第四話  ベアル教

 


 古都オルゾンノットの北端に、街の全景を見渡すことができる丘がある。

 不死鳥の丘、英雄の丘などと呼ばれているそこにあるのは木々と草花、そして大きな石碑。歴代の竜滅姫たちを祀っている墓標だ。石碑には始祖ナレイアラから先代の竜滅姫アンジェレネまでの名が刻まれている。

 いつも献花で溢れているそこは、ドラゴン出現の報が駆けめぐったためか、いつも以上の花束で溢れていた。それはまるで現在の竜滅姫へ捧げられた手向けの花のよう。

「…………」

 その前で祈る竜滅姫カトレーユ・シストラバスの心中を、ボルギィは察することはできなかった。

「綺麗な場所ですね」

 あまりにも絵になった光景だ。神秘的で近寄りがたいものすら感じていたボルギィを余所に、カトレーユへと堂々と歩み寄る人影があった。

 絵を壊さぬ美貌を備えた美女である。
 常冬の氷を思わせる長い水色の髪に、太陽の光の恩恵を拒絶した真白き肌。身につけた法衣もまた白いため、殊更に冷たい印象を抱く。

 しかし、その表情はどこまでも温かだ。固く閉じられた瞳とは裏腹に、雪解けの春を思わせるような笑みが、その薄紅色の口元に浮かんでいた。

「ここからの眺めは四季を通して美しい。古都オルゾンノット、素晴らしい都です。歴史と誉れが息づいた不死鳥の都。この都が滅びる様など、きっと誰も想像できないことでしょう」

「どうかな。どれだけ完成されたものでも、完璧だと思ったものでも、崩れるときは一瞬で崩れるものだから」

「儚いからこそ美しい、ですか。……いつもここでお祈りを?」

「わたしにだって、人並に大切な人へ哀悼を捧げる感情くらいあるよ。それが今はもういない家族だっていうなら尚更に」

 祈りを捧げていたカトレーユは立ち上がって振り返った。
 水色の髪の彼女のみを紅い瞳は見つめ、警護のため後ろに控えたボルギィには一瞥もない。

「それで、わたしに何か御用かな?」

「お迎えにあがりましたわ。あなたのおっしゃる儚いものが壊れないように、どうかしばしあたくしに時間をお預けくださいませ」

「それは勧誘? それとも、脅迫?」

 カトレーユは気怠げな顔で首を傾げた。

「そういえば、まだ名乗っていませんでしたね」

 水色の髪の彼女は質問には答えず、どこか悪戯っ子が浮かべるような笑みに変えて、唇の前に人差し指を立ててくっつけた。

「あたくしはディスバリエ・クインシュ。現在はベアル教という異端宗教に身を置く相談役です。
 ――さあ、妹さんへの祈りもその辺りにして、どうかあたしに付いてきてくださいませ。カトレーユ・シストラバス」






      ◇◆◇






 ゴッゾが目を覚ましたとき、ベッドには気持ちよさそうにリオンが眠っているだけだった。

 最初はカトレーユがいないことに対して、いつものようにふらりと遊びに行ったか、それとも調理場でつまみ食いでもしているのだろうと思っていたが、どうやら違うらしい。門に立つ守衛、夜でも廊下を行き交っていた侍従たち全ての目に映ることなく、まるで煙のように屋敷から消えたというのだ。

 状況が状況だけに、いつものように放っておくわけにもいかない。すぐに他の作業に従事していた騎士全員に伝令を発したゴッゾだったが、予想外の事態は続いてしまった。

「どうやら、忙しいときにお邪魔してしまったようですな」

 申し訳なさそうに軽く頭を下げたのは、応接間にてゴッゾの向かいの席に座ったエルフの美少年だ。いや、美貌の老人と呼ぶべきか。

 見た目はゴッゾよりも若かったが、実際は遙かに年上だ。噂によれば三百年以上を生きているという。今朝になって突然屋敷を訪れたのは、使徒フェリシィール・ティンクの巫女ルドーレンクティカ・リアーシラミリィその人だった。

「いいえ、お気になさらず。当主がふらりといなくなることは、お恥ずかしながらよくあることですので。ルドール老に致しましては、お気になさらぬよう。しかし申し訳ありませんが、ここは当主の代わりに私がご用件を聞く形になりますがよろしかったでしょうか?」

「構いません。こうして時間を取って頂いただけで恐縮というもの。それに聖地でも名高いゴッゾ・シストラバス殿とお話できるのは光栄……と、前置きさせていただく時間ももったいないというわけですな」

 巫女――つまりは世界的大宗教である聖神教のナンバー2である男は、そう言って余計な前置きを省いた。今は何をするにでも時間が惜しい。
 ドラゴンが堕ちてくることを預言したのは彼の主……かのルドール老がこの今、オルゾンノットの地を踏んだことが観光目的なわけがないのだから。

「単刀直入に申し上げましょう。――このオルゾンノットでベアル教が動きを見せる可能性があります」

「ベアル教、ですか?」

 その名はゴッゾも噂程度に知っていた。近年エンシェルト大陸を賑わしている異端宗教だ。目的も何もかも不明ながら、かつて帝国の研究員だったディスバリエ・クインシュが属していることで有名だったはず。

