第十一話  緩やかな始まり
 

 

 ゴッゾ・シストラバスは、例えばと穿った質問を投げかけてくる。

「君ならばどっちを選ぶ? 血と叫喚の中で主と轡を並べ剣を振るう道。それとも笑顔の奥に野心を秘めた人間と、主の代わりに接する道。いや、質問の内容以上の意味はないよ。ただの好奇心から来る何気ない質問だ」

「……取りあえず、前者は危ないので嫌です。後者はゴッゾさんみたいな人が相手ならゴメン被りたいです……というかなんで俺の部屋にいるんですか?」

 早朝。顔に張り付いて寝ていた白猫を引きはがした後、ジュンタが初めて目にしたのは紅茶をたしなむ貴族の姿で、最初に聞いたのは彼からの質問の声だった。

 小さな窓の外は小雨が降り続いている。 

 湿った空気が部屋の中に入ってきて、少しだけ不快指数が高い……ということにしておく。決して招いてもいない客がいるせいで不快指数が高いのではない。

 寝間着なんて持ってないジュンタは、シャツ一枚の上に毛布を被って寝ている。寝起きに現れた向こうが悪いのだが、少しだらしない格好だ。

 ベッドで身を起こした状態のまま、取りあえず上着を羽織ろうと近くに畳んでおいた服を掴み取る。それを無造作に羽織ってから、それがいつも着ている制服の上着でも、燕尾服ではないと気が付いた。

「……なんですか、これ?」

 着る前に気が付けなかったのは、ひとえに寝起きで頭がぼうっとしていたからだろう。
 いつも上着を置いてある場所に置かれていたのは、燕尾服よりも仕立てのよい、先日の勲章授与式で着た真っ白な上着だ。もちろんこんなもの用意していない。そもそもあれは借り受けただけ。

 ならばこれを置いたのは、間違いなく部屋にいる他者――ゴッゾに違いない。

 この屋敷で一番、いや、街で一番偉い御貴族様は、なぜか度々部屋に侵入してくる。アポイントなんてもちろんなし。気が付いたら、部屋で紅茶を飲んでいるのだ。今も自前で用意した高級茶を、羨ましいぐらい様になった動作で飲んでいる。

「それは些細な問題だよ、ジュンタ君。なに、君も騎士になるのなら正装の一つや二つ欲しいと思ってね。何もできなった私からのプレゼントだと思って受け取ってくれ」

「いりません」

 上着を脱ぎ、きれいに畳んで元あった場所に置く。

 視線だけで本来必要とした上着を探し、ジュンタはベッドから降りて手に取った。燕尾服の上着を羽織り、ボタンを留める。下に着るべき服は違うが、今は必要ない。

「……君はあれだな、人の好意を無下にすることに人生を賭けているのかい? いや、私も様々な性癖を持つ人間を見てきたが、君のような特殊な性癖を持つ相手は初めて見たよ」

 突き返された正装を椅子に腰掛けたまま見やり、ゴッゾはやれやれと肩を落とす……ちなみに彼が座っている黒革の椅子は、彼が勝手に持ち込んだ物である。

 徐々に浸食され始めている自分の部屋。
 クークーと寝息を立てているサネアツが恨めしい。朝早く起きてしまったばかりに、こんな訳の分からない状況に遭遇してしまった。

 それでも一応は目上の相手。それなりの敬意を持って、早く帰って欲しいという気持ちを暗に言葉に込め、ジュンタは用件を聞き出そうとする。

「それでゴッゾさんは何の用事でこんな、何もない手狭な部屋に、忙しいのにおいでになったんでしょうか?」

「ああ、もちろん忙しい中ここに来たのには意味がある。無論、仕事の休憩の時間をのんびり過ごすために来た、というだけじゃない」

(含んではいるのか……)

 思うに、この世界の人間は偉くなればなるほど性格が歪んでいくのではなかろうか?
 これがこの屋敷だけの法則であることを祈りつつ、ジュンタは無言でいることによって話の先を促した。
 
「私が君の元に朝一番に駆けつけた理由はただ一つ。一昨日、昨日と君に持ちかけた話のことだ。どうだい? リオンの秘書になる気持ちは固まったかい?」

 朗らかに笑ってゴッゾは用件を述べる。
 リオンの父親であるゴッゾという男性。どうしてかは知らないが、会う度会う度に秘書にスカウトしてくるのだ。それは今日という日も変わらないらしい。

