第六話  ドラゴンブーケ

 


 ドラゴンとシストラバスの騎士との戦いは、少なくとも時間稼ぎという観点から見てみれば、シストラバスの騎士有利で続いていた。

 炎が広場を駆け抜ければ、それ以上の紅い剣閃が煌めく。

 ドラゴンの再生力と騎士たちの攻撃の濃度は同程度で、特に翼の再生を許されないドラゴンは広場から抜け出ることができない。壊された塔の修繕はまもなく終わろうとしていた。永続的な儀式場ではない一度限りの儀式場だったが、再び[不死鳥の尾羽根フェニクス・ジャッジメント]を行使するには十分だった。

 すでに塔では魔法騎士たちが魔力の充填を行っている。前回よりも念入りに、儀式場が壊れる限界の威力を発揮させるために。

 ここが正念場だ。

 すでに戦いが始まって半刻が過ぎている。戦っている騎士たちにも疲労の色が濃い。なにせ、当たれば一撃で死んでしまうドラゴンを足止める戦いだ。すでに少なくない数の死傷者が出ている。

「次で決めなければ、勝機はない」

 雪雲の下、真夏を超える暑さに耐えながら、ゴッゾは救護の指示を出しつつ汗を拭う。

 数秒が長い。数分が途方もなく長く感じる。
 シストラバスの騎士の夢がそうであっても、今回の戦いを始めたのはゴッゾである。その責任感が重く背中にのしかかってくる。

 領地を荒らす野党退治程度の戦闘経験しかないゴッゾにしてみれば、ドラゴンとの戦闘は初めての戦場といっても過言ではない。込み上げる嘔吐感を強引に飲み込んで、儀式場が修繕されたという報告を待つ。

 ……思えば、不思議なものだ。こうして自分がシストラバスの騎士たちと肩を並べて戦っているなんて。

「昔の私はただの貧乏貴族で、こんな日が来るなんて想像もしていなかったのにな」

 野心家ではあったが現実主義者のゴッゾ・リンページは、自分が相応の資産家になる未来予想図は描けても、名家シストラバス家の騎士団長となってドラゴンと戦うなんて未来予想図は描けようもなかった。

 それを言ったら、そもそもカトレーユ・シストラバスと結婚できたことが非現実的なのだが。

 思い出すのは――八年前。

 当時行っていた事業が上手くいって、仲間たちと共に酒場で祝っていたら、突然相席してきたフードを目深く被った女。

 事業で蹴落とした相手商会からの刺客かと大慌てで逃げ出せば、なぜか宿屋に先回りされて、そこでフードを剥いだら出てきたのは真紅の髪と真紅の瞳を持った美少女で……今でこそ選ばれた理由はわかっているが、あのとき、いきなり雲の上の相手である竜滅姫から結婚しろと言われたゴッゾは、恥も外聞もなく大声で叫んでしまったものだ。

 そこからあれよあれよという間にシストラバス家を再興させる契約をし、そのためにカトレーユと結婚して……そういえば最初は彼女以外誰も婿入りを歓迎してくれなかったか。カトレーユにしたって非協力的だったし、ゴッゾは借金や人間関係で大いに苦労させられたものだ。

 少しずつ理解者が現れてくれて、金策も何とか見通しをつけられて、リオンが生まれた頃には楽しい日々を送れるようになっていた。

 そんな日々を壊す、このドラゴンというのは悪い夢だ。
 騎士と一緒に戦うのは物語の英雄にでもなったみたいで心躍るが、できればこれっきりにしてもらいたい。

「ゴッゾ様! 儀式場の修繕終わりました!」

「ああ」

 では――そろそろ悪夢から覚めるとしよう。
 かわいい娘と自堕落な妻に囲まれて苦労する、そんな何でもない現実に戻るとしよう。

 そのためにゴッゾは今、戦いの終わりを告げる。


――ドラゴンを滅せ」


『『不死鳥の火よ 邪悪なる黒き火を掻き消す 聖なる火の雨よ
  我ら竜滅の民の血をもって ここに汝の奇跡を再現す』』

 塔が一際強く輝くのに合わせ、足止めのため戦っていた騎士たちが退き、空から無数の矢がドラゴンへと降り注いで地面に縫い止める。

 臨界点を迎える儀式場。
 オルゾンノットの都中央の空を紅い輝きが貫き、


『『不死鳥の炎よ あれ』』


 紅蓮の炎が無音を生み出して、三ッ目のドラゴンを跡形もなく吹き飛ばした。

『…………』

 戦場にいた誰もが無言だった。

 灼熱の閃光が雪雲を吹き飛ばし、広場からドラゴンの影がなくなり灰が降り注ぐのを見ても、誰も声を出せなかった。

 ゴッゾも、クロードも、エルジンも、トーユーズも、誰もが無言で、灰を見つめる。

『『うわぁあああああああああああああああああアア――――!!』』

 広場どころか、街を揺るがすほどの歓声が轟いたのは、空の切れ間から太陽の光が差し込んできたとき。まるでドラゴンによって閉ざされていたかのように思えた雲から光が降り注いだのを見て、全員が自分たちの勝利を確信した。

 騎士たちが剣を放り投げ、近くにいた仲間と手を叩いたり抱擁したりと歓喜を露わにする。

「は、ははっ」

 その中で、ゴッゾの喜びようは静かだったが、誰よりも大きかった。
 足から力が抜けて、その場に尻餅をついてしまう。今度はエルジンも助けてくれなかったので、ゴッゾはクロードが近付いてくるまで座った状態で笑っていた。

「情けない格好じゃな、ゴッゾ君。まるで初めての戦場に出た新兵のようじゃのう」

「お恥ずかしい限りで。それよりお義父さん、怪我の方は?」

「こんなものかすり傷じゃよ」

 誰よりも早くドラゴンに挑んだクロードの身体は、お世辞にも軽傷とは言い難かったが、何とも無邪気な笑みを浮かべていた。

 この頃になってようやく足に力が戻ってきたゴッゾは立ち上がって、クロードと一緒にドラゴンの名残である灰を見上げる。

「まるで、灰色の雪のようですね」

「そうじゃな。世界に対する猛毒と呼ばれた相手との戦の終わりにしては、まあ、何ともロマンチックな光景ではないかのう」

 クロードはその瞳から涙を零す。男らしい、熱い涙であった。

「戦ってみれば、なるほど、大した強さであったよドラゴンは。この一時間にも満たない中で多くの仲間が死んでしまった。この老骨も何度死を覚悟したか」

「街もたくさんやられてしまいました。また聖地に借金の申し入れをしなければなりません。いや、きっと報奨金が出ますかね。なんといっても、竜滅姫が倒さずに我々だけの力で倒したのですから」

「ああ、これで我々も先祖たちに顔向けできるというものだ。あなたたちの夢は、ワシの――いや、ワシの息子の代が叶えたと」

「お義父さん……」

「よくやってくれた、ゴッゾ君。最初会ったときは軟弱者が来たと思ったが、よくぞシストラバス家に来てくれた。ワシは君を誇りに思う。君は英雄じゃ」

「そんな、私は何もしていませんよ。皆のお陰です」

 いつもの厳格さが嘘のように、裸で踊ったりするシストラバスの騎士たちを見ながら、ゴッゾは胸を撫で下ろす。

 あとはカトレーユを見つけるだけ。それで、あの現実に戻れる。

 安堵はゴッゾだけのものじゃないのだろう。シストラバスの騎士たちの半数はその場に寝転んで、深い眠りに落ちていた。かくいうゴッゾも若干の眠気が襲いかかってきている。徹夜の影響が今になって現れたらしい。

