番外編  紅騎士の巡礼


 

 鉄をも溶かす硫酸の吐息を浴び、愛用していた盾の半分以上が溶け落ちた。

「おぉおおおおオオオ――ッ!」

 使い物にならない盾を投げ捨て、剣を握った青年は雄叫びをあげる。

 籠手が軋むほど手に力をこめ、硫酸が飛び交う中へ傷を負うことを覚悟で飛び込む。任務の内容を思えば死ぬことは許されないが、このときばかりは全てを忘れ、がむしゃらに攻撃を当てることだけ考えた。

 眼前にそびえ立つ紫色の魔獣目がけて、形振り構わず突進する。

 相手は身を守る最後の盾として毒の霧を口より噴出するが、防護する時はなかった。
 すでに体力は尽きかけ、剣を握る握力が落ち始めている。敵の強大さを思えば、この一撃にて勝負を決めるしかない。

 剣を振りかぶる。
 
 毒の霧が足の動きを鈍らせるが、意地と根性で最後の一歩を踏み出す。
 魔獣クピオラも同じように毒の粘液で濡れ光る拳を振り上げるが、僅かにこちらの方が速い。

「ッ!!」

 声にならない声をあげ、青年は渾身の力をこめて剣を振り下ろした。

 攻撃後の硬直、次への対処、全てを忘れこの一撃を振り抜くことだけに務める。もっと速く。もっと強く。振り下ろす過程の中ですらそれを突き詰める。まるで愛剣に自らの魂を、血潮を注ぎ入れるように。事実、剣は青年の血を浴びて半ば以上が赤く染まっていた。

 そう、それは血よりも尊い命の紅。紅き剣とは、千年の血と騎士の意志がこめられた剣なのだ。

 守るという意志を形にし、守るという結果を導き出す歴史の刃。
 緑の血風が舞い散る中、紅き甲冑の騎士は、今は手になき剣にこめられた本当の意味を理解した気がした。

 強さの意味。守るという意味。

 それを、脳天より股下まで真っ二つに切り裂かれたクピオラの向こうに輝く、蜂蜜色の花に見た。

 剣を振るって血を振り払い、毒素が霧散したところでようやく呼吸を再開させる。

 今まで相手にしたことのない強敵を下したことへの感慨は薄いが、打倒した先にあったものの美しさには大きな喜びが沸き立つ。

 だが――エルジン・ドルワートルは選ばねばならない。

「……カトレーユ様…………オリジア……」

 花は一つ。助けられる命は――どちらか片方のみ。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ゴトン、ゴトンという規則正しい揺れを、背中を預けていた荷馬車の壁から感じていたエルジンは閉じていた瞳を開けた。

 短く刈られた茶色の髪と三白眼に近い鋭い瞳。二十才前後ほどに見える顔つきながら、幼さとは無縁の雰囲気を持つ騎士。それがエルジンという男である。
 絞り込まれた肉体を包むのは紅の色を持つという珍しい甲冑であり、手がすぐ届く範囲に置かれた鞘には、長剣の類と思われる剣がこめられていた。

「……眠っていたのか」

 見るからに戦う者とわかる風体をしたエルジンは、揺れる荷台の上でうたた寝していた自分を恥じ入る。無防備に居眠りに興じるなど、緊張感を欠いた証拠だ。

 とはいえ、荷台から見える世界は、緊張が緩むのもしょうがないほど平和そのものだった。

 あまり整備されてはいない荒れ道は人の通りがそれほど多くないことを表している。道の脇には背の高い広葉樹の森が広がり、突き抜けるほど高い青空からは鳥の鳴き声が聞こえる。

 良くいえば自然豊か。悪くいえば田舎。
 それがこのベルルーム大陸の北部に位置する小国――ハーパヤン全体の雰囲気だ。

 ハーパヤンは、大陸中央部に位置する大陸最大の強国――エルマデリン王国に対抗すべく、ベルルーム大国北部のいくつかの国が集まってできた国家連合体『レゾナ・カルテル盟約連合』の中でも、取り分け特徴のない小国である。
 元より他国の庇護がなければ生き残れない小国家だったため、首脳国アテイの女王が提唱した連合にいち早く同意を示した。その結果が現在の平和な状況であるからして、国王はそれなりに優秀なのだろう。

 国民の気質は大らかで穏やか。旅人にも優しい土地として知られており、実際旅人であるエルジンが現在乗せてもらっている荷馬車も、目的地の村に住んでいるご老人が都市からの帰り道だというので、ご好意で便乗させてもらっている形である。

「おお、騎士様や。起きなされたかね」

「ご老体。ご好意に甘えさせてもらっている身でこの無礼、申し訳ない」

「気にすることないでさ。儂もちょうどさっきまで居眠りしておったところですからなぁ」

「…………そうですか」

 座ったまま深く頭を下げたエルジンは、頭を下げたままじっとりと額に汗を浮かべた。御者席に座るご老体が居眠りとは、下手をしたら眠っている内に事故に遭っていた可能性も否定できない。おおらかとは聞いていたが、まさかここまでとは。

「そろそろ村に着きますんで、もうしばらくはじっとなさってくだせぇ。何分変わらない景色ですから退屈とは思いますがね」

「いえ、お気になさられず。緑を見ていると心が洗われる思いです」

「ははっ、さすがは騎士様ですな。礼儀正しくていらっしゃる」

「そんなことはありません。自分はまだ正騎士ではなく騎士見習い。まだまだ修行中の未熟者です」

 明るく笑うご老体には悪いが、未だエルジンは騎士の称号が荷の重い若輩者である。
 見た目だけはもう立派な騎士だが、誰よりも自分自身でエルジンはそのことを思い知っていた。

「確か、今なされているこの旅が正騎士になるための修行、でしたかな?」

 退屈を紛らわせようとしてくれているのだろう。老人は振り向いて話を振ってきた。できれば前を向いて手綱を握って欲しいと思うエルジンだが、動物以外の障害物がいきなり現れるとは思えないので、深くは気にせず質問に応じることにした。

「はい。自分が籍を置くグラスベルト王国のシストラバス侯爵家騎士団は、見習いの身から正騎士になる際、見聞を広げるために一年旅をする決まり。然るべき功績と経験を得て、初めてシストラバスの騎士を名乗ることが許されるのです」

「それでうちの村へと起こしになられるとは、騎士見習い様は酔狂な方で。うちの村には事件も何もありゃしませんでさ」

「それに越したことはありません。まぁ、無作為に旅に出るというのも時間の無駄だということで、旅には目的があるのです。ご老体の村――ミルカ村へは、その目的のために出向かわせていただきました」

「はて、うちの村に何か興味をひかれるものでもありましたかのぅ? ……もしや騎士様、『ヒメザキノハナ』をお求めで?」

「わかりますか?」

「それ以外に村の名物というべきものはありませんからなぁ。もっとも、ヒメザキノハナも名物というよりは伝承みたいなものですが。どのような難病も治すといわれてますがね、実際に現物をお目にかかったことなどありゃせんのです。なんといってもヒメザキノハナが咲いているというフラーメン山の頂上は、強い魔獣がいますからなぁ」

「……初耳です」

 エルジンが特に名物もないミルカ村へと行く目的は、ご老体が推察したとおり、どんな難病も立ちどころに治す効能があるというヒメザキノハナだったが、それが魔獣の巣窟になっている山にあることは知らなかった。

 噂を聞きつけ遠路はるばるとやってきたが、これはどうしたものか。

「現物を見るまではどうしようもない、か」

 ここまで来て何の確認もせずに帰るという選択肢はないに等しい。とにかく一度件の山の様子でも見てみるしかない。ヒメザキノハナが本当に噂通りの『薬』となる花ならば、是が非にでも手に入れなければ。

 騎士にとって最も大切な相手、それは主君に他ならない。その主君からの命であり、次代の主君となる姫の御命のためだ。騎士ならば、自分の命を費やしてでも果たさなければならない。

「それが、騎士」

 置いておいた剣の柄を握りしめながら、エルジンは荷馬車の前方を向いた。

 春ののどかな空気に包まれた牧歌的な小さな村。その向こうに、巨大な山陰はあった。

 

 

       ◇◆◇

 

 


 エルジンが騎士見習いとして籍を置くシストラバス侯爵家が騎士団は、別名を竜滅騎士団。不死鳥騎士団。紅き剣の騎士団などと呼ばれ讃えられていた。

 千年の歴史と無類の力を有する強大なる騎士団。紅に輝く剣と甲冑は全ての少年少女の憧れであり、騎士見習いになるのでさえ厳しい審査がある。エルジンは父がシストラバスの騎士であり、その後を継ぐ形で見習いとなったが、自分が目指すものの価値を正しく理解していると認識していた。

 騎士とは尊く素晴らしいもの。
 シストラバスの騎士とは、その騎士の中でも最も栄誉あるものであると。

 子供心に憧れて、一心不乱に修行に明け暮れた。恵まれなかった剣の才は青春を捧げた代償に育まれ、今では戦乱の世を一人旅しても問題ない程度には鍛えられていた。その努力が実を結び、正騎士となる一歩手前まで来ることが叶った。

 シストラバス騎士団において、騎士見習いから正騎士に昇格するのに必要なものは、先達の騎士からの承諾と承認である。これさえあれば、たとえ騎士見習いではない初心者でも入団が認められるという。

 設けられた一年を期限とした見聞の旅も、また経験と功績を得るのと同時に、自分を見つめ直す旅でもある。この旅からの帰還時に、見習いのままか正騎士になれるかが決まるのだから気は抜けない。

 そして、帯びた一つの使命。

『騎士見習いエルジン・ドルワートル。貴殿の求めるものは秘薬なり。不治の病にきく奇跡の妙薬の捜索、それを旅の目的とせよ』

 諸国を巡る旅の目的として、現当主クロード・シストラバスより命じられたのは不治の病を治す妙薬。クロードの一人娘にして、次代を担う竜滅姫――カトレーユ・シストラバスの病を治すための秘薬である。それを手に入れるために大陸を超え、この地ミルカまではるばるやってきた。

 求め欲するは奇跡の妙薬。姫の病を治し、その守護者たるシストラバスの騎士となること。

 それが騎士見習い、エルジン・ドルワートルの巡礼の目的である。

 


 

 ミルカの村は住民百人ほどの小さな農村で、都会とは違い時間から隔絶した雰囲気がある。けれども他人を寄せ付けない閉鎖的な雰囲気はなく、エルジンは快く迎え入れられた。

 小さな村に宿屋はなく、エルジンが身を寄せた先は小さな教会だった。
 聖神教という宗教が世界地図の九割以上を占めているこの世界では、教会がない集落は一つとしてないといっていい。

 教会は迷える者に施しを与え、神への祈りの場を貸し与える場所だ。とはいっても教会に住む人間も生きていく以上お金は必要なので、大抵は部屋を貸してもらう対価に寄付という形で宿屋よりは少ない額を支払うのが普通なのだが、そのあたりも小さな村の教会だからか、何の代価も要求せず人の良さそうな老修道女は迎え入れてくれた。

 路銀も残り少ない旅の身としては甚だ助かる思いだ。他にも夕食を振る舞ってくれ、お風呂を沸かしてくれたりと色々面倒を見てもらった段階で、現金だと思うが、すでにエルジンはこの村のことが好きになりかけていた。

