Epilogue

 


 英雄の丘で亡くなった妻と娘を想い、ゴッゾは考える。

 オルゾンノットの魔竜事変が終わりを告げたあのとき、リオンに抱いた確信は現実のものになってしまった。ゴッゾも、騎士たちも、彼女が愛した少年も何とか止めようとしたが、その結末を変えることはできなかった。

 カトレーユに続いてリオンまでも失ってしまったとき、ゴッゾは自分が絶望に沈んでしまうものと思っていた。世界から紅色が完全に消えて、無気力に、ただ自分の無力さを嘆きながら死を迎えるものと。

 だが、こうして妻と娘を失ったゴッゾは、しかし確かな生への希望を持っていた。

 痛みも悲しみもある。世界に対する罵詈雑言も。だが、絶望してはいられない。確かに最愛の妻も娘も守れなかったが、まだゴッゾには守らなければならない家族がいるのだから。

「カトレーユ。リオン。私はこの世界を醜いとは思わないよ。なぜなら、私にはまだ虹の光が見えているから。その光が消えてしまうまでは……ああ、まだまだ休んでなんていられないようだ」

 花を手向け、誓いを新たにゴッゾは墓前から立ち去る。

 そう、親友が言った通りだ。娘が結ばれた相手もまた、ゴッゾにとっては子供なのだ。
 リオンは最愛の人と結婚してから、カトレーユがいる場所へと旅立った。ならば、ゴッゾにはまだ家族が残っている。

「息子を支えてみせるよ。自分一人でなんてもう言わない。二人もそこから見守っていてくれ。私は彼を心配する多くの人たちと共に、この世界の美しさを守り続けよう」

 かつて、野心のためだけに生きていた青年はもうそこにはいない。いるのは家族を守るため、何もできなくても足掻き続ける一人の男がいるばかり。

 名を、ゴッゾ・シストラバス。

 竜滅姫カトレーユ・シストラバスの夫であり、竜滅姫リオン・シストラバスと使徒ジュンタ・サクラの父である。






 ――そんな気高き男の姿を、近くの木の木陰から見守る少女がいた。

 薄茶色の髪にホワイトブリムをつけた、エプロンドレスの少女だ。胸の上に両手をあて、銀縁眼鏡の奥の潤んだ翠眼に、強く、強く、悲しみと怒りを堪えている。

 少女――ユース・アニエースは、自分がこの場所で見たゴッゾの悲しみと強さに、あまりにも強い衝撃を受けていた。

「こんな、こと……」

 なぜなら、ユースは知っている。ゴッゾが知らない真実を知っていた。

 オルゾンノットの魔竜事変。そして『封印聖戦』……その両方の真実、喜劇という名の悲劇が演じられる舞台袖で描かれていたシナリオを思えば、その誓いがあまりにも無意味だと理解できて、胸がはち切れそうだった。

「違います。カトレーユ・シストラバスは、あなたが思うような女ではない……。リオン様の死は、あなたが思うような幸せな終わりではない……」

 ゴッゾの姿が完全に見えなくなるまで心臓の発作を堪えるように待ち、ユースはふらつく足で墓標の前まで行き、力無く膝を付いた。

 胸にはただ、後悔。

「私があなたを選ばなければ……そんな悲しみを背負わせることは、なかったのに……!」

 死神と出会ってしまったとき。どうして、あんなことを願ってしまったのだろう?

 ユースはかつて、自分の血脈に眠る『主人』と契約を交わしてしまった。
 毒竜に呪われた少女は死にたくなくて、不死鳥は血が途絶えてしまうことを忌避したことにより、契約は結ばれた。

 結果、ユースはユース・アニエースとして第二の生を受けることになり、彼女は途切れてしまった従者の人生の残りを――カトレーユ・シストラバスという名前と姿を引き継いだ。

 そのとき、ユースはカトレーユ・シストラバスと呼ばれていた頃に胸に秘め続けていた、自分をかつて助けてくれた王子様と結ばれたいという気持ちを、せめて代わりに果たして欲しいと彼女に願ってしまった。血が残せれば相手は誰でも良かった彼女はそんな願いに応え、淡々と、ゴッゾと結ばれて子供を生んだ。

