第九話  騎士




 城内に戻ってきたクロードが孫娘を襲う敵を見つけたのは必然であった。

 クロードが到着したのは、城を吹き飛ばす雷が落ちた直後のこと。目の前で自然のそれを上回る極大の雷を見て、クロードは敵の狙いと右目の烙印の意味を悟った。リオンの私室に近付けば近付くほど、右目の熱は酷くなったからだ。

「よもや、まだ幼いリオンの命を狙ってくるような不埒者がおろうとはな」

 そして今、クロードの瞳からは熱が消え、代わりに心臓が高熱にうなされている。

 クロードは予備として携帯していた、ある程度実用に耐えうる儀礼用も兼ねた剣を手に、出会った敵を観察する。

 筋肉が鎧のようについた、まだ年若い大男だ。

 鋭い目に長い両手。戦場を駆け抜けてきた気迫というものを雰囲気として纏っている。相当強いことは単身敵地に乗り込んできたことからも明らかで、彼の狙いがリオンの命であることも明白だった。

「カトレーユをさらったのも貴様らか?」

「答えなければならない理由はない」

「それが答えじゃ。竜滅姫を狙う、か。ベアル教の人間というわけじゃな」

 そうと分かれば、クロードは怪我の影響など微塵も感じさせない構えで剣を握り、自ら斬りかかっていった。

「はァ!」

 上段からの素早い連撃を叩き込む。

 大男の得物は、刀身が二メートルを越す大剣だった。柄が長く、馬上槍といっても間違いではない巨大さだ。対魔獣用の武器で破壊力は抜群だろうが、室内での戦闘では明らかに大きすぎる。それにあの重量ではスピードも出まい。

 案の定、動きを壁や瓦礫に邪魔された大男はクロードの攻撃に防御するので精一杯だった。戦場を限定されてきた戦士なのか、クロードは垣間見えた隙を狙って鋭い突きを放った。

 大剣の横、鎧の隙間をすり抜けた一撃が分厚い筋肉に突き刺さる。

「しまった!」

 これこそが敵の狙いだと気が付いたときにはもう遅い。
 クロードが剣を引くよりも早く大男は腹筋に力を入れると、それで剣は引き抜けなくなってしまった。

「おじーさま!」

 素早く剣を引き、突き出したボルギィを見て声を失っていたリオンが叫ぶ。

 クロードは咄嗟に剣の柄から手を離し、後ろに向かって大きく跳んだが、迫る鉄の塊は巨大だった。切っ先が甲冑を砕き、腹部を抉る。

「ぐふっ」

「おじーさま! 大丈夫ですか!?」

 口から血を吐き出して、クロードはその場に膝をついた。
 駆け寄ってきたリオンが傍らにしゃがみ込んで何とかしようとするが、傷は深い。

「よもやワシがこのような失態を犯そうとは……意志を託したために、気が抜けておったかのう」

「勝負有りだな」

 腹筋が締め上げていた剣を抜くと、ボルギィは足下に放り投げ、大剣の一振りで叩き折ってしまった。

 この状況下で得物を失うことは、敗北に等しい。

「リオン、逃げなさい」

「きゃっ」

 クロードは膝をついたまま、振り上げられた大剣を見て、リオンの身体を後ろに突き飛ばした。

「消えろ、老兵」

 剣は今度こそクロードに致命傷を与えるだろう。
 クロード・シストラバスの栄光を思えば、それはあまりにも早すぎる戦いの決着であった。

 ……いや、そもそもクロード・シストラバスの人生に武功という名の栄光などなかった。

 生まれてから六十年あまり、ひたすらに武を研鑽し、誉れ高きシストラバス家の騎士として戦い続けてきたクロード。そうして得た騎士団最強という名に、しかしふさわしい武功が付いてきたことはない。

 元より、グラスベルト王国は他国との戦争を拒絶している国である。
 盗賊や魔獣といった外敵の討伐こそあれ、鍛えた腕を見せるべき戦場はほとんどない。あるのは武闘会などの設えられた舞台のみ。グラスベルト王国の『騎士』とは生き方であり道であった。

 そういう意味では、クロードが手に入れたものとは自らが尊いと思える誓い。誰に誇るものでもなく、自らを律するための聖約である。

 そして、そんな誓いを欲しいと言ってくれた女がいた。

 間違いなくクロードが得た人生最大の栄光をいえば、竜滅姫の番に選ばれたことであろう。そして最大の後悔は、いつか世界を救って死にたいと言っていた女を、あまりにも惨めに死なせてしまったこと。

 これまでの人生を振り返ってみれば……果たして、自分に何ができたというのか?

 何もない。何も成せていないし、できていない。

 その証がこの右目に輝く契約の烙印なれば――このシストラバスの騎士にとって、最大にして唯一の戦場においては決して退いてはいけない。

「そうじゃろう? 悪魔よ」

 これは神もが祝福した、竜滅姫を守る戦いなのだから。






       ◇◆◇






 久しぶりに会った息子は、前に見たときよりもかなり大きくなっていた。

 それも当然か。ルドールが前に会ったのは百年近く昔のことだ。あのとき、まだ加齢が止まっていなかったアンジェロは子供だったが、今の彼は十分大人といった顔つきになっていた。ともすれば、ルドールよりも外見年齢は上だ。

 ルドールとよく似た顔を驚きに染めて、アンジェロは奥歯を噛み締めている。

 ルドールの胸に押し寄せてくる感情は大きく、言いたいこともたくさんあった。
 しかし、ここにいるのはアンジェロの父親であり使徒フェリシィール・ティンクの巫女であるルドーレンクティカ・リアーシラミリィ。言うべきことはただ一つ。

「儀式を止めろ、アンジェロ。人工の使徒など、そんなものを生み出させるわけにはいかん」

「っ! それが久しぶりに会った息子に対する第一声か、ルドーレンクティカ!」

 我に返ったアンジェロは激昂し、吠え立てるように怒りをぶつけてきた。

「まさか貴様がここに現れるとはな。どこまでも息子の邪魔をしたいと見える!」

「異端に走った息子ならば、邪魔をしないわけにはいかんだろう。それが儂の父親としての責任だ」

「誰が父親だ! 私は、貴様を父親と思ったことは一度もない!」

 叫びと共に、アンジェロの目の前で白い魔法陣が弾け、氷の弾丸が飛ぶ。

 同じようにルドールの方も魔法陣を組み立て、氷の弾丸を迎撃に向けた。

 互いの中間で魔法は相殺され、小さな氷が広間に舞う。狙いが逸れた弾丸が地面を、壁を削り、部屋の温度を著しく下げた。

「儂も自分が父親などとは言えぬ身分であることは承知しておるよ。だがな、それでもお主は儂に論文を送ってきた。儂にはそれが、自分を止めて欲しがっているようにしか思えなんだ」

 ルドールは冷静に魔力を練り込むと、手に氷の槍を生み出して握る。

 それを槍のように構え、

「出会ってはいけないものに出会ってしまったのだろう。抱いてはいけない思いを抱いてしまったのだろう。そのとき何もできなかった儂だが、今止めることはできる。――間に合わなかったとは言わせぬよ」

