彼女が嫌いだった。憎んですらいた。けれど――――それ以上に感謝していたから……






 ユース・アニエースは現在、悩みの中にいた。

 いつもはピシャンと伸びた背筋を心なしか丸め、洋服を抱えた状態で、居心地悪そうに豪華ながらも瀟洒な廊下を歩いていく。

 着慣れない赤と白のエプロンドレスは真新しいもの。頭の上につけられたホワイトブリムなど、似たような服は我が家で幾度となく身につけたのだが、正式にこれらを身につける立場になってみると、妙な違和感が残ってしまう。

 もちろん、それは嫌な感じではない。むしろ素敵な感じだ。

 長い間、このシストラバス家のメイド服を着ることを目指してがんばってきたのだから、こうして着られることになって嬉しくないはずがない。手渡された日、部屋で試着し、姿見の前でクルクル回っていたのをトリシャに見られて笑われたのが、いい意味でも悪い意味でも記憶に新しい。

 だから、ユースが一週間前から働くことになったシストラバス邸をどこか居心地悪く感じてしまうのは、尊重すべき主が原因なのだろう。

 ユースは速すぎず遅すぎずのスピードで廊下を歩いていき、一つの扉の前で立ち止まる。
 他の部屋に比べ、大きくて豪華な扉である。それも当然だ。この扉の向こうにいるのは、ユースが専属となった、名門シストラバス家の次期当主である少女の部屋なのだから。

 部屋をノックしようと構えを取ったところで、ユースの身体に緊張が走り抜ける。スーと音がしないように気を付けて、一つ深呼吸。

(大丈夫。私はユース・アニエース。アニエース家を継ぐ者なのですから)

 自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、ユースは目の前の扉をノックした。

「失礼します、お嬢様。お召し物をお持ち致しました」

 一言一句に礼節をこめて、はっきりと口にする。
 大きいわけではないが、それでもユースの声はよく響いた。

 もちろん扉の向こうにも聞こえたはず……しかし返答は、ない。

「……リオンお嬢様。ユース・アニエースでございます。今日のお召し物をお持ちしたのですが、入ってもよろしいでしょうか?」

 緊張感が身体をどんどんと支配していく中、ユースは自分の本分を忘れまいと、内心の焦りを顔には浮かべずに二度目の声をかける。だが、今度もやはり返答はもらえない。

 困った。

 表情の乏しい顔を、付き合いの長いトリシャでなければわからない程度に困った顔へと変えて、ユースは扉の前でおろおろする。部屋の主からの返答がないわけだが、この扉を開けていいものかどうか。

 まだ眠っているというのなら、指定された起床時間に達した今、部屋に入って起こして差し上げることが望ましいだろう。しかし、もしも起床していてなお返答をいただけないなら、それは入るべきではないことになる。

 どちらであるか判別がつかないのは、まだこのシストラバス邸に来て日も浅いことと、主となった少女が何やら自分を疎んじているように見えたからである。

「……どうすればいいんでしょうか」

 呟きをもらしてしまったことに気付き、ユースは口を噤む。心なしか廊下が暗い空気に包まれて、

「あれ? どうかしたんですか?」

 それを明るい声と共に晴らしたのは、偶然通りかかったメイドの少女であった。

「えっと、確かユースさん、でしたよね?」

「あなたは、エリカ・ドルワートルさん……でしたか?」

「あ、覚えていてくれたんですか。ありがとうございます」

「いえ、そんな」

 人好きのする笑顔を浮かべているのは、まだ幼く感じる少女だ。

 ともすればそれよりも下に見えるが、年齢は十四歳。ふんわりとした蜂蜜色の髪を肩ほどまでのばし、くりくりとした鳶色の瞳を元気いっぱいに輝かせている。

 ユースはシストラバス家の関係者の顔と経歴を、すでに全員分頭に叩き込んである。メイド服を着こなす少女の名はエリカ・ドルワートル。騎士エルジンの一人娘で、幼い頃からメイドとしての技能を叩き込まれ、若いながらも優秀なメイドと資料には載っていた。

「それで、どうかしたんですか? リオン様の部屋の前で。何か悩んでいるみたいでしたけど」

 近付いてきたエリカが口にした言葉に、僅かながらユースは驚く。
 悩んでいたことを看破されたことに驚いたのだ。少なくともユースは、自分の感情がこうも容易く、初対面に近い相手に看破された経験はなかった。

(なるほど、シストラバス家のメイドというのはこれほどのものなのですか。それとも、彼女が特別優秀なのか……)

 シストラバス家における『優秀』が、世間一般で言われるところの『とても優秀』であることを悟ったユースは、自分を興味深そうに見つめてくるエリカに視線を合わせる。

「ええ、お恥ずかしながら。お嬢様にお召し物をお持ちしたのですが、ノックをしても返答をもらえず、どうしたものかと迷っていたのです」

「あ、そ〜なんですか。うんうん、確かにリオン様の生活サイクルを把握してないと、判断つかないかもしれませんね」

 エリカは納得したように頷くと、扉の取っ手を躊躇することなく捻った。

「朝に限っては、リオン様の部屋をノックし続けてもあんまり意味ないんですよ。目覚めていらっしゃるときは返答をもらえるんですけど、十日に一回くらい――特に前日の夜が遅かった場合なんかは、リオン様全然起きませんから。勝手に開けちゃって、起こしちゃえばいいんです」

「そういうものなんですか?」

「そういうものです。メイド長からの受け売りですけどね」

 扉を開いたエリカの後ろから、ユースは部屋を覗き込む。

 カーテンが閉じているため薄暗い部屋は、他の部屋よりも洗練された趣があった。部屋の主の性格を表すように無駄なものがあまりない。あるいは他の部屋に置かれているのか、家財道具が置かれているだけである。赤を基調に整えられており、どこか温かみのある部屋だった。
 
 部屋の主の姿は、エリカの言うとおり未だベッドの中にあった。
 天蓋付きのベッドの中、毛布を被った少女が呼吸を繰り返している。

 嫌われたから入れてもらえなかったのではないのか――ほっとユースは一安心し、扉の取っ手に手をかけたままの同僚の少女に小声でお礼を伝える。

「ありがとうございました、エリカさん。お陰で助かりました」

「いえいえ、お安いご用ですよ。それじゃあわたしは別のお仕事があるので、これで失礼させていただきますね」

 見る者を楽しい気分にさせる天真爛漫な笑みを絶やさない少女は、そのまま扉を閉めつつ去っていこうとする。その足が途中で止まったのは、何か思い出したように「あ」と小さく声をもらしたあとだった。

「そうだ、ユースさん。わたしのことはエリカって呼び捨てにしてもらって結構ですよ。みんなそう呼びますし。あと敬語も必要ないですから」

「ですが、あなたの方が私よりも先輩になりますし……」

「あはは、確かにこの屋敷で働いてた時間はわたしの方が長いかも知れませんけど、ユースさんはあのトリシャさんに鍛え上げられた、いわばメイドになるべくしてメイドになったメイドじゃないですか。たぶん、技能としてはわたしよりも遙かに上だと思いますよ。もう少し経てば、助けを借りるのはわたしの方になると思いますし。だから敬語はなしでお願いしたいんですけど……」

 エリカのお願いが、徐々に尻つぼみになっていく。
 それはユースの顔が、若干困ったように強ばったからであった。

「……あの、もしかしてユースさん。誰に対しても敬語が普通だったりします?」

「……申し訳ありません。切り替えができない未熟者でして」

 敬語でなくてもいいと言われたが、ユースにとって敬語とは即ち自分の言語そのものだった。砕けた言葉というのは、別の言語も同然なのである。

 仕える者として教育された者の中には、そういった部分まで徹底された者が存在する。エリカもそういった手合いは初めてではないのか。苦笑を浮かべつつ顔の前で軽く手を振った。

