第五話  シストラバスの騎士


 

 今年七歳になったエリカ・ドルワートルは、蜂蜜色の髪を揺らして避難所の中をパタパタと走っていた。

 避難してきた他の子供のように、かけっこをして遊んでいるわけじゃない。エリカはすでにシストラバス家に奉公している身である。他の使用人同様、避難所における食事などのお手伝いをしているのだった。

「ま、前が見えない……」

 たくさんのシーツを抱え、右へ行ったり左へ行ったり揺れながら物資の配給場所を目指す。そんなエリカの姿を、周りの人々は温かい目で見守っていた。

 避難勧告が出されてから、市民の三分の一は街の外へ逃げ、外に頼れる先がない人々はこの避難所に集まっていた。

 オルゾンノットの都の避難所は、貴族の邸宅が建ち並ぶ南部に穴を掘って作られた半地下の施設で、広さは市民の半分を収納することができるほど。かなり昔からの建造物なのでいささか以上に壁は色褪せているが、その強度は歴史が証明している。

 たくさんの市民が思い思いの場所で思い思いの避難生活を送る中、ようやくエリカはシストラバス家が避難所内に作ったベーステントにシーツを運ぶことができた。

「お、重かったぁ」

「はい、ご苦労様。少し休憩してきたらどう?」

 小さな見習いエプロンドレスの裾を掴んでぐったりすると、避難所を取り仕切るメイド長が気遣ってくれた。

「ううん、大丈夫です」

 エリカは慌てて背筋を伸ばして、首を横に振る。

「お父さんががんばってるんだもん。わたしも何かお手伝いしたいの!」

「あらあら。エルジンさんも幸せものですね」

「お母さんの分まで、わたしがお父さんを助けてみせるんです!」

「立派よ。それではエリカさん。今度は……そうね。王都から来ていただいた人をもてなしてくれるかしら?」

「おもてなし?」

「色々な物資を持ってきてくださった騎士様ですからね。一緒にご飯を食べて、話し相手になって差し上げて」

「でもメイド長、いつも従者が一緒にご飯食べちゃいけないって……」

 メイド長は微笑むと、エリカの頭の上に優しく手を載せた。

「エリカさん、あなたは一人でご飯食べるのと、誰かと一緒にご飯食べるの、どちらが好き?」

「? あ、そっか。はい、わかりましたっ! 騎士エルジン・ドルワートルの娘、エリカ・ドルワートル。しっかりおもてなしをして来ます!」

「はい、お願いします」

 ビシリと手を挙げて、エリカは早速使者の人に食事を届けるために走り出した。後ろで意味深にメイド長が微笑んでいる。がんばらないと。

 たくさんの人で溢れ返っているが、使者の人はすぐにわかった。
 王都へと続く門にほど近い場所に、片方の肩しか隠していない緋色のマントを着た騎士が手持ちぶさたに立っている。

 エリカは自分の分と騎士の分、二人分の食事をもらい、早速話しかけようとして……。


 ――視界の隅で何かが輝いたのは、そのときのことだった。


 両手にお盆を載せたまま、エリカは空を見上げる。
 分厚い雪雲が空を覆い、太陽の光を遮って薄暗く染めている中、小さな点が穿たれ光をのぞかせていた。

 光は、すごいスピードで真下へと落ちてくる。

「流れ星っ!」

 まだ昼なのにとか、近すぎるとか、そういう問題に気付けず純粋にしゃいでしまったエリカは、その手からお盆を一つ滑らせてしまった。

 しまった、と思ったときにはもう遅い。
 金属製のお盆はそのまま石畳の上に落下して、けたたましい音を立てる。

「きゃっ!?」

 都全てを震わせるほどの轟音が衝撃波のように駆け抜けた。
 見れば、お盆は地面に落ちていなかった。横手から伸びた手が、見事なバランスでお盆を拾い上げていたからだ。

 しかしエリカも、手の持ち主も、意識はそこになどなかった。

「……燃えてる」

「…………都が、燃えてる……!」

 エリカは呟いた。同じことを、誰かが呟いた。

「来たか」

 緋色のマントを羽織った騎士が、厳かに告げる。
 
 何が? とは、エリカも誰も問い返さなかった。この都に住む以上、幼くとも街の中心部から上がっている炎の意味を理解できないはずがない。

 来たのだ。アレがついにやってきたのだ。

――ドラゴン」


 

 

 居城で指揮に追われていたゴッゾの元へ、ドラゴンが現れたとの報が届けられたのは、衝撃波が都を駆け抜けた三分後のことだった。

「来たか」

 ついにやってきた妻を殺しうる敵に思うところはたくさんあったが、ゴッゾが口にしたのはその言葉だけ。

 報告を携えてきたエルジンと共に執務室を出て、門を目指す。

「エルジン。カトレーユは見つかったかい?」

「いえ。未だに何の情報も」

「そうか……やはり、ルドール老に託すしかないのかな」

 道すがらエルジンから報告を聞くが、芳しい返事は来ない。

 カトレーユが屋敷から姿を消してから半日が経過したが、未だに消息は掴めていない。これまでも一日以上見つからなかったことはあったが、ここまで足通りが掴めなかったことはない。オルゾンノットの都でシストラバスの騎士の情報網に捕まらないとなると、十中八九何かしらの事件の渦中にいるのだろう。となれば、ルドールの語ったベアル教が一番怪しい。