 旅を初めて季節が一巡りしたか。その中でエルジンは人の醜い面を否応なくその目で見ることになった。オルゾンノットの街にいたときには分からなかったこの世の真実というものを目の当たりにしてきた。もちろんそれ以上に優しさや懸命さ、そういったものも見てきたが、ここまで良くしてもらったのは珍しいことだった。

 村人の気質が現れた居心地の良さは真面目なエルジンにして足を鈍らせた。二日目の時点で目的地まで足を運んだのは、これ以上歓待を受ければ志が鈍ると自己分析したからである。

「ここがフラーメン山か。シスターの話では山頂に近付かない限りは魔獣が襲ってきたりはしないというが」

 エルジンは早朝、件のヒメザキノハナを求めて村から十五分ほど離れた場所に位置するフラーメン山の麓まで足を運んでいた。

 初春の風が裾野に咲く小さな花々を揺らしている。間近で見たフラーメン山は魔獣がいるとは思えないほどのどかで、花々が咲き誇る巨大な山に見える。エルジンの感覚器官にも、魔獣らしき気配は捉えられていない。

 少し先へと行ってみるべきか。
 腰の剣と盾をきちんと確認したあと、エルジンは山へと足を踏み入れた。

「……」

 徐々に急になる勾配にも淀みない足取りで歩くこと数分、小動物の気配とは違う大きな生物の気配を木々の向こうの茂みから感じ取り、エルジンは剣を鞘から引き抜いた。

 磨き上げられた鏡のような刀身の長剣を低めに構え、背の高い木の合間から降り注ぐ陽光に反射させないよう気を付けながら、木を目隠しとして利用し、気配を隠して忍び寄る。

 軽くしゃがみ込みながら、いつでも斬撃を放てる準備をしつつ茂みをかき分けて、

 ――サァ。と、強い光が茂みの向こうに見えた。

 木々が途切れてぽっかりと開いた空間。
 小さな湖があり、その周辺には色とりどりの花々が咲き誇っている。

「らん、らら、ららら」

 そんな花畑の中に、彼女はいた。

 若草色のワンピースに身を包んだ、華やかさとは無縁の純朴な少女だ。顔立ちは化粧気はないが整っており、ハニーブロンドの髪を揺らしながらとても楽しそうに鼻歌を口ずさんでいる。未だ幼さの抜けきらない外見であり、花を摘んでいく姿は微笑ましいものがあった。

 エルジンはしばし香る花の芳香に動きを止めたあと、剣を鞘にしまいこむと茂みを割って花畑へと侵入した。

「失礼。貴殿はミルカ村の者か?」

「え?」

 エルジンの声にびくっと肩を震わせた少女は、持っていた花を落とすと慌てて近くにあった短剣を手に取る。魔獣が出る山ということで自衛手段として持ってきたのだろう。しかし柄を握る細く弱々しい手を見れば、今まで一度も使われたことがないのは一目瞭然だった。

「だ、誰、あなた?」

「怪しい者ではない。ミルカの村で厄介になっている者で、エルジン・ドルワートルという」

「あ、村で噂になっている騎士様ですか。良かった。魔獣かと思っちゃったよ」

 すごい早変わりだ。きちんと名乗って安心したのか、少女は短剣をポイッと捨てると「おりゃっ」というかけ声と共に立ち上がる。

「どうも初めまして! 私はオリジアっていいます。ええと、都会風に名乗るならオリジア・ミルカです!」

 ぺこりと頭を下げた少女――オリジアはすぐに頭をあげると、鳶色の瞳を好奇心で輝かせた。

「騎士様が村にやってきたのは噂になってたから知ってたけど、わぁ、同年代くらいの人だったんだ」

「…………」

「へぇ、紅い甲冑なんだ。すごい!」

 観察する視線に無言で返すエルジンは、どうしたものかと内心困っていた。
 警戒をとかれたのはいいが、こうも無防備に近付いてくる少女を相手にするのは慣れていない。

 ぐっと興味津々に顔を思い切りに近づけられ、エルジンは口を噤んだまま背中を逸らす。オリジアは時折頷いたりしていたが、やがて満足したのか顔を離した。

「なんていったっけ? 紅い甲冑の騎士って確か、ほら、『始祖姫』様の家の……」

 今度は腕を組んで悩み出す。外見は儚い少女といった感じなのに、何とも表情変化の激しい娘である。

 オリジアはあーでもないこーでもないと何かを悩んでいる様子。恐らくは紅の甲冑を見て、どこの騎士団に所属しているかわかったのだろう。エルジンは旅を通して、どれだけ自分が偉大なる騎士団にいるか思い知った。いい意味でも、悪い意味でもだ。

「シストラバス家、と言いたいのだろう?」

「そうそう、それそれ! すごいなぁ。騎士様がやってくるだけでもすごいのに、まさかあの有名なシストラバスの騎士様だったなんて。ありがたやぁありがたや」

「拝まれても困る。俺はまだ騎士見習いであって、歴史に語られるような偉大なる紅き騎士ではない」

「え? そうなの?」

 答えを教えた途端拝みだしたオリジアは、そのままの格好できょとんとし、すぐに表情を不満げに変えると、ジトーとした視線を向けてきた。

「なんだ。尊敬して損しちゃった。君はあれか、騎士に憧れる少年って奴ですか。うちの村にも何人かいたなぁ、騎士になってくるって言って都会に行っちゃった子。もう半分はこんな田舎は飽きたとか言って出てった子だけど。今頃みんなどうしてることやら」

「……俺にどんな返答を期待しているんだ?」

 遠くを見つめだしたオリジアに、エルジンは完全に置いてけぼりになる。なんだ? このマイペースな少女は。明らかに自分とは違い世界観を持っている。ついていけない。

「ともかく、オリジアとか言ったな。貴殿はミルカの村の住人だろう? どうしてこんな場所にいる。ここは魔獣が出る山のはずだ」

「ん? 見て分からない? お花を摘んでるの。ほら、綺麗でしょ!」

 短剣を捨てた位置まで戻ると、大きく両手を広げてオリジアは笑った。すると不思議なことに儚い外見が、元気が滲み出てきたような明るい外見に変わる。生命の輝きに満ちた、そんな姿に。

「どう? どう? ここはわたしの秘密の花畑なんだ。村の人も滅多に近付かない場所なんだよ」

 花畑の中で元気いっぱいに微笑むオリジアの姿に、エルジンはしばし目を奪われていた。

 だが、すぐに我を取り戻すと、コホンと咳払いを一つ。

「確かに美しい場所といってもいいだろう。しかし、だ。村の人間が近付かないということは、それだけここが危険ということだろう? 一人で立ち入るべきではないのではないか?」

「うっ、痛いところを突きますな。確かに村長さんとかには禁止されてるけど、大丈夫大丈夫。ここはまだ麓の方だし、魔獣は上の方にいかないと出てこないもん。半年近くここに入り浸っているけど、まだ一度も襲われたことがないのです。えへん」

「それは威張るようなことじゃない。今日までが大丈夫だったからといって、明日からも大丈夫というわけではない。身の安全を思えば、ここへ来ることは控えることだ」

「え〜? でも、騎士見習い君も来てるじゃない。自分は良くてわたしはダメって、そんなのおかしいよ」

「俺には自分の身を守る心得がある」

「わたしにだってあるよ」

 剣の柄に手を触れつつ言うエルジンに、オリジアは短剣を拾い上げながら反論する。

「見てて。これでも結構扱い上手いんだから」

 鞘から短剣を引き抜くと、オリジアはえいやっと思い切り振り下ろした。へっぴり腰で。目を瞑りつつ。

「おい、待て危険だ! 短剣から手を離せ!」
 
「だいじょぶ。だいじょーぶ。それ、秘技・回転斬り!」

 頭の弱い台詞を吐きつつ、何が大丈夫なのか全然その根拠が伝わらないまま危なっかしい剣舞を続けるオリジア。回転斬りなる秘技の正体は、ただの右足を支店にして一回転しただけであり、そんなことを花を踏まないよう気を付けてやるものだから、

「あたっ」

 不安定な足場にバランスを崩した彼女は、お尻から地面へと倒れ込んだ。

 スポンと手からすっぽ抜けた短剣が宙を高々と舞う。エルジンは溜息をつきつつ二歩前に進むと、空から落ちてきた短剣の刃の部分を、人差し指と中指の二本の間に挟んで取った。

「お見事!」

「じゃない。まったく、何を考えている? 貴殿のような小娘に振り回せるほど、剣という武器は容易いものではない」

 パチパチと拍手するオリジアに、エルジンは呆れ眼を丁重に送った。

 腫れ上がった足首を押さえつつ少し涙を浮かべるオリジアは、反論したそうにしているが、自分の状況に反論が思いつかないのか拗ねた様子で顔を背ける。

「ふんだ。これでも包丁の扱いならすごいんだから。今度見せてあげるよ」

「お前は初対面の相手を家に招くというのか?」

 本格的にエルジンの疑問は膨らみつつあった。思わず丁寧な言葉遣いを忘れてしまうくらいに。  このオリジアという少女、一体どういう思考形態をしているのか。この慣れ慣れしさは初対面の相手に向けるものでは絶対にない。

「ふふん、なんか行きたそうだね? じゃあ仕方ない。招いてあげましょう」

 エルジンが花畑で出会った少女は倒れ込んだままにぱっと微笑むと、両手を出しつつそんなことを言い切った。初対面の相手に頼むようなことじゃない頼み事を。

「だから家まで運んで、騎士見習い様」

 

 

       ◇◆◇

 

 

「そういえば、どうして山にいたの? えっと、え〜と……騎士見習い君?」

 一方的に疑問をぶつけられて、エルジンは椅子に腰掛けたまま目頭を軽くもんだ。

 コトコトと何かを煮込む音と共に、嗅覚を微かなスパイスの匂いが刺激する。その他にも種々様々な香草の匂いに満ちた小さな家が、エルジンが花畑で出会った少女オリジアにつれてこられた場所だった。

 オリジアの家であるそこは、色とりどりの花で溢れかえった木造家屋だった。部屋数は寝室と居間の二つだけで、寝室の方は知らないが、居間の壁には棚が並べられており、その棚には処狭しと花が入った瓶や謎の液体、用途不明の道具や書物で飽和状態だ。

 こういった感じの家をエルジンは知っていた。ちょうど研究者と呼ばれる人種の部屋が、こんな感じの道具に囲まれていた。それら研究以外に興味のない研究者の部屋とこの部屋が違う点は、きちんと整頓されて並べられていることか。

 ……まぁ、問題はそこではない。多少思春期の少女にしては珍しい趣味ではあるが、エルジンは色々な匂いが混じり合ったこの部屋の匂いは別に嫌いではない。問題はこの部屋の住人そのものだ。

(なんて、奴。村人が大らかな人とはいえ、まさかこの俺が強引に連れ込まれるとは……)

 口をきつく結びつつ、エルジンは内心で自分を叱咤する。

 怪我した女子を家まで送り届けることに何ら不満はない。山の調査は中断となったが、女子供を尊ぶことは騎士の教えの一つだ。だが、送り届けたあとすぐに山の調査に戻るつもりだったのに、結局は押し切られる形で家に連れ込まれ席についている。

