番外編  有限の翼


 


――願いはないか?」

 これから数十分の後に自分の妻になる他人に対して、そう問い掛けた。

「なんでもいい。叶えたい願いがあれば、一つだけそれを叶えよう」

 それは罪悪感から来る問い掛けだったのかも知れない。
 たとえ要請が向こうから来たものだったとしても、結婚というものに女性が憧れを持っていると思っていたから。

 もしくは、これからの仲を良好にするための打算だったのかも知れない。
 彼女からの好意を獲得するのは、夫としての身でも、これから権力を手に入れていく上でも、ないよりはあった方が良かったから。

 あるいは……ほんの少しだけ、男としての矜持だったのかも知れない。
 自分が君と結婚するにふさわしい男であると、そんな器を見せたかった可能性はあった。それほどまでに、妻となる女は魅力的だったから。

 そのとき、どんな理由で問い掛けを放ったかは定かではないが、少なくとも願いが何であれ叶える腹積もりだった。無茶な要求であっても叶える自信はあったし、むしろそれくらい叶えられなければ、これからの無理難題は解決できないと踏んでいた。

 婚約の儀の前に投げかけた一つの問い掛け。
 ゴッゾ・リンページが紅髪紅眼の花嫁に与えた、一つの選択肢。

 乙女が一生に一度だけ着る純白のウェディングドレスを纏った紅い花嫁は、即答を返した。

 罪悪感。打算。矜持。ゴッゾが抱えていたそれら全てを吹き飛ばす、一言で。


――――三食昼寝付きの結婚生活を強く希望っす」


 それが本当の意味で、カトレーユ・シストラバスと共に歩く道の始まりだったのかも知れない。


 

 

       ◇◆◇
 


 


「た〜い〜く〜つ〜」

 むにゅりと、背中で柔らかな膨らみが潰れる感触があった。

「退屈。とても退屈」

 後ろからぐったりともたれかかってきたカトレーユは背中に胸を押し当てるだけでは飽きたらず、顎をゴッゾの頭の上に乗せた。その状態で体重を容赦なくかけつつしゃべるものだから、骨伝導により嫌な感じで耳の裏に声が響く。

「退屈。退屈。退屈。退屈」

 抑揚のない声で同じ言葉を繰り返すカトレーユ。耳障りな雑音は、大切なことを考えていたゴッゾの脳内から、瞬く間に案件への対策案を吹き飛ばしていく。加えて彼女は面倒という理由からコルセット等をつけていないので、ダイレクトに感触が伝わる大きな膨らみは情欲という方面からもゴッゾを追い詰める。

「…………カトレーユ……」

 椅子に座って執務机に向き直っていたゴッゾは、手に持っていた羽根ペンをプルプルと震わせた。ペン先についていたインクが、今し方まで取りかかっていた領民からの嘆願状に数多降り注ぐ。

 ああ、書き直しだ――と理解した瞬間、三日間徹夜のゴッゾの脳内で、プチリという音が聞こえた気がした。

「邪魔をするなら部屋に入ってくるんじゃないと、なんど言ったらわかるんだっ!」

 ガガガガガ、と人の頭の上で顎の開け閉めを繰り返すという暴挙に及び、執務の邪魔をしてきた妻をはね除けるように、ゴッゾは立ち上がって声を荒げた。反動で机の上に置かれたインクが倒れこれまでに処理した書類をいくつか台無しにしたが、そんなもの知ったことか妻を睨みつける。

 まだ若い実業家の顔は三日間の徹夜に加え、この一週間ほどの総睡眠時間が十時間を切っているため隈ができ、無精髭も生えた状態でかなり恐かった。

 それでもそんな夫の様子には慣れている、この一週間の総睡眠時間が六十時間くらいだと思われる妻は、怯えることなくニヤリと笑った。

「怒るなんて酷いね。こっちは不眠不休でがんばる旦那様のために、恥ずかしいのを我慢して癒しに来て上げたっていうのに」

「本当にお前が心優しい妻であったなら、退屈などという理由で忙しい夫の邪魔はしないだろうよ。完全に自分の欲望のためという発言をした上で、よくそんなことが言える」

「そんな風に否定的に考えるのは良くない。ほら、照れ隠しだと思うと何かとってもかわいく見えない?」

「見えないし思わない。ああ、憎たらしい以外の感情が湧かないよ」

「そっか。残念だったね。もう少ししたらきっと、色々とムフフな体験ができたのに」

 明らかに執務の邪魔をしておいて、飄々と何の悪びれた風もなく振る舞っているのは、これが本当に憎たらしくもゴッゾの妻であるカトレーユ・シストラバスであった。

 年齢は十九。少女としての面影を残しつつ女性として成熟を果たした、誰が見ても文句なしの美女である。感情の起伏が乏しいのも、その精緻な顔つきと相まって、神秘性という好意的な印象に変換されている。さらに体つきが出るところは出て引っ込んでいるところは引っ込んでいるという見事なものだから、奇妙な色香も同席していた。

 長く伸ばされた髪は燃え上がるような真紅であり、また瞳の色も同様。
 身につけているのが身軽なワンピースであっても損なわれない気品は、なるほど、名門シストラバス家の当主としてふさわしいものだろう。毎日顔を合わせるゴッゾでも、正面から見ると今でもはっとするくらいである。

 しかし、あくまでもそれは容姿だけを鑑みれば、の話である。

「そもそも、だ。シストラバス家の現当主はカトレーユ、君であったはずなんだけどね? どうして私が寝る時間を削ってまで働いているというのに、君はそんなに暇そうなんだい?」

 ピクピクと震える頬を努めて笑顔の形で固めて、ゴッゾは見た目だけは麗しき妻へと向けた。

 それはおおよそ誰でもわかるくらいの苛立ちを堪えた顔だったろう。無論、カトレーユとて気付かなかったはずあるまいが、それでも無意味な部分で生まれながらの貴い血を発揮して、カトレーユは堂々と見返してきた。首を傾げながら。

「…………あれ? わたしがこの家の当主だったっけ? ゴッゾじゃなかった?」

「入り婿である私がどうやって、竜滅姫としての資格を有するお前がいるのに、このシストラバス家の当主になるっていうんだい?」

「そこは、ほら……根性? もしくは気合いで」

「せめて実力を示す、ぐらいは言って欲しかったよ」

 先代当主クロード・シストラバスより当主の座をカトレーユが譲られたのが、まだ一年ほど前のことだというのに、このお気楽当主は本気で忘れていたらしい。
 いい訳でも虚言でもない、心底からの驚きを露わにされてしまえば、もう疲労困憊のゴッゾには怒る気力すらなかった。

