小ネタ  月下邂逅


 

 この迫害は正当なものではない!

 そう言って故郷の森を飛び出した。
 そのとき感じたのは清々しい開放感。やはり森は牢獄であったとそう確信した。

 エルフと呼ばれ忌み嫌われる種族に生まれたシャスティルージュは、それでも故郷のリアーシラミリィの森で両親に愛されて育った。子供である以上両親からの愛情以外のものは必要ない。たとえ自分たちが世間では蔑まれる存在であろうとも、庇護下にある内は関係ないからだ。

 だから、そんなエルフの境遇を変えたいと思うようになったのは、人間の医師が治してくれず、両親が病死したとき。まだ若いシャスティルージュの心に憎しみの炎が宿り、自らを縛る牢獄への嫌悪感が灯った。

 炎は少しずつ燃え広がり、やがては森を後にするという行為にシャスティルージュを及ばせた。

 それは森の中に隠れ潜むエルフにとっては禁忌とされること。
 シャスティルージュはリアーシラミリィの森名を剥奪されることになったが、それでもなお自らの境遇を改善することへの執着の方が強かった。

 エルフの名誉の回復を。
 正当なる権威と権利を。

 そう抱き、森を後にしたエルフは名前すら捨てた。

 シャス――それがかつてシャスティルージュ・リアーシラミリィだったエルフの、今の名前。役割の在り方。

 だがシャスが外の世界で知ったのは、あまりにも自分が幼く、また森の老人たちが正しかったということ。

 森は牢獄であると同時に、外敵から身を守る盾でもあった。
 この地獄の世の怨嗟と嘆きから子供たちを守ってくれる、雄大なる父母の愛であったということ。

 シャスが外の世界で見たもの。

 それは――『地獄』の世に他ならなかった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 身を切るような冷たい水の中から取りだした衣服を絞り、竿へと干していく。水分が残っていると干している最中に凍ってしまうため、絞るときはきつく絞らなければならず、かじかんだ手は絞るほどに感覚を失っていった。

 それでももう二ヶ月も続けていれば、嫌でも慣れる。
 つまらない反復作業。さして時間をかけることなく、シャスは洗濯物を全て吊し終えた。

「晴れてくれれば、いいでありますが」

 はぁ、と小刻みに震える手に息を吹きかける。
 
 季節は冬。息は白い。曇天に覆われた空からは、ちらちらと雪が降り注いでいた。
 雪は高い尖塔の先に触れて熔けていく。外気は冷たいが積もることはないだろう。分厚い城壁によって囲まれたこのホワイトグレイル城に雪が積もることは滅多にない。

 シャスは手の感覚が少し戻ったのを確かめてから、空になった洗濯籠を持って城の中へと戻った。

 現在シャスが使用人として雇われているホワイトグレイル城は、この辺り一帯を収める小さな公国の居城であった。いくつもの尖塔が聳え、堂々たる姿で眼下の街並みを睥睨している。

 最初、巨大な建築物の姿に瞠目したシャスであったが、暮らしはじめてすぐに慣れた。それがどのようなものであれ、時間が経てば慣れる。慣れてしまうものなのだ。

 ピクンと、シャスの長い耳が動く。それは内緒話にしては大きすぎる会話を耳にしたからであった。

『汚らわしい』『まだ出て行かないのか』『大公様の悪癖にも困ったものだ』

 シャスを遠巻きに見ている侍女たちの囁き声は、そういった誹謗中傷の類であった。嗤う声はどこまでも陰湿で、ねっとりとした悪意はシャスの肩に重くのしかかる。

 それでも慣れた。

 まさに悪癖というしかない大公レメンドロフ・ホワイトグレイルの趣味によってシャスが城で働き初めてから、早三ヶ月。エルフというだけで人から敵意と嫌悪を向けられる経験に至っては、故郷の森を後にした直後から続いている。一年。シャスにとって何よりも苦しくて、何よりも長い一年間だった。

