言うことを聞こうとしない。それでいて剣の腕前はエルジン以上というのだから、始末に悪い。

 しかし、まさかドラゴンが来るという状況になってなお昼寝なんてしているとは……怒りを通り越して呆れ果てるというものだ。これがゴッゾのいう働いたら負けかな、と思っている人種というのかも知れない。

「先輩。そんな怖い目で見ないでくださいよ。大丈夫。だいじょーぶですって。ドラゴンが来たら、流石にしっかりやりますから」

「信用は常日頃の行動から勝ち取るものだ」

「自業自得ですが、はっきり言いますね。そんな自分信用ないかなぁ」

 トーユーズは唇を尖らせ、それから鍛錬のときに偶に見せる、あの嘲笑とも取れる笑みを浮かべた。

「ですが本当に大丈夫ですよ。だってドラゴンですよ? ドラゴン! 最強の魔獣。未だかつて誰も倒したことがない災厄……見逃しませんよ。ええ、見逃さない。こんなチャンス一生に一度かどうかなんですから!」

「……勝てると思っているのか? ドラゴンに」

 そんな言葉を思わず口にしてしまったエルジンは、自分が一抹の不安を抱いていることを悟った。

 ドラゴンが現れる周期は大体六十年に一度ほど。よって、シストラバスの騎士がドラゴンと相対するときは、一生に一度ほどである。少なくとも、エルジンは次回のとき戦えるような年齢ではないだろう。
 
 生まれたときから父についてシストラバスの教えを受けてきたエルジンにとって、これが唯一無二の、自分の聖戦であるという認識があった。せめてもう少し経験を積んでいたならばいざ知らず、未だ連絡係に甘んじている身としては、不安を拭いきれなかった。

「ドラゴンに勝てるかですか? 当然勝てますよ」

 トーユーズはそんなエルジンの不安を鼻で嗤って、

「むしろ不安に思っている先輩、格好悪いです。優雅とは言えませんね。エリカちゃんが心配してましたよ、最近お父さんが怖い顔ばっかりしてる、って」

「ぐっ……!?」

 愛娘の名前を出されてしまっては、エルジンも黙らざるをえなかった。

 目に入れても痛くない娘のエリカは、おおよそ唯一といっていいエルジンにとっての弱点だった。先輩後輩の間柄から、偶にエリカと遊んでいるトーユーズだが、まさか自分がいないときにそんな相談を受けているとは……。

「あ、あの、先輩? なんか殺気向けてきてません?」

「トーユーズ。たとえお前といえど、エリカは渡さん……!」

「だから剣に手をかけないでくださいってば! 安心してください。自分、エリカちゃんにはこれっぽっちも興味ありませんから!」

「……本当だな?」

「本当です。絶対です! だって自分、女の子に興味ありませんから。むしろエリカちゃんじゃなくて先輩の方に興味あります!」

 …………なんか、どさくさに紛れて聞き捨てならないことを聞いた気がする。

 エルジンは僅かに引き抜いた剣を鞘に戻して、

「俺は仕事に戻る。お前もさぼるな」

「いやぁ、ちょっと待ってぇ――! そんな普通になかったことにして行かないでくださいよ! 自分、これが初めての告白ですよ? 愛の告白だったりするわけですから!」

「気色悪いことを抜かすな! 俺に衆道の趣味はない!」

 今度こそ本気で剣を抜いてエルジンはトーユーズに向き直った。前々から理解できない奴とは思っていたが、まさかここまでとは思っていなかった。

「自分にだって同性愛の趣味はありませんよ!」

「なに? お前はどこからどう見ても……まあ、五人に一人くらいは間違えるかも知れんが、一応男だろう?」

「身体は、ですけどね。心はいつでも乙女のつもりです」

 まったくない胸を張って、トーユーズは堂々と言い放った。
 あまりにも堂々とし過ぎていたので、エルジンも混乱してくる。とりあえず剣を鞘に戻した。若干距離は取ったままだが。