「気にしなくてもいいですよ。そちらが気楽にしてもらえれば、わたしも気楽ですしね」

「そう言っていただけると助かります。それと、代わりと言ってはなんですが、エリカさんの方も私に対して敬語を使わなくて結構ですよ」

「いいんですか? ユースさん年上なのに」

 しつけが行き届いているのだろう。気安いように見えて、そういったところはきちんとしているらしい。ただ、ユースの記憶によれば、エリカの年齢は十四歳であり……

「失礼ですが、エリカさんの年齢は十四歳だと記憶しておりますが」

「そうですけど……あ、あれ? もしかして……時にお尋ねしますが、ユースさんの御歳はいくつなのですかね?」

 何かに感付いたのか、まさかという感じでエリカは質問を恐る恐るぶつけてきた。
 ユースは何を焦っているのだろうと首を傾げつつ、提出した書類にも記載されているわけだし、隠すものでもないとはっきりと自分の年齢を伝えた。

「今年で十三になりましたが」

「うそっ、年下?! その身体で!?」

 大きくのけぞり愕然とした表情を見せるエリカ。その視線はまっすぐユースの身体に突き刺さっていた。

 肩までのびた薄茶色の髪。切れ長の翠眼と、色合い的には普遍的な組み合わせだ。容姿はかわいいというよりは綺麗と言った方が正しい、精緻な整い方をしている。眼鏡をかけているも相まって、全身から大人っぽい理知的な雰囲気が漂っていた。

 ただ、エリカが言いたいのは容姿ではなく、プロポーションの方なのだろう。
 百六十近い身長。メイド服で隠された肉体は、それでも発育が良いことを如実に表すラインを描いている。それは十三歳の少女にしては、著しい発育具合だった。

「そ、そんな…………てっきりわたし、年上とばかり……!」

「すみません。よく間違えられるのですが」

「あ、ううん、いいよいいよ。間違えたわたしが悪いんだし。でもそっかぁ、年下なら敬語じゃなくてもいっかな。うん! それじゃあそういうことで、これからもよろしくね! ユース!」

 にぱっ、とすぐに笑顔を取り戻したエリカは、手を振って部屋を後にした。

 敬語だけではなく名前も呼び捨てだ。ユースは心なしか照れくさそうに、誰もいなくなった扉に向かって、『こちらこそ』という気持ちでコクンと頷いた。

(エリカ・ドルワートル、とてもいい人のようですね。さて――

 ユースはそこで、本命である部屋の主の方へと近付く。

「お嬢様、おはようございます」

 起伏を続けるベッド。まだ眠っているのかと思いきや、その実主が起きていることにユースは気が付いていた。先のエリカの大声で目を覚ましたのだ。

 何が目的なのか、寝たふりを続けていた少女はベッドの上でむくりと起きあがる。
 綺麗な真紅の髪がベッドの上に散らばる。寝起きのどこか物憂げな表情も相まって、彼女は年齢以上の色香を漂わせていた。

「……おはようございますわ、ユース・アニエース」

 鮮烈な印象を与える真紅の瞳を従者となった少女に向けて、シストラバス家次期当主にして今代の竜滅姫たるリオン・シストラバスは、気怠そうに朝の挨拶を口にした。






       ◇◆◇






 闇の中を蠢く者たちがいる。

 昼間にあってもほの暗い森の中に潜む、姿を隠す長衣を纏った者たちだ。
 年齢や性別さえ不詳の彼らは、そこにある闇のように固まっている。ローブの下に鋭利な刃物を忍ばせ、じっと決行の時を待っていた。

 常人とは思えない雰囲気を漂わせる彼らは、もちろん常人ではなかった。

 暗殺者――しかもそれを職業として生業にする、歴とした殺し屋である。

 主に要人を仕留める仕事に就くことが多く、今まで殺してきた数は両手の指では足りない。間違いなく彼らは一流の暗殺者であった。四人一組で常に動き、敵を穿つ。……しかし今回に限っては、彼らは一人の人間を同行させる予定になっていた。

「なんで俺たちが他の奴らと組まないといけないんだ。下手な奴がやってきたら、邪魔者以外の何者でもないってのに」

「仕方ないだろ。首領からの命令なんだから」

「それに今回のターゲットはあの竜滅姫だ。上が援軍を用意したって別に不思議じゃない」

 待つことに暇をもてあました一人の男がぼやくと、周りの仲間たちからうんざりとしたような声が飛んだ。こうしたやりとりは、すでに何回も行われていたらしい。

「だけどよ、戦術的に合わない奴が来たらどうするんだ? 真正面から向かって行く奴とか」

「馬鹿か、そんな暗殺者がいてたまるか。上層部が動いているんだ。相応の奴が来るだろうさ。あるいは、もしかしたら幹部が出張って来る可能性だって――

「おや? 大正解ですよぉ」

 男たちのお決まりの会話に、ふいに新たな声が混ざる。

 男たちは驚く時間すら惜しむように得物に手を伸ばす。木の葉を踏みながら近付いてくる男が敵であったなら、コンマ数秒で攻撃することができる状態だ。

「いやですねぇ。そんなに殺気だたないで欲しいものですよぉ。これから一緒に行動する仲間じゃなりませんか」

 森の奥からやってきたのは、いやに気配の薄い男であった。
 顔に一見友好的とも見える笑みを張り付けた小柄な男である。浅黒い肌と橙色の髪。目は非常に細く、空いているのかよくわからないほどだ。

 年齢が三十代ほどか――ここまでが外見上判断できる男の人相であり、しかし暗殺者たる男たちには、それ以上のものが理解できた。

 即ち――この男、相当血を浴びている、と。

「お前が上から派遣された、協力者か?」

「ええ、名前をギルフォーデと。これでもギルド『琥珀の嘴ガーゴイル』の幹部だったりするんですよぉ」

「ギルフォーデ……『冒涜者』か」

 男が仲間となる人物であると確信した男たちは、得物から手を引く。もっとも信頼などは向けるはずもないが。男たちにとって、ギルフォーデという男は邪魔者以外の何者でもない。たとえギルド内においては幹部の地位にいたとしても、同じ得物を仕留める上ではあくまで対等だ。

「それでは行くとしましょうかねぇ。リオン・シストラバス様の許へ」
 
 そんな暗殺者たちの内心をどこまで把握しているのか、得体の知れない気味の悪さを持つ『殺し屋』は、細い目をさらに細め、にこやかに微笑んだ。

 ギルフォーデの微笑みを見た暗殺者の内一人が、軽く舌打ちして、小声で不平をもらす。

「ちっ、嫌な奴が来たもんだぜ。時間に遅れたことも謝らないしよ」

「聞こえてますよぉ? それに心外ですねぇ。待たされたのは私の方だといいますのに」

「はぁ? 何いってんだ? 俺たちは一時間も待っ――


――私は一日待ちましたがねぇ」


 それが彼にとっての殺劇の合図だった。

 ずっと姿を晒さなかったギルフォーデが待ったという意味を男たちが把握する前に、異常は引き起こる。いや、引き起こされた。鍵盤を叩くように、虚空に指を叩き付けるギルフォーデによって。

『冒涜者』――エンシェルト大陸を主な活動拠点とする裏の一大ギルド『琥珀の嘴ガーゴイル』において、幹部の席に座る一人の男に与えられた称号。表の世界でつけられたなら忌み名であっただろうそれは、裏社会においてはこの上なく名誉なものであった。

 つまり、たとえ相互扶助を掲げる『琥珀の嘴ガーゴイル』の中、厄介者扱いされている『冒涜者』だとしても、その実力は一流の枠すら越えていたのだ。

 果たして、悲鳴すら男たちはもらすことができなかった。
 ギルフォーデが一日前から用意していた罠が発動した刹那、その意識はことごとく刈り取られ、自由意志は剥奪されていた。