「もういい。どちらにしろお前に執務は無理だし、私が入り婿として選ばれた理由もこのためにあるんだ。これ以上邪魔さえしなければ怒ったりはしないから、今は出て行ってくれ」

「追い出すなんて酷い。それが妻に対する夫の言葉? うぅ、ゴッゾが構ってくれなくて寂しいよぅ」

「…………はぁ、勘弁しておくれよ」

 その場に泣き崩れ、どこからともなく取り出したハンカチを噛み締めるという演技をする、多くの人々からの憧憬を集める竜滅姫を見て、ゴッゾは深々と溜息を吐いた。どうやら彼女は本気でお暇のようで、出て行ってくれる気配が微塵もない。

 だからといって、ここで折れてしまえば、今日一日を無駄に過ごすことは目に見えている。今さっき気が付いたが、窓の外では朝日がのぼったばかりである。浪費時間はあまりにも大きい。

(お早い起床……なわけないか。どうせ昨日は昼寝からそのまま夜まで寝ていたんだろう。妬ましい)

 自由気ままに喰って寝てを繰り返す、自堕落極まりない妻を羨ましげに見ながらも、ゴッゾの脳内ではカトレーユを部屋から追い出す算段が考えられていた。

(誰かに押しつける……のは、得策ではないか。この時間だと多くはまだ寝ているだろうし、名前だけだが一応は当主であるカトレーユに逆らえるとは思えない。ああ、そうだ。それに私もいい加減に休めと散々言われているんだったな。逆に敵に回られる可能性も……)

 ゴッゾ・リンページがゴッゾ・シストラバスとなり、このオルゾンノットの城に住み始めて一年が経過した。 

 この他の貴族とは一線を画す名家の住人は、それ相応に独特の空気を持っていた。騎士然り、使用人然りだ。伝統と格式を大事にするといえば聞こえはいいが、皆なぜかこの人を邪魔することだけは得意極まりない妻の味方をするとなれば、ゴッゾとしては肩身が狭い。

 いや、自分があまり家の者たちから好まれていない理由には察しがついている。このカトレーユが愛されている理由にも、だ。

 ゴッゾの生まれたリンページ家は男爵位を持つ家柄だった。
 一応は爵位持ちの貴族ではあったが、領地はグラスベルト王国でも隅も隅。国にとっての重要度が殊更低い、ある程度上質なぶどうが取れるだけの田舎であった。

 そんな田舎貴族の三男坊であるゴッゾは家督も譲られぬ、貴族とは名ばかりの貴族であった。そんな貴族が、グラスベルト王国内でも格式だけなら間違いなく一番、世界へと舞台を移しても名高いシストラバス侯爵家の入り婿となったのだから、内外問わず疑問と否定の声が大きいのは仕方がないのである。

 無論、ゴッゾがそれでもカトレーユの夫になったのには相応の理由があった。

 確かにリンページ家は貴族内でも底辺も底辺だったが、ゴッゾ個人としては誰にでも通用する巨大な力を持っていたのだ。

 商才。そして、そこから生まれた莫大なる『資産』である。

「頭が痛い。どうしてこうも問題が山積みだというのに、本来率先して解決すべき相手に邪魔されないといけないんだ。
 カトレーユ。お前だってわかっているだろう? 今、このシストラバス領及びシストラバス家が瀬戸際にあるのを」

「ん? ああ、うちって貧乏だしね」

 床で泣き真似を続けていたカトレーユから即答が返る。こんな彼女にも即答されてしまうほどに、それは深刻な問題だった。

 名高い名門シストラバス家は、国の方針だけではなく世界の方針にも口を出せる権力を有している。が、権力と資産は別問題である。つまり、はっきりいえばシストラバス家にはお金がない。 元々騎士の家系のため裕福とはいえなかったが、先代の無茶なお金の使い方の所為で現在極貧に喘いでいる。
 
 どれくらいの極貧っぷりかというと、あくまでも自分の領地を持たない一個人の資産とはいえ、かなりの額だったゴッゾの資産を投入しても全然足りず、勇猛果敢な騎士たちの給料さえ満足に払えないくらいである。いや、現実から目を背けるのは良くない。正確にいえば、お給金がないので頭を下げて首を切らせてもらうくらいの極貧っぷりである。

 金がなければ権力があっても意味がない。世の中空しいかな、金で回っているようなものだ。

「今は何とか私の個人資産の残りで食いつないでいるが、来月にはとうとうそれもなくなる。それがどんな意味か、お前だってわかるだろう?」

「それ、そんなに問題? 確かゴッゾが何か色々と新政策を打ち出してなかった? そもそもゴッゾがわたしの旦那様に選ばれたのは、お金もそうだけど、その商才を買われたからだし」

 立ち上がったカトレーユの目はちょっぴり冷たい。暗に『もしかして政策失敗した? 腕を買われて契約したのに、役に立たないって何?』と語っているようだった。

「たった一年で立て直せとは無茶を言う。お前はどれくらい一年前のシストラバス家が危険状態だったが、正確に把握してなかったようだね」

 だが、これにはゴッゾも反論があった。

「いいかい? 新政策とはいっても、先物取引や農地改革、そういったものの結果が出るのには時間がかかる。通貨流通や貿易、新開発などをすれば、確かにある程度まとまったお金が早い段階で手に入っただろう」

「なら、どうしてやらなかったの?」

「簡単だ。そういったハイリターンな政策には、乗り出すだけでも金がかかる。それらのハイリターンな政策にかけられるだけの予算がなかったんだ。ローリスクローリターンでも、長い目で見て行くしかなかったんだよ」

「男なら〜、失敗恐れず〜、挑戦していけ〜」

「歌うな。今初めてそれらのことを知った総責任者」

 ゴッゾは領地内のピンチを知ってなお態度の変わらない妻を見ているのが精神安定上良くないと悟って、窓の外へと視線を変えた。

 紅き騎士の都――古都オルゾンノット。
 歴史深い広大なる領地に住む住人らの暮らしは、決して楽とは言えない。

「今は領民たちを餓えさせず、逃げさせないので精一杯だ。ハイリターンな政策を仕掛けられるのには、まだ数年はかかるだろうね」

「三時のおやつに加えて十時のおやつを食べられるのには、まだまだ時間がかかるってことだね」

「その時間にはまだ起きてないくせに……とにかく、今が一番大事な時期だ。来年にはある程度動かせるまとまった金額が領民たちから収められるだろう。そのためには今を何とかして乗り切らないといけない。だから――