「彼らがこのオルゾンノットの地に潜伏していると?」

「恐らくは。彼らの目的は、この地に降り立つというドラゴンでしょう。ドラゴンが降り立つのに合わせ、大規模な何かを起こそうと企んでいるはず」

「……信憑性は?」

「儂が派遣された、と言えばお分かりになられますかな?」

 ゴッゾは思わず顔を顰めてしまった。使徒フェリシィールの信任も厚い巫女が来るくらいだ。その可能性は百パーセントに近いのだろう。

 カトレーユの捜索、住人の避難誘導、それに加えてここで新たなる脅威……。
 
「しかし、まさかカトレーユ殿が行方不明になっていようとは……目的はドラゴンにあると思っておりましたが、あるいはその可能性も考慮にいれるべきかも知れませんな」

「何かお気付きになった点でも?」

 何とかポーカーフェイスで表情を取り繕うことに成功したゴッゾに、ルドールは難しい顔で答えた。

「カトレーユ・シストラバス殿は、ベアル教に誘拐されたかもしれませぬ」

 

 

 

 ゴッゾが嫌な予感を感じつつルドールを案内したのは、シストラバス家の敷地の中、独立した形で建てられた一つの塔だった。

 かつてカトレーユが療養していた場所であり、今は彼女曰く秘密基地として利用されている場所である。

 とはいっても秘密基地とは名ばかりで、最上部にある大きな部屋はたくさんの本棚が立ち並び、それだけでは飽きたらず床という床に本が積み上げられ、散らかり放題になっただけの物置だ。唯一ベッドの上だけが綺麗なのは、主にお昼寝目的で使われているからに他ならない。

「ほう。素晴らしい蔵書ですな」

 ゴッゾの後から足を踏み入れたルドールが、足下に転がっていた本の一つを拾いあげ、表面の埃を取り除く。

「ヤム・レン・ホーキンス著書の『ペンタゴン』、こちらはフラガの『近代魔法への十七の質問』の、しかも原典……ここは収集家にとっては夢のような場所ですな」

「いや、本当に面目ない」

 やや憮然とした感じのあるルドールの森名――人間にあたるところの姓――はリアーシラミリィ。『湖畔の語り部』とも呼ばれる、里の中に巨大な図書館まである歴史の収集家のエルフ一族である。散らかし放題の本は気になるところなのだろう。

 今まで放置しておいた弊害がこんなところで出るとは。カトレーユが帰ってきたら今度こそ片付けさせるとして、今は、本は本でも普通ではない本を探さなければならない。

「以前、ここで確かに放置されている姿を見かけたはずなのですが……」

「代々受け継いできた家宝を放置とは、カトレーユ殿は本当に剛気な方と見える」

 皮肉ではなく素直な賞賛を口にして、ルドールは近くの本棚へと二冊の希少本を片付けた。

 そう、ゴッゾたちが捜しに来たものは、シストラバス家の家宝にして竜滅に必要なもう一つのキーパーソンである『不死鳥聖典』に他ならない。

 使徒の骸が変化してなるという聖骸聖典の中、ナレイアラ・シストラバスの骸より生まれ、竜を滅す不死鳥の炎を呼ぶとされる『不死鳥聖典』――ナレイアラの直系か使徒にしか使えないこれを、以前たしかにこの部屋で目にした。
 金銭に変えられない価値のある家宝が、その辺の本と一緒に埃を被っている姿を見たときは、さすがのゴッゾも血の気が引いたものだ。

「ふむ。しかしながら、この部屋からはそれらしい魔力を感じませんが」

 部屋の中から件の本を探していると、背後で魔法を使いながらルドールがそう言った。

「聖骸聖典は魔力の塊のようなものでしてな。走査の魔法を使えば、まず間違いなく反応するはず」

「それがないということは――

「カトレーユ殿が別の場所に保管している。あるいは誰かが持ち出したということになりますな」

 白い魔法陣を手のひらに浮かべたまま、ルドールは窓へと近付いた。

「広域の探索をかけます。少々お待ちを」

「よろしくお願いします」

 頭を下げた瞬間、ルドールを中心にして寒波のようなものが一瞬吹き荒れた気がした。
 魔力の波、とでもいえばいいのか。魔法使いとしての素質がないゴッゾでも感じるほど、何気なく行使されたルドールの魔法は凄まじい効果を発揮したのだ。

 しばし目を閉じて集中していたルドールは、

「……これは、街の南西部あたりですかな。膨大な魔力が一つ……いや、二つ……三つ? 確かに感じられます」

「スラム、ですね」

 魔法陣を消したルドールの報告は確かなものだろう。仮に異端宗教が潜伏しているとすれば、それは未だ避難が完了していないスラムしかあり得ない。

「カトレーユが何者かにさらわれたとして、城の警備を容易く突破するような相手です。一緒に『不死鳥聖典』を見つけて持ち出すくらいは訳がないでしょう。……『不死鳥聖典』の保管に気を付けていなかった、これは私のミスです」