 そのことに喪失感を覚えなかったといえば嘘になる。
 良かれと思って願ったその結婚は、ユースの中からカトレーユ・シストラバスだった頃の恋心の生き場所を失わせてしまう形となったから。

 それでも、まだ、許せた。

 契約した通り、ユースは彼女の生んだ双子の子の妹として新しい人生を始めることができたし、自分の全てを奪う形でしか救おうとしてくれなかった彼女を恨んではいたが、与えてくれたものの大きさを思えば、それ以上に感謝していたのだから。

 けれど、彼女は裏切った。
 新たな人生。その全てを賭けてもいいと思ったユースの忠誠を、最悪の形で裏切ったのだ。

「……どうして、ですか……?」

 憎しみを呪いに変えて、ユースは自分に語りかける。自分の血脈に眠る、怪物に。

「どうして、なんですか? どうしてリオン様を……愛していたのではなかったのですか? 守ろうとしていたのではなかったのですか?」
 
――さて』

 怪物はいついかなる時もユースの心の中で全てを見ている。彼女は魂へ直接語りかけるように、心の中で言葉を発した。

『難しい質問だね。リオンのことは守ろうとしてたわけだから』

「だったら!」

 ユースは叫ぶ。そう、ユースが許せないのはたった一つのこと。

 たとえ彼女が処刑者であり、現存する『金糸』と『翡翠』の使徒を除き、メロディア・ホワイトグレイルからスイカ・アントネッリまでの使徒をその手にかけたとしても。一度はジュンタすら殺しているとしても、それだけならばまだ許せた。少なくとも、彼女の一番大切なものを守るためだったと、そう解釈することはできたから。

 だが……この女は、その一番大切なものを事も無げに切り捨てた。

「答えてください。どうしてあなたは自分の娘を――

 その事実に理由を求め、ユース・アニエースは問い掛けた。






――リオン様を殺したんですか?」






『不死鳥聖典』の真実とは、即ち、不死鳥の使徒をこの世界に呼び寄せるための鍵に過ぎない。

 聖句をもって呼びかけられたとき、『従者』の血脈に宿る『主人』は、聖典に封じられた神獣の姿を取り戻してドラゴンを滅ぼす。そうやって世界を救ったあと、代価として、また使徒の聖骸聖典とはそういうものだという認識を植え付けるため、喚び出した竜滅姫を殺して消える。

 そこにあるのは不死鳥の自由意志による選択だ。竜滅姫は決して『不死鳥聖典』の力によって生け贄となるのではない。喚び出された不死鳥によって、生け贄として殺されるのだ。

 ならば――そう、ならば。リオン・シストラバスは世界を守るために死んだのでは決してない。

 彼女に、自分の母親であり誰よりも尊敬していたこの不死鳥によって、ただ殺されただけなのだ。

「答えなさい! あなたはリオン様を愛していなかったですか!?」

 愛していなかったのか。と、ユースは彼女に問い質す。

『決まってる。リオンのことは愛してたよ』

 返答はただ一つ。そんなことは愚問だと、リオン・シストラバスの母親は答えた。

『ただ――

 その上で、彼女は続ける。


――それとこれとは、話が別でしょ?』


 愛しているから殺さないなんて誰が決めたのか?
 殺す相手を愛しちゃいけないなんて誰が決めたのか?

 彼女にとって、その二つとは決して矛盾しないことなのだ。自分の目的のためならば、たとえ愛する娘であろうと平然と手にかける。彼女はユースが知る人間という枠組みにはいない。彼女は『死』そのものなのだ。

「……ようやく、理解しました。あなたは、最低だ……」

『そうとも。このカトレーユちゃんは人としても、妻としても、母親としても、ボロボロのダメダメな最低女。そんなことは言われるまでもなく、わたしが一番良く知ってるよ』

「……なんて、酷い……」

『だから知ってる。まあ、そっちがどんな風に思ってるとしても、わたしの願いはちゃんと手伝ってもらうよ? ユース・アニエース。あるいは、本物のカトレーユ・シストラバスって呼ぶべきかな?』

