番外編  ピンク色の出会い


 

 ――それは、神秘という言葉を超えた何かを持った存在だった。

 一目見た瞬間に衝撃が走った。前後不覚に陥るとはこういうことをいうのか。とにかくそのとき感じた衝撃のほどは、一生をかけても正しく言葉にはできないだろう。

 ただ、一つだけそんな思考の中でも分かっていたことがある。

 それは直感か。あるいはその存在がそうさせるのか。
 このときこの瞬間ばかりは、それが世界の真実だと思った。

 白い輝きが舞う中現れた人影。その何ら恥じ入ることない堂々たる立ち姿を見て思ったのだ。

 これが、これこそが――……

 


 

       ◇◆◇

 


 

 豪華絢爛――キルシュマの前に広がる光景は、その一言に尽きた。

 贅の限りを尽くした料理。パーティー会場の飾り付けは黄金と宝石で、目に痛いほどの輝きを放っている。灯りなど必要とせず、それらの輝きだけで夜だというのに昼間のように感じられた。

 料理の匂いを打ち消すほどの香水の香りを纏う貴婦人たちと、そんな貴婦人たちに吸い寄せられる紳士たち。彼らの服装もまた、自らの資産を誇示するための上等なもの。無論今日のパーティーにのみ用意されたそれら礼服は、明日を待たずして捨てられる定めであろう。

「……これら一つ。これら一つのために、一体何人の人が飢えるのか」

 漂う怠惰な空気に背を向けながら、キルシュマはそう思う。

 毎夜の如く繰り広げられるパーティーは、しかし特別な祝い事などではなかった。
 もう覚えてすらいない、覚える必要すらない何かを発端として始まったのだろうが、今ではきっと誰もがそのことになど眼中にあるまい。

 平民たちの勤労の末に献上された税は、贅となって貴族たちの腹へと消える。
 貴族たちは刹那の欲求を満たし、明日への活力へと変える。また明日もあるこの悦楽への活力へ。

 それがこの国――魔法大国と讃えられるエチルア王国の現状。腐敗しきった王侯貴族の放埒の姿。

 王都ルナティメルシュの王城フレグラレイスで輝くのは臣民の期待の輝きではなく、民の飢餓の上で輝くただの黄金であった。

「何を言っても、所詮僕も同じ穴のムジナか……」

 パーティー会場からこっそりと抜け出たキルシュマは、自分の手の中にあるグラスへと視線を注ぐ。

 クリスタルグラスの中に注がれたワインは、今回のパーティーで出された中でも最高級のもの。  この一杯で平民の一家が一年は暮らしていける。貴族と平民の差は、ここエチルア王国では海よりも広い。

 気が付いたのはいつのことだったか……それはわからないが、国の現状は少なくとも、キルシュマが生まれたときにはすでにそうだった。

『始祖姫』が一柱メロディア・ホワイトグレイルの威光によって建国されたエチルア王国は、千年近い歴史を誇る、世界でも聖地とグラスベルト王国に並ぶ歴史ある国だ。さらに魔法研究も盛んで文化の発達も著しく、また平和も長い。となれば、貴族が腐っていくのはしょうがないことなのかも知れなかったが、エチルア王国の場合は酷すぎた。

 何よりも血を優先するエチルア貴族にとって、貴族とは生まれながらにして貴族であり、死ぬまで貴族である。それは同時に、平民は生まれながらにして貴族のために働く存在であり、それは死ぬまで変わらないということにも繋がっていた。貴族は平民を、自分たちと同じ人間だとは思っていない。

 だから、どれだけ自分たちの欲求のために蔑ろにしても、良心が痛むことはない。むしろ自分たちが幸せになれるのだから喜ぶべきだ、とすら思っているかも知れない。

 貴族の腐敗化はまたグラスベルト王国でも同様に起こっていることだが、まだかの国はいいだろう。彼の国は国の興りから騎士道が尊ばれている。腐敗する貴族の中でも、民を魅了する正真正銘の貴族が存在する。かのシストラバス家がその象徴であろう。

 しかし魔法を尊ぶエチルア王国には、民草の憧憬を集めることが叶わない。

 魔法を使えぬ人間は蔑まれるのが実情。魔法とは生まれ持っての素質にほぼ依存する。そして血統は代々受け継がれていくもの。平民は、最後まで蔑まれたまま終わる。

 メロディアと同じ血を残すホワイトグレイル家も、もはや象徴には成り得ないとなれば、あとはただ腐り落ちていくのみ。実際、国では革命運動の兆しが見え始めており、革命家を名乗る男も現れている。……国の終わりも、もうすぐだろう。メロディアの威光でももう止められまい。

 パーティー会場から出たキルシュマは、王城内に設置されたバルコニーへと足を運んだ。

 パーティーに人手を取られているからか。王城とは思えないほどに、そこは静かであった。ただ穏やかな風が吹いており、眼下に広がる街並みを見ることができた。国の中央にそびえ立つ『満月の塔』が、中央から街の北側へと少し寄せられたところに建てられたルナティメルシュ城からはよく見えた。

 ……つまるところ、キルシュマは国を憂いていた。けれど、自分が何をすべきか、それがわからなかった。

「情けないな、僕は」

 グラスを傾ける。一気に飲み干したワインの味は、濁りきった腐敗の味がした。

 そのとき、憂鬱そうな顔をしていたキルシュマの片眼鏡モノクルに、淡い赤色の光が映り込んだ。

 魔法使いであるキルシュマが好んでつけている右目のモノクルは、人の目で見るより的確に『神秘』を見破ることができる。今街中ではなく、バルコニーの下に広がる庭園で見つけた光には、確かな神秘の鼓動を感じた。

「なんだ?」

『満月の塔』の研究員として日々研究に励むキルシュマにも、その光の正体はすぐに看破できなかった。

 不思議に思ったキルシュマは自分の身に息づく風の魔法を行使し、バルコニーから庭園へと着地する。その際風によって、庭園で咲き誇る春の花々の花弁がとてもいい香りを舞い上げた。

 それは国を憂う心に染み渡っていく、香水となってしまった花の香りではない、自然の花々の香り。

 その香りに誘われるように、キルシュマは淡い光の許へと近付いていった。

 空には、これだけは千年前から変わらぬ黄金の月が輝いていて、

――――妖精?」

 月光に照らされる花々を、可憐な少女が一人愛でていた。

 風に揺れる花弁を小さな指先でくすぐる十一、二歳ほどの小さな少女だ。
 淡い輝きと思っていたのは、ツインテールの形に黒いリボンで結んだ少女の髪だった。砕いた宝石の粉を散らしたような薄紅色の髪が、まるで自ら発光しているように月光を反射していたのだ。

 フリルとリボンがふんだんに使われたドレスという格好も相まって、キルシュマには一瞬、人々の幻想の中でだけ生きる妖精が、花に誘われて迷い込んできたのかとさえ思えた。それほどまでに、花のつぼみを指先で突く少女の後ろ姿は幻想的で完璧だった。

 幼いからだとか、そういう理屈を超える真性の美。あるいは魔性の美。
 月光の下で佇む少女は、そういった意味ではまさしく『神秘』の顕現であった。

「……嫌な匂い」

 何度か王城へと足を運んだキルシュマが初めて見る少女は、キルシュマがパーティー会場で否応なく身に纏ってしまった香水の香りに気付いたのか、指先を花から離して振り返る。

 後ろ姿からでも感じた美は、少女の容姿を見ても一切損なわれなかった。むしろ吸い込まれるような深さの深紅の瞳を見て、キルシュマは一人の男としてその美しさに打ちのめされた。

 パーティーで着飾った淑女とは違う、化粧気の一切無い天然の美貌。
 成長したあとの彼女は傾国の美女にもなれるだろう。彼女の美しさが招くのは、血で大地が染め上げられる、そういった類のものである。

「あなたは――

 言葉を失っていたキルシュマに向かって、小さな唇が開かれる。
 そこから紡がれた声はとても小さいが、脳髄にまで染み込んでくるような美声。

――一体どこの馬の骨な底辺も底辺のロリコン野郎ですか?」

 そして軽やかな罵倒は、キルシュマの脳内から、国に対する憂いの全てをこの時ばかりは吹き飛ばした。

「…………は?」

 最初、キルシュマは少女が口にした言葉を理解できなかった。いや、内容は理解しつつ、それがまったく異なる言語による別の意味であると誤認識した。

「ふぅ……。まったく、人の話もきちんと聞けないとは嘆かわしい。これはとんだロリコン野郎にナンパされてしまったようです。しかしメアはとても優しい女の子ですので、たとえ誰からも蔑まれ、親からは諦められた落伍者であっても、その名を一応は訊いてあげているのです」