「ゴッゾ君。眠いのか?」

「ええ、すみません。安心したら眠くなってしまって。カトレーユが攫われたかも知れないというのに……」

 崩れ落ちそうになる身体に鞭を打って堪えようとするが、力が入らずその場に倒れてしまう。

「カト、レーユ…………」

 そして睡魔を堪えきれずに瞼を閉じれば、そのまま瞼を開くことはできなかった。

 

 


 そうしてゴッゾ・シストラバスは――――本物の悪夢を見た。

 

 


 ゴッゾが見たそれは、非常にわかりやすい悪夢の形をしていた。

 まず、目の前で親しい人が殺された。

 自分の結婚を祝ってくれた両親、お祝いのワインだと『逆玉』なんていう銘柄のワインを作って贈ってくれた兄、婿入り後最初の理解者になってくれたエルジン、誇りだと言ってくれたクロードが、目の前で殺された。

 殺したのは巨大な顔。三つの鮮血の瞳を持つ、巨大なドラゴンの頭。

 それがいきなり現れて、微笑む大切な人の頭を、食いちぎる。

「あ、ぁあ……」

 その生々しい音が、頬にかかる血の熱さが、これが夢であるという最初の段階にあった理解を奪っていく。次々と重なっていく大切な人の死体が、これまで世話になってきた人々の死骸が、ゴッゾの頭から理性を奪っていく。

「やめろ。やめろ!」

 そうして目の前にカトレーユと、その腕に抱きとめられたリオンが現れたとき、ゴッゾは大声で叫んで手を伸ばした。

「やめろぉおおおおおおおおおおおおお――――ッ!!」

 しかし届かない。どれだけ強く叫んでも、手を伸ばしても。

「あ……」

 容赦なく、目の前で大切な妻と娘の首がドラゴンによって食いちぎられた。

 全身に浴びた返り血の熱さと胸の痛みに、ゴッゾは憎しみと絶望の涙を零す。目の前にある三つの瞳は、何とも美味いといわんばかりに語りかけてきた。これ見よがしに咀嚼の音を響かせて、ドラゴンは嗤う。

「ああ、悪夢だ。これは、悪夢だ」

 ゴッゾは自分に言い聞かせるように呟く。

「ドラゴンは私たちが倒した。カトレーユは違う場所にいるんだ。リオンは城にいる。殺されてなんていない」

 しかし……それは本当だろうか?

 これを夢と思う自分とは別のところで、何者かが囁く。

 これは本当に夢だろうか? これこそが現実なのではないだろうか? ドラゴンは死んでなどおらず生きていて、自分たちは敵わず、目の前で大切な人が一人ずつ食われていく様を見ているのではないだろうか? これはそんな現実を認められない弱さが生んだ、逃避の感情なのではないか?

「そんなはずはない……これは夢だ……」

 ならば――おかしいと一度でも思わなかったか?

 ドラゴンを難なく罠に誘えたことが、何の反撃もなく倒せたことが、おかしいとは思わなかったのか? ドラゴンとはこんなものなのかと、頭のどこかで違和感を覚えていなかったか? 

 それに攫われたカトレーユが今死んでいないと誰が言い切れる?
 城に残したリオンに魔の手が伸びていないと、一体誰が保証してくれるのか?

 これは夢か?
 それとも現実か?

 ゴッゾは、わからなかった。

 

 


 悪夢を見ていたのはゴッゾだけではなかった。

「やだ、やだよぅ、お父さん。お父さん!」

「おい、どうした?! 目を覚ませ!?」

 王宮からの使いとしてオルゾンノットの都へやってきていた、『騎士百傑』に席を置く騎士グラハム・ノトフォーリアは、目の前でいきなり倒れたエリカと名乗った少女を揺さぶる。

 これまで年上ばかりと接し、子供と接したことなどなかったグラハムの揺すり方はかなり強かったが、倒れた少女は瞼を開かない。口から苦しそうな声を上げながら、眠り続けている。

 そして、それはエリカ一人だけの異変ではなかった。

『いやぁあああ!』『止めろよ、くそっ、離せよ! 離せぇ!』『止めて食べないで』『ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!』『許して! お願い、その子だけはお願いだから!』
『お母さん、助けて、お母さん!』『うわぁああああああ――ッ!』

 避難所に集まっていた市民、そのほとんどが突然昏睡したかと思えば、悪夢に呻いていた。

 無事だった者といえば、グラハムを始めとして、避難所を取り仕切っていたシストラバスの人間や連れてきた王国騎士。市民の中では、いかにもしっかりとした人間ばかりだった。

「女子供が多い……ちっ、弱っていた奴や意志の弱い奴が眠っているのか!」

 何をしても目を覚まさない少女に、グラハムはこれが自然に起きたものではないことを悟った。 相手を眠らせる魔法でも大規模でかけたとしか思えない。が、それでもここまでの効果はないはず。一体どれだけの数の人間が悪夢を見ているのか、オルゾンノットの都中が怨嗟と慟哭の呻き声で満たされていた。

「止めて! お願い、お父さんを食べないで。お願い、止めてよドラゴン!」

 その中で、グラハムの耳に届くのはドラゴンという単語。

 間違いない。この悪夢へと誘っているのは、

「ドラゴンの特異能力か……!」

 

 

 
「おい、ゴッゾ君。目を覚ませ!」

 クロードは悪夢にうなされるゴッゾの頬を思い切り叩く。

 しかしゴッゾは目を覚まさない。大声をあげるほどうなされておきながら、ぐったりと顔色も悪く眠り続けるばかり。

 それは前線にいた年若い騎士や怪我を負ったりして弱っていた騎士も同様だ。おおよそ前線にいる半数近い騎士たちが、突如眠りに落ちたまま目を覚まさない。

「クロード様! 同様の現象が、街中で起こっているそうです!」

「わかっておる」

 駆けつけてきた騎士が報告するまでもなく、街中が呻き声で満たされているのだ。そしてこの病の症状自体は、前々からも小規模ながら確認されている。

「この異変、間違いあるまい」

「何かお気付きの点でも?」

 ゴッゾが眠ってしまった今、順当なところで現場の指揮権はクロードに移っていた。昏睡した騎士たちが並べられた周りに、眠らなかった騎士たちが集まってくる。誰もが騎士団内で名を馳せた者たちだ。