「……前々から疑問に思っていたんですが、どうして俺を秘書なんかにスカウトするんですか? 秘書っていうのは俺みたいな余所者に務まる仕事じゃないでしょう?」

「何、適性があるかないか、氏素性がきちんとしているか、ということはさほど問題じゃない。そんなことを問題ではなくす力ぐらい、私は持ち合わせているからね」

 言った。いま、笑顔でとんでもない問題発言をした。

 一瞬ゴッゾの背後に悪魔の影を見たジュンタは、微妙に背筋を震わせる。

 ゴッゾは自分の発言をまったく気にした様子もなく、話を続ける。

「必要なのは楽しいか、楽しくないか、ということだけだよ。 その点を言えば、ジュンタ君は合格基準を大きく越えている。誇って良い。娘の近くにいる人間を、私が推薦したのは君で二人目だ」

 それでいいのかシストラバス家。当主である男の問題発言のオンパレードである。

 ジュンタは唖然としつつ、トスンと椅子に腰を落とした。

「つまり、俺がリオン……お嬢様の近くにいると面白いことが起きそうだという理由だけで、俺を秘書にしたいと?」

 とんでもない理由である。政治的な理由がまったく含まれていない。

 ジュンタの呆れ眼に、しかしゴッゾは心外だという顔をする。

「半分以上はその通りだけど、私は別に君を無能だとは思っていないよ? 秘書適性は別に必要ないが、君はどうやら適性があるらしい。初めに言っただろう? 私は君をとても有益な人材だと思っている、と」

 ゴッゾは自信たっぷりな笑みを向けてくる。自分の判断に間違いはないと、本気で自信を持っている笑みだ。

 ジュンタは確信する――この男がいる限り、シストラバス家は安泰に違いない、と。

 そんな相手に見込まれている、ということに嬉しさを感じないこともないが、話の内容があまりに突飛すぎる。現在騎士になることすら悩んでいるというのに、さらに秘書――しかもあのリオンの秘書だなんて、問題山積みの未来しか思い描けない。

 苦悩を表情に出し、腕を組んで唸るジュンタ。その耳に――
 
「……これは独り言だけど、秘書になると騎士として働く必要はなくなるね。危険なことも、限りなく少ないだろう」

 ――そんな、小さな呟きが聞こえてきた。

 俯き加減だった視線をゴッゾへと向けると、彼は優雅に紅茶のお代わりを注いでいた。
 鼻をくすぐる良い香り。エチルア産の高級紅茶葉の香りだと、一週間の執事生活から判断する。親子揃って、好みの茶葉は同じらしい。

(……まさか)

 ジュンタはゴッゾの独り言だという内容に、嫌な予想を立てた。

 自分が悩んでいることに対する、的確すぎる情報。前からゴッゾという男性が、まるで心が読めるんじゃないかと疑うぐらい、相手の心の内を把握する術に長けていることを知ってはいたが、ここにきてその把握能力のことで気が付いたことがあった。

 把握能力なんて言えるゴッゾの勘のよさだが、あれはどちらかというと経験から基づく思考予測と言った方が正しいだろう。それに加え、ゴッゾは自分で相手の思考を操っているのだ……自分の術中に相手を陥らせるという手段で。

「……まさかとは思いますが、全て計画通りってことですか?」

「さて、なんのことかな?」
 
 ジュンタの懐疑の視線に、視線だけを合わせつつ、ゴッゾは白磁のカップに口を付ける。その瞳は、悪戯が成功した悪戯小僧のように輝いていた。

 真実を隠そうともしないその態度に、ジュンタは感嘆すら抱く。

(全てはゴッゾさんの手のひらの上ってことか。リオンが騎士勲章を思いついたのも、それで俺が突然の騎士着任に悩むのも予想通り……共犯者はユースさんか。うわっ、何か最強のタッグっぽいな)

 もしかしたら、もっと先からゴッゾの計画にはまっていたのかも知れないな、とジュンタは密かに舌打ちする。当初の無償奉仕の件も、彼の仕業の可能性が高い。

 ……だが、そうなると一つだけ腑に落ちないことがある。

 それは何を思って自分をそこまで買いかぶっているのかということだ。
 ゴッゾの望みが、自分をシストラバス家に縛り付けておくということならば……どうして彼はそうしようと思ったのか?

 静かにゴッゾがカップを傾ける傍らで、ジュンタは黙考を続ける。

(俺にゴッゾさんが望むような価値があるとは思えない。秘書にしたい、っていうのもどこまで本気か。もしかして、俺が救世主なんて訳の分からん素質を持ってるって知ってるのか?)