「抜かせ!」

 一気に斬りかかったルドールよりも先んじて、手に氷の剣を生み出してアンジェロが突っ込んできた。

 鋼鉄の剣による剣戟にも負けず劣らず、氷という名の激しい火花が散る。

 共に同じ属性、同じ性質、等しい魔力量を持つ者同士。近中遠と、魔法による鍔迫り合いが繰り広げられる。

 お互いに一歩も譲らない攻防が続く。

 しかし、ここで本来ならばルドールが押す形になるはずなのだ。素質が同じならば、出てくるのは経験の差であり年月の差だ。百年生きているアンジェロではあるが、ルドールはその三倍は生きている。魔道の探求に費やした時間はそのまま力となって有利に働くはず。

「この程度か! この程度なのか、貴様は!」

 事実、ルドールには余力があった。が、それを注ぎ込んでアンジェロ一人に集中するわけにもいかなかった。

 未だ驚愕と怒りから我を失っているアンジェロだが、もしも自分が追い詰められていると悟れば我に返ることだろう。そして冷静になった彼は気付くはず。ここに、もう一人いなければならない人物がいないことを。

 結果として、ルドールは派手に魔法合戦を続けることで、アンジェロの意識を他に向けないようにする必要があった。それがアンジェロとの攻防で決定打を放てない理由になっていた。

(カトレーユ殿が儀式を食い止めるのまでこれを続けるしかあるまい)

 ルドールはまっすぐ息子を見たまま、並列してカトレーユのことを考える。

 部屋へと踏み込む前、ルドールはカトレーユから一つの作戦を提案された。
 それはルドールを囮にして残った戦力を惹き付け、その隙に敵の儀式をカトレーユが止めるというものだった。

 すでに人工の使徒を創る儀式が始まっているのなら、核として動いている魔法使いなり儀式場なりがあるはず。そこだけを守られては戦略的な勝利は望めない。もう一つの目的である『不死鳥聖典』の奪取はひとまず置いておいて儀式を阻むというカトレーユの提案は、ベアル教の陰謀を阻止し、この都を守るという点では申し分のないものだった。

 よしんばルドールが踏み込んだこの広間で儀式が行われていたとしても、そのときは魔力の集中が見られる場所へ向かったカトレーユが引き返してきて、挟み撃ちすればいいだけの話。どちらにしてもアンジェロの企みを破綻させることはできる。

(本命はカトレーユ殿にお任せするしかあるまい。多少考えが読めぬ姫君だが、竜滅姫としての責務には忠実である……はず)

 ルドールは自分の囮としての役割を理解し、外套をはためかせながら氷の礫を避ける。

「儂は当初の目的を果たせばいいだけのようだ。理想的といえば理想的だな」

「戦闘中におしゃべりとは余裕だな! その湖のような瞳に、波紋を立ててくれる!」

「生憎と、波紋ならばもう十分に立っておるよ」

 距離を取ったアンジェロの放つ冷気の渦を、壁際に作った氷の階段を駆け上って避け、ルドールは空中から氷の弾幕を降り注がせる。

「どこを狙っている!」

 氷の矢はアンジェロの身体を避け、周囲を取り囲むように刺さり、弾けた。

氷結の槍よ 王の敵を穿て

 アンジェロはそれを何とも思わず、詠唱付きの魔法を解き放ってルドールの足場を砕いた。

 空中に投げ出され方向転換が出来ないルドールは、さらなる連撃を氷の障壁を張りつつ受け止めながら、地面にできた氷筍の切っ先に着地した。

「まるで軽業師だな」

「お主の方こそ。なるほど、無詠唱と詠唱魔法を混ぜて使うその腕前、大したものだな。が、やはり本質は研究者。戦いの経験はあまりないのだろう」

「そんな戯れ言……なっ!?」

 ルドールが氷の矢を周囲に待機させたとき、ようやくアンジェロは自身の異変に気付いたようだった。氷の魔法の度重なる衝突によって、固まった空気中の水分が地面の上で溶け、水たまりが足下でできていることを。その水たまりが今は凍り、足を縫い止めていることを。

 氷の魔法属性は稀少でエルフのみが持つ。アンジェロはこれまで氷の魔法属性を持つ敵と戦った経験はないのだろう。魔法で生み出した氷は消えるが、元々あった空気中の水分は残ることまで計算して活用しなければ、文字通り足下をすくわれる。

「くそっ!」

 ルドールは呵責ない氷の雨を息子の頭上に降らせた。

 アンジェロは障壁を張るが、それはガリガリと削られていく。
 ルドールは攻撃の手を休めず、次々に魔法陣を展開させ、無数の氷の矢を降り注がせていく。

 それはいっそ残虐ですらある行為。
 動きを封じた上で、敵に逃げる隙も命乞いをする暇も与えぬやり方は、効果的であるからこそルドールの姿を冷たい戦争屋のように見せていた。

 事実、ルドールの戦闘スタイルは戦争の中で確立したものだ。

 今は仮初めの平和を謳っているエンシェルト大陸だが、ルドールがまだ若者だった頃は度々戦争が起きていた。最初は興味本位で、後には親友への友誼のために戦地に赴いたルドールは、そこで敵を機械的に仕留める魔法行使のやり方に慣れていった。

 多くの高位の魔法使いは、無詠唱の魔法で時間を稼ぎ、自分の十八番とする詠唱の魔法をもって敵を倒すというやり方を好む。それが一番優れた戦い方とされているからだ。

 一方で、ルドールのそれは違う。ルドールは詠唱魔法を止めになど使わない。

 じわりじわりと毒を見舞うように、細かい攻撃を断続的に続けることによって相手の動きを封じ、反撃の機会を奪い、冷静さを失わせて傷を増やし、体力と精神を追い詰めたところで自滅させる。

『満月の塔』などの学舎で使うような教科書には乗っていない、エルフの魔法使いを殺し屋に変える戦い方――

 これが使徒フェリシィール・ティンクをもってして、絶対に自分の巫女には勝てないと言わしめた『詠唱なき魔法戦術』であった。

「終わりだ、アンジェロ。お主と儂では、生きてきた年月が違いすぎる」

「黙れ!」

 自分が追い詰められたことを悟ったアンジェロが、これまで以上に魔力をこめ、障壁の代わりに魔法の矢を放った。

 それはあまりにも愚行。
 矢はルドールの放つ矢の雨の前に勢いを削られ、砕け散る。同時に障壁もまた砕け散った。

 そうして、アンジェロの身体に矢が突き刺さるかと思えた――その直前、

――クッ」

 小さく口の端を吊り上げて、アンジェロは顔に浮かべていた強い感情の揺らぎを消した。

 否――最初から演技として浮かべていた仮面を外し、あまりにも穏やかで冷徹な素顔を見せたのだ。

氷の魔神ニスクィアの魔槍よ

 果たして、アンジェロは性懲りもなく、防御を捨てて詠唱を口にした。

 自分の命と引き替えにして、一矢報いるつもりか。

 頭に浮かんだ考えを即座にルドールは否定する。まさか。そんなことを考えている人間が、あのような冷たい――ルドールにまるで鏡を見ていると思わせるほどの表情を浮かべるはずがない。

