――そのころ世界は
地獄(ドラゴニヘル)だった。






 ベルルーム大陸中央部に広がるグウェロ・レパの大草原では、現在、最後の大抗戦が行われていた。

世界最大の大陸と呼ばれるベルルーム大陸の命運は、まさにこの戦いにかかっていると言っても過言ではない。大陸に存命する各国が集い、結託して生まれた『対竜連合』――大陸の人間のみならず、世界が希望を託した人の軍勢は、しかし本部が存在するこの場所まで敵の侵入を許していたのだ。

『対竜連合』の作戦本部ウルティマは、敵よりこの大陸を、ひいては世界を解放するために大陸の中心に作られた。作戦本部というより、それは一つの国に近かった。疲弊を極めた各国が力を合わせて作り上げた、希望の統一都市国家――それがウルティマなのだ。

 そのウルティマが陥落することは、即ち『対竜連合』の終わり、ベルルーム大陸の終わり、あるいは人類の終わりをも意味するのか。

 少なくとも、このグウェロ・レパの大草原で敵の侵入を食い止めることは、世界の命綱を維持し続けることと同義だった。


 だがしかし、世界はかくも無情に人類に突きつける――この世は地獄なのだ、と。






「戦線、持ちません!」


 その報がグウェロ・レパの戦いにおける作戦本部にもたらされたとき、総司令リベリオスは焦りを見せることはなかった。


 焦る必要などどこにあるのか。『対竜連合』が結成されたのは十年前。大規模な戦いは十以上にものぼるが、一度でもその報が来ないことがあっただろうか?


 否、ない。ウルティマの目と鼻の先まで敵の侵入を阻めなかったように、またかつて一度も本当の勝利を飾れたことがないように、この展開は当然のこと。むしろあの絶望を前にして、よくぞここまで戦線が持ったと褒めても良かった。


「総司令、いかがなされますか?」


「撤退の指示を出しますか?」


「撤退?」


 作戦本部の仮設テントに集った将軍たちの、下手な冗談にも等しい提言に、若き総司令は苦笑をもらす。


「撤退など、一体どこに撤退すればいいのだ。我らの後ろには本拠地ウルティマしかないのだぞ」


「し、しかし、このままでは皆無駄死にですぞ! 今はウルティマの要塞に戻り、一端戦列を立て直した方がよろしいのでは? あるいは、南方の国へと一時退去を……!」


 焦ったように声を張り上げる、急速に薄くなりつつあった頭に脂汗を浮かべる将軍の一人。

 リベリオスは諫めるでもなく、貶すでもなく、苦笑を強めて、あくまでも淡々と口にする。


「将軍。自分で自分を安心させられない案は口にしないでもらいたい。ウルティマの要塞? あんなものは悪魔の前では一日ともたないだろうよ。南方の国へ? その国だけでどうしようもならなかったから、我ら『対竜連合』が生まれたのだ。

 ここにいる皆には全てがわかっているはずだ。焦ろうと、何を口走ろうと、心の底では理解しているはずだ。もはや我々に、人類に、逃げる場所などどこにもありはしないということに」


 総司令の言葉に将軍たちは一斉に黙り込む。それは彼ら各国の腕利きの将軍たちもまた、心の底ではリベリオスの言葉に同意しているという証明に他ならなかった。


(そう、もはや逃げ場などはどこにもないのだ)


 まだ二十そこそこの小国の王子であるリベリオスが、栄えある『対竜連合』の総司令を現在は務めているように、名高い大国の王たちはこれまでの戦いで散ったり、あるいは絶望的な状況をリベリオス一人に任せ自分の国に戻ってしまった。


 かつては無敵と信じた救世の軍勢を前にして、杯を共に合わせ、笑い合った姿はもはやどこにも見あたらない。ウルティマには震える小さな子獅子がいるだけ。大陸の王たちもまた、かつて大笑していたその口を閉じ、唇を青くさせ、玉座で震えていることだろう。


 なんとか人類の希望を繋ごうと、大草原で戦った日数は三日――僅か三日で、ウルティマに残されていた精鋭たちも戦場に散った。


 残った兵たちの疲弊も酷い。志気をいえば最悪。それでも何とか先程まで戦列が保てていたのは、兵たちもまた、ここを敵に突破されたら後がないと、……祖国や家族、大切で愛しいモノを失ってしまうとわかっていたからに他ならない。

「誰も彼もが皆、口にはしないだけで理解しているのだ。私が口惜しいと思うのは、残念だと思うのは、その言葉をこの私が口にしなければいけないということだ」


「総司令、何を世迷い言を! あなたは今も国のために、家族のために、人類のため世界のために戦っている兵たちの前で、言ってはならない言葉をおっしゃられるというのですか!?」


「だが、誰かが言わなければいけないことだ!!」


 よく言えば冷静沈着なリベリオスとは思えない大声に、またも作戦本部は沈黙に閉ざされる。


 リベリオスは自分があげた怒声にはっとなって、軽く目頭を押さえる。

 一同に手のひらを見せて、三日間の徹夜で鈍くなっていた頭を揉みほぐした。


「すまない。だが敗北を宣言することが、この戦いの総司令である私がしなければいけない、最後にして最大の役割なのだと思うのだ」


「リベリオス総司令……」


「この宣言は、我々の敗北を世界に示す行為。かつて全世界を賑わした『対竜連合』は、ここに失敗したことを教えるのだ。未だ我々に希望を託している皆の期待を裏切り、踏みにじり、そして――


 頭を一度振って表情をいつものどこか飄々としたものに戻すと、リベリオスは最後まで逃げずに自分に付き合ってくれた、気持ちのいい益荒男たちに告げる。



――託すのだ。人類はまだ、滅んではいないのだということを」



 それが悪魔によって滅ぼされた北の小国アイギスが王子――リベリオス・デル・アイギスの決定だった。


「我々は失敗した。ただの一度も勝利の美酒を浴びることなく、無惨なまでに負け続けた。
だから我々の戦いはここらで終幕にさせなければならない。でなければ、次の人の戦いが始まらない。

 我らの惨めな姿を見て、人々は理解するだろう。あの悪魔の恐ろしさに。この世界が地獄であることに。然からば、結束は生まれよう。最大の大陸の犠牲をもって、世界は一つとなろう。
 ――我々はよくがんばった。だから、世界は我々以外が救わねばならない」