 しかし、その認識こそが誤認識であった。
 やれやれと肩をすくめる少女の口からは、なおも辛辣な言葉が浴びせられる。

「というわけで、さぁ、名乗りなさい。三秒で忘れて差し上げますから。……この真性」

 ボソリと最後に付け加えられた呟きといい、堂に入った蔑みの視線といい、間違いない。この少女は常日頃から誰彼構わずにこういった爽やかな罵倒を行っているのだろう。

 キルシュマはずれたモノクルを直すことすらできずに、再び固まった。

 妖精のように可憐だと思った相手からの、想像だにしていなかった罵倒。それもこれまでただの一度たりともキルシュマが言われたことのないものである。遠回しな皮肉には慣れていたが、ここまで直接的なのは初体験であった。

「なんですか? そのようにメアのことをじっとりと見つめて。欲情していますか? 視姦でもしていますか? 脳内でメアのお気に入りの服を一枚一枚剥がしていき、その下の希少価値の高いつるぺたな肢体を妄想しているのですか?」

「待て。そのような事実は存在しない!」

 このまま硬直していたら、自らをメアと呼ぶ少女の中で、自分はとんだ見下げ果てた最低野郎――すでに手遅れな気がするが――になってしまいそうだったので、慌ててキルシュマは待ったをかける。

「名前を尋ねられたというのに、無視したことは謝らせてもらう。しかしながらそのような事実は一切無い。ただ、君のあまりに直接的な言葉遣いが初めての経験だったから、戸惑っていただけだ」

「そうだったのですか」

 一応は初対面の、それも十歳近く年下の少女ということで、やんわりとした言葉を選んだキルシュマに、メアはコクンと頷き返す。

「つまりメアがあなたのマゾヒストとしての素質を開花させ、なおかつ自覚させてしまった初めての相手というわけですね。気分最悪です。人を勝手に初めての相手にしないでください」

 続く心底から苦々しげな文句を聞いて、この少女には何の遠慮もするべきではないのだという確信を、ようやくキルシュマは得た。

「……誰がマゾヒストだ、誰が。僕にそんな属性は存在しない」

「ではサディストですか? 納得です。一人夜の花を愛でていた幼い容姿のメアに声をかけたのは、この後自らの権力にものをいわせて拘束し、首輪と鎖によって繋ぎ止め、良いように嬲るからだったのですね。それでしたら妄想の必要すらないでしょう。これから実際に現実のものとするつもりだったのですから。救いのない趣味ですね」

「そんな予定も目論みも存在しない! 僕の未来設計上、そんな非人道的な行いは一切合切存在しないし、そもそも僕は君のように著しく年の離れた相手に欲情する趣味を持ち合わせていない!」

 ここまで自分は必死に何かを訂正したことなどあっただろうか――ゴミ虫でも見るかのような視線を投げかけ続けてくるメアに対して、思い切りキルシュマは怒鳴っていた。

 そこでしまったと、基本的には理性的なキルシュマは自らの大声に自分で驚く。

 見れば、メアは顔を俯かせて、細い肩を小刻みに震わせていた。

 きっと、メアがあのような態度を取っていたのは、誰もいない夜の庭園で見知らぬ相手に近付かれて警戒していたからなのだろう。そう思えば、初対面の相手に向ける対応として明らかに間違っている彼女の対応にも納得がいく。

 この王城にいるとなれば、恐らくはパーティー会場にいる貴族の誰かのご令嬢といったところか。たとえどのような辛口発言をしても霞まない気品は、彼女が高貴な生まれであることを絶対に揺るがないものとして知らしめていた。

 恐らくは箱入り娘と言ったところ。男にも慣れていないに違いない。

 キルシュマはずれていたモノクルをようやく直して、小さなレディを安心させるよう、努めて仏頂面である自分の頬の筋肉を動かした。

「怒鳴ってしまって申し訳ない。小さなレディ。そう警戒しなくても大丈夫。君に危害を加えるつもりはないから。ああ、そうだ。名前を名乗っていなかった。僕はキルシュマ――


―― では、メア目当てではなくマスター目当てということで決定ですね」


 名乗りの言葉は、途中でメアの言葉と眼下で燃えさかる炎の輝きによって打ち消された。

 顔を上げたメアを見て、キルシュマは自分の考えが間違っていたことを悟る。彼女の中に初対面の相手に対する警戒など一切無かった。あるのはただ、こちらを探る姿勢だけ。そして今まさに自分は、彼女の中で真実『害虫』であると認識されてしまったのだろう。メアが伸ばす指先に輝く炎は、まさに害虫へと下される害虫駆除の炎であった。

 貪欲に空気を貪り喰っていく炎の光を浴びたキルシュマは、魔法使いとして反射的に防御魔法を構築していた。

「マスターに危害を加えるものは、このメアが許しません。――さようなら。キルシュマという真性ロリコン野郎」

 その不名誉に過ぎる名称を訂正する暇すら与えられることなく、キルシュマの眼前は赤く染まった。

 その中でキルシュマが見つけたのは、見逃せない事実。

 メア――奇想天外な彼女の首に輝く、彼女が誰かの所有物であることを示す真っ赤な首輪。そして、その耳が小さく尖っていたことであった。

  

 

       ◇◆◇

 


 

 長い耳が表す種族の名をエルフという。

 湖の妖精、森の妖精などと言われる彼ないし彼女らは、生まれながらにして魔法使いとしての高い素質を持っている。加えて人目を引きつけてやまない美貌と、数百年を生きる生命力を持つという。

 彼らは例外なく人よりも長い耳を持ち合わせていて、やはり例外なく耳の長さは人の約二倍ほどになる。

 だが――昨夜キルシュマが出会ったメアという少女の耳は、大きさが人の耳ほどしかなかった。確かに、その耳の先はエルフのように尖っていたのに、である。

「一体どういうことだ? そのような種族、聞いたことがない」

 軽く包帯を巻いた姿のキルシュマは、魔法使いの育成機関と魔法の研究機関を兼ね備えた『満月の塔』に用意された研究室にこもり、机の上に分厚い本を積み上げながらメアの普通とは違う耳について調べていた。

「やはり、何度人の身体的特徴における民族差について書かれている書物を読み直してみても、彼女のような耳を持つ民族も種族も存在しない。近親交配などによる突然変異か……いや、そもそも普通の人間ではない何かを彼女からは感じた。とすると、魔法の実験などによる後天的な異形化か。だとしたら耳だけに終わっているという意味が理解できない」

 ぶつぶつと独り言を垂れ流しにしてしまうのは、考えに没頭してしまうときのキルシュマの癖であった。

「ダメだ。どのような仮定も、所詮は仮定でしかない。今の情報量では不足している。不足しすぎている」

 本をパタンと閉じたキルシュマは、窓の外を眺めた。

 空はすでに赤い。いつの間にか夕刻に迫っていたようだ。昨夜気絶し、朝目覚めてから今の今まで、少々読書に集中しすぎてしまっていたらしい。

 ただ、夕刻になっていたのは僥倖だ。それはつまり、今日も飽きもせず開かれる理由不明のパーティー開始の合図でもあるのだから。

「メア、か。ふっ、知的好奇心を刺激される」

 モノクルを指先で押し上げながら、ニヤリとキルシュマは笑った。

 パーティーがこのように楽しみなのは、一体いつぶりだっただろうか?

