第十話  忘れない





 すでに空洞の半分には水が溜まっている。

 元々、数ヶ月の間だけ耐えられればいい設計になっていた地下アジトだ。
 この段階で浸水がここまで酷くなるのは、十分予想の範疇にある。だからこそ、捕らえた少女の体力と気力を奪うのに利用したわけだが……これがかなりの成果を見せてくれた。

「素晴らしい」

 紡いでいた詠唱を止め、ウェイトンは歓喜に顔を歪める。


 どんなに苦しくても、絶望的な状況だとしても、魔力の一滴まで費やして戦っていた少女が、今ではただ囚われの姫でしかない。なんの力もない、絶望に涙する少女でしかない。

 何も見えない中、冷たい水が徐々に水かさを増していく恐怖というのは、こうも簡単に人の心を崩す。無論それだけでは、内罰的で、偽りの仮面を幾つも被った彼女を追いつめられはしない。が、そこに『偉大なる書』の反転による悪夢の投影を向けられれば、誰もが自分の本性に屈するしかない。

「ああ、素晴らしい。素晴らしい。これほどまでに深く暗い闇を、私は見たことがない」

 完全に水に包まれた――否、水ではなく黒い魔力によって繭のように包まれているクーヴェルシェン。その心の闇を写す輝きに敬意を示し、ウェイトンは飽きることなく賞賛の言葉を贈る。

「あなたに何があったのか、非常に興味があります。これほどの絶望。これほどの孤独。これほどの否定。あなたはなぜ、そこまで自分を拒絶するのです? 
 いえいえ、知る必要はないのでしょう。私が望むのはただ一つ。美しきあなたが、我らが夢に辿り着いてくれることだけ。美しきドラゴンへと反転してくれることだけなのですから」

 光が大きければ、また反転した時の闇も大きいということか。
 優しく清き魂を持ち、犯した罪の重さに押し潰されながらも良くあろうと生きてきた少女の闇は、ウェイトンですら息を呑むほどの大きさだった。

 
これまで幾度となく色々な材料で儀式を行ったが、これほどの存在感を発する闇を発現させたのは彼女が初めてだ。


「ああ。もしかしたら、人はこれを恋い焦がれるというのかも知れませんね。
 クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。私はあなたに恋い焦がれているのです。もうこの想いを抑えきれません。さぁ、仕上げといきましょうか」

 はやる気持ちを抑えきれず、ウェイトンは『偉大なる書』を再度読み上げようとする。

 このままでも十分反転は起こるだろうが、それまで待てない。ベアル教の夢が成就するかも知れないのだ。いや、実現する。これまでの実験を見てきた経験と、ベアル教の導師としての感がそう告げていた。

 必ずや、クーヴェルシェンが反転した姿は、魔獣の王であることだろう。その確信があるのに、待てるはずがない。


 ウェイトンは胸までせり上がってきた水に構うことをせず、

「私に夢を見せてください。誰もが持つ、自分勝手な救いの夢を。その夢を叶えるために、殺戮の獣となったあなたの姿を! 私はそんなあなたを永遠に愛しましょう!」

 一枚書のページを捲り、ウェイトンは狂気の笑みと共に、次なる詠唱の言葉を唱えようとして――

「っ!?」


 ――視界の隅に魔法光の輝きを見て、即座に水の中に回避をはかった。

 暗い闇色に輝く洞窟内に、茶色の魔法光が輝く。

(誰です一体? 私の、ひいてはベアル教の念願成就の瞬間を邪魔だてをするのは? いえ、それよりも、どうしてこの秘密の神殿に賊が?)

 さっきまでウェイトンのいた場所に石の槍が突き刺さっていた。それが侵入者の行使した魔法――茶色の輝きならば地の魔法か――によるものであるのは間違いない。

 近い場所で魔法光が輝いたため、近い位置に魔法使いがいるであることは必然。が、どれだけ水の中から周りを見ても魔法使いの姿は確認できない。

(どういうことぐぁっ!)