 シャスは洗濯籠を抱えたまま、無言で自室を目指す。

 廊下がどんどんと狭くなっていき、白く磨かれた床に汚れが目立ち始める頃、シャスの部屋は見えてくる。別棟にある使用人たちのための居住区とは異なる、罪人が捕らえられている牢屋のすぐ上。本来は看守室である狭く息苦しい地下室が、シャスに与えられた部屋であった。

 人もほとんど寄りつかない一室。シャスはこの部屋を精一杯綺麗にして使っていたのだが、

「……今日も、でありますか」

 ポツリと独り言を呟いて、シャスは部屋の惨状を眺めた。

「毎度毎度、こんな場所まで来てご苦労なことであります」

 ベッドの上に畳んであったはずのシーツは切り裂かれ、木製の食器類は床にぶちまけられている。楽しみに取っておいたレーズンは踏み潰され、得体の知れないゴミが至るところに散乱していた。

 洗濯へと出ていた二時間あまりではどうがんばってもおかしい、明らかに人の手による故意の散乱の結果であった。三日に一度はこういうことがある。これももう慣れた。

 洗濯籠を入り口前に置き、シャスは潰れたレーズンをもったいないと思いつつ避けてベッドへと近付く。シーツはあとで繕うとして、今は先に確認すべきことがあった。

 ベッドにそうとわからないように作った引き出しを開く。
 中には、隠しておいた大事な品が汚れ一つない白さを見せていた。

 シャスの顔に、安堵から小さな笑みが浮かぶ。

 家に代々伝えられてきた、故郷の森の名前を冠する白い弓。『英樹の防人ティンク』の森のエルフにより友好の証として渡された英雄の種にして、両親の形見。そして今のシャスに残った、たった一つの大事なものだった。

「……そろそろ、ここ以外の隠し場所を見つけるべきでありましょうな」

 毎夜磨いている弓の表面を撫で、違和感を覚えさえないように綺麗に引き出しをしまう。
 それでも元より傷みの激しいベッドである。隠し続けるのも困難だろう。そして見つかったが最後、自分を嫌うこの城の使用人たちは、喜々としてこれを壊そうとするはず。

 それだけは――嫌だ。

「入るわよ」

 突如として部屋の扉が開く。ノックなしの来室に、シャスの戦士としての血が滾る。

 素早くベッドから離れて部屋の中央に。そのときレーズンを踏みつぶしてしまったが、宝物の存在を気取られるよりはマシだった。
 幸い扉は内開きで、扉の前には洗濯籠が置かれていた。来室しようとした侍女はそこでいったん扉をひっかけたため、ベッドの前にいたところは見られなかっただろう。

「ちょっと、部屋の前に洗濯籠を置かないでよ!」

 ヒステリー気味に顔を歪めた彼女は、そこで部屋の中の様子に気付き一瞬驚いた顔をした。どうやら彼女の仕業ではないらしい。といっても犯人は特定できない。あてがあまりにも多すぎて。

「汚い部屋。まぁ、エルフにはお似合いかもね」

「……何か、御用でありますか?」

 険しかった顔を嗜虐の喜色に変えた同い年くらいの若い侍女は、嘲笑いを隠すことなく端的に用件のみを述べた。

「大公様がお呼びよ」

「大公様が? 何故でありましょうか?」

「そんなの私が知ってるはずないでしょ? まぁ見境のない大公様のことだから、夜伽にでも呼ばれたんじゃない? 昼前だけど」

「……了解しました。すぐに行くのであります」

「ふん、顔色一つ変えずないなんて、さすがはエルフね。男を誑かす魔獣みたいなものじゃない。いやらしい」

 侮蔑の言葉を吐き捨てて、侍女は去っていく。
 彼女が乱暴に押しのけた洗濯籠が転がってきて、汚かった部屋をさらに汚く変えてしまった。

 はぁ、とシャスは一つ溜息を吐く。すぐに掃除しないと汚れが落ちなくなるのだが、大公からのお呼び出しとなれば仕方がない。

 シャスは洗濯籠を部屋の奥へと置いてから、靴の裏だけ綺麗にして扉を開ける。

 その前に振り返り、潰れたレーズンを見て、ポツリと呟いた。

「……楽しみにしていたのでありますが、ね」

 現状に慣れすぎた結果……それは空々しいほどに虚ろな声だった。

 