 


 

 正確にいえば、パーティーなんかまったく楽しみではなく、王宮に入るための建前でしかないのだが。

 今日も今日とて開かれたパーティーを人知れず後にしたキルシュマは、昨日と同じ庭園へと足を運んだ。昨日に引き続きメアがここにいるとは限らなかったが、他にいそうな場所が予想できなかった。

 もしいなかったら、それこそお手上げだったのだが――心配は杞憂であり、昨夜と同じように、淡い桃色の少女は花を愛でていた。

「こんばんは」

 昨日とは違って、キルシュマは自ら声をかける。

 昨日とは違って、こちらの接近に気付きつつも無視していたメアは、話しかけられたことで仕方がないといわんばかりに振り向いた。

「こんばんは。昨日は拉致監禁のための視察だったのですか、この真性ロリコン野郎」

 やはり今日も罵倒は軽やかである。蔑みの視線は、昨日よりも数割増しだったが。

「ちなみにそれ以上メアに近付こうものなら、一応は手加減してあげました昨日とは違い、正真正銘の攻撃をお見舞いさせていただきます。……生きていたのか、ちっ」

「……本気で殺す気だったのか」

 確かに、キルシュマも昨夜自分に向かって放たれた炎の魔法の威力は並じゃないとは思っていたが、まさか本気で人を殺せるレベルの威力だったとは。幼い外見に反して高い魔法資質……興味はさらにくすぐられる。

「あなたからとてつもなく嫌らしい視線を感じます。聡いメアは今あなたが内心で考えている言葉を、一言一句間違わずに当てて見せましょう。メアちゃん、はぁはぁ――息を荒げないでもらえますか? 気分が悪くなってくるので」

「いつ誰が息を荒げた? 昨日も言ったが、僕にそんな趣味はない。従って、そのようなことも思っていない」

「そうですか。メアとしたことが、どうやら読み間違えてしまったようです。深く反省」

 立て続けに放たれる罵倒と蔑みの言葉は、さながら連続で放たれる魔法の矢のように少なからずキルシュマの心に突き刺さる。

 一切合切の無実ばかりではあったが、それが年下の少女から向けられるとなれば、色々な意味で厳しい。キルシュマは昨日のように相手の警戒心を刺激しない程度に、やんわりと訂正した。

 メアも怒鳴られずに冷静に返されたことで戸惑ったのか、その口を閉ざす。

「メアたん、はぁはぁ――そっちが正解でしたか。死にたくなってきました」

 それは次の一言をお見舞いするのためのタメ動作でしかなかったらしい。もはや彼女の中でのキルシュマという人間は、最低のロリコン野郎以外の何ものでもなかったようだった。

「……はっきりと言わせてもらう。どうしてそこまで君が僕をロリコンにしたいのかわからないが、僕は君に性的な魅力を一切まったくこれっぽっちも感じていない」

 かといってここで『まぁ、いいや』と放っておくと、永遠に訂正されそうになかったので、男として――ひいては人としての尊厳をかけてキルシュマは冷静なる対応を心がける。若干口の端が引きつっていたのは、見逃して欲しい。

「僕の好みは理知的な年上の女性であるし、加えて言えば僕は現在研究などで忙しく女性と付き合ったりする余裕もない。ここに来たのだって君をナンパするでも、ましてや拉致監禁する目的でもない。信じてはもらえないか?」

「どうしてメアがあなたを信じないといけないのです? そもそも、メアに興味がないというのなら、どうしてあなたは今日もここへ来たのですか?」

 皮肉でも悪口でもないごもっともな返答に、キルシュマは顔を引き締めた。

 人間としての尊厳を守ることも大事なら、研究者として謎を解明することも大事である。そのためには何としてもメアの協力が必要不可欠。キルシュマの顔は、これ以上ないくらい真剣だった。

――最初見たときから、ずっと僕は君のことが気になっていた」

 ところで、キルシュマはこれまで女性と付き合った例がない。

「君の姿を見たとき、胸が高鳴った。君しかいないと、そう思った」

 これはもてなかったからとかそういうことではなく、幼い頃から未知を解明するという行為に取り憑かれたキルシュマは常に研究一筋で、女性という手のかかる相手にかまけている時間がなかったからである。

「何としても手に入れてみせると、そう決めた。だから僕は、ここにいる」

 そんなキルシュマの身近にいる女性は、有象無象に過ぎない相手か、あるいは同じような性質を持つ性別など意味をなさない同じ孔のムジナか、もしくは妹のみであった。従って、女性にどんな言葉を使ってしまうと誤解されるのかとかは、まったく知らなかった。

「………………え?」

 キルシュマはメアに対し、どれだけ一目あったときから(研究対象として)興味を持ち、(研究対象として)気になり、(研究対象として)胸を高鳴らせてこれしかないと思ったのかを伝えたのだが、果たして、今の言葉だけならどのように聞こえたのか。

 真剣な顔をした相手からの紳士な思いの丈に、メアは頬をうっすらと赤らめた。

「じょ、冗談は止めてください。メアの言葉が過ぎたのなら、もしかしたらメアがほんの少しだけ悪かった気もしないことはない可能性がなきもあらずですから、謝ろうとする意志をほんのちょっと頬を染めて上目遣いで見つめることによって示してあげますので」

「僕は真剣だ。冗談か何かで、こんなことをいいはしない」

 視線を明後日の方向へと逸らし、触れていた花弁を殊更集中して撫でるメアに一歩近付く。キルシュマはなおも真剣な表情を崩さない。

 肩をほんの少し震わせたメアは、一度キルシュマを横目でチラリと見やってから、ボソボソといつも以上に小さな声で言った。

「あなたが真剣であることは理解しましたが、困ります。メアにはもうメアのことを大事にしてくれる人がいますので。あなたの気持ちが嬉しいこともないような気がしないでもないのは気のせいでしたが、それでも困る以外の感情が浮かびません」

 どうやらすでにメアについて研究している人がいるらしい――キルシュマはちっと内心で舌打ちして、もう一歩近付いた。研究している人がいるなら仕方ない。同じ研究員として、協力させてもらおう。

「なら、その人に会わせてくれ。その人と直接話を付ける」

「……正気、ですか? マスターはとても強いですよ?」

 強情だということか。しかしキルシュマも、こと研究に関しては自分が強情であるという自覚があった。

「構わない。元より覚悟の上だ」

 そこまで言ったところで、メアもこちらが本気であると、何を言っても無駄だと悟ったのか、深々とした溜息をついた。

「…………その真剣さに免じて、期待させるのもかわいそうなのではっきりと言って差し上げます。メアの心はすでにマスターのものなので、あなたみたいな有象無象がつけいる隙は一切合切ありません。未来永劫に渡ってメアは予約済みです」

「問題ない」

 メアの言葉が何かおかしな気がしたが、キルシュマは何も問題ないと、そう心の底から思っていた。

 そもそもの話、メアには協力して欲しいのであって、そこに心はさほど関係ない。彼女が納得してくれればそれでいいのだから。

 故に、キルシュマが欲しいのはメアの心ではなく――

「僕の目的は、君の身体だけだからな」

 返礼は、昨日とは桁違いの炎によって示された。

――永遠にさようなら。このエセ紳士の仮面の下に肉欲獣の本性を持つ真性ロリコン野郎」


 

 

       ◇◆◇


 

 

 謎を解明するのに必要なのは知識だけではない。諦めない不屈の根性こそが、未知の謎の解明するのである。

「いい加減、頭が痛くなってきました」

 翌日――グルグルと身体に包帯を巻いた姿のまま庭園へと足を運ぶと、背中を向けたままメアに思い切り溜息を吐かれた。

「なんですか? あなたは自分が、どれだけ否定しようと訂正できないくらいのストーカー行為に及んでいると理解しているのですか? 理解していないのでしたら、早急に自覚して欲しいです。自分は全世界の約五十パーセントにあたる、死んだ方が世界のためになる人間であると」

 もはや振り向くことすら億劫なのか、背中を向けたまま花弁に手を触れているメア。
 しかしこれ以上近付いたら、容赦ない攻撃が飛んでくるものと、ゆらめく彼女の周りの大気が示していた。ちなみに距離は、昨日許された距離よりもぐんと開いていた。

 ……まずは謝罪からするべきらしい。

「昨日はすまなかった。そういった意図がなかったとはいえ、誤解を招くようなことを言ってしまったことは深く詫びさせて欲しい」

「なら、額を地面にすりつけて逆立ちして頭蓋が割れるまでドリルスピンしてください。そうしても許してあげませんが」

「それでは僕の死に損だな」

 三日目ともなれば、キルシュマにもメアへの対応というものが分かり始めていた。とにかくこの毒舌少女の毒舌は、軽やかにスルーするのに限る。これは自尊心の高い普通の貴族には無理な話だったが、生憎と研究命のキルシュマにとって、自尊心とは研究対象に与えるものである。何の問題もなかった。

 キルシュマは若干、それでもジクジクする胸の痛みを堪えつつ、前もって用意してあったバスケットを両手でメアに向かって差し出した。

「お詫びと言ってはなんだが、女の子が好きそうなものを選んできた。受け取って欲しい」

 魔法を使って風を操り、その場から一歩も近付くことなく、キルシュマはメアにバスケットを届ける。

 ちょこちょこと花を弄くっていたメアは、すぐ近くに着地したバスケットから漂う匂いに、ぴくんと尖った短い耳を震わせた。

「動いたっ!?」

 それに機敏に反応したのはキルシュマである。まさかあの耳があんなにも繊細に動くだなんて。 普通の人の中にも耳を動かせる者は存在するが、メアの耳の反応は、エルフのソレと良く似ていた。なんて興味深い。