「結婚生活から一年、とうとう借金生活か。案外早かったかな」

「なんだ。わかっているじゃないか」

 カトレーユの相づちを受けて、ゴッゾは椅子へと腰を戻した。それから領民からの頭が痛くなる嘆願書をどけて、その下にあった高級な羊皮紙を手に取る。それは領民からではなく、シストラバス家からとある場所に向けての嘆願書だった。

「普通の貴族ならここが一番の悩みどころだけど、幸いにもシストラバス家には歴史と格式がある。それにカトレーユ、お前もいる」

 寝不足でテンションのおかしいゴッゾは、ニヤリとあくどい笑顔をカトレーユに向けた。

 カトレーユは少し考える素振りを見せたあと、眉を僅かに顰めた。

「……もしかして、わたしのこの魅力溢れるボディで取引相手を誑かして来いって言いたい? 酷いね。やっぱりゴッゾはわたしの身体だけが目的だったんだ」

「人聞きの悪いことを言わないでくれないかな? それとやっぱり、ってなんだい。誰がそんなことを頼む。当主に――ひいては家に傷がついては、将来において不利になる」

 ゴッゾが自分の資産を投げ打ってまで極貧貴族の家にやってきたのには、あくまでも目的あってのことだった。

 商売によって若くして多額の資産は手に入れられたゴッゾだったが、国において高い地位につくには、肝心要の権力というものがなかった。ゴッゾの野心は自覚するほど大きく、権力を手にするためには、たとえ滅びの運命を共にする可能性が大きいというハイリスクを背負ってでも、シストラバスという肩書きが欲しかったのだ。

 不安がなかったといえば嘘になる。だが自信はあった。シストラバス家より婿入りの話を個人的に持ちかけられたときは、これが運命であるとも思った。

(それに個人だったときよりも、取れる選択肢は大幅に増えた。カトレーユの竜滅姫という肩書きがある限り、彼らは決してこの嘆願をはね除けられまい)

 ククククク、という暗い笑みを浮かべながら、ゴッゾは羊皮紙に記入された嘆願を差し出す相手を――世界で最も裕福な機関の名称の部分を手で叩く。

 そこに刻まれた名は聖神教。この世界において人口の九割以上を信者とする、権力においても資金においても、間違いなくダントツ一位の宗教団体である。

「カトレーユを使って、当面の資金を出させる。資金が手に入れば、あとは勝手に増えていく。これで私はぐっすりと眠れるという寸法だよ」

「……もしかしなくても、ゴッゾって夫としてはダメダメだよね?」

「人としても妻としてもダメダメなお前にだけは言われたくない。言いたかったら働きなさい」

 言わないでいいことまでつい零してしまったゴッゾは、それでも正面からカトレーユを見た。この女に対して、何ら恥じ入ることはしていないつもりだった。

 まったく働こうとしない肩書きだけは超一流のお姫様は、窓の外で輝く太陽を眩しいものでも見るかのように見て、

――働いたら負けかな、と思ってる」

「黙れ。人生の負け組」

「まだ負けてない。そうなるかどうかはゴッゾ次第。期待してるよ、旦那様」

「……元より、そういう契約だ」

 言うに事欠いてとんでもないことをはっきりというダメ人間が妻という事実だけは、どうしても貪欲なゴッゾとしては認めがたいものがあったのだが、真正面からこう言われてしまうとやはり悪い気はしなかった。

(……なまじ洗練されているだけに、タチが悪い)

 ゴッゾは別に、カトレーユが嫌いなわけではなかった。

 積極的に政に干渉してくる妻の方が嫌だし、何もいい政策を打ち出せとも望んでいない。ただ、それでももう少し自分の領地と領民のことに興味を向けて欲しいと思うのは傲慢なのだろうか。このカトレーユが興味を向けることといったら、刹那的な快楽くらいなものだ。おおよそ人としての三大欲求に、ここまで正直に生きていられるのはすごいかも知れない。

 しかし、同時にそのことに対して疑問にも思うのだ。
 どうしてこのカトレーユ・シストラバスは、こうまで自分に対して興味を抱いているのか、と。

 性格、といえばそれまでだが、たかが性格一つで、女性としては重要な結婚相手を適当に選ぶものなのか。

 政略結婚。ゴッゾとカトレーユの結婚は、つまりはそういうものだった。愛など微塵もない。そもそも、出会って一月にも満たない上でも結婚である。

 貴族の常であり、家の状態と矜持上多くは選べなかったとはいえ、シストラバス家は名家だ。自分よりも資産のある相手はいただろうに、なぜか自分が竜滅姫の夫として選ばれた。それが結婚してからずっとゴッゾは気になっていた。

 薄々そのことに対して気付いたことがある。この神からも国からも人からも愛されるダメ人間が、その理由にはあるのだと、それだけは気が付いたから疑問は募る。

 そしてゴッゾは、疑問は解決しなければむず痒く感じてしょうがない人間だった。

「ところで、ゴッゾ。わたしへの愛のためにも、退屈凌ぎのためにも、お小遣いちょうだい」

「私はそれより、お前からの優しさと愛が欲しいよ。カトレーユ」

 それでも訊くことが躊躇われるのは……思いの外、この妻との時間が悪くなかったからなのかも知れない。






       ◇◆◇


 

 

「そういえば、わたしがゴッゾのところに行ったのには、何か理由があったからなんだけど」

「理由? ただ退屈だったからじゃなかったのかい?」

 結局邪魔されている内に朝食の時間になったあげく、強引に部屋ではなく食堂へと足を運ぶことになってしまったゴッゾは、道すがらカトレーユにそんなことを告げられた。

「何か、そう、結構大事な用件があったはずなんだけど……」

 隣を歩くカトレーユは、考え込むように顎へと手を当てる。元々それはゴッゾが考え込むときの癖だったのだが、おもしろがって真似している内にカトレーユにも移ったものだった。理知的とはお世辞にも私生活を知っているゴッゾには言えないカトレーユだったが、その見た目だけはどこまでも決まっていた。

 すれ違う使用人の目をうっとりとさせること、僅か一回。

「まぁ、いいや」

 カトレーユはさっさと悩むのを止めてしまった。本当に見た目だけな奴である。

「……お前のところにだけ行くような案件だったなら、それは大したことがないだろうから強くは言わないが、あまりそういった何かを忘れては欲しくないんだがね。今この家は些細なことでも潰れるから」