 竜滅姫からの扱いがあまりにも軽かったからとか、そういう事情もあるにせよ、これはまずいことになった。

 カトレーユがさらわれた可能性なんて考えてもいなかったが、高い魔力がスラムに固まっているのは明らかに異常だ。こうなると、カトレーユが『不死鳥聖典』と共にさらわれた可能性も現実味を帯びてくる。

「避難誘導に当たらせている騎士を回すか……いや、そうすると万が一のときの人手が……ベアル教も放っておけない……」

 ゴッゾは頭を高速で回転させ、現状の問題点を含めた計算を行った。人員、配置、そういったものを考えれば、今カトレーユの捜索とベアル教への警戒へ回せる人員はないに等しかった。

「見習いの皆を出すか。いや、避難した住人たちの警護もある。となると……」

「ゴッゾ殿。少し落ち着いてくだされ」

 静かな声で名前を呼ばれ、はっとなって顔を上げる。
 いけない。思いの外、カトレーユが誘拐された可能性に動揺していたらしい。

「すみません。すぐに人員を移動させ、ベアル教への警戒に当たらせますので」

「いえ、それはこちらで対処させていただきます」

「ルドール老自らですか?」

「ええ。元よりそのために儂は来たわけですからな。ベアル教の調査は儂が行います。ゴッゾ殿はドラゴンに対する警戒を続けてくだされ。こちらも、もしカトレーユ殿を見つけた場合、速やかに保護しますので」

 それは望むべくもない申し出だった。カトレーユとベアル教の繋がりが不明瞭な現状、優先すべきはどうしてもカトレーユ個人の捜索になってしまう。

 それに協力を申し出てくれたルドールではあったが、彼個人の身柄としては聖神教の預かりである。グラスベルト王国に属しているシストラバス家が、その行動に制限をつけることはできない。ルドールがわざわざ話を通してくれただけでも、ゴッゾとしては頭が下がる思いなのだ。

(なぜ、ルドール老がそこまでベアル教に関心があるのかはわからないが)

 ゴッゾはルドールの目的などを分析し、やはりその申し出に文句はないことを確信して、右手を差し出した。

「ありがとうございます。では、連絡は密に交換しましょう」

「ええ、共にこの悲劇を回避すると致しましょう」

 ゴッゾとルドールは握手を交わす。

 それは、スラムにて避難活動に従事している騎士たちからの伝令が届く五分前の出来事。

 ――曰く、スラムにてカトレーユ様と思しき方と大柄な男が一緒に行動しているのを見た住人がいる、と。

 嫌な予感は、徐々に現実のものになり始めていた。






       ◇◆◇

 

 


 この世界に暮らす人で、使徒の名を知らぬものは一人としていないだろう。

 使徒――聖なる神から遣わされた徒。人ならざる黄金の瞳を持ち、奇跡の力と神の獣へと変身する力を有し、人の導き手とも守り手ともいわれている彼ないし彼女は、まさに神の存在を証明する現人神だ。

 人々は使徒を通して神を崇めるため、聖神教という宗教を作った。

 かつてドラゴンが世界中を闊歩していた時代。同時に無数の宗教が乱立していた当時、『始祖姫』と呼ばれた三柱の使徒たちの活躍を目にした人々は、こぞって聖神教へと改宗した。結果として、そのときから現在に至るまで、聖神教は世界人口の九十九%近くを信徒に取り込む唯一宗教として君臨している。

 よって使徒の権力は王を越え、カリスマ性は英雄を超える。

 独裁者ならぬ独占者の誕生だ。使徒が願えば、容易くこの世界は変質する。そういった仕組みに、この世界は千年近い昔からなっている。

 ……異常ではないか? 

 たった一人、あるいは二人、三人という個人の意志によって決定される世界。これを異常といわず何と言おう? 無数の命と意志から成り立っている世界だというのに、それを決定づけるものは個人……この異常を、なぜ人々は許容しているのか?

 嗚呼、使徒がその名の通り、人々を救う者ならば構わない。
 しかし歴史が証明している。千年という途方もない時間、彼らが真の意味で世界を救ったことなど一度もない。

 だから彼は立ち上がった。

 この世界に真なる秩序をもたらすため、使徒の束縛から人々を解き放つため、一人の男が新たなる宗教を打ち立てた。

 その名――ベアル教という。

 

 


 オルゾンノットのスラムの一角に、ベアル教の秘密の地下神殿へと潜る入り口はあった。

 朽ち捨てられた聖神教の教会の、シンボルである天馬の像の足下に設置されているのは、聖神教に淘汰されようとしている異端宗教ならではの皮肉なのか。

「こちらになります」

 ディスバリエの先導によって、カトレーユが階段を下り始める。その背後を逃がさぬように押さえたボルギィが階段の上へと身を隠したところで、浮浪者に扮装したベアル教の信徒が入り口を塞いだ。