「贈り物をして気を引きつつ動く耳を愛でるなんて、あなたは何てマニアックなのですか。油断させようとしているのか、警戒されようとしているのか、判別尽きません。……もしかしてまた燃やされたいのですか? 病みつきになってしまったのですか? ……これだからマゾは」

「コホン。ああ、こちらのことは気にしないでくれ」

 今日初めて向けられた視線が、いつにも増して見下されているのに気付き、ちょっと今のはどうかと自分でも思ったキルシュマは視線を逸らす。

「まぁ、謝罪の気持ちはどうやら本当のようですから、これは受け取ってあげましょう。とはいっても、これを受け取ろうが受け取らまいが、あなたに対するメアの評価は元々絶望的なわけですが」

 平坦な声でボソボソ呟きつつも、メアの視線は興味深げにバスケットに向けられていた。

 ともすればメアの小さな身体なら入ってしまいかねないほど大きなバスケットには、キルシュマが知識として知る限り、女性の気を引くものが詰め込んである。宝石類だったり、花束だったりだ。

 メアはそれらのものは一切合切興味を向けなかった。彼女が小さな手でバスケットから取り出したのは、たっぷりのいちごが乗ったワンホールのケーキだけ。

「甘いものが好きなのか?」

 腕を組みつつ、メアが何に興味を示すか観察していたキルシュマは、メアがどこからともなく銀のフォークとナイフをその手に握ったのを見て、そう尋ねた。

 バスケットに一緒に入っていたレザーシートを敷き、その上に腰を下ろしたメアは、何も答えない。ナイフでケーキを切り分け、小皿に取り分けると、上品にフォークを使って食べ始めるだけである。

 がっついた様子の一切無い、一枚の絵として完成している完璧な姿は、好物を口にしている、という様子ではない。だがキルシュマの観察眼には、無表情か蔑みの表情しか浮かべないメアの顔が、少しだけほころんでいるような気がした。

 ……というか、上品なのに無茶苦茶フォークの動きが早い。あれだけ大きかったケーキがメアの小さな身体に全て消えるのに、さして時間は必要としなかった。

「…………微妙な味でした」

「その上で評価がそれか。君は素直という言葉を、どこかで落としてきたんじゃないか?」

 ケーキを食べ終わるなり花へと興味を戻してしまったメアに、キルシュマは呆れ混じりに問い掛けた。

 一応は贈り物を口にした彼女は、少しだけ質問に答えてくれる気になったのか、いかにも小馬鹿にしたように溜息をついたあと視線だけをこちらに向けた。

「これだから女性の気持ちのわからない彼女いない歴云十年の男は嫌なんです。いいですか? ケーキを初めとする甘味は心を豊かにし、身体を日々の疲れが解き放つ、いわば食べたものを幸せに叩き落とす代物なのです」

「叩き落とすという表現は間違っている気がするが、理解できないわけじゃないな」

 やけに力説するあたり、やはりメアも女の子らしく甘いものが好きだったらしい。

「では、どうしてそんなに渋い顔をしているんだ? そのケーキはこのフレグラレイスでも腕を振るっているパティシエの品なんだが」

「なるほど、食べても幸せにはならなかったわけです。どうせあなたは無理を言ってそのパティシエに作らせたのでしょう? 嫌々頼まれた相手に、どうやってパティシエは他者を幸せに陥れるケーキを作れるのですか。いいえ、作るはずがありません。こんなものは機械的な作業の末に生まれた、ただ甘いだけの食べ物に過ぎません」

「……つまり、作り手の気持ちを感じなかった、と」

「アルコールや飽食で舌を腐らされたあなた方貴族ならそれで十分でしょうが、メアは常々素晴らしい食べ物を口にしているすこぶる幸福者なので、それでは物足りないのです。どうしてくれるんですか? 無駄にカロリーを摂取してしまったではないですか。もっとも、メアはいくら食べても太らない乙女の夢見見るボディなので、何の問題もないのですが」

 よくわからないが、その辺りにメアとしては何かしらのこだわりがあったらしい。贈り物としての気持ちは受け取ったが、ケーキの味は甚だ気に入らなかったと、つまりはそう言いたいのだろう。

 言いたいことを言って満足したのか、花を愛でることにメアは集中する。

 ……どうやら、これ以上今日メアから何か情報を得ることは叶わないようだ。

「わかった。次はその辺りのことも少し考慮してみよう」

「考慮したところで童貞野郎に女の気持ちが理解できるとは思わないので、無駄な時間を積み重ねるだけだと思いますが、その無意味に前向きなところは評価して差し上げます。まぁ、どこまで努力してもメアは身も心もマスターのモノなので落とすことは叶いませんが。……無駄な努力をし続けるがいい。なんて呟くメアは、なんて罪作りな女」

「罪作り、というのは、ある意味間違ってない」

 キルシュマは残念という気持ちを抱きつつ、踵を返す。

 背後から強大な熱が迫ってくるのを感じたのは、その次の瞬間のことだった。

「それでも律儀に贈り物には相応の礼儀を返すのが、礼儀正しい淑女であるメアのいいところでもあるので。――泣いて悦べ。マゾ真性ロリコンキルシュマ野郎」

 自分がマゾなら、そっちはサドじゃないか――閉じ行く思考の中、キルシュマが思ったのは、そんなことだった。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 メアと出会ってから、早六日が経過した。

「わっ、死体がなぜここに?」

 日増しに会話が投げやりになっている気がするのは、果たして気のせいなのか。
 毎日確実に放たれる炎を受け続けているキルシュマは、治癒魔法を使っても即日完治できない箇所に包帯を巻き続けた結果、ミイラ男もかくやという感じになっていた。
 
「なんだ。ゴミ虫の見間違いでしたか」

「ふっ、僕ももう慣れた。今更その程度の毒では心を痛めることすらしない」

 ただ、それでもキルシュマの不屈の精神は、いよいよメアと距離にして、初日の同じ距離にまで間を縮めることを可能とした。代わりにメアからの容赦なさと辛辣さは初日の比ではなかったが。

「罵倒に慣れたとかきざったらしく笑う人間って、もう生きてる価値がないですよね。むしろ死ねばいいのに。お城の天辺から全裸で飛び降りて、『わたしは世界を糾弾する〜』とか言ったら、メア的には好感度アップです。一生メアの目の前に現れないでください」

 むしろいいからかいの対象として近付くことを許されている気もする。進歩しているのかしていないのか、判断に苦しむ。

 このころになるとキルシュマの方も、どうしてメアに近付いているのか、自分でもよくわからなくなっていた。

 相変わらずメアの正体は不明のままだったが、当初の頃ほどの熱意を感じなくなったのだ。その正体を突き止めたいという気持ちはあったが、突き止めてなお、大して意味はないのではという考えが付きまとう。

 メアの方はといえば、そういった熱意のない視線の方が心地良いのか、花壇の前でしゃがみ込みながら、軽やかに罵倒を放ってくる状態。

「赤の他人としての好感度が高い人間って、つまりは問答無用でお近づきにはなれないということです。良かったですね。優しいメアは親しい相手には優しいので、もしも万が一にも千が一にも億が一にもそうなっていたら、マゾヒストとして苦悩の日々に戻ってしまうところでしたよ」

「ところで、前々から思っていたんだが、君は毎日そこで何をしているんだ?」

 これまでキルシュマがメアからもらった不名誉な称号の数々は、もう数え切れない。訂正する気力すらもはやない。全ての物事はことごとくスルーすることでこの世は上手く回っていくのだという真理を、キルシュマは得つつあった。

「……スルー。なんという酷い人間なのですか。血も涙もない冷血漢。ツッコミ不在のボケは、ただそのまま朽ちていくだけだというのに。まぁ、メアはツッコミもボケも両方いけるオールマイティーな才女ですので、不真面目なツッコミなど必要皆無なのですが」

「まるで僕の価値がツッコミを入れることしかないようじゃないか」

「え? あなたは自分に何か価値があるとでも思っていたのですか? 図々しいですね」

「それすら僕の価値じゃなかったのか……」

 心底驚いた顔をするメア。とはいっても、ものすごい微少の変化しかない。
 そんな風に驚きつつも、メアは花に触れる手を片時も休めていない。思えば、初めて出会ったときから、メアは花を愛でることに夢中であった。