「大丈夫、大丈夫。覚えてないなら重要なことじゃないだろうし」

「一応言っておくが、さっきまでお前が覚えていなかったことは、全部重要だったりするんだけどね」

「まぁ、気にすんな」

 キャラ変更してはっはっはと親父臭く笑うカトレーユ。次にすれ違った使用人は、ぎょっとなって目を逸らした。

 そうこうしている内に食堂へと到着。

「いい匂い。ゴッゾ、いつも一人で朝はこんな美味しい匂いのするもの食べてたんだね。ずるい」

「昼間になっても起きてこない誰かさんに責められるいわれはないよ」

 食堂は長机が真ん中に置かれているだけの何とも殺風景なものだった。それでも千年近い月日を経た古城であるシストラバス邸は、それだけで十分雰囲気はあったが。

 質素倹約に務める騎士の家らしいといえばその通りなのだが、実際のところ、飾ってあった調度品を全てゴッゾが売り払ってしまっただけである。歴史を大事にする古くからの関係者は難色を示したが、カトレーユにもそれらに対する執着心はなかったので、予算へと有効に組み込ませていただきました。

 そんなわけで、出てきた貴族とは思えない簡素な食事といい、ゴッゾの政策は一年経った今では屋敷のあちらこちらで見ることができた。それらがまた周りからの非難を生んでいるのだが、ゴッゾには伝家の宝刀がある。

 ――潰れるよ? この家。

 そう言われてしまえば、古参の連中ほど黙るしかない。今の貴族とその家臣としては、あっぱれというしかないくらい主従の絆は強いのであった。

「そういえば、今日誰か来るとか言ってなかった?」

「……それを今訊くのかい? カトレーユ」

 テーブルを囲んでいるのはゴッゾとカトレーユだけ。使用人が横で整列しているが、彼らは一緒には食事を取らない。また口も開かない。というわけで、突然の声はカトレーユ以外にはいなかった。そういう風に読んでいくことで妻が話しかけてきたと察したように、ゴッゾは食事をしつつ半ば夢の世界へ旅立っていた。

 さすがに三日間の徹夜はゴッゾでも厳しかった。だが、ここで寝入ってしまうのはプライドが許さない。金の工面も上手くいくだろうし、話題にあがった客の対応が終わればある程度暇ができる。そうなったときに堂々と眠ればいいのだから、今はぐっと堪える。

「お客はカトレーユも知っている相手だよ」

「へぇ、誰?」

「ミセス・ホワイトグレイルだ」

 ピシリ。と、そのときスープを口に運んでいたカトレーユが硬直した。
 
「おや? どうかしたかい?」

 表面上は気遣う表情を浮かべつつも、ゴッゾは妻が固まった理由に気が付いていた。

 本日の昼頃に客として訪れる相手――ミリティエ・ホワイトグレイルは、シストラバス家にとって縁深い相手である。家同士の付き合いは千年近く前まで遡ることができ、互いの危機には何度も助け合ってきたという。

 無論、彼女がやってくるのはゴッゾがそう仕向けたからである。聖神教へと送る嘆願書はほぼ確実に通ると思われるが、それでも念には念をいれて、かの家にも保険としてお願いしておく腹積もりなのである。すでにミリティエとは何度か面通りを行っているので、そう難しいことではない。ゴッゾ個人としては彼女のことは嫌いではなかった。

 だが、他でもないカトレーユはミリティエを大の苦手としていた。

「ケホゴホガハッ、うう、なぜか唐突に生まれもっての毒竜の呪いが胸を締め付ける。これはもう、あれだね。ラバス村に静養にいった方がいいかな。うん、行こう。今すぐ行こう。行ってきます」

 突然胸を押さえたかと思ったら、手を伸ばして苦しみ悶える真似を始めるカトレーユ。
 使用人たちの中、カトレーユとあまり接点のない人らが慌てる中、ゴッゾは気遣う表情をさらに強めた。

「それは心配だ。心配だから、ラバス村に行くなら私も一緒についていってあげよう。ああ、そうだ。ミセス・ホワイトグレイルにもそちらへ行ってもらうことに――

「持病の癪だと思ったら、なんだ、今朝ゴッゾが無理矢理強要してきたマニアックプレイの所為だった。あんなに強く激しくねっとりと胸を揉みしだかれたら、痛くなるのはしょうがないよね」

 いやん、と両頬を手で押さえ頬を赤らめたカトレーユを見て、ゴッゾは思い切り笑みを引きつらせた。

 突き刺さる使用人たちからの視線。
 男性からは蔑みと嫉妬、女性からは蔑みと興味で半分半分だ。

「嫌だって言ったのに、ゴッゾのためだと思って、カトレーユがんばったの。今思い出しただけでも恥ずかしい。きゃっ」

「何を馬鹿なことを。一体いつ誰がいやらしいことをした?」

「夜のゴッゾは狼。あ、朝もか」

 抑揚のない声で言われても色っぽさなど欠片もないが、それでもゴッゾは慌てるしかなかった。まさかこう切り替えされるとは思ってもみなかった。ええい、この女には羞恥心というものがないのか。

 しかし、こうなってしまえば立場が一方的に弱くなるのが男である。

 くねくねと頬を抑えたまま、使用人からは見えない角度でニヤリと笑うカトレーユを前に、ゴッゾはにこやかな笑みを浮かべることしかできなかった。

「カトレーユ。お前が魅力的過ぎるのが悪いんだよ。ああ、ミセスの対応はそっちにお願いするからね。自慢の妻だし。ハハ、ハハハハハ」

「仕方がないな、ゴッゾは。起きてるのに寝言言ってるよ。強制的に眠らせてあげようかな。愛故に。フフ、フフフフフ」

 笑ってない笑顔を交わし合う夫婦。その異様さに、使用人たちは揃って一歩後退った。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 客人――ミリティエ・ホワイトグレイルを乗せた馬車がやってきたのは、昼食が終わった直後のことだった。

 遠目から見てもわかる巨大で豪奢な馬車が、一直線に城門へとやって来て停車する。御者席に腰掛けていた、騎士というには凛々しさが足りず、魔法使いというには甲冑が似つかわしくない御者が即座に下り、ゴッゾの前で馬車の扉を開け放った。

 直後、眩しい白銀の輝きが目に飛び込んでくる。

「ふむ。ようやくの到着か」

 馬車より悠然と現れたのは白銀の魔女だった。
 伸びやかな肢体を包むドレスも、長い髪も、全てが白銀の色。ともすれば冷たい印象すら与える白さは、同時に人には等しく眩しくもあった。