「いや、そういう得体の知れない奴って目で見られるのはわかってましたけどね。あんまそういう目で見ないでくださいよ。傷つくじゃないですか」

「……すまん」

「いいですよ。ちょっと抱いてくれれば。エリカちゃんのお母さんにしてくれれば」

「殺っ――いや、叩き斬るぞ?」

「具体的な殺人プランを提案しないでくださいよ! もう、ほんと冗談が通じない人なんだから。だけどそこがいいというか……いやぁ、本当に先輩といい団長といい、子供がいる男性は格好良くてたまらないですね!」

 ガチだ。こいつは、ガチだ。
 エルジンはかつて感じたことのない悪寒に身体を震わせながら、いつでも逃げられる準備をした。後輩を叩き斬る覚悟も完了だ。

「……まあ、包み隠さず本音を言いますとね、自分って生まれたときからこんな感じだったわけですよ」

 エルジンが本気で混乱していると悟ったのか、冗談を言うような言葉を止め、トーユーズは肩をすくめた。

「同世代の男の子が女の子の話題で盛り上がってるとき、自分は一人そんな男の子たちを見てましたし、女の子の裸を見たって全然興奮なんてしませんし……ずれてるんですよ、心と体が。たぶん間違っちゃったんですよ、生まれたときに」

 そういえば聞いたことがある。

 トーユーズの生まれ故郷であるラバス村。遡ればエルジンの先祖の地でもある、ドラゴンスレイヤーの原料が採掘でき、[竜滅付加エンチャント]を施せる『封印』の魔力性質が多いというあの村は、何でもやや精神に異常を持った人間が生まれる可能性が高いという。

 精神分裂。白痴。生まれてすぐにしゃべることができる赤子。見知らぬ言語を操る老人。女の身体を持つ男、あるいは男の身体を持つ女……。

「『神衣を纏った者』って言うらしいですよ、自分みたいなラバス村出身の精神異常者」

「『神衣を纏った者』? ナレイアラ様がそう呼ばれていたという話は聞いたことがあるが……」

「割とラバス村だと、異常者じゃなくて神様に特に愛されて生まれてきた子みたいに扱われますけどねー。姫様が言ってました。あの村は昔、混じっちゃいけないものが混じってしまったから、そんな異常者が生まれやすくなったそうです」

 姫様――つまり主君、カトレーユ・シストラバスだ。偶にだが、サボったトーユーズを見つけたとき、一緒になってカトレーユが昼寝しているのを見たことがあるエルジンだった。

「ほんとか嘘かは知りませんけど、そういうわけですので、自分、身体は男でも心は乙女なんです」

「そうか。それは……まあ、そういう奴もいるだろうな」

「……言っておきますが、本気ですよ? 本気で自分、先輩に恋していますよ?」

 手を後ろで組んで、下から覗き込むようにしてトーユーズが見つめてきた。
 こういうことを言われたあとに改めて見ると、なるほど、エルジンにもトーユーズが女に……。

「悪いな。俺の心はすでに売却済みだ」

「あいたっ!」

 見えるわけがない。

 エルジンはトーユーズの頭にもう一発拳骨を落とすと、背中を向けた。

「ほら、仕事に戻るぞ。やらないといけないことはたくさんあるのだからな。俺もお前も、生まれはどうあれ同じシストラバスの騎士だ。竜滅姫様のために……今はそれが一番優先すべきことだろう?」

「わかってますよ。先輩が珍しく不安になってたから、ちょっと慰めようとしてあげただけですぅ」

 拳骨に相当力を込めたからか、後ろでトーユーズが涙目になって唇を尖らせているのがわかった。 

 わかったと言っても、そう簡単に仕事に戻るような奴ではないので、エルジンは先に戻ることにする。

「ドラゴンは俺たちが倒す。そうだろう? トーユーズ」

 最後に、不安を取り除こうとしてくれた後輩にそう言って。

「…………ちぇっ、ほんと、格好いいんだからさ……」

 後ろで悲しそうな声が聞こえたが、エルジンは聞こえないふりをして足を速めた。ドラゴンを倒すためにやらなければならない準備は、まだたくさん残っている。

 