「暗い……」

 暗闇に閉ざされた中で、カトレーユが呟く。

「ボルギィさん。灯りをお願いしても良かったでしょうか?」

「はい」

 ボルギィは入り口のすぐ近くに用意されていた松明を手に取ると、火をつけるためにしゃがみ込み、携帯していた火種を取り出そうと腰のベルトに手を伸ばした。

 そのとき、通路が明るくなった気がした。まだ火をつけていないにも関わらずだ。見れば、目の前にいたカトレーユが髪を隠していたフードを剥いでいた。炎のような長い髪はそれ自体が発光しているかのように煌めいている。

「ん? もしかして、わたしに火をつけて欲しいの?」

 視線に気付いたカトレーユが振り返る気配がした。
 直後、渇いた音が鳴ったかと思えば、ボルギィの持っていた松明の先端に炎が灯る。

 激しく燃える炎によって明るくなった、人が並んで三人ほど歩ける程度の狭い石の通路。魔法によるものだろう。炎を簡単につけて見せたカトレーユは、先導を再開させたディスバリエの後をついて歩き出した。

 ボルギィとしては、狭い空間における火の魔法使いの怖さについて頭を悩ませたいところだったが、ディスバリエが気にせず、またカトレーユが抵抗する様子を見せない以上、慌てて追うしかなかった。

 ……そもそも、カトレーユ・シストラバスのこの素直さは何なのか?

 昨夜、雇い主であるギルフォーデから、カトレーユ・シストラバスの誘拐任務という危険極まりなく、また不可能に近い命令を下されたのはいい。どんな無謀な作戦だってやり遂げてやる気概であったし、断れる口を最初から持ち合わせていないのだから。

 悲壮な覚悟を決めたボルギィは入念な準備を行い、まだ夜も明け切らぬ内からシストラバスの居城近くに身を隠していた。

 その目の前を、カトレーユ・シストラバスがふらりと横切っていったのは朝日がのぼるまさにそのとき。何らかの罠かと疑いつつも好機を逃すわけにも行かず追いかけて、辿り着いた英雄の丘で待っていたディスバリエ・クインシュと期せず合流することになれば、あとは彼女の言葉によってカトレーユは簡単についてきた。

 任務は成功させたが何もしていないボルギィは、結局、ディスバリエに乞われるままカトレーユの護衛兼監視役として神殿に戻ってくることになったのだった。

 そんなボルギィが気を付けなければならないのは、カトレーユの怪しい動きを見逃さないこと。

 カトレーユが何を思ってディスバリエの誘いに乗ったかはわからないが、騎士大家の当主が異端宗教に協力するはすがない。何らかの思惑あってのことだろう。魔法を使えることといい、前もって収集していた情報もあてにはならない以上、緊張感を弛めるわけにはいかなかった。

「ところで、朝から何も食べてないんだけど、ここって朝ご飯出る?」

「わかりましたわ。あとで作って届けましょう」

 いけないのだが……なんだろう? この脱力するような二人の会話は?

 まるで長年連れ添った夫婦のような一体感を醸し出すディスバリエとカトレーユに、さしものボルギィも調子を外さずにはいられなかった。

 ところで、気になっていることといえばもう一つある。

「ディスバリエ様。我々はどちらへ向かっているのでしょうか?」

 慣れない敬語で、談笑に興じるディスバリエに話しかけてみれば、ギルフォーデに紹介されたとき『決して触ることなきよう』と意味深に念を押されたベアル教の創始者の一人は、困り顔で振り返った。

「神殿の最奥へと向かっているのですが……もしかして、道が間違っていますか?」

 ベアル教の地下神殿は魔法使いによって造られた、即席ながら相当な深さを持つ地下空間だ。幅を取るとシストラバス家に気取られるかも知れないと、下へ下へと通路を広げていった結果、ダンジョンや迷宮かといった具合になっており、実際に遭難した信徒も数多いという。

 その中で重要施設は最下層に密集しているのだが、未だやってきて日が浅いボルギィの記憶が確かなら、もう二周ほど同じ場所をグルグル回っているはず。

「え? えっ? どうしましょう? どちらに行けば良かったかしら?」

 慌てふためくディスバリエ。どうやら、カトレーユを混乱させる目的で無駄に歩き回っていたわけではないらしい。

「……オレが先導します。目的地は『謁見の間』でよろしいので?」

「……すみません。お願いします」

 ボルギィが道案内を申し出れば、ディスバリエはかすかに頬を染めて一番後ろに回った。

 ……無駄な回り道をした結果、神殿の最奥に控える『謁見の間』に辿り着くのに、そこから三十分ほどの時間を必要とした。

 慣れた信徒なら最短のルートを辿って半分の十五分で行けるらしく、カトレーユが「疲れた〜」だの「お腹空いて力が出ない〜」だの文句を垂れ流していたが、今のボルギィにはこれが精一杯だった。

 さて、その『謁見の間』だが、地下神殿の中で最大の空間を使って作られた広間である。

 両脇を円柱状の柱が立ち並び、いくつも松明が灯りを落とす、それなりに体裁が整った場所ではあるのだが、神殿の心臓と呼ぶべき場所は別にあるため神秘的な感じはせず、息苦しく重苦しい場所になっていた。