 いや、それは愛でているとは少し違う。日ごとに触れている箇所の違う様子は、愛でているというより世話をしているという方が正しい。

「もしかして、君はこの花壇の世話をしているのか?」

「さぁ、どうでしょうか。ただメアは、この花壇を花で一杯にしたいだけです」

 そう言ってメアは花壇から離れた。

「この花壇はとても綺麗なのに、今ではただ蔑ろにされているだけです。今の今まであなたも気にとめなかったように、本来愛でられるべきこの人工の花畑は、忘れ去られようとしているのです」

「忘れ去られるというのは言い過ぎだろう。時折ここへと遊びに来る人たちもいる。世話だって毎日のようにされているはずだ」

「けれど、その誰一人として、この花壇の最高の姿を見たことはないはずです」

 断言したメアは、ぐるっと花壇を見回す。

 城にいる人々の目を楽しませる花壇は、しかしパーティーの灯りから遠く離れ、暗い影を落としていた。日中もパーティーは続いているという。メアのいうとおり、この花壇は日陰にいるのかも知れない。

 春という花が美しい季節であるのに、この花たちは愛でられることがない。野に咲く花々ではないこの花たちにとって、存在意義は人に愛でられることだというのに。

「先程、あなたはメアが毎日何をしているのかと問い掛けましたね?」

「ああ。毎日毎日、君はここで何をしている? 僕は君をこの時間、この場所以外で見かけたことがない」

「それはそうでしょう。メアはここから遠く離れた場所に住んでいますので。ここで花たちのお世話をしているのは、ある人をここで待っているから、という理由ですから」

「ある人?」

 メアのいう待ち人が誰であるかは、これまでの彼女との会話をしっかりと覚えているキルシュマにとって、想像するのは容易いことだった。

「君がマスターと呼ぶ相手のことか?」

「イエス。あなたがその名を口にすることも恐れ多き、メアのたった一人の我が所有者様マイマスターです」

 自らの所有者のことを話すメアの横顔は、ぞっと背筋を震わせてしまうほどに美しかった。

 表情を変えないメアが初めて見せた表情は、底を見せない崇敬の念であった。そっと自らの首につけられた首輪に触れつつ、メアは絶対の信仰をもって、自らのマスターのことを口にしていた。

「マスターは今、この王宮でとても大変なお仕事に励んでおられます。メアは残念ながら、そのお仕事を手伝うことを許されていません。ですからいずれ正門よりマスターがお出になられるとき、その疲れを少しでも癒すことができるよう、この花壇を美しく整えているのです」

 それがこの花壇にとっても最も大切なことであるように、メアは語る。
 彼女は心底そう確信しているのだろう。誰かに愛でられることが花壇の幸せというのなら、その誰かが自らのマスターであることが、何よりも幸せなことなのだと。

 メアはただマスターなる人物を喜ばせたい一心で、一生懸命花たちに命を吹き込んでいるのか。メアが触れる花々がどこか元気に色づいていることに、今初めてキルシュマは気が付いた。

「つまりメアはとても忙しいのです。あなたに構っていられる暇はありません。今日はもう帰ってください、キルシュマ」

 初めてしっかりと名前を呼ばれた。
 初めて炎によって追い払われるのではなく、言葉によって追い払われた。

 キルシュマは自分が少しメアという少女の本質に触れたと気付き、なんだかな、とモノクルの位置を直す。

「やはり君は興味深い。だが、なぜか今僕は君に対する熱意が消えていったのを感じた」

「それは、あなたがメアの話の端々から、自然と感じ取っていたからではないのですか」

 返ってこないと思っていた疑問に、しかし返答は返ってきた。

 首輪をつけた魔性の少女は、輝きの開花を今か今かと待つ花畑を背に、そっと王宮を身仰いだ。

――真に興味を抱くべきは、至高なるマイ・マスターであると」

 


 

       ◇◆◇


 

 

 パーティー会場において、キルシュマは誘蛾灯のように女たちを集める。

 それはキルシュマの容姿が整っていることだけが理由ではない。もっと大きな理由として、キルシュマの握る権力があった。寄ってくる紳士淑女たちは、ただキルシュマが持つ権力に惹かれてくるのである。

「そういえばキルシュマ様、ご存じですか? 最近、この城内に怪しい盗人が現れているのを」

「盗人?」

 女性たちに囲まれつつワインを飲んでいたキルシュマは、一人の女性が口にした言葉に眉を顰めた。

 仮にも王宮であるフレグラレイスに盗人とはどういうことか。それほどまでに、この国の警備はおろそかになっているのか?

(だとするなら、これ以上パーティーに出席するのも止めにしておくべきか。七日間連続でパーティーに出席することなど、今までになかったことでもあるし)

 キルシュマがパーティーに出席し続けていたのは、もちろんメアに会うためであった。が、今日に限ってメアの許へと行く気力がなかった。いや、胸の奥にチロチロと燃える何かは健在であったが、メアの処へ行くという熱意を感じなかったのだ。

 どうせ彼女は今日も花壇の世話をしているだけだろうし、自分が行ったところでそれで何かあるというわけでもない。この国の現状は変わらないし、この憂鬱な空気も和らぐことはない。

「盗人とは、一体どういうことですか?」

 かといってパーティーに出席し続けているのも苦痛なのだが……周りを囲まれているキルシュマに、話に付き合わないという選択肢はなく、差し出された話題に相づちを打つ程度のことしかやることがなかった。

「何でもここ最近、毎晩のように城内に侵入する賊が発見されているのだとか」

「それならわたしも聞いたことがあります。なんでも、人の身の丈を超える怪物であると。毒々しいほどの色合いの身体を持ち、一目見たら決して忘れられないほどだとか」

「そんな賊がまだ捕まっていないのですか?」

「ええ、何でも毎回あと一歩のところで取り逃がしてしまうらしくて。兵士たちの面子もあって色々と内緒にされているようですが、パーティーにご出席なさっている方の中にも見たという方がおられますので、嘘というわけでもないかと」

「なるほど。そのような賊がいるというのなら、あまり不用意にパーティーには出席されない方がいいかも知れませんね」

 あら、やだ――なんていう言葉や、慎ましげな笑みを聞くキルシュマは、賊の話を話半分程度にしか聞いていなかった。

『人の身の丈を超える』や『毒々しい身体』だなんて、なるほど、確かに賊は大した怪物のようだが、まさかそんな賊がいるはずないだろう。どうせ酔っぱらった貴族が幻覚を見たとかというオチに違いない。見張りの警備たちにもやる気がない。こちらも見間違いだ。

(まったく、どこまでこの国は腐っている)

 どうせ彼女らも酒の肴程度にしかこのことは信じていないだろう。あるいは、それら怪物がいて欲しいとでも本気で思っているのか。だとしたら嘆かずには居られない。やはりこの国は、そう長くは保つまい。革命の予兆はそこかしこで現れているというのに、どうして誰一人として危惧していないのか。

(……僕は、どうすればいいのか……)

 どうして、そこまでしなければならないほど困窮している民のことを誰も考えないのか――キルシュマには、それがわからない。

 


 

 結局、パーティーの浮ついた空気は、どこまでもキルシュマには合わなかった。

 逃げるように会場を後にすれば、自然と足は庭園へと向いた。そこにいる誰かに会いたかったのか、それはわからないが、少なくともパーティーにいるよりそこは何十倍も居心地が良かった。

「辛気くさい空気を持ち込まないでください。お花たちが元気を無くしてしまうではないですか。歩く有害物質」

 たとえ罵倒を浴びせられても、だ。

 やはりそこにいたメアは、やってくるなりものすごく不満そうな顔を作った。不景気な顔の人間はお呼びではないらしい。彼女の態度はどこまでも不躾だが、それでもドロドロとした内面は一切伺えないとても素直なもの。キルシュマの口から出るのは溜息ではなく、小さな苦笑いだった。

「それはすまなかったな。自分でもこれでいいとは思っていないんだが、どうにも、な。自分が何をどうすればいいのか、それがわからないんだ」

「唐突に相談を持ちかけるとか、どういうカミングアウト精神ですか。なんですか? メアに人生相談を望んでますか? 確かに人生経験豊富なメアに相談というのは、あなたの低脳が弾き出したとは思えない良案ですが、メアにはあなたの相談に乗る暇がないのです」