 


       ◇◆◇

 

 


 結局、ゴッゾが食堂へ行くことができたのは、リオンたちが向かってから一時間も後のことだった。

「おや、二人とも。待っていてくれたのかい?」

「あ、おとーさま!」

 食卓の椅子に座って、足をブラブラさせていたリオンが喜色満面で出迎えてくれる。

 その隣でボリボリとクッキーをつまんでいたカトレーユはこちらを見向きもせず、

「ゴッゾ、遅い」

 優雅さの欠片もない飲み方でカップに入った紅茶を飲み干す。それでいてまるで一枚の絵画のように見えるのだから、神様は色々と間違っていると思う。

 ゴッゾは二人のすぐ近くの椅子に座り、昼食を断って、二人と同じく紅茶とお茶菓子だけ注文した。すぐに淹れられた紅茶を一杯飲んで一心地付き、二杯目を淹れてもらったところで口火を切る。

「すまないね、遅れてしまって。随分待たせてしまったけど、二人ともお腹がいっぱいになってはいないかい?」

「ふっ、わたしを見くびってもらっては困るよ、ゴッゾ君。お菓子ならいくらでも入るのが乙女という生き物なのだよ」

「わたくしも大丈夫ですっ。おとーさまとごいっしょするために、お茶菓子を我慢してましたから!」

「リオン……お前って子はなんて親思いなんだ……!」

 つまり、カトレーユは必死に我慢する娘の前で、バリボリとお茶菓子を食べていたということか。なんて惨い。カトレーユは悪魔か。そしてリオンは全然そんな母親の行動を責めてはいないようだった。天使か。

「と言いつつ、わたしはリオンがこっそり一枚だけ食べた瞬間を見逃してないけどね」

「はふっ! み、見られてました……」

「あははっ。カトレーユが美味しそうに食べていれば、なかなか我慢はできないだろうね」

 上品に両手でクッキーを食べるリオンは頬を赤く染めるのだった。

「ところで二人とも、午後の予定は何かあるのかい?」

「いいえ、わたくしはありませんわ。おかーさまは?」

「それはもう忙しいの何のって。お昼寝は絶対しないといけないし、おやつも絶対食べないといけない。どれだけぼーとしてられるか……わたしって、なんて苦労人なんだろう」

「つまりは全然暇ということだね」

 大した苦労人もいたものだ。

「しかし、それは良かった。どうだい? 二人とも。これからちょっと街の方へ出かけてみないかい?」

「素敵ですわ! おとーさまとおかーさまといっしょにお買いものなんて、とても久しぶりです!」

「えー? 寒いからお外出たくない」

「決まりだね。それじゃあ、少し休憩したら出かけようか」

「無理された。カトレーユちゃん、ショック」

 頬が膨らむくらいマドレーヌなり何なりを食べつつ言われても、まったく説得力がなかった。ちなみに最初から形式的に訊いただけで、ゴッゾにカトレーユの意見を尊重するつもりは欠片もない。未だかつて誘って素直に頷いたことが、果たしてどれだけあったか。

「楽しみです。おかーさま、いっぱい楽しみましょうね」

「…………まあ、偶にはいっか……買い食いするなら、あそことあそこ、あとあの店は外せないし……」

 いつも以上にはしゃぐ娘といつもと変わらない妻。
 ドラゴンは現れる――それは絶対だ。だからこそ、親子三人でいられる今を大切にしたい。ゴッゾは切に、そう思う。

 

 


「おや、ゴッゾ君。親子水入らずで買い物かね?」

 男として、ゴッゾが準備に時間のかかる婦人方を門で待っていると、街の方からクロードが数人の騎士と共に戻ってきた。

「ええ。そろそろ避難が完了しそうなのでお店も閉まってしまいますし、その前に一度と思いまして」

「なるほどのぅ」

「お義父さんもご一緒しますか?」

「遠慮させてもらおう。やらねばならんことも残っておるし、何よりかわいい孫にお邪魔虫扱いされるのは耐えられんわい。ゴッゾ君のことじゃから、やるべきことはきちんとやり遂げておるのだろうが、細々としたものはワシが引き受けよう」