 そこでは警備のための甲冑を身につけた者を含め、二十人近い信徒たちがたむろしていた。

「あれが代々神を殺してきた……」「ああ、竜滅姫だ」「見よ、あの髪と瞳を。神のそれとは違い、まるで血に飢えたケダモノのそれではないか」「恐ろしや」「あまり見るな。心を奪われ、下僕にされてしまうという噂だ」「神の敵め……」

 彼らはディスバリエの顔を見ると畏怖の表情で腰を折り、カトレーユの姿を見ると柳眉を逆立てて内緒話を始めた。彼らにとって、竜滅姫とは敵でしかないのだ。

――静粛に」

 信徒たちに口を噤ませたのは、木琴が鳴るような美しい声。

「ここは神を崇める神聖なる場所であるぞ。口を慎むがいい」
 
 広間の奥。一段高くなった壇上の奥から進み出てきた彼女は、その声にふさわしい美女であった。

 絶妙な配置で形作られた容姿に浅黄色の髪がよく映えている。それは湖の妖精と讃えられたエルフにふさわしい美貌であったが、それにしてはエルフが持つ人を引きつけてやまない輝きに欠いていた。
 耳は横に長く、エルフであることは間違いない。ただ、全てを呪っているかのような鋭い瞳と、全てを見下しているかのような怜悧な雰囲気が近付きがたい理由だろう。

 彼女の名はターナティア・リアーシラミリィ。
 ディスバリエと共に古くからベアル教を動かしてきた、創始者四人の一人である。

「ディスバリエ殿。そちらがカトレーユ・シストラバスか?」

「はい。この髪と瞳が証拠です」

 ターナティアは信徒たちを視線で追い払ったあと、舞台の上からディスバリエに声をかけた。最も古き同士にかけるとは思えない、冷たい声ではあったが。

 対して、そのことを気にする素振りもなく、しかし自分からは温かな声でディスバリエは答えた。

「素直にあたくしに同行してくださいましたわ。抵抗をしないことも約束してくれました。客人として神殿に逗留していただいて構わないでしょう」

「客人? そこな女は竜滅姫。我らがベアル教の神を――ドラゴンを唯一殺しうる天敵ぞ。今すぐ牢屋に放り込んでおくべきだ」

「待ってください。それでは話が違います」

 信徒が見守る中、二人の美女はそれぞれ固定された表情で睨み合う。

「そもそも、ベアル教とは救われざる者を救うために生まれた宗教。いくら相手が竜滅姫とはいえ、辱めてどうされます? ……むしろよくよく考えてみれば、竜滅姫とは聖神教の一番の犠牲者ではありませんか? 彼女らが長きに渡り、どれだけ人身御供にされ続けてきたか」

「…………」

 これまで黙って大人しくしていたカトレーユの肩が、ディスバリエの一言でピクンと動いたのをボルギィは見逃さなかった。

 背中に背負った大剣の柄に、誰にも気付かれないように手をかける。

 ターナティアの言葉と状況から推測するに、カトレーユを連れてきた理由はドラゴンを殺させないためなのは間違いなかった。ベアル教とは使徒ではなく、その正反対の存在といわれたドラゴンを神として崇める宗教団体なのである。

(不穏な動きを見せれば、殺すのもやむなし、か)

 ベアル教の教えなど欠片も信じていない、むしろ使徒という現人神がいるだけ、聖神教の教えの方に利はあると考えているボルギィだったが、属している立場として警戒を露わにする。

 果たして、カトレーユ・シストラバスは誰も予想していなかったアクションに出た。

「神をも殺すことができる女を、野放しにしておくことはできない」

「ですから客人として待遇しようと申し上げて――


 ぐぅ〜と、そのとき気が抜ける音が広間中に響き渡った。


 ターナティアとディスバリエの、どこか芝居がかった会話が中断され、全員の視線がカトレーユに集まった。

 カトレーユはお腹を押さえると、

「お腹が空いた。朝ご飯くれないなら、家に帰る」

 ……これが本当にあの清貧なるこの世の花、竜滅姫なのか?

 ボルギィが胸に抱いた疑問は、決して自分一人だけのものではあるまい。

「どうするの? わたしに家に帰られると困るなら、早くご飯を用意しなさい。この際献立は気にしないから。しかしデザートは外せないよ」

――では精一杯もてなさせていただきましょう」

 一瞬で場の支配権を握ったカトレーユからさらに支配権を奪ったのは、ターナティアが現れた奥の通路から進み出てきたエルフの男だった。

 金髪碧眼の痩身の美男子だ。頬はやせこけ、目の下にはうっすらと隈が出来ていたが、エルフ特有の美貌にいささかのかげりもない。むしろその儚くも見える容姿を際立たせ、同性であろうと魅了して止まない妖しさを醸し出していた。

「アナタ……」

「いいのだよ、ターナティア。ディスバリエ殿の言うとおりだ。彼女をもてなすことは、我々ベアル教にとって何ら教義に反するところではない」

 ターナティアの肩に手を置いて、穏やかな表情でカトレーユに向き直る彼こそは、ターナティアの夫にしてベアル教創始者の一人――そして、教祖ベアルが病床に伏せってからは、彼に代わって組織を率いるアンジェロ・リアーシラミリィその人であった。