 それは他力本願。何もできずに死ぬ自分たちが生き残る人たちに託し、残す、最悪の呪い。


 地獄を見た。十年の間――いや、生まれてからずっと、我々は地獄の中で生きてきた。


 この世界は
地獄(ドラゴニヘル)。悪魔が住まう、血まみれの世界。だが、その地獄で生きようと願うのが人。我ら劣等なる小人。蹂躙されし弱き種なのだ。

 それを理解しない人間は、この血みどろの戦場にはいない。

 狂ったとしか思えないリベリオスの言葉に呆れる者はおらず、膝を折る者はおらず、返る言葉は興奮と狂気によってのみ紡がれる。そうならざるを得ないほどの光景を、この戦場に立っている者たちは見続けてきたのだ。


「ここに『対竜連合』は瓦解した! 人類の希望は費えた! なればこそ、精々最後ばかりは派手に散ろう! それが誇り。敵いもしない絶望に立ち向かった、大馬鹿者たちの末期の努めだ!!」


『『ウルティマ万歳! 『対竜連合』万歳! 我ら人に栄光あれ!!』』


 魂をすり減らしてまで上げられた総司令の言葉に、将軍たちが大声で応える。


 それはかつて完成したウルティマを包み込んだ、歓喜の祝福とは正反対の雄叫び。しかしその声は叫ぶ者の数を減らしてなお、あの時の声より大きかった。

 いつの間にか叫びは仮設テントの外からもあがっていた。
 いつの間にか仮設テントは空から降り注いだ炎によって焼かれ、作戦本部にいた人間たちは外に放り出されていた。

 

 総司令リベリオスは自分を咄嗟にテントの外に突き飛ばした、先程後退する旨を進言した将軍――黒こげで焼けただれた男を、恋人と十年来の再会を果たした女でもしないくらいの愛をもって抱きしめ、分厚い曇に包まれた闇色の戦場に声を張り上げる。

「さぁ、では惨めな最期を迎えるとしよう! 我々の血でこの大草原を赤く染め上げよう!」


 その声に答えるのは灼熱の音と断末魔の叫び。

 遙かな夜空を汚し飛び交う三つの絶望の口から吐かれた灼熱の息吹は、戦場で声を張り上げていた兵どもを焼き、殺し、灰も残さぬ骸と化す。

(まったく。素晴らしい死に様だ、兄弟)


 戦場においては上も下もありはしない。

 全てが等しく兄弟だ。悪魔によって焼かれ喰われる、人という名の兄弟だ。


「我らが醜態は歴史に刻まれる! 阿呆のように粋がって、阿呆のように挑んで、阿呆のように死んだ阿呆として! 訊こう兄弟――貴様ら、阿呆な愚か者として死にたいか!?」


 返答は返事ではなく、行動によって示される。

 草原の彼方より突進してくる、醜悪なる軍勢。
 
空駆ける悪魔を王とした、それは人の敵たる魔獣の軍勢だった。

圧倒的な物量をもって特攻してくる魔獣たちへと雄叫びをあげ、狂笑をあげ、悲鳴をあげ断末魔をあげて兵士たちは向かっていく。錆びた剣で、折れた槍で、血で滑る弓と矢で、血溜まりの中を走り抜け、我こそは愚か者と牙を剥き出しにする。

気付けば将軍たちは皆、誰よりも先に走り抜けて愚か者になっていた。兵士たちの多くが愚か者になっていた。


 だが、愚かすぎる彼らを嗤う声はない。この戦場にあって、愚か者こそ憧憬を集める誉れの者――未だ愚か者になれなかった兵たちは、その背中に涙して武器を振るう。


 また、それはリベリオスも同じ。落ちていた槍を手に取ると、近くにいたゴブリンたちへと投げつける。ゴブリン三匹が団子のように貫かれ、盛大に緑の血をぶちまけるのを見る前に、リベリオスは腰に差していた王家伝来の宝刀を抜き放つと、巨大な赤銅色の獣へと走り寄った。


「は、ははっ!」


 見渡す限り骸と血で染め上げられた草原。
 
かつては子供たちがはしゃぎ回っていただろう緑の園は、もはやそこにはない。


 空から降り注ぐ悪魔の吐息に燃え上がり、攻め寄せる軍勢の足跡で蹂躙された大地は、腐ったような腐臭を香らせる。


 まさにこれこそ世界の縮図――
地獄(ドラゴニヘル)! 地獄(ドラゴニヘル)! 地獄(ドラゴニヘル)

 
全身を痛めつけられながらも、リベリオスは剣を振るってオーガを殺す。
 
昂揚はない。もう天井を突き抜けてしまっている。だからオーガの拳で死にかけた際、こちらを庇って愚か者になった少年兵の名を知らないことだけが残念だった。

「おおォオオオオ――ッ!」

 死にものぐるいでリベリオスは戦う。周りの兵たちも、死にものぐるいも死にものぐるい。どちらが獣かと疑うほどに、咆哮をあげて喰らいあった。

 そして――――戦場に一瞬の静寂が舞い降りる。


 大地を汚していた魔獣の一匹に至るまで、ケダモノの牙によって食い殺された。

 戦場のあちこちから勝利の雄叫びが轟く。それが気のせいとは知りつつも、皆一様に叫んだ。


 食い尽くしてなどいない。勝ってなどいない。こんなに簡単に全てを平らげられたなら、我らは愚か者ではなく英雄になれたことだろう。

 ……そう、獣はまだいた。魔獣の王は欠けることなく存在していた。


「我らは時代の敗北者! しかし、我らの意志だけは正しかった! 
 惨めに死ぬ我らは、最後の一人まで正しかったことを知らしめよう! 安心しろ。我らの意志は人が継ぐ! 我らの理想は人類が成し遂げる! さぁ、安心したのなら空を見ろ――我らが憎き悪魔を睨み殺せ!!」


 リベリオスの声は、歓喜に混じって戦場に散る。


 強者どもは一斉に空を見上げる。果たしてそこに敵は、――『悪魔』は、いた。

 漆黒の偉容。城壁よりも巨大な、身体の全てが闇で塗りつぶされた獣。

 巨大な翼は人を見下し、長い尾は人を嘲笑う。鋭い爪は人を侮蔑し、血まみれの牙は人を好む。世界を汚す猛毒の瞳は鮮血の色――愛さえ感じるほどに憎むべき絶望は、人の殺意を歓迎して、戦場の地に悠々と舞い降りる。