 

「失礼するのであります」

 シャスが大公と会うために向かった先は、公の場で使われる謁見室ではなく、彼の個人的な私室の方であった。

「うむ、来たか」

 ノックのあとに来室すると、ふてぶてしい態度で椅子に腰掛けていた男が観察するような視線を向けてきた。この四十前後ほどの男こそ、大公レメンドロフ・ホワイトグレイルである。

 プラチナブロンドの髪と紫色の瞳。飽食の結果肥えた身体をしているが、見苦しくない程度に整った顔をしている。それでも、身につけた宝石や得体の知れない『お守り』が、何とも近付きがたい空気を作りだしていた。

「呼ばれた、と聞いたのでありますが、何か私に御用がお有りだったでありますか?」

「……うむ」

 頭の先から足の先までじっとりとした視線を向けられたシャスが、少しだけ顔を背けつつ呼ばれた理由を問うと、レメンドロフは大仰に頷き何か考える所作を見せた。

 何を悩んでいるのかは知らないが、用件が、できれば先程の侍女が言っていた通りでないことを祈るばかりである。この大公の趣味嗜好を知っているだけに疑いはぬぐえなかったが。

「…………」

 シャスは豊満な自分の身体を隠すようによじる。

 シャスはいやというほど、人間社会において自分の容姿が優れていることを自覚していた。金糸の髪は癖毛であるが滑らかであり、澄んだ瞳は蒼い湖面を思わせる。
 侍女服の下の肉体は少女としての清らかさと女性としての色香が同席しており、シャスはおおよそ、女性の魅力を形作るものとして必要な要素を全て合わせ持ち、神かかった調和を成功させていた。

 エルフは種族的に整った容姿が多いと人の世に出て初めて知ったシャスは、忌避の視線と同じくらい、男性から向けられるいやらしい視線を感じていた。声をかけられたことも、路地へと引っ張り込まれそうになったことも、片手だけでは足りない。

 そういった輩は持ち前の身体能力の高さと秀でた戦闘技術でノックアウトさせたが、如何せんレメンドロフには恩がある。また大公でもある。命じられれば、断るという選択肢はここにいる以上シャスにはない。

 結局、押し黙るレメンドロフの次の言葉を、シャスは怖々と待つしかなかった。ただ、レメンドロフがシャスを見る視線は、女性としての魅力を見定める視線というより、別の観点から見定める視線に思われた。

「……悪くはない、か」

 長い黙考のあと、レメンドロフは分厚い唇を歪めて笑みを作り、警戒してしまうほど友好的な声で話を始めた。

「ここにお前を呼んだ理由は他でもない、エルフの女よ。お前に一つ、特別な仕事をしてもらいたいと思ってな」

「特別な仕事……でありますか?」

「そうだ。エルフであるお前には望むべくもない、名誉ある仕事だ。心して取り組むがいい。もちろん、断るつもりはないであろう?」

 そう言うが早いか、レメンドロフはパンパンと手を打ち鳴らす。

「失礼致します」

 扉の脇に控えていた、見張りにしては煌びやかな甲冑を纏った騎士が入室する。
 レメンドロフはシャスの返答を聞くことなく、一方的な決定だけを下し、騎士へ指示を出した。