「どうやら、弱っていた者、意志の弱い者が昏睡しておるようじゃな。そして、それは街中で起きている。ここまで大規模な異変、起こせるものは限られておる」

 クロードは表情を引き締め、全員の顔を見て、告げた。

「ドラゴンの特異能力によるものと見て、まあ、間違いあるまい」

 これにはさすがに騎士たちにも動揺が走り抜けた。中には、その衝撃から昏睡に至った者までいる。

「それは……ドラゴンが生きているということでいいんですね?」

「左様。認めたくはないが、認めなければなるまい」

 その中で一人、喜悦の笑みを浮かべているトーユーズの視線に応え、クロードは声を張り上げた。

「気を引き締めよ! 気持ちで負けた時点で、ドラゴンにその心を持って行かれるぞ! いつドラゴンが再生してもおかしくないのだ! 次の戦闘の準備をせよ!」

クロードの言葉に騎士たちが自分のすべきことをするため、散っていく。

……ドラゴンが生きている。それは特異能力を見ればほぼ確実で、とても強い落胆がクロードを襲う。しかし、どこかでそれを当然のことと受け止めている自分もいた。

 悲しいほどの絶対視。ドラゴンの恐ろしさを延々と聞かされ続けてきたシストラバスの騎士の職業病だ。

「先代」

 頭を振って自嘲していると、この場に残ったままだったトーユーズに話しかけられた。

「なんだ小僧? 貴様も持ち場につかんか」

「生憎と自分は遊撃兵ですので。自分の判断で動けと、ある程度の権限を持たされています」

「隊に組み込めば足を引っ張り合う、ということか。それで、そんなに楽しそうな顔をして何のようじゃ? ドラゴンを殺しきれなかったというのに、少し不謹慎ではないかね?」

「いえ、それはもちろん残念に思ってます!」

 これだけは年相応な慌てた態度で緩んだ表情を引き締めて、

「だからこそ、先代に詳しくお話をしておこうと思いまして。ゴッゾ様が眠ってしまわれた今、あなたと相談するのが良いかと、この不肖トーユーズ・ラバスは思った次第です」

「相談?」

「正直に申し上げますと、この場でドラゴンが復活した場合、これ以上ドラゴンを食い止めるのは現戦力では不可能かと思います」

 トーユーズの魂胆は見え見えだったが、言っていることは間違いではなかった。

 ドラゴンが生きているとすれば、その再生能力から完全復活をそう遠くない内に遂げるのは間違いない。しかし、こちらの戦闘要員は半減し、もう[不死鳥の尾羽根フェニクス・ジャッジメント]も使うことができない。そもそも[不死鳥の尾羽根フェニクス・ジャッジメント]が通じなかった時点で、それ以上の威力を持つ攻撃手段が用意されていないのだ。

 せめて一日。いや、半日くらい時間があれば、無理矢理にでも方法を絞り出すこともできるだろうが、それだけの時間待ってくれるとは思えない。

「先代が考えていることは自分にもわかっているつもりです。何をするにでも、今は時間が必要です」

 クロードの悩みを看破するようにトーユーズは言って、口の端を吊り上げた。

「失敗しても騎士一人が犠牲になるだけ。時間が稼げれば儲けものではないですか。どうです? ここは一つ、自分にドラゴンを相手にするように命じられては?」

「ふむ。そうじゃな、悪くない手だ」

 トーユーズの実力は骨身にしみてわかっている。少なくとも、一対一でドラゴンを抑えこむだけの力はあるだろう。その間に反撃の用意をする……理に適った犠牲だ。

「だがの、わかっておるのか? 今この場で動いている騎士たちが悪夢にうなされていないのは、まだ希望があると信じているからだ。これから先、たとえドラゴンが復活を遂げても、必ずや勝つ方法があると信じておるからだ。
 トーユーズ・ラバス。我らがシストラバスの騎士最強の者よ。貴公の戦いは貴公だけのものではない。その肩に我らの希望がのしかかっていると、本当に理解しておるのか?」

「…………」

 トーユーズは一瞬無言になったあと、その場に片膝をついた。

「無論のこと。シストラバスの騎士になったその日より、自分は皆に期待されてきました。ならば、今ここでその期待に応えずしていつ応えましょう? 『神童』のトーユーズを『竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』のトーユーズに。必ずや」

「そうか」

 クロードはトーユーズの姿に一抹の不安を抱いた。この幼いほどに自分への自信に溢れた少年の危うさを、かつて最強と呼ばれたクロードだからこそ感じ取った。

 しかし、その輝きに魅せられてしまうのは、やはり年老いてしまったからか。

「相分かった。ならば、シストラバス最強の看板と共に我が愛剣を持っていけい」

 クロードは携えていた剣を、震える手でトーユーズに差し出した。ドラゴンにやられた傷が響き、もう握力がほとんど残っていない。

 トーユーズはほんの少し驚いた顔で差し出された剣を見ていた。無論、その腰にもドラゴンスレイヤーはある。

「先代」

「必要じゃろう? ワシの目を甘く見てはならんぞ」

 ちょっと小生意気な小僧のこんな姿を見られただけで、クロードはもう戦場で戦えないことへの心残りはない。かつて自分がそうされたように、この騎士は素晴らしいものだと夢見る少年へ託すことができたならば、シストラバスの騎士としては本望だ。

「託そう。我が剣、我が魂」

「謹んで、継承させていただきます」

 トーユーズは剣を受け取り、それを自分の二振り目の愛剣として腰に差した。

「健闘を祈る」

「ええ。英雄の帰還を、どうかお待ちあれ」

「ああ。楽しみに待たせてもらうとしようか」

 立ち上がったトーユーズに頷いて、クロードは再び騎士たちを集める。
 そして、昏睡した者たちを背負いながら、一路シストラバスの居城を目指した。

 ただ一人、トーユーズ・ラバスをそこに残して。

 

 


       ◇◆◇

 

 


 ベアル・カルデモンドという男が生まれたのは、聖神教の聖地ラグナアーツだった。

 この戦乱の世にあって、騒乱とも飢餓とも無縁のこの世の楽園においては度を超えて敬虔というわけではないが、当然の如く使徒を崇めていた両親の下に生まれ、ラグナアーツで育った人間としてはさほど珍しくもなく信仰の道を志した。

 神学校を卒業したベアルは神父として初めてラグナアーツから出た。
 成績優秀者というわけでもなかったベアルが赴任したのは、エチルア王国のとある田舎の村の教会だった。

 毎日教会へ祈りを捧げに来るような敬虔な信者はあまりなく、その日その日を懸命に暮らしていた村人たち。

 ベアルは神父としてというより、新たな村の仲間として迎え入れられた。彼もまた素朴な村人たちを愛し、自分の知識を役立てようと積極的に交流をしていった。やがて一人の町娘と恋に落ち、家庭を持つことになったのは当然の流れだった。

 何でもない幸せな日々は十年あまり続いた。退屈とすら思うほど、穏やかな日々が。

 そんな日々が終わりを告げたのは、ちょうど息子が生まれた年のこと。

 その年、ベアルが赴任してきた村を含めた一帯が不作に陥った。それに加え、領主が進めていた水路の建設が失敗し、氾濫した川による被害も合わさって記録的な飢饉が起きた。

 村の人々は助け合い、これを乗り越えようとした。しかし、それすらも許さなかったのは領主であった。自分の行いの責を取るでもなく、彼は当然のように毎年と同じだけの税を徴収し、結果として多くの人が餓えて死んだ。

 それ自体はさほど珍しいことでもない。
 貴族の腐敗が進んだエチルア王国にあっては、日常的によく見る光景だ。

 ただ、一つだけ他の貴族と違ったのは、その領主が敬虔なる聖神教の信者であったこと。彼は決して金の亡者ではなく、ただ、祖父の代から行ってきたことを自分も繰り返しただけだった。それが悪いことと振り返れない程度には、エチルア王国という国は腐っていた。