 ボコリと口から空気が出るのと同時に、ウェイトンの身体が水中から激しく上へと叩き出された。

 再び魔法光が輝いたのと同時に、地面の石が柱となって強襲してきたのである。すでに自身の身長すらも呑み込んだ水面の上を、敵を捜そうと見ていたウェイトンは不意をつかれ、せり上がった床石の直撃を受けて水面に落下する。

 

水中で弾き飛ばされたために、ダメージは少ない。しかし水中の鈍い動きでは、次の攻撃も避けられまい。

(くっ、ここまで来て、私に逃げろというのかッ!)

 あと少しで夢が叶う瞬間を目撃できるというのに、ここに来て姿の見えない謎の襲撃者とは。


 血が出るほど歯を食いしばってから、ウェイトンは部屋唯一の出口を目指して泳ぐ。

(……あの状態ではすぐにとは言いませんが、直にミス・リアーシラミリィは反転する。それを拒み、あの闇を晴らすことなど、それこそ不可能なこと)

 歯がゆいが仕方がない。魔獣を操ること以外に戦う術を持っていないウェイトンは、自身の安全のためにすぐにこの場から離脱する道を選んだ。

 出口に辿り着き、ウェイトンは階段を駆け上がって部屋を後にしようとする。

「我が神さえ力を貸してくだされば、どのような賊でも敵ではない。覚えていなさい。神聖な儀式を汚した報いは必ず与えます」

 最後に一度振り返って、愛すべき闇の輝きを瞳に焼き付けつつ、姿の見えない襲撃者にウェイトンは憎悪の言葉を置いていく。

――生憎と、それはあり得ぬ話というものだ。姫君は王子様に助けられる定めと決まっているのだからな」

 そんな声が返答として返ったことを、地下の実験場を後にしたウェイトンが知ることはなかった。







 階段を駆け上ったウェイトンは、そこにいた教団員が焦っているのを見て、盛大に眉を顰める。

「ウェイトン導師! 大変です! 地上が大変なんですっ!」

「そんなに慌てて、何が大変だと言うのです?」


「エットーの街の騎士団がやって来て、地上のゴブリンたちが掃討されました! グリアー様がオーガを足止めに向かわせましたが、多勢に無勢というしかない状況です!」


「なんですって? 一体どれだけの数の騎士が来たのです?」

「総勢百名近く、バーノン伯爵家騎士団の騎馬隊のほとんどです!」

「なっ!? なぜそれほどの数が!?」

 思いもよらない部下からの報告に、ウェイトンは声を荒げて驚く。

 一応保険のために、オーガとグリアーという戦力を地上に配置していたが、相手が騎士百名とは予想していなかった。オーガが十体いて、自分がその場にいたら何とかなるかも知れないが、生憎と七体しか揃えられていないとなると、正規の騎士団相手は厳しい。

「まさか、あのどうしようもなく愚かな領主が、それほどの人員を派遣したというのですか? 
 
そうならないと思って、この場所を実験場に選んだというのに……まぁ、いいでしょう。元々撤収の予定だったのですから。わかりました。すぐに撤収するとあなたは皆に伝えてきなさい」

「はいっ!」

 部下がさっさと走っていってしまったのを見送り、ウェイトンは問題にさらなる問題が重なったことに苛立つ。

「……あの反転の魔力の中ならば、窒息の心配はないでしょう」

 部屋に置いてあったクーヴェルシェンの帽子と、その上に乗った見知らぬ本を横目で見やり、それから端に置いてあったとある仕掛けのスイッチを押し込む。

 足の下で壁が崩れ、水が勢いよく流れる音を耳にし、ウェイトンは一つ頷く。

 これでこれまでにも増して、地下実験場には水が満ちる。それに加えて、入ってきた水の排出口と、唯一の出口も塞がれた。通路が崩れた階段を通れるのは、小動物程度のものだろう。謎の侵入者も溺死は免れない。