 自身でもよく分からないが、自分にはなんでも救世主になる資質があるらしい。

 それがこの異世界の地でどんな意味合いを持つのか、はっきりとはしていない。
 だけど『救世主』――とんでもなく大きな役割である。何かしら、手中に収めておきたと思う価値が存在していても不思議はない。

(こんなことなら、サネアツからもっと救世主っていうものを詳しく聞いておくんだったか……)

 ゴッゾが気付いている可能性も、決して否定できない。
 後悔先に立たず。ベッドの上で転がっている子猫に事情を深く聞かなかったのは、自分が全面的に悪い。

 グルグルと思考が渦巻いていく。
 ゴッゾの本当の目的がなんなのか、それがとっても気になった。

 そんなジュンタに、唐突にゴッゾは不思議なことを聞いてくる。

「ジュンタ君、君は運命というものを信じるかい?」

「えっ?」

 突然の、意味不明な質問。いや、きっと何かしらの深い意味があるのだろうが、あまりにも意図不明。

 素っ頓狂な声をもらした後、ジュンタはしばしゴッゾの真意について考え、

「……あると思います。運命なんて話じゃないかも知れませんけど、縁とか、必然とかはあるんじゃないかって思います」

 分からないと、正直な考えを述べた。

「そうか……私もね、実は運命という物を少なからず信じているんだよ」

 そのゴッゾの言葉を素直に意外だと思った。
 
 決してリアリスト現実主義者とまでは言わないが、ジュンタはゴッゾにそれに近い印象を受けていた。あくまでも利益を優先に、感情は二の次に――運命なんて敗者の戯れ言とも呼べる言葉を、彼が口にするとは思わなかったのである。

 そして、そんな運命という言葉から、そんな話になるとは想像もつかなかった。

――私は十年前、妻を亡くした」

 そんな言葉から始まったゴッゾの昔話に、ジュンタは言葉を失う。

「君も知っているかも知れないがね。私の妻カトレーユ・シストラバスは、ドラゴンに殺された」

「え?」

 ドクン、と心臓が大きく脈打つ。
 
『ドラゴン』という単語に、ジュンタは一気に他の思考を削ぎ落とされた。ドラゴンという恐るべき災厄の名に、少なからず縁があったからだ。

 ゴッゾはジュンタの態度に気付いているのか、いないのか……そのまま話を進める。

「殺された、というのは間違っているか。妻はドラゴンを倒すために、その身を捧げたのだから。知らないかい? オルゾンノットの魔竜の話を」

「オルゾンノットの、魔竜……?」

 それは有名な話のようだが、生憎と二週間前までは地球の日本にいた身だ。こっちの世界の話には、とんと疎い。

 だけど常識のように、知っていて当たり前のことを知らないというのはあまりに不自然である。知らない、と言うのは簡単だが、その後に問題が付随してくる場合も考えられる。

 ジュンタは知っている振りをすることにして、首を縦に動かした。

「やはり。まぁ、有名は話だからね。詳細は省くとして、妻はそのオルゾンノットの魔竜を倒した代わりに死んでしまった。避けられない血の定めだったのかも知れない」

 妻の死を語るゴッゾの視線は、どこか遠い場所を見ている。

 時折感じる雰囲気は後悔か。暗い念が、ポーカーフェイスの隙間から僅かにのぞいていた。
 だがそんな状態は長くは続かなかった。すぐゴッゾは笑顔に戻り、いつも通りの雰囲気となる。

「私はあの日から運命というものを信じるようになった。どんなに拒んでも避けられないものが、必ず人には存在するのだと。運命という言葉自体は嫌いだけどね。
 それで、だ。私が何を言いたいのかというと、私はあらゆる物事には少なからず運命――君の言うところの必然というものがあると思っている。偶然だと思って起きた出来事、そこに何かしらの縁があり、起こるべくして起きた、と」

 だから、とゴッゾは言葉を繋げる。

「君はリオンの前に突然現れた。[召喚魔法]という確証はないが、何かしらの結果の果てに、確かに君はリオンと出会った。君にリオンと出会う意図はなく、リオンに君と出会う意思はなかっただろう。だが――

「それでも俺とリオンは出会った、ですか? そこに何か意味はあると?」

「その通りだよ。少なくとも私はそう思う。[召喚魔法]は縁のあるもの同士を惹きつけあい、召喚対象を召喚する魔法だという。リオンは[召喚魔法]を使えはしないが、これによって君がリオンの元に呼び出されたというのなら。ほら、君とリオンとは縁があるということになるだろう?」

「極論ですよ、そんなの」

 ゴッゾの持論に、ジュンタは小さな声で反論する。ゴッゾも恐らく、自分が無茶苦茶なことを言っている自覚はあるだろうから、矛盾点を述べたりはしない。

「俺とリオンが出会ったことに、そんな深い意味なんてないですよ」

「そんなことは分かっているよ。だが、可能性がゼロという訳ではない……それに事実、リオンは君と出会ってから毎日楽しそうにしている。私にとっては、君を欲しいと思う理由はそれだけで十分なのさ」