 手には長い魔法使いの杖。銀縁の眼鏡の奥で炯々と輝く紫色の瞳は鋭く、全てを睥睨する強さがある。

「久しいな、ゴッゾ・シストラバス」

「ええ、ミリティエ・ホワイトグレイル。お久しぶりです」

 客人を迎える者として、ゴッゾは恭しくミリティエの手を取ると、その甲へと唇と落とした。

 うむ、と冷たい印象に似合わぬ柔らかな笑顔を浮かべたミリティエは、あいさつもそれまでにして、キョロキョロと周りを見回し始めた。

「ところでゴッゾ。我が麗しき盟友はどこにおる? 妾が参ったというのに、なぜカトレーユの奴はここにおらんのじゃ?」

「申し訳ない。散々出迎えに一緒に来るよう言い含めておいたのですが……直前になって逃走しました」

「なんと!? 姉妹も同然の妾に参ったというのに、とんでもない奴じゃな。しかし、だからこそ面白い。これは自分を捕まえてみろという妾への挑戦に違いない。よろしい。お茶会は妾がこの遊技に勝利してからにするとしようぞ」

「ええ、存分にお探し下さい。お茶の準備の方は整えておきますので」

「くるしゅうない。では、参るとするかの。まったく。毎回毎回このような趣向で構って欲しいとは、カトレーユの奴は妾のことを相当好いているようじゃの。まぁ、悪い気はせんからよいがな」

 無邪気に笑って城へと入っていくミリティエ。

 この他者の目からは理知的な美人と映るミリティエ・ホワイトグレイルであったが、その実楽しいことおもしろいことに目がない、好奇心旺盛な子供みたいな美女であった。一応は魔法大国エチルアの筆頭貴族であり、本人も『魔女』などと呼ばれ畏れられる超一流の魔法使いであるのだが、その辺りの貫禄は立ち振る舞いだけに現れている。

「ご愁傷様だ。カトレーユ」

 一見すれば、このミリティエとカトレーユはよく似ているように見えるかも知れないが、その実違う。

 カトレーユは退屈退屈といいながら、実際は自発的におもしろいことを起こしたりは滅多にしない。彼女の『退屈』は癖のようなもので、実際の彼女はマイペースなのを好んでいるのをゴッゾは一年あまりの新婚生活の中で知った。
 ミリティエの方は自ら率先しておもしろいこと楽しいことを起こそうとする、いわば他人のマイペースを崩す人間であるからして、二人の相性はすこぶる悪い。

 ただ、ミリティエはこういってはなんだがものすごく空気が読めないので、状況はカトレーユが一方的に避けているというものなのだが。毎回来るたびに疲れ果てるまで遊びに付き合わされているカトレーユとしては、たまったものじゃないのだろう。ゴッゾとしては、こんな簡単なことでパトロンのご機嫌を取れるなら安いものだが。

「まぁ、これくらいは働いても罰は当たらないよ。カトレーユ」

 ゴッゾは城へと戻りつつ、応接間でのんびりしてようと考える。一人、ちょっとだけ早いお茶会などをしよう。
 
 さて――今日のかくれんぼでカトレーユは、一体いつまで隠れていられるのだろうか?

 


 

――というわけで、どうかお金の方を工面していただきたいのですが」

「うむ、良いぞ。好きなだけ払おう」

 今日のカトレーユの記録は一時間ジャストだった。
 
 魔法のエキスパートであるミリティエにとって、カトレーユのような独特の魔力を持つ相手を捜すのは容易いことであるらしく、毎回逃げるカトレーユだったが、戦歴は一方的な連敗であった。

 ここだけは豪奢な調度品を残してある応接間において、ミリティエと向かい合ったゴッゾは、交渉というほどでもない会話のあと即答の了承をもらいながら、もたれかかってくるカトレーユが頭をグリグリと二の腕へと押し込んでくるのを、腕に力をいれることによって防いでいた。

 クッキーを片手にしつつ、サラサラと差し出した契約書にサインをするミリティエ。おおよそ無条件で貸し出すには多額の金額が記載されているのだが、まったく躊躇はない。そう特に考えずとも問題ないほどに、ホワイトグレイル家は裕福だった。

 エチルア王国において随一の権力と資産を有する名家ホワイトグレイル家の当主は、代々魔法研究と魔法使いの育成を行う『満月の塔』の学長を兼任している。この『満月の塔』という場所が、金のなる木なのである。

 ここで生まれた研究や新情報は、多額のお金に変わってホワイトグレイル家の懐に入ってくる。『学長』という地位を有しているだけで、一生ホワイトグレイル家は金に困らないだろう。この辺りが騎士と魔法使いの差だろうか。隣の騎士大家の当主や、目の前の魔法大家の当主を見ていると、そうは思えないのが不思議だが。

「これでよいかの。お金の方はすぐに用意させる故、それまでは何とか食いつないでたもれ」

「はい、ありがとうございます。この借りは、いつか必ず」

「うむ。まぁ、期待して待っておくとするかの。なんといってもカトレーユが選んだ旦那様であるからのう」

「ご期待には添えるよう、全力で」

 二十歳を超えた女としての色香をのぞかせながら、どこか観察するような眼差しをミリティエは注いでくる。

 細かいことを思慮する必要がないだけであって、ミリティエ自身の知能はかなり高く、何よりかの魔女は洞察眼が鋭い。まったく未知のものに対してでも、ミリティエは瞬く間にその本質を見抜くという。天才、というのは彼女のためにある言葉だ。

「まぁ、心配はしておらぬからあまり妾らの方は気にするな。それよりも、そうやって妾の前でいちゃつくのを止めたらどうかの? 嫉妬してたまらんわ」

「いちゃついてる気はないんですがね。カトレーユが甘えん坊で」

「む? 聞き捨てならない。甘えん坊なのはゴッゾの方」

「それでいちゃついておらんという其方はおかしい。妾とてできるものなら、いちゃつきたいものだというに。遠慮というものが欠けておる」

 小さく頬を膨らませるミリティエの様子に、ゴッゾは隣のカトレーユと視線を交わし合う。

「旦那様〜」

 ニヤリと笑うと、カトレーユが腕を抱きかかえてきた。わざと豊満な胸を押し当ててきて、どこをどう見てもミリティエに対する嫌がらせです。本当に小さな嫌がらせである。

 ただ、ミリティエには効果が覿面なのか、彼女の眉間に皺が寄る。

 これ以上は色々な意味でまずいので、ゴッゾはカトレーユを引き離してミリティエに話を振った。

「そういえば、今日はロスカがご一緒ではないのですね」

 ロスカというのは、ミリティエの夫であるロスカ・ホワイトグレイルのことだ。ミリティエに輪をかけて子供っぽい巨漢の男で、妻と並ぶとまさに美女と野獣という風体であったりする。