「我らは見下されし者として、正しき想いを胸に抱いた! 我らは世界に反逆す! この地獄の世に反逆す! 
 聞け悪魔よ。知れ絶望よ! この世界は確かに地獄だが、我ら人はそれでも天国を夢見ているのだ!!」

 人は確かに脆い。

 人は確かに弱い。


 ここで人類の希望たる『対竜連合』は絶えるだろう。人々はその結末に絶望を深くすることだろう。が、それでもその絶望より希望の種は芽吹く。人は地獄で足掻くことを止めない。天国を夢見ることを止めない。希望は、繋がるのだ。


 だから夢半ばで死ぬ人は、いつか夢を叶える人に想いを託す。


 この地獄の中、それでもあった輝かしい時間を、笑い合えた時間を、最後まで抗うことによって示して、逝く。

 さすれば輝きだけが世界に残ろう。
 
多くの人の残す輝きは集い、いつかは地獄の全てを塗りつぶすだろう。


 その夢の果てをこの目で見られないのは残念だが……なに、気にすることはない。救世のために戦った我々は、どんな形であれその世界を見ることが叶うずだ。それが敗北者としてでも、愚か者の群だとしても、それでも幸せな世で語られ、誰かの笑顔に繋がるのなら本望だ。


 なんてことはない。ここは確かに地獄だが、それでもここで戦う者たちには色褪せずに輝く光が見えていた。――ならば、自分もそろそろその輝きの一つとなる頃合いだ。



――さぁ、では最後の散り様で精々『人』を魅せよう。我らが宿敵『
終わりの魔獣(ドラゴン)よッ!!」



 其は神に対する悪。其は人に対する毒。其は世界に対する災厄――――
終わりの魔獣(ドラゴン)

人が長きに渡って戦い、人がいつか絶やそうと挑み、そして未だ人が勝てぬ悪魔へと、諦めることの知らない人間たちは、またグウェロ・レパの地でも同じように立ち向かう。


 結末はいつも同じ。人がドラゴンに殺されて終わり。それがこの
地獄(ドラゴニヘル)の時代の真実。


 人はドラゴンに勝ってこの地獄を終わらせることをいつの時代も夢見ていた。
 夢見て、祈って、費えて、それでもまだ夢を見続けているのだ。ならば神が人の願いを叶えるのにあたり、この夢以上に成就を優先すべきものはないだろう。


 後の世に語らえる一つの伝説。一つの神話。

このグウェロ・レパの地が現世の他の地獄と違ったのは、その神話の始まりの地であった。

 ただ、それだけのことだった。






 ――ここに一つの舞台が終わろうとしていた。
 
 それは新しい舞台の幕を開くために、仕方のない幕切れ。
 ……ただ、誰も予想だにしていなかったのは、次の舞台の主役たちが揃いも揃って自分たちの出番まで待てないような、我が儘な『獣』ばかりということだった。







 戦場に舞い降りようとする漆黒のドラゴンの一体が、黒い雲を突き抜け、一条の月光を差し込ませつつ高速で飛来した何ものかにさらわれた。

 飛来したソレは、今まさにドラゴンの息吹によって焼かれようとしていたリベリオスの目にも止まらなかった。あっという間にやってきたかと思うと、ドラゴン一体をさらって空へと戻っていったのだ。


 リベリオスがその飛翔する紅いソレの正体を掴めたのは、人が遙かな年月の間願った、その念願の光景を目の当たりにした直後のことだった。


――――

 本当の驚きの前に、リベリオスの時間が止める。


 それは戦場に残るウルティマの兵士たちの総意だったことだろう。
 長年願っていたが故に、目の前の光景の、そのあまりのあっけなさに理解が及ばなかった。

 ただ、それを言葉として説明するならば、以下のようになる。

 
空へとさらわれた恐るべきドラゴン。そのドラゴンが空中に燃えさかる帯を残しつつ飛翔する獣のくちばしで、空へと罪人のように引きずられていったかと思うと、その輪郭を焼き尽くされ、最後には塵も残さずに消え去ったのだ。

言うなれば、言ってしまえばドラゴンの消失。ドラゴンの紛失。ドラゴンの失踪。

…………否、もう理解せずにはいられない。

今まさに何万の軍勢が三日をかけても――何十万の軍勢が十年もかけても倒せなかったドラゴンの一体が、何ものかによって倒されたのだ。

それは喜ぶという前に、信じられない光景だった。

 だって、あのドラゴンがいとも呆気なくやられた。死んだ…………すぐに受け入れて喜べという方が無理な話。
かつて『剣神』とまで呼ばれた騎士でも、ドラゴンを倒すことはついぞ敵わなかったのだ。その防御力や再生力より何より、ドラゴンが心臓を貫かれても首を切り落とされても死なぬ異物であるために。

 そもそもドラゴンは殺し方がわからないのだ。だから、今までただの一体も倒せなかったというのに……

驚きの光景はまだ続く。まだまだ続く。まるで作られた演劇の舞台のように。

「失礼。あなたがこの戦の総司令――リベリオス・デル・アイギス殿下でありますか?」


 いつの間にか、放心状態だったリベリオスの許に近付いてきたのは、麗しい女だった。


 元気よく跳ねた癖毛の髪の色は金。瞳は湖水のような蒼色。

 髪の毛の活発さとは裏腹に、静かな湖畔のような佇まいを見せる彼女は、戦場にいるはずのない二十代前半ほどの女であった。


「あ、そう、私が、そう……」

 ドラゴンが滅せられるという現実離れした光景に茫然自失となっていたリベリオスは、女が自分に話しかけているという当たり前に近いことを、やはり現実離れしたことのようにしか受け取れずに、舌を上手く動かすことができなかった。