「このエルフの女をあの場所まで案内しろ。これが次の世話係だ」

「はっ、了解しました」

 そのとき騎士が寄越した視線は、これまでシャスが感じたことのなかった視線だった。

 込められていたのは憐憫と同情。エルフに対する敵愾心すら超える何かを、あの騎士は大公の命令から感じ取ったのだ。

 最初から断ることを許されなかったシャスは、ただ、レメンドロフの顔に浮かぶ疲労と恐怖が混ざったような色を見て、自らに降りかかろうとしているのが災いと知る。夜伽等のことではなかった安堵など、味わえるはずもない。

(一体、自分は何をさせられるというのでありましょう)

 内容すら口を噤まれたシャスは、黙って案内役の騎士の後をついていくしかなかった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 そこは色々と制限を受けているシャスでも知っている、城内でも特別な立ち入り禁止区域だった。

 荷物とも呼べない私物が入った洗濯籠を手に、シャスは一人眼前の壁を見上げる。

 城の周囲には広大な森があり、その森のただ中にそびえ立つ高き塔。雲を貫けとばかりにそびえ立つ塔は巨大で堅牢であり、何ものの侵入をも阻むだろう。だが、シャスが塔の堅強さから受けた印象は真逆。何ものにも出ることが叶わないという印象だった。

 森に入ることは使用人たちには許されていないことだったが、使用人たちの噂話は軽々と森まで及ぶ。シャスの耳はそれら噂話を否応なく入れており、その中にこの塔のことも含まれていた。

 ホワイトグレイル家の最大の禁忌。城内のどこからでも見ることが叶う塔なれど、決して大公一族の前では口にしてはいけない牢獄。


 曰く――不可侵の塔には『狼姫』が幽閉されている。


 大公レメンドロフには正室との間に一人娘がいる。ルナという名の、白銀の髪が美しい幼な姫である。だが噂によれば、その姫の前にいなかったことにされた娘がいたらしい。

 白痴だったのか、異形だったのか、それは定かではない。だが、月が丸く満ちる夜になると、塔の天辺から狼の鳴き声が聞こえてくるという。

 故に、名付けられた塔の名が『満月の塔』。
 入ったが最後、無事に出てきたもののいないとされる禁忌の塔である。

「確かに、この世のものではない気配を感じるであります」

 その前に一人置き去りにされたシャスが受けた指示は一つだけ。塔を登れ、という簡潔極まりない一言である。他には何の指示を受けていないところを見るに、登ってみれば否応なく分かるということか。

「どうやら、体のいい厄介払いをされたようでありますな」

 もしくは、最初からこうするために自分を雇い入れたのか――どちらかはわからないが、ここで来た道を引き返したところでどうにもなるまい。塔を上るしかないだろう。

 シャスは頑丈な扉の鍵を開き中へと入る。
 埃っぽい塔の内部は灯りがない。扉が勝手に閉まり、外側から鍵がかかると真っ暗闇になる。

 暗闇に目を慣らしてから、螺旋状の階段を上がっていく。

 木々の背丈を抜き、太陽へと近付いているからか、少しずつ辺りが明るくなっているように感じた。まるで太陽へ向かって歩いているような気分。最上階へと近付くほどに、シャスの心に何か不思議な気持ちが込み上げてくる。

 一歩、一歩、進むほどに何かが変わっていく。いや、定められていく。

 階段の終着点には一枚の扉。壁との隙間から光が漏れ出ていた。

 開けろ――頭の中で誰かが囁いた。
 開けるな――頭の中で警鐘が鳴っている。

「……馬鹿馬鹿しいのであります」

 最初から、危険な場所であることはわかっている。元より引き返すことなどできないのだから、せめて心だけは楽でいたいと、シャスは囁き声に身を任せる前に扉を開けた。事前のノックを忘れてしまったのは、忘我の心地だったからか。

 

 

 そうやって、シャスは自ら選んで扉を開いた。少なくとも、このときはそうだと思っていた。運命という言葉を、欠片も思い浮かべることはなかった。

 

 