「いつまでも騎士見習い君じゃ悪いよね。ねぇ、君のお名前は?」

 お礼を受け取ることについては、強くは遠慮しないよう務めてきたエルジンが反省をしているのは、一度接してみて、すぐにこのオリジアという少女が苦手と気付いたからだ。

 マイペースというか、天真爛漫というか、とにかく元気で人懐っこいタイプは、人付き合いが得意でないエルジンが一番苦手とするタイプだった。相手が守るべき女子となれば下手に避けることも躊躇われるし、とにかくペースを崩されっぱなしだ。

 エルジンは、木でできたお玉を片手に不満げな顔でやってきたオリジアを見る。

「お・な・ま・え・は?」

「……エルジン・ドルワートルだ。付け加えるならば、シストラバス侯爵家騎士団見習い騎士。先程名乗ったと思うのだがな」

「そうだっけ? まぁ、細かいことは気にしちゃダメだよ。じゃないとさらに老けちゃうよ。エルジン君、まだわたしと同じで二十才くらいでしょ? 今から目尻に小じわができたら悲しいよ?」

「俺はまだ十八だ」

「えぇ!?」

 指を使って眉間に皺を作るオリジアに、溜息混じりに年齢の間違いを指摘すると、彼女は大仰に驚いて顔をぐいっと近づけてきた。吐息が互いに感じ取れるくらい近くに勢いよく。思わず顔を後ろに引っ込めたエルジンは、バランスを崩して椅子ごと倒れそうになった。

 そんなことをしておきながらオリジアは何にも気にしてない様子で、じ〜とエルジンの顔を凝視している。大した女である。

「…………嘘でしょ? 十八歳なんて。二十歳でも疑うのに、さすがに十代はないよ。だって若さが全然感じられないもん!」

「余計なお世話だ。そっちこそ、自分を指して二十歳とはサバを読むにしても多すぎる。良くて十四、五だろう?」

「ふりゃ!」

 肩をすくめつつ背伸びを指摘したところ、思い切りお玉を頭目がけて振り下ろされた。難なくこれを避けることに成功したが、お玉に少し付着していた茶褐色のスープが頬へと付着する。熱くはない。

「何をするんだ?」

「避けた癖に非難しない! もう、乙女のプライドを刺激しておいて、それはないよ。エルジン君。いい? わたしのことをもう一度よく見なさい」

 むんと胸を張って全身が見えるように少しオリジアは下がる。
エ ルジンは言われたとおりに醒めた目つきで彼女を観察することにした。

 身長は低い。胸は身長の割りにはあるか。ウエストとヒップは……まぁ、成長の余地はあるだろう。顔、年相応の童顔。絶世の美女とはいわないが、将来的にはそこそこ有望か。あくまでも一般的な会見で、エルジンとしてはどうでもいいが。

「見たが、それがどうかしたのか?」

「わかるでしょ? このにじみ出る大人オーラが。全てを包み込むような包容力が!」

「……おそらく、お前が思っているよりも、お前という人間は大人っぽくないと思うが」

「ひどっ! ……うぅ、まさか初対面の相手にとどめを刺されるとは思っていなかったよ。これまで自分を騙し騙しやってきたっていうのに……」

 ガクリとその場に膝を付いたオリジアは、ぷくぅと頬を膨らませてまた拗ねる。

「わたしはもう今年で二十一歳になるんだよ。なのに十五歳くらいにしか見られないし。そりゃ、若いって思われると思えばいいんだろうけどさ、やっぱり乙女としては大人の女性に見られたいじゃない」

「それは知らないが、料理の方はいいのか?」

「忘れてた!」

 叫ぶなり立ち上がるオリジア。彼女は慌てて竈に乗せた鍋へと駆け寄ろうとして、その途中で恨めしい目と共に振り返った。

「……さらりとどうでもいい扱いされたことに対する怒りと悲しみを、わたしはどうぶつければいいんだろう?」

 そんなのは知らない――そう心底から思ったエルジンだったが、騎士たる身に必要とされる精神に従って、口には出さずに視線を逸らした。

 


 

 振る舞われた料理は、なるほど、彼女が得意というようにかなりの出来栄えだった。

 料理こそスープとパンという質素なものだったが、どちらもハーブや独自のスパイスが練り込まれてあり、普通とは一味も二味も違う味でエルジンの舌を楽しませた。

 オリジアは静かに料理を口に運ぶエルジンの様子を、自分の皿には手を付けず、テーブルに頬杖をついて嬉しそうに見つめていた。その視線と彼女からの好奇に溢れた視線がなければ、料理はさらに美味しかったろう。

「それで、エルジン君はどうして山の方にいたの? そもそも、どうして村にやってきたの?」

「山へは魔獣の調査のために赴いていた。村へはヒメザキノハナを求めてやってきた次第だ」

 昼食を馳走になった代価として質問に答えたエルジンに、ようやく料理に口をつけようとしたオリジアの手が一瞬止まった。一緒に感情の動きも止まったのを、エルジンは見逃さなかった。

「へ、へぇ、ヒメザキノハナか。そんな噂信じてる人、まだいたんだね」

 すぐに屈託のない笑顔に戻ったからこそ、その一言は意外に思えた。

「やはりどのような難病にも効くというヒメザキノハナは実在しないのか?」

「どうだろうね。フラーメン山の頂上には、それはそれは綺麗な花が咲いてるっていうけど、その花の前には魔獣の巣があるから今まで誰も見たことないの」

「魔獣か……具体的にはどのような魔獣なのか、知っているか?」

――クピオラ、だよ」

「クピオラ……知らない魔獣だな。どのような魔獣なんだ?」

 数多く存在する魔獣たちは、絶滅したり淘汰されたりしながら人に害する存在として在り続けている。大陸が違えば生息している魔獣も違うため、出身大陸である神聖大陸エンシェルトの魔獣の分布と生態については熟知しているエルジンも、この大陸特有の魔獣だろうクピオラは知らなかった。

「クピオラは毒の魔獣だよ。小さな二足歩行の動物の周りに、強く濃い毒素が渦巻いて大きく見えるって噂の魔獣。毒による攻撃は致死性がすごく高くて、前に退治にきた都市の騎士様たち五人がかりでも倒せなかったんだ」

「五人で? それは、また……」

 その都市の騎士の錬度がどれほどのものかは知らないが、五人がかりで倒せないとなると相当強力だ。世界的に有名である強力な魔獣、オーガだって、騎士が五人もいれば倒せる魔獣だ。然るべき策は必須となるが。

 しかし、魔獣である以上不死というわけではあるまい。仮にヒメザキノハナが実在するなら、どのような強敵でも挑んでみる価値は……

「ダメだよ」

 エルジンの思考を中断させたのは、険しいオリジアの声だった。

「ダメ。絶対にダメ。本当に危険なんだからそんなことしたらダメだからね!」

 


 

       ◇◆◇
 


 


 ダメとオリジアにいわれたが、だからといってエルジンには諦めることができなかった。

 もうあと一月ほどで終わる巡礼の旅において、エルジンは何ら成果を出していなかった。確かに見聞は広がったがそれだけ。これだけでは、あの偉大なる先達と肩を並べられるとは思えない。

(何が足りない? 俺に、騎士たる要素の何が足りない?)

 旅の中、幾度となく行った問いかけをしつつ、オリジアと出会った翌日、エルジンはフラーメン山の山頂目指して歩いていた。

(おおよそ騎士として必要なことは全て学んだつもりだ。自分なりに考えて、世のため人のために良かれと思うこともした。だが、俺には何かが決定的に足りない)

 麓の辺りにはやはり魔獣の気配はない。至ってのどかな光景だ。

(それは何だ? 俺には一体、何が足りない?)

 自問するまま足を止めることなく歩いていたエルジンは、ほどなく昨日オリジアと出会った花畑まで辿り着いた。

 今日もいるのだろうか。と、少し期待のようなものをしたが、やはり昨日怒られて今日来るのは気が引けたのだろう。花畑には色とりどりの花が咲き誇っているばかりで、少女の姿はない。

 何となく自分が落胆していることに気付いたエルジンは、浮ついた空気を払拭するように深呼吸をしてから、花畑を迂回するようにしてさらに頂上目指した。

「……やはり、これはいるな」

 さらに歩き始めて三十分ほどした頃、肌に触れる空気に、言葉にはできない感覚が混ざり始めた。戦うものだけが感じることができる魔獣の殺気だ。エルジンは鞘から剣を引き抜くと、盾を構えて気配を尖らす。

 できるのなら今日中に山頂を踏破したいと行きたいところだが、知らない場所、知らない敵を相手取るのにはかなりの集中力が必要だ。集中は短期しか持たず、疲労を蓄積させる。この状態では一時間が限度だろう。

 歩くスピードを抑え、周囲を警戒しながらエルジンは木々をかき分けて進んでいく。どんな小さな音も見逃さないように。

 プツン。

 細いものが立たれたような音を捉えたエルジンは、次の瞬間風になった。

 前面に盾を構えての疾走。エルジンの感覚器官が、間違えようのない気配を二つ捉えていた。

「わきゃっ! って、エルジン君?」

「伏せろ!」

 一つはオリジアの気配。そしてもう一つは――

「え? ひっ――

 今まさにオリジアに襲いかかろうとしている魔獣の気配!

 間に合わないと悟ったエルジンは、頭を抱えて伏せたオリジアを守るため、右手で持っていた剣を咄嗟に投げつけた。エルジンが学んだシストラバス流・剛の剣術に投擲術はないが、一般の心得としては会得していた。まっすぐ狙い通り飛んだ剣は狼に似たガルムの額に見事突き刺さる。
 
 緑の血をぶちまけながら吹っ飛ぶ魔獣がガルムであることを再確認して、オリジアの前で足を止めたエルジンは舌打ちしたくなった。

「あ、ありが――

「黙っていろ。まだ終わっていない」

 死体となったガルムから剣を引き抜いて、エルジンはオリジアを背中に庇いながら周囲に注意を注いだ。

 ガルムは魔獣の中でも群れで行動することが多い魔獣だ。一体いたなら三体は確実に潜んでいる。

「エ、エルジ――

「そこかっ!」

 餓えた視線は、オリジアが不安から出した声に限界へ達し襲いかかってきた。数は三。狙いはオリジアに絞っている。そっちの方が与し易いと悟ったからか、あるいは純粋にそっちの方が美味しそうだからか。

「ふっ!」

 愚か者。弱者と婦女子を狙うとは愚かの極み。

 ガルム二体を盾で弾き返し、一体を真っ二つに切り裂く。
 さらに返しの刃でもう一体を。最後に怯んだガルムも一刀両断にする。

 鮮やかともいえる剣筋に、一瞬時が遅れて緑の血をばらまく。血しぶきはここで散ったものが命というには呆気ない程度で、エルジンには一切返り血が及ばない。

 しばらくエルジンは迎撃体勢を整えたまま辺りを注意深く睨んでいたが、魔獣の気配が完全に途絶えたと見ると、鞘に剣を収めて腰が抜けたような表情のオリジアを見下ろした。

 戦いの舞台となったのは山の中腹を少し越えたところ。昼なお薄暗い林の中だ。正直、駆けつけられたのは運が良かった。できすぎというくらいに、だ。少し早ければエルジンはオリジアの気配を捉えられなかったし、遅ければ魔獣の襲撃に間に合わなかった。