 そうこうリベリオスが戸惑っている内に、きちんとした返答がもらえなかった女の方が再び口を開く。


「違っていたら申し訳ありませんが、あなたがリベリオス・デル・アイギス殿下である前提で話を進めさせていただくのであります。

 私はシャス。本名は故郷の森を出たときに捨てましたので、ただのシャスです。どうぞ、そうお呼びくださいませ」

「シャス……? 故郷の森……?」


「はい」


 名前を名乗った女の名を反射的に繰り返すと、彼女――シャスは頷いてみせた。
 それと同時に肩ほどまで伸びた髪から突き出た、普通とは違う長い耳がピクリと動く。


「エルフ……? 貴様、エルフか!?」


 長い耳は異形の人たる証――そう知識として教えられていたリベリオスに、エルフであるシャスの姿は剣を構えさせる。


 シャスは突きつけられた剣の切っ先を少し気に入らないように眺めると、すぐに強い感情を感じさせない事務的な表情に戻って話を続けた。

「確かに私はエルフであります。ですが、エルフは迫害されているだけのただの森の民。今この状況において、さして重要なことではないと思われますが?」


「確かに……それは、そうだな」

「では、この剣をおさめていただけると助かるのであります。もしこの状況を姫様に見られると、少々まずいことになりますので」


「……いいだろう。どうやら貴様は、あのドラゴンを滅して獣について既知の様子。話を聞こう」


「感謝するのであります」


 剣を前にしても、背中にくくりつけた弓と矢を引き抜かなかったシャスの言葉に一理あると思い、リベリオスは剣をおさめる。


 そして話は、肝心の今もドラゴンと戦う『獣』の話へと移った。


「あれはなんだ? 貴様たちは一体何者だ?」


「我々はエンシェルト大陸から助太刀にやってきた者であり、今し方ドラゴンを滅してみせた紅き『不死鳥』もまた、我々の仲間であります」


「仲間だと? だが、あれは人ではないではないか?」


 改めて、リベリオスはドラゴン一体をあっという間に倒し、今も残った二匹のドラゴンと空中で高速戦闘を行っている『獣』を見やる。


 その『獣』は、ともすれば異形のドラゴンにも見える姿をしていた。

 ドラゴンほどの巨体は鳥の形をしている。しかし本来羽毛がある部分全てが炎であった。紅蓮に燃えさかり、炎の帯の残し、火の粉を散らせて空を自由自在に飛んでいる。

 人類の敵であるドラゴンを倒したのなら、なるほど、あの不死鳥なる獣が仲間であるといえるかも知れない。しかし最後の戦場を預かる身として、いきなり現れたエルフの言葉を鵜呑みにはできなかった。

「ドラゴンを倒すあのような鳥のことなど、私は聞いたことがない」


「ええ、そうでしょう。このベルルーム大陸の地は十年前から戦渦にあり、エンシェルト大陸でもかの『神獣』の名が囁かれ始めたのは一年ほど前のことでありますから」

「一年前…………待て。貴様、エンシェルト大陸から来たと言ったな?」


 無言で頷くシャス。その口元が、ほんの少し笑みをたたえている気がした。


 エンシェルト大陸とは、このベルルーム大陸の東の方にある大陸だ。

 ドラゴンがはびこる世界にあって、一番自然が残る肥沃な大陸という噂だ。が、噂という意味では、それ以上に耳に残る噂がエンシェルト大陸には存在した。


 曰く、大陸中のドラゴンがこの一年の内に残らず倒された。


 そんな噂は戦渦のウルティマにも届いていた。しかしそのような夢想、到底信じられるはずもない。ただの噂でしかないと、そう捨て置いていた。

 だが、現にエンシェルト大陸から来た者が仲間だと呼ぶ不死鳥が、ドラゴンを目の前で滅してみせた。なれば、あの噂が噂ではなかったということなのだろう。


 ……ここに来て、ようやくリベリオスの中で自覚が湧き上がってきた。つまり、ドラゴンが滅せられたという自覚が。

 見捨てられたウルティマの最後の総司令官であるリベリオスは、エルフへの偏見、ドラゴンを倒したものがまた獣であったという事実。全てを受け入れたあとに、知らず声を震わせていた。


「……本当、なのか? あれが我らを助けにきた味方であるというのは……?」


「はい、もちろん。かの竜滅の神鳥は我らの仲間。人類の味方であります」


 にっこりと笑うシャスの顔に、リベリオスは思わず見とれてしまった。

 長きに渡る戦渦の中、滅びた祖国にてドラゴンに喰われた妻のことを思い出すのは決して少なくなかったが、この数日間の過酷な戦いの中で、目の前ほど希望に溢れた笑顔など見たことはなかったのだ。


 エルフは人とは違う異形の民として、多くの大陸では森の中に追放を受けているという話。
 馬鹿な話。と、このときリベリオスは思った。このように美しいエルフが異形だというなら、馬鹿のように騒ぐ貴族の女の方がよほど異形ではないか。


「では……その、なんだ。貴様――ではなく貴君らは、すでにエンシェルト大陸のドラゴンを一掃したのか? あの噂は、本当だったのか?」


 まるで少年が、将来王様になると大声で言い張るような誇大妄想に思えて、その質問をするのが照れくさかったのだが、シャスは笑うことなく肯定をくれた。

「エンシェルト大陸を荒らしに荒らし回っていたドラゴンは、この一年の間で全て駆逐されたのであります。それは間違いない、事実なのであります」


「それは、あの不死鳥によって、か?」


「はい。そして、いいえ。あの不死鳥を含めた三人の神獣によって、が正しいのであります」


 そう誇らしく言い放ったシャスの言葉の意味を、リベリオスは直後に響いた声によって理解する。



――何を呆けているのですか、この地に生き残りし勇者たちよ」



 空より戦場に降り注ぐ、澄んだ声。それは味方を鼓舞する角笛のように響き渡る。

「戦いはまだ終わっていません。戦場は未だ戦場のまま。その手の剣は、未だ倒すべき敵を知っている。その手の槍は、未だ倒すべき敵を狙っている。

 さぁ、強くおのが誇りを握りなさい。我らの手は、夢見た希望に届くでしょう。この戦いの果てに、勝利は朝日が昇るが如く輝くでしょう」


 
兵士たちは魂にまで響いてくるような声を聞き、空を見上げて目を見開く。


 初め、リベリオスはこの声が、空に浮かんだ白馬に跨る美貌の騎士によってもたらされているものと思った。

 短く揃えられた橙かかった金色の髪。

身につけているのは白銀の鎧であり、その手に握られた槍もまた煌めく白銀。

 不死鳥が開けた月光に照らされて輝く姿は、まさに神々しいだが真に驚くべきは、彼ないし彼女が騎乗する、その騎馬の存在だった。

 瞠目せずにはいられない、その輝ける姿――

 完璧なまでに白き身体に、青みかかった宝石のようなたてがみ。

力強い蹄が踏むのは大地ではなく虚空であり、天使の羽根と呼ぶしかない双翼を広げて、翼ある馬――『天馬』はそこに存在していた。

「恐れることはありません。我らには大いなる聖神の加護がついている。我らこそが正義の軍勢」

 鼓舞の声は乗り込んだ騎士ではなく、天馬の口から響いていた。神々しさも相成って、その言葉の真偽を疑う兵士はいない。


「今こそ天罰のとき! 我に続け、救世の騎士たちよッ!!」


 神の如き力強い言葉は、戦場の空気を一瞬で塗り替えた。


 先程まで呆けていた兵士たちが、驚いて腰を抜かしていた騎士たちが、一斉に武器を力強く握りしめる。

 
それはまたリベリオスも同じ。不思議なことに、先程まで興奮によって何とか動いていた深い疲労をたたえた身体が、今は芯から湧き上がる力によって支えられていた。それは志気の高揚という言葉だけでは片付けられない、まさに神からの恩恵を受けたような力の漲りだった。