「カトレーユ殿。よくぞいらしてくれた。ささやかではありますが、奥の部屋に料理を用意してあります。私などがエスコート役では役不足かも知れませんが、どうぞお手を」

「ん。仕方ない。ご飯のためだし、我慢してしんぜよう」

 段の上から差し出したアンジェロの手に掴まり、カトレーユが壇上にあがる。

「さあ、ディスバリエ殿もお手を」

「ありがとうございます」

 カトレーユを壇上に上げたあと、アンジェロはディスバリエにも手を差し出した。触ってはいけないと言われていたディスバリエは、彼の手にそっと自分の手を置いた。

 その際彼が口元に浮かべた儚げな微笑みに、後ろの方で見守っていた信徒たちから溜息がもれる。集まっていた信徒の内半数以上が男ではあったが、アンジェロが教祖代理となってからは、女性の信徒が入団希望してくることも多くなっていた。

 それを面白くないという目で見ていたのはターナティアである。

 無感動に見下していた瞳に、今は激情を燃やしている。その矛先はカトレーユでありディスバリエ。

「ターナティア。そんな怖い顔をしてはいけないよ。君には笑顔が一番良く似合うのだから」

「あ……」

 そんな妻の嫉妬に気付いたアンジェロは、ディスバリエから手を離し、ターナティアへと近付いてその頬へと手を伸ばした。

 変化は顕著であった。ターナティアの頬に朱が差し、瞳が潤みだす。

「さあ、ここは私に任せて、君は巫女様の様子を見てきてくれ」

「ですが、アナタ……」

「ターナティア。今日は私と君の夢が叶う日なのだ。どうか私の言葉に頷いてはくれないか?」

 ターナティアは夫の甘い囁きに、カトレーユとディスバリエにそれぞれ一瞥をくれたあと、小さく首を縦に振った。

「アナタがそう言うのでしたら」

「ありがとう。愛しているよ、ターナティア」

 喜んだアンジェロが頬へ唇を寄せれば、ターナティアはうっとりと目元を下げる。

「さあ、お待たせした。では参りましょうか」

 アンジェロ、カトレーユ、ディスバリエの三人は、そのまま奥の部屋へと引っ込んでしまった。

 残されたボルギィは未だ掴みっぱなしだった剣の柄から手を離し、任務の完了を悟ると、誰かギルフォーデの居場所は知らないものかと視線を信徒たちに向けた。

「傭兵」

 その背にターナティアが声をかけてきたため、ボルギィは振り返る。

「なにか? ターナティア様」

「気安く名前を呼ぶな。傭兵風情が汚らわしい」

 夫に見せていた女の顔などもうどこにもない。冷たい目に、冷たい声だった。

「私はこれから『竜の花嫁ドラゴンブーケ』の様子を確かめてくる。それまで、ここで女狐共が悪さをしないか見張っていろ」

「……オレは、ギルフォーデが個人的に雇い入れた傭兵なのですが?」

「その分の金は払ってやる。黙って命令に従っていろ」

 まるで女帝のようだ。

 金さえ手に入れば満足なのだろうといわんばかりの言い方に、ボルギィは反論が意味をなさないことを察し、謙る気にはならなかったので適当に頷いておいた。

「武器は携帯していてよろしいので?」

「当然だ。でなければ、女狐共が私の夫に手を出したとき、どうやって斬り捨てるというのだ?」

 くだらない質問だと、ターナティアはもうボルギィを見ることなく舞台から下り、アンジェロたちが消えた部屋とは別の『謁見の間』から行ける小部屋へと去って行ってしまった。

「……女の嫉妬か」

 ボルギィは溜息を吐いて、重たい足を動かし壇上にあがった。

 無性に、妻に会いたいと思いながら。

 

 


       ◇◆◇






 ターナティア・リアーシラミリィは内心燃えるような怒りを感じながら、それを表情にはおくびも出さずに通路を歩いていた。

 思い出すのは、夫が食事に誘った二人の女のいやしい顔だ。
 カトレーユ・シストラバス。ディスバリエ・クインシュ。特にディスバリエなどは前々から夫に色目を使っていると、ターナティアは考えていた。

「あんな女に優しくすることないのに……」

 盲目の賢者。今世紀最大の魔法使い。ジェンルド大帝国の立役者など、数々の異名を持つ女――ディスバリエ・クインシュ。なるほど、たしかに彼女独自の魔法理論、生物理論は驚嘆に値する。そこには同じ研究者として敬意も払おう。

 だが、これとそれとは話が別だ。たとえ同じ志を持った同志といえど、アンジェロに優しくされていい女は、妻である自分だけなのである。

「いや、あの女が同志であるかすら……」

 ベアル教という宗教は、エチルア王国で聖神教への批判を行っていたベアルとアンジェロが接触したことで発足した。その少し前にアンジェロとディスバリエが出会い、ベアル教の根底にある目的が生まれた。