「さて、竜滅姫不在でドラゴンと相対することになるのは、もしかしたら私たちの代が初めてじゃないかい?」

「シストラバスの騎士はいつの時代も竜滅姫様を守ろうと戦いました。が、竜滅姫様が竜滅姫様であるがために、不在でドラゴンと相対することはなかったと思われます」

「前代未聞。知ってるかい? エルジン。誰もやらなかったことをやるのは、商売人にとっては大きな賭けになるんだよ」

「……嬉しそうですね、ゴッゾ様」

「そう見えるかい?」

 ゴッゾは軽く自分の頬を叩いて、

「カトレーユがいないのは心配だよ。ただ、今ここにいないということは、ドラゴンの生け贄になることはないってことだ」

 少なくとも、カトレーユの姿が戦場に見えない間は大丈夫。ゴッゾの目的はカトレーユを守ること。そう考えれば、現状は悪くはあるが最悪ではない。

「本当は、ドラゴンが来たらどこかに監禁しておくつもりだったんだけどね」

「カトレーユ様が我々の動きを見て、邪魔されることなくドラゴンを滅すために姿を眩ませている可能性は?」

「ない」

 エルジンの奇譚のない意見に、ゴッゾは断言できた。

「カトレーユは隠れるのが下手なんだよ。それに、エルジンはカトレーユがそんなに真面目で気の利く性格に見えるかい?」

「はあ……いえ、それは……失礼。自分も列に入ります」

 嘘のつけない男は言葉を濁し、ちょうど門へと辿り着いたのをいいことに話題を強引に変えた。

 是非エルジンからの率直な感想というものを聞いてみたかったが、ことは一刻を争う状況に移行している。ゆるりと準備を進めていられる時間は終わった。これよりゴッゾたちは、現れた敵を討つ。

「さて諸君。ついにこの時がやってきた」

 心が震える。身体が震える。
 ああ、この心地よさ。今なら武者震いという言葉の意味をゴッゾは理解できた。

「すでに前線では運良く当たってしまった騎士たちが交戦していることだろう。彼らの類い希なる幸運は賞賛すべきかも知れないが、このまま参戦を取りやめるには、この賭けで得られる勝利の旨味は大きすぎる」

 騎士の高揚ここにあり。門の前に並んだ五百の紅き騎士の精鋭たちと今、ゴッゾの気持ちは一つだった。

「はっきり言おう。これは分の悪い賭けだ。千年近く、我が家が負け続けてきた賭けだ。馬鹿のように挑戦し続けて、引き際も忘れてチップを積み上げ続けた呪いじみた賭けだ」

 だからポーカーフェイスを決めて、ゴッゾは笑う。

「だが、私ははっきりこう言おう。――分の悪い賭けは嫌いじゃない、と」

 続くように騎士たちから忍び笑いがもれる。この絶望的な戦いの中、それでも笑うことができた。

 ……竜滅姫が呪いを帯びているように、またシストラバス家の騎士たちにも先代より脈々と受け継がれたユメという名の呪いがある。

 それは理想。幾度となく目の前で守るべき主君を失った騎士たちの慟哭から生まれた、竜滅姫を捧げずにドラゴンを滅すという理想。
 そんな少年が見るようなユメを、今ここにいる騎士たちは馬鹿のように夢見てる。顔は誰もが厳つかったり老いていたりするが、それでも心は少年のままなのだ。

「さあ、出陣だ。剣を掲げろ」

 その少年たちの代表として、また不死鳥の姫の番として、今ここにゴッゾ・シストラバスは戦いの引き金を引く。

 鞘から抜かれた剣は、刀身が紅く染まったドラゴンを殺すと誓った剣……。

「紅き剣に騎士の名を――

 ゴッゾが謳う。

『紅き剣に騎士の名を――

 騎士たちが剣を掲げ、声を唱和させる。

 そして遙かな年月をかけて受け継がれて来たユメは、今この時代を生きる騎士たちの剣に。

『『紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤーとなるッ!!』』






       ◇◆◇






 ドラゴンの出現はオルゾンノットにいる全員が察知したところであったが、とりわけベアル教の行動は早かった。

「ディスバリエ殿」

「ええ、時が来たようです」

 カップをテーブルの上に置いて、ディスバリエは立ち上がる。
 もう少しここで談笑をしていたかったが、そう上手くことは運んでくれないらしい。ドラゴンとは天災である。空気を読めというのも詮無きことか。

「あたくしはこれよりドラゴンの元へ赴き、[共有の全シェアワード]を繋げるための刻印を刻んで参ります。アンジェロはターナティアと共に、くれぐれも儀式の鍵を――

「『竜の花嫁ドラゴンブーケ』の守護はお任せください。必ずや」

 ディスバリエは頷き、マイペースにカップを傾けているカトレーユを見やった。

「カトレーユ。あたくしは行きますが、しばらくは此処にいてくださいませ」

「今更出て行ったりなんてしないよ。知りたいこともあるしね」

 ヒラヒラと手を振るカトレーユ。丘の上で交わした約束を、彼女なりに律儀に守ってくれるらしい。

「アンジェロ。彼女をよろしくお願いします」

「ご武運を」

 最後にアンジェロにこの場を託し、ディスバリエは水色の髪を翻して部屋を後にした。

『謁見の間』へ出てみれば、そこには幾人もの信徒たちが目を輝かせて祈りを捧げていた。彼らが膝を折っているのは、広間の天井付近に彫られた、このベアル教のシンボルレリーフ。翼を広げ、雄々しく飛ぶドラゴンの像を前にして彼らは祈りを捧げていた。

 ドラゴン……それはディスバリエにとって、かつてただの害悪でしかなかったもの。

 しかし、今は仮初めとはいえそれを神と崇める宗教に属し、あまつさえ最も重要な儀式の鍵として運用しようとしている。

 嫌悪感がないわけではない。憐情がないわけではない。
 ディスバリエはかの獣がこの世界に生まれる理由と仕組みを知っていたために、殊更に後者の思いは強かった。

「けれど、今はやらなければ」

 強く、自分に言い聞かせるように頷いて、ディスバリエは法衣の襟元から一冊の本を取り出した。

 白い背表紙に、金で小さな狼が描かれた聖骸の本。
 ホワイトグレイル家が血眼になって探しており、聖遺物探索を得意としていたかつての使徒イヴァーデですら見つけられなかった『聖獣聖典』である。

 古の使徒である魔法使いの肉体を封じ込めたこれは、持ち主に奇跡にも近しい力を与える。代償として精神が削られ、肉体が摩耗していくが、仮初めの肉体を動かしているに過ぎないディスバリエにとっては、まさに最高の武器といえた。