 ミリティエがそんな旦那を、貴族としては爵位すら持たない身でありながら連れ合いとして選び、反対する諸侯を強引に武力をもって認めさせたという逸話はゴッゾもロスカから聞き知っていた。二人の仲は現在も良好であり、そのいちゃつき具合はミリティエのいうシストラバス夫妻のいちゃつきとは桁が違う。直視が耐えられないほどだ。

「ロスカは家の方じゃ。さすがに子供の傍に親が一人もいなくなるのは問題じゃろうと思うてな」

「なるほど。しかし、それならばこちらの方から足を運んでも良かったのですが」

 ミリティエにはもう三歳になる子がいる。夫への想いと同様に、ミリティエは子にも深い愛情を注いでいた。だから一人でここまでやってきたらしいが、それならば自由に動けるゴッゾたちがホワイトグレイル邸に遊びに出かけても別に良かった。

「良い。気にするな。今回を逃すと当分ここへは遊びに来れんでの。足を伸ばしたまでじゃからな」

「え? 当分来れないんだ」

 会話には参加していなかったカトレーユが、ここに来て会話に参加した。それでも喜色めいたものだというから失礼千万である。

「うむ、そうなのじゃ。残念かとは思うが、こればかりは仕方がないでの」

「ううん、全然まったくこれっぽっちも問題ないから気にしないで」

「カトレーユ……そちは優しいのぅ。だが、安心してたもれ。元気な子を産んだら、必ずやその子と共に遊びに来るでの」

 それでも気付けないミリティエ。カトレーユが滅多に浮かべないにっこり笑顔を浮かべた……ところで、ゴッゾは軽く驚いた。

「ミセス、もしやお二人目の子供ができたのですか?」

「おお、そうじゃ。今度は女子がいいと思うておる」

 まだそこに膨らみはないが、ミリティエは優しく自分の腹を撫でる。その表情は子を思う母のそれであり、どこまでも慈愛に満ちていた。

「それはおめでたいことです。健やかな子が生まれることを祈らせていただきます」

「うむ。ありがとう」

 ミリティエは少しだけ照れたようにはにかんだ。

 そんなミリティエの様子を、クッキーを銜えたまま、カトレーユがじっと見つめていた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ミリティエはシストラバス邸に一泊したあと、翌日の早朝帰ることになった。

 カトレーユがミリティエの寝室に拉致されたことで、少しだけ仮眠を取ることができたゴッゾは、早朝客人の見送りへとやってきていた。例の如くカトレーユは姿を眩ましたが、ミリティエとしても夜中遊びまくったため満足したのだろう。そのことに文句をつけたりはしなかった。

「では、ミセス。どうか良い子を産んでください」

「うむ。妾に任せておくのじゃ。かわいい子を生むでの。そうじゃ、もし其方とカトレーユの間に勇猛な男子が生まれたなら、その子と婚約でもさせるとするか。ん? それを考えれば、別に其方に女子が生まれても、キルシュマと婚約させればよいか」

「ええ、それもまた一つの未来ですね。まぁ、もしもカトレーユとの間に子供が生まれたとしたら、最初の子は女の子でしょうが」

「そういえば、シストラバスの家系はそうか。きっと、カトレーユに良く似た愛らしい子になるじゃろうて」

「カトレーユに良く似た、ですか……」

 カラカラと笑うミリティエには悪いが、ゴッゾとしては絶対にそんなのはゴメンである。カトレーユだけでも持て余しつつあるのに、娘までもがあんなダメ人間と化したら、ゴッゾとしては耐えきれない。

 あの情操教育に悪い妻はできるだけ遠ざけて、何としても真人間に育て上げなければ――人知れず決意を固めるゴッゾを、ミリティエが眼鏡の奥の瞳で観察する。

「……なるほどな」

 時折こうして、前振りも脈絡もなくミリティエは鋭い視線を投げかけてくる。まるで見えない何かを見定めているようで、その度にゴッゾの身体には緊張が走った。

「何か? ミセス・ホワイトグレイル」

「いいや、色男と思うてな。カトレーユが惚れるのもわかるというものじゃ」

「ははっ、お褒めにあずかり恐縮です」

 突然の賛辞に対しても、ゴッゾは慌てることなく悠々と返す。
 そんな態度だけは気に入らないのか、ミリティエは小さく溜息を零した

「わかっているようでわかってないようじゃの。やはりロスカには敵わんか。まぁ、この世でロスカに敵うものなど存在せぬがな」

 ロスカ・ホワイトグレイルを知るものとしては甚だ不愉快な発言をさらりと口にしたあと、ミリティエは天真爛漫に笑いながらゴッゾへ顔を近づけた。

「其方もシストラバスの男子となったのなら、今に満足することなく自分を磨くが良い。天命か、運命か……それはわからぬが、其方がカトレーユと結ばれたのもまた何かの絆故にじゃろうて――これからもカトレーユと二人、仲良ぅ過ごすが良い」
 
 騎士に褒美を賜わす姫の如く頬へと別れのあいさつをしてから、白銀の魔女は馬車へと乗り込んだ。

「ではな、ゴッゾ・シストラバス。カトレーユの奴にもよろしく言っておいてたもれ」

「はい。またお会いましょう」

 再会を約束する見送りの言葉に、いつもミリティエが返す言葉は決まっていた。

『安心せい。妾らと其方には深い絆がある。必ずまた会えるじゃろうて』

 そう魔女がいうと、まるでその言葉に力があるように再会が果たされる。けれども、小さく笑みを浮かべたミリティエは今回、何も言わずに去っていってしまった。

「……帰った?」
 
 感じた小さな違和感へと思考が及ぶ前に、ガサリと近くの茂みが揺れ、中から紅い髪の淑女が現れる。

 手に木の枝を持ち、頭の上に葉っぱを乗せたカトレーユは小さくなっていく馬車を見て、弾む足取りでゴッゾの隣までやってくると、徐にピースサインを突きつけた。

「初勝利」

「きっと向こうは初敗北とは思ってないだろうがね。二人とも、実は仲が良かったりするのかい?」

「まさか」

 ポイッと木の枝を放り投げたカトレーユは、げんなりした顔で魔女が去った方角を見つめた。

「仲が良くなるはずない。だってあれは突然変異種だから。わたしはあれを人間と認めたくない」

「酷い言い草だね。確かに少し変わっているのは認めるけど、私からしてみれば、お前も五十歩百歩だったりするんだが」

「さすが、鋭いね。まぁ、色々と訳ありの家系だし。あれと一緒にされるのは心外だけど」

 冗談を言っているにしては、カトレーユの眼差しは遠くを見つめていた。まるで遠い未来に起こる何かを予見しているかのように、姿が見えなくなった魔女を見つめる彼女の横顔には感情というものがなかった。