「さて、それでは実証を始めましょうかねぇ」

 ほの暗い森には、冒涜者の邪な哄笑だけがいつまでも続いていた。






 リオンの専属メイドとなったユースの仕事は、簡単に纏めてしまえばリオンにずっと付き従うということである。

 何かを望まれればもちろんそれを実行に移すのが従者だが、言われずとも主の心内を汲み取り、前もって行動に移ることが何よりも望まれる。主を一番知り、理解しているのが従者なのだ。

 といっても、ユースがリオンと顔を合わせたのは一週間前でしかない。そこからの僅かな時間で、リオンの全てを知れというのは到底不可能な話。ユースは現在リオンの傍に控えつつ、彼女の趣味嗜好などを把握することに努めていた。

 薄く赤色が混じった白いドレス姿のリオンは、昼食のあとの優雅なティータイムを過ごしているところだ。グラスベルト王国の貴族にとって、紅茶は切っても切り離せない嗜好品であるが、リオンは特に紅茶を好むよう。冬の訪れと共に冷え込んできたリンの月である今日日、まだ幼さの残るリオンの顔には小さな笑みが浮かんでいる。

(どうやら、紅茶の腕は満足していただけたようですね)

 自室のテラスにて一人、紅茶のカップを傾けているリオンの表情を見て、ユースは顔には出さずに胸を撫で下ろした。

 リオンが紅茶好きであることはトリシャより教えてもらっていたので、ユースが一番力を入れて鍛えたのは紅茶を淹れることといっても過言ではない。メイドとして自分を高く買ってもらうために示せるスキルの中、正直ユースにとってこの紅茶こそが切り札と言えた。

(紅茶まで満足していただけなかったなら、再び修行に入らねばならないところでした。これまで何一つとして、満足してはもらえませんでしたから)

 朝リオンを起こしてからのことを、ユースは思い出す。といっても、思い出すことなど微々たるものだ。

 リオンは多くの貴族の子弟が集まる、王都レンジャールの上級学校に通う学徒の身である。現在は冬期休暇で実家に戻ってきているが、やはり学徒であることは変わらない。よって彼女がシストラバス家の公務に関わることはなく、することといえば勉強である。

 勉強は家庭教師によって行われるため、その間ユースは部屋の外で待機を余儀なくされた。その間のことは、特別語ることがない。

 そう、特に語ることはなかった。ユースにとってリオン・シストラバスという主は、まだ書類上の存在とほとんど何も変わらなかった。

(リオン・シストラバス。十三歳。シストラバス家次期当主にして、今代の竜滅姫。現在はレンジャール上級学校に在籍。成績は首席。騎士の家の跡取りとして、名に恥じない剣術の腕を持っている。性格は……)

 紅茶を飲む仕草で貴族としての位がわかるといわれているグラスベルト貴族だが、その法則から鑑みてみれば、リオンはまさしく『完璧』なる貴族だった。

 部屋を見てもよく分かる。無駄なことを一切省いた真面目な性格だ。高貴な立ち振る舞いはどこか高圧的であるが、それを当然と認めてしまう優雅さが一挙一動にまで見られる。まさに生まれてからずっと、環境と自己の精神によって磨かれた、至上の宝石とも呼ぶべき貴婦人である。

 しかし――一週間リオンを見てきたユースは、どこかそんな立ち振る舞いに違和感を覚えていた。

(性格はきっと高潔なのでしょう。竜滅姫という称号にふさわしい自分になろうと、自分はふさわしいのだと)

 ユースの目には、リオンがまるでこの世のものとは思えない、綺麗すぎる存在のように映った。
 人間味がないとでも言えばいいのか。とにかく彼女は『完璧』過ぎた。年相応の幼さを見たのは、父親と触れ合っているときぐらいのものである。

(これがリオン・シストラバス。私の主となった人……)

 正直、予想以上であった。ユースにとってリオンという主は、予想以上に眩しかった。あの女が熱心になるのも頷けるという話だ。

「ねぇ、一つ聞いていいかしら?」

「はい、なんでございましょうか」

 思い出した女の顔が、突然振り向いたリオンと一瞬重なって、ユースは思わず眉を顰めてしまいそうになった。
 トリシャの熱心な教育の賜物か、押さえ込むことができ、なおかつ返事も完璧なタイミングで返すことができたのだが、リオンの表情はどこかむっとしたものに。何か粗相でもしてしまったのかと、ユースは叱咤を覚悟する。

「ユース。あなた、トリシャ婆やにメイドとしての教育を受けたと言ってましたわね?」

 予想に反してリオンの口から出たのは、本当にただの質問だった。

「まぁ、アニエースなのですから、トリシャ婆や以外に教わる人などいないと思いますけど」

「はい、おっしゃられる通りです。私はトリシャ・アニエースに、お嬢様の従者となるべく教育を施されました」

 質問に対して、ユースは自信一杯に答えた。トリシャによって鍛えられた腕は、ユースにとって一つの自信であった。

「それにしては、あなた少々硬すぎではありません?」

 そんな自信を、生涯においては最初で最後の主となる少女は、容易く揺さぶってきた。

「言葉遣いや私に対する呼び方など、婆やが私に使うものとはかなり異なりますわよね? 当然といえば当然なのかも知れませんけど、もう少し柔らかくできませんの? それにその表情。無表情ばかりで、一緒にいて肩が凝りますわ。紅茶の腕はさすがですけど、一緒にいるあなたがそれでは、折角のティータイムが台無しですわ」

「それは……申し訳ありませんでした」

 頭を下げながら、ユースは内心かなりの衝撃に揺さぶられていた。

 思えば、リオンの方から話しかけてきたのはこれが初めてだ。そんな初めてのお言葉が、まさかダメ出しとは……

「そういうところもマイナスですわね。自分の非を認めるのは正しいことですけど、そうも畏まられますと息苦しくて仕方ありませんわ。あなた、私の専属なのでしょう? 学校にも着いてくると聞いてますし……少し直していただけません?」

「精一杯、そのように努めさせていただきます」

「ですから……いえ、もういいですわ」

 はぁ、と小さく溜息一つ。リオンはどこか苛立った様子で、紅茶に口を付け直した。風の冷たさで温くなってしまったのか、あまり美味しそうな表情ではなかった。それどころか、飲んだあとケホケホと咳さえする始末。どこかおかしな場所へと入ってしまったのかと、頭を上げたユースは思ったが、どうやらそういうわけはないよう。

「お嬢様、もしやお身体の具合があまりよろしくないのでは?」

 医学も習ったユースには、リオンの調子に思うところがあった。よくよく観察してみれば、リオンの顔は少し赤い気がする。

「屋敷内でも風邪が流行っていると聞きますし、なんでしたらベッドのご用意を致しますが?」

「必要ありません。人を勝手に風邪と決めつけないでいただけます? 私、小さな頃ならいざ知らず、騎士としての鍛錬を初めたときから、風邪など一度も引いたことがありませんの。
 ……とはいえ、最近冷え込んできたのは事実ですわね。そろそろ部屋に戻るとしますわ。勉強の続きもありますし」

 空になった紅茶のカップをテーブルに置いたリオンは、そっと立ち上がる。
 まっすぐ背中が伸びた姿に、弱さなどは微塵も見えない。気のせいかとユースは考え、部屋の中に戻るリオンを見て食器を片付けにかかった。

 そのとき、再びコホコホという咳が聞こえてきた。

 はっとなってリオンを見ると、そこで振り返った彼女と視線があった。

「これは、ち、違いましてよ! 別に咳ではありません! 誰かが私のことを噂しているに違いありませんわ! ま、まぁ、仕方がありませんわね。私ほどの貴婦人ともなれば、噂せずにはいられないでしょうから!」