 同時に罪の証でもあった。彼女を裏切ったあの日から、ディスバリエはこればかりは片時もその身から離すことはなかった。

「メロディア。もうすぐ、もうすぐです」

 優しく、体温すら感じられるような『聖獣聖典』の表紙を撫で、ディスバリエは決意を改めると、全てを精算するために戦場へと急いだ。
 

 

 

 部屋にカトレーユ・シストラバスと二人残されることになったアンジェロは、注意深く目の前の淑女を観察する。

 ドラゴンが現れたことはカトレーユとて気付いているだろうに、彼女に反応らしき反応はなかった。竜滅姫という立場であれば――否、人間ならば当然あるべき感情の揺らぎがまったくない。

 推し進めるべき儀式の性質上、ここで彼女に動かれては水疱に消えるため、否が応にも警戒心は高まってくる。ディスバリエなどはなぜか信用していたようだが、今日出会ったばかりの相手を信用するような人間は、無論アンジェロはない。

――それで、『不死鳥聖典』が欲しいってことだけど」

 ここに来て、初めてカトレーユから口火が切られた。

「それってつまり、わたしにドラゴンを殺すなって、そういうことでいいのかな?」

 空になったカップをソーサーの上に置き、テーブルに肘をついてカトレーユは試すような眼差しを向けてきた。

 油断ならない女だと思う。有名人であるため、彼女の情報を集めるのには困らなかったが、噂にあるような怠惰な貴族と目の前の女は重ならなかった。むしろこの質問の出るタイミングがあくまでも天然によるものだとしたら、これほど恐ろしいことはない。

「現状ではその解釈で問題ありません。すでにお気付きかと思いますが、我々ベアル教の作戦にはドラゴンが深く関わっています。今あれを倒されるのは非常に困るのですよ」

 アンジェロは隙をつかれた形での動揺を押し殺し、表面上は何でもないような顔で答えた。

「しかし、何もそのためにあなたを殺そうというわけではありません。我々はそのような非道な集団ではない。あくまでも平和的に解決したいと考えており、そのための『不死鳥聖典』なのです。竜滅姫は『不死鳥聖典』がなければドラゴンを殺しえないのですから」

「事実だね。この『不死鳥聖典』がなければ、竜滅姫はただの人間に過ぎない」

 そう言って、頬杖をついたままカトレーユは右手首を捻るように手を振った。その仕草に合わせて、右手中指にはめられていた指輪が輝くと、次の瞬間には赤い背表紙に金で不死鳥が描かれた『不死鳥聖典』に変化していた。

「おお、カトレーユ殿。お渡しいただけるのですか?」

「そんなに欲しいっていうなら、別に預けておくのは構わないけど、意味ないと思うよ?」

 家宝である本をぞんざいに放り投げるカトレーユ。
 慌ててそれをキャッチしたアンジェロの手の中で、炎が燃え尽きるように、『不死鳥聖典』は指輪の形に戻ってしまった。

「使徒か直系の子孫以外が持てば、指輪に変わってしまうという話は本当だったのですね。たしかに、これでは『不死鳥聖典』の力を行使することはできません」

「そういうことじゃなくて。殺さないとか、殺したくないとか、そういう問題じゃどうしようもないくらいに、『不死鳥聖典』を持っている者はドラゴンを殺さずにはいられないってことだよ」

「それはどういう……?」

『不死鳥聖典』はナレイアラ・シストラバスの聖骸――つまるところ亡骸が変化して成った聖骸聖典の一つであり、これの行使条件は使徒か直系の子孫であること。アンジェロが使えないのはわかりきったことだが、あくまでも『不死鳥聖典』の使用は本人の判断に委ねられるものだ。

「おや? ドラゴン研究の第一人者と言われたアンジェロ・リアーシラミリィが、こんな簡単なこともわからないの?」

「なっ!」

 カトレーユが挑発するように口の端を吊り上げる。今まで終始穏やかだったアンジェロの眉は、それだけで危険な角度にまで跳ね上がった。

 飲み込まれるな――感情を荒げてしまった自分に、アンジェロは言い聞かせる。
 これはカトレーユの策なのだ。この油断ならない女は、場を自分のペースに持っていくことに長けている。飲み込まれてはダメだ。

 同時にアンジェロは思考を巡らせ、カトレーユの言葉の意味を考えた。アンジェロにはドラゴンの知識についてなら誰にも負けないという自負がある。

「そうですね……予想が付かないわけではありません。これは誰も知らないことですが、本能のまま動いているとされるドラゴンの行動には、その実一貫性があると私は考えています。そう、ドラゴンは自らを殺しうる相手の元を目指す働きがある。違いますか?」

「違わないね。ドラゴンは竜滅姫――正確には『不死鳥聖典』を目指して追いかけてくる。じゃなければ、毎回毎回竜滅姫の近くに現れたりしないでしょ」

「なるほど。それは――

 ――気が付かなかったことが愚かしいほどの法則だ。

 ドラゴンはこれまで六十年周期ほどで世界に現れた。現れる場所は特定ではない。全ての大陸に一度は現れているが、最も多いのは神聖大陸エンシェルト――それも竜滅姫が住むオルゾンノットの都だ。まるで自ら竜滅姫に殺して欲しいと願うように、ドラゴンは必ずその身許へ辿り着く。

 なぜ、これまでそんな簡単な事実にも気がつけなかったのか? いや、予想はしていた。しかし心のどこかでドラゴンの生態にはそんな動きはないと思っていたのは事実だ。

「ああ、確信できなかった自分は責めなくていいよ。そもそも、予想できていただけで驚きだしね」

「つまり竜滅姫とドラゴンの関係は、我々の想像を超えて密接ということですか?」

 さながら誰も殺せないドラゴンにとって、竜滅姫こそが己が『死』であるのように。

 そう考えれば、なるほど、カトレーユの言にも納得できる。今このオルゾンノットにドラゴンが現れたように、『不死鳥聖典』を手に入れてしまえば、ドラゴンを殺しうるまで永遠に追われる羽目になる。そうなれば、やがて選択肢は二つになってしまう。