 しかし、その目的である『救世存在論』という理論を見つけ出して形にしたのは、当時『満月の塔』の研究員だったアンジェロと助手であったターナティアだ。いわば最初の同志とは二人だけであり、そこにディスバリエ、ベアルが加わったに過ぎない。目的を共有しているだけで、『救世存在論』を証明するという夢までを共有しているわけではないのだ。

 現に、信徒たちは知らないことだが、ベアルとはすでに袂を分かっている。

 アレは真実への探求に興味を示さない、愚かな宗教屋だった。こうなることは最初から分かっており、宗教を発足させるための捨て駒でしかなかったが、ディスバリエもまた裏切らないとは言い切れなかった。

 むしろ、ターナティアは心のどこかではそうなることを望んでいた。
 考えたくもないことだが、アンジェロはディスバリエを敬愛している節がある。それは研究者としてか、それとも……。

「おや? そこにいらっしゃるのはターナティア様ですかぁ?」

「ギルフォーデか」

 通路の向こうから聞こえた声を聞いて、ターナティアは足を止める。
 
 このベアル教の心臓部たる信仰の縁へ通じる通路を通ることができるのは、ベアル教の中でも限られている。アンジェロとディスバリエを確認している以上、残るはギルフォーデという男以外にはいなかった。

「ご機嫌麗しゅう……というわけではなさそうですねぇ」

「黙れ」

 暗がりから足音もなく姿を現したのは、予想通りギルフォーデだった。
 小者にしか見えない小柄な男で、細い瞳が特徴的だ。相も変わらず、人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべている。

 とはいえ、この男が優秀なのはターナティアとて認めざるをえなかった。何せギルフォーデ・レブラス・ジ・シーデングといえば、今の皇帝と共にジェンルド帝国の黄金期を築き上げた、禁忌の『狂賢者』、耳なしエルフの『教授』と並ぶ、『世界最高の治癒術師』と呼ばれた男である。

「ここにいらっしゃるということは、『竜の花嫁ドラゴンブーケ』様の調整ですかねぇ? それでしたら、今私の方でも少しやっておきましたがぁ」

「勝手にあれに触るなと、前に言っておいたはずだが?」

「とは言ってもですねぇ。あなたもアンジェロ様も、少し軽んじていらっしゃいますから。あれはこの世で最も繊細かつ美しい精密装置なのですから、もっと気にかけていただきませんとぉ」

「ふんっ、そんなことは百も承知だ。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』のことは私が一番知っている」

「母親だから、ですかぁ?」

「アンジェロ・リアーシラミリィの片腕だからだ」

 いくら有名過ぎて死んだことにされた相手とはいえ、ターナティアはこのギルフォーデを好きにはなれなかった。元々、ディスバリエが研究の助手として呼び寄せた人物であるし、先程のボルギィという傭兵を雇い入れるなど、自分勝手な行動が多すぎる。

「ギルフォーデ。わかっていると思うが、私と夫の夢を邪魔するようなことをすれば――

「おお、怖い怖い。止めてくださいよぉ、脅しなんて」

 手に魔力をこめたターナティアに、ギルフォーデは大袈裟なくらい跳び上がって肩を震わす。

「わかっています。わかっておりますとも。愛し合う男女の夢を壊すような真似、ええ、この私がするはずないじゃありませんかぁ」

「……血塗れの手で、何をほざくか殺人鬼」

 ターナティアは魔力を消し、侮蔑の言葉を吐き捨てギルフォーデの横を通り過ぎた。ディスバリエとは別の意味で、あの男は油断ならない。

「貴様が雇い入れた傭兵が、首尾よく竜滅姫を誘拐してきたようだ。あれも人体の神秘という意味では『竜の花嫁ドラゴンブーケ』にも負けず劣らずのはずだ。さっさと解剖して標本にでもしてしまえ」

「クックック、それは僥倖。やはりベアル教に来て正解でしたねぇ」

 血の臭いが遠ざかっていく。

「……どいつもこいつも」

 ターナティアはポケットから香水を取り出し、首筋や手首などに吹きつけた。甘い花の香りが通路内に立ちこめる。

 そうやって夫といつ会ってもいいように身繕いをしつつ、長い通路を通り抜け、ターナティアはその部屋に辿り着いた。

 大きさは『謁見の間』を少し小さくしただけで、柱などの配置は変わらない。違うのは、ここが素人でもわかる神秘を内封している正真正銘の『神殿』であり、床、壁、天井問わず、無数の魔法陣が描かれていることだろう。

 色とりどりの光を放ち、あるいは部屋の模様にすら見える儀式場――

 その中枢を担っているのは、六つの色を持つ水晶を編み込んだ美しい台座に腰掛けた、金色の髪の少女。茫洋たる知識の海に沈んだ、愛らしい無垢なる巫女。

「……『竜の花嫁ドラゴンブーケ』。全員が、お前のような人形であってくれたら簡単なのに」

 ベアル教にとっての信仰の対象である『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を前にして、ターナティアは夫を前にしたときと似た笑みを浮かべる。愛おしくて当然だ。これこそが自分と夫の夢を叶えてくれる、竜滅姫と共にドラゴンへと捧げられる人柱であるのだから。