 魔獣の軍勢によってバラバラになっていた兵士たちは、天馬の下に集い、編隊を組む。一人一人が自分の役割を理解し、認めて動いていた。まるで、その動作が至上の努めであるかのように。


 兵たちの滾る戦意を見て取った二人の神獣が、時を同じくして動く。


「全体突撃! ドラゴンを滅せッ!」


 天空に光を放って踵を鳴らす天馬の上から、アルトボイスの進軍の声が飛ぶ。


 大地へと駆け下りる天馬に続けといわんばかりに、今兵士たちが挑むのは絶望――否、もはやそれは絶望でありはしなかった。この世を汚し、地獄に変えた、神意によって滅されるべき敵以外の何ものでもない。

 空を行くドラゴンに人の身の牙が届くことはないが、天馬のなそうとしたことを理解したのだろう。ドラゴン二体と戦っていた不死鳥が、一体を長い炎の尾によって地面へと叩き落とした。


 身体を焼かれ地面に落ちる漆黒の影に、何ら恐怖を抱かず攻め入る戦士たち。

 身体についた血すらも戦化粧にして、不滅の軍と輝く瞳で表して、彼らはドラゴンに向かって突き進んでいく。


 急降下する天馬の背より、まずは最初の一撃は放たれた。


「この槍の輝きに――神罰よ、あれッ!!」


 急降下のスピードも合わさった槍の投擲は、一体どれだけの膂力によって放たれたのか。まるで天から落ちる稲妻の如く白銀は閃き、狙い違わずドラゴンの口を地面に縫い止めた。


 直後にドラゴンの後頭部を盛大に踏みつぶしたのは、天馬の踵。
 都合四度踏みつけられたドラゴンの頭蓋からはメキメキという音が鳴り、それが押し寄せる軍団に武器を握る力を強くさせる。


 どのような戦のおいても、傷つけることさえ難しかったドラゴンの肉体。

 また今回も、殺到する兵士たちの
刃の一撃、槍の一撃は爪の先ほどの傷しかドラゴンに負わすことはできなかったが、それでも天馬の加護を得た戦士たちが一斉に攻撃をしたならば、さすがのドラゴンもその場所からしばらく動くことは叶わない。

ドラゴンは高速で空を飛ぶから恐ろしいのだ――そう言った友が、かつていた。

 
彼は地上に降り立ったドラゴンに挑み、そして散った。だが足を止めたドラゴンの命運は、このとき確かに尽きていたのだ。

戦士たちが渾身の力をもってドラゴンの動きを封殺している間に、大空で不死鳥が大きく旋回する。燃ゆる翼より放たれた火の雨は、対峙していたドラゴンの身体に矢の如く突き刺さった。

しかしその攻撃ですら不死鳥にとっては牽制でしかない。

 
不死鳥の輝く金色の目が射抜くのは、地上に墜ちたドラゴン――曇天を晴らす紅の輝きをもって、竜滅の神鳥は遙かな空より駆け下りる。

紅蓮が散る。

紅蓮が奔る。

瞬きの間に地上に流星の如く突き刺さった不死鳥は、そこにいた戦士たちごとドラゴンを紅蓮で包み込んだ。

圧倒的な炎の前に呑み込まれていくドラゴンと天馬、戦士たち。

一部始終を目の当たりにしたリベリオスの中に、だけど不安はなかった。

ドラゴンの防御すら貫いて焼き滅ぼす炎など、人の身で喰らえばひとたまりもない。しかし、かの神秘の炎はドラゴン以外を焼くことはないという不思議な確信があったのだ。


「おおっ!」


 リベリオスの口から感嘆の声があがる。
 不死鳥が再び飛翔する風圧によって晴らされた炎のあとにはドラゴンの姿はなく、天馬を中心にして勝ち鬨をあげる戦士たちの姿だけがあった。


 どれだけがんばっても倒せなかったドラゴンが、こんな短時間の内に二体までも――歓喜を超える感情に流れる己が涙を拭うことなく、リベリオスが見上げるのは空に残った最後のドラゴン。

 二体目のドラゴンを悠々と滅ぼした不死鳥は、受けた傷が癒えないことに戸惑っているかのようなドラゴンに、炎の勢いを弱めることなく向かっていく。


 しかし予想とは違って、最後のドラゴンを倒したのは竜滅の神鳥ではなく、空より降臨した三人目の神獣だった。


「ドッカ――――――ンッ!!」



 プレゼントを前に喜びを露わにする子供のような声が、そのとき戦場の空に響く。

「今日の天気は雨のち妖精! ドッカン! ドッカーン! 流れ星!!」


 続いて、いくつもの輝きが雲を散らす。

雨を前にはしゃぐ子供が口ずさむ歌が落ちてくる。
 その歌が招き落とすものは詩だけではなく、雲を晴らす色とりどりの輝きもまた、歌によって落ちてくるものだった。

 
赤、青、緑、茶、黄、白の六色と、その全てを混じらせるオーロラのような輝きの雨――虹色の流星は雲を晴らし、戦場を照らし、ドラゴンの頭上へと雨あられと降り注ぐ。


「なんだ、あれは……?」


 流星の正体は星ではなく妖精だった。子供が描く落書きのような妖精たちが、笑顔で空からドラゴンに降り注いでいるのだ。一撃一撃にどれほどの威力があるのか、ドラゴンの身体はたまらず流星ごと地上へと垂直落下する。


 目標をなくした不死鳥が空で翼を羽ばたかせて滞空する中、他の音に紛れない少女の声は続く。


「ふっふーん。チミたち、よく主役登場の舞台を整えてくれました。優しいわたしは働きには褒美を与えます。と言うわけで、刮目して見なさい! 最強無敵の流星群を!」


 それは一体いかなるデタラメか?