 使うか、滅びるか。……アンジェロは手の中の指輪が、異常に重たく感じられた。

「そんなわけで、預かってもらうのは構わないよ。その分だけわたしは楽できるってわけだし。だけど、できれば預かるならこの街から出て行ってもらいたいね」

「……ご安心を。儀式が終われば、自ずとドラゴンも用はなくなります」

「それって、つまりわたしにドラゴンを殺して死ねってことでしょ? 嫌だね、ほんと。誰も彼もがわたしに死ね死ねって……まあ、死ぬな。生きろ。守ってやるから……そんなことを言われる方が困るんだけど」

 カトレーユはテーブルの上に頬を預けると脱力する。

「つまりさ、君たちの要求は儀式が終わるまでドラゴンを殺すな、儀式が終わったとき速やかにドラゴンを殺せってことなんでしょ? 普通に竜滅姫の責務を果たすのだってそれなりの覚悟が必要だったのに、そんな自分勝手な要求、わたしが呑むとでも?」

「呑んでいただかなければ仕方ありませんね。もう一人の竜滅姫に同じお願いをさせていただくだけです」

――へえ」

 そのとき背筋に感じた得体の知れない戦慄を、アンジェロはどう言い表せばいいのか。

 期待に押しつぶされるように、重みに耐えきれないように、自分の体重を机に預けた紅い髪の女。傍目から見ればだらしないように見えるだろう彼女が視線を上げ、その燃えるような瞳で睨んできた瞬間、アンジェロは自分の死を覚悟しそうになった。

 自分の発した言葉が与える威力はわかっていたが、まさかこれほどの殺意を放たれるとは。

 ただ、あくまでもこの場で有利なのは自分の方。アンジェロは動じず、話を続けた。

「つまりそういうことですよ。竜滅姫はあなただけではありません」

「わたしの代わりにリオンを、ねえ。たしかにリオンは素直ないい子だし、使いやすいだろうけど、それはちょっと色々反則なんじゃないかな?」

「そう思われるのでしたら、どうか我々にご協力を」

「世界を滅ぼす計画に?」

「世界を救う計画にです」

 胸に手を当て、にこやかにアンジェロは微笑む。
 そのときにはカトレーユが、食事に使っていたナイフを握って首筋に押し当てていた。

「色々さ、わたしにも願うべき終わり方があるし、ディスバリエが頼み込むから付いてきてはあげたけど、あんまり調子に乗らない方がいいと思うよ。リオンを狙うっていうなら、それは世界全てを敵に回すってことなんだから」

「くっ……!」

「どうやら君はそれなりに腕の立つ魔法使いみたいだけど、ねえ、わたしが大動脈を切り裂くのより早く魔法を使えるかな?」

「……無理ですね」

 銀の冷たさに、しかし一度は血相を変えたアンジェロは余裕をもって返答した。

「しかし――

――私の一撃があなたの心臓を抉る方が早い」

 部屋に響いたターナティアの声。部屋の入り口に彼女は立ち、手に魔法陣をすでに完成させ、魔法を放てる寸前の状態で顔を歪めていた。なまじ人並み外れた美貌なだけに、まるで鬼のような憤怒の面である。

「その手を私の夫から離しなさい、薄汚れた売女め。でなければ本当に、今回のドラゴンに捧げられる生け贄が貴様ではなく貴様の娘になるぞ」

「…………まあ、それとこれとは話が別なんだけど……」

 空間を支配するほどの魔力の密度に、カトレーユはナイフから手を離した。

 床に落ちたナイフがけたたましい音を立てるのと、容赦なくターナティアが放った水流がカトレーユの身体を打ち据えるのは同時だった。

「ターナティア。本当に彼女を殺してしまうのは……」

「わかっています。一時の感情で儀式を遅延させる私ではありません。ただ、罰は必要ですから」

 壁に叩き付けられたカトレーユは、積み上げられた本と共に床に投げ出された状態でケホケホと咳き込む。

 その瞳からはあくまでも感情のうねりを見つけることはできず、鬼女の視線の受けても動じない。

「あ〜あ、こんなに濡らしてくれて、今冬だから風邪引いちゃうよ。是非とも、温かくて柔らかいベッドを所望するね」

「ええ、最高の寝床を用意して差し上げるわ」

 得体の知れない気配は、今はもう感じなかった。

 

 

 

       ◇◆◇

 

 

 

 ドラゴンがオルゾンノットに降り立ったとき、一番近くにいた正規の軍人は見回りをしていたシストラバスの騎士だった。

 彼らの奮戦は誰に見届けられることもなく、僅かな時間で炎の中に消えていった。
 それが果たして誰であったのか? 彼らがどんな顔で、どんな声でドラゴンに挑んでいったかは、戦いが終わるまでわからない。

 しかし結果として、彼らがパニックになっていた住人たちが逃げる時間を稼ぎ、

「さすがですね、先輩方」

 一人の騎士が戦場へたどり着く時間を稼ぎ出したのは事実である。
 
 距離にして民家二軒分前にした敵。
 前髪を撫でていく熱波を心地良く思いながら、今、トーユーズはこの出会いに運命を感じていた。

 この広い街でたくさんの騎士がいて戦うことを望んでいる中、一番槍こそ逃してしまったものの、敵は自分の近くに現れた。これは神が巡り合わせた対戦か。あるいはこの獣もまた、自分と同じように強者との戦いに餓えていたのか。

 つまるところ――トーユーズ・ラバスという少年は生粋の戦士なのだ。

 常在戦場。日々のんびりと生きていることが苦痛とは思わないが、いつでも心は戦場に向いている。強者を求め、自らが鍛え上げた技を出せる戦いを求めてやまない。

 ゆえに、背筋を撫でるような強大な魔力が現れたとき、一瞬で頭は冴え渡り、右手は鞘から愛剣を抜いていた。

「ははっ、これはようこそおいで下さいました」

 トーユーズは獰猛に笑いかけながら、冷徹に、ついに相まみえた強敵の姿をつぶさに観察した。

 まるで影の巨人だ。
 胴体の大きさは二十メートル以上。今は丸められた尾が伸ばされれば、二倍近くになることだろう。さらに大きな翼を広げれば、その全長は一体どれほどになるか。