 呵々とクロードは笑う。リオンはそんなこと言わないだろうが、ほんの少し安堵してしまう自分がいた。

「では、お言葉に甘えるとしましょう」

「楽しんで来なさい。覚悟はどうあれ、これが最後になるかも知れんのじゃから」

「……はい」

 一転して真剣な顔をするクロードの言葉に、殊勝にゴッゾも頷いた。

 ゴッゾはカトレーユを守ると言った。クロードたちもそれに同意してくれた。
 しかし、それでも相手はドラゴン。ゴッゾが願ったことは、過去千年に渡ってシストラバス家が願い続け、それでも叶わなかったことなのだ。

 諦めてはいない。出来ないとも思っていない。が、ならいつも通りにしよう……そう言えるほど、ゴッゾは豪快な性格はしていなかった。

「けれど――カトレーユがいつもと変わらないのは、もしかしたら、彼女がとてつもなく豪快な性格をしているからなのかも知れませんね」

 自分には到底できないことをしている妻に、ゴッゾは苦笑と共に僅かな賞賛を声に含ませた。

「お義父さん。一体どんな育て方をすれば、あのような豪快な性格になるんです?」

「…………ワシは、何もしておらんよ」

 是非リオンの反面教師として知りたくなったゴッゾが訊けば、その老年とは思えない強い瞳をクロードはわずかに陰らせた。そんな姿を見ると、この人が五十歳近い年月を生きた老人であることを自覚せずにはいられなかった。

「本当に何もしておらん。あの子の母親が毒竜の呪いで死んだあとも、ワシがしたことといえば、あの子から自由を奪い、あの子から笑顔を奪っただけじゃ」

「お義父さん……」

 クロード・シストラバス。

 かの男は優れた騎士であっても優れた為政者ではなかった。暗君でこそなかったが、結果的に、クロードがオルゾンノットを統治した時期にスラムが拡大し、シストラバス家が没落の憂き目にあったのは純然たる事実だ。

 その根本的な原因は、娘カトレーユが毒竜の呪いという不治の病のため、生まれながらにして床に伏せることが決定されたことにある。クロードはそんな娘の病を治すため、資産を無視して高価な薬や高名な医師、はたまた不確定の伝説にまで手を伸ばしてしまった。

 そんな過去を持つ義理の父に対して、ゴッゾは以前より聞いてみたいこと、聞いておかなければならないと思っていたことがあった。今この時間が最後の団欒になるかも知れないというのならと、ゴッゾは改めて向き直る。

「お義父さん。私は前々からあなたに聞いてみたかったことがあります。それはシストラバス家の当主代行としても、竜滅姫の夫としても、一度訊かなければならないことです」

「ワシが何故、カトレーユの病を治そうとしたか、かね?」

「はい。元より騎士の家系であるシストラバス家は、家督こそ最上でしたが、資産家としてはさほど富があったわけではない。そんなことはあなたも重々承知だったはずです。なのに、家を潰しかけるまで娘に尽くした……それはあなたが父親だったからですか? それとも――

 シストラバス家とは即ち竜滅姫。ドラゴンから世界を守るための盾である。

――竜滅姫を絶やすわけにはいかなかったから、ですか?」

「両方じゃよ」

 即答された返答はゴッゾの予想通りだったが、口にしたクロードの顔は、予想とは裏腹に複雑な感情に満ちていた。

「我が妻は毒竜の呪いによって、竜滅を行う前に死んでしまった。その時点で、竜滅姫の資格を持つ者はカトレーユのみだった。絶やすわけにはいかない。ドラゴンに対する抑止力を失うわけにはいかない……そう思ったのは事実。
 しかし、ワシも父親だ。愛していたよ。生まれたときより自由に外を歩くこともできず、ただドラゴンを殺すためだけに生き続けることを強制された哀れな娘を、父親として愛していたのだ。
 何とかしてやりたいと狂ってしまったワシを、君は愚かだと思うかね? ゴッゾ君」