「運が悪ければ今、ここにお前の死体が転がっていた」

 エルジンはじっとオリジアを見る。彼女の方は罰が悪そう顔を背けて、怯えたように抜くことすらできなかった護身用のナイフを握りしめる。

「愚かの極みだ。なぜ、こんな場所までやってきた?」

「す、少し行った先に昨日とは違うお花畑があるの。そこ、薬草とか生えてるから」

「薬草?」

「ミルカの村にはお医者様がいないから、わたしがお医者様の真似事をしてるの。昔、王都で薬学の勉強していたことがあるから」

「そうだったのか」

 道理で他の村人には気付かないシストラバス家のことなどを知っていたはずだ。同じく、部屋の薬の類にも得心がいった。だが、やはり愚かなことに変わりはない。

「いつも同じようなことをしていたのだろう。そして、いつもは大丈夫だった。昨日も言ったとおり、昨日が大丈夫だったからといって今日大丈夫とは限らない。愚かだな。薬草が必要でここまで来なければいけないのなら――

 エルジンはしょげるオリジアの目の高さまでしゃがみ込むと、

――どうして俺に同行を頼まなかった?」

「ごめんなさい………って、え?」

 謝罪のあと、オリジアは驚いた様子で顔をあげた。まるで予想外の言葉を聞いたといわんばかりの顔だ。

「え、え? 今、エルジン君、同行を頼まなかったことが愚かとかいわなかった?」

「その通りだ。常も武術の心得のある者と一緒にいけば、追い払うことぐらいは可能だろう。今回に限っては騎士見習いである俺がいた。ならば頼めば良かったのだ」

「でも、エルジン君とわたし、その、昨日会ったばかりだし……」

「初対面の相手を家に連れ込んだ奴が何をいう」

「そ、それはまるでわたしがいやらしいことしたみたいな言い方になるよ!」

「もう遅い。すでに村ではオリジアがよくやった、と噂されていたぞ」

「なんですとっ!?」

 衝撃にのけぞるオリジアの身体を、エルジンは軽く見分する。不幸中の幸いにも怪我などはしていないようだ。

「手を」

「あ、うん。ありがとう」

 立ち上がって手を差し出すと、自分が昨日したことの意味にようやく気付いて悶絶していたオリジアは、照れたように頬を赤くして掴んだ。

「よっ、っと、あれ?」

 そのまま立ち上がろうとするが、やはり腰が抜けたのだろう。立ち上がれない。

「あ、あはは」

 意味もなく笑って誤魔化そうとするオリジアに、エルジンは苦笑を向けてもう一度しゃがみこんだ。

 これで二回目。エルジンはオリジアをおんぶして、この先にあるという花畑を目指した。

 


 

「でも、おかしいな。二週間に一度くらいのペースでこの辺りに来てるけど、今まで魔獣に襲われたことなんてなかったのに」

 辿り着いた花畑は、昨日オリジアと出会った花畑と遜色ないほど見事な場所だった。

 小さな小川の周りにひしめき合う色とりどりの花の共演。薫り高い花々の匂いが辺り一面に満ちていた。中でも鼻孔をツンと突き抜けるほど強烈に香る花があった。今は微かに見当たるだけだが、花の種類には詳しくないエルジンでも例外的にその花のことは知っていた。

「それは、レンタンジュのお陰だろうな」

「レンタンジュって、夏から冬にかけて咲いてるあの? 雑草花っていわれてる」

「雑草花と呼ばれているかは知らないが、そうだ。レンタンジュは春になると花粉つけのために枯れるが、夏から冬にかけてどこにでも生え、咲く。その匂いはかなり強烈だ」

「確かに、夏くらいにここに来るとちょっと顔をしかめちゃうくらいだね」

「その匂いは、実は魔獣避けになる。特にガルムなどはこの花の匂いを嫌煙する性質があるからな。花畑を中心に動いていたのなら、魔獣たちも近寄ってこれなかったのだろう。この辺りはガルムの分布が多そうだ」

「そっか。それで、春になってレンタンジュが少なくなったから襲われたんだ。考えてみれば、去年の春はわたし王都にいたしね」

「さらにレンタンジュには悪意や負の魔力といったものを吸収する性質がある。ここの花畑は一種の結界になっていたようだが、今はそれが弱まっている。春の薬草摘みは避けた方が無難だろうな」

「なるほど。うんうん、勉強になりました」

 感心したように頷いて、オリジアは籠いっぱいになった薬草に満足そうに笑う。

「それに、本当にエルジン君がいて助かったよ。エルジン君がいてくれなきゃ、今頃わたし食べられちゃってるもの。こう、ガオーってね。そんな最後は流石に嫌だもん」

 手でガルムの真似をするオリジアが、その実少し震えを残していることにエルジンは気付いていた。

 きっと、オリジアは強い少女なのだろう。気丈に振る舞っている。それを突くのは野暮というものだ。

「では、村に戻ろうか」

「え? でも、エルジン君。頂上に行くんじゃ……?」

「その予定だったが、お前を一人にしておくことはできないからな。麓まで送るつもりだ」

「……その後、やっぱり頂上行くんだね。だって、否定しなかったもん。エルジン君」

「昨日もそうだったが、やけに否定的だな?」

 顔を曇らせるオリジアに、エルジンは昨日も思ったことを思い切って尋ねてみた。
 
 オリジアはしばらく口を噤んでいたが、何度かエルジンの顔とフラーメン山の頂上へと視線を行ったり来たりしたあと、小さな声で語り始めた。

「正直にいうとね、確かに万病に効くっていうヒメザキノハナはフラーメン山の頂上に存在するよ。言ったよね、わたし薬学学んでたって。わたしのお父さんとお母さんも薬学を学んでて、結構すごい人だったんだ」

 尊敬する両親を語るにしては、オリジアの顔は暗かった。

「王都で研究するくらいの人で、色々と薬を作ってたって聞いてる。両親揃ってそんな感じだったからかな、とっても仲が良かったんだって。自然が好きだったからお母さんの故郷のミルカ村に住んで、王都と行ったり来たりの生活。わたしが生まれたあとはどっちかが村にいて、どっちかが研究してるって感じだったな」

「お前が王都に行ったのも、その関係か?」

 ちょっとオリジアが押し黙ったのを見て、エルジンは相づちを求められたような気がして口を挟んだ。

 オリジアは首を横に振ると、

「実はわたし、あんまり身体が丈夫じゃなくってね。王都の空気は合わなかったらしいんだ。この村でのんびりと暮らしてたから……ああ、ごめん。嘘付いた。あんまりじゃなくてすごく身体が悪くて、正直、何度か死にかけたらしいよ」

「それは……」

「あはは、ごめんね。困らせちゃって。でも、何とかここまで大きくなれた。お父さんとお母さんががんばってくれたから。色々と新しいお薬作ってくれて、そのお陰でほら、人並みに動けるようになってます」

 精一杯元気な振りをしつつも、やはりオリジアの顔は曇ったまま。

「……ああ、ごめん。それも嘘。確かに人並みに動けるようになってるけど、身体の調子が良くなったわけじゃないんだ。たぶん、ね。もうあんまり長くは生きられない感じ。田舎のこっちじゃそんな珍しいことじゃないし、そういう中では恵まれていた方だけどね」

「…………」

 無理をして笑うオリジアに何て言っていいかわからない自分を、エルジンは本気で殴りたくなった。こればっかりは、人付き合いが苦手と他人との接触を避けてきたことに後悔を覚えずにはいられない。

 無言で困った顔をするエルジンを盗み見て、オリジアは軽く花に手を押しつけると、

「でも、お父さんとお母さんはわたしを何とか治してくれようとしたんだ。それで、見つけた。フラーメン山の頂上に、おおよそどんな病も治すだろう花があることを」

「それがヒメザキノハナ、か?」

「うん。お父さんとお母さんは喜んだよ。だって故郷のすぐ近くにそんなものがあったってわかったんだから。喜んで……そして、取りに行ったっきり戻ってこなかった」

 クピオラ。山の頂上に住まう魔獣。

 意気揚々と出かけたオリジアの両親は、その魔獣の前に命を落としたのだろう。
 オリジアがヒメザキノハナを求める相手によくない顔をするのも頷ける。両親が命を落とした花。そして、両親が花を求めたのは自分のため。

「噂が噂を呼んで、いつしか村の伝承になっちゃった。誰も見たことがない、だけどそこにあるだろう伝説の花――ヒメザキノハナ。万病を治す奇跡の花ってね」

「…………そうか……」

 話を聞き終えたあと、エルジンは長い長い時間の沈黙のあと、それだけを言った。それだけしか言えなかった。

 オリジアはしばらく山の頂上を見つめていたが、やがて飽きたのか、振り返って微笑んだ。

「さて、それじゃあ村に戻りますか。エルジン君」

 花畑の中で、どこか憂いを残す笑顔……美しかったが、それでもエルジンは昨日見た屈託のない笑顔の方が魅力的だと思った。

 心の底から、そう思った。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 それから三日間、エルジンはオリジアに付き添って山のあちこちに咲く花や薬草の収集の手伝いをさせられた。

 甘い顔をしたのが悪かったのか、それでも春の間は一人じゃ行けない、村に強い人なんていない、たくさんとってこないと薬足りなくなったちゃう、なんて言われてしまえば騎士を目指すものとして断れるはずがない。

「そんな迷惑そうな顔しないでよ。お礼に毎回ご飯ご馳走してるでしょ?」

「別に迷惑などしていない。オリジアの料理はうまいと思っている」

「えっ? え、うん。そっか。うんうん、ようやく素直になりましたか」

 軽く褒めて返せば、オリジアは見るからにご機嫌になってキッチンに消えていった。

 この数日付き合ってみてわかったことだが、なんとも単純な思考形態というか、裏表がないところは素直に好ましく思う。散々振り回されていてなお心から迷惑には思えないあたり、彼女は誰からも好まれる性質なのだろう。

 とはいえ……困った。

 薬草集めが迷惑ではないとはいえ、エルジンの本来の目的はヒメザキノハナである。しかもその発見者の娘が実在すると証言したのだ。是が非にでも手に入れたい。そうすればオリジアも……。

 コホンコホンと、軽くキッチンから咳き込むような声が聞こえる。エルジンは努めてそれを気にしない振りをした。オリジアが、自分の身体が弱いことを気にしていることは、エルジンとて気付いていた。

 薬学者の両親をもち、自らも薬学を学んだ彼女がそれでも治っていないのなら、彼女の持病は恐らく不治の病なのだろう。カトレーユと同じだ。治す薬が既存の材料や技術では賄えない。

 ならば、万病に効くというヒメザキノハナ。それを手に入れることは、オリジアのためにもなる。彼女の両親が果たせなかった夢を果たすことができる。

 問題があるとすれば、クピオラなる魔獣が強いことと、彼女自身があまりそれを望んでいないことか。本当にヒメザキノハナが欲しいのならば、多少無理をしても腕利きの傭兵を集めるなどして手に入れることもできたはずだから。

「……何を考えているのだ、自分は」

 目でオリジアを追っている自分に気付き、エルジンは叱咤する。

 オリジアを必要以上に気にしていてどうするというのか。カトレーユのためにヒメザキノハナを手に入れるのは最優先事項だ。騎士になるためにも、シストラバス家――ひいてはこの世界の未来のためにも。

 そうだ。こんなところでのんびりお茶を飲んでいる暇などない。

「オリジア。すまないが、俺はこのあたりで……」

 エルジンは立ち上がり、キッチンを覗き込む。

「オリジア?」

 しかし、キッチンに彼女の姿は見えない。確かに先程咳をしていたはずなのに……。

 はっとなってエルジンは床を見る。そこにいたのは、仰向けに倒れ込むオリジアの姿だった。

「オリジア!」

 慌てて駆け寄ったエルジンは、倒れたオリジアの口の中に血がたまっているのに気付き、さっと顔を青ざめた。

 彼女の顔を横に向けて血を取り除くと共に、手首を掴んで脈拍を確認する。

 息をしていない……!