 ミリティエが時折人を何かしらの思惑をもって見つめるなら、カトレーユは何もない場所を見つめることがある。血が何かを囁きかけてくるのか、それはゴッゾには理解できないものだった。

「…………眠い」

 どこかカトレーユを遠くに感じていたゴッゾの前で、彼女は大きなあくびを一つ。

「……カトレーユ。お前って奴は……」

「ん? 惚れ直した? 一緒に寝る?」

 手を口にあてることも、あくびを噛み殺すこともしない淑女の様子に、ガクリとゴッゾは肩を落とす。

「眠らない。それと、きちんと客人の見送りには出るように」

「え〜?」

「そんな嫌そうな顔をしない」

「でも、ゴッゾだって役得だったと思ってる癖に。わたしがいたら、きっとご褒美なんてもらえなかっただろうし。鼻の下伸ばしてデレデレデレデレと、これだから男って奴は」

 嫌そうな顔をしていたカトレーユの顔に、ほんの少しだけ別の感情を見て取ることができた。それは小さな怒りのような、不満のような、そんな顔。そういえば、茂みに隠れていた彼女には、見送りのときの会話も行為も全て見られていたのだった。そう、ミリティエに頬へと別れのあいさつをされたのも。

「カトレーユ。あれはだな、ただのあいさつで」

「知ってる。別になんとも思ってないから安心して。そもそも、わたしの方がもっとすごいことしてるし。むしろされてるし。……やっぱり、一緒に寝る?」

「はいはい。馬鹿なこといってないで戻るよ、カトレーユ」

「おおっ、否定しないところが隅に置けないね。ゴッゾ」

 朝日に背を向けて、ゴッゾは城へと戻る。カトレーユはそのあとを少しだけ遅れて追った。

「…………またいつか、どこかで。『魔女』ミリティエ・ホワイトグレイル」

 最後に彼女が呟いた言葉は、ゴッゾの耳にも、去りゆく魔女の耳にも、誰の耳にも届くことはなかった。

 ……ミリティエ・ホワイトグレイルが病に倒れたとの報が届けられたのは、それから一年後のこと。以後訪ねていっても顔を見ることは叶わず、五年後彼女が死んでしまうまで、会うことはついぞ叶わなかった。

 そのときは知るよしもなかったが――ゴッゾにとって、これが現代の魔女ミリティエ・ホワイトグレイルとの最後の会話になったのだった。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 夜の帳が落ちる頃、ようやくゴッゾの執務机から嘆願書の山が消えた。実は部屋の隅から運んでこれば十分積み上げられるほど残っているのだが、さすがに全てを今日中にやれるとは思えない。そもそも一人で終わるとも思えない。

「……武官は優秀だが、文官が欠けているのはやはり由々しき問題だな」

 一年あまりの激闘の末、幾人かの文官を登用させていたゴッゾだったが、やはり現在のシストラバス家の状況を鑑みるに絶対的に足らない。ゴッゾ一人に処理できる量にはやはり限界があるので、早々の問題解決が急務だった。

「まだ問題は溢れかえっているな。まったく、先代はやってくれたものだ」

 椅子の背にもたれかかりながら、ふぅ、と重い溜息を零す。

 ゴッゾとて今は隠居の身である先代クロード・シストラバスが、何のために資産を食い潰したかは知っている。けれども、理解は難しかった。

 清廉潔白の騎士たるクロードは、多くの貴族がそうであるように、資産を自らの欲望を満たすために使ったわけではなかった。いや、ある意味では自らの欲望を満たし続けたのだろうが、一応その使い方は他人から一方的に非難されるものではなかった。

 クロードが資産を注ぎ込んだ先は、高名な医師や稀少な薬の類だった。大陸の内外問わずそういった『不治の病を治す方法』を耳にしたときのみ、彼は予算を考えずにそれらを手に入れようとしたという。

 その目的は一つ。不治の病に冒されていた娘を治すこと。三代前の竜滅姫が竜滅の際に帯びてしまった毒竜の呪いを解除することにあった。

(娘を助ける……わからないことではないが、為政者としては間違っているといわざるをえない)

 竜滅姫と呼ばれる名を、代々シストラバス家は継いでいる。それがかの家の権力の象徴であり狂気であろう。代々シストラバス家の長女として生まれた女子は紅き髪と瞳を持ち、開祖ナレイアラの遺した聖約に従って、世に現れる災厄のドラゴンを滅し、この世を去る。

 人では滅ぼせないものを、人ならざる力で代償をもって消し去る――よくできたシステムだ。その名声は揺るがない。手に入れた権威の代価が死であるとは、本当になんて残酷なシステムなのか。

 世界の人々は竜滅姫の死を悼み、その英雄的行為を褒め称える。
 そうして、また次代の竜滅姫に願うのだ。世界のために、人のために、死んでください、と。

 愚かなのは彼らではなく、その期待に応えてしまうシストラバス家の方なのか。千年近くに渡ってその役割を放棄することなく竜滅姫たちは応えてきた。自分の死を認め、他人の救いを許容する。正気じゃない。狂っている。人間とは思えない。

 元々は外野であるゴッゾからしてみたら、竜滅姫のシステムに抱く感情はそれだ。先代の竜滅姫たちに抱くのは、人外に向ける生理的嫌悪のような畏怖だった。

 ゴッゾは、人が人である以上自らの幸せを何よりも望むものであると思っていたし、それは他人を犠牲にしても手に入れるべきもの、手に入れて許されるべきものだと考えていた。まずは自分の幸福を優先し、他人の幸福は二の次であると。

 一年たらずで市政から評価されつつあるゴッゾへの政策だが、別にゴッゾは民のことを第一に優先したわけではない。民が裕福になることによって自分が得られるものを優先しただけだ。

 人は誰だったそうだろう。人とはつまりそういう生き物なのだ。なのに……どうして竜滅姫はそこまで自分を犠牲にできる。

 理解できない。したくもない。それはまた同じ入り婿であるクロードもそうだったのだろうか。だから運命に従った結果死に行く娘を、何を賭しても助けたかったのだろうか。それとも、彼は竜滅姫のシステムを是として、果たせず死んだ無念の妻の代わりに、次代の竜滅姫を生かそうと思っただけなのか。