 何も言ってないのに、リオンは早口でそう言うが早いか、狼狽した様子で部屋の奥へと引っ込んでしまった。

 テラスに取り残されたユースは、初めて見るリオンの人間味溢れる姿に呆気にとられ、うん、と一つ頷く。

「なるほど、一つお嬢様について理解しました。――温かい紅茶を用意するべきだと判断しますが、どうでしょうか?」

「そうだねぇ。そのまま差し出すと、リオン様はきっと照れてしまうだろうから、何か理由をつけて持っていけば大丈夫かね」

 自分以外に誰もいないテラスの中、声をかけたユースに答える声があった。

 気配もなく風と共にテラスに降り立ったのは、初老の女性であった。ユースの着ているシストラバス家のメイド服とはデザインの違うメイド服を身に纏った、どこか貫禄のある女性である。穏やかな顔には皺が刻まれているが、それでもピシャンと伸びた背中が美しい。

「わかりました。では、私はお嬢様のところへ戻ります」

「まぁ、がんばっておやりよ。まだ一週間。焦ることはないからね」

 ユースは突然現れたに近い彼女――以前シストラバス家で働いていたメイドであるトリシャの登場方法に慣れていたため、驚きを見せることなかった。そもそも、ユースは彼女が影ながら見守っていてくれたことを知っていたので、驚きよりはどこか温かな気持ちを覚える。

(がんばりましょう。めげることなく)

 親しみやすい笑みを浮かべたトリシャは、無表情で意気込むユースを見送ってから、小さく呟いた。

「……ユースにポーカーフェイスを教えたのは、ちょっと失敗だったかも知れないねぇ」

 


 

      ◇◆◇


 

 

 どうしてこうなったのか?
 どうしてこんなことになってしまったのか?

 それが操り人形と化した男たちにとって、唯一の感情だった。

 あらゆる感情が省かれているというのに、その後悔と疑問だけは頭の中を過ぎり続ける。それ以外に考えることができないため、その疑問は永遠に答えの出い苦痛であった。

 どうしてこうなったのか?
 どうしてこんなことになってしまったのか?

 道を誰の目を厭うことなく進んでいく男たちは知るよしもないが、もしも事情を知る他の人間がこの場にいたのならば、そう答えていたことだろう。

 つまり――ギルフォーデに関わってしまったのが、運の尽きだ、と。






「リオン・シストラバススス。そそそその命、も、もら、もらい受け、る、るる」

 リオン・シストラバスの人生にあって、暗殺者という存在ははすぐ隣にあったのだろう。
 馬車を引いていた馬が立ち止まるのを前にして、すでにリオンは向けられた殺意に気付き、鋭い眼差しを車窓の外に向けていた。

 同席していたユースが確認したところ、敵は馬車を取り囲むように四人いる。現在位置はランカ南地区でも人気の少ない場所だ。暗殺を仕掛けるにはうってつけだろう。

「リオン様」

「分かっていますわ。あなたは早々に屋敷へと戻りなさい。もちろん馬車で」

 御者席に座っていた年配の男が、不安そうな顔で振り返る。リオンは彼に対して当然の如く――前もってそういう打ち合わせになっていたかのように避難を告げた。

「お嬢様」

 御者席に座る彼が騎士でないことは、またユースも知っていた。戦闘力はないに乏しい。だから助けを呼びに行かせるのは決して間違っていないと言えるが、それはつまり誰かがここに囮として残るのが前提で……

「ユース。尋ねますが、その手は何かしら?」

 堂々と馬車の外へと出ようとするリオンを、ユースは手を前に出すことで静止させていた。

 やはり、リオンはここで暗殺者の相手をするつもりだ。
 目標であるリオンが残るのなら、御者一人程度逃げることは叶うだろう。しかし、ユースはそれを許すことはできなかった。当然だ。囮とは、この状況で最も危険な立ち位置なのだから。

 ユースは自分の役目、リオンの存在意義、全てを考慮した上ですぐさまその結論に出す。

「お嬢様。真正面から向かってくるような相手は、危険な相手か愚か者と相場が決まっています。ここは私が囮となりましょう」

 そのとき、暗殺者を前にしても余裕を忘れなかったリオンが、苛立った様子を見せた。

「私に、家の者を置いて逃げろとでも?」

「それが主の努めで、これが従者の努めです」

「正論過ぎますわね。却下ですわ!」

「お嬢様!」

 手を押しのけて馬車の外へと出ようとするリオンに、焦りからユースは大きな声をあげた。

 リオンは向けられた大きな声に若干驚いた様子を見せたが、すぐに視線を前に向け直し、扉を開いて暗殺者たちに相対しようとして――

風よ 舞台を守れ

 リオンの横から手を前へと差し出したユースは、最速で魔法陣を展開する。
 馬車の内部を緑に染め上げる魔法光。刹那の内に風の防御場を前方いっぱいに形成した。

 直後――ドンと強い衝撃が馬車を襲う。
 炎の魔法による破壊は風の防壁によって防がれるが、防がれていない部分――馬車の眼前の壁は、焼かれて崩れ落ちた。

「防がれ、れれ、た、たか」

 暗殺者の誰かが狂った楽器のような声をあげたところで、ユースは魔法を消す。

「抜かりましたわ。暗殺者に正々堂々を求めても、仕様がありませんでしたわね」

 騎士であるリオンにとって、戦いとは正々堂々の勝負だ。奇襲も同然の攻撃は、彼女にとって卑怯な行為。ある意味馬鹿げている考えは彼女の方だが、それはとてもとても高潔な考え。馬鹿になどできようもない尊いもの。

「お嬢様。ここはやはり、私が食い止めます」

 何とか発動前に魔法を察知して防ぐことができたユースだが、安心などしていられない。馬車を降りたリオンの前に守るように立って、取り囲む男たちを睨みつけた。暗殺者たちも睨み返してきたが、一番鋭い眼差しを向けてくるのは背中にいるリオンである。

「ユース・アニエース。同じことを二度も言わせないでもらえます? ここは私がやると――

 陽光に、紅く刃が輝く。

――言っているでしょうに!」

 それは紅き刀身を持つ、ドラゴンを殺すために鍛えられた剣――ドラゴンスレイヤー。
 シストラバスの騎士の証ともされる竜滅剣のオリジナルを握りしめて、リオンは足下が爆発したような勢いで、右にいた暗殺者へと走り寄った。

「なんて浅はか!」

 ユースは自身の主の行動力と正義感を呪って、援護のための攻撃を放とうとする。
 
 メイドとして、主を守るための必須技能である戦闘技術を磨いたユースは、風の魔法を扱えた。無論、魔法だけではない。魔法の方が得意ではあったが、近接格闘技術もきちんと学んである。その属性特性から、多くが長距離からの投擲武器を得物に選ぶという風の魔法使いの例にもれず、ユースが得意としているのはナイフだった。

 両手の指に瞬時に三本ずつのナイフを取り出したユースは、腕をクロスさせて一気に投擲する。

 六本のナイフは、リオンが斬りかかった男を援護せんと、あるいは目標は自分こそが殺すのだと移動した二人の男たちへの牽制となる。彼らが横手から向かってくるナイフを迎撃するために足を止めた時間を使って、ユースはリオンを守るため走り寄ろうとし――