「愚かですね」

 ゴッゾは即答した。

「……少なくとも、ゴッゾ・リンページだった頃の私は、そう断言したことでしょう。貴族にとって娘はただの政略結婚の道具。より高く売らなければならない商品だ、と」

 今も多くの貴族にとっては、家督を継がない後継者の扱いなどそんなものだ。そこに愛情はあっても、行き着くべき先は間違えてはならない。

「ただ、ですね。あなたの愛した鳥は、私にとっても破壊力がありすぎたようです。変えられてしまいましたよ。断言できます。私はあの女に心奪われ、それまであった貴族としての心得というものを少し忘れてしまいました」

 間違えてはならないのだが、間違えてしまった。あるいはどうでもいいと思ってしまったのか。それくらい妻は自由人で、娘はかわいすぎた。

「そして、あなたにも感謝していますよ、お義父さん。あなたが馬鹿なことをしでかしてくれなければ、今ここにゴッゾ・シストラバスはいないわけですから」

「そうか。……そうかも知れぬな」

 苦笑するゴッゾにクロードも苦笑を返した。

 まったく人の縁とは奇妙なものである。クロードが家を傾けなければ、ゴッゾがシストラバス家の婿養子になることなどなかったのだから。

「ふむ。しかしそうでないかも知れぬぞ、ゴッゾ君。君は自分の知らぬところで、その商才以外のものを買われてここにおるかも知れん。そこにいる鳥にのぅ」

「なっ!?」

 クロードの目配せに、ゴッゾは慌てて後ろを向いた。

「やほー」

 そこには顔を赤く染めるリオンと、そんな娘を懐にすっぽり抱きしめた件の鳥がいた。紅い、紅い、鳥だ。軽いあいさつをするその頬は、ほんの少しだけ赤らんでいた。

「なんか面白い話をしてるね。わたしも混ぜてもらっていいかな?」

「おとーさま……情熱的ですわ」

「ぐはっ!」

 ゴッゾは頭を抱えて悶えた。話に気を取られ、背後への注意が散漫になっていた。これが戦場ならゴッゾは死んでいる。むしろ殺してくれと言いたい。

「仲良きことは良いことじゃ。のう、リオン?」

「はいっ!」

 笑顔の義理の父と愛娘に挟まれて、一組の夫婦は、お互い視線を合わすことができず明後日の方向を見続けた。始まりはどうであれ、今二人はたしかに夫婦と呼ぶべき関係であり――恥ずかしいものはやはり、恥ずかしい。






 ――後になって思えば。
 このときの恥ずかしさ混じりの幸福を、どうしてもっと噛み締めなかったのだろう?






 逃げるようにして街に出たゴッゾたち。
 避難も進んでいる街にはいつもの活気はなかったが、それでも商売たくましい商人たちが、露天を出して売りさばいていた。

 リオンは綺麗な飾り細工をキラキラした瞳で見て、
 カトレーユは無料で振る舞われる食べ物を次から次へと胃に収めていた。

 そんな二人の姿を誰よりも近くで見ていたゴッゾだからわかった。どれだけ街の人が、この二人の竜滅姫を愛し、慕っているか。優越感を感じずにはいられなかったし、寂寥感を抱かずにはいられなかった。

――これをどうぞ」

 街が夕焼けに赤く染まる頃、一人の幼い少年が、カトレーユに赤い薔薇の花束を手渡した。

 二人の間に接点はない。あるとしたら、それは竜滅姫とこの世界に生きる人という、それだけの関係……。

「ありがとう」

 立ち去る少年の背にお礼を告げて、カトレーユは花束に顔を近付けた。
 妖しいほどに色づいた赤い薔薇……その香りは、ゴッゾのところまで届いていた。

「おかーさま。あの、お知り合いの方ですか?」

 リオンがカトレーユのスカートの裾を引っ張りながら訊いた。

 カトレーユは小さな頭に手をのせて、首を横に振ってから、言った。

――これは手向けの花束だよ」

 くしゃり、とリオンの顔が歪む。

 そう、カトレーユ・シストラバスの一番近くにゴッゾはいられても、決してその美しさを独占することはできない。

 ゴッゾが愛した怠け者のカトレーユは、
 すでに世界へ捧げられる竜滅姫になっていたのだから。

 