 餓えた人々の呻き声が聞こえる村に、神と使徒へと捧げる祈りが聞こえる……。

 憎しみと怒りが水面下に広がり始めた人々の中で、ベアルは自らの立ち位置を決めなければならなかった。

 神父であったベアルだけは、皆が餓えている中、領主からの寄付によって食事を賄えていたのだ。妻と子供がいたために領主に忠言できなかった彼を恨む人はいたが、せめてもの罪滅ぼしとして余った食料を配り歩いた結果、ベアルは村人から感謝もされていた。どちらの側に付くこともできたのだ。

 領主か村人か……。
 神への祈りか、日々への感謝か……。

 その二つの板挟みになったとき――

『おお、神よ。なぜ我々を見捨てたもうたのか?』

 ――ベアルは、信仰の道を捨てることを選んだ。

 村人たちの怒りを消すため、彼は自らが崇めていた神を罵り、怒りの矛先を別の場所へ向けようとした。彼らには領主に代わる憎悪の対象が必要だった。妻が、兄弟が、子供が死んだ理由を受け止めてくれる、そんな受け皿が必要だったのだ。

 ベアルにとって、そんな存在は神以外に考えつかなかった。
 人々はベアルの意志に同調し、神を呪い、何もしてくれない使徒を恨み、そして……。

――ならば私は、御身の見捨てた哀れな人を救いましょう』

 気が付けば、ベアル・カルデモンドは新たなる宗教団体の開祖として祭り上げられていた。

 ベアルはただ怒りと悲しみを消し、自分の力で未来を切り開いて欲しいと、そう思っただけなのに。呪いの声は呪詛となり、憎しみの叫びは刃となって人々の心から神を追い出していった。餓えた人たちの貪欲な食欲は、瞬く間に『正常な信仰』を平らげていく。

 そんな彼らが使徒を愛する領主へ反逆を起こすのに、さほど時間はかからなかった。

 あとは異端宗教のお決まりの末路を辿っていく。

 派遣された聖殿騎士団によって追われ、聖神教の司祭によって破門され、誰も守ってくれず、どこも受け入れてくれず、血を血で洗い、憎しみを増やすことで自己を保ち、剣を掲げて神を呪う。

 そうして、異端の信徒としてやがては消えていく……ベアルには領主を誰かが殺したとき、この結末を予想できていた。

 ならば、それを粛々と受け止めようと思った。
 
 唯一守りたかった妻と子はすでに逃がした。自分はこの事態を招いた責任者として、せめて最後まで偽りの教主で居続けよう。

 そう思ったベアルにとって、全ては受け入れるもの。
 運命の出会いと呼ぶべきそれも、ベアルはやはり受け入れたのだ。

 アンジェロ・リアーシラミリィ。ドラゴンを崇め、使徒を呪う賢きエルフ。
 
 彼がもたらした、あるいは何もかもが元通りになり、あの退屈に過ぎる穏やかな日常に戻れる方法を……ああ、なぜあのとき信じてしまったのだろう?

 あんな、悪魔のような男のことを……。


 

 

「アンジェロは私に語った。使徒を人工的に産み落とす方法があると。そして、その使徒に自分がなり、ベアル教と呼ばれるに至った私たちの異端認定を解いてくれると。……逃亡生活に疲れ切っていた私には、その言葉が福音のように聞こえたよ」

 壁越しに漏れ出てくる後悔という名の半生。
 艱難辛苦を味わったもの特有の疲れと悟りを声にこめながら、白髪の男性――ベアルは語る。

「最初は良かったのだ。彼らと出会い、我々にも目指すべきものと崇めるべき神ができた。ただ転がり落ちていく人生などよりよほどマシだ。たとえそれが異端と呼ばれる道を深めることだとしても。
 私などに付いてきてくれた人たちには休息が必要だった。襲撃を恐れず眠れることができる隠れ家。奪わずとも口に入れることができる食料が」

 聖神教という宗教が統治するこの世界にあって、他の宗教の立場はかなり低い。

 一部の地域に密着した土着信仰など、今も崇めている人々はいるが、それも集落単位の小さなもの、しかも廃れつつあるのが実情だ。なにせ、聖神教という宗教において神とは『真実存在しているもの』なのである。使徒という規格外の存在を産み落とす存在ならば、神といっても間違いではなかろう。

 人は存在しない神よりも存在する神を選ぶ。
 心の中に住む神よりも、ソラから自分たちを見守る神を選ぶのは当然だろう。

 とはいえ実在することが証明されているとなると、そこに恨みや憎しみが生まれることもある。 
 なぜ辛いときに守ってくれなかったのか? なぜ悲しいときに傍にいてくれないのか? 明確な敵がいないとき、神がそれらのはけ口となる。

 そういう背景から度々別の宗教が生まれた。それらは多く、聖神教と敵対することを選んだ。ただ信仰するだけならば批判はあれど弾圧は起こらないが、度を過ぎた行動に出れば世界最高の権力者が黙っていない。

 ……異端認定された人間への扱いなど、奴隷か家畜のそれだ。
 ベアルたちが味わったものは、発端の飢餓と果たしてどちらがマシだったのか?

 そこにつけ込んだのがアンジェロ。先程『不死鳥聖典』を奪っていった、エルフの男か。

「アンジェロ……たしかに、なかなか切れ者だとは思ったけど、そんなにすごい男なの?」

 寒さを紛らわすための世間話としてベアルの独白を聞いていたカトレーユは、やや興味をもって疑問を挟んだ。

 返ってきたのは唸り声。どうやら、ベアルはアンジェロのことを大層恐れているらしい。

「すごい男だ。そして、恐ろしい男だ。使徒になると言ったそれを、私は最初話半分に聞いていた。信じたかったが信じられない……それが本当のところだった。
 そうだろう? 使徒とは神によって選ばれ、生まれてくる使者だ。それに後からなろうなど、そんなことが信じられるはずもない」

 さもあらん。異端宗教に落ちたベアルには気付けなかったかも知れないが、それは狂人の考えだ。使徒への背徳。神への反逆。空想の使徒を生み出すことすら禁忌とされたこの世界において、紛れもなく悪魔の思いつきである。

「だが、彼は本当にやり遂げようとしていた。そのために彼は『竜の花嫁ドラゴンブーケ』という装置を作り出したのだ」

「『竜の花嫁ドラゴンブーケ』?」

「いや、装置ではなかった。あれは人間だ。紛れもない人間なのだ」

 今ひとつ要領の得ない口振りで、ベアルは訥々と語っていく。それはやはり独り言なのだろう。自分の心の内に溜まった毒を吐き出していく行為に過ぎない。

「アンジェロは、自分の娘を生まれる前から装置に変えてしまったのだ。ドラゴンと同調し、使徒となる儀式に必要な『術式』を手に入れるために。
 ……生まれた子の目は、何も映してはいなかった。
 たった一つの用途のために生まれた子供。そんな彼女を最初、幸せな子だと思っていた。多くの人々を幸せにすることができる子だと。たとえ、彼女を生まれさせるために幾人もの子供たちを犠牲にしても、それでもこれから救われる人を思えば……」