 この世界には魔獣という人に仇なす獣がいるが、そのどれもがあそこまでの巨体は誇らない。全身を包むゴツゴツとした突起は身体を揺らすだけで辺りの建物を粉砕し、その鋭い牙が並ぶ口からもれ出す吐息は、前方にある全てを灰に変える。まさに魔獣の王、悪魔という呼び名にふさわしい姿だ。

 蜥蜴に似た顔には瞳が三つ。色は血を凝縮されたような、鮮血。愛すべき姫たちの真紅の瞳とは似ても似付かない獣の瞳だ。

「ドラゴン。これが、ドラゴン」

 終わりの獣と恐れられたドラゴン。シストラバスの騎士にとっての因縁の敵。

「さあ、一緒に踊りましょう!」

 古参の騎士だろうと、実際に目の前にしたら尻込みするだろうドラゴンへと、トーユーズは喜悦をもって挑む。

「ルゥオオオオオオオオオォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!」

 戦いはドラゴンも望むところなのか、これまで睨むように三つの瞳を動かしていたドラゴンの視線がトーユーズに定まり、その口から巨大な炎の礫が飛び出した。

 そのときには距離を半分以上縮めていたトーユーズにとって、その何ら予備動作のない炎の攻撃は回避できるような速度ではなかった。

 前方を全て覆い隠すように広がる紅蓮の吐息に、

「しぃッ!」

 気合い一閃。トーユーズが振りかぶった刃が、真っ二つに炎を切り裂いた。

 真紅の刀身を持つドラゴンスレイヤーとは、『封印』の魔力性質をこめて鍛えられた魔を断つ剣。炎ですら弱らせ、あらゆる全てを切り裂く魔剣だ。それはドラゴンの強固な皮膚すらも容易く切り裂く。

 トーユーズが炎を貫いて振り上げた刃は、地面に巨体を固定する足を切り裂いた。

 手に残るたしかな痺れ。両断するつもりで放った一撃が僅かなダメージしか与えられないことに、トーユーズはやはり喜びを覚えた。

 断たれた炎が左右で火柱をあげる中、ドラゴンは足下にいるトーユーズを踏みつぶそうと足を踏みならす。石畳が砕け、地面が揺れ動く中、トーユーズは足の間を滑り抜け、後ろに回った。

「せいッ!」

 尻尾を踏み台にして、トーユーズが狙ったのはドラゴンの翼。

 空を飛ぶことができるドラゴンと地を這う人間とでは、占めるアドバンテージが圧倒的に違う。トーユーズも上空の敵に対する攻撃手段は持ち合わせていたが、空を飛ばれることが厄介なのに変わりはなかった。

 突き出した刃がドラゴンの右翼を三度切り刻む。
 魔獣とは違う赤い血が噴き出し、黒い右翼が真っ赤に染め上がった。

 成果を確認しつつ地面に着地したトーユーズは、そこでその現象に気が付いた。

「これは……」

 初撃で切り裂いた足。そこにあった傷が、ぴたりと癒着していたのだ。ドラゴンの恐ろしい再生能力によるものである。

「再生を抑止するドラゴンスレイヤーの傷でも、十秒くらいが限界なのか」

 振り回された尾による攻撃を避けつつ、トーユーズは十分な距離を取った。そのときにはすでに、翼につけた傷も快癒していた。

 面白い。実に、面白い。

 微笑むトーユーズ目がけて、ドラゴンが首を振り回しながら炎のブレスを放った。

 大風呂敷のように包み込まんとしてくる炎を、トーユーズは目にも止まらぬ速度で避ける。ドラゴンも負けじとブレスの追撃を放ってくるが、これをトーユーズは再び剣で斬って捨てた。その身体は雷光と同じ黄色の光によって包まれていた。

加速付加エンチャント――雷の魔法属性に珍しい『加速』の魔力性質をもって生まれたトーユーズの戦いを支える根底の力は、今、真の強敵を前にしてかつてない輝きを見せていた。

「だったら百の傷を。千の傷を」

 剣を振りかぶり、雷を束ね――

「あなたが倒れるまで、刻みつけるまでッ!」


「そこまでだ! 騎士トーユーズ!」


 ――飛びかかろうとしたトーユーズを制止させる声があった。

 見れば、紅き騎士団の団長が戦場に現れていた。






 前線は炎の雨が降っていた。

 あれほど古風煌びやかだった街並が灰と炭の山に変わり、メイン街道としていつもなら賑わっている場所に建ち並ぶ家々は今、まるで地震と竜巻が同時に来たかのように崩落していた。寒い日だというのに、そこだけは真夏のような熱をたたえている。

「酷い……」

 騎士の誰かが畏怖をこめて、呟く。

「必死に建て直してきたんだけどね」

 甲冑に身を包み、騎馬に乗ったゴッゾは奥歯を噛み締める。

「まあ、崩れたものはまた建て直せばいい。幸いにも避難が完了した場所だ。誰かを巻き込むということにはならない」

 オルゾンノットの都は石造りの建物がほとんどだ。この炎が都全てを包み込むことはない。消火は後回しにして、ゴッゾが睨みつけるのは揺らぐ大気の向こうにたたずむ、巨大なドラゴン……。

「そういうわけだ。今ここで戦う必要はない。わかるね? 騎士トーユーズ」

「…………、…………わかりました」

 ゴッゾの元まで後退してきたトーユーズはあからさまに顔を顰めたが、前もってどういった作戦で竜殺しを行うか思い出したのだろう。渋々といった体で頷いた。

「さあ、ドラゴン退治だ。質素に行こう。これ以上の損害は、財布に痛い」

 ゴッゾは頷いて、全身を凍りつかせようとする獣の視線を何とか振り払うため、僅かに震える声で軽口を叩いた。
 
「ルゥオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ――――ッ!」

「っ!」

 しかしそこまで。五十名あまりからなる隊の姿を見つけたドラゴンが吼えた瞬間、ゴッゾの身体は指先までも動かなくなった。

 手綱を握る手に力が入らず、落下しようかというとき。

「そうですね。また解雇されようものなら、今度は誰かが反乱を起こしかねません」

 横手から大きな手が伸びて、ゴッゾの身体を馬上に留めさせた。

 見れば、エルジンが珍しい軽口を叩きながらドラゴンを睨んでいた。背中に触れた彼の手も微かに震えている。

「すまない」

「いえ」

 ゴッゾは何とか力が戻った手で手綱を握りしめ、エルジンに頷くと、大きな声で叫んだ。

 それはシストラバスの騎士団の団長としての、ドラゴンへの宣戦布告となる言葉であった。同時に闘争の合図でもあり、

「さあ、逃げるぞ!」

 撤退の合図だった。

 ゴッゾの指示に、その場に集まっていた全ての騎士が身を翻す。

 ドラゴンはこちらを障害と判断したのか、それとも食い散らすべき人間が自分たちしか見つからなかったからか、地面を半ば削るようにして追いかけてくる。まんまと追いかけてきた。