「わかってはいたが、ばっさりと切り捨ててくれるな。僕もそんな風に決められたら楽なんだろう」

「……調子が狂います。いつものように罵倒されることに鼻息を荒くしてもらないと、まるでメアがあなたを悩ませているように見えるではないですか」

 口をへの字に歪めて、気に入らない、というのを強い視線で示すメア。自分よりも年下の少女がこんなにもはっきりと自分のしたいことをしているというのに、どうして自分は自分がどうするべきなのかがわからないのか。

「仕方がありません。これ以上お花に悪影響を与えられるのも困りますので、心優しいメアが相談に乗って上げましょう。ちなみにこの借りはとても高いので、是非明日はお花の肥料になってください。……いえ、そんなことをしてはお花がかわいそうですね」

 うんうんと頷くメアに、キルシュマは驚きを顔に表した。

 別段、相談を持ちかけるつもりもなかったのだが、まさかメアの方から許しが出るとは思ってもみなかった。ただ、この少女に果たして、今自分を苦しめている悩みを相談してもいいものか。国の行く末などを考えるには、メアの肩はまだ小さすぎた。

 それでも、浮世離れした雰囲気のあるメアには、助けになってくれるという不思議な力があった。歯に衣着せぬ物言いがそう思わせるのか、とにかく、キルシュマは相談してみようという気になっていた。

「そういうことなら、ありがたく助けを借りよう」

「どうぞ。ああ、自分よりも幼く見える相手だからといって、色々な部分に比喩をいれる必要はありませんから。むしろメアよりもあなたの方が色々とちっさいですしね」

「どこを見て言ってる。どこを見て!」

「それはセクハラです。メアはノーコメントを貫きます」

 ニヤリと笑って視線を逸らすメアに、本当に彼女に相談していいのかと、先とは別の理由でキルシュマは額に手を当てる。そんな微妙な苦悩はさておき、すでにメアは相談を聞く体勢に入っていた。いつも触れている花から手を離した状況だ。ここで止めるといったら、きっと盛大に燃やされることだろう。

「……メアは、このエチルア王国の現状をどう思っている?」

 すでに退路はなかった。キルシュマはメアに言われたとおり、単刀直入に切り出す。

「最低ですね。暴利をかざす貴族と、貴族に怯える平民。魔法を至上のものとする姿勢は、神秘を尊ぶ姿勢とは明らかに異なっています」

 それに返ってきたメアの返答もストレートなもの。むしろそこまで的確に良い表せられるメアの知能に驚いてしまう。魔法使いであるメアが、魔法を至上のものとしないことにもだ。エチルアの魔法使いとしては、それはとても珍しいことだった。

「今の状態を是と答えるのは、馬鹿なお腐れ貴族ぐらいではないでしょうか。そのほかの人間は鬱憤をさぞや溜め込んでいることでしょう。まぁ、現政権の崩壊も時間の問題でしょうね」

「その通りだ。君の歳でそこまで見抜いているのは、正直恐れ入るよ。ただ、僕は残念ながら君のいう腐れ貴族の一員だ。こうして国が腐敗していった理由に、僕の家だって関わっているだろう。だから、僕は悩む。変わることが免れない今、僕は一体どうすればいいのかと」

「滅びればいいんじゃないですか? そんなの」

 深い苦悩に対して、あっけらかんとメアは答えた。

「腐れ貴族滅ぶべし。あなたが自らを腐れ貴族と認識しているなら、来るべき革命の日に精々華々しく散ってください。そうですね。悩むのでしたら、そのときの散り様を悩むべきでは?」

「……本当に君ははっきりと言うな」

「なんですか? 優しく諭してくれるとでも思ったのですか? 阿呆ですね。メアは腐敗しきった貴族になんて用はないのです。用があるのは変える意志を持つ高貴なる者です。その意志がない奴は死ねばいい。――その意志があるのに迷う奴も死ねばいい」

 そう言葉を吐き捨てたメアの視線はどこまでも冷たかった。
 本気で彼女が死ねばいいと思っているのは、誰の目に見ても明らかだろう。

 今だからこそわかる。基本的にこのメアという少女、人をモノと同じようにしか思っていない。いや、実際は人を人として見ている上でどうでもいいと思っているのかも知れないが、時折他人を底抜けに無感動に見下ろしている。

 彼女が見仰ぐのは、恐らくはたった一人だけなのだろう。
 罵詈雑言を操る彼女が信仰する相手……会ったこともないのに、そのマスターなる人物には、酷く惹き付けられる。

「……ついでに、人に相談を持ちかけておいて、無視する奴も死ねばいいと思います」

「これはすまない」

 メアに絶対零度の視線を向けられたところで、キルシュマは我に返った。

 こうも度々悩みの中別のことで頭をいっぱいにしてしまうと、自分が本当に国の未来を憂いているのかすら自信が持てなくなる。これはメアにダメ出しされるのも、仕方がないといえよう。

「つまりメアが言いたいことは、革命を認めるにせよ、否定するにせよ、変えることは必要だということなのだろう? 君の目からみれば、僕は今の地位に固執しているように見えるんだろうな」

「いいえ、メアが言いたかったのはそれとは少し違います。それが居心地いいのでしたら、別に変わる必要はないのではとメアは思います。そうであるなら一生懸命それを守ればいいのですから。メアが言いたいのは、それでも変革は訪れるということです。この国が――いえ、世界が変わることは、もう避けられようのない『決定』ですので」

「自分のしたいことを強く自覚しろ。迷うな、ってことか」

「望まれる責任があなたのしたいことですか? 責任を果たす、というのが貴族に生まれた自分の義務であると思うなら、それもまたいいのでしょう。しかしメアは欲望の肯定者。望むなら、誰に悪と謗られてもそれをなせばいい」

 メアは契約を唆す悪魔のように、この世にあり得ざる現象のように、謳う。
 
「自らの我を貫き通す。世の正義に従うのではなく、自らの我を信仰する。故にそれは正義ではあらず。それは純粋なる悪。既存の正義を破壊する、唯一無二の自分である。
 ただ、望むがままに我意を貫け――それがメアの出した唯一の答え。愛しいマイ・マスターを信仰するという、自分への信仰」

 誇り高く一つの教えを信仰する彼女は、信仰のままに、自らの自由意志のままに生きているのだろう。それが善意であっても、悪意でもあっても推奨する。ただ、一つだけ心にしないといけない。我が儘に生きていくのなら――それは誰かの我が儘によって否定されることも肯定しなければならないのだと。

 自由意志。何のしがらみにも縛られぬ、キルシュマという一人の自由意志が望むものはなんなのか……

「まぁ、あとメアが言えるのは一つだけですか。
革命万歳。もう少しそうやって悩んでいたいのでしたら――精々マスターの覇道の前に立ちはだからないことをお勧めします」

 少なくとも、この危険極まりない『悪』の前に立ちはだかることは、絶対にない。

 キルシュマはこの少女の悪意を苦痛に思わない。それはキルシュマの中にある善意と彼女の中にある『悪』のポリシーが、多く合致しているからなのだろう。

 キルシュマの悩みは尽きない。それでも、一つだけ答えは出た。

 自分が今一番に渇望していること。それは――

「メア。僕は、君のマスターに会ってみたいのだが」

 ――この興味深い少女が信仰する主に対する、好奇心から来る求め。

「……いつ誰がマスターのことをマスターと呼んでいいと許しましたか」

 返答は、ニヤリという笑みと燃えさかる炎で渡された。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 会うことを許可してくれたのか、してくれなかったのか、よくわからない約束を交わした日から五日が経過した。

 五日間、キルシュマはメアのところに足繁く通った。無論、目的は彼女に罵倒されることではなく、彼女が信仰する唯一一人に会うためである。メアの隣で彼が仕事を終えて帰ってくるのを待つ――それがキルシュマの最近の過ごし方だった。

 この段階まで来るとさすがのキルシュマも、メアのマスターなる人物、いかなる行為を王城内で行っているかには気が付いていた。

 人目を忍ぶように、あるいは人の視線を鬱陶しいとでもいうように、この庭園で待ち続けるメアは、パーティーに招待された貴族の関係者ではなかった。そういった腐れ貴族と彼女が繋がっている可能性は、もう考えられなかった。

 ならば、メアのマスターは王城で働いている人間なのか?