 少女の透明な声が途切れたと思ったら、空を覆っていた雲全てが一瞬にして吹き飛んだ。


「…………そう、か。今日は、満月だったのか……」

 世界はこんなにも明るかったのかと思わせるぐらい、まん丸な輪郭に虹を伝わせる、金色の満月が光を落とす。それは痛いほどに、声に嗚咽を混じらせずにはいられないほどに、この世界は美しいのだということを教えてくれた。


「…………まさか、姫様。まだ実験段階中のアレを? このタイミングでやるおつもりでありますか……?」


 隣のシャスが青ざめた顔で呟いた声は、リベリオスには届かなかった。

「まさか、このような言葉を告げることができるとは……なんという幸福なのか」

 

 流星によって三体目のドラゴンもすでに死に身体――そう、もはや戦いに決着はついたも同然。『対竜連合』発足より我こそはと誰もが望んだ大任を、ここに高らかに宣言する栄誉を自分は与えられたのである。

 

 被害は大きい。皆傷ついている。だが、この夜空の美しさとその空で渦巻く星々の輝きを見て、世界に絶望する人間はいない。この幸福を理解しない人間はいない。ここグウェロ・レパの大草原で、ついに我ら人類は――



「諸君。我々の勝利だ! 我々『対竜連合』は、人は、今日この時ドラゴンとの戦に勝ったのだッ!!」



 高らかに響く勝利宣言。兵士たちの勝ち鬨が心地良かった。


(私は今、この世界がもたらした、人が望んだ、救いを見ている)

 胸に拳をあて、リベリオスはこの地に舞い降りた金色の瞳を持つ、救世の神獣たちを見つめる。


 兵士たちに取り囲まれるように、仰がれるようにして白き輝きを放つ天馬。

 じっと空を見上げ、空より大地を明るく照らし輝かせる真紅の炎の不死鳥。

 そして遙かな空より、満月を背に流星群と共に舞い降りた白銀の…………


「わたしを無視して幕を下ろすなぁあぁああ――――ッ!!」


 七色の妖精たちは満月を舞台にするようにして踊り狂う。

そうして生まれたフェアリーサークルは、白銀の流星に続くようにドラゴンを中心にして数多降り注ぐ。それはあらゆる人間の視界を七色に染めて、勝ち鬨の声を掻き消す轟音と共に、刹那の内に戦士たちの意識を刈り取っていく。


 大地震が起きたように地面が震え、いつの間にかリベリオスは倒れていた。
正確にいえば、隣に立っていたシャスに飛びつかれて、地面に押し倒されていた。

「舌を噛まないでくださいませっ!」

 シャスの注意の一瞬あと、身体の少し上を凄まじい衝撃波が吹き抜けていった。
 衝撃波はドラゴンが起こした炎を掻き消し、立っていた戦士たちを弾き飛ばし、血の臭いを吹き飛ばした。

「な、何が……!?」

「申し訳ないのであります。私の仕える姫様がどうやら、長旅で鬱憤が溜まっていたらしく……」


 身体の上から身を起こして立ち上がったシャスが、恥じ入るように耳を垂らす。


「これは、なんという……」


 彼女に差し出された手に掴まって身体を起こしたリベリオスは、先程までドラゴンがのたうち回っていた、草原の彼方を唖然として見つめる。


 そこには何もなかった。


 ドラゴンはおろか草木の一本もなかった。ただ真っ白な雪が、辺り一面に広がっているだけ。そしてその雪原となった真ん中の辺りで、もぞりと動く白いモコモコした物体があった。


「い、痛い……」


 風に乗って、獣が吐いた呟きが聞こえてくる。
 その声は先程空から響いていた少女のものと同じだった。

 彼女はくしゅんとくしゃみをすると起きあがる。遠くて詳細は分からないが、何やら四足歩行する白色の獣の姿をしているらしかった。


 リベリオスは無言のまま、向こうの方から気絶した兵士たちの合間を通ってやってくる天馬と、ゆっくりと近くに舞い降りた不死鳥を見つめる。どちらも雄々しき神獣というべき姿をしている。だが、くしゃみをした彼女の姿は――


「シャ〜ス〜ぅ〜!」

 ――目を離した隙に、かわいらしい白銀の髪の少女に変わっていた。

 ふくらはぎのあたりまで伸びた、草原を染めた白よりも白き白銀の髪。

 十歳前後の少女の双眸は、満月のような輝きを満たす金色の色。身体を包む白いドレス姿の彼女は、まるで王宮の花園を駆け回るお姫様のようだった。


 彼女は白い雪の中を裸足でこちらに駆けてくると、シャスの腕の中にボフッと飛び込んだ。
 向こうの方からここまでやってきた所要時間は、十秒ちょっと。あり得ないスピードである。


「姫様。どうなされたのでありますか? どこかぶつけたのでありますか?」


「頭と腰とお尻ぶつけた。しかもドラゴンの血が視界一面ぶわ〜って! どうしようかと思ったわ。だから思わず雪で全部染めちゃった」


「染めちゃった……かわいらしく言っても、後でお説教なのは変わらないのでありますよ。あれほど私の許可した魔法以外は使わないと約束いたしましたのに」

「だ、だって、ここまで船とか馬車とかで我慢してたんだもん! 偶には力一杯身体を動かす方が絶対いいし、少しぐらいやり過ぎちゃったのはしょうがないじゃない!」


 抱きついていたシャスの豊かな胸から顔を剥がすと、裏切り者でも見るかのような目つきで少女は睨む。

 シャスは少女の視線を軽やかに受け流し、腰に手を当てた。


「そのしょうがないで、兵士の皆さん全員がノックアウト。確実にやりすぎなのであります」


「で、でも……」

「姫様」


「…………ごめんなさい」


 強く言い聞かせるシャスの言葉に、少女はしゅんと肩を落として謝った。


 シャスは少女の殊勝な態度に頷くと、彼女の小さな背丈に目線を合わせるようにかがんで、そっと手を取る。


「謝るべきは私にではないでしょう? やりすぎで倒れてしまった兵士の方々にであります。ですが、一人一人に謝る時間はありませんから、これからの行動で示すことにしましょう」


「うん。分かった」


「ええ、良い子であります。それでは、次から魔法を使うときは全て私の許可を取ってからにしてくださいませ」

「うん……って、それは酷い! それじゃあわたし、暇なときとか好きなときに魔法で遊べないじゃない!」


――――姫様?」

 やばっ、とシャスの手を離して、口を両手で塞いだ少女。
 彼女に母親のような慈愛の笑みを向けていたシャスの笑顔が、表面上はそのままで変質する。見ているだけで寒気を催す笑みに。