 うなり声が大きくなる。
 偏頭痛にでも苛まれているのか。ゴツ、ゴツと鉄格子に頭を打ち付けながら、ベアルは続けた。

「それが、そもそも間違っていた。小さな骸を積み上げて、小さな命を弄んで、それで一体誰が、何が救われるというのだ……!
 私の目は曇っていた! いや、間違っているものを見ようとしなかったのだ! アンジェロが恐ろしい男だと疑おうとしなかった!」

「それで? 結局アンジェロはこの都で、何をしようとしてるの?」

「儀式を! ドラゴンを、使徒を、そしてこの都に住む人間全てを生け贄に、自らを使徒と変える『聖誕』の儀式を行おうとしているのだ!」

 金切り声をあげ、ベアルは訴えてくる。

「アンジェロは悪魔だ! 『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を生み出すために故郷の子供たちを生け贄と捧げ、自分が使徒となるために一つの都全てを生け贄に捧げようとしている! そして、その果てに世界全てを支配するつもりだ! あの男に、我々を、誰かを助けようなどという意志は存在しない!」

 そんなことはわかっている。カトレーユは穏やかなアンジェロの顔に、ついぞ温かな感情を感じなかった。

 狂気を帯びているというもの正しいのだろう。やろうとしていることも得心がいった。

 つまり、アンジェロはオルゾンノットの都そのものを儀式場とし、内にある命全てを生け贄として大儀式を引き起こそうとしているのだ。生け贄にドラゴンが必要であるため、下手に殺させるわけにはいかなかったと。

「ねえ、おじいさん……って年でもないのか。おじさんはアンジェロに翻意を抱いて、それを気取られて、あの怖い奥さんに投獄されたってわけだね」

「ターナティアはアンジェロを盲目に慕っている。彼がどのような非道を行おうと、決して疑いはしないだろう。アンジェロの目的が『救世存在論』の証明ではなく、世界の王になることだとも知らずに」

 ベアルはやはりターナティアによって投獄されたらしい。
 話を整理してしまえば、ベアル教という宗教団体を作りだしたのはベアルでも、黒幕はアンジェロであったというだけの話。

「なるほど。あの男の子もなかなかロマンチストだね。世界の王になるって、そんな子供じみた夢を本気で追いかけてるなんて」

「何をのんきな! あなたは竜滅姫ではないか?! アンジェロを止められるとしたら、それはあなただけだというのに!」

「と言われてもね……こうして捕らわれてるわけだし」

 カトレーユもベアルも、牢獄から出られないという点では条件は同じだった。

「まあ、話を聞いた感じだと、そうすぐに起こせる儀式でもないみたいだから大丈夫じゃない? わたしをさらってきたってことは、まだ何もできてないってことだし。これから『竜の花嫁ドラゴンブーケ』だっけ? それでドラゴンに干渉して『術式』を。ドラゴンをくびり殺して『生け贄』を。あとは……ああ、あの優しすぎる聖母様も生け贄に使うつもりなんだ」

 人工的に使徒を生み出す儀式――『聖誕』
 ドラゴンと使徒を鍵とし、幾多もの命を捧げて初めて起動する禁忌の秘術。

 オルゾンノットの都を地獄に変えようとするアンジェロの手管は、素直に褒めてもいいほどのものだろう。前もって何ら情報をもらさず、裏で手を回し、今日儀式に必要な全ての鍵を集めてみせたのだから。

 ベアルのいうとおり、恐らくは、ここでカトレーユが燻っていれば、彼がミスを犯していない限り『聖誕』は起きてしまうのだろう。


――それで、ディスバリエ・クインシュはそれに対してなんだって?」


 まあ、そんなことはどうでもいいので、カトレーユはベアルに本題を尋ねた。

「……ディスバリエ様?」

 なぜここでそんな質問をされるのかわからないと言った体で、ベアルは呟く。それもおかしな話だ。ベアル、アンジェロ、ターナティア、ディスバリエの四人で、ベアル教という組織を動かしていたのではなかったのか?

「質問がわかりにくかったのかな? 今の話でアンジェロがしたいこと、それにターナティアが協力してること、君が裏切ったから投獄されてることはわかったよ。だけど、ディスバリエのことは何もわかってない。それが一番重要なことなのに」

 それとも――

「もしかして、君たちの誰一人として、彼女が一番危険で狂っていることに気が付いてないの?」

 だとしたらお笑いぐさだ。創始者四人を並べて立たせれば、誰が一番の狂人かなんて一目瞭然だというのに。

 そもそも、カトレーユはアンジェロの話になんて興味はなかった。ここへ連れてこられるとき抵抗をしなかったのも、ディスバリエの計画を知りたかったが故だ。
 というのに、アンジェロという踏み台の話をされ、それで終わりというのは、思わず笑ってしまうくらい拍子抜けというものだ。

 未だ理解できないと無言のベアルに対し、カトレーユは無駄な話だったと肩をすくめ、歌うように口にした。

「ここはオルゾンノットの都。ドラゴンが降り立つ地獄。竜滅姫が死に行く終末。そして、ディスバリエ・クインシュの巡礼の終着点。決してアンジェロの夢が叶う場所じゃないし、きっと、誰も彼もが彼女の手のひらで踊ってるに過ぎないよ」

「馬鹿な。ディスバリエ様は、たしかにアンジェロに協力しておられる。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を完成させたのもあの方だ。だが、あの方はお優しい方だ。私がこうして投獄されても生きていられるのは、あの方が食事を届けてくださるからに他ならない。
 きっと、きっとアンジェロに騙されているのだ。彼が使徒になれば世界が救われるものと、そう信じておられるのだ。真実を知ればきっと協力などしないはず!」

「ふ〜ん。たしかに連れて来られるときも優しかったけど、わたしの結論は何も変わらないね」

 カトレーユは唇を綻ばせ、未来を占うように目を細めた。

――このオルゾンノットの悲劇は、彼女が夢を果たすための惨劇に過ぎないんだよ」

 そのとき、牢屋の入り口の扉が荒々しく開かれた。

 カトレーユとベアルが同時に入り口に視線を向ける。
 そこにいたのは一山いくらという感じの小悪党めいた笑みを浮かべた男たちだった。

「彼らがなぜここに? 私が投獄されていることは、彼らには内緒であるはずなのに……」

「よくわからないけど、それって助けてもらえるってこと?」

「ああ。一番古い友人たちだ。私を助けに来てくれたに違いない!」

 牢屋に入ってきた十五、六人の信徒たちを見て、ベアルが絶望から一転、声に張りを戻らせた。

「そうだ。まだ遅くはない。アンジェロの暴挙を止めるためにも。ここで竜滅姫をドラゴンの前へ連れて行くことができれば、『聖誕』を崩すことができる……!」

「それって、遠回しにわたしに死ねって言ってるようなものだけど。まあ、いいか。早いか遅いかの問題だし」

 そろそろ動かないといけない頃合いだと、カトレーユは立ち上がり――ゾクリと、女として当然の寒気に背筋を震わせた。

「…………」

 無言で、改めて牢屋へとゾロゾロやってきた男たちを見てみる。

 彼らはまるで、こちらの服の下を暴くような視線を向けてきていた。その汚らわしい視線は、決してベアルを救出するために来たのだとしたらあり得ない。間違いなく、彼らの目的はカトレーユ一人だった。