 微笑を浮かべ、ゴッゾは部屋の出口へと向かう。

「親としては、娘には楽しい一時を送って貰いたいじゃないか。特に母親を早くに亡くさせてしまった、愚かな父親としてはね。
 それじゃあジュンタ君。知っていると思うが、君が騎士として働くことになるのは明日からだ。今日一日、ゆっくりと考えてくれるといい」

 背中を向けたまま、ゴッゾは手を振ってジュンタの部屋を後にした。

「結局、何をしに来たんだあの人は?」

 ジュンタはゴッゾが部屋にやってきた意味を、彼の言葉以上に察することは出来なかった。まるで本当に娘のためだけに、秘書になって欲しいと言いに来た、そんな感じだった。

 ジュンタは首の後ろに手を当てつつ、

「まぁ、いっか。本当に何か目的があるなら、その時分かるだろうしな」

 その時、自分の身に面倒な事態が起きないことを、ただただ祈るばかりである。

 そして最後に、いなくなったゴッゾの背中――大きな背中を思う。
 ふと感じたことだが、その背中には少しばかり、ジュンタには見覚えがあった。

「父親、か。でもあの言い方はまるで……」

 起きたサネアツが肩に登ってくる。
 心配そうな瞳でこちらを覗き込んできた。きっと、今自分の顔はとても不安そうな顔をしているのだろう。
 
 根拠はない。ただの感覚でしかない。だけど、ゴッゾの言い方はまるで……

「リオンが、もうすぐ死んじゃうみたいな言い方じゃないか……」

 

 


       ◇◆◇

 

 


 ワイバーンとの戦いにより、大けがを負ったジュンタには長い休暇が用意された。

 身体を休め、心身ともに健康な状態に戻せ、ということなのだろう。

 その休暇の最後の一日――朝食を食べ終わったジュンタは、サネアツと中庭で話し合っていた。
 最近は悩み事が多くて、サネアツと話す機会も少なかった。ここらで色々な情報を交換するのも大事だろうと、そういう流れでここに来た次第である。

 話し合いの場に中庭をチョイスしたのは、自室はなんだかジメジメしていたし、他の場所だと働いている人たちの姿が目に付き、居心地が悪いからだ。もう身体は治っているので、サボっているような気分になってしまう。

 従って中庭をチョイス。
 
 いくら屋根のある休憩所があっても、雨が降っている今日日に中庭に来る人間はいない。そういう判断で選んだ中庭には、予想通りに人影を見ることはできない。内緒の話をするには、最適のロケーションである。

 木で作られたベンチにジュンタは腰掛け、隣にサネアツが座った。
 二人の会話の内容は、もちろんジュンタの周りを取り巻く状況のこと。

 あまりに混沌とした現状に、ジュンタは最初何を話題にするべきか悩んだ。だが、まず初めて聞いておくべきことは『救世主』のことと『ドラゴン』のことだと考えた。

 質問を受けたサネアツは、説明が難しいのか、声のトーンが少し落ちている。

「救世主か……まぁ、やはりそこから来るのが定石か。騎士とか秘書とかは、ある意味ジュンタだけの問題だしな。
 良いだろう。俺が思い出したことを話そうではないか」

「助かる。なる気はないけど、事情は知っておいた方が良いって思い知ったからな。ドラゴンの知識もあれば、ある程度の予防策も取れるだろうし……取れると良いなぁー」

 知識があるだけで予防策が取れる相手だといいと、ジュンタは心底思った。が、自分で言っておいてなんだが、これまでの情報を統合するとドラゴンの予防策が取れるとは思えなかったのも事実だ。

「まず前もって言っておこうか。俺としても、全てを全て正しく理解しているわけではない。俺に情報を与えた人物……これがとんでもない悪女なのだ。歪んだ知識を植え付けられている可能性がないとは限らんからな」

「情報を与えてくれた悪女……? 誰なんだ、それ?」

 日本に住んでいたサネアツが異世界の情報を持っていたのだから、そりゃ情報をくれた人物がいるのは当然だ。

 ただ悪女。変人であるサネアツが悪女と呼ぶ相手……そこはかとなく不安である。

「ああ、接した時間は僅かだが、あれは悪女以外の何者でもない。リトルマザー、そう名乗っていたが、それが本名だとも思えんし……」

「思えないし?」

「あの輩はどう考えても思考回路がぶっ飛んでいる。常識人の俺からすれば、とてもじゃないが理解が及び付かん。あれを変人、いや、変態と呼ぶのだろう。露出狂だしな」

「……うん、なんだか色々とツッコミ所満載だけど、取りあえず大丈夫。変人には慣れてるから」

 主に初めて遭遇した変人。今、アンニュイな吐息を吐いている幼なじみのお陰で。

「そうか? それならいいが……ともかく、俺はそのリトルマザーから情報を聞いた。そんな彼女が言うに、ジュンタには救世主となるに相応しい特殊な技能があったという話だ」