王の敵を攻め滅ぼせ

 障壁を打ち破ったルドールの魔法の矢がアンジェロに命中するその刹那、白い光が広間を満たし、雷光にも似た閃光が奔り抜けた。

「ぐっ……これは……?」

 背後で轟音が響くと同時に、ルドールはその場に片膝をつく。

 何かがすぐ横を掠めていった脇腹を押さえてみれば、肉が少なからずそぎ落とされていた。傷口は凍りつき、癒しの力を与えてもすぐには塞がりそうもない。

 冷や汗を流しながら背後の壁を盗み見てみれば、破城槌でも打ち込まれたかのような大きな破壊跡が壁に刻まれていた。

 間違いあるまい。この威力。この密度。さらには治癒を阻害する術式まで込められたこれは、ただの詠唱魔法ではなく儀式魔法の領域にある力。決してルドールに油断などなかったが、使える儀式場が存在していることを見逃していたのか?

「あなたが何を考えているか当ててみせましょうか」

 これまでとは打って変わって、穏やかな声、穏やかな口調でアンジェロは怨敵に話しかける。

「儀式場を見逃していたのか、と。ええ、その通り。しかし自分を責める必要はない。儀式場は私自身だったのですから」

「なんだと?」

 通常の魔法を昇華させる儀式場の種類は様々だ。場所そのものが儀式場であるタイプ――前もって魔法陣などを刻んでおくタイプが一番多いが、中には自然環境が生んだ天然の儀式場、あるいは長い年月力を蓄えたことでその機能をもったアーティファクトなどもこれに該当する。

 ルドールはアンジェロの言葉を、この装飾型の儀式場と受け取ったが、すぐに違うのだと気が付いた。

 見れば、アンジェロの魔力値が著しく上がっている。
 そして魔力の渦とも感じられる猛りは、彼の両腕から感じられた。

 アンジェロの両腕には、服の上からでもわかるほど光の線がくっきりと浮かんでいた。まるで血管のように肩口までを覆い尽くしている。

「何らかの施術の類か。一度限りの儀式場を入れ墨として彫り込むことができる付加魔法の使い手がいるとは聞いたことがあるが……」

「一度限りかどうか試してみましょうか」

 両腕を広げたアンジェロが、ゆっくりと上下に円を描くように動かした。
 縦二列に浮かび上がる魔法陣。それが光を発して消えたかと思うと、火属性の炸裂弾もかくやという氷の弾丸が、ルドールの視界いっぱいに広がっていた。

「馬鹿なっ」

 障壁を張りつつ、ギリギリのところでルドールは威力圏内から逃れた。

 そして今度こそ確信する。

「その両腕、永続的な効果を持つ儀式場なのか……!」

「その通り。これこそが『儀式紋』――『狂賢者』ディスバリエ・クインシュが生み出した、魔法使いの次元を一つあげる力です!」

 賞賛の声も高らかに、アンジェロは鳥が翼を広げるように両腕を広げた。

「なんということか。夢物語でしかなかったことを、実現させたというのか」

 ルドールは畏怖をこめて呟く。『儀式紋』の恐ろしさは、ルドールでなくても、魔法使いならば誰もが理解するところだ。

 そもそも前衛がいない状況下では、大幅に戦闘力を失うのが魔法使いというものだ。魔法使いが活躍する戦場とは、詠唱の時間が確保できる、戦術的な働きができる戦場に他ならない。高位の魔法使いならば無詠唱の魔法で戦えるが、それにも限界がある。

 よって、兼ねてより魔法使いの夢として多くの研究が行われていたことが、儀式場の簡略化――儀式魔法を通常魔法として行使する方法だ。これが成功すれば世界中の戦場が変わり、騎士の時代は終わるとすら言われていたが、これは『満月の塔』ですら実用の段階にはほど遠いと言われている、まさに夢のような代物のはずだった。

「儀式魔法の常時化……そんなものを完成させるとは、まさに『狂賢者』よ。ディスバリエ・クインシュ」

「『狂賢者』か。言い得て妙だ。彼女にこそふさわしい威名です」

「もっとも、完璧に完成したとは言えないようだがな」

 両手に輝く『儀式紋』が効力を発揮する度に、アンジェロの両腕の動きが鈍くなり、服の袖が凍りついているのを見逃すルドールではなかった。

「行使にかかる負荷は甚大のようだな、アンジェロ」

「本来ならば遺伝子レベルで施術が必要な代物ですから。このまま使い続ければすぐに両腕は使い物にならなくなる。だが、貴様を葬り去るには事足りる。その上で生まれ変われば何の問題もない」

「やはり、自分が使徒になろうとしていたのか? アンジェロ」

「当然。なぜ他の誰かに譲らなければならないのか? これは私が発見した神の如き――いや、神すら超える閃きだ」

 まるで敬虔な信者が神を讃えるかのような面持ちで、アンジェロは自信を誇示する。

 アンジェロの才能は疑う余地もないが、ルドールにとって問題なのは『儀式紋』の威力でありそれを扱う彼の冷静さだった。

「……怒っていた振りは演技だったのか、アンジェロ」

「怒っているのは本当です。憎んでいるのも当たり前だ。ただ、それでも冷静な自分がそんな自分を俯瞰して見ている。私はそういう人間です。ルドーレンクティカ。他でもない、あなたがそうであるように」

「……確かに」

「どれだけ血のつながりを否定しようと、あなたが私の父であることは変わりない。ならば最大の注意をもって、全力で相手をすべきと考えるのが当然というもの。冷静さを欠いていたのはどちらだったか、今一度振り返ってみるのがいい」

「振り返るまでもない。そんなことにも気付けなかった儂の方だろうな」

「なに、百年ぶりなのですから、気付というのが無理というものではないですか?」

 そんな揺さぶりをかけるような言葉も、微笑みも、全ては計算の上で成り立ったもの。

 つまりアンジェロ・リアーシラミリィという男はこういう男。どれだけ因縁深き相手を前にしても、許せない仇を前にしても、決して取り乱さず感情を爆発させず、機械のように思考する人間。

 そして辿り着いた戦闘スタイルも、冷徹に敵を追い詰め、逃げ場を封じた上で止めを刺すというルドールと同じもの。詠唱魔法を使ったのは、それが『儀式紋』によって一撃必殺の力となるため。予定では先の一撃でルドールの命を吹き飛ばせていたはずなのだろう。

 そういう意味では、容易く『儀式紋』について口を割ったことも恐ろしく見える。

 つまりそれは、たとえこの程度の情報をもらしたとしても、アンジェロにとってこの戦いは勝てると、そう彼の計算は弾き出したということなのだから。

「さあ、ルドーレンクティカ。意識を変えてください。認識を現在に合わせてください。あなたの知っている子供の私はもういない。囮の役目を果たそうとするなどという心構えでは、すぐに死んでしまうよ?」