「させななななななっ!」

 残った一人。感情を省いた暗殺者らしい暗殺者に止められる。

 燃えさかる炎の矢が四方から襲ってくる。どうやらこの男が先程馬車ごとリオンを屠ろうとした魔法使いであるらしかった。

 横へと跳ぶことで魔法を避けたユースは、無傷で着地を果たす。
 ふわりと風を含んで膨らんだスカートには、汚れ一つ見あたらない。

「…………」

「…………」

 ユースと男は正面から向かい合い、互いに無言で隙をうかがう。いや、ポーカーフェイスを得意とするユースの目から見ても、男の思惑はうかがうことができなかった。

 時間にして数秒――背後で上がった男の絶叫を合図として、同時に攻撃に移る。

 男は無詠唱での炎の魔法。
 ユースも無詠唱での風の魔法。

 無詠唱であるがため、共に魔法らしい派手さはない。しかし、急所に命中すれば相手の命を奪うことは可能とする魔法の矢の一撃。両者の激突は、風の弾丸が炎を打ち消して敵を貫くという結果に終わった。

 風の弾丸を胸に受け、吹っ飛ぶ男。
 ユースは男が倒れ終わるまで見届けず、振り返って主の様子をうかがった。

 そこにあったのは紅の舞踏。血ではありえない美しい紅を翻して、閃光の華を幾度も咲き散らすリオンの姿だった。
 
 すでに最初に目標と定めた男は地面に倒れていた。また、両側から襲い来た男たちとも、たった一人で渡り合っている。暗殺者の男たちは決して弱くはない。だというのに、僅か十三という歳でありながら、リオンの強さは異常とすらいえた。

 瞬く間に趨勢は決する。背後から襲おうとした相手が、素早い切り返しで切り裂かれて戦闘不能になったときには、すでに戦いの結末は決まっていた。残った男もすぐに正面から切り伏せられ、地面に転がる。

「ふんっ」

 リオンはこの結末をすでにわかっていたように、特に何の感慨もなく鼻を鳴らすと、壁の一方が消失した馬車を見やった。

「……この私が使うには、少々見窄らしくなってしまいましたわね」

「はぁ」

 暗殺者を倒して、最初の言葉がそれなのか。ユースは呆れた吐息を吐き出して、困惑を深くする。

 果たして――自分の主、リオン・シストラバスとは何者なのか、と。


 

 


「おやおや」

 細い目を残念そうに歪めて、ギルフォーデは肩をすくめた。

「いくら自由意志を剥奪してあったとはいえ、もう少しまともな戦いぶりを期待していたのですがねぇ。まぁ、私としては、本来の役目をきちんと果たしていただければいいのですが」

 細い指を、まるで人形繰りでもしているかのように動かしていたギルフォーデは、そこで仕上げにかかる。

 無尽に乱舞を始める指。暗闇の中、うっすらと笑みを浮かべる男は、闇に紛れて人形を繰る。

 さぁ、立ち上がれ。
 さぁ、使命を果たせ。
 さぁ、苦痛の時を終わらせよう。

「命とは即ち冒涜するもの。さぁ、人間の限界を超えさせて差し上げますよぉ」

 見えざる糸に意志を乗せ、人形たちを動かす。たとえその意識がなくなっていても、肉体が限界を迎えていたとしても、ギルフォーデの指が命じる限り、人形は人形として絶対の行動に移る。






「勝手なことは慎んでいただけません?」

 そうリオンに責めるように告げられて、表面上は取り繕いながらも、ユースは内面ではむっとした。

「……何が、でしょうか?」

 リオンのいう勝手なことが何であるか察していながらも、あえてユースは尋ね返す。
 これにはリオンは眉をあげ、腕を組み、少し顎を上げて見下ろすようにユースを見た。

「自覚がないようですわね。よろしい。でははっきりも申して差し上げますわ。
 ユース・アニエース。あなたがあの時私の邪魔をしなければ、馬車が壊れることもなく、もっと迅速に暗殺者を確保できましたのよ」

「お言葉ですが、守られるべき主が自ら敵の前に躍り出るなど、尋常なことではありません。お嬢様が強いことは聞き知っていますし、先程の戦いぶりを見ても理解できます。ですが、それとこれとは話が別です」

「……自分の行為は間違っていないと、そう言いたいわけですのね」

「そう聞こえたというのでしたら、きっと間違ってはいないのでしょう」

 冷えたリオンの声と眼差しを見れば、自分の言葉が怒りを買っていることは明白だった。ユースも、少々棘のある言い方になってしまっている自覚はあった。それでも、自分が間違っているとはどうしても思えなかった。

 リオンはシストラバス家にとっても、世界にとって、重要な少女だ。
 死ぬことは愚か、危険な目に遭うことも絶対に許容してはいけない。そう、本来なら護衛もつけずにこうして単独で行動することも間違っているのだ。

「お嬢様、どうかご自身の立ち位置をもう一度正しく認識し、ご自愛下さいませ」

「この私が、自分が竜滅姫であることを正しく認識していないと?」

「はっきりと申し上げさせていただけるのならば、その通りかと」

「っ!」

 リオンの紅の瞳に、憎悪すらこもる。
 彼女にとって、竜滅姫とは己自身を指す言葉。その否定とは、つまりリオン・シストラバス全ての否定に他ならない。

 握られたドラゴンスレイヤーが軋りと歪む。ともすれば斬りかかってくるかと見えるほどに、立ち上がる憤怒は分かりやすかった。

 しかし、ユースとて譲るつもりはなかった。たとえふさわしくないと従者であることを辞めさせられても、自分は竜滅姫の従者である。トリシャからそう学んだ。その時間を否定する真似は許されない。

「…………わかり、ましたわ」

 憤怒は結局、形になって表されなかった。

 了解の意を持つ言葉を、途切れさせつつも吐くリオン。しかし彼女が、自分の言った申し出に対して了承を見せたのではないことははっきりとしていた。

「ええ、嫌と言うほど理解しました。あなたを最初に見たとき、どうも気にくわないと思ったのは正しかったようですわね。まさかアニエースの者に、竜滅姫である意識に欠けるなどと戯れ言を向けられるとは思いませんでしたわ!」

 リオンのその叫びは、つまり我慢の限界を告げる叫びだった。

「この私が意識に欠けるですって? 馬鹿も休み休みに言いなさい! 私はリオン・シストラバス。先代の竜滅姫カトレーユ・シストラバスより不死鳥の意志を引き継いだ、今代の竜滅姫。竜滅姫こそ私であり、私こそ竜滅姫ですわ! だというのに、この私が竜滅姫としての意識に欠けるなど、あり得るはずがないでしょう?」

 揺るぎない自信。絶対の信仰。そこには確かに、意識に欠けているという言葉が入り込む余地はないように見えた。が、それでもユースはリオンの無茶にも見える武勇が、竜滅姫の姿には見えないと思ったのだ。

(私は……)

 そこで初めて、自分が激情に駆られていたということを自覚する。
 従者としてはあり得ない行為を取った理由が、ユースにはわからなかった

 その答えは、リオンから示される。

「どうやら、あなたと私では認識の相違があるようですわね。どのように竜滅姫という存在をあなたが認識しているかは知りませんが、正しいのはこの私です! お母様の姿を見て、私ははっきりと竜滅姫の在り方を認識したのですから!」

「お母様……ああ、なるほど」

 はっきりと告げて背中を向けたリオンの紅い後ろ姿に、ユースははたと気付く。

 そうだったのだ。つまり認識の相違だ。
 自分の中の竜滅姫とリオンの中の竜滅姫の在り方に、確たる相違があるのだ。

 リオンにとって竜滅姫とは、敵に背中を見せず、誰よりも勇猛果敢に挑み、その姿で騎士の正しさを謳う者なのだろう。己が命よりも守るべきものの命を優先し、誇りを優先する。だから彼女は、敵を前にして戦うことを即座に決意した。恐らくこの認識こそ、ドラゴンを滅すために己が命を捧げる竜滅姫に対して万人が思う、共通認識であろう。