「本当に、カトレーユがいなくて助かったよ」

 ゴッゾは騎士たちが後ろに向かって投げる煙玉や妨害の魔法が左右を横切っていく中、全速力で逃げながら、誰にも届かない呟きをもらす。

「格好悪いところはもう見せたくないしね」

 やっぱり自分は戦いには向いていないと、そう全身全霊で理解しながら、都の中心部まで逃げ切った。

 刹那――

「ここからは盛大に散財と行こう!」

 ――無数の赤い閃光が、四方八方からドラゴンに殺到した。

 それは赤い鏃の矢と、紅に燃ゆる炎の魔法による十字砲火だった。

 街の中心部にあるのは大きな広場だ。物流の中心部であり、休日ともなればたくさんの人でごった返す場所である。広場の八方にはそれぞれ大きな塔が建っており、矢や魔法はそこから放たれていた。

「攻撃の手を休めるでないぞ。ドラゴンの再生力を甘く見るな。粉みじんになるまでたんとくれてやれ!」

 北にある塔から大声で指示を出しているのはクロードであった。

 ゴッゾたち、ドラゴンをこの広場まで連れてくる囮部隊は、クロードがドラゴンを攻撃している隙に広場から脱出する。

「どうやら上手くおびき出せたようだね。では、皆はそれぞれの持ち場へ行ってくれ。でかいのをお見舞いしてやるとしよう」

「はっ!」

 囮部隊にいた八名の騎士が、それぞれの塔へと走っていった。

 残されたのはゴッゾとエルジン、トーユーズ。そして騎馬や剣や槍など、近接戦闘を行える騎士が五十あまり。他の騎士は全て塔の上からドラゴンに向かって魔法や矢による遠距離攻撃に従事していた。

「……相手を罠に嵌めて、安全地帯からの遠距離攻撃なんて、あんまりスマートなやり方じゃないですね」

「トーユーズ」

「すみません、先輩。黙っています」

「ルグァアアアアアアアアアアアアアアアアァア――――ッ!」

 身体に矢の雨を浴び、表面でいくつもの爆発を受けた三眼のドラゴンの皮膚は焼けただれ、翼は焼け落ちていた。若いトーユーズが思わず苦言をもらしてしまう程度には、それは騎士が取るべき正面切っての戦いからはかけ離れた戦法だった。

 作戦はこうだ。まず、ゴッゾたちがドラゴンの現れた場所へと赴き、その注意を惹き付けながら街中心物の広場――シストラバスの騎士たちが配置された場所へと誘導する。

 広場へと誘導した理由は二つだ。
 一つはかなり大きなスペースもあって多人数で戦いやすいこと。二つ目は八方にある塔だ。

『『不死鳥の火よ 邪悪なる黒き火を掻き消す 聖なる火の雨よ』』

 朗々とした詠唱の声と共に、八つの塔の表面に幾何学的な模様が浮かび上がり、赤い光が淡く輝いた。

『『我ら竜滅の民の血をもって ここに汝の奇跡を再現す』』

 そう、広場にある八方の塔こそは、代々オルゾンノットの都に存在する、最も強い力を発揮する『儀式場』であった。魔法を昇華させる儀式場の力に後押しされ、八方の塔でそれぞれ同じ詠唱を唱えている魔法騎士の魔力が膨れあがる。

 塔が放つ光は、それぞれドラゴンを中心に捕らえて歪んだ円を描く。

 永続的な儀式場の理想的な配置関係。点を並べ、円を作りだし、広場そのものを煮立った鍋へと変貌させる。

「せっかく昔の当主が用意してくれた戦いの場所だ。使わないなんてもったいない」

 ゴッゾは不満顔のトーユーズに厳しい目を向けて、

「それにね、覚えておくといい。騎士トーユーズ。たしかに君の武力は最高峰と言えるが、全員で戦った方が強いのは事実さ。それに――


『『不死鳥の炎よ あれ』』


「勝てばいいんだ、勝てば。勝って目的を果たさなければ、何の意味もない」

 ゴッゾの目の前で、広場で小さな太陽が生まれた。

 魔法系統・火の属性・儀式魔法――不死鳥の尾羽根フェニクス・ジャッジメント

 生み出された炎は歪んだ円の中で爆発し、天空の雪雲をも蒸発させるほどの炎の火柱をあげた。 
 まるで火山の噴火だ。人の力を超えた自然の領域の魔法は、神殿魔法にこそ僅かに劣るものの、『封印』の性質を持つため攻撃魔法としては最上級だった。

 人の軍勢なら一万は容易く融解する炎ならば、いかなドラゴンといえとひとたまりもあるまい。

「……優雅じゃない」

 トーユーズも終わりだと思ったのだろう。子供がすねるような仕草で唇を尖らせ、

「っ!」

 そのあと僅かに目を見開いて、広場の中心を見やった。

 まさかと思ってゴッゾも見てみれば、そこには先程見た地獄ような光景以上の炎の海の中、漆黒の影が揺らめいていた。

 ドラゴンは体表面を沸騰させながらも、蒸発と再生を均衡させ、四肢を地面につけて大きな口を開いていた。

 その発射口が向く先は、北側にある塔。

「まずい! お義父さん!!」

 ゴッゾが声を張り上げるが、遅かった。

 ドラゴンの口から放たれた炎の礫は、魔法の炎を切り裂いて飛ぶ――否、取り込みながら北側の塔の根本を破壊した。
 狙っていた塔の上ではなく根本に当たったのは、放った際にドラゴンの顔が爆散してずれたからに他ならない。それでも、一つの儀式場が壊れたのは事実だった。