 否、その名前はすでにユースのものではない。ここにいるのはユース・アニエースという、信じてはいけないものを信じてしまった愚かな従者。その名前は怪物のものだ。

『どちらにしても、そういう契約だし。そもそも、君とわたしの関係はそういう主従関係なんだから。そこはきちんと守ってもらわないと』

 ユースが最も大事にする主との絆すら踏みにじり、怪物の存在が大きく膨らんでいく。

 表に出ようとしているのだ。彼女はものぐさで、滅多なことで表に出てくることはないが、一度出ようとすればユースの意志などそこに介在する術はない。ユースは『従者』。彼女は『主人』。最初から魂の格が違いすぎるし、序列は絶対だ。

 逆らえないし、抗えない。ユースは彼女の前であっては何もかもが押しとどめられ、手駒となるしかない。

「…………あなたを、絶対に赦さない。私は、あなたを絶対に……!」

 せめてもの抗いに、ユースは石碑に捧げられた、ゴッゾが持ってきた花束へと手を伸ばす。

 そして、触れた途端それを炎で包んで燃やした。これは死んでしまったものへと捧げられた献花。リオン・シストラバスという哀れで美しい花を讃えるもの。決して、彼女を慰めるものではあってはいけない。

「お前なんか私の主ではない。私の主は、リオン様だけだ」

 最後に拒絶の言葉を口にして、ユースはその目から二粒だけ涙を零す。

 それは翠色の涙。ガラスでできた偽りの瞳。その下から現れた瞳は、炎のような憎悪を灯す真紅。同じように、髪の色もまた燃える薔薇の色が映り込んだかのように、髪先から炎に包まれ、真紅の色に変わっていた。

 紅髪紅眼。ユース・アニエースが二度目の生でも手に入れた、竜滅姫の証の色。
 
 そのためならば、たとえトリシャ・アニエースの娘であり、『封印の風のアニエース』と呼ばれた竜滅姫の従者の立場を捨てることになっても構わない。心の中に敵を飼っているものは、決してユースだけではない。

 表裏が入れ替わる瞬間、ユースは宣戦布告も兼ねて、その名を呼ぶ。


「幸せな終わりなど与えない。私の罪深き聖猊下――シスト=ナレイアラ」

「ああ、がんばって。わたしのかわいい巫女――ユース・アニエース」







 だからこそ、シストは思うのだ。――どうか誰か終わりをくれ、と。

「わたしは始まりからして歪んでいる。いや、始まりなんてなかった」

 ユースに成り代わり、英雄の丘に降り立ったシストは、今代の巫女が遺していった呪いに笑みを浮かべる。

「結局、カトレーユ・シストラバスとして生きた日々も楽しかったけど、終わるときはあっさりしたものだったし。結婚したり子供を生んだりするのは初めてだったから期待はしたけど、最終的には何ら変わりない。いつも通りの繰り返し」

 異世界から流れ着いた異邦者そのものであるシストにとって、この世界はあまりにも薄っぺらく見える。何をやっても人並み以上にできたが、同時に何をやっても人と同じほどの感情を見出すことはできなかった。

 楽しいとは思う。悲しいとも思う。大切だとも思うし、愛おしいとも思う。

 けれど、そんな自分を幸福だと思ったことは一度としてない。生まれてから今に至るまで、それだけを求めているのに……何をしてもそれだけは手に入らない。

 それは神であっても同じこと。神が与えた最後のオラクルこそが『幸せな終わりに至ること』――神ですら与えられない幸福を、しかしシストは諦められなかった。

 だからマザーと取引したのだ。パートナーになると。
 そして、メロディアを封じ、アーファリムを封じた。ただ自分の幸福を追い求めるために、あらゆるものを踏みにじってきた。

「ああ、君に言われるまでもないね。わたしは最低だよ。この世界に生きる人にとっては最悪の敵。だけど……そんなことはどうでもいい。わたしはこの世界に生きてなんていない。だから、何もかもがそれとこれとは話が別。ただ自分が良ければそれでいい」

 自分のことが絶対の優先順位の最初にある、血も涙もないケダモノ。

 それがシスト=ナレイアラ。神の唯一の共犯者。現世で神のシナリオを回す者。

「だから、マザーの理想はわたしの理想。マザーの目的がわたしの目的。【全てに至る才オールジーニアス】を使って救世主を完成させ、わたしは自分の幸福を知る。誰のためでもない、誰かのためになるでもない、ただわたしのためだけに」