 そこからのエルジンの動きは早かった。
 
 オリジアの顎をあげて気道を確保すると、口を合わせて息を吹き込んだ。二度息を吹き込んだあと、心臓を強くマッサージする。

 応急手当は訓練で嫌というほど行った。人工呼吸のやり方もだ。
 恐らく今回のものは心臓の発作。その後吐血による窒息状態。人工呼吸と心臓マッサージを繰り返すことが望ましい。

 エルジンは必死に繰り返した。この街の医師はオリジア……今目の前で死にかけている少女だ。

 助けを呼んでも意味がない。自分が助けなければ、この少女は死ぬ。

「死ぬな。死ぬなっ、オリジア!」

 今まで感じたことのない恐怖にエルジンは凍りつきそうになりながら、必死にオリジアを冷たくさせないよう人工呼吸と心臓マッサージを繰り返した。

「死ぬなよ、オリジア!」


 

 

 夕刻――

 エルジンはフラーメン山の頂上目指して走っていた。

『オリジアちゃんの病気はね、心臓の病なの。もう、長くはないわ』

 耳に木霊するのは、何とか脈を再開したオリジアを運び込んだ教会の老修道女の言葉。

『それが誰よりもわかっていたオリジアちゃんは、王都に行って勉強したの。お父さんとお母さんのがんばりを無駄にしたくないから、って。私たちも騎士様に頼んでヒメザキノハナを手に入れようとしたんだけど、クピオラに全滅させられてしまったわ。 
 それが結果的にオリジアちゃんを追い詰めてしまったのね。彼女は自分の所為で人が死んだって、王都から帰ってきてこの村で住み始めたの。誰が止めても花畑に通い続けるのはきっと、もう誰もヒメザキノハナを求めて死なないようにって』

 初めて会った日、オリジアが強引に迫ってきたのは、頂上から遠ざけようとする願いからか。自分の過去を話したのも、クピオラの強さを語ったのも、全ては諦めさせるためか。

 これであの馴れ馴れしさにも説明が行く。裏表がない笑顔を浮かべながら、思いの外深いことを考えていたものだ。

 そう素直に感嘆したから、エルジンは上ろうと思った。ヒメザキノハナを手に入れようと思った。

 なぜならば、自分は騎士だ。今はそうでなくとも、それに憧れ、なろうとする者だ。

 目の前に苦しんでいる人がいて、手が届く場所にその痛みを和らげる術が存在するのなら、迷うはずがない。戸惑うはずがない。強い敵? 大いに結構。その方が盛り上がるというものだ。

「待っていろ、オリジア」

 後で非難されるとしても、これはオリジアのためだけじゃない。今も彼女と同じように苦しんでいるだろう、オルゾンノットの姫君のためでもあるのだから。誰に非難される謂われもない。たとえここで死んだとしても――それは、自分の未熟が招いたツケだ。

 恐怖はない。今、未だかつてない熱い血潮で身体が燃えている。

 研ぎ澄まされた集中は途切れることを知らず、走る速度に淀みはない。
 三日間連れ回されたことで、すでにフラーメン山の頂上までの道は大方マッピングがすんでいる。花畑の近くを通ることで、魔獣との遭遇率を下げるルートも頭に入っていた。

 それでも出会う魔獣は一刀両断。まさに怒濤の勢いでエルジンは山を踏破していく。

 陽もどっぷりと暮れ、空に星が輝く頃になると山の中は真っ暗闇。月明かりが届かない場所は、一寸先も見えない暗黒と変わる。

 そうなればいかなエルジンといえど戦うことはできない。が、そうなる前に林を抜け出たのだから杞憂だった。林を抜けた頂上は岩肌がのぞく丘になっていた。澄んだ空気に広がる満点の星空のお陰で、夜にあっても暗くはない。

 それでも、夜道を歩くとき以上の警戒をもってエルジンは岩肌の向こうを睨み据えた。

 感じる。魔獣の気配を感じる。
 感じる。毒の気配を感じる。

「シストラバス侯爵家騎士団見習い騎士、エルジン・ドルワートル――いざ参る!」

 エルジンは名乗りをあげると共に、剣と盾をしっかりと握って飛び出した

 同時に、魔獣――クピオラも姿を現す。

 獰猛に吐息を吐き出す姿は、オリジアが語る通りの姿。紫の霧のようなもので覆われた身体。ただ違う点があるとすれば、予想していたよりも身体が巨体であることか。吐き出す吐息は毒ガスで、なるほど、山頂付近に草花がないはずだ。

 短い二本足と長い腕を支えに立ち、ゆっくりとエルジンを観察するクピオラを、エルジンもまたしっかりと観察しながら間合いを測る。

 ジリジリと間合いを少しずつ詰めながら回転していく。

 一歩――ついにクピオラがエルジンの間合いに入り込んだ。

「はぁッ!」

 岩肌を踏み砕く勢いで斬り込んだエルジンに、クピオラが僅かに遅れて反応する。

 ぷくりと頬を膨らませたかと思うと、口から勢いよく何かを吐き出した。

 毒ガスは口を開かなければいいというものではない。鼻の穴からでも効果がある毒も存在する。エルジンは前もって鼻に毒ガス対策をしていたが、それでも効く可能性は十分にある。
 まだ牽制の段階のため、エルジンはすぐさま回避の行動を取った。これが結果的にエルジンの命を救うことになった。

 クピオラが吐き出したもの。それは毒ガスではなく硫酸だった。

 命中した岩肌がじわりと溶けているのを見ても、相当な強酸だ。
 毒以外の凶器を見せたクピオラが、再度頬を膨らませたのを見て、エルジンは距離を離す。だが、一度好機を見て取ったクピオラは攻撃を止めない。

 先程以上に頬を大きく膨らませると、唇を尖らせてエルジン目がけて再び強酸をお見舞いした。先程よりも勢いが強い。まるで水鉄砲ように酸が迫ってくる。

 距離を離したからといって安心はできない。エルジンは酸を避ける際、当たってしまった肩当てが溶けているのを見てそう判断する。こんなものが皮膚に当たったら、骨まで溶けてしまう。

「ならば、一瞬で決める!」

 ともすれば無謀ともいえる判断を下し、エルジンは盾を構えてクピオラに駆け寄った。

 クピオラは今度は手を振るい、近付くエルジン目がけて振り下ろす。かなりの豪腕と速度。しかし白兵戦に特化して鍛えたエルジンの目は、間合いに入り込んでくる敵の動きを的確に読みとった。全ての攻撃を避けきると、その腹目がけて斬撃を浴びせる。

 剣に鈍い感触がと伝わってくると同時に、クピオラが悲鳴をあげた。ただの悲鳴ではない。毒息の悲鳴だ。

「っ!」

 駆け抜けたまま距離を取ったエルジンは、攻撃をお見舞いする際、気合いをいれるために僅かに口を開けてしまっていた。その僅かな瞬間にも毒を吸い込んでしまったのだろう。全身に蛇が絡みつくような重さを感じた。

 大した毒だ。解毒できるか知らないが、原液を浴びればひとたまりもあるまい。

 これは何の特徴も知らなかった騎士が敗れたのも頷ける話。とにかくこのクピオラの攻撃、殺傷性が高すぎる。オリジアから特徴を聞いていなかったら、最初の時点で死んでいた。

 二度の攻勢で相手の特徴は掴み取った。あとは毒が回って動けなくなる前に勝負を決める。

 エルジンは毒も酸も恐れることなく、果敢に立ち向かっていった。

 防御力はそれほどではないのか、攻撃の度に少なくない量の血がクピオラから出る。対してエルジンも蓄積していく毒の影響でだんだんと動きに制限をつけられていく。

 戦いは我慢比べの装いとなり、エルジンは気合いで身体を動かし、剣を振るった。

 ……戦いが始まって十分が経過しただろうか。がむしゃらに戦い続けたエルジンは、ふと気が付けば自分が盾を持っていないことに気が付いた。

 剣は自分の血とクピオラの血で濡れている。隣ではクピオラの紫の巨体が溶けていた。酸を蓄えていた袋でも貫いたのか。中からじわじわと溶けるように、クピオラの身体が消えていく。

 勝ったのか……。

 ようやく自覚したエルジンは、重たい足を動かして距離を取ったあと、止まっていた呼吸を再開させる。少し振り返って戦いの現場を見てみれば、岩肌は酸で溶け、毒で変色し、血が飛び散っていた。

 振り返るのはそれまで。エルジンはすぐに前を向くと、戦いの中、見つけた花があるところまで急いだ。

 それは酷く美しく、酷く場違いな花だった。

 クピオラの毒素で草一つ生えない岩肌の上、蜂蜜色の花が一輪だけ咲いている。一目見てわかった。これがヒメザキノハナなのだと。

「よかった……これで、オリジアは……」

 笑顔を見せて、ヒメザキノハナを下の地面ごと掘り返したエルジンは、そこではたと気付く。

 この一輪のヒメザキノハナ以外に、辺りに花の存在がない。見あたらない。

 つまり……万病に効くヒメザキノハナは、この一輪のみ。

「……カトレーユ様…………オリジア……」

 だが、不治の病に悩むのは二人。
 
 助けられるのは――どちらか片方のみ。

 


 

 帰りの道程は行きよりもずっと時間がかかった。

 毒で身体が上手く動かなかったからか? ――否。
 暗闇で歩く道が見つからなかったからか? ――否。
 
 時間がかかったように感じられたのは、考えていたから。答えの出ない難問。答えのない設問。手の中にあるヒメザキノハナ一輪と、それを求める二人の大切な人……救えるのがどちらか一人と知って、果たして誰が答えを出せる?

 結局、エルジンが望みを託したのは、この一輪で複数の薬になることだった。誰も一輪から一人分しかできないとは聞いていない。たとえヒメザキノハナの大きさが小さなものでも……もしかしたら、何人もの苦しむ人を救えるかも知れない。

 いや、これは所詮自分をも騙せない嘘だ。
 この一輪から、何人も助けられる薬が作れるはずがない。与えられるのはどちらか一人のみだ。

 シストラバスの騎士見習いとして悩むなら、答えはすでに出ている。

 カトレーユ・シストラバス。今代の竜滅姫にして世界の希望。
 毒竜の呪いによって今は面会謝絶となり床に伏せ、長くは生きられないと噂されているが、決して死んではならない少女である。

 それはシストラバスの騎士が継ぐ理想もそうだし、それ以上に世界にとって彼女がいなくてはならない存在だからというのが大きい。

 この世界にはドラゴンという敵がいる。人では勝てない悪魔に唯一勝てる存在こそが竜滅姫。もしも竜滅姫がいなくなれば、世界は悪魔によって滅ぼされてしまうだろう。古の地獄がそうだったように、人が怯えて生きなければいけない時代が来る。

 そうならないためには、是が非にでも――他者を犠牲にしても彼女を助けることが必要だ。そうすればシストラバスの騎士らも喜び、そしてエルジンも晴れて正騎士になれるだろう。

 だが……一人の人間。エルジン・ドルワートルとしてはどうか?