「くそっ、化け物め。あれで死なないとは、どういうふざけた体組織をしているんだ」

 円の一角が崩壊したことで、[不死鳥の尾羽根フェニクス・ジャッジメント]が掻き消える。
 最後に炎の渦を広場の中心部に作りだしながら、炎はやがて全て消え去った。

 残ったのは、身体の半ば以上が崩れかかったドラゴンのみ。

 相手が魔獣であっても、この状態で生きていられるはずがない。死体以上に死体らしい。

「グゥルゥウウ……」

 それでも、ドラゴンは生きていた。低いうなり声を壊れた声帯から出している。いや、そもそもドラゴンに声帯があるのかなんて誰も知らない。つまりドラゴンは、そういった何もわからない生命体であるのだ。

 約六十年周期でこの世界に現れ、無差別に人を襲い、破壊をばらまく。一昼夜で一つの街を、数日で一つの国を滅ぼすと言われている。

 その能力で恐ろしい点は、使徒と同等かそれ以上の魔力と、『侵蝕』という何ものにも害されない破格の性質。そしてあらゆる攻撃も抵抗も一瞬で無に帰す再生能力だ。

 果たして、あれだけのダメージを負ったドラゴンの身体は、内側から肉で埋まり、回復していく。さすがにあれだけの威力を一度に再生することは叶わなかったようだが、必殺を願っての一撃が再生されていくというのは、絶望を覚えるには十分な光景だった。

「…………」

 ドラゴンを前にすれば、人間などというちっぽけな存在など、ただ立ち尽くし、祈りを捧げるしかない。

 ドラゴンを唯一倒すことができる、竜滅姫へと。

「馬鹿な。それが嫌だから、私たちはここにいるんだ!」

 身体を包み込んだ絶望を振り払い、ゴッゾは声を張り上げた。

「攻撃の手を休めるな! ドラゴンをこの場に足止めするんだ!」

 まず、塔にいる騎士たちに命令し、そのあとゴッゾは後ろに控えていた騎士たちに命令を下した。

「先代たちを救出し、そのあとすぐにあの塔の儀式場を作り直すんだ。可能だな?」

「即席のものになってしまいますが、何とか」

 魔法を扱える魔法騎士が答える。

「十分だ。もう一発、今度こそドラゴンを仕留める。そのために急げ!」

「はっ!」

 指示を受けた騎士たちが壊れた塔へと急ぐ。他の塔からは、再びの攻撃がドラゴンの頭上へと降り注いだ。しかし矢の数も、魔法の威力も、先程に比べれば減じている。矢は純粋に数が、魔法は先程の一撃で魔力を大幅に消費してしまったためだ。

 今はまだドラゴンの足止めができているが、そう遠くない内にドラゴンの再生力がこちらの攻撃の密度を追い抜いてしまう……。

「団長。このままではジリ貧です」

「騎士トーユーズ。何かいい案があるのかい?」

「はい。持久戦に持ち込むのはこちらが不利になるばかりですので、この辺りで一つ、圧倒的な戦力を投入すべきです。即ち――

 トーユーズは自分の胸へと手を当てて、自信たっぷりに微笑んだ。

――この自分が、華麗なる勝利をもぎ取ってまいりましょう」

「…………」

 何を馬鹿なことを言っているんだとは、ゴッゾは頭ごなしに否定しなかった。先程トーユーズが、少なくともゴッゾの目にはドラゴンと渡り合っていた姿を見ている。

 トーユーズ・ラバス。『神童』と呼ばれた、シストラバス家随一の騎士。
 確かに、ドラゴンとの一騎打ちという戦術において、任せるに足る存在は彼を置いて他にいない。

 ……それでも一人では無理だとゴッゾは思った。たとえトーユーズほどの力をもってしても、ドラゴンを殺し尽くすのは不可能だと。

(しかし、ならばどんな方法ならドラゴンを殺せるんだ?)

 ドラゴンの最も恐ろしい点は、その再生力でも攻撃力でもなく、有している魔法とも違う特殊な能力でもない。何をどうやれば死ぬのか、それがわからない点だ。

 ドラゴンは不死鳥の使徒以外では倒せない――だからこれまで、竜滅姫が『不死鳥聖典』を使ってナレイアラ・シストラバスの奇跡を再現することで倒してきたのだ。それ以外の方法など、それこそ神話の時代、かのメロディア・ホワイトグレイルが魔法をもって成し遂げたと伝えられている程度でしかない。

「……ダメだ。私には、君一人が戦って勝てるとは到底思えない」

「へえ」

 トーユーズは顔から笑みを消した。

「ですけど団長。そう考えたのは、どうやら自分だけではないようですよ?」

「なに?」

「ぬぉおおお――ッ!」

 力強い雄叫びを聞いて、ゴッゾはドラゴンの方を慌てて振り返った。

 そこには矢と炎の雨の中、単身ドラゴンスレイヤーでドラゴンに斬りかかっていくクロードの姿があった。

「せいどりゃあああ――――ッ!!」

 塔の崩壊で切ったのか、額から流れ出た血で顔を赤く染め、老騎士とは思えない剛剣で千切れかけていたドラゴンの尾を根本から叩き斬る。巨木ほどもある尾が宙を高々と舞う様は、この状況にそぐわない滑稽さすらある光景だった。

「ふんっ、なんじゃ。やろうと思えばできるではないか」

 ゴッゾが口をあんぐりと開けたように、塔からの攻撃の嵐が止んだ。

 その中で、クロードはドラゴンの血がべったりとついたドラゴンスレイヤーを構え直し、

「おおい、小僧ども。そんなにはしゃいでしまっては、再び[不死鳥の尾羽根フェニクス・ジャッジメント]を使う魔力がなくなってしまうではないか。
 足止めはワシが任された。貴様らは体力と魔力を温存して、次の一撃でドラゴンを滅せられるよう集中しておれ!」