「やはり、儂が囮であることも見抜いているか」

 何を当たり前のことを、とアンジェロは笑う。

 とすれば、カトレーユが向かった先にも相応の使い手が待っているということか。
 ルドールは手を組んだ姫の安否を祈り、そのあと、意識を完全に切り替えて目の前で佇む強敵にのみに思考を注ぐ。

 目の前にいるのは子供ではない。アンジェロ・リアーシラミリィという、強大な敵なのだと。

「認めよう。お主は儂がこれまで戦ってきた魔法使いの中で、最も強い敵だ」

「そうとも。私は世界全てを手に入れる男なのだから!」

 響く哄笑もどこか作り物の人形のように。
 オルゾンノットの都を襲うドラゴンとは別の脅威は、今まさに牙を剥いた。

 

 


 夫が信頼を寄せたように、ターナティア・リアーシラミリィの実力は確かなものだ。

 アンジェロのように『儀式紋』といった特別な切り札こそ持ち合わせていないが、エルフとしての魔法の素質、魔法使いとしての戦闘能力は、五十年という年齢にしてはかなり上位になるだろう。

 普通の魔法使いは無論、優れた戦士であっても仕留めるないし追い払う程度の技量は持ち合わせていた。

『巫女の間』で始まった襲撃者との戦闘にあっても、ターナティアは優れた技量を見せ、開始から五分経っても生き残っているという快挙を成し遂げていた。

「ぐ……馬鹿な……」

 血を吐きながら、ターナティアは膝を付く。
 
 その身体には打撃を受けたあとが複数見られたが、切り傷のようなものはほとんどない。なぜなら、殺傷ができたときは切断されているときだからだ。ターナティアが相対することになった紅い女の振るう刃は、あらゆるものを切断せしめる刃であった。

「馬鹿な……こんな、こと……!」

 受けた打撃など、所詮は切断へ入る前の当て身に過ぎないのだろう。
 だというのに甚大なダメージを受けたターナティアは必死に立ち上がろうとするが、足腰が笑って力が入らなかった。

 勝負は決した。今こうして首が胴体に繋がっていることを素直に驚いてしまうほどに、両者の実力の隔たりは大きかった。

「ねえ、もう止めない? そろそろ疲れてきたんだけど。あと、もうこの剣じゃ一撃で首チョンパする自信がなくなってきたし」

 圧倒的強者の余裕を見せるカトレーユ・シストラバスは、もう斬る機能を失っているとしか思えない血塗れの剣をげんなりと見ていた。むしろそんな剣で鈍器以外の使い方ができたことが恐ろしい。左の二の腕を出会い頭に切断されたとき、ターナティアが痛みを感じたのは地面に自分の腕が転がったあとのことだった。

 何とか出血を魔法で押さえながら、魔法障壁を全方位に張りつつ、ターナティアは天井を破って入ってきた侵入者を睨む。

 もう、それしかできることはなかった。
 魔法の障壁を解除した途端、自分の首は腕と同じように肉の塊として地面に転がることになるだろう。

 カトレーユが握っている剣がもしもドラゴンスレイヤーならば、今頃自分の命はなかった。今こうして生きていられるのですら、恐らくは手加減されたからだ。

 命乞いをすれば、見逃してもらえるかも知れない――そんな甘い囁きが頭のどこかから聞こえたが、それを認められるほどターナティアが今守っているものの価値は小さくなかったし、この紅い死神に対する恐怖は小さくなかった。

「はあ……強情だね。わたしが用のあるのは、そっちの女の子の方なのに」

 カトレーユが指差すのは、ターナティアが背中に守る『竜の花嫁ドラゴンブーケ』だった。

 一糸まとわぬ身体でぺたりと地面に描かれた魔法陣の上に座り込んでいる。その身体の『儀式紋』が脈動するように光を発していた。瞬きもせずに虚空の一点を見つめ続ける瞳には今、地上で暴れているドラゴンと同じ光景が見えているはず。

共有の全シェアワード]を永続的に行使している『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を、今カトレーユに渡すわけにはいかない。

 あと十五分で解読が終わり、アンジェロと自分の夢が叶うのだ。
 今は腕と共にエンゲージリングが切り離されたとしても、誓った愛にかけて、ターナティアは屈するわけにはいかなかった。

「『竜の花嫁ドラゴンブーケ』は渡さない。これは私と夫の愛の結晶だ!」

「それが子供に対するものならかわいい発言なのに。それがもたらす功績を願ってじゃ手加減する気にもならないね」

 そう言って、カトレーユは無造作に剣を振るった。

神殿の柱よ

 そのタイミングを狙って、乾坤一擲、ターナティアは障壁を解除して右手を床につけ、地面から巨大な水柱を生み出した。

「む?」

 カトレーユの握る剣の刃は、全ての魔力を注ぎ込むつもりで圧縮した水の勢いにはね除けられ、近くの石柱に向かって逸れた。さらに刃は石柱を半ばまで両断したところで止まってしまった。ついに切れ味がカトレーユの技量を下回ったのだ。

裁きの柱よ

 油断して得物をなくしたカトレーユを嘲笑い、ターナティアは水の柱をハンマーに変え、正面目掛けて解き放った。

 前方を扇状に押しつぶした水のブレスは、しかし突如現れた熱を発する剣によって蒸発させられる。

 見れば、途中で止まったはずの石柱が最後まで切断されていた。
 それを成し、今カトレーユが持っている剣は燃えていた。まるで[発火付加エンチャント]を施されたかのように。

 炎は一瞬で消え、あとに残ったのは前よりも刀身が小さくなったが、美しく磨かれた剣であった。

「あり得ない……この一瞬で、剣を鍛え上げたっていうの……?」

「ん〜、そんな大したものじゃないよ。燃やして固めただけの、石でできた包丁みたいなものだし」

 それでもこの女は、その包丁であらゆるものを切断することができる。ならば、今彼女の手にあるのは魔剣である。

「さて、切れ味を取り戻したところでもう一度訊くよ。――そこをどいて。じゃないと、今度は手加減しないから」

「ひっ……!」

 死刑宣告を受けたターナティアは喉を引きつらせた。

 後退り、お尻が『竜の花嫁ドラゴンブーケ』の手を踏みつける。
 それでもソレは痛みを訴えることも、顔色を変えることもなかった。

「こんな……」

 ふいにターナティアの胸の内に理不尽な怒りが湧き上がってくる。そうであることが求められ、自分たちがそうしたとはいえ、母が必死に守ろうとしているというのに、なぜそんなにも無機質な視線を向けるのか?