「これで脱出は不可能。ミス・リアーシラミリィ。あなたはもうドラゴンにならない限り、生きてここからは出られませんよ。だから早く楽になってしまいなさい」

 地下の崩壊と連動して、徐々に崩れ始める地下の神殿――脳裏に浮かぶ黒い輝きを思いつつ、ウェイトンは地上目指して走り始めた。






       ◇◆◇







 暗い闇に抱かれて、クーは水中を漂うようにぼんやりとしていた。

「私は結局、あの方にお会いしたかったのでしょうか?」


 闇に向かって、クーは呟きをもらす。

耳には水が勢いよく流れる音。暗い闇の向こうでは何かが起きているらしいが、そんなことはもうどうでもよく、今興味があるのはただ一つだけ。自分のことだけだ。

 ……そう、結局自分は、自分勝手な人間だったということ。


 かつての罪の贖罪に自分ではない誰かに憧れて、挫折して、憧れの人を助けられる人間になろうと夢見た。……
だけど、それは自分自身を『綺麗な人間』だと思いたかったがための、嘘でしかなかったのだ。

 憧れた人になろうとしたのは、なることで世界に許されようとしただけ。
 憧れの人を助けられる人になろうと夢見たのは、その人に許されることを望んだからに過ぎない。


 全てが全て自分のため。自分の本当の願いに、自分以外の誰かのためにと思う気持ちは一切存在しない。

 なんて醜くて汚い、酷い女。こんな女、巫女として求められず、見捨てられて当然だ。


 自分ほど信じられない相手はいなくて、この世で最も憎しみと蔑みを向けている存在はいない。何よりも自分が嫌いなのだから、そんな女を求めて貰うことの方が間違っている。

自分に許されたことは、きっと夢を見ることだけだったのだ。

決して本当に叶えてはいけない夢を見ることだけが、こんな汚れた自分にも許されたことだったのだ。

でも叶えてしまった。巫女として、選ばれてしまった。それが間違いだった。

 迎えには誰も来てくれなくて、自分から迎えに行くための旅に出て、それでも見つからなくて嘆いていた。会えないことを憂い、巡り会えないことを悲しみ、縁が繋がってはいないのだと疑った。


 …………本当にそれが真実の気持ちだったのか、今ではもう自信がない。

 

 本当に見つけようと思ったことなんて、実際はなかったんじゃないかと、クーは今ではそう思っていた。

 巡り会ってしまえば失望される。白い眼で見られる。汚い本性を見抜かれて、そっぽを向かれてしまう。

 
そうわかっていたのだから、本音では会いたいと思っていなかったのではないだろうか?

 誰も絶望するのがわかっていて、それでも自ら絶望しに赴く人間なんていないだろう。そうだ。そうに違いない。自分は、本当は会いたくなんてなかったのだ。

 寄り道して、困っているグストの村の人々を滞在の理由に利用して、そうやって逃げ惑っていたのだ。

 なんて、汚らわしいのだろう。これではドラゴンを神と呼ぶベアル教と、何ら代わりないではないか。いや、それも当然か。だってクーヴェルシェンという少女はそもそも……


――だから……俺がこんなことを言うのもなんだけど、クーが認めて欲しい人も認めてくれるさ。よくやったって、頭を撫でて褒めてくれる。絶対だ。クーが褒められないなら、他に褒められる資格を持ってる奴なんていない――


「ジュンタ、さん……?」

 ふいに、クーは優しい男の人がかけてくれた言葉を思い出す。

 全ての想いを払拭して、それがまるで全てであるかのように、疲れた思考の中にその声は響く。

 認めてくれる。頭を撫でてくれる。褒めてくれる、絶対に――そう、太鼓判を押してくれた人がいた。

 本当に嬉しかった記憶だ。悪夢の記憶で満たされた中では、望みようもなかった幸福の記憶だ。

 でも、なぜ今になってあの笑顔が思い浮かぶのだろう? それは確かに救われた優しさだけど、それでも自分の過去全てを打ち消せるものではなかったはずだ。

 ジュンタ・サクラ
――

 巡り会ったあの旅人は、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの罪を知らない。存在の本質を知らない。彼が語ったことは、何も知らない部外者の言葉なのに…………どうしてこんなにも心を温かくするのだろう?