「特殊な技能? 俺、今までの人生でそんなものがあることに気付かなかったけど?」

「自覚を持つには難しい技能であり才能らしいからな。だがそれは世界を救う可能性すら持つ、特異な才能であるらしく――

 サネアツがその時、急に口を閉ざした。と同時にジュンタの視界の隅に人影が映る。
 
 人影の気配を先に察したのだろう。自分以外にはただの子猫だと偽っているサネアツは、膝へと昇ってきて丸くなった。

 見事な猫の振り。そして危険回避である。

「ここ、どう考えても人なんて来そうにないから選んだのに」

 徐々にこちらに近付いてくる、妙に紅色が多い人影を見て、ジュンタはこれ以上サネアツから話を聞くことは難しくなったと確信した。

 なぜなら近付いてきた少女は、厄介事の代名詞――リオン・シストラバスだったからだ。

 秋だというのにノースリーブのドレスを着て、かなり露出の高い服を彼女は着ている。
 紅の髪と肌の白さが見事なまでにマッチしていて、女としての色気はないが、少女としての色気を感じさせる、健康的な色気を醸し出す服装だ。

 彼女は淀みない足取りで、小雨がぱらつく中、傘も差さずにこちらに向かってきている。

 いつも通りの、自分の前でいる時の――あの勲章授与の時以外で――不機嫌そうな表情で、リオンは腕を組んで休憩所までやってきた。

 それは二日前、騎士勲章を渡された時からの久しぶりの邂逅であった。

 水滴が彼女の紅い滑らかな髪に張り付き、ドレスに少しばかりのシミを作っている。それをまったく気にしていないというのは、リオンにしては少しおかしい。

 彼女なら雨に濡れないように、誰かに傘を持ってこさせたり、代えの服を用意させたりするぐらい平気でやりそうなのだが……いや、あくまで予想に過ぎないが。

 話の良いところで現れたリオンは、休憩所にやってくるなり、ジュンタの座っているベンチに一直線で近付いてくる。

 休憩所にはジュンタの座っているベンチ以外にも、三つのベンチが置いている。だから雨に濡れた中庭を見に来た、というわけではないということになる。分かりきっていたことだが…………どう見ても楽しく談笑しにきた雰囲気ではない。

 勲章授与式で見せた神々しさなど、なんのその。
 いつも通りの優雅で気品溢れる高飛車オーラを身体から発し、リオンは見下ろしてくる。

 そして第一声――

「あなた、何を考えていますの?」

 意味が分からない。彼女の第一声が、明確な意味を表現していたためしがない。

 ジュンタは我関せずのサネアツを、撫でる振りをして高速で摩擦しながら、

「……どういう意味なんだ、それ? 悪いけど、主語をはっきりさせてくれ」

 と聞き返す。

 ピクンとリオンの眉が動き、指でトントントンと、苛立たしげに組んでいる腕を叩く。

「呆れましたわ。分かりませんの? この状況で、私が問題視する点など一つしかないといいますのに」

「と言われてもなぁ……」

 リオンを不機嫌にしそうなことなど、幾らでもある気がする。むしろ好ましく思われているところが考えられない。リオンにとって、自分は全てが気にくわないんじゃないかと邪推して、それが邪推じゃないと感じられるぐらい、考えられない。

 ジュンタは自分の身体と周りを一通り見てから、自分の膝の上にいるサネアツの首根っこを掴み上げ、持ち上げる。

「これか?」

 リオンはサネアツを妙に気に入っているので、気に食わない相手と一緒にいることが気にくわないのではないか、という判断。
だが今回は違っていたらしく、絶対零度の瞳でリオンは首を横に振った。

「確かにそれも気に入りませんけど、今は別問題を重視いたしますわ。
 聞きますが、あなた。どうして私が差し上げた剣を持っていませんの?」

 今までにない悪寒。リオンはどうやら、本気で怒っている様子である。

「あの剣なら、部屋に置いてあるけ――

「あなたバカじゃありませんのっ! 騎士たるものが、剣を帯刀していないとは何事です!!」

 ジュンタの返答に覆い被さるように、リオンの怒りは爆発した。

 彼女はどうやら、あのシストラバス家の騎士の証である剣――紅の刀身のドラゴンスレイヤーを持っていないことに怒っているらしかった。

「いいですの? あなたはまだ二日前に騎士になったばかり。それ以前に騎士の礼儀と教えを受けていたわけではありませんから、私もそこまで怒りはしません。
 ええ、ですから代わりにここで教えて差し上げますわ。いいですか? 騎士ジュンタ。騎士の剣とは騎士の誇り、片時でも傍から離しておくなど言語道断でしてよ」