 これも否だ。王城で働いている人間ならば、正門への道すがらにあるこの庭園へと、何日も来られないはずがない。

 となれば、結論は一つしかなかった。
 メアのマスターはここに来たくても来られない、つまりは招かれざる客なのだろう。

「パーティーは、今日が一応最後になるらしい」

 もはや正装してくるのも面倒になり、完全な研究員としての姿のキルシュマは、初日と変わらず、黙々と花弁を愛でているメアに話しかけた。

 いついかなる出会いにも罵倒を忘れない彼女ではあったが、基本的には無口だ。口を開けば毒舌が飛び出すが、黙っている様子はどこまでも美しい。

「さて、君のマスターは、今日やってくるのか」

「どうでしょうか。メアはマスターが来るまで、ただ待ち続けるのみです」

 日増しにパーティーにおいて話題に上がることが多くなった相手は、恐らく、この二十日近くも続いたパーティー期間中にしか王城には現れないのだろうという確信がキルシュマにはあった。ずっと一人待ち続けたメアはそう言いつつ、今日マスターがやってくることを疑ってはいないようだった。

 そう言われてみれば、今日王城を包む空気はいつもとはどこか違っていた。それにメアが愛でる花たちも、まるで自分たちを見てくれる人が現れるのを待つように、一つ、また一つと夜であるのにもかかわらず花開き始めている。

 花香る静かな夜――ああ、なるほど。満月が美しい今日みたいな夜には、何か特別なものと出会えるかも知れない。

 空に輝くお月様を見上げて、キルシュマは口元に笑みを浮かべた。

 その隣に、メアが立つ。

「花の方はいいのか?」

「大丈夫です。そもそも、メアがしていたことは単なる人生相談に過ぎません。みんな、自分の力で綺麗に花開くことができるのですから。メアはふてくされていたお花たちを、優しく、ときに脅……された悲しみを癒してあげたのみです」

「……そうか」

 あえて何も突っ込むまい。律儀に突っ込むほどキルシュマが苦労を自ら進んで買う性格はしていなかったのもあったが、このときばかりは理由が違った。

 王城へと視線を注ぐメアの横顔。それが告げていた。もうすぐ、此処にマスターはやってくるのだと。

 ――強い風が王城より吹き抜けた。

 無風の夜に駆け抜けた風は、神秘に触れたものなら誰でもわかるほどの魔力を孕んでいた。その風が、一流の魔法使いが起こしたものであるのは間違いないだろう。

 続いて雷鳴。夜闇を昼間のように照らす光と音は、王城からまっすぐ庭園へと突き進む。

 風によって場を清め、雷によって場を整える。
 それはまるで王者が登場する舞台を仕立て上げているようだとキルシュマには思えた。

 そうして闇を晴らしながら、王の住まう城より彼女は現れる。

 吹き抜けた風によって舞い上がった花々の花弁と、美しい月光に祝福された、それは月の乙女。

 涼やかな白銀の髪を風に踊らせる、純白のドレスを纏った十六、七歳ほどの少女。闇をはね除ける輝きは、生まれたときから決められ、育まれた純白という名の光であり、たとえ誰であっても彼女が神秘に息づく存在であることを認めるだろう。

 それほどの純白。
 それほどの存在感。

 汚れなき立ち姿の中、唯一爛々と輝きを放つ紫の瞳を前へと向け、白銀の魔法使いは現れた。

 キルシュマは思った。たぶん、隣のメアも同じことを思っただろう。

 誰もが認める高貴なる存在。世界が誇る偉大なる血統。小さな魔女――讃える異名は数多くあれど、だからこそ言ってやりたかった。


――お前、空気を読め」


 我慢できなかったので、キルシュマは我慢することなく言った。予感と感動を返せ、と。

 庭園へと歩み寄ってきたいかにもお姫様という感じの可憐な少女は、突如放られた言葉に呆けた顔をしていた。それ以上に呆けた顔をしていたのがキルシュマであり、隣のメアに至っては心底がっかりした顔をしている。

「あの、もしかしてわたし、何か悪いことでもしてしまいました?」

「悪いことはしていない。ただ、もう少し空気を読んで欲しかっただけだ」

「え? えっ?」

 キルシュマがジト目を向けると、もう語るのも億劫だと、風によって吹き飛ばされしまった花弁らを元気づけにいったメアを目で追う白銀の髪の少女は、困惑を強める。

 困ったように眉をハの字にして、白い手袋で包まれた手を頬へとあてる。服装、髪、肌と全てが真っ白な彼女の頬は、手があてられてすぐ朱色に染まる。首の角度といい、恥ずかしげな表情といい、完璧なまでに彼女は照れている様子だった。

「もしかして、ここで逢い引きでもしていました? ごめんなさい。ちょっととある人物を追っていたので、見知った顔を見てつい近寄ってしまいました。すぐにいなくなるので、少しだけ我慢してくださいね」

「…………」

 育ちの良さをうかがわせる少女の言葉に対して、メアは無言を貫く。キルシュマは明らかに少女が自分へは気遣いを見せていないことに気付いていたため、腕を組んで王城の方へと視線を送っていた。

「ほ、本当にお邪魔みたいですから、わたしはもう行きますね」

 二人に無視されることになった少女は小さく目元に涙を浮かべて、トコトコとキルシュマの視界に入り込んできた。

 そこで――少女はにこやかな笑顔を浮かべると、一言だけキルシュマに告げていった。

――そういうご趣味だったんですね、お兄様」
 
「待て、ミリアン。誤解を……どうして僕は訂正する暇を与えてもらえないんだ」

 心底からの祝福を残していった少女――ミリアンは、風と雷を率いて王城へと戻っていってしまった。何が目的でここに現れたかは知らないが、どうやら急ぎの用件を抱えているらしい。いつもは誰それに囲まれて慎ましく歩く彼女が、今日は一人で魔法まで使っているのだから。

 風と雷の二つの属性を操る小さな魔女が消えたあと、はぁ、と一つキルシュマは溜息をつく。

 あんなにも期待感と雰囲気が高まっていたというのに、登場するのが待ち人ではなくてミリアンだったという時点で、もう色々と気が抜けてしまった。

「すまないな、メア。あの歩く災害が君に迷惑をかけた」

「まったく本当です。なんですか? あの迷惑極まりない女は。おかげさまでマスターのために毎日毎日お世話をし続けたお花たちがやる気をなくしてしまったではないですか」

 必死に説得するように花たちの前を行ったり来たりしているメアのいうとおり、お花たちはミリアンの登場に元気をなくしてしまったようだった。無論その理由は、ミリアンの空気読めない登場にある。メアが大事にお世話をしていたのを知っているキルシュマだから、ミリアンの場を考えぬ登場には、本気で申し訳なく思った。

(しかし、ミリアンは一体何の用事だったんだ?)

 彼女にロリコン認定されたことに対する悟りは、もう随分前から開けている。どうぜ面と向かって悪口を言われるわけではないのだから、陰口程度甘んじて受け入れよう。間違いなくあの父親にも伝わるだろうが、直接的な被害がなければそれでいい。お見合い相手が幼くなりそうなのには胃が痛くなるが。

 今興味があるのは、あのミリアンが根ほり葉ほり訊いてくるのではなく、初対面のメアがいたとはいえすぐに立ち去った事実にのみある。

(王城で何か起きたのか? それとも……)

 キルシュマの興味をさらにくすぐるように、あるいは予測を促すように、再び王城より雷光が飛び散る。今度は内部でだ。どうやらミリアンは相当ご立腹のようで、城内部でも魔法を行使しているらしい。

 一体、誰がそこまで彼女を怒らせたというのか――それはひとまず置いておいて、キルシュマは神聖な雰囲気など吹き飛び、ガタガタと騒々しいこと極まりない王城を見てメアへと残念そうな表情を向けた。

「どうやら、君のマスターは今日現れそうにはないな。あれだけの騒ぎが起こっているんだ。どんなマスターかは知らないが、今日のところは無理だろう」

 これにはメアはむっとするも、反論できないのか、口を噤む。

 王城の空気は騒々しく、迎えるはずの花たちは元気がない。辺りはミリアンの所為でボロボロ。キルシュマの気も抜けメアは不機嫌。大切な貴人を迎え入れることなど、到底できない有様だった。

 だからこそ、まったくキルシュマは予想だにしていなかった。

 その次の瞬間に現れたソレが、この空気を一瞬で塗り替えてしまうほどの存在であることを。自分の予想を遙かに凌ぐ存在であったことを。

 ――王城の方から、何かが飛んできた。

 先の雷光によって吹き飛ばされたのか、かなりの高度から降ってくるソレの周りには、色とりどりの輝きが舞っている。それは月光を反射して光る美しい布地であった。恐らくはシルクであろう。一目で高級であるとわかる。