「おい、早くしろ。せっかくターナティア様から許しが出たんだ。ドラゴンがここにやってくる前に全員に回さないといけないんだからな!」

 カトレーユの牢屋の前までやってきた彼らは、その急かす一言を皮切りに、堰を外した河川のように欲望を露わにし始めた。

「わかってる。これまで神を殺してきた罪人に、我ら救世の戦士が罰を与えなければならないんだ」「そうだ。死よりも酷い罰を。俺たちが清めてやるんだ」「ちくしょう、見ろよあの顔と身体。さすがは邪神の血だぜ!」「私が一番だからなっ」「馬鹿言うな。前のときもお前が一番だっろうが!」「早くしろ!」「断罪だ!!」

「あ、あなたたち、何を……?」

 ここに来て、ようやくベアルも自分を助けに来たわけではなく、彼らの本当の目的に気付いたようだった。ガチャガチャと鍵穴と格闘しながら鼻息を荒くし、興奮を露わにしていれば誰でも気付く。出してくれるんだと喜ぶには、ちょっと目つきが尋常じゃなさ過ぎた。

「これは、あれだね。ゴッゾのエロエロモードなときと同じ顔だよね。……ちょっと、まずいかな」

 流石に身の危険を感じて、カトレーユは男たちから離れた。客人扱いじゃなかったのか。この展開はちょっと聞いてないぞ。

「待て。止めるんだ、みんな! そんなことをしてはいけない!」

 鉄格子から離れるカトレーユとは反対に、さらに鉄格子の間に顔を押しつけ、ベアルが怒鳴る。

 男たちは最初、そんなかつての教祖の言葉など無視して、あるいは目に入っていないかのように振る舞っていたが、なかなか開かない鍵に加えてその雑音はあまりにも鬱陶しかったのか、内一人がベアルの顔を覗き込んだかと思うと、

「黙れ! この裏切り者が!」

 その顔目がけ、思い切り蹴りを放った。

「お、おお……」

 鼻が潰れるような音がして、悲哀の声が隣の牢獄からもれてくる。ただそれは鼻の骨が折れた痛みよりも、信じた仲間からの言葉に対する嘆きの方が強かった。

「今更指導者面するな! 俺たちの今の指導者はアンジェロ様だ! そうして生きていられるだけありがたく思え!」

「あ、あなたたちは、私がここに捕らえられていたことを知っていたのか……?」

「俺たちはベアル教の救世の戦士だからな。何も知らない一般の奴らと一緒にするな」

 ベアルを蹴りつけた男は、腰につり下げた美しい拵えの鞘にこめられた剣を見せると、それを引き抜いて見せた。

「そうさ。俺は昔から、お前が大嫌いだったんだ。少し賢いからって人のことを見下しやがって! 何も出来なかった癖に!」

「おい、うるせぇぞ! 気が散る! ……よし、開いた!」

「よしどけ! 俺が一番だ!」

 威嚇するために鉄格子を斬りつけていた男は、その言葉を聞いてベアルなどいなかったかのようにカトレーユのいる鉄格子の中へと入ってきた。

「へへっ、やっぱりアンジェロ様は最高だ。あんな小汚い田舎にいたら、こんな別嬪さんに手を触れられる機会なんて一生なかっただろうからな。ベアル教万歳だ!」

 彼がこの信徒たちの中のリーダー格なのだろう。でっぷりと張り出したお腹を揺らし、剣先を向けてくる。

「抵抗するなよ。別に俺は、娘さんが代わりにお相手してくれてもいいんだぜ?」

「うわっ、ペドフェリアだ。初めて見た」

 剣の切っ先で胸を突かれ、カトレーユは冷たい視線を男に向けた。

 圧倒的な有利を確信している目。
 多数で弱者をいたぶることに喜びを見出している、獣の目。

「ねえ、これが君の言ってた、救いたかった哀れな者たち?」

「……私は、私は…………」

 隣の牢獄から、魂をすり減らした絶望の声が聞こえてくる。

 カトレーユは瞳を閉じて深々と溜息を吐くと、今の気持ちを一言で表した。

「あ〜あ。ほんと、めんどくさい」

 

 


       ◇◆◇

 

 


 ディスバリエ・クインシュの姿は、少し前までシストラバスの騎士とドラゴンとが戦っていた戦場のすぐ近くにあった。

「ここで命を落としたものに神の慈悲を。その身許で、どうか健やかに眠れるように」

 地面に膝をつき、胸の前で手を組んで鎮魂の祈りを捧げる。
 吹き荒ぶ冷たい風は熱と血の臭いをディスバリエのところまで運んで来ており、戦いの凄まじさを物語っていた。

 今は一人の騎士を残して退却したようだったが、むしろ、退却できる人数が残っていただけで彼らの勇猛さの証となろう。

 此度、オルゾンノットの都に現れたドラゴンの特異能力は、とりわけ強力なものだ。睡眠魔法や麻酔などの薬を遙かに凌ぐ『睡眠』の力である。
 
 力はドラゴンを基点にし、毒のように広がっては、命有るものを深い眠りに落としていく。その感染力は、一国を滅ぼしたとされる流行病を遙かに凌ぐ。
 そして、これに逆らうことは容易ではない。魔力の容量や抵抗値などは意味をなさないからだ。この特異能力に対する免疫を持たない人類にとっては、病気と同じように精神力で耐え凌ぐしかない。

 さらにこの特異能力の恐ろしい点は、眠りに落ちてしまったものに『悪夢』を見せることにある。

 その人にとって最も恐ろしいと思える夢――それを延々と見せては、苦しみ悶える感情を魔力に変え、糧にする。眠りは自らの精神力による脱却か、ドラゴンをこの世から消滅させるしかないのだが、悪夢に落ちている者が一人でもいた場合、ドラゴンは決して死ぬことはない。そして悪夢は際限なく広がりつつ、目を覚ませられなければ半日ほどで死に至る。

【魔の子守歌】――三眼のドラゴンの不死性の象徴でもある、恐ろしい特異能力である。

「大丈夫だとは思いたいものですが、皆さんが悪夢に侵蝕されていないか心配ですね」

 ディスバリエはそろそろ【魔の子守歌】の効果範囲内に入るだろうスラムにいる人たちを心配するが、ここにいる以上は何の意味もないことと諦める。

「あたくしは、あたくしの役目を全うするまで」

 祈りのポーズのまま、ディスバリエは深く深く息を吐いた。

 これから自分がしようとしていることを思うと、微かに緊張で力が入る。

 ドラゴンの肉体を破壊してみせたシストラバスの騎士たちを責めるつもりは毛頭ないが、結果として、肉体という直接触れられる経路を失ってしまった以上、かのドラゴンに刻印を刻む方法は一つしか存在しない。

 ドラゴンが見せる悪夢へと落ちるしか、ない。

 持ち前の信仰によってドラゴンの威をはね除けて見せたディスバリエにとって、それは即ち自傷行為を今ここで行うことを意味していた。

 とはいえ、肉体の痛みなどはいくらでも耐えることができる。そもそもこの身体は仮初めの肉体に過ぎず、腕を切り落とそうと内臓を引きずり出そうと、痛みは感じてもそれだけだ。