 あるいは、それは守ることを止めたいと欲する心が生んだ雑念か。
 愛する人への証と自分の命が天秤にかけられたとき、僅かであるとはいえ、ターナティアの女としての心に隙間が生じる。

「別にいいじゃない。確かに君は旦那様のことが大好きみたいだけど、ほら、それとこれとは話が別でしょ?」

 その隙間に切っ先を突き立て、こじ開けるようにしてカトレーユが声をかけてきた。

「あ、ああ……」

 ターナティアはその女神もかくやという美しさに心が折れそうになって、


――いいえ。それとこれとは話が別などではありませんよ」


 身体を後ろから、そっと誰かに支えられた。

 振り返れば、そこには細い手でしっかりと支えてくれているディスバリエの微笑みがあった。いつも笑っている彼女に常日頃は気持ち悪さを感じていたターナティアであったが、その微笑みを見た瞬間恐怖が和らいだのを感じた。

「お待たせしてしまって申し訳ありませんわ。少々立て込んでおりましたので」

「い、いや、よく間に合ってくれた」

 どうやらディスバリエはカトレーユもやってきた、上の階からまっすぐ掘り進められた天井の穴を通って駆けつけてくれたらしい。

 ターナティアは、この仲間でありながら仲間でなかった女に心の中で感謝し、前と後ろで『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を守りながらカトレーユに向き直った。

「貴様の言葉に共感するのは反吐が出るが、私の愛は夫の夢を守ることと同義だ。切り離してなど考えられない」

「へぇ」

 確固たる返答に対し、カトレーユの答えは刃で返ってきた。

 一歩踏み込む足は軽く滑らせるように。
 まるでその辺りの公園を散歩しているかのような足取りで近付いたかと思うと、ターナティアの首めがけて剣閃が奔る。

 ダメージが回復したわけではなかったターナティアは、これまで以上のその速度に反応しきれなかった。僅かに首を傾けるので精一杯で、

「ダメですよ。カトレーユ」

 防いで見せたのは後ろから手を出したディスバリエだった。
 彼女の手が、それ自体が強固な城壁のように刃を押しとどめていた。正確には、その直前で止められている。

 ターナティアが全方位に展開していた障壁と同じものを、手のひらの一点に集中して張っているのだ。それならばその防御力は、全方位に展開したときの比ではない。

 問題は、少しでもずれれば腕を失ってしまうということだ。それなのに躊躇なく実行したその胆力が、何よりターナティアには恐ろしく見えた。

「ここで彼女を殺すことに何の意味もありません。無意味な殺生をするのでは、ただの殺人鬼ですよ」

「言ってくれるね」

 剣を引いたカトレーユは後ろに跳び、軽やかに着地してみせる。

「こっちは色々と女としての尊厳が踏みにじらせそうになった恨みがあるんだよ。ほら、わたしって良妻賢母じゃない? ある意味それがアイデンティティーみたいなとこあるし。一応そこは守っておかないとね」

「意味がさっぱりわかりませんが、とりあえずごめんなさい」

 ディスバリエは一歩前に進み出ると頭を下げ、そのあとターナティアに瞳を向けた。

 そのときになって初めてターナティアは、いつも瞳を閉じていた彼女が、しっかり目を開いていることに気が付いた。蒼い瞳は澄んだ色をたたえており、それが安心させる一役をかっていたのだろう。

「ターナティア。ここはあたくしに任せて、アンジェロのところへ行ってあげてください」

「あの人のところに? しかし、私は『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を……」

 言葉尻が弱くなってしまったのは、安心させるように微笑むディスバリエの顔があまりにも穏やかだったからか。

 まるでアンジェロの浮かべる微笑みのよう。いや、瞳を開いたことでどこか幼く見える彼女は、アンジェロというよりも『竜の花嫁ドラゴンブーケ』によく似ていた。

「……わかった」

 だからというわけではないが、ターナティアはディスバリエの申し出に頷いた。少なくとも、ここでカトレーユの相手をしても倒せない。

「だが、もしも『竜の花嫁ドラゴンブーケ』を失えばどうなるか……わかっているな?」

「ええ。クーヴェルシェン・リアーシラミリィはあたしにとって大切な身体。大切に、大事に、絶対に守ってみせます」

「……その言葉、信じるぞ」

 ターナティアはなくした腕を庇いながら、その場をディスバリエに託して背後の通路へ駆け込んだ。

 カトレーユの視線から逃れたところで、背中に汗が滲み、ともすれば倒れそうになるほどの脱力感に苛まれる。それをぐっと堪え、今も戦っている夫のためにターナティアは急ぐ。 

 


 

       ◇◆◇

 

 


 クロードとボルギィの戦いは、ボルギィの勝利で終わろうとしていた。

 否――終わっているはずだった。

 助けに駆けつけたときからクロードは負傷していたし、いかな威名を轟かせた相手とはいえもう老雄。得物を失った時点で、ボルギィの大剣を耐え抜けるはずもない。

 だというのに……

「うぉおおおおおおお――――ッ!!」

 叫び声も雄々しく、クロードは折れた剣を振るう。

 砕かれた甲冑からのぞく腹部は赤茶色に変色し、肩からは夥しい血が流れている。もう握力など残っていないだろうに、振るわれる剣にこめられた熱は、まるで全てを溶かしてしまうかと錯覚するほど。

 死にものぐるい。

 そんな言葉がふさわしい、圧倒的に有利のはずのボルギィが攻めあぐねるほどの猛攻。

 すでに決まったはずの勝利は、しかし今なおボルギィの頭上に輝かない。ここまま戦い続ければ、負けるのは自分の方だとすら思わせる。

「なんだこれは……?」 

 実際、このまま戦いが長引けば、そう遠くない内に援軍が駆けつけるだろう。今この時点でクロードしか立ちはだかっていないことが、運がいいのだ。

 クロードを倒し、彼の後ろで震えている幼子を殺さなければ……。

「迷いがあるようじゃな」

 雄叫びをあげていたクロードがもらした一言に、一瞬ボルギィの巨体が揺らいだ。

 しまったと思ったときには、二つの斬撃が肩と頬の肉を削いでいた。
 獣のような眼光はそのままに、クロードは口元に悪童のような笑みを浮かべている。

「おお、どうした、小僧。老兵一人倒せぬのか?」

「抜かせ――

 死に損ないが何を吠えているのか?

 そう続けようとしたボルギィだが、悠然と立つクロードの姿に言葉にはできなかった。

 吹けば倒れるような身体ながら、倒せる気がしない。クロードが持っていた剣がかのドラゴンスレイヤーだったならば、今頃自分の命はなかっただろう。彼の半ばまで折れた剣が、彼の血で濡れて紅く彩られるようになった今、クロードから醸し出される雰囲気は肌に痛いほど。

「…………」

 剣を下段に構えたボルギィは、そのまま押し黙る。

 力が入った腕がギシリと音を立てる――その音を合図に、再び両者は激突した。

 様子見などこの段階に至ってはあり得ない。ボルギィはその豪腕による力業で、クロードは経験則を活かした技術で押し通そうとする。狭い廊下で、数秒の内に数え切れないほどの激突が起き、いくつもの火花が飛び散る。

「くたばれ!」

 二人の刃が噛み合ったところでボルギィは、刀身を滑らせて手首を狙うクロードの身体を、腕力だけで押しのけた。

 さらに大きく剣を振り上げ、袈裟懸けに振り下ろす。
 大剣が一番の力を発揮する、その重量に物を言わせた一撃が、ついに精神力ではどうにもならない疲労で足を鈍らせたクロードに襲いかかった。