 直接尋ねる以外は返ってこないだろうこの答えを、きっと自分はいつかクロード本人に問うことになるだろう。そんな確信に似た予感を、ゴッゾは持っていた。

 理解できない。したくもない。だけど、考えなければいけないことだから。

 ゴッゾの妻カトレーユが竜滅姫の名を持つ限り。
 カトレーユとの間に生まれる娘が竜滅姫の名を継ぐ限り。

「ゴッゾ、起きてる?」

 ノックもなくいきなり開いた扉に、ゴッゾの思考は強引に中断された。
 不躾なその行為。だけどゴッゾは苦笑めいた笑みを浮かべて、来室した妻を迎え入れた。

「起きてるよ、カトレーユ。それと、きちんとノックはするように。親しき仲にも礼儀ありだ」

「え〜? 面倒……だけど以後気を付けることにする。ゴッゾが人に見られて恥ずかしいことしてる中入っていくのは、さすがに良妻として良くないからね」

「何を想像しているかは知らないが、そんなことはしないとだけ言っておこう」

「まぁ、確かに。ゴッゾにはわたしがいるしね」

 ニヤリと笑ったカトレーユは近付いてくると、ソファーがあるのにわざわざゴッゾの膝の上へと座った。全体重を預けてくるように胸板に頭を押しつけてきたと思ったら、子供みたいにブラブラと足を揺すり始める。

 間近にあるカトレーユの髪からはシャンプーの甘い匂いがした。薄いネグリジェの上にガウンを羽織っただけの身体は柔らかく、重すぎず軽すぎない重さは、まるで上質の羽布団に包まれているかのような心地よさをゴッゾに与える。

「ねぇ、まだ寝ないの? そろそろ独り寝にも飽きてきたんだけど」

「……まったく。お前という奴は」

 前を向いたまま、コツコツ頭を胸板に軽くぶつけることで催促してくる妻に、ゴッゾは呆れ返った呟きをもらす。それは本当の呆れと作った呆れ、半分半分の呟きだった。見せることが躊躇われた残り半分の感情は、安堵とか安心とか、そういったものだった。

 ゴッゾは竜滅姫のシステムを正しいものとは捉えていなかったし、過去の竜滅姫には畏怖の感情を抱いている。けれども、カトレーユに対してだけはそういった柵を覚えていない。

 だって、カトレーユはあまりにも自由気ままだったから。
 彼女ほど、柵に縛られた籠の中の小鳥という表現が似合わない相手はいないだろう。

 クロードが行った法外な投資は、こうしてカトレーユに自由に飛び回れる翼を与えた。無駄ではなかった。少なくとも、カトレーユが今を幸せに思っているなら、クロードの行為は決して無駄な投資ではなかっただろう。

「というより、昼寝をたくさんしたから眠れない。わたしが疲れるまで付き合ってよ、ゴッゾ。色々とサービスするから」

 投資の見返りというか、結果がこの自堕落なお姫様だったのは、嬉しいのか悲しいのか微妙なところなのかも知れないが。

「お前はどこぞの娼館の客引きかい、カトレーユ」

「一名様ごあんな〜い。うへへへへっ、たっぷりぼったくってやる」

 上半身を捻ったカトレーユが、あくどい笑みを浮かべながらそっと見つめてきた。
 間近にある真紅の瞳に、ゴッゾの心臓がドクンと大きく震えた。それを感じたのか、カトレーユは笑みをさらに強めて、自分の唇を小さくちろりと舐めた。

 ゴッゾはその仕草に誘われるように、瑞々しい唇に自分の唇を押しつける。

 強く身体を抱きしめると、それに答えるようにカトレーユの方からも唇を強く押しつけてきた。

 深く深く重なりながらも、唇を重ねるだけの口づけ。時間という概念が消えるほど濃厚でありながら酷くあっさりとした、まるで今の二人の関係を象徴するような口づけ。

 唇を離すと、間近にあった真紅の瞳が情欲に濁っていた。まいった。今日はそういうことをする気はなかったのだが、こういう目をしたカトレーユは何をしても離してくれない。それに、ここまで高ぶった妻を前にして、引き下がれるほどゴッゾは男として枯れていない。

「運ぶよ、カトレーユ」

 カトレーユの身体を抱き上げて、そのまま椅子から立ち上がるゴッゾ。
 首へと手を回してきたカトレーユは、どことなく満足げな笑みで運びやすいように応えた。

「ん、くるしゅうない」

「それ、まるでミセスのようだね」

「が〜ん。超ショック」

 表情を小さくもコロコロと変えるカトレーユを見て、ゴッゾは押し隠せない笑みを零す。

 ……やがて、ゴッゾは知るときがくるだろう。結論を出さねばいけないときがくるだろう。

 クロードが竜滅姫という在り方に抱いたものと、自分が抱くもの。
 カトレーユが竜滅姫に抱く感情と、彼女がやがて死ぬことについて。
 娘が死を前提に生まれてくることと、その父親である自分がすべきこと。
 
 そして――カトレーユがどうして、自分を選んだのか。

「……なぁ、カトレーユ」

「なに? ゴッゾ」

 ゴッゾは腕の中の我が儘で自堕落なダメ人間を見て、自分が変わったことを自覚する。シストラバスを利用すると決めたときの、妻を道具として見ていた自分は今はもういない。彼女との生活の中で、あまりにも怒ったり呆れたりし過ぎて忘れてしまったようだ。

 あるいは、あのとき――カトレーユが自分の罪悪感も打算も矜持も、全て吹き飛ばす答えを聞かせてくれたあのときに、ゴッゾは変わってしまったかも知れない。

 ゴッゾ・リンページがゴッゾ・シストラバスに変わるのと一緒に、きっと。

「……いいや、なんでもないよ。カトレーユ」

「そう……変なゴッゾ。別に良いよ、無茶なプレイでも応えてあげるから」

「はいはい、またいつかね」

「ノリが悪い。まさか倦怠期!? ……ないね。だってゴッゾはわたしの身体に溺れきってるから」

 なら、今はこの妻となった女のために、精一杯働くとしよう。

 どんな未来が待っているにしろ――


「男なら〜、形振り構わず〜、挑戦していけ〜」


 ――――借金生活だけはゴメンなのだから。


 

 


「ところでゴッゾ、朝の用事をさっきつまみ食いしている最中に思い出したんだけど」

「へぇ、なんだったんだい? お前のことだから、大したことはないだろうけど。つまみ食いの最中に思い出すぐらいだしね」

「うん。まぁ、大したことはないけど――――わたし、妊娠したっぽい」

「なんだ、妊娠か………………………………………………………………………………妊娠ッ!?」










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