 


       ◇◆◇

 

 


 ぎゅっと、リオンはベッドの中、カトレーユに強く抱きついて眠っていた。まるで離さないと、絶対に離れないと言いたいように。

「ん。ちょっときついんだけどな」

「我慢しなさい。お前と違って滅多にない、リオンの我が儘なんだから」

 ――おとーさまとおかーさまと一緒に寝たいですわ。

 そう、夕食のあとにリオンは言った。その瞳からはボロボロと涙がこぼれ落ちていて、充血した目は瞳の色と同じように赤くなっていた。

 そんな顔で頼まれれば、いくら仕事が残っていてもゴッゾが首を横に振れるはずもなく、カトレーユも断りはしなかった。いつぶりかはもう覚えていないが、都が寝静まった頃、寝室で親子三人リオンを真ん中に挟んで眠っていた。

「むしろ私に抱きついてくれないのが悔しくてたまらないね」

「ふっふっふ。どっちが抱き枕にして気持ちいいかなんて、そんなの子供でもわかるということだよ。ゴッゾ君」

「カトレーユ、太ったのかい?」

「まあ、うら若き乙女になんてことを聞くのでしょう、このエセ紳士は。だから胸が大きくなったって言ってるのに。処女だった頃に比べて二割り増しだよ、二割増し」

 大きく胸を突き出してくるカトレーユ。なるほど。この前ああは言ったが、そう言われてみれば大きくなっているようなそうでないような……。

「……むにゃむにゃ……おとーさま……エロ……」

「ぐはっ!」

 素晴らしいタイミングでのリオンの寝言に、ゴッゾはベッドの上でのけぞる程のダメージを受けた。まさか娘にエロ親父扱いされるとは……。

「というかカトレーユ、お前本当にリオンに変なことは教えてないだろうね?」

「もちろん。巨乳は正義。美乳は人生。貧乳は未来を語るっていう格言しか教えてないよ」

「すごく意味のない母親からの教えだね!」

「ちなみにつるぺったんは鼻で笑えとも刷り込んでおきました。えへん」

「なんで今から娘に差別意識を植え付けようとしているんだ?!」

 慌ててリオンをカトレーユから引き剥がす。
 リオンはむずがるように身動いだあと、両親の腕にそれぞれ手を搦めて「にへら」と満足そうに笑った。

「私は父親として、リオンが真っ当な子に育ってくれるか心配だよ」

「心配性だね、ゴッゾは。そんなの大丈夫でしょ。だって、ここにこんなにも立派な貴族がいるんだから」

「よし。とりあえず全世界の立派な貴族に向かって泣いて謝ってみようか、カトレーユ」

「そうじゃなくて」

 カトレーユは毛布を引っ張って、ゴッゾから奪うように丸まりながら、

「ゴッゾがいれば、きっと、リオンはとってもいい子に育つよってこと」

 そんな、背中が凍るようなことを何気なく口にした。

 ……それはどういう意味か? いつものように、何も考えていない発言か?

 悩んだゴッゾの耳に、暖を取るようにリオンを胸の中で抱きしめたカトレーユが言葉を続けた。

「自分でいうのも何だけど、わたし、普通じゃないし。面倒くさがりやだし、母親としてはダメダメだと思うんだ。反面教師にすればいいっていうけど、もっと簡単に、たぶんわたしはいない方がいいと思うんだよ」