 差し込んできたのは、白く柔らかな光。

 雪景色かと一瞬錯覚するくらい白い布が辺りに散乱した部屋の中央、花弁に守られる種のように、小さな少女が眠っていた。

 周りに溶け込むほど白くも、光の反射によって唯一無二の輝きを帯びた白銀の髪。幼い肢体を包み込むのは、フリルのカーテンのような一枚のワンピース。閉じたまつげの長さ、規則正しい呼吸を繰り返す桜色の唇、全てが繊細な硝子細工のように儚く、まるで夢幻を見ているかのような驚きが、はっきりと少女の存在を捉えた今でも薄れない。


 ――――愛を知れ


「な、なんでありますか!?」

 驚きの中に叩き込まれたシャスを、さらなる驚愕をもって立ち直らせたのは、どこからともなくこぼれ落ちてきた透明な声だった。否、それは声であり声ではない。人の言語では言い表せられない神のお告げ――そうとした良い表せられないそれが、シャスの身に降りかかったものだった。

「だ、誰もいない……空耳、だったのでありますか? 今の声は」

 しかし、すぐにそれがそうと認められるはずもなく、シャスは周りに誰もいないことを念入りに確認したあと、得体の知れないものから自らを守る無意識の動作として、洗濯籠の中に入れてあった愛用の弓へと触れた。

 生まれたときから変わらぬ手触りに触れていると、浮き足だった感情も冷えてくる。

 シャスはいつもの冷静さを取り戻したあと、ここへと自分がやってきた理由を思い出し、はっとなって眠っている少女を見ようとして、

「じー」

 目を覚ましていた少女の金色の瞳と、ばっちり目があった。

「あ、その、起こしてしまったでありますか。これは申し訳ないことをしたのであります」

「じー」

「ええと、私はシャスと言うのであります。大公様に命じられて、ここへ」

「じー」

「何か指示を預かってはいないでありますか? いえ、そもそもあなたは――

 どこをそんなに興味津々に見ているのでありますか――と、シャスは冷や汗を流す。

 おおよそ人の瞳とは思えないほど美しい金色の双眸。それが瞬きすら余計だというように、一心不乱に自分を見ている。しかも向けられているのは顔だ。

 問答無用で観察してくる少女には、一体自分のどこまでを見られているのか。落ち着かないというより、小さな恐怖すら沸く。耳はビクンビクンとどこか怯えるように震えた。

「耳、動いた」

「え?」

 初めて少女がきちんとしゃべった。その内容に、シャスはさらなる冷や汗をかく。
 
 このエルフを迫害する人間の群れの中に飛び込んでから、否応なく研ぎ澄まされた危険察知能力が、扉の前とは桁違いの警鐘を鳴らしている。逃げろ逃げろ逃げろと、生物としての本能が叫んでいた。

(狼姫とは、よくいったものであります)

 戦士として生まれ、戦士として育てられたシャスには、少女の本質を一瞬で垣間見ることができた。

 少女の姿をしているが、目の前のソレは狼の如き狩人だ。獲物を追い詰め、骨の髄まで貪り尽くすケダモノの類だ。たとえどれほど美しく愛らしい姿をしていようと、それは擬態。擬態が完璧であればあるほどに、人は恐怖を抱かずにはいられない。

 白い少女はゆっくりと立ち上がり、裸足の足でシャスに近付く。

「あなた、誰? その耳おかしいわ。見たことないもの」

 質問しつつも、少女は返答を求めていないようだった。他へと逸れることなく注ぐ視線の先に、ピクピクと動く長い耳があるだけで、彼女の好奇心は満タンだった。

「……触りたい」

「なっ!?」

 直接的な要求を受けて、シャスは絶句した。

 それは人間社会へと飛び込んでから――いや、生まれて初めての要求だった。

 耳を触りたい、それには肌を許す以上の意味をエルフは持つ。

 大多数のエルフにとって、種族の特徴でもある耳には多く神経が通っている。身体の部分の中で特に敏感な部分であり、露出することに恥じらいはないが、触れられることは禁忌といってもいいくらいの羞恥心を抱く。