 ギリギリのところで盾にした剣が、衝撃で今度こそ粉々に砕けた。
 狙いが僅かにそれた大剣の切っ先は、それでも深々とクロードの胸元を抉り、鮮血を飛び散らせる。

「おじーさまぁ!」

 リオンが悲痛な叫び声をあげた。

 時間はかかったが、辿り着くべきところにこの戦いは辿り着き、

「ほっほ、若いの」

 砕け飛ぶ剣の破片の一つを掴み、ボルギィの肩にクロードは突き刺した。

「がっ!」

 すぐに懐に入りこんできたクロードを蹴り飛ばす。
 クロードは今度こそ床の上に倒れ込んだが、ボルギィの受けたダメージもまた甚大だった。

「ぐ、ぎっ……」

 左肩の根本に突き刺さった親指大の破片を見て、ボルギィは引き抜くことを諦めた。左手がほとんど動かない。破片は肩当てと骨の間を縫って、さらに内側に突き刺さっている。神経系をやられたらしい。今下手に引き抜こうものなら、二度と腕が動かなくなるかも知れない。

 ボルギィの大剣は両手で操ることによってようやくその重量を活かしきれる代物で、片腕しか使えない今戦闘能力は半減させられた。しかし、子供一人を殺して逃げるくらいはできるはず。

「恐ろしい男だ。クロード・シストラバス」

 床に大の字で倒れ込んだクロードを、ボルギィは畏敬を幾分か含んだ視線で見下ろした。

「おじーさま! しっかりしてください、おじーさま!」

 血溜まりを作るクロードは、瞳を閉じて動かない。最後の一撃は致命傷であり、たとえここに治療系の魔法を使える人間がいたとしても助けられはしない。そこにいるのは逃れられない死に捕まった人間だ。
 
 戦いは終わった。これ以上はあり得ない。そうボルギィが判断するのは当然のことで、

「……泣くな、リオン。お前が騎士になりたいというのなら……」

 だがしかし、そんな死神に狙われた誰かを助けるために、そういえばボルギィはここへやって来たのではなかったか?

「馬鹿な」

 あり得ない。と、そう続けることはできなかった。

 なぜならば、実際に孫娘に揺すり起こされたクロードは立ち上がっていた。手を貸してもらうでもなく、自分の力だけで。

 ボルギィは慌てて右手一本で剣を構える。

 たとえ起きあがることができても死に身体だ。もう一撃、あと一撃喰らわすことができれば今度こそ死ぬはずだ。多くの戦場を経験してきたが、こんなに傷を負ってまで生き延びた人間はいないのだから。

 しかし……それを言うならば、そもそも最初の一撃を食らわした時点で、もう彼は起きあがって来られないはずなのだ。

「どうしたね? 小僧。もしや怯えておるのか?」

 立ち上がったクロードが、穏やかな声で話しかけてきた。まるで多くの人たちに囲まれて死に行く老人のように、戦場で敵に向けるものには似つかわしくない笑みを浮かべている。

 それは恐怖だった。明確な恐怖であった。死んでいるはずのものが動いている。

「馬鹿な。なぜその傷で動ける? シストラバス家の竜滅姫は特別だが、その番は、元を正せばオレと同じ普通の人間のはずだろう?!」

「なに、昔悪魔と契約して、やるべきことをやらねば簡単に死ぬことも許されなくなっただけじゃ。つまりは孫娘を守るためならば、まだ戦えるということよ」

 クロードは足下で自分を見上げるリオンの頭を軽く撫でたあと、再びボルギィに向き直った。
 その瞳は炯々と光を発している。比喩ではなく、クロードの右目は迸るような黄金の光で満たされていた。

「どうやら貴様も大事な誰かのために戦っておるようじゃが……今の貴様の姿を見て、その人がどう思うか、今一度よく考えて見るといい」

「黙れ! オレにはもうこの道しかないのだ!」

「……黙れ、か。確かにこれはワシの言うべきことではなかったか」

 痛いところをつかれて叫んだボルギィに対して、クロードは自嘲を含んだ笑みを浮かべた。

「その姿には見覚えがある。他でもない、かつての自分を見ているかのようじゃ。死ぬしかない大事な者を助けたいのに、何もできない無力な自分を呪い、救うためならばどんな非道に手を染めようとも……たとえ悪魔に魂を捧げようとも構わぬと思った自分とそっくりじゃよ」

「ならばわかるはずだ! 今更言葉に意味はない、ただ戦うしかないと!」

「そう。ワシには貴様を責める資格などない。悪魔と契約を交わし、また同じものを娘にも強要して、死の運命より救ってしまったワシにはな」

「なに?」

 クロードのその言葉だけは、ボルギィは聞き逃してはいけなかった。

「救ってしまった、だと? 貴様は後悔しているのか? 娘を死の運命から解き放ったのだろう? それを……!」

「後悔などしておらん。十年前のあの日が訪れたなら、ワシは何度でも同じ選択をするだろう。
 ……だがな、ワシと同じ道を選んだ者よ。確かにあの日娘は病より解放されたが、同時にワシはあの子の父親ではなくなってしまったのじゃよ。悪魔との取引で繋いだ命ならば、決して前と同じように触れ合えるとは思わないことじゃ」

「……たとえ、そうだとしても」

 ボルギィは剣を握りしめ、クロードを見返した。

「そうだとしても、オレはあいつに生きていて欲しい。あいつが笑ってくれるなら、それでいい」

「……そうか」

 一瞬、クロードは憐憫の表情を浮かべた。そのあと首を一度横に振ると、

「では、貴様の言うとおり言葉はこれ以上不要じゃな」

 自然な足取りで瓦礫の下敷きになったまま息絶えていた騎士に近付き、その亡骸から剣を拝借した。

「貴公が剣。貴公が魂。借り受けるぞ、誉れ高きシストラバスの騎士よ」

 あまりにも自然に拾い上げたため、ボルギィはアクションを起こすのが一瞬遅れた。戦いの最中、ずっとその行動をさせないよう立ち回っていたというのに。

 クロードが武器を――しかも十全の力を発揮できるドラゴンスレイヤーを手に入れた意味を理解したときには、すでに彼は鞘から剣を抜いていた。

 磨き上げられた、真紅の剣。

 鍔にはシストラバス家の不死鳥の紋が刻まれており、まるで亡き担い手とその意志を引き継いだ新たな担い手を誇るように、力強く翼を広げていた。

「さあ、小僧――否、このワシを殺してみせた強者よ。これより先は騎士の決闘。礼儀を尊ぶ神聖なる戦いじゃ」

 ボルギィと同じように動かないはずの両手で剣を握りしめ、これまでよりも凄烈に、力強く、クロードは切っ先を持ち上げた。

「さあ、全身全霊をもって、我が魂の残り火に応えてみせい!」
 
「……くだらん」

 熱すぎる声に、ボルギィは視線を僅かに逸らして自嘲する。

「決闘だと? 騎士だと? このオレがそんな上等なものに見えるというのか!?」

「喝ッ! 情けないことをいうでない! この騎士の中の騎士たるクロード・シストラバスを殺したものが、応とも、騎士でないはずがなかろう。貴公が認めずともワシが認める。――貴公は騎士よ」

 そのとき、ボルギィの胸に込み上げたものは一言では説明できなかった。

 清廉潔白な相手に認められた歓喜。
 子供を殺そうとする自分への憤慨。
 敵を認められるこの老雄への羨望。

 そして妻を助けるためにここまで来たのに、この期に及んで躊躇ってしまう自分への絶望。
 
 ……なぜだろう? 騎士というのはボルギィの人生においてまったく関わりのないもののはずなのに、こんなにも胸が高鳴るのは?