「うっ、でもずっと持ち歩くには、かなり重いんだけどあの剣。いや、何とか持ち上げられはするけど、常に帯刀しておくと疲れが二倍以上――

「それこそが騎士の誇りの重みと言うものですわ。それを背負わずして、何が騎士です! どうやら、あなたにはまだ騎士であるということがどういう意味合いを持っているか、まったく分かっていないようですわね」

「そりゃ、騎士になってから、というか強引にさせられてから今日で二日目だからな」

「いいでしょう。あなたを任命したのはこの私。あなたが騎士として相応しくない振る舞いをしたのなら、それは私の恥とするところ。仕方ありませんから、あなたに騎士としての教えを説いて差し上げますわ。光栄に思いなさい!」
 
 髪をかき上げ、そっぽを向きながらリオンはそう宣う。

 全力で遠慮したい。

 心の底からの願いが口から出る前に、ジュンタは脳裏に、ふと彼女の父親の言葉を甦らせた。

――親としては、娘には楽しい一時を送って貰いたいじゃないか。特に母親を早くに亡くさせてしまった、愚かな父親としてはね――

「…………」

「ちょ、ちょっと、何か答えたらどうですの? もちろん、嫌だとはいいませんわよね?」

 頬を軽く染め、少し挙動不審気味にリオンは確認を取ってくる。
 騎士であることを誇りに思っているリオンだ。こっちが騎士としての振るまいができないことが許せないのだろう。妙に強引である。

「……分かった。付き合うよ。どうせ暇だしな」

 どうせ逃げられない――そう判断したことにし、ジュンタはリオンの申し出に頷き返す。

 リオンは頬を更に赤くし、一瞬笑顔を浮かべる。しかしすぐにすました顔に戻って、

「ふんっ、さっさと返事を返すのも騎士の礼の一つですわ。どうやら礼儀作法を一から教授しないといけないようですわね。今日一日だけではとても終わりそうにないですわ」

 そんな、悪夢みたいなことを言った。

 ジュンタは数秒前の自分をはたき倒したいと思いつつ、これからの自分の災難に思いを馳せる。
そして道連れだと、サネアツをむんずと掴んだまま、リオンに『お手柔らかにお願いします』と言おうとした瞬間、

 ――鐘の音が、屋敷中に響き渡った。

 高らかに鳴り響く鐘の音。
 綺麗な音ながら、それは非常事態を告げる音だった。

 ジュンタの目の前で、ご機嫌そうな顔をしていたリオンの雰囲気が一変する。表情は真面目なものになり、目つきは鋭くなる。そして真っ向から笑いかけてきた。

「ちょうどいいタイミングですわね。あなたに我が家の騎士の戦い様というものを見せて差し上げますわ」

 どうしてこうなるのか? 起きる事件には、ことごとく関わらなければいけない星の下に生まれてきたというのか? 

ジュンタは自分の生まれに疑問を抱きつつ、ガクンと肩を落とす。

「オテヤワラカニオネガイシマス」

 思わず手放してしまったサネアツが、元気を出せと足をポムポムしてきた。

 

 


       ◇◆◇

 

 


 ランカ北地区は聖神教が勢力を伸ばしている地区である。
 他の地区に比べれば広さも暮らしている人も少ないが、他の地区よりも美しい街並といえるかも知れない。

 街並は白い石造りの建物で統一されている。

 白とは清廉潔白を表す色。聖神教の象徴たる金色は物が物なので高く、限られた場所でのみ使われているが、金色に次ぐ聖神教の色たる白は、庶民にも多く浸透されている。聖神教の聖地ラグナアーツは、白い都とも呼ばれているぐらい白一色だという。

 少しでも神に近付きたいという気持ちの顕れか、聖神教が勢力を伸ばしている場所――即ち聖神教の敬遠な信者が暮らす場所は、多く白い景観を作っていることが多い。

 他にも緑溢れる公園や、教会などの宗教施設が他の地区より多く建造されているのもランカ北地区の特徴である。

 平日である今日は、休日よりは少ないがそれでも決して少なくない数の人が往来を行き交っている。

 白い衣を羽織った聖職者などの姿も垣間見られるが、ほとんどは普通の格好をした人である。
 いくら北地区が敬遠な聖神教徒が多いと言っても、何も毎日お祈りをして生活をしているわけではない。東や西に比べれば劣るが、それでも多くの店が開かれているのだ。