 いじめ抜くのは精神でなければならない。
 それも神の愛によって支えられた心へ届かせる、思い出すだけで死にたくなるようなものでなければならない。

 そんな記憶はディスバリエ・クインシュの長き過去にあっても、たった一つしか存在しなかった。

 忘れないように、思い出さないように、大事にしまっておいた記憶を掘り起こす。

 瞼の裏にはあの日の空が映り込む。耳にはあの日の音が甦る。
 たとえ報われるときがやがて来たとしても、その日の裏切りだけは決して忘れてはいけないと思ったからだろう。色褪せることなく、汚れることなく、あのときの自分が還ってくる。

「…………ああ……」

 口からもれたものは、嘆きかそれとも喜びか。
 戻ってきたあのときの自分は、今の自分と寸分の狂いもなかった。

 そうか。と、安堵で死にたくなりながら、少女は雲の切れ間からのぞく高いソラを見上げた。

「あたしは結局、何も変わらずにいられたのですね」

 それは何も変われなかった自分への絶望と同義の言葉。
 名前を変えても、仮面を取り繕っても、ここにいるのは弱くて醜い、その手では何も救えない少女がいるだけ。

「メロディア」

 そう、その昔――はにかむように笑いながら親友だと言ってくれた友を裏切った、許されざる咎人がいるだけだった。

 

 


 ――それは今より千年も昔のお話。

 まだ世界がドラゴンの脅威に怯えていた頃、その少女は、貴族の家の末姫として生を受けた。

 他の大陸から離れていたのが幸いしたのだろう。世界中で猛威を振るっていたドラゴンの吐息も、まだ小さな大陸には致命的な影響までは及ぼしていなかったため、彼女は人間らしい生活を送ることが許された。

 しかし、一歩父親が整えた箱庭より外を出れば、そこには苦しみの世界が広がっていた。

 腹を空かしながら朝から晩まで働いて。
 そうしてようやく最低限の生活ができる、そんな世界。

 誰かが窮状を訴えてきたわけではないが、彼女はそんな光景を見て強い衝撃を受けた。自分の過ごしてきた十三年の人生に比べて、平民たちの送る人生のなんと哀れなことなのか。自分たちが不幸であることにも気付けずに偽りの笑顔を強いられるこの世界の、なんと惨いことなのか。

 その日から、親や兄姉、教師からただ命じられることをしていただけの少女は一変した。

 世界の実情を知り、人々が口にする嘆きを聞き、その痛ましさに涙を流す。
 見て見ぬ振りをするには、少女の心は頑丈ではなかった。そんなに強い人間ではなかった。

 やがて、彼女は世界を救おうと思うようになる。

 どうしてそう思い至ったか、その真実はわからない。生まれながらにして特別な力を秘めていたからかも知れないし、未だ解明されていない心の動きがあったのかも知れない。

 ただ、わかっているのは半年だったということ。
 外の世界を知ったあの日より半年間――それが、彼女がこれまでと同じ生活を送ることに耐えられた時間だった。

 親との縁を切り、少女は自分を信じてくれた一人の従者だけを連れて旅に出る。この世界を救ってくれる、そんな人を捜し求めて。

 少女は弁えていたのだ。すごい力も名声もない自分には、この世界を救うことなんてできないのだと。それでも世界を回り、自分の足で救世主を捜し、自分の声で救世主に立ってもらうことだけはできると思ったから、少女は必死に歩き続けた。

 それは巡礼の旅だった。

 救われるその場所を目指す、未来に存在するそんな輝かしい一瞬に辿り着くための、少女にとっての巡礼の旅だった。

 そうして出会った相手が二人の親友。
 彼女と共に世界の歴史に刻まれる、偉大なる『始祖姫』たちだった。
 
 出会いを果たしたあとの旅は厳しいものになった。
 大陸に蔓延る魔獣たち。それを率いるドラゴン。時には同じ人間とも敵対し、時に手を組みながら戦いに明け暮れた旅は、大陸をも飛び越える。

 醜い現実を見ることになったし、困難苦難を味わった。親しい人の死に際にも何度も立ち会うことになったし、その手を血の赤で染め上げた。
 
 それでも諦めずにいられたのは、それ以上に楽しかったから。
 二人の親友と、大勢の仲間たちと共に肩を並べ、試練に挑み、喜びを分かち合った日々がどうしようもなく楽しかったから、彼女は最後まで諦めずに済んだのだ。

 ずっと一緒に。誰もが笑い合える日が来るまで、誰よりも笑いながら旅を続けよう。

 そうして、少女たちは世界を救ってみせた。
 ドラゴンを駆逐し、人が人として生きられる道を開き、地獄の世に終わりを告げてみせたのだ。

 同時にそれは少女にとって幸福な時間の終わりでもあった。

 地獄を知り、地獄を渡り歩きながらも――
 生まれたときから旅が終わるまで、ついぞ地獄の苦しみを味わうことはなかった彼女にとっての地獄は、それから始まったのだ。

 
 ――親友が世界を滅ぼす猛毒になった。彼女を殺さなければ、世界が終わる。


 少女は神と出会ったのだ。旅の終わりと共に仲間たちと別れ、応援すべき相手を失っていた彼女は、信仰するに足る相手を見つけた。しかし、その神からもたらされた真実は、あまりにも惨い現実だった。

 がんばったのだ。あの子はあの子なりに懸命にがんばっていたのだ。

 親友と共に十年近く旅をした少女にはわかっていた。我が儘ですぐすねる白い髪の魔法使いは、その実不器用で甘えん坊なだけの女の子なのだと。あるいは彼女が一番この世界の在り方に疑問を持ち、人々の嘆きに心を震わせていたのかも知れない。世界を救うなんて馬鹿みたいと口では言いつつも、いつだって一生懸命に戦っていた。

 そのがんばりが、その讃えるべき行いの結果がこれなのか?

 これではあまりにも惨すぎる。だって、彼女は何の見返りも欲してはいないのだ。名声も財産も、地位も何も欲していない。ただ、満月の下で人々が踊っている姿を見て満足するような、そんな優しい子なのに……。

 だが、それでも魔法使いがいると世界が滅ぶ。
 彼女が欲して手に入れた尊い光景もまた、地獄の炎に戻ってしまう。

 ああ……誰がこんな結末を許せるだろう?

 神のオラクルを受けた少女は迷い、悩み、葛藤し、絶望に涙したあと自分の足で立ち上がった。その足で、魔法使いを唯一殺すことができるだろう、もう一人の親友の許へと向かった。

 やはり少女は弁えていたのだ。
 たとえ親友を殺すことを覚悟しても――自分では、どうしようもなく何もできないと。

 そうして、少女は紅き不死鳥と共に猛毒になってしまった親友の前に立つ。

 世界を保つために。人々を守るために。何もかもを救うために。
 再会を喜び、何の疑いもなく付いてきてくれた親友の小さな胸に、裏切りの刃を突き立てた。

 魔法使いは胸を刺し貫かれただけでは死なないため、実際に彼女を殺してみせたのは不死鳥の炎だったけれど、彼女の幸福、日常、人生など、メロディア・ホワイトグレイルという存在を形成する全てを壊したのは少女だった。

 そして当然のことながら。旅を共にした仲間たちが、その後、笑い合う日は永遠に来なかった。

 湖の森の英雄からは生涯恨まれて二度と会うことはなかったし、それ以降紅き守護者が口を聞いてくれることはなかった。最初から一緒だった従者は最後まで少女を責めなかったけれど、あの強くまっすぐな瞳で視線を合わせてくれることは、末期のときまで訪れなかった。

 ソラに浮かぶ満月へと封印された親友の残した涙を受け止めたとき、仲間の絆は断ち切られ、少女は独りになったのだ。

 しかし、それは覚悟を決めたときには分かり切っていたこと。

 それでも少女は許しを乞うことはなく、膝を屈することはなかった。
 否、できるはずもなかったのだ。たとえ世界と人を守るためという建前はあれど、仲間の絆を断ち切ったのは少女だ。ならば、どうして諦められようか?