 選べるのだろうか? 他者を犠牲にしてでも、この優しい村で出会った優しい少女を切り捨てて尚、会ったこともない姫君を選べるのだろうか?

 どれだけ悩んでも答えが出ない難問を抱えたままでも、エルジンの足はミルカの村を目指して止まることなく歩き続けた。

 やがて、夜でも消えていない明かりが灯る教会が見えてくる。

 ……結局、エルジンは選べなかった。

 ただ、教会の戸をノックして――そのまま、身体のダメージを思い出したかのように気絶した。

 


 

       ◇◆◇

 


 

 エルジンが次に眼を覚ましたとき、そこには自分を見下ろすオリジアの顔があった。

「オリ、ジア……?」

「おはよう、エルジン君」

 前髪を優しくなでるオリジアの手。柔らかく微笑むオリジアの顔に死相は見えない。

 自分は間に合ったのだとエルジンは安堵すると共に、ズキリと胸が痛むのを感じた。

 わかっていたのだ。ヒメザキノハナを手に教会の戸を叩けば、それがオリジアに使われるものと。結局エルジンは選択することを放棄した。次に眼を覚ましたときにはすでに終わっていた。

 恐らく毒によって数日寝込んでいたのだろう。身体には脱力感と熱がこもったような後遺症が見られる。身体がきちんと動くところを見ると解毒はきちんとされているよう。オリジアの腕は確かなようだ。

「オリジアが治療をしてくれたのか?」

「そうだよ。エルジン君、わたしよりも危険な状態だったんだから。そりゃ、わたしだって倒れてるわけいかないよ」

「そうか……助けるつもりが、助けられてしまったのか。ふっ、まったく愚かの極みだな」

「ほんと、無茶して。あれほど頂上には行っちゃいけないって言ったのに……」

「すまない」

 なでるオリジアの手が気持ちよくて、助かった彼女の顔を見るのが嬉しくて……だからこそ、胸はジクジクと悔恨の念を催す。

 オリジアが助かったことは嬉しい。だが、本当にこれで良かったのだろうか?
 自分でそうと選ばずに状況が流れるままに任せたが故の後悔。まだ若いエルジンが初めて知った、悔恨の味。

「俺は、シストラバスの騎士失格だな……」

 弛緩する身体をベッドに預けて、エルジンは目を閉じた。
 少年時代に忘れた涙が出るかと思ったが、目には何も浮かばない。

「エルジン君は、騎士になりたかったんだね」

「ああ。騎士が俺の憧れだった。父を見て、父と肩を並べる勇壮なる紅い騎士たちを見て、子供心に憧れた。いや、今もずっと憧れている。ああなりたいと思った。自分もあの一員となって、高らかに誓いに殉じたいと思った」

 それができればどんなに幸せだろうと……そう、きっと憧れだけで戦ってきたことに対する、これは現実の痛み。

「今回のことが知られれば、俺は到底騎士にはなれんだろう。主君よりも他の誰かを優先した……ああ、こんなことをお前の前でいうなんて最低だな……くそ……くそっ!」

「悔しいんだね、エルジン君は」

 自分を助けたことを後悔する男の手を、オリジアは優しく握ってくれた。

 草の匂いがしみついた、だけど柔らかい女の手。
 その感触から、冷たい焼き物の感触に変わる。何かを持たせられた。ずしりと重く、そして嗅いだことのない匂いがした。

「これは……」

 エルジンは目を大きく見開いて、オリジアに持たせられたものを見た。
 鉢植えに植えられた一輪の花。蜂蜜色の、それは万病に効くヒメザキノハナ。

「どうし、なっ、これは……?」

 すでにオリジアに使われたと思っていたヒメザキノハナを出され、エルジンは理解が及ばず痛みを抑えて上半身を起こした。僅かに鈍っていた思考も覚醒するが、鉢植えとオリジアを行ったり来たりさせることしかできない。

 なぜ、これがここにあるのか。
 なぜ、これがここにあるのにオリジアが笑っているのか、それがわからなかったから。

「なればいいと思うよ、エルジン君」

 呆然とするエルジンに向かって、オリジアは笑った。

「騎士になればいいと思うよ。きっとエルジン君なら、素敵な騎士になれると思う。憧れているものを目指して、憧れているものになればいいと思うよ」

「オリジア……お前、まさか……?」

 そうだ。オリジアはシストラバス家について知っていた。シストラバス家の騎士について知っていた。ならば、話していないエルジンの巡礼の意味に気付いていたとなぜ気付けなかった。

 エルジンはあの日、花畑と同じ姿で微笑むオリジアの姿に全てを理解した。

「ヒメザキノハナはわたしには必要ないから。どうぞ、あなたの大切な人にあげてください」

 その笑顔に、エルジンは打ちのめされた。

 震える手でヒメザキノハナが入った鉢植えを抱きしめる。憧れた騎士になるために必要な花を抱きしめる。だけど……抱きしめたいのに。この壊れそうに儚く、なのにとても強く輝く笑顔を抱きしめたいのに、エルジンは抱きしめることが許されなかった。

 エルジン・ドルワートルには選択肢があった。ここで、ヒメザキノハナをオリジアに捧げるという選択肢が。

 たとえシストラバスの騎士にはなれなくとも、この少女を救ったという自負だけでこの先生きていけると、そうわかっていたのに……オリジアの微笑みを前にして、口にすることができなかった。

 

 

       ◇◆◇


 

 

 神聖大陸エンシェルト。

 この世で最も神聖にして豊壌なる大陸の中心部の南にグラスベルト王国はあり、国の北端にエルジンの在籍するシストラバス侯爵家が統治するオルゾンノットの都は存在した。

 古都オルゾンノットと呼ばれる歴史ある故郷で見習い騎士エルジンに待っていたのは、惜しみない賞賛と拍手だった。

 誰よりも敬愛し、尊敬する先達の騎士からの賞賛の声。
 主君クロード・シストラバスからの名誉あるお褒めの言葉。

 一月前だったなら、涙さえ流しただろう瞬間を前にしても、エルジンの心に歓喜はわかなかった。ただ、逃げるように去ったミルカの村で笑う少女のことだけが思い浮かぶ。

 エルジンがシストラバスの騎士に任命されることは、全員一致が可決された。これより三日後、エルジンはシストラバス家の騎士の証である紅き剣を賜り、栄えあるシストラバスの紅騎士の一員となる。

 しかし、万病に効くというヒメザキノハナを持ち帰ったエルジンに対するクロードの感謝はその程度では収まらなかったらしい。彼にしてみれば最高の、シストラバスの騎士にしてみても最高の褒美が、エルジンを待っていた。

 泥にまみれて鍛錬を続けてきたエルジンは、今まで着たこともないような仕立てのいい礼服姿で、シストラバス家の敷地内にある不可侵の塔に足を踏み入れていた。

 不可侵の塔――つまり、クロードにとって何よりも大事な姫がいる塔である。

 入ることが許されているのはクロードと身の回りの世話をする従者のトリシャの二人だけという、たとえシストラバス家の騎士でも、偉大なる使徒であろうとも入ることを許さぬ場所がそこだった。

 エルジンたちが仕えるべきもう一人の主君は、生まれたときよりこの塔で生活していた。
 生まれながらに呪いを負い、身体が弱い彼女は外に出ることも叶わず、また外からの悪い風が入ってはいけないと人の出入りも禁じられている。

 そんな、先達の騎士の誰もがお会いしたことがない相手と少しとはいえ会話を許される……シストラバスの騎士として最大の誉れだった。

 それだけのことを自分はしたのだという思いと共に、切り捨てたものの重みに戸を叩く手が鈍る。

「……胸を張れ、エルジン・ドルワートル。後悔していても、身が引き裂かれる思いであろうとも、主君の前では精々、賞賛を受け取るに値する自分の行いを誇っていろ」

 待っていたトリシャ・アニエースに連れられ、エルジンは塔を昇っていく。
 
 初めて踏み入れる塔の最上階に、美しく飾られた扉はあった。

「この先に姫様がおられます。くれぐれも、姫様のお身体に負担になることはしないように」

「わかりました」

 トリシャから鋭い視線と共に注意を受け、エルジンは厳かに頷く。
 どうやらあまり乗り気ではないようで、トリシャはしばらく躊躇したあと、溜息と共に扉をノックした。

「姫様。騎士見習い、エルジン・ドルワートルがいらっしゃいました」

「入ってもらってください」

 か細く小さな声が部屋の中から返ってきた。

「もし姫様の具合が悪くなるようでしたら、すぐにわたしをお呼びください」

 扉を開くトリシャにもう一度頷いてから、エルジンは胸を張って足を踏み入れた。

 広々とした部屋に入ってまず目に付くのは壁全てに存在する本棚と、そこに理路整然と並べられた本。それだけでは飽きたらず、広い部屋の左半分が図書館のように本棚が並べられ、その全ての棚が本で満たされていた。

 部屋の主は、生活に必要なものが手の届く範囲に凝縮された右半分の中心にあるベッドの上にいた。

 開いた窓の向こうに広がる蒼穹を見つめる、目を閉じればその瞬間に消えてしまいそうなほど儚い少女。燃えるような髪と合わさって、まるで今にも消えてしまいそうなろうそくの火を思わせる。

「お初にお目にかかります、カトレーユ・シストラバス様。騎士見習い、エルジン・ドルワートル。拝謁の栄を賜り光栄にございます」

 ベッドの上のカトレーユは扉がしまった音を耳にしてから数秒後、その場で立て膝をついてあいさつを述べたエルジンの方を振り返った。

「顔をあげてください、騎士エルジン」

「はっ!」

 許可をもらい、顔をあげたエルジンは初めてカトレーユの顔を見た。

 見て、息を飲んだ。

 それはあまりに彼女が美しかったからだけではない。
 その手の中にヒメザキノハナがあったからだけではない。

 ただ、純粋に――見間違えようのない死相を見て絶句した。

 一目見て理解した。今代の竜滅姫カトレーユ・シストラバス……この少女はもう、人の手では助からない。彼女を救える者がいたとしたら、それはもう天上におわす神しかいないだろう。

 立つことを許可したエルジンに対し、ベッドの上で上半身を起こしたまましばらくカトレーユは口を開かなかった。形式的なあいさつが終わったあと、彼女は手にヒメザキノハナが入った植木鉢を持ったまま、じっと窓の外を見つめている。