 シストは空に向かって声を張り上げる。宣戦布告を、する。

「そのための切り札である『彼』は用意した。――勝つのはわたしだよ」






――いいえ。世界を救うのはあたしたちです』

 その宣戦布告に答える声なき想いが、どこからともなくあがる。

『ええ、あなたの願いなど絶対に叶えさせない。自分のために、そんな願いのためだけにたくさんのものを傷付けて、あらゆるものを踏み躙ってきたあなたにだけは絶対に。あたしも同じだからこそ、それだけは絶対に認められない』

 それは狂おしいほどの信仰の叫び。

 世界を救う。人を救う。ただそれだけのために祈り続け、最後には見捨てられ朽ち果てたはずの巫女……

『あたしは見つけました。救世主様を。神ですら見捨てたこの世界を救ってくださる、そんな王を』

 親友と神に裏切られたことで、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの奥底で燻っていた彼女の精神は、水の底で救世主と出会ったことで再び燃え上がった。希望の光を見たのだ。尊い輝きを見出したのだ。

 世界は、人は救われるのだと、そう確信したのだ。

『思えば、世界と人のために親友を犠牲にしたのに、そんな親友までも助けたいと思っていたあたしが欲張りでした。あたしにできることなんて、そんなの応援することだけなのに……』

 だから立ち上がった。もう一度立ち上がることができた。
 これまでの自分を反省し、最も優先しなければならないことが何か知り、それだけに今度こそ全てを捧げると決めた。

 それがクーヴェルシェン・リアーシラミリィ=アーファリム・ラグナアーツ。神の敵対者。救世主の巫女。

『神は敵です。この世界にとって、人にとって、救世主様にとっての敵。何をしてでも、どんなものを犠牲にしてでも、救うべきは世界と人。もう迷いません。もう絶対に救世主様の傍を離れません。
 そのための切り札である『彼』は蘇らせました。――勝つのはあたしです』

 

 

 ――そんなの知らない。誰も助けてなんて言っていない。

 再びの宣誓布告に、答える声はソラの月より。

 ――勝手に裏切っておいて、勝手に救う? そんな身勝手が許されるはずない。いいえ、そんなことよりも、あなたの願いには救世主の意志が介在してない。そうなるようし向けておいて、その上で何かを救うなんて馬鹿にしてる。

 そう、不死鳥が幸福に餓え、巫女が救世に狂ったというのなら、魔法使いは孤独に泣いていた。

 それは決して他の二人に負けるものではない。ただ絶望と疑問の中で眠り続ける恐怖は、あらゆるものを凌駕している。それを打破するためならば、何でもすると決めていた。たとえ憎い相手と協力しても。

 でも、それでも気付いてしまった。自分は子供を愛しているのだと。

 ――わたしはただジュンタに幸せになって欲しい。自分の意志を貫いて欲しい。誰にもその邪魔はさせない。絶対に!

 ならば、今この胸の怒りは裏切りに対するものではなく、息子を利用しようとしている全てに対する母の怒り。我が子を守ると、そう心に決めた母の誓い。

 もう膝を抱えて眠るのは止めにしよう。
 もう月から逃れられないと、自分には何も出来ないと嘆くのは止めにしよう。

 だって、今、大切な子供が泣いているのだから。

 それがメロディア・ホワイトグレイル。世界を滅ぼす猛毒。一人の少年の小さな母親。

 ――ジュンタが幸せになってくれるなら、わたしはなんだってやってみせる。たとえ世界を滅ぼしたって構わない。その邪魔をするなら、誰が相手だって戦ってみせる。
 そのための切り札になる『彼』は守った。――勝つのはわたしたちなんだから!

 

 


 そうして、かつて共に笑い合った三人の道は完全に分かれた。

 それぞれの願いのために。それぞれが【全てに至る才オールジーニアス――あるいはその担い手へと向ける祈りのために。

 ――さあ、本当の戦いをこれより始めよう。






 恋愛物語は終わり。
 ここから先は、新世界へ捧げる神話バイブルでなければならない。










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