 その疑問への答えは出ないままに、ボルギィは肩に刺さっていた破片を引き抜いた。

 身を裂く痛みに耐え抜いて、左手に少しとはいえ握力が戻る。それはただ正しい機能か壊れた機能かを脳が判別できていないだけかも知れないが、今このときに両手が動かせなければ、一寸先に待っているのは死である。

「リオン。下がっていなさい」

 呼応するように両手でグリップを握り、大剣の切っ先を持ち上げたボルギィを見て、クロードが鋭い声でリオンに言った。

 リオンはその瞳から真珠のような涙を零していた。
 彼女には何かがわかっているのか。縋るように一度祖父の手に触れてから、

「……おじーさまは、わたくしにとって、誰よりも偉大な剣の師でした……」

 子供離れした言葉で讃え、この場から離れた。

「ははっ、嬉しいのぅ」

 クロードは孫からの褒め言葉に顔を崩すと、

「そう言われてしまったら、なんじゃ、年甲斐もなくはしゃいでしまいそうになるのぅ」

 それを騎士の顔へと引き締めたとき、

「シストラバス侯爵家が騎士――クロード・シストラバス。貴公の名は如何に!」

「……ボルギネスター・ローデ。『破壊者』と呼ばれた、しがない傭兵だ」

 それが決闘の始まり!

 誰何の声に返された名乗りに満足して、クロードは剣を正眼に持ち上げたまま斬りかかった。

 ボルギィはその場で深く腰を落とし、重心を安定させると、身体を捻るようにして剣を後ろに構え直した。

 今の左手の握力では、最後の力を振り絞ってくるクロードの一撃を受け流せない。あの剣が万物を切り裂くドラゴンスレイヤーである限り、受け止めるなど持っての他。よって、ここで取るべきは迎撃の構え。クロードが振り下ろすよりも早く、振り上げた剣でその身体を薙ぎ払うしかない。

 身体の捻りに合わせ、柄を握る手に全エネルギーを収束させる。
 さながら弓兵が構える弓のように、敵をギリギリまで引きつけるまでを、己の中の恐怖心と戦う。

「おぉおおおおおおおオオオオ――――ッ!!」

 解放の瞬間を待ち侘びる迎撃の刃へと、今まさに騎士の魂が振り下ろされる。

「かぁああああああアアアアア――――ッ!!」

 それよりもコンマ数秒早く、ボルギィの剣が跳ね上がる。

 両者共に、人生において魂の限りを尽くした一撃。
 その交差の結末を把握し、見届けたのは、小さな少女ただ一人だけ。

 

 


 ――つまり、もうおじーさまの身体は限界を迎えていたのだろう。

 リオンの幼い目に映った一部始終は、あまりにも美しく、あまりにも悲しかった。

 先に剣を振り切ったのはクロードの方。
 迎撃のカウンターがその首を刎ねるより早く、紅い刃は敵の肩口へと吸い込まれた。

 しかし、その刃が切り裂いたのは甲冑と皮一枚。クロードの手から零れたドラゴンスレイヤーはそれだけを切り裂いていった。

 もはや、全力での振り下ろしに耐えうる握力など、クロードには残っていなかったのだ。一度ならず二度立ち上がったときには、もう半分以上が死んでいた。あるいはそこには何かしらの奇跡が起きたのか。それでも、剣も持たずに死ぬことを恥だと身体が勝手に動いただけで、そこに戦う力を求めるのは間違っている。

 結果として、剣を振り下ろす直前にクロードは息絶えて、その首は、決して敗北を知らずに宙を飛んだ。

 元より、敵の得物は打ち砕くもの。鋭利な切り口など求めようもない。顔の半分が砕けた祖父の首が、リオンがいる目の前の地面に落ちる。

「っ!」

 その口元が、それでも満足そうに笑っていたのを見て、リオンは弾かれるように飛び出していた。

 首をなくしたクロードの身体を目隠しにして、リオンは敵の亡骸を受け止めたボルギィの股下へと身体を滑り込ませる。そこに落ちていたドラゴンスレイヤーを拾い上げると、距離を取って構えた。

 初めて持った本物の剣は、想像していたよりもずっと重かった。

 リオンの身体の倍以上はある長剣だ。柄のできるだけ鍔に近い根本を持ったとしても、持ち上げることはできない。が、それでも自分を守って死んだ二人の騎士の魂がこめられた刃を地面につけることだけは許せなくて、手を震わせながら必死に堪える。

 それはさぞや滑稽な格好だったろう。
 怒りに魂を震わせ、無力に心を震わせて、恐怖に身体を震わせた子供がいただけなのだから。

「……おじーさまの、仇……!」

 倒れた祖父の身体に手を触れたとき、リオンはこうなることがわかっていたが、それでも憎しみは隠せない。

 勝っていた。勝っていたのだ。

 本来なら、首をなくしているのはこの男の方のはずだった。勝っていたのは偉大な騎士のはずだった。だからリオンはこの決着に納得がいかなくて、男が勝ち誇るのが許せなくて、小さな声を張り上げ、持ち上げるのだけでも難しい剣を構えて斬りかかっていった。

「あっ!」

 突きを放つ形になった刃は、しかに容易くボルギィがこづいたつま先に弾き飛ばされた。痺れが手元まで伝わって、ドラゴンスレイヤーが滑り落ちるのと共にリオンは膝をつきかけるが、何とかそれだけは堪えた。それが幼いリオンの矜持だった。

「…………」

「…………」

 自分は、ここで殺されるだろう。

 無言で見下ろす男の冷たい視線に、リオンは負けないように睨み返す。恐怖に涙腺と下半身が決壊しそうになるが、ぐっと我慢する。

 ややあって、ボルギィが口を開いた。

「……オレは、勝ったのか? それとも、負けたのか?」

「え?」

 その意味がリオンにはわからなかった。
 しかし、ボルギィは声に出すことで何かを納得したのか、口元に小さな笑みを浮かべる。

「勝負に勝って戦いに負ける、か。何がオレは騎士にふさわしいだ。何が決闘だ。そんなもの、所詮は自分が死んだあと、守りたかったものを守らせようとする枷に過ぎないくせに」

 なぜかはわからないが、ボルギィは勝ち誇ってはいないようだった。むしろ泣き笑いのような顔をした彼は、リオンには敗者ように見えた。

「…………」

 再び無言でリオンを見て、ボルギィは近付いてくる。

 手には剣。不思議なもので、ほんの少し前まではあんなにも怖かったのに、ここまで来ると恐怖が嘘みたいになくなった。むしろ不思議な安堵すらある。自分はここで死ぬわけがないと、誰かが耳元で囁いているかのようだ。