 そんなランカ北地区の、とある広場――ある聖者の姿を形取った像のある噴水を中央に、広く場所を取った広場だ。

 休日にもなれば屋外ミサなども開かれるその広場は、平日には市民の憩いの場所となる。

 だが、それは今日に限っては雰囲気を違えていた。

 広場のシンボルでもある聖者の像は、身体を半ばから断ち砕かれていた。爆発を受けて砕けた上半身は、その下の噴水の下に無惨にも転がっている。

 いつも綺麗な放物線を描く噴水は爆発の影響か、噴水以外の場所にその澄んだ水を放出し、噴水の周りは水浸しとなり、それは徐々に範囲を広めていく。

 広場にいた市民たちは一カ所に固まり、震えながら噴水へと視線を注いでいる。

 耳をつく泣き声は、幼い子供のものだ。
 憩いの広場であるはずのそこは、現在、ピリピリとした空気で満たされていた。

 その空気を作り出したのは、今から数十分前に起きた爆発――炎の魔法による、人為的な爆発である。
「…………」
 爆発を起こした魔法使いは、噴水の縁に腰掛けている。その腕の中には、泣き叫ぶ幼い子供の姿があった。

 ローブを纏い、フードを被ったその魔法使いを囲むように、噴水の周りには五人の同じ姿をした魔法使いたちが立っている。その誰もが手に杖を握り、フードの奥に隠された目はギラギラと光輝いている。

 魔法使いによる、聖神教の聖者の像への爆破活動。
 街中での不法な魔法の使用に、聖神教会の品を傷つけた行為。そして人質を取って他の市民を脅す行為――魔法使いたちは紛れもない犯罪者であった。

「まずいですわね」

 広場の光景を遠目から観察していた、紅の鎧姿のリオンが苦々しげな口調でそう言った。

 隣でリオンの言葉を聞いたジュンタは、何が、と問う前にどうして自分が彼女の隣にいるのかということに疑問を抱く。リオンほどしっかりした鎧ではないが、軽く鎧などを着込んでいて、腰には鞘に入った剣が。

 とても重たい、という実感よりも、どうして自分がこんな場所でこんな鎧を着ているのかという疑問の方が大きい。

 いや、状況は理解している。そしてどうして自分がここにいるのかということも、もちろん分かっている。決まったのはつい先程のこと。まだ忘れてはいない。

 現在ジュンタがいるのは、広場から少し離れた建物の陰。
 件の事件が起きている広場が一望できる、少し小高い坂の上である。

 それほど広くない坂の上には、現在ジュンタとリオン以外にも八人の人間がいる。その全員が男。もっと言えば、紅の鎧を着たシストラバス家の騎士である。
 
 その内の一人。苦手とする騎士エルジンが、リオンに対して話しかけた。

「リオン様。どうしますか?」

 今、広場の状況を一番よく理解できているのはリオンだろう。なぜなら他の騎士の手にはない、双眼鏡に似た器具が彼女の手の中にあるのだから。それで広場の詳細を見ることができているのだろう。ジュンタの目には、広場の様子は大まかにしか分からなかった。

 双眼鏡を目から離し、今いる騎士の中では高位にいるエルジンへとリオンは渡す。

「そうですわね。敵は大した数ではありませんけど、人質がいるとなると話は別ですわ」

 真剣な表情でじっと広場を見つめるリオンの目には、魔法使いたちへの怒りの炎が燃えていた。それは他の騎士たち、そしてジュンタもまた同じだ。魔法使いが人質を取って広場に立て籠もりのようなことをしていることは、正しく理解できていた。

 犯罪だ。許されざる犯罪行為だ。

 犯人の腕の中で泣き叫んでいる子供の悲痛な叫びが、風に乗ってここまで届いてくる。その泣き声は心に怒りを沸かせる……まぁ、それでも、自分の存在が少し場違いな気がするのは否めないのだが。

「人質の数は十数名。敵は恐らく異教徒の魔法使い。聖神教を深く信仰するこの地区の人質の身は、非常に危険な状況といえます」

 双眼鏡で広場の様子を確認したエルジンの言葉は、他の人よりもいくらか冷静そうだった。

「異教徒……今世間を騒がせているベアルの異教徒で相違ないようですわね」

「ベアルの異教徒?」

 隣で呟いたリオンの言葉に、つい口を挟んでしまった。
 緊迫した状況なので、役立たずな自分は無言でいようと決めていたのに、一度だけ聞いたことがあった単語に思わず口が滑ってしまった。