 自分の選択は間違っていなかったのだと。親友と仲間を失うことになってもなお、世界を滅ぼすことはできないのだという、その選択は間違っていなかったのだと証明することこそが、唯一少女にできる罪滅ぼしだった。

 なぜならば、その証明とは世界を救うことに他ならない。

 終わることなく保たれ続け、人々がいつまでも笑い合うことができる世界。
 それはきっと、猛毒になってしまった親友がその笑顔の輪の中に戻っても、決して壊れることのない世界だと思うから。

 それが少女の――アーファリム・ラグナアーツが決して諦めてはいけない、辿り着かないといけない、本当の旅の終わり。巡礼の終着点。

 それまでは。
 そのときまでは。

『共に目指そう。共に征こう。我々は目指さなければならない。――全ての、救いを』

 神を信じ――

『忘れないで下さい。メロディアとシストという、大事な親友がいたことを。彼女たちはあなたが大好きで、あなたは彼女たちが大好きだったことを』

 ――従者が残してくれた宝物のような言葉を胸に、がんばり続けよう。

 そう、アーファリムは愛しているのだ。
 たとえ向こうがどう思っていようとも、憎まれ恨まれていようとも、人が、この世界が、仲間たちが、二人の親友が大好きなのだ。

 それは千年の昔に生まれた少女の胸で、今なお一番に輝き続ける大切な想い。

 世界を救いたいと願う、その始まりにある気持ち。

 

 


 ――それを忘れていなかったことが嬉しくて。同時に、傷付けてしまった親友に申し訳がなくて。

 ディスバリエ・クインシュという名を騙っていた『始祖姫』が一柱、アーファリム・ラグナアーツが目を開けば、そこには何もない空間が広がっていた。

 蒼い瞳で見渡せば、誰かが自分を見下ろしているように感じられる。

 ここは三眼のドラゴンが悪夢を見せるために必要な、相手の心から悪夢を汲み取るための現実と夢の境界線か。何かが侵蝕してきているような不快感に、アーファリムは反射的に目を閉じそうになった。

「いけません。こんなことでは、たくさんの人たちに顔向けできません」

 それをぐっと堪え、アーファリムは目を開け続けた。

 アーファリムの目を閉じるという癖は、向かうべき道も振り返るべき道も見ないようにすることで、一向に終わりを見出せない巡礼の旅に絶望しそうになる心を守ろうとする本能に近かった。

 いくら諦めずにがんばっていこうと心に決めても、長い年月は弱い心を蝕んでいく。そもそも人間はそんなに長くは生きられない。それが独りであれば尚更だ。種としての限界値、幕を引きたくなる時期というものがどうしようもなく存在する。しかし諦めるわけにはいかないアーファリムは終わりを拒むため、自分の目を閉じたのだ。

 だが、それは自分が裏切ったものに対する不義理だと今思い出した。ならば、目を閉じてはいけない。

 ――大丈夫。挫けることはない。うん、がんばれる。

 自分に言い聞かせるようにそう心の中で呟いて、しっかりとアーファリムは目を開き、自分を見下ろすドラゴンを見定めた。
 
 認識されることで、悪夢という形で人々に侵蝕していた三眼のドラゴンの姿が、何もない空間に浮かび上がってきた。

 三つの鮮血の瞳がぎょろりとアーファリムの方を向く。
 なぜお前は悪夢に落ちたのに絶望しないのだと、その目が理解できないと訊いていた。
 
「それは簡単です。あたしが見るだろう悪夢はきっと、あの日の光景だってわかりきっていますから。それは辛くて、痛い。ここにはない心臓が爆発しそうなくらい。ですが――

 アーファリムはドラゴンに向かって手をかざし、

「ドラゴンよ。人間を舐めないでください。人は絶望の中でも光を見つけ、立ち上がることができるんです。あなたは確かに強いけれど、諦めないことにかけては人間には敵いません」

 礎になれ。と、強く、強く、念じた。

 悪夢を形作る前の空間が、絶望以上の想いの強さの前に崩壊する。
 
――さあ、準備は整いました」

 気が付けば現実でしっかり目を見開いていたアーファリムは、『聖獣聖典』を手に立ち上がる。

 刻印は此処に刻まれた。
 ではこれよりアーファリム・ラグナアーツは、その罪の名と共に祝福の名を名乗る。

「今日より世界を。全ての人に幸せを。
 クーヴェルシェン・リアーシラミリィ=アーファリム・ラグナアーツ――この巫女の名に誓って、救世主を必ず」






 そして――――『竜の花嫁』が動き出す。

 

 


ああドラゴンよ あなたはなんて美しい
 
 ベアル教地下神殿の『巫女の間』に座すエルフの少女。
 その空虚な瞳に今、ベアル教の神が映り込み、その唇から神へと捧げる詩は紡がれる。

ああドラゴンよ あなたはなんて神々しい

 小さな身体を覆い尽くす白い光。黄金の髪は部屋を埋め尽くす魔法陣の光を浴びて、白銀にも似た色に染まる。それはかつて『魔法』という力をこの世に産み落とした奇跡の少女の如き髪の色。

あなたが神 我らが救いの主 私は知りたい あなたが世界に刻む詩を

 そう、奇跡を願っている。

「始まる。私とアナタの夢が……!」

「ああ。夢だ。私の、夢だ!」

 奇跡が起きて欲しいと、巫女を囲む夫婦は願っている。

ああドラゴン あなたに愛の花束を

 だから巫女は歌うのだ。

 生まれてきた意味を果たすために。創られた意義を果たすために。
 その身体は頭の先から足の先まで、そのためだけに存在する部品。ドラゴンを知り、ドラゴンを理解し、ドラゴンと成ることだけを願われた花嫁だ。

 故に、ドラゴンブーケ。竜の花嫁。

『手向けの花束よ。捧げられし花嫁よ。クーヴェルシェン。あなたはなんて幸せな巫女むすめ

 アンジェロとターナティアが見守る中、二人の娘のまっしろな姿が鮮血に染まる。

クーヴェルシェン・リアーシラミリィは あなたに永遠に捧げられし花嫁です

 蒼い瞳は紅い瞳に。
共有の全シェアワード]と名付けられた魔法によって、視界が、聴覚が、嗅覚が、味覚が、感覚が都を悪夢で包み込むドラゴンと同調する。
 

――今日より世界を。全ての人に幸せを。
 クーヴェルシェン・リアーシラミリィ=アーファリム・ラグナアーツ――この巫女の名に誓って、救世主を必ず――


 たとえそれぞれの思惑は異なっていても、求めているものは同じ。
 そう、必ず――必ず世界を救ってくれる救世主をこの世に産み落として見せる。

――――――――

 そのために今、クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、自ら望んで悪夢へと落ちていく。









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