 だが、ユースにとっての竜滅姫はそんな認識ではない。
 ユースにとっての竜滅姫は、もっと我が儘で、自分勝手な奴だった。そう、人としてはダメダメで、妻としてはボロボロで、でも母親としてはソコソコな、あの……

――お嬢様」

 思考を中断して、ユースはリオンに声をかけた。

「なんですの? まだ何か言いたいことがありまして?」

「いえ、もはや何も。間違いなくお嬢様は、リオン・シストラバスとして正しかったのですから」

「では一体?」

 困惑を強めるリオンはどうやら気付いていないようだった。
 確かに、神経を集中しておかなければ、この気配には気付くまい。

 ユースはリオンを背にして、再び戦闘態勢に入る。それを見て、ようやくリオンも湧き上がりつつある得体の知れない気配に気付いたようだった。

「なんですの、この気配?」

 それは魔力に似ていて、だけどどこか違う。
 まるで魔力を故意に歪めたかのような気配は、四つあった。

 得体の知れない気配を纏っているのは、倒れたまま放置されていた暗殺者たちだった。
 彼らは起きあがり、一歩、また一歩と近付いてくる。その足取りは酔っぱらいのようにふらふらとしていて、まるで夢遊病患者のよう。

「そこで止まりなさい」

 ユースは警告も含めて声をかける。だが、男たちは止まらない。一歩一歩、ゆっくりとながらも近付いてくる。それは警戒より先に困惑を招く足取りだった。なぜならば、男たちは確かに目を閉じて昏睡の形相を見せているからである。

「……気配は彼らからしますが、なんですの? 彼ら、間違いなく気絶してますわよ」

「わかりません。ですので、どうぞお下がり下さい」

「あなたはまたそんなことを!」

 聞き分けのない主に内心毒づきながら、ユースは風の魔法を、さらなる警告として男たちの足下目がけて放った。これ以上先に近付いたら次は当てるという意味合いである。足下で炸裂した強い風は彼らの身体を後ろに下がらせ、

「え?」

「なんですって?」

 ぐにゃりとまるで骨のない軟体生物のように、男たちの上半身だけが後ろに反り返った。

 それは人間の骨格を鑑みれば、あり得ない反り具合だった。それこそ後頭部が踵に付くぐらいだ。強引に二つ折りにされたといえば分かりやすいか。

 とにかく、ユースの脳裏に響く警報は最高のものを示していた。相手の出方によってはすぐに迎撃できる体勢を取っていたユースは、攻撃魔法ではなく防御魔法を唱える準備を整える。発動の機会は、すぐ後に。

 ぼこりと男たちの身体が膨らむ。まるで体内の水分が沸騰しているかのように、大きな気泡が膨れあがっては弾けるのに似た動きを見せている。
 ボコボコと膨らむ彼らの口からは、断末魔ともいえない獣の呻き声があがり、すでにその身体が彼らの意志による動きを行っていないことは、誰の目に見ても明らかだった。

 そして、膨張の限界に達した肉体が取る末路も、また明らか。

「お嬢様!」

「くっ!」

 一際大きな膨張を見せた男たちの身体が――直後弾ける。

 体内から上がるのは血色の閃光。先の炎による魔法など比較にならない規模の爆発が四方から、男たちを中心にして起こる。閃光と衝撃破は、瞬く間に辺り一帯を飲み込んでいった。






「あまり出来の良い爆弾ではありませんでしたねぇ。収束率に難ありですかぁ。これでは少々、戦略的には使い辛いと言わざるをえませんねぇ。まぁ、死体処理に困ったときにはいいかもですが」

 土煙を巻き起こして爆発した人間は、肉の一欠片も残っていなかった。事実の隠蔽という点だけを鑑みれば、悪くない。派手さに反して威力がお粗末なのはいただけないが、ようは数さえ揃えれば、相手の虚を付ける人間爆弾としては十分使えるということになる。

「一番の難点は、爆弾に変えられる魔法使いを選り好みしてしまうという点ですかぁ。これはもう少し、研究してみる必要がありますかねぇ。う〜ん、もう『琥珀の嘴ガーゴイル』に炎の魔法属性で『爆発』の魔力性質持ちは残ってないんですけど、どうしましょうかねぇ」

 爆発の現場に背を向けて、ギルフォーデはぼやきながら歩き出す。

「美学に反してしまうのも問題ですかぁ。やっぱりこう、人の死に様はじっくりと見ていたいものですし。ふ〜、まったく、あの方のためとはいえストレスが溜まりますねぇ」

 その脳裏に、自分が使い潰した男たちに対する引け目は、一切ない。

 人形に向ける感情など、ギルフォーデは持ち合わせてはいない。あるのは命を冒涜できたことに対する、小さな満足感だけだった。






「くっ……」

 あまりの轟音を至近距離で浴びて、前後不覚に陥ったユースはよろめきつつも立ち上がる。

 もうもうと立ちこめる土煙。いきなり暗殺者たちが爆発したときはしまったと思ったが、即席の盾でも衝撃を防げる程度の威力しかなかったようで幸いした。閃光と音のために一時的なダメージこそあるも、これもすぐに回復するだろう。

「お嬢様、お怪我はありませんか?」

 ユースは晴れていく土煙の中、自分の後ろにいるはずの少女の方を振り返った。
 自分よりも後ろにいた彼女がどうにかなっているとは思えなかったが、予想に反して、そこには倒れたまま動かないリオンの姿があった。

「お嬢様!?」

 慌てて駆け寄ってリオンを抱き起こす。ざっと全身を見ても、傷らしい傷は見あたらない。音によって昏睡状態に陥ったのかと思ったのだが、それも違うよう。リオンは熱い吐息を吐いて、苦しそうに眉を顰めていた。

 まさかと思って、ユースはリオンの額に手を当てる。

 暗殺者の最後の一撃を受けたときよりもずっと、ユースは熱すぎるリオンの額に顔を青ざめさせた。






       ◇◆◇

 


 

「どうやらただの風邪のようだよ」

 そう、安堵の笑みを口元にたたえて、シストラバス家当主――ゴッゾ・シストラバスは言った。

「申し訳ありませんでした」

 リオンの部屋の前、娘の様子を見に来たゴッゾに対し、ユースは深々と頭を下げる。心の中は申し訳なさで一杯だった。

 リオンの体調が少しおかしかったことには気付いていたのに、慮ることができなかった。買い物を強行したのはリオンであるし、暗殺者の襲撃も予想にはなかったとはいえ、倒れてしまうまで無理させたことには責任が生じる。お側付きとは、つまりそういうことなのだ。

「罰はいかようにでも。謹んでお受けします」

「おやおや、これは困ったね」

 頭を下げたままのユースに、ゴッゾは苦笑を浮かべた。

「君のことはミセス・アニエースから聞いているが、そこまで気にする必要はないと私は考えるよ。今回のことはどう見ても、どう考えても、誰の所為でもない。あえていうなら、無理を承知で行動したリオンにあるだろう」

「ですが――

「まぁ、従者として責任を感じる君の気持ちも理解できるよ。だからね、ユース。これからがんばって欲しい。リオンに信頼されるようにね」

「ゴッゾ様……はい、全力を尽くします」

 頭を上げ、見つめてくる瞳に期待が込められていることを知り、ユースはもう一度慇懃にお辞儀をした。

「うん、良い返事だ。だけど、覚悟しておいた方がいい。父親である私がいうのもなんだが、リオンはとても難しい子だ。いや、ある意味ではこの上なく簡単なのかも知れないが、本当の意味で信頼されるのは難しいかも知れない」