 リオンの視線はジュンタへと一瞬向けられる。
 口を挟んでしまったことに対し、叱咤されるかと身構えていると、

「ベアルの異教徒というのは、私たちのような聖神教の信徒とは違う、他の信仰をしている宗教団体のことですわ」

 意外にも、リオンは視線こそ広場へと戻したが、ちゃんと説明をしてくれた。

「全世界の九割以上が聖神教の信者ではありますが、世界は広いということでしょう。決して少なくない数の宗教が世には存在しますわ。もっとも、聖神教とは比べものにならないくらい矮小な信者の数ですけれども」

(そりゃ、世界の九割以上の宗教に比べたら月とスッポンだろうよ。俺にはどちらかというと、聖神教の方が異常に見えるけどな)

 リオンの説明に耳を傾けていたジュンタは、内心そんなことを考えた。もちろん口には出さない。いや、出せない。

 異世界で最も幅を聞かせているのは聖神教である。
 この聖神教、驚くことに世界の九割以上を信徒とする超大宗教団体なのだ。

 そんな神聖教をグラスベルト王国は国教としている。そしてそれ以外の宗教――話に上がったベアル教という宗教などを、異端としているのだ。内心考えたように、聖神教をバカにする発言は色々とまずいことに発展する可能性が高い。

 宗教になど縁遠き人生を送ってきたジュンタからしてみれば、他宗教を異端と見なすやり方の方にも疑念を抱かざるがえないのが実際のところ。他の宗教を信仰しているからといって迫害するというのは、馬鹿げたこととしか思えない。

「ベアル教はこの大陸で主に活動している宗教団体の一つで、他の宗教団体とは違って他の宗教団体に対する攻撃を行っていますの。王都や聖地の方では、過激なテロが一月に一回は行われているそうですわ」

 ただ、それでも彼らベアル教の信者に憤慨してしまうのは、彼らのやり方があまりにも人道に反しているからだ。

(人質を取るなんて、いくらなんでもやり過ぎだ)

 彼らは彼らの正義に則ってやっているのだろうが、人質などを取った時点でジュンタの考える正義とは反する。彼らに対する同情は、すでに消え失せた。
これからどうするのかと、ジュンタはリオンへと顔を向ける。

 リオンは説明を終えた後、しばらくこれからの行動について考え込んでいる。

「……決めましたわ。総員、全速で現場に向かいますわよ」

 リオンの指示に、八人の返答がぴったり揃って塔に響き渡る。

 そして整列したままで、騎士たちは坂をゆっくりと下りていく。ジュンタもそれに習おうとしたところで、リオンに肩を掴まれて止められた。

「どうしたんだ?」

「今日あなたに対し、騎士の行いというものがどういったことなのかを教えて差し上げるつもりでしたが、状況が状況ですわ。人命がかかっているとなると、他のことまで考えている余裕はありません。騎士ジュンタ。あなたは他の騎士との隊列も、連携もまだ教わっていません。今回はここで待機してなさい」

 勝手に連れてこられた身としては少し反感を覚える言葉だが、見事なまでの正論である。
 自分は役に立たない。それは紛うこと無き事実だと、この場で一番理解しているのは他ならぬ自分自身だった。

「分かった。ここで待機してればいいんだな?」

「ええ、素直でよろしいですわ。このハイ・レンズを貸して差し上げますから、あなたはここで私の勇姿をご覧になっているがいいですわ」

 指示に首を縦に振ったジュンタに、双眼鏡のような物を渡してリオンは坂を駆け足で下りていった。

 一人取り残されてしまった。

(まぁ、これはこれでよかったはよかったよな)

 ジュンタの心の中に、置いていかれたことに対する寂しさはなかった。自分が騎士のような、戦う人間ではないことは理解していたからだ。

 しかし、一抹の懸念はあった。ただ、リオンの身だけが心配だった。

「ってあれ? どうして俺、こんなにあいつのこと心配してるんだ?」

 ハイ・レンズを覗き込んだところで、ジュンタはそんな疑問を抱いた。

「リオンの奴の強さは分かっているし、心配することなんて……」

 そう分かっているのに、どうしてか、胸に焦燥のようなものが込み上げてくる。

 怪我をしたらどうしよう? なんてことを考えてしまっている。

 ワイバーンを二体相手にし、勝ったという事実を知っているため、彼女が強いということは知っているのに……どうしても、胸を差す不安をぬぐい去ることはできなかった。

 それから数分後――レンズの中にリオンの姿が映ったとき、その焦燥はさらに激しさを増したのだった。


 

 

 


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