 部屋唯一の窓は小さな窓で、高台にシストラバス家の居城があるからか、オルゾンノットの都がよく見えた。

 ただし、それだけといえばそれだけ。街の向こうにある王都の姿も、森も、山も、海も見えない。

 やがて口を開いたカトレーユの言葉は、そんなここからは見えないものに対しての興味だった。

「騎士エルジン。あなたは一年の間、世界を旅して回っていたのですよね?」

「はい」

「そのときのお話を、してはいただけませんか?」

「はっ、喜んで」

 相変わらず視線だけは合わさないが、エルジンは嫌な顔一つせずに望まれるまま話し始めた。

 まだ旅に慣れていない頃の失敗談。
 初めて訪れた聖地と、遠目から見た使徒の姿。
 別の大陸へ渡るために乗った船で酔ったこと。
 知らない大陸ではまったく思想などが違うこと。
 色々な人がいて、色々な暮らしがあったこと。

 一年の旅は知らないことだらけだった。語ろうと思えば一晩中だって語れる。だが、旅について語ろうと思うのなら、その旅の終わりを語らないわけにはいかない。カトレーユの身体を思ってか、要所要所だけ纏めて話したエルジンはやがてそこへと辿り着く。

「見聞の旅ももう終わろうかとする頃、私はハーパヤンの王都でヒメザキノハナの噂の耳にしたのです。ミルカという村に、万病に効く花が咲いていると」

「それが、この花なのですね」

「そうです。私はミルカの村に辿り着き、そこで……」

 そこで、オリジアと出会った。

「おかしな娘でした。病弱なのにお転婆で、危険なことをしているのに天真爛漫に笑って……お日様みたいな奴でした。彼女がいるだけで、お花畑がとても輝いて見えた」

 強引な奴だった。料理の腕は良かった。童顔なことを気にしていた。騒がしくて図々しいのに、一緒にいて嫌な気はしなかった。

「そうですか。騎士エルジンは、そのオリジアさんのことが好きだったのですね」

 ああ。そう、正直に言ってしまえば――一目惚れだった。

 気が付けば、エルジンは全てを話していた。ミルカ村でオリジアと出会ったことから、彼女が不治の病を負っていること。両親が薬師でヒメザキノハナを見つけたこと。倒れた彼女を助けるためにクピオラを倒して手に入れたこと。彼女が持っていって欲しいと言ったこと……不敬に該当するようなことまで、全て吐き出していた。

「そう、そんなことが……」

「余計なことまで、申し訳ございません」

「気になされず。わたしもこのヒメザキノハナについては、気になっていたことですので」

 全てを聞き遂げたカトレーユは、トーンの変わらない声のままそう言って、ゆっくりと振り返った。

 まるで凪いだ湖面のように感情の起伏のない顔には、小さな感情が揺らめいていた。それは躊躇しているようにも、心配しているようにも見えた。ただ、それはオリジアの身の上を思っているような顔とは少し違った。

「カトレーユ様?」

「恐らく、そのオリジアという人の気持ちを考えれば、これはお伝えしない方がいいと思うのですが……」

 カトレーユはベッドの横に積み上げられていた古めかしい動物の皮で装丁された本を手に取ると、パラパラとめくり、一つのページを開いて見せてくれた。

 許しをもらい近付いて覗きこんでみると、その本が手書きの古い植物図鑑であることがわかる。そして開かれたページには、今カトレーユが抱き留めている花と瓜二つの花が載っていた。

「これは……ヒメザキノハナ? なぜ、近年見つかったばかりのはずなのに」

「これは手書きで、唯一これしかない図鑑ですから。初めて見つけたと思っても仕方がありません。ですが、かなり変質していますが、これは多くの人が日常的に知っている花なんです」

 初めて合う視線。カトレーユの飲み込まれそうな紅い瞳を見て、エルジンは反射的に恐怖を抱いた。まるで、炎がうねっているようだ。全てを焼き尽くす炎が。

 何か、触れてはいけないものに、今自分は触れようとしている。

「ヒメザキノハナの正式名称はレンタンジュといいます。騎士エルジンも知っていますよね?」

「はい。存じております」

「レンタンジュでよく知られているのは魔獣避けの匂いらしいですが、あの花には他にも目に見えない悪意や負の魔力を吸収するといった性質があるのです。この性質のためか、広く分布するレンタンジュですが、地域や状況によって変質することが多いそうです」

「では、ヒメザキノハナは?」

「恐らくはそのクピオラという魔獣の毒素を吸収することで変質したレンタンジュなのでしょう。 一輪しかなかったは、変質の過程で一輪に魔力が凝縮されたからだと思われます。そして、これが本題になるのですが――

 カトレーユ・シストラバスはヒメザキノハナを見て、怯えるエルジンを見て、はっきりと告げた。

――――これは恐らく、世界で最も強力な『毒草』です」

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ヒメザキノハナの正式名称はレンタンジュで、クピオラの毒を吸って生まれた花。そして毒の魔獣の毒が凝縮されたそれは、世界で最も強力な毒草であると。

 そう教えてくれたカトレーユは、こう続けた。

『安心してください。別に、そのオリジアという人が私を毒殺しようとしたわけでも、あなたに対し嫌がらせをしたわけでもありません。多くの薬がそうであるように、毒草から薬を作ることは可能ですから。ある意味ではこの上ない薬といっても間違いありません。これ一つを分析した結果だけで、新しい薬がざっと十以上は作れるでしょう』

 ただ。と、彼女は言った。

『この毒草から作れるのは、純粋な毒を解毒するタイプの解毒薬です。ちょうど私のような。即効性のものですから携帯薬としての効果は抜群でしょうが、反面常駐薬としての効果は薄いでしょう』

 だからこそ。と、彼女は首を傾げた。

『本を読んだだけのわたしでもこれだけのことがわかったのです。本格的に薬学を学んだオリジアという人が、それをわからないとは思えませんし、その両親が知らなかったとも思えません』

 首を傾げて、彼女は言った。

『おかしな話ですよね。これで治る病は毒によるものだけです。私ではないのですから、生まれながらに毒を持っているはずなんてありませんし……心臓の病に似た症状は典型的な毒の症状、ではありますが』

 最後に首を横に振ったあと、彼女は優雅にお礼を述べた。

『ありがとうございます、騎士エルジン・ドルワートル。本当に感謝しています。
 これでは私の呪いは治りませんが、少なくとも寿命を延ばすことは可能のはずです。騎士エルジン。あなたがこれを持ってきてくれなければ、私はたぶん今年中に死んでいた。
 報奨を与えましょう。あなたに休暇を与えます。休むか、鍛錬に勤しむか、それ以外のために使うのか……全ては、あなたのご自由に。
 あなたは私とは違って、鳥かごに囚われているわけではないのですから』


 

 

 まっすぐ目指したことで、日程はさほどかからなかった。

 逃げるように去ってから二週間。再び、エルジンはミルカ村の土を踏んでいた。

 目の前には、一人で料理を食べているオリジア。玄関扉を叩き破るように開けたエルジンの姿を、目をまん丸にして見ている。手からスプーンが落ちた。

「エ、エルジン君? どうしてここに? 騎士団に戻ったんじゃないの?」

 近くの街から馬で駆けてきたエルジンは、荒い息をついたままオリジアに向かって小さな布袋を放った。

 反射的にそれを受け取ったオリジア。衝撃に布袋の口を止めていた紐が弛み、中に入っていた丸薬が露わになる。蜂蜜色の、特徴的な丸薬が。

「これ……」

「お前ならわかるだろう。ヒメザキノハナ――いや、レンタンジュを分析して作られた新しい解毒薬だ」

 つまんだ丸薬とエルジンの顔を交互に見やって、全てを理解したのか、オリジアは困ったように笑った。そう、言われてみればおかしな話である。彼女ほど腕のいい薬師が、エルジンでも知っているレンタンジュの特性を知らないなんて。

「なんだ、ばれちゃったんだ。酷いなぁ。わたし、エルジン君の中で格好いい女の子になるはずだったのに、これじゃあただの変な子だよ」

「自覚していなかったのか。オリジアは自分で思っているよりも、ずっと変な子だ」

「ひどっ!」

 そう言いつつも、オリジアの顔は困ったような笑顔のままだった。まるで何から話したらいいのかわからない、そんな表情だった。

 エルジンはオリジアの家に上がり込むと、彼女が座る席の向かいの席に腰を下ろした。この村に滞在していたとき、この家での定位置だった場所だ。

 オリジアはようやく硬直からとけると、丸薬が入った布袋を机の上に置いて、それから自分が食べていたのと同じスープを装ってくると、香草が練り込まれたパンと共にエルジンの前に置いた。

「偉大なる我らが神と、我らを導きし使徒様。
 今日も生きる糧を与えてくださったことに感謝します」

 きちんと祈りを捧げてから、エルジンは素朴な木のスプーンを手にとってスープを口に運んだ。不思議な風味が野菜の味を引き立てており、都会の一流シェフでも出せないような独特の味を醸し出している。

「ああ……うまいな」

 素直な感想が口に出た。恥ずかしいからいわないが、エルジンの女性の好みは料理の上手い女性である。

 ここまで急いできたために、エルジンは腹を空かせていた。食欲旺盛に山盛りにもられたスープを食べていくエルジンの目の前で、自分の分のスープを食べていたオリジアは嬉しそうに微笑むと、


「……………………うぇ……」


 しゃくりをあげて、ポタポタと涙を零し始めた。

 拭っても、拭っても、涙は止まらない。まるで長年堪えていたものを吐き出すように、必死に泣き声を噛み殺しながらオリジアは泣いていた。

 エルジンはスープをすすった。パンを食べた。不器用でも不器用なりに、慰めて欲しい涙と見せたくない泣き顔の区別くらいはついたから。噛み締めるように、温かい料理を食べ続けた。

 ……やがて、オリジアの涙が止まって、エルジンの皿が空になった頃。

「ずっとわたしは、お父さんとお母さんはわたしを愛しているんだと思ってた」

 顔を俯けて、泣き声を我慢しすぎてかすれた声で、訥々とオリジアは語り始めた。

「覚えてる最初の記憶は、わたしにこういうお父さんの言葉だった。『オリジアは身体が弱いから、外で遊んじゃいけないよ』って。お母さんはこう言ってた。『大丈夫。私たちが必ず治してあげるから』って。
 わたしは不思議に思ってた。別に身体のどこも痛くもないし、普通に起きあがることができたから。けど、お父さんもお母さんがそう言ったから、そうなんだって思って、元気に遊ぶ村の子たちを家の中から眺めてた」

 幼い少女にとって、両親の言葉を疑う余地などなかった。子供心に両親の噂は知っていたのだろう。憧れに似た気持ちで、オリジアは信じていたのだ。自分は病気なのだと。

「お父さんもお母さんも優しかった。決してわたしを一人にはしなかった。どっちかが王都にいても、絶対片方は家にいてくれた。それで、王都から帰ってきてお土産を――わたしに新しいお薬をくれたの。『新しいお薬だよ。きっと、すぐに良くなるからね』って。
 嬉しかったなぁ。友達と外では遊べなかったけど、その分お父さんとお母さんが優しかったから。だから、わたしはいつもこう答えてた」

 ――ありがとう、って。

「いつからかは覚えてないけど、わたしの身体は動かなくなってた。身体が痛くなって、熱が出て、心臓が苦しくなった。ベッドから起きあがれない日々が続くと、わたしは忙しそうなお父さんとお母さんを見て思った。ああ、二人のいうとおりだ。わたしは病気なんだ、って」