 ゴッゾは少しだけ自嘲を含めた笑みを浮かべ、扉の向こうで今は眠っている、愛娘を思う。

「……ユース。君はどうしてリオンが、自分が風邪だったことを誰にも言おうとしなかったか、自分さえも誤魔化そうとしたか、わかるかい?」

 リオンの熱はかなりのものだった。正直、立っているのもやっというほどだ。だというのに、彼女はさも平気であるように振る舞っていた。

 そうまでして自分が体調を崩していたことを認めなかった理由――ユースは竜滅姫にまつわるあることを思い出して、恐る恐る述べた。

「……心配をかけたくなかったら、でしょうか? 竜滅姫にとって体調を崩すことは、とても周りを心配させてしまうことになりますから」

「正解だ。結局のところ、リオンは本当にただの風邪だったわけだが、竜滅姫という立場にある者にとって、体調を崩すことはある種の恐怖を伴うんだろうね。
 竜滅姫は呪われている。ドラゴンをその身をもって滅さなければいけない血の役割を呪いと称す者もいるが、それとは別問題として、竜滅姫は呪われている。天敵であるドラゴンによってね」

 遙か千年ほど昔にあった地獄を打ち払った『始祖姫』が一柱を祖と仰ぐシストラバス家は、代々人にとっての敵であるドラゴンを討ち果たす役目を担い続けてきた。千年の間、決して絶やすことなく、呪いじみた宿命をその身を犠牲にして果たし続けてきた。

 ときに苦しく、ときに悲しく、ときには恐ろしかっただろう竜滅という役割。あまりにも大きな重責を背負った彼女らに、この世で最も恐ろしい獣は、さらなる悪意をもたらした。

「リオンより四代前の竜滅姫がドラゴンを退治した折、そのドラゴンが持っていた悪しき力が、竜滅姫に消えぬ呪いを刻んだ。呪いを直に受けた竜滅姫だけではなく、竜滅姫という存在そのものを呪う呪いを」

「存じております。代を重ねてなお消えない、決して癒えることのない病。生きることを苦痛と変える、時間が経つと共に死すら与える毒竜の呪い」

「そう、三代前の竜滅姫より、竜滅姫は生まれながらに重い病を負うこととなった。カトレーユもまた生まれたときから長い間ずっと、屋敷の中から出ることすらままならない状態だったらしい」

 リオンから見て曾祖母にあたる竜滅姫より、竜滅姫は癒えぬ病を患った。
 毒竜の呪いであるその病は、どんな薬効も魔法を寄せ付けぬ重い病。ベッドから出られる日の方が稀という、そんな苦しい日々を竜滅姫に強制するのだ。

 それは辛い。とても辛い。元よりドラゴンを殺して死ぬ運命にあるというのに、自由に生きる日々すらドラゴンに奪われた。事実、リオンの祖母にあたる竜滅姫は、ドラゴンを滅す前に病が原因でこの世を去った。カトレーユ・シストラバスも、ともすればいつ死んでもおかしくない状態であった。

「この呪いは未来永劫続くはずだった。竜滅姫が絶えるまでずっと……しかし、どんな奇跡か。あるいはナレイアラ様の加護か。ご覧の通り、リオンは病を患うことがなかった。カトレーユもリオンを生んだ頃から元気になったしね。まぁ、私が彼女と会ったときにはすでに、彼女はすごく、その、色々な意味でものすごい女性だったわけだが」

 夫ですら微妙に言葉を探さなければいけないリオンの母親のことを考え、ユースは苦虫を潰したような顔になるのを堪えるので必死だった。

 ゴッゾはそれに気付かなかったのか、リオンのいる方角を見たまま、話を続ける。

「しかし、いくらリオンが元気だからといって、呪いは純然たる事実として竜滅姫にかけられている。体調を崩すことは、リオン本人にとっても、周りにとっても、ちょっとした騒ぎになる。リオンが生まれたとき私が面会できたのが一週間後だったこととか、幼い頃は調子を壊すことが多かったとか、心配の種はそこら中に転がっているからね。無理もないといえばそうなんだが……」

 娘を慈しむ親の横顔を見せるゴッゾは、最後にリオンについて簡単に纏めた。

「そんな背景もあって、リオンは無理をすることがある。気付いてやれない私も情けないが、リオンは誰に対しても竜滅姫であることを誇りとして、弱音を見せようとしない。だから私は、できれば君にそんなリオンの気安い友人になってくれたら、と思っている。ちょうど歳も同じだしね」

「友人……」

 ユースは考え込むように、ゴッゾの言葉を反芻する。従者として接することを教えられ、それが当然であると認識していたユースにとって、それは思いも寄らない言葉だった。

「まぁ、君の人柄なら大丈夫だろうから、そう考える必要はないよ。君はありのままの君でいれば、それで十分魅力的だ」

「え……?」

「それじゃあ、よろしく頼むよ。ユース」

 思い悩む娘と同い年の少女を見、ゴッゾはそんなことを笑って言って、ポンとユースの肩を叩いて立ち去ってしまった。

 ユースは頭を下げて見送ることも忘れ、呆然と立ち尽くす。

 その顔は抑えきれない羞恥で、赤く染まっていた。






 リオンの額に絞った濡れタオルを置いて、ユースは考える。

 一度魔法で熱をいくらか奪い取ったからか、リオンの寝顔は安らかなものだった。接しているときの硬さは、その年相応の寝顔からはうかがうことができない。こうしていると、ただ愛らしいだけの普通の少女にしか見えない。

 しかし、違う。リオン・シストラバスの運命は生まれたときから決まっている。竜滅姫――その名は、あまりにも大きい。

(無理をしていなければいいのですが)

 偽りないそんな気持ちが湧き上がったのを、ユースは自分で驚いた。

 こんな素直に心配する気持ちを、まだ一週間しか経っていない主に向けるとは……なんだかおかしかった。気が付いていなかったが、どうやら自分はこの少女のことが、いつのまにか好きになっていたらしい。主を知ろうと見つめ続けた一週間。決して進展があったとはいえないが、それでもリオンの眩しさは十分に理解できたから……

「……驚いた。あなた、笑えましたのね」

 眼を覚ましたリオンに指摘されるまで、ユースは自分が微笑んでいることに気付かなかった。

「と、さすがにこれは失礼でしたわね。ごめんなさい」

「いえ、お気になさらず。それよりも、お加減の方はいかがですか?」

「大丈夫……と言うと、さすがに嘘付き呼ばわりされてしまいますわね。業腹ながら、少々動くのが億劫でしてよ」

 自分が倒れたことを理解したのか、疲れたように、自分自身に呆れたような顔をして、リオンは枕へと後頭部を埋めた。額へと手を伸ばしてそこに濡れタオルが置かれていることに気付くと、バツの悪そうに口元まで毛布を引き上げる。

「……呆れましたか?」

 ボソボソと、リオンらしからぬ声量で呟かれた呟きを、ユースは聞き逃さなかった。

「あれほど違うと言っておきながら倒れるなんて、無様以外の何ものでもありませんわ。あなたの言うことを少しでも聞いていたなら、こんなことにはならなかったはずですもの。だから、呆れているのでしょう?」

 その声は、なんだか酷く庇護欲を誘った。ゴッゾからリオンが元気に振る舞う理由を聞いたばかりのために、尚更目の前の少女が今は小さく感じる。

 紅い髪に紅い瞳。この世で最も尊き騎士の姫。幼くして母親を失った少女は、それでも担った名に恥じないよう、精一杯生きてきたのだろう。高慢とも取れる態度は、他者に認識を強いるものであると同時に、他者を不安にさせないための心遣いなのだ。

 竜滅姫はここにいる。
 竜滅姫はここに在る。

 消えてはいけない存在は、今なおこの世に存在している。不安がる必要はない。ドラゴンがどれだけ恐ろしくとも、世界に絶望する必要はない――存在するだけで世界を安心させる少女は、それを誰よりも理解し、そうであろうとするために、自然とこのような性格となったのだろう。