「早く、ドラゴンが来ないものか」

 よって、投げかけるべき言葉は死んでおくれかなえておくれ……。

 そこに自分の娘に対する母としての愛情は、欠片もない。






『謁見の間』から伸びた通路を少し歩いたところに、アンジェロの私室はあった。

『謁見の間』や『巫女の間』ほど広くはないが、それなりの間取りをしているのに狭く感じてしまうのは、壁一面に書籍が積み上げられているからだろう。リアーシラミリィのエルフの性として、自身に本の収集癖があるのはアンジェロとて認めていることだった。

 それでも、神殿の中で最も人の住む環境が保たれていた。
 テーブルに椅子、ソファーや水瓶など、他の部屋にはない調度品で溢れている。

 広いが陰鬱な、巫女がお見えになる時だけ椅子が用意されるだけの『玉座の間』に比べてしまえば、どちらが重要な場所かわかったものではない。事実、『玉座の間』のさらに奥にある以上、本当の神殿の最奥部はこのアンジェロの部屋であった。

「さあ、どうぞ。お掛け下さい」

「わぉ!」

 カトレーユとディスバリエを部屋へ案内したアンジェロは、二人に椅子を進め、カトレーユの前には運ばせたパンやスープなどの朝食を並べた。

 どれだけお腹を空かせていたのか。アンジェロが自分の分とディスバリエの分の紅茶を淹れるのも待たず、お祈りすらせずにカトレーユはスプーンを手に取った。
 クスリ、とディスバリエが彼女を見て微笑むのを横目で見ながら、アンジェロもまたカップを手に椅子に腰掛けた。

「カトレーユ殿。朝食を食べながらでいいので、少しお話を聞いていただけませんか?」

 ディスバリエの前に湯気を立てるカップを置いてから、早速アンジェロは話を切り出す。誘拐しておきながら他愛もない談笑に興じるというのは、一般的な感覚からしてあり得ないだろう。

 はぐはぐ、もぐもぐとパンを頬張るカトレーユの姿を、一方的に了承と受け取り、アンジェロは口を開く。

「まずは自己紹介をさせていただきましょう。私はアンジェロ・リアーシラミリィ。ご覧の通りのエルフです。以前はエチルア王国の『満月の塔』で、ドラゴンについて研究をしておりました」

「カトレーユ・シストラバス。よろしく」

「ええ、よろしくお願いします」

 口の中に食べ物を入れたまま、カトレーユは自己紹介に返した。礼儀がなっているのかなっていないのか、よくわからない対応だ。

「ところで、不躾な質問になりますが、カトレーユ殿はこの世界が間違っているとは思いませんか?」

「…………」

 いきなりなんだコイツ、と、スープをかき込む手を止めてカトレーユが見つめてくる。

「つまり、この世界が歪んでいるように思ったことはありませんか、ということです。考えても見てください。この世界は使徒によって決定されている。彼らは自分たちの後ろに神がいるように振る舞い、人々を騙しているのです」

「騙すって、実際に神様はいるんじゃないの?」

「使徒を選んでいるものはいるでしょうね。ただ、それは断じて神ではない。神とあくまでも言いたいのならば、邪神と呼び称するべきでしょう」

 話しかけながら、アンジェロはカトレーユの人となりを確認しようと試みる。使徒を詐欺師扱いし、神を邪神と呼べば、敬虔な聖神教信者ならば激昂するものだ。

 しかし、あくまでもカトレーユは冷静だった。無感動と言い換えてもいい。朝食を平らげると、当たり前のように紅茶を催促し、それに砂糖とミルクをたっぷりと入れて飲み始める。話を聞いているのかすら疑わしい素振りだった。

「ふふっ、アンジェロ。そのような回りくどい話をしても無駄だと思いますよ。彼女は竜滅姫であって、哲学者ではないのですから」

 ややアンジェロが戸惑っていると、これまで黙って見守っていたディスバリエが助けの手を差し伸べた。

「あなたがそう言うのでしたら」

 誘拐に同行したディスバリエには、すでにカトレーユの人となりがわかっているのか。アンジェロは本題を斬り込むことにした。

「では、単刀直入に申し上げましょう。今代の竜滅姫、カトレーユ・シストラバス殿。どうか『不死鳥聖典』をお預けくださいませんか?
 ――この私が救世主となり、世界を救うために」


  

 

 ――――そうして、役者は揃った。






 さあ、始めようか戦いを。
 さあ、始めようか儀式を。
 
 誰かがそう告げているかのように、オルゾンノットの街を中心にして、何かが狂い、始まろうとしていた。

 そして最後の役者もまた、目覚めのときを迎える。

 悪魔は三つの鮮血の瞳を開き、


「ルォオオオオオオオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオォォオオオオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――――ッ!!」


 その咆哮を役者たちは舞台袖で聞いた。

 そして、聞いた誰もが始まったのだと気が付いた。

 寒い、寒い、雪雲に空が閉ざされた冬の日。
 やがて歌劇にもなるほどに人々に語られることになる、誰にとっても長い黄昏が訪れる。

 オルゾンノットの魔竜――そう呼ばれる悲劇が、此処に幕を開けた。








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