 それは裸体を愛でられる以上の暴虐である。故にエルフは耳を滅多なことでは人に触らせない。

 けれども、そんな理屈知ったことかと少女は近付いてくる。音もなくシーツを踏みつけて。

「ねぇ、いいでしょ? その耳触らせて」

「そ、それだけは勘弁して欲しいのであります!」

「どうして? もしかして何か秘密があるの? うん、決めたわ。絶対に触る」

「な、なんという――ッ!?」

 このとき、警戒心が臨界点を超えて、シャスの中で少女に対する敵意が芽吹く。一瞬の動作で洗濯籠から弓を取り出すと、両手で剣を握るように構える。生憎と矢を持っていないので、本来の弓としての機能は使えない。
 それでも弓使いとして、相手に接近されたときのためにある程度の白兵戦は学んでいる。幼い少女に接近を果たされるほど、落ちぶれてはいない。

「それだけは絶対にごめん被るのであります! 私はまだ、清い身体でいたいのであります!」

「そんなの、わたしには関係ないじゃない」

 実力行使を問わないことを構えから示すシャスに対し、少女は初めて好奇心以外の表情を見せた。
 
 薄く弧を描く唇。無邪気に綻んでいるようにも、淫靡に半開きになっているようにも見える、酷く目を惹き付ける笑みだった。

 それが――唐突にシャスの視界から消える。

「なっ、消えたのであります!?」

 何の前触れも、何の残滓もなく消え伏せた少女。

「まさか、幽霊の類であったのでありますか?」

「幽霊? それって死んだ人間のことでしょ? わたしはメロディア・ホワイトグレイルよ」

「わひゃあっ」

 人知及ばぬ状況に呆気取られていたシャスの口から悲鳴が漏れる。未だかつて出した例のない、どこから出したのかも、本当に自分の声かと疑うくらいのかわいらしい悲鳴だが、それも仕方がないことだった。

「あ、すごく気持ちいい」

「ひ、ひぇっ」

 むぎゅむぎゅと耳元で音がする。声がする。声の主は先程の少女。いつのまに背後に回っていたのか、白い髪が視界の隅で踊っていた。けれども、今のシャスには少女の見せた瞬間移動など忘却の彼方。重要なのはただ一つのみ。

 今自分が、容赦なく慈悲なく耳を揉みし抱かれているという一点のみにあった。

「やめっ、やめて欲しいであります!」

「なにこれ? これが耳なの? すごく気持ちいいし、すごく気持ちがいいみたいだわ」

「気持ち良くなんて――ひゃぁ!」
 
 乱暴に、だけど繊細に耳の穴へと指を侵入されたシャスは、足のつま先から頭の先まで震え上がった。ともすれば官能とも取れる刺激だが、あまりに強烈な刺激のため、瞼の裏がバチバチとスパークする。これは耳を触らせるのを固く禁じるはずだと、母親に耳かきをされた経験以外では、初めて他人に耳を触られるシャスは思った。

「そ、そんなところに……指をいれな……っ!」

 全神経がそこにあるのではないかと思うくらい、今シャスの耳はシャスの全てとなっていた。数分前に出会ったばかりの少女によっていいように遊ばれる、それが今のシャスの全てだった。
 
 そして数分後……。


「あ……あんまりで、あります。これは……っ……あまりにもあんまりな仕打ちであります……っ!」


 拝啓。天国のお父様とお母様。
 あなたの娘は、お嫁に行けない身体にされてしまいました。

 じわり。と、久しく浮かんでこなかった涙が目元に浮かぶ。

「ふぅ……満足。堪能したぁ」

 膝に力が入らなくなって倒れ込んだシャスは、背中の上に少女――メロディアに乗られたまま、子供みたいにしゃくりを上げ始めた。

 それがシャスと、やがて主になる姫、メロディア・ホワイトグレイルのファーストコンタクトだった。

 






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