「なっ!?」

 それら高級な品を惜しげもなく手にし、空から共に落ちてくる存在。
 それはキルシュマの前で見事な着地を決め、その姿をさらけ出した。

 ――それは、神秘という言葉を超えた何かを持った存在だった。

 一目見た瞬間に衝撃が走った。前後不覚に陥るとはこういうことをいうのか。とにかくそのとき感じた衝撃のほどは、一生をかけても正しく言葉にはできないだろう。

 ただ、一つだけそんな思考の中でも分かっていたことがある。

 それは直感か。あるいはその存在がそうさせるのか。
 このときこの瞬間ばかりは、それが世界の真実だと思った。

 白い輝きが舞う中現れた人影。その何ら恥じ入ることない堂々たる立ち姿を見て思ったのだ。

 これが、これこそが――……


――――真性の変態」


 それは紛う事なきピンク色の変態だった。

 二メートルを超える長身は、八頭身ではなくずんぐりむっくりしている。身体の大きさに反して手も足も異様に短く、そもそも人の形をしているようで人の形をしていない。

 人はそもそもピンク色の毛で覆われていないし、そんなぬいぐるみのような気が抜ける姿をしていない。どれだけ見事に着地を決めようとしても、その人工で作られた着ぐるみでは格好良いはずがなかった。

 まぁ、しかし、百歩ほど譲ればかわいいとは形容できるだろう。

 幾本も黒糸で横に縫って表現された横長の瞳や、どことなく犬っぽくも猫っぽくも見える不思議な顔は愛嬌を誘う。決して癒し系ではないが、子供なら思わず飛びついてしまうのは間違いないだろう。

 だが、それはあくまで、その頭が爆発したようなモコモコピンクアフロではなく、その背に多くの女性の下着が入った緑の布袋を持っていなかったらの話だ。

 パサリ、とキルシュマの頭の上に、一枚の純白の下着が舞い落ちた。
 緩慢な動きでそれを手にとってみれば、なぜだかそれが、どこかの誰かが購入した、世界に一つしかないオーダーメイドの下着によく似ているような気がしてならなかった。

「…………まさかとは、思うが」

 キルシュマは頬肉をプルプルと震わせながら、せっせと落ちてしまった下着を拾い集めているピンク色の生物から努めて視線を逸らし、嫌な予感を胸に背後にいる毒舌少女を振り返った。

 そこで是非あって欲しかったのは、女性の敵であるピンクアフロに対する絶対零度の視線だった。しかし、容易くメアはキルシュマの期待を裏切る。

「ああ、マスター。何て格好良い登場なのですか。メアはもう、その美しい姿を受け止めた地面と同じ地面に立っていることが恐れ多く感じてしまいます」

 胸の前で感激に手を組み、目を潤ませているメアの姿は、どこからどう見ても恋する乙女のもので、彼女が信仰するマスターを語るときと同じ表情だった。

 それだけでももう決定的であり、キルシュマの処理速度を超えている光景だというのに、さらに視界内にピンク色が入り込んできたからさぁ大変。

『モモ、モモモモモ、モモッモモッ』

 見ていると殴りたくなってくる、緩んだ状態で作られたピンク色の生物の口からは、人語でもない、どんな言語にも属さない意味不明な言語が飛び出す。

 博識であると自認しているキルシュマですらわからない――むしろわかりたくないピンク色生物オンリーの言語。しかしそれを、やわらかそうな手を肩に置かれたメアは理解したらしい。

「そんなマスター、待たせただなんて。そんなことは謝られないでいいのです。メアは毎日毎日マスターを待っていられて、とても幸せだったのですから」

『モモモッ、モモモモーモモ』

「そのような褒め言葉……メアは感無量です。キルシュマというロリコン野郎やミリアンという空気読めない女に邪魔されても、挫けず、諦めず、お花たちのお世話をした甲斐がありました」

 じ〜んと極まっているメアのことを、どうやらピンク色生物は褒めたらしい。花たちはものすっごくしなびた感じだというのに、それでも両者共に満足らしい。……帰っちゃダメでしょうかね。

「というか、どうしてメアはその不思議生物のしゃべっていることがわかる? 『モ』以外の言葉を使っていないじゃないか?」

 いい加減突っ込まないというのも限界だったので、眉間に手を押さえながらキルシュマが尋ねると、返ってきたのは『そんなこともわからないのですか?』という蔑みの視線だった。

「ふぅ……これだから、学のない人間は。そんなものは明らかも明らかでしょう? 『モ』しか使っていない? そういう上辺だけに囚われているから、あなたはちっさいのです。声のトーン。息継ぎの感覚。そこにこめられた感情や思い、あるいはそれを耳にしたときの興奮度等、百以上のヒントからマスターが言っていること、言いたいことを理解するのは容易いことでしょう?」

「それができるのはきっと、世界中で君だけだ」

「……そんな褒め言葉を使っても、メアの好感度はあがりません」

 ものすごく嬉しかったのか、頬を緩ませるメア。その隣でうんうんと腕を組んで頷いているピンクの下着泥棒。腕組むのは構造上不可能だから、何か得体の知れない必殺技を使うタメ動作に見えて仕方がない。

(まさか、メアがこんな気の毒な趣味と性癖を持つ相手だったとは……)

 ピンクの着ぐるみに幸せそうに寄り添うメアを見れば、そのピンクが彼女の信仰するマスターであるのは明白であった。彼女があれだけ褒めちぎり、自分も興味が持った相手は、こんな変態だったのだ。

 いや、確かにある意味では好奇心をくすぐられるのだが、間違いなくこれを理解したとき、自分の中で何か大切なものが失われること間違いなしだろう。

「マスター。お仕事ご達成、おめでとうございます」

『モモ、モ』

「ああ、マスター。メアは、メアは……」

『モモモモモモモーモモッモモモ、モモモモモモモモモ』

 ピンク色の影に隠れるようにして立つメアの耳は、彼女にだけ通じる言語を入れる度にピクンピクンと動いており、顔は真っ赤。もじもじと太股同士をすりあわせているのは気のせいだと思いたい。

「……イエス、マイマスター。メアは永劫にマスターのお側にいます」

 優しげな声色を、やはり変わりようのない顔から発するピンク色と、そのピンク色を見て頬をピンクにする薄紅色の髪の少女。

 キルシュマの視界はピンク一色で、もう世界とか国とかどうでもよくなってくる。

 ……ああ。なのに、どうしてだろう。

 こんなにも期待はずれな姿を晒され、
 こんなにも脱力させられたというのに、

 それでもこのピンクの変態を見て、不思議な感覚がせり上がってくるのは。

 それはもしかしたら、この身に受け継ぐ神秘の血が囁いているのかも知れなかった。今しっかりとそう思うのだ。

 この出会いこそが、色々な意味で、きっと自分にとっては革命であったのだと。

「くっ、くくっ」

『モモ?』

 思わず口から笑いがもれてところで、初めてピンクアフロの視線が向けられた。

『モモモモ』

「マスターは名乗れ、とおっしゃられています。なので名乗りやがりなさい、ロリコン」

 メアに同時通訳をされたキルシュマは、堪えきれない笑いに目の端に涙を溜めながら、ピンク色の生物に向き直る。

「ああ、すまない。申し遅れた」

 名前を訊くときは、まず名乗ることが礼儀であると、そうは言わなかった。

 それは名乗られるときは、是非とも彼の口で名乗って欲しい、と思ったから。
 もしもこの先何かがあって彼の名前を聞いたとき、それが自分にとって大きな意味を持つと思ったから……だから今は自分が名乗り、自分の名前を知ってもらうとしよう。

「僕はキルシュマ――

 月明かりに照らされる中、そのピンク色の出会いはあった。

 誰に促されるまでもなく、自分で決めて咲き誇る花たちに囲まれたその出会いは、間違いなく人生を変えるだろう。キルシュマは静かに、心の中である決意を固めていた。

 そう、まさにそれは革命。
 
 革命は今、ここから広がっていく。
 遠い、遠い、あの月までもきっと。革命は起こる。

 否、違う。起こるのではない。起こすのだ。

 その始まりとして、白銀の髪を持つ少年は――


「キルシュマ・ホワイトグレイルだ」


 ――舞い降りた革命家に名乗りをあげた。


 革命万歳――――さぁ、ここから全てを変えて行こう。









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