 少女はアハハと髪に手を触れつつ笑うと、そろりそろりとシャスから後ずさって離れる。

 シャスは立ち上がると、笑みはそのままに口元をひきつらせて、恐い波動を全身から放った。


「……姫様。確認を取っておきますが、まさか大事な食料で遊んだり、衣服のほとんどにおかしな属性を付加させたり、ましてや私の弓を話すようになんてしていないでありますよね?」


「ま、まさか。正義の味方のメロディアちゃんがそんなことするはずないじゃない」

 あからさまに目を逸らしつつ、メロディアという少女が答える。


「ひゃはは! 姫公が正義の味方なら、俺の愛しのシャスティルージュ・リアーシラミリィは、おっかない魔王様ってところだなぁ!」

「ば、馬鹿、『湖畔の語り部リアーシラミリィ』! どうしてこのタイミングで口を利くのよ!」

 背負った弓の下品な笑い声に、シャスは笑顔すら顔から消して怒っていますとよく分かる視線でメロディアを射抜き、低く抑えた声でもう一度ほぼ同じ質問を繰り返す。


「姫様。大事な食料で遊んだり、衣服のほとんどにおかしな属性を付加させたり、さらに私の大切な家宝である弓を、私が嫌いな下品な伊達男風に口を利くようにしたでありますね?」


――うん。してた」


 完全に明後日の方向を向いたメロディアの代わりに答えたのは、今まで黙って身体を燃やしていた不死鳥だった。

 年若い女の声を話す不死鳥というのは何ともおかしなものだが、ここに集まったメンバーの中ではリベリオス以外驚くことはなく、当たり前のように扱って彼女の発言を受け入れていた。


「そうでありますか。ご証言ありがとうなのであります。――さて、姫様? 何か申し開きはありますか?」


「ひ、酷い! シャス! あなたの主人であるわたしの言葉より、あんな性格最悪な馬鹿鳥の言葉の方を信じるの!?」


「信じるも何も、馬鹿犬は何も言ってない。無言で自分はダメダメな子犬だって証明してただけ」


「犬って言うなっ! わたしは狼! 強くて格好良くて恐い狼だもんっ!」

「白いモコモコ犬コロメロディア。何ならお手してあげようか?」


「こ、殺す……! 今日という今日は泣いたって絶対許してあげないんだからっ!」


「そういう誤解を招くような言い方は嫌い。いつわたしが泣いた? むしろ最後に半ベソになるのはメロディアの方。大泣きするのはアーファリムだけど」


「だ、誰が大泣きをしますか?! 適当なことを言ってはダメなのですよ!?」


「あ、主! 地が、地が出かけています!」


 突然不死鳥に話を振られた天馬が、素っ頓狂な声をあげる。

 慌てた様子をわたわたと落ち着かせるのは、彼女の背より下りた――今なら分かる――男装の麗人だった。

 天馬は女性に首筋を撫でられ、落ち着いた様子を取り戻す。


「こ、コホン。皆さん、この戦場での戦いは確かに終わりましたが、まだまだ本当の戦いは始まったばかり。あまり気を緩ませないように」


『うるさい、駄馬』


「駄馬!?」


「きゃっ!」

 メロディアと不死鳥の完璧に揃った呼び方に、天馬がブワッと白翼を広げる。その風圧で傍らの女性はたたらを踏んだ。


 不死鳥を睨んでいたメロディアは、そのまま視線を落ち着きのない天馬に変える。


「そもそもあれ何? あの演説」


「え、演説ですか? き、決まってましたでしょう? これ以上ないくらいに志気をあげ、勝利に大きな貢献を致しましたでしょう?」


「ううん。ぶっちゃけキモかった」


「キモっ――!?」


 不死鳥のあまりな一言に、今度こそ完全に天馬は硬直した。


「あんな意味不明で臭い台詞、今まで戦っていた兵たちにはいいだろうけど、冷静だったわたしにはものすごい寒かったわ。思わず笑っちゃって、その所為で参戦が遅れちゃったんだから」


「というか、何であの口調? 普通にしゃべればいいのに。違和感しかなかったね」


 傍目から様子をうかがっていたリベリオスは、先程までのメロディアのように、二人に一方的に罵られた天馬が怒り出すものと思った。
 リベリオスには彼女の演説が志気を高揚させ、一体のドラゴンを仕留める大きな助けになっていたように見えたのだ。その大きな役目を蔑ろにされたならば、怒るのが普通だ。


「…………」

 天馬はつぶらな金の瞳でメロディアと不死鳥を見て、広げた翼をゆっくりと戻していく。


 大きな翼はどんどんと丸くなるように下がっていき……やがて前の方へと押し出され、彼女の顔を完全に覆い隠す。


 翼の向こうから、シクシクという哀愁を感じさせる泣き声が聞こえてきた。


「さ、最初ですから、最初なんですから、あたしだって目立ってもいいじゃないですか。確かにあたしの力は地味です。ドラゴンだって倒せません。ですけど、自分なりに役立とうと考えて考えて、一生懸命がんばったのに……キモいはさすがに酷すぎですよぅ……」


「だ、大丈夫です、主! 多少上擦っていましたが、台詞の途中で噛むこともなく。まさしく、昨夜の特訓の成果が現れた演説でしたよ!」


「…………本当ですか? あたしのために、嘘ついているんじゃないですか?」


「もちろんです! 不肖ソニア、主のお言葉に胸打たれました。眠ってる兵たちも、きっと夢の中で繰り返し主のお言葉を聞いていることでしょう!」


 ソニアと名乗った男装の従者の言葉を受けて、花弁が一つずつ開いていくように、そろりそろりと天馬の顔の前から翼がどけられていく。

 そしてちょうど顔が露わになったところで、


――でもどちらにしろ、演技していたときのアーファリムがキモかったのには変わりないから」


 不死鳥の一言に、天馬は大空へと羽ばたこうとした。

「どうせ、どうせあたしが格好良く決めようなんて無理な話なんですっ! 直そうと努力して、三日間徹夜して考えて、練習して、心臓バクバクで厳かな雰囲気を出してところで、あたしなんて気持ち悪い駄馬でしかないんですよぅ!」