 もうユースは、リオンに違和感など感じていなかった。まだ幼い少女であろうと、彼女は間違いなく、偉大なる紅き騎士の姫なのだから。

「……いえ、呆れてなどいません。私は今、初めて自分の主がリオン・シストラバスであることを、心の底から名誉であると思っています」

 逸らしていた瞳を大きく見開いて、ユースの浮かべる微笑を直視したリオンは、熱とは違う理由で頬を染めた。

「そ、そうですの。……まぁ、当然ですわね! 私は美しく、素晴らしく、誇らしく、そして何より美しいのですから!」

「美しいを二回言いましたよ?」

「だ、だまらっしゃい! じゅ、従者が主を貶めるとは何事ですか!?」

 毛布を頭まで被り直したリオンは、何やら悶えているようだった。
 そうやって自分の格好悪いところは絶対に見せないよう虚勢を張るのは、彼女なりの生き方としては必要不可欠なのだろうが、それでもそんなところをおもしろいと思ってしまうのは、果たして従者失格なのだろうか?

 否、そんなはずはない。主を愛でることこそ従者の醍醐味。きっと、そう、間違いあるまい。

 クスクスと堪えきれない笑みを浮かべてしまって、ユースはダメだなぁと思う。どうもポーカーフェイスが崩れていけなかった。

 笑みが零れてしまうほどに、リオンの悶える気配が大きくなっていく。やがて毛布からジト目をのぞかせたリオンは、口元を手で隠す従者を見て、はっきりとした青筋を額に浮かべた。

「……私、あなたのことが少しだけわかりましたわ。あなた外見上の表情が変わらないだけで、内心では人並み以上に感情表現が豊かですのね」

 睨んでくる主を見て、ユースは今更ながらポーカーフェイスを発揮させた。笑みを堪えるように口を噤む。

「……まぁ、いいですわ。どうせおいおい分かることでしょうし。少なくとも、あなたの紅茶は美味しいと私認めてますもの」

「では、お入れ致しましょう」

 そんな回りくどい要求を素直に受ければ、リオンは満足げに頷いて、ベッドの中で身体を起こす。ある程度体力は回復しているようで何よりだ。

 ユースは褒められた紅茶の腕を存分に振るうべく、部屋に備え付けられている調理場へとお湯を沸かすために移動を開始する。

 そのとき、ギシリと軋むような音が唐突に響いた。

 リオンがベッドの上で身動いだ音ではない。柔らかなクッションはリオンの体重を完全に吸収している。

 では、一体何が……? 不思議に思ったユースは、音の発生源である方を振り返った。

 そこにはクローゼットがあった。整理整頓が行き届いた、理路整然とした部屋。タンスの引き出しが少し出ていたりとか、そういうのもまったくない部屋の中、そのクローゼットだけが僅かに引き戸の奥をのぞかせていた。

 音の発生源は、どうやらクローゼットの扉が軋んだ音だったようで、クローゼットの中に何が入っているのか気にはなるも、後ろから突き刺さるリオンの視線が尋常ではない。あくまでもユースは、クローゼットの扉をきちんと閉めるためだけに、クローゼットに近付いた。

 ギシリ――今度の音は、重く、大きかった。

「え?」

「わきゃあっ!」

 一歩クローゼットに近付いたユースの前で、扉が内側からの圧力に耐えきれず勢いよく開く。
 中に入っていた品々が雪崩のように床の上にぶちまけられ、リオンの悲鳴と彼女がベッドから転がり落ちる音が見事に重なって聞こえた。

「これは……ぬいぐるみ? どうしてこんなものが……?」

 ユースの足下に軽く小山になるぐらい積み上げられたもの――体積を無視してクローゼットに詰め込まれていたのは、大小様々なぬいぐるみであった。庶民的なものから、オーダーメイドと分かるものまで、かわいらしいぬいぐるみが転がっている。

 加えて、ひらひらと空から舞い降りるレターシートには、直視し辛い甘い詩などが書きつづられていて……ユースはこのとき、暗殺者を前にしても感じなかった明確な殺意と恐怖を、背後に感じた。

「見ましたわね。私の秘密を、見てしまいましたわね」

「り、リオンお嬢様?」

「ええ、そうですわ。私は騎士でありながらぬいぐるみとか、かわいいものが大好きでしてよ。趣味は詩ですわ、文句ありまして? 身体が朝から怠かったのを承知で街に出かけようとしたのも、今日予約しておいた抱き枕が届くからですのよ」

「………………………………はい?」

「残念ですわ。あなたのことは、ほんの少しだけ認めかけていたといいますのに。屋敷の者でも一部しか知らない私の秘密を暴いてしまうだなんて」

「いえ、全てリオンお嬢様がご自分で、ですね」

「お黙りなさい! こ、こここ、こうなったら、疾く口封じをぉおおお!」

 ゆらりと魔力を纏って立ち上がるリオンの目は、熱が原因か、はたまた羞恥が原因か、完全に据わっていた。むしろ理性をなくした獣の如く、爛々と光を放っていた。

 そしてその手には、指輪から転じた紅きドラゴンスレイヤーが。

 ユースは主の性格と嗜好の一部をまた理解すると共に、スカートの裾を持ち上げて、猛然と逃げ始めた。

「お待ちなさい! あなたが私の従者だと言うのなら、私のために記憶を失いなさい!」

「無茶を申されないでくださいませ!」

 そうして――主従の追いかけっこは、リオンが再び倒れるまでの約三十分の間、屋敷全ての人間の目に晒さる中続いたのだった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 もう深夜になった頃、暴走したリオンを何とかベッドで眠らせることに成功したユースは、ようやく宛われた自室に戻ることができた。

 溜息ではない深い深い息を吐き出して、ベッドに座り込む。
 この一週間、毎日緊張から疲労は大きかったが、今日という日はいつもの数倍は疲れた。

「しかし、得られたものもありましたね」

 誰とも無しにそう呟いて、ユースは背中からベッドに倒れ込んだ。何となく、そうしたい気分だった。

 軽く目をつぶって、今日あったことを思い出す。
 新しい環境には未だ慣れず、とても名誉な役割は未だ全うできていない。

 まだまだ未熟だと、そう思う。結局また主を倒れさせてしまったし、明日からはもう少しがんばらなければ。

 だけど、そうして今日から続く明日へと色々なものを積み上げていけば、途切れることなく続けていけば、きっといつかはリオンにだって認められよう。それがいつになるかはわからないが、がんばる価値はあると、そう思うことが今日できた。


――お願い。リオンのことを、見守ってあげて』


 ふいに、あの日の彼女の言葉を思い出す。

「…………」

 目を開いたユースは、服に皺をつくるわけにもいかないと、むくりと起きあがった。

 正直、早起きはあまり得意ではない。それでも早起きしなければいけないから、もう眠るとしよう。お風呂に入って、眠る準備をして、そして……

「私は、リオン・シストラバスを好ましく思っている」

 呟きと共に、ユースはメイド服を一気に脱ぎ捨てて、つけていたホワイトブリムを取り去った。そのときそこにいたのは、竜滅姫の従者であると同時に一人の少女でもあるユース・アニエースだった。

「……ええ、それがほんの少しだけ悔しい。あのダメ女の言うとおりになってしまったことが、少しだけ」

 ユースは眼鏡を取って、苦笑を浮かべつつ机の上に置く。

「でも――

 今日という日常をまた明日も続けるために、また今日も――ユース・アニエースは約束するように小さな感謝を口にする。

「でも、そう悪くはありませんね」

 嫌いだけど、それでも感謝せずにはいられない、誰かに向けて。









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