「カトレーユ。怒るぞ?」

「別にいいよ。怖くないし。ううん、怖いことなんて、わたし何もないから」

 カトレーユはいつもと同じ無感動そうな顔で、淡々と語る。

 それが許せなかった。それがとてつもなく怖かった。何でそんなことを今日という日が終わる今言うのか、問い詰めたかった。

「…………」

 問い詰めるまでもない。カトレーユは竜滅姫として何かを悟っているのだろう。
 夜空に輝いているあの月が太陽の光で隠れるとき――そのとき、何かが起こるのだと。

 ならば今のはカトレーユなりの決意表明か。

「カトレーユ。お前は、竜滅姫としてドラゴンを滅して死ぬつもりか?」

 カトレーユは答えない。じっと、ゴッゾの顔を見つめるだけ。

「……私がさせない。そんなことは絶対にさせない。たとえお前が覚悟を決めていても、それを望んでいても、そんなことをさせるつもりは絶対にない」

「勇ましいね。こんなダメダメな妻なのに」

「ああ。お前は人としてはダメダメで、妻としてはボロボロだ。だけど、リオンはそんなお前が大好きだ。なぜか尊敬しているし、まっすぐお前みたいになりたいと思っている。それくらい父親である私にはわかる。母親としてはソコソコなんだよ、お前は」

 父親と母親、どっちが好きかとリオンに聞けば、両方とも大好きという満面の笑みが返ってくるだろう。しかし、どちらみたいになりたいかと訊けば、きっと、リオンは大いに悩んだ末におかーさまと答えるはず。

 業腹ながら、カトレーユ・シストラバスにはそんな魔力がある。ダメダメなのに、人を引きつけてやまない、そんな不思議な魅力がある。

 だからこそ、明日何かが始まるというのなら……今日という日に、ゴッゾは訊いておかなければならないことがあった。

「なあ、カトレーユ。教えてくれ」

 それはずっと、カトレーユと知り合ったときからずっと、この胸の奥に秘めていた疑問。訊こう訊こうと思い続けて、けれどズルズルと今の今まで訊けなかった疑問。それを、昼間聞いたクロードからの答えを受けて、今ようやくゴッゾはぶつけることができた。


「どうしてお前は、夫として私を選んだんだ?」


 なぜ、自分の番としてゴッゾ・リンページという、商才しか取り柄のなかった男を選んだのか?

 ゴッゾは、それがずっと気になっていた。

「お義父さんが傾けた家を建て直すため……ああ、たしかにそれには自分みたいな男がふさわしいだろう。けれど、それだって私だけが可能とすることでもない。カトレーユほどの美貌なら、シストラバス家ほどの地位ならば、もっと簡単に、それこそ一夜にしてそれを可能にしてしまう相手だって婿入りさせられたはずだろう?」

 なのに、なぜか選ばれたのは自分。貴族とは名ばかりの、地位も名誉もなく、僅かばかりの小金を持っていただけの自分だった。

 そこにどんな理由があったのか?
 どうして自分でなければならなかったのか?

「教えてくれ。私は、ずっとそれが気になって仕方がない。偶然という答えでもいい。ただ、それが知りたい。そうでなければ私は、きっといつまで経ってもカトレーユ・シストラバスの夫として自信が持てない」

「……そう」

 真摯な訴えに、カトレーユは瞳を閉じて天井を向いた。
 
 リオンの規則正しい呼吸の音だけが響くこと五分――

「…………これはわたしの話じゃないし、わたしが胸に抱いた願いじゃないけど……」

 そう前置きして、カトレーユは話し始めた。

――あるところに、病弱な一人の女の子がいました」






 その女の子は鳥かごに捕らえられた小鳥だった。

 生まれながらにして欠陥を抱えた、鳥かごで過ごすことを運命付けられた、かわいそうな小鳥だった。

 翼はもがれ、足は立つだけで精一杯。
 誰かの手を借りることでしか生き長らえない、籠の中の小鳥。

 そんな小鳥には夢があった。

 鳥かごの中から見える、あの蒼い空。四角く区切られた窓の向こうにある世界に、一度でいいから行ってみたいと。

 しかしそれは所詮叶わぬ夢。叶えてはいけない現実。
 籠の中の小鳥は籠の中でしか生きられない。その夢は小鳥を殺す毒でしかなく、募る外への想いは小鳥を苦しめていく。 

 一度でいいから外へ行きたい。たった一度だけでも、死ぬ前に。

 自分の死を覚悟した小鳥は、やがて外へ出られたら死んでもいいとすら思うようになってしまった。毒は身体全体を蝕み、その心を見果てぬ青空の下へさらっていく。彼女にとっては致死の場となる外へと……。