 そこでオリジアは言葉を切って、そのときの自分を思い出すように、


「でも、おかしいな? 苦しいときにお薬くれるのは助けるけど、どうして元気なときの方がたくさんお薬をくれるんだろう?」


 そのときの自分が思ったままの疑問を、口にした。

「わたしはどんどんと身体が悪くなっていった。辛かった。苦しかった。悲しかった。でも、信じてた。お父さんとお母さんが必ず助けてくれるって。
 ……ある日、二人がすごく嬉しそうに教えてくれたの。フラーメン山の頂上に、ヒメザキノハナっていうすごいお花が咲いてるって。それさえあれば、もうたくさん薬を飲まなくても良くなるって」

 でも、取りに行ったっきり、二人は帰ってこなかった。

「二人が死んだことをおばさんに聞いた。いつもは誰かに採取を頼むのに、自分たちで取りに行って……そして、クピオラに殺されちゃったんだって。
 それを聞いたとき、病気の辛さなんて全然へっちゃらってくらい辛かった。悲しかった。だから、わたしは決めたんだ。お父さんとお母さんの願いを、優しさを無駄にしないように、絶対病気を治してやるんだ! ってね」

 俯いたまま握り拳を作ったオリジアは、弱々しくその拳を解いた。

「二人が死んで少し経った頃、結構調子が良くなってきたんだ。わたしはお父さんとお母さんの伝手で王都の学校へ行って、薬学の勉強を始めたの。それまで全然お薬の名前とか知らなかったから大変だったよ」

 エルジンは止めなかった。その話がどんな結末を辿るか察したが、オリジアのために止めなかった。

「……そう、わたしは気付いちゃった。知っちゃったんだ。お父さんとお母さんが隠したかったものに。どうしてわたしがこんなにもボロボロになっちゃったのか、その理由に…………家から外に出したくないはずだよね。一人っきりにさせたくないはずだよね。だって、普通言えないよ。高名な薬の権威だった二人が――

 酷く乾いた声で、オリジアは絞り出すように、言った。


――――自分たちの娘で毒と解毒薬の実験をしてた、なんて……」


 悲痛そうな声できちんと口にしたあと、オリジアはまたしばらく泣いた。声に出して、恐らく初めて誰かに伝えて、自分で認めてしまって泣いていた。

「否定したかった。けど、できなかった。勉強すればするほど、自分の身体のことを知れば知るほど、どんな風に自分が二人に愛されていたか知ったから。身体の中で何十、何百の毒が入り交じってて、もう自分が治らないことも、治す手段がないこともわかった」

 わかって、王都をオリジアは後にした。そこにいてももう何も学ぶことはない。ただ苦しいだけだったから、故郷に帰ってきた。

「ミルカの村はいいところだよ。わたしの自慢の故郷。みんな大らかで、優しくて。わたしが長くないことを知っても、みんな良くしてくれて子供みたいにかわいがってくれた。わたしは決めたの。残りの時間、優しいこの人たちが自分みたいに病気にならないようにしよう、って」

「だから、花畑に?」

「血かな。単純に興味もあったんだと思うよ。でもね。フラーメン山に行くといつもヒメザキノハナを思い出さない日はなかった。頂上に咲くっていう花。万病に効くって逸話になってた綺麗なお花。……別に、お父さんもお母さんも、それが万病に効くとは言ってなかったけど……村の人たちは信じてた。わたしも、信じたかった」

 オリジアの両親がしたことは、誤魔化しようがないほど酷いことだった。たとえ苦しむ何百、何千という人たちのためとはいえ娘を犠牲にしようとしたのだ。人としては立派でも、親としては最低だった。

「お父さんとお母さんがわたしを愛してくれてたのかどうか……わたしはそれがずっと気になってた。その答えがヒメザキノハナにはあった。
 わたしの身体はボロボロだったから、そんなわたしを見てお父さんとお母さんは罪悪感を感じたんじゃないかって。愛していたから、万病に効くヒメザキノハナを見つけたかったんじゃないかって。
 手に入れる方法はあったよ。お父さんとお母さんが残してくれたお金はたくさんあったから、傭兵とかたくさん雇えばクピオラだって倒せた。
 でも、ね。できなかった。だって、ヒメザキノハナを見つけたらわかっちゃうから。お父さんとお母さんがわたしを愛していたのか、それとも愛していなかったのか、その答えが出ちゃうから」

 オリジアは顔をあげた。真っ赤に充血した瞳は、悲しみに濁っていた。

 彼女は布袋からヒメザキノハナから作りだした丸薬を手に取ると、それを無造作に自分の口に放り込んで噛み砕いた。

 その丸薬を作りだした薬師によると、これは極めて強力な即効性の解毒薬であるらしい。どのような毒であっても、これをすぐに服用すれば解毒できると。反面、常駐薬としての効果は薄く、昔取り込んだ毒に対しては和らげる程度の効果しかないという。

 まさにカトレーユが説明した通りの効果だ。これで竜滅姫が負った毒竜の呪いは癒せないが、和らげることはできるらしいと。そう、クロードが喜んでいたのを覚えている。

 だが、効果は結局その程度。ヒメザキノハナは万病に効く薬ではなかった。その正体は、未知の猛毒に違いなかった。

「これさえあれば、たぶんわたしはもう少し生きていられると思う。でも、治らない。治らないよぅ……」

 エルジンは、自分が期せずもたらしてしまった残酷な答えに、絶望に涙するオリジアを前にして居ても立ってもいられなくなった。

 これは、慰めてもいい涙だ。

 立ち上がると、涙を零すオリジアを後ろから強く抱きしめた。彼女は、抵抗しなかった。

「酷い、酷いよ。わたし、好きだったんだよ。大好きだったんだよ? お父さんのことも、お母さんのことも、愛してたんだよ? なのに、どうして……? わたし、何か酷いことしたかな? 何か悪いことしたかな? なんで二人は、わたしを愛してくれなったのかな……?」

「オリジア……」

「どうして……どうしてエルジン君、取ってきたりなんかするの……? いらないのに。知りたくなんてなかったのに。止めてって、そう言ったのに……わたしのことなんて放っておいてくれれば、わたし、きっと何も気付かずに、馬鹿みたいに笑って死ねたのに……」

「死なせたくなかったからだ」

 涙ながらに訴えてくるオリジアに、強く、重く、エルジンは言った。

「死なせたくなかったからだ。オリジアのことを、俺が、死なせたくなかったから手に入れようと思ったんだ」

「どうして……どうして、そんなに……?」


「好きだからだ!!」


 はっきりと、エルジンは生まれて初めて愛の告白を口にした。

 え? と、オリジアが涙を止めて目を見開いた。
 その小さな身体から離れて、エルジンは目の前で跪き、騎士の礼を取った。

「俺がここへ戻ってきたのはお前を守るため。お前を苦しめるためでも、お前を傷付けるためでもない。守るために。
 騎士エルジン・ドルワートルは此処に誓う。オリジア・ミルカを生涯愛し、守り抜くと。俺は、お前の騎士になりたい」

「でも……エルジン君、シストラバスの騎士になったんじゃあ?」

「保留にさせてもらっている。シストラバスの騎士は俺の憧れ、諦められはしない。だが、俺はもう後悔したくない。好きになった女を守りたい。惚れた女も守れない男など、俺は紅き騎士とは認めない。俺はシストラバスの騎士になる前に、オリジアの騎士として生きる」

 堂々と、エルジンは主君の前で頭を垂れて誓いを立てた。

 惚れた相手に告白する手段としてはあまりに不格好かも知れないが、それでも、これがエルジンにとっては最も自分の心を表ことができる行為だったから。

 オリジアが絶句しているのが、頭を下げたエルジンにもわかった。

 結局、これはエルジンの一方的な想いに過ぎない。彼女が自分に惚れているかもわからないのだ。いや、一目惚れしたエルジンはともかくとして、触れ合った時間はたった数日だ。それで惚れろという方が無理な話で……。

「……一つ、約束できる?」

 かつてない緊張の中にいたエルジンの沈黙を破って、オリジアが口を開いた。

「わたしは死ぬよ? そう遠くない未来にわたしはいなくなる。そのあと、そのあとは絶対、シストラバスの騎士として生きるって約束できる?」

「それは……」

「憧れは捨てちゃダメだよ。夢は、諦めちゃダメ。最後まで絶対、絶対、憧れは捨てちゃダメだと思うから、だから約束。わたしを守り抜いた自負をもって、いつか紅き剣を手にして、竜滅姫を守る騎士になるって……愛するわたしに誓って言えますか?」

「誓おう。それで俺の愛が伝わるのならば」

 エルジンは深く、重く、誓いの言葉を口にした。

 いずれ、オリジアは死ぬ。それは避けられない運命かも知れない。だけど、それまでは必ずこの少女を守り抜く。愛にかけて守り、そして彼女の愛に誓って憧れを叶えて見せよう。

「そっか……そっか。えへへ」

 エルジンの前にオリジアがしゃがみこんで、その顔を両手で挟んで持ち上げた。

 ふっと、蜂蜜の香りがすると共に、エルジンの口が塞がれる。

「ぬぁっ!?」

 いきなりのキスに、エルジンは奇声をあげて比喩ではなくひっくり返った。

 思い切り後頭部を床にぶつけたエルジンを見て、オリジアは笑う。

「ふふっ、真っ赤になってエルジン君かわいい〜」

「い、いきなり、こ、婚前前にき、キスなどっ!」

「でも、この前人が気絶してるときにキスされちゃったからなぁ。そのお返しは、ほら、やっぱりやっておかないといけないと思うのですよ」

「あれは人工呼吸だ! 尊い人命のためだ!」

「わたしへの愛のため、でしょ?」

「ぐっ!」

 そう言われてしまえば、エルジンに返す言葉はなかった。惚れた方が負けだというのなら、一目惚れした時点でエルジンはすでに負けている。だが、オリジアだって顔を赤くしたエルジンに負けず劣らず真っ赤だった。

 だから、やっぱり何も言えなかったのは、オリジアの見せた笑みの所為だった。


「ちゃんと幸せにしてくれなきゃ怒るからね? わたしの騎士様」


 天真爛漫なその笑顔。
 花畑で見つけた、あの太陽みたいな笑顔が、そこにはあった。






 ……いずれ、エルジン・ドルワートルは本当の意味で巡礼を終えるだろう。

 巡礼の途中で出会った花に惹かれ、その花が枯れるまで守ると誓った。
 しかし、花はやがて枯れ落ち、守る力がいらなくなる日が必ずやって来る。

 それは悲しいことだが仕方がないこと。最初からわかっていて、だからこそ選んだ道。

 後悔はない。だから――……


『紅き剣に騎士の名を――――我らは、真の竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤーとなる』


 ――エルジンは巡礼の旅を再開する。

 守る意味も、足りなかったものも手に入れた。今ならば、自分がそうだと認められる。
 紅き剣を手にするために。幼い日に憧れた場所へと行くために。惚れた女への愛を貫くために、そろそろ旅を終える頃合いだ。

 長く短かった巡礼の旅を終える。

 その腕に花が残した新しい命を抱きしめて――エルジン・ドルワートルはこれより、シストラバスの騎士を名乗る。

 託され、託す、ユメと理想の中に。

 あの花畑を通り抜けて。










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