「あ、主! お待ちを! そんなことはありません、とても格好良かったですから!」

「優しいね。傷つけないようにフォロー入れるなんて、さすがは従者の鑑」


「あら? 珍しく馬鹿鳥と意見があったわね。うんうん、優しい優しい。本当に――


 大空へと泣いて逃げ出そうとする主にしがみき、必死に引き止めるソニアに向かって、意地の悪い二人は口を揃えて別の呼び方で呼ぶ。

――キティってば、かわいくて優しい女の子っ!』


「ぼ、僕をキティという家名って呼ばないでくださ――しまったっ! 主、どこへ行かれるんですか、主!!」

「自分を見つめ直す旅に出ます! 探さないで下さい!!」


「あ、新しい大陸です! 早々に迷子だけはやめてくださいぃぃ――――ッ!!」

 雪を舞い上がらせて空へと消えていく天馬と、その天馬を地上から猛スピードで追いかけていく騎士ソニア・キティ

 一組の主従の姿を笑いながら見送る最低な二人は、先程までの怒りはどこへ行ったのか、揃って地平線の彼方を見やった。

「で、気付いてる? メロディア」


「当たり前でしょ。わたしを誰だと思ってるのよ。
 ドラゴンが一体であとは雑魚ばっかり、でしょ?」


「なっ!? またドラゴンが現れたというのか!?」

 終わったとはいえ、骸も残る戦場で喜劇でも演ずるかのような面々についていけず、黙りこくっていたリベリオスも、そのメロディアの言葉には声を上げざるをえなかった。


 確かに、言われてみれば地平線を埋め尽くすように黒い線が蠢いているように見える。あれが残らず魔獣であり、さらにはドラゴンもいるのならば、状況は最悪としかいいようがない。この戦場で立っているのは、ここにいる四人だけしか残っていない。

「くっ! 折角の勝利を果たしたばかりだというのに。ウルティマもろとも、ここで終わるというのか!」

「お言葉ですが、ご安心を。ドラゴン一体と魔獣だけでしたら、何の問題もないのであります」


「え?」


 シャスの冷静そのものという言葉に、普通の女の子みたいなメロディアの姿を見て忘れていた事実をリベリオスは思い出す。先程、倒せぬはずのドラゴンを彼女たちが簡単に倒してしまったという事実を。

「まぁ、任せておいて。――馬鹿犬。どっちがたくさん倒せるか競争」

「望むところよ。普通の魔獣が一点。ドラゴンが百点くらいでどう? 賭けるものは今日の夕食のおかず一品!」


「二品でもいいよ? どうせ勝つのはわたしだから」

「言ってくれるじゃない。それならいっそのこと全部賭けるのはどう?」


「乗った。自虐が好きだね、マゾ犬は。ただでさえちっちゃいのに、栄養補給を自分から断つなんて」


「ふ〜んだ。無駄に胸に脂肪つけたハム鳥みたいなデブ鳥に、少しダイエットをさせてあげるようっていうわたしの優しさよ。感謝しなさい」

 舌を出すメロディアに見送られて、何の気負いもなく、躊躇もなく、不死鳥は小さな含み笑いだけを残して大空へと飛び立つ。


 魔獣の軍勢はもうすぐこの大草原に足を踏み入れようとしていた。

 それは絶望的な光景のはずだった。かつては、それだけで死を覚悟するほどに。

 だけど、今はそれがない。リベリオスの胸の中にあるのは、これより始まる鮮やかな勝利の風景を見られることに対する期待だけだった。

「それじゃあ、シャス。わたしも行ってくるわね」


「はい。お気を付けて、行ってらっしゃいませ。姫様」


「うん。行ってきます!」

 元気いっぱいに頷いたメロディアは白い草原を駆けていく。

そのまま一気にジャンプした彼女は、そのまま翼もないのに空を飛んで、先を行く不死鳥に負けないように急ぐ。視界の端の空より白い輝きが慌てたようにやってきて、二人に並んだ。

すぐにきっと、色とりどりの輝きが空を埋め尽くすことだろう――三人の姫を見送ったリベリオスは、隣に悠然と佇むエルフの女性に改めて尋ねる。


「もう一度尋ねたい。彼女たちは一体、何者なんだ?」

「そうでありますな……この地獄のような世界の中、それでも生きようとする人の願いが生んだ奇跡。神が人の世を救わせるために降誕させた神の使徒。地獄を終わらせ、ドラゴンのいない新しき世界を開闢する姫君たち」

 誇るように、笑うように、憧れるように、シャスは新しい夜明けを迎える世界に、祝福を贈る。



「彼女たちは救世主――この世界を救う、『始祖姫』様たちなのであります」



「…………ああ、そうか」

 視界を染める美しい光に今日何度目かの、今日を抜かせば久しくなる涙を、リベリオスは流す。


 悔しくもない。辛くもない。悲しくもない。

嬉しくて流れる涙の温度は、リベリオスにとって今日初めて感じる温かさだった。

 

 この世界は地獄(ドラゴニヘル)――ドラゴンが人を蹂躙す、現世の地獄。


 だが知れよドラゴン。人は決して諦めない。

 負けても終わらない。這い蹲っても終わらない。絶望しても、まだ終わらない。

 この想いがある限り、この輝きがある限り、人が大好きだと、世界は美しいのだという笑顔がある限り、やがて地獄は終わるのだ。

 そして、今まさに地獄の終わりが始まった。天国の光が差し込み始めた。


 輝きの中、救世主として生まれ、天国の世界の始祖となる少女が笑う。人に、世界に宣言する。



夢を見るくらいならわたしを見なさい! 世界くらい、このメロディア・ホワイトグレイルが救ってあげるんだからっ!」



 ああ、見るとも。見続けるとも。

ここに生き残ったリベリオス・デル・アイギスは、世界の果ての神世界を見てやろうとも!

人の輝きは集い、ここに救世の光を輝かせる。

それはなんて綺麗で尊い光――さぁ、ではそろそろ、恐怖劇の幕切れと行こう。

これより上がる舞台は、神世界の一歩手前の地獄(ドラゴニヘル)が舞台の、三人の主人公が繰り広げる幸せな笑顔で溢れた舞台。

そう、その名は――――






そのころ世界は地獄(ドラゴニヘル)だった。


だから救われた世界は、もう
地獄(ドラゴニヘル)ではなかった。

それは伝説。
それは神話。


長く語られる、始まりの使徒たちの旅路。


綴った作者の名は、リベリオス・デル・アイギス。

ベルルーム大陸で四百年間続いた、大陸統一国家(ウルティマ)の初代盟主。

彼によって綴られた物語の名こそ、謳に聞こえしあの物語。


其は――







―――― 『救世序詞』 ――――










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