 そう一方的な命令を下して、ドラゴンに鍔迫り合いを挑んでいった。

「どうします? 団長。先代の言っていることは一理ありますし、今手を出すと巻き込んでしまいますよ?」

「…………まったく、これだから騎士という奴は……」

 塔からの攻撃が止み、代わりに一人、また一人と近接武器を携えた騎士が広場に姿を現す。

 ゴッゾは額を手で押さえ、トーユーズとその隣に立つエルジンに視線を向けた。

「仕方ない。正直、私よりも戦場の作法はお義父さんの方がご存じだからね。こうした方がいいとあの人がいうのなら、私も否はないよ。
 ――騎士エルジン。お前がきちんとフォローしてやりなさい」

「さすがは団長! 先輩、足手纏いにならないでくださいよ?」

「抜かせ。お前の方こそあまりいい気になって前に出すぎるな」

 若い騎士二人はそれぞれドラゴンスレイヤーを抜いて、矢のように広場へと斬り込んでいった。

 ゴッゾがあれだけ恐怖したドラゴンに、笑みすら浮かべて挑んでいく。

「さあ、私は私の戦場で戦おうか」

 つくづく騎士という生き物にはなれないと思い知りながらも、シストラバスの騎士の勇気に、騎士の団長であるゴッゾはドラゴンを倒せる希望を見出していた。

 

 


      ◇◆◇

 


 

 ルドールがその隠された地下への入り口を見つけたのは、ドラゴンが現れた直後のことだった。

 ベアル教の企みを阻止するため、単身スラム街へとやってきたルドールは、住人の幾人かに絡まれながら、逆に彼らを情報源として利用して進んでいた。スラムのことならスラムの住人に聞くのが一番だ。こういうとき、少年にしか見えない自分の容姿は役に立つ。

 情報のほとんどは何ら意味のないものだったが、その中で一つ、気になる情報があった。

『そ、そういや、最近変なボロ布を纏った奴らを、スラムの東でよく見かけるぜ』と。

 情報を確かめるためにスラムの東まで来て、また同じように情報収集をしたところ、崩れた教会の跡らしき場所で地下へと続く階段を見つけたのだ。

「さて、どうしたものか」

 魔法使いであるルドールの目には、この階段が地属性の魔法によって、最近作られたものであるのが一目でわかった。

「ドラゴンはすでにやってきてしまったようだ。下手にここで動くと、後手に回ってしまう可能性は否定できぬな」

 同時に、都を揺るがす轟音と共にドラゴンが現れたことも悟っていた。

 ベアル教の目的はドラゴン。それは間違いない。とすればここで、向こうの本拠地かもわからない、本拠地であっても罠が仕掛けられている可能性が高い場所へ潜るよりも、ドラゴンの近くで張り付いていた方が、ベアル教の活動を妨害できるかも知れない。

 問題は向こうの戦略だ。ドラゴンへ直接働きかけなければ達成し得ない企みならば、ドラゴンを追った方がいい。が、もしも遠距離から離れていても儀式が執り行えるのならば、ドラゴンの傍で待っていても無意味だ。

「カトレーユ殿のこともある。ここは行くとしようか」

 ルドールに、ゴッゾたちの手助けをしようという考えはない。

 むしろ自分一人が協力したところで邪魔になるだけだろうし、結果的にベアル教の企みを邪魔することが一番の手助けに繋がるだろう。

 ルドールは意を決すと、ゆっくりと階段へ足を踏み出した。






 ルドールを含めた多くの人に心配されているカトレーユは、どうしたものかと唸っていた。

 ターナティアによって用意された極上の寝床――それは薄汚れた石造りの牢屋だった。
 鉄格子と石に囲まれたそこには魔法使い対策の魔法陣なども刻まれている。それは脱出が絶望的であるということで、しかしカトレーユが問題視しているのはそこじゃない。

「寒い……」

 ここには毛布も何もないということだった。

 濡れたまま放置された服は肌に張り付き、地熱など感じさせない冬の冷たさが身を切り裂く。これで食事を食べていなかったら、内側からの熱を奪われ、凍死していたかも知れない。

「女の嫉妬は怖いね。ちょっと脅しただけなのに」

 手を擦り合わせながら、カトレーユは鉄格子にもたれかかる。背中とお尻から体温が奪われていくが、今は立っている方が面倒だった。

「さて、ドラゴンを殺させるために出されるのを待ちますか……ゴッゾたち、さっさと降伏して逃げ出してるといいけど。下手に奮闘されると、カトレーユちゃんの凍死体が出来上がっちゃうかも」

 はぁ、と白い息を手のひらに吹きかける。

――誰か、そこにいるのか?」

 男の声が隣の鉄格子から聞こえたのは、炎でも出ないかと指先を摩擦させているときのことだった。

 ズルズルと身体を引きずる音がしばらく響き、誰かが体当たりをするように鉄格子を掴む。
 カトレーユの位置からは骨が浮き出た老人のような手と、灰色に汚れた長い髪だけが僅かに見えるだけ。向こうも同様だろう。

「お、おお、その紅い髪はシストラバスの……!」

「カトレーユ・シストラバスちゃんだけど?」

「ああ、なんということだ。ついに、ついにアンジェロは悪魔の計画を初めてしまったのか!」

 カトレーユの紅い髪を見た誰かは嘆き悲しんだ。ただでさえ掠れた声は金切り声のようで甚だうるさい。

 いずれ看守が現れ黙らせるだろうと思いきや、いくら待っても誰も老人を止めようとはしない。仕方ないので、カトレーユは自分から話しかけることにした。

「泣きやんでよ、おじいさん。体力なくすと死んじゃうよ?」

 もう手遅れだと思うけど、

「そもそもおじいさん、誰?」

「私か? 私は……」

 やせ細り、汚れた老人は泣きやむと、後悔と自嘲に溢れた声音で名乗った。

「私はベアル。このベアル教の、かつて教祖だった男だよ」









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