 小鳥の夢は夢で終わるはずだった。

 しかし、夢はやがて現実となる。優しくも残酷な愛によって。

 小鳥は外へと羽ばたいた。もがれた翼の代わりに、弱々しいその足で駆け回った。
 あれだけ詰まりそうだった息は弾み、心臓ははち切れんばかりに高鳴って、もう彼女にはそれが病の所為かもわからない。

 ただただ感動して、感激して、喜びに震えた。

 世界はこんなにも美しいのだと――少女はそのとき初めて知ったのだ。

 同時に彼女は世界の厳しさも知ることになる。もう少しで最も見たかった外界を見ることができかけたその刹那、足は崩れ落ち、泥に濡れ、一歩も動くことができなくなってしまった。

 訪れる死の間際、小鳥は願った。いつものように外が見たい、と。
 ここに来ることができただけでも奇跡だった。だからもう奇跡は起きようはずもない。そう思いながらも必死に祈って……。

――誰かそこにいるのか?』

 祈りは届いた。最後の扉は外界の方より開かれて、不思議そうな顔をした男性は現れる。

 開ける視界。
 耳に入ってくる雑踏。

 焦がれ続けた世界が、小鳥の目の前には広がっていた。

 ああ、だから小鳥は目の前にある全てを忘れない。
 ああ、だから少女は目の前にいる男性を忘れない。

 そのとき、たとえ彼が現れたのは偶然だとしても、彼がこのことを覚えていてくれなくても、そのときその瞬間があっただけで、彼は少女にとっては王子様であり救世主だった。

 小鳥は鳥かごの中に戻っても忘れない。
 
 世界は、こんなにも美しいのだと。


 

 

「そうか」

 カトレーユの話を聞いて、ゴッゾはようやく思い出した。

 それはゴッゾがまだゴッゾ・リンページだったとき、大望を抱いて王都を目指して旅をしていた途中の出来事。寄った古都オルゾンノットの都にて、偶々助けることになった弱々しい少女のことを。

 あのとき幸せそうに笑っていた、ゴッゾの目からはもう死んでいるようにすら映った弱々しい少女……そういえば、その髪は紅く色づいていたような記憶がある。

「私は、馬鹿か。どうして今の今まで忘れていたんだ」

 忙しない日々の中で忘れていた、一時の記憶。
 ゴッゾは目元を押さえて、小さく、恥じ入るように唸った。

「……そうか。その少女は、こんな大切なことも忘れていた男のことを、ずっと覚えていてくれたのか」

「そうだよ。外を知り、世界を知り、恋の意味を知った少女は女として願った。もしも結婚するのなら、もしも子供を生むのなら……それは、あのときの王子様がいい、って」

 カトレーユは上を向いたまま、

「まあ、わたしのことじゃないけどね」

 そんなことを呟くから、思わずゴッゾは手を伸ばしてその顔を引き寄せていた。

「むぐっ!?」

 思春期の少年のように、その唇を強引に奪う。
 カトレーユは珍しく驚いたような声をあげ、そのあと身体から力を抜いた。

 長い口づけは、間に挟まれる形となったリオンが苦しそうな声をあげるまで続いた。正直、リオンのことをド忘れしていた。それだけ、今の話はゴッゾにとっては反則に近いものであった。

 だから守ろう。
 絶対に守ろう。

「カトレーユ。守るよ。お前は絶対、私が守る」

「…………ゴッゾも男の子だねぇ」

 こんな自分を選んでくれた、この愛する妻のために。


 

 

 そうしてゴッゾ・シストラバスが改めて誓った翌日の朝。
 カトレーユ・シストラバスの姿は、屋敷のどこを探しても見つけることはできなかった。










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