 そしてそれは正しかった。ボルギィはそのままリオンの横を素通りして行く。

「わたくしは!」

 その背に、リオンは声をかける。

「わたくしは、おじーさまみたいな立派な騎士になりますから!」

「……そうか。ならば、次は名乗りをあげてみせろ。騎士は、敵に剣を向ける前に名乗るものだ」

「あなたに言われるまでもありません! 覚えておきなさい! わたくしはリオン・シストラバス! あなたという騎士を倒して、おじーさまの仇を取る者ですわ!」

「……オレはボルギネスター・ローデ。破壊者だ」
 
 騎士ではないと、そう破壊者は告げて、最後に一度振り向いて小さな騎士を見た。

「……いい騎士になるな」

 何か尊いものでも思い出したかのように笑みを浮かべて、祖父の仇は去っていく。

 リオンはその背が見えなくなるまで、報復の誓いを胸にずっと睨み続けていた。

 

 


 シストラバスの居城から何とか抜け出すことに成功したボルギィは、近くに隠れて待っていたギルフォーデを見つけた。

「やぁ、ボルギィさん。待っていましたぁ。待っておりましたよぉ」

 ギルフォーデはただでさえ細い目をさらに細め、口の端を吊り上げて嗤っていた。

「それで、もちろんリオン・シストラバスは殺してきてくれましたよねぇ?」

「……いや、できなかった」

「おやぁ?」

 早速成果を問い質してきたギルフォーデに、リオンを殺せなかったことをボルギィが告げると、笑顔はそのままにピクンとギルフォーデは眉を上げた。

「おやおやおやぁ? 良ろしいのですかぁ? 彼女を殺さなければ、あなたの奥方の治療はしないと約束したはずですよぉ? いわば、ボルギィさんに託した任務とは、リオン・シストラバスの命を愛するミステルさんに注ぐも同然の行為。それを失敗したということは、ええ、これはもうミステルさんは助からないということですねぇ?」

「ぐっ」

 歯を食いしばって、当然待っていた結末にボルギィは耐える。

 ここで謝れば次のチャンスがもらえるというのなら、ボルギィは喜んで頭を下げただろう。足を舐めろと言われれば、涙を流して跪いただろう。しかし、それがリオンの命と引き替えになるというのなら、ボルギィにはできない。

 それは自分の矜持ではない。この世界の、決して違えてはいけないルールの問題だ。

 クロード・シストラバスはその命を費やして、ボルギィに孫娘を殺さないよう聖約をかけたのだ。それは確かな力を持つ呪いに等しく、結果として、誰も立ち塞がるものがいなくなったのに、リオンを殺すことができなかった。

 あるいは、クロードの聖約だけならば何とかなったかも知れないが、あんなにも小さな少女が、そんな騎士の輝きを必死に守ろうとする姿を見せられたなら、しょうがないじゃないか。

 それが妻――ミステルの命と引き替えにできるものなんて思わないけれど、ボルギィは思う。もしもここでリオン・シストラバスを殺していたら、ミステルの肉体は助かったとしても、その心を殺すことになっただろうと。

 クロードの言葉が今なら理解できる。きっと彼は大切な人の命を救った代わりに、その心に消えない傷を残してしまったのだろう。

「…………わかりましたぁ」

 ボルギィの葛藤を察したのか、ギルフォーデは肩をすくめた。

「わかりました。わかりましたよぉ。まあ、私としましても、ボルギィさん一人でリオン・シストラバスを抹殺するというのは現実的な話じゃないと思っていましたし、今回は仕方がなかったことだと諦めることにします」

「っ!? またオレにチャンスをくれるのか!?」

「ええ。これから先、ボルギィさんには末永く私に付き合ってもらいますよぉ。なんていっても――

 ギルフォーデはにこやかに笑って、

――もうすでにミステルさんの病気は治してしまったりしますからねぇ」

 それがどういう意味か、理解するまでにボルギィは一分ほど時間を必要とした。

「お、おお……」

 ボルギィは理解した瞬間、涙を流して手から剣を取り落としていた。

 すでに治療済み――ギルフォーデの言葉は、まさに殺人鬼にまで堕ちようとしたボルギィにとっては望むべくもない救いの一言であった。

「ありがとう。ありがとう! ああ、何でもやろう。何でもやり遂げる! 何でも命令してくれ!」

 どうやら、自分はギルフォーデという男をその噂から誤解していたらしい。
 鬼畜外道の類と思っていたが、その実、誠意ある医師であったのか。思えば、彼の経歴にある血塗られた逸話も、人を助けようとする意志が暴走したとも取れる。

「ああ、良かった。良かった。ミステル……本当に、良かった……!」

 喜びを噛み締め、ボルギィは泣き崩れる。

 その姿を天使もかくやという微笑みで見下ろし、ギルフォーデは朗らかに言った。


「いやぁ、ミステルさんには病気を治す代わりに化け物になってもらったわけですが、まさかこんなにも喜んでもらえるとは思っていませんでしたよ、はい」


 それがどんな意味か理解するのに、今度は都合一分ほど時間を必要とした。

 理解したときにはすでに遅かった。

「ギルフォーデ! 化け物とはどういう意味――

 激昂し、剣を拾い上げて詰め寄ろうとした矢先、ボルギィは全身がまるで石化の呪いにかかったように動かなくなった。

 同時に、声も枯れてしまったように出せなくなる。

「ク――

 そんなボルギィの慌てふためく様を見て、

「クヒッ、クヒャヒャヒャヒャ、ウヒッ、イハハハハハハッハハッハハハアハハハ、アハハハハハハハハハッ!!」

 ギルフォーデは腹に手を当て、大口を開けて笑い転げた。

 つまり、ボルギィはギルフォーデという男を勘違いしていたのだろう。
 この男は鬼畜外道という罵りも褒め言葉に聞こえるほど、芯から腐りきった狂人なのだ。たとえ世界最高の治療術師であっても、決して治療を頼んではならない悪魔だったのだと。

 今、ミステルがどのような姿であるか思うだけで、ボルギィは死にたくなった。しかし、実行する機能すらすでに剥奪され、身体は動かない。

「安心してくださいよぉ。あなたも奥方と同じように、立派な化け物にして差し上げますから。ええ、働いてもらいます。殺して殺して殺しまくってもらいますよぉ。優しいあなたがそのとき何を考えているか想像しただけで……ああ、これを今回の任務の失敗への罪滅ぼしとしてもらいましょうかねぇ」

 意識も白濁し、世界が暗闇に閉ざされていく。

「おっと、しかし恨むのはご勘弁を。私は頼まれていた病気は治して差し上げたのですからねぇ」

 その前に、殺意と憎悪で己を塗りつぶしたボルギィは、全ての願いをこめて、その賞賛を振り絞った。

――この、裏切り者め」

 それが自分が騎士より与えられた賞賛のように。
 いつか悪魔を滅ぼす呪いとなるように。









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