(ああ。そう、なんだ。ジュンタさんは、きっと……)

 クーは気付く。

 それはまるで、それが絶対であるかのように。
 例え全てを知っても、変わらない絶対であるかのように。
 その言葉は、何があっても変質しない優しさでできていたのだ。

 あの人なら否定はしない。こんな自分を否定しない。きっと、受け入れてくれる。そう思えたのだ。

 だからこそ思い描いた。そんな彼の姿こそ、自分の思い描く主の姿そのものであって欲しい、と。
 きっと自分の使徒様も彼と同じように、自分の存在を受け入れてくれると信じたかったから――彼の言葉で信じることができたから、もう少しだけがんばろうと思ったのだ。

 数日間の間。ずっと一緒にいた、純朴な笑顔を持つ優しい人をクーは思い出す。

 戦おうとした姿。剣を砕かれた悲しそうにしていた背中。アイマスクをして眠っているところは少しおかしくて、剣に誓いを述べた凛々しい横顔には頬が熱くなった。

 そして――

――バカ。それくらい、甘えてもいいんだよ――

 ――一番強く思い出すのは、握ってくれた手の温度

「………………いいんですか? 私……甘えても、いいんですか……?」

 悪夢の中、唯一優しい姿を見せる笑顔に、クーは問う。

「ジュンタさんの優しさに、甘えてもいいんですか? こんな私でも、綺麗になりたいって、憧れてもいいんですか?」

 どうしようもなく胸が痛い。恐怖や空虚を押しつぶすほどに、緊張で胸が痛い。

 自分の醜さが全て明らかになった今、もはや隠す必要のない正直な気持ち。
 理由や理屈を超えて理解できる、今クーヴェルシェン・リアーシラミリィとして終わりかけている自分の、最後の最後の醜い願望。

 打ちのめされたクーに残ったものは、『したいこと』と『したくないこと』の二つだけ。

「身勝手に、全ての気持ちを無視して、ただ甘えていいのなら。私は……」

 旅人として求めた人に会いたいのか? 
 巫女として求めた人に会いたくないのか?


 全てを受け入れた今のクーは、限りなく捨て鉢で、だけど正直だった。

 だからそれが嘘偽りない、心からの素直な気持ち。


「私は――――私を選んだくれたあなたに、一目お会いしたいんです」


 それは助けて欲しいからか? 救って欲しいからか? 

 そうだろう。それはもう認めた。そう自分が願っているのは、否定しようがない。……でも、それだけじゃなかったはずだ。

 
「こんな私にでも優しくしてくれた人がいました。元気づけようとしてくれた人がいました。そんな人たちのために、巫女になろうとしたのは決して嘘じゃない。自分自身は否定できるけど、出会った笑顔や握った手のぬくもりは否定できない。いえ、してはいけないんです!」

 クーは暗闇の中、藻掻く。瞼の裏に刻まれた光のために、必死で藻掻く。


 この世で最も信用できないのは自分だ。

だけど、そんな自分に優しさをくれた人たちは、世界で一番信用できる。


「フェリシィール様、おじいちゃん、クレオメルン様……ジュンタ、さん!」


 周りは暗闇。一寸の光もない闇――だけどそれでも、クーには信じられる光がある。

決して譲れない縁がある。そのために例え自分が絶望しようとも、してはいけないことが、しなければいけないことがある。


「ドラゴンになんてなるわけにはいきません! なりたくありません! それは、こんな私を選んだくださったあなたを、否定することになるから!」

 クーは叫ぶ。

 クーは願う。

 クーは祈る。



 ――――そして見た。闇を晴らす、一条の虹の煌めきを。


(これは……?)


 初めて心の底から己が使徒に会いたいと思った瞬間、クーは自分の左手の小指に、虹色に輝く糸を見た。そしてその糸は、囲む闇の一部を晴らして向こう側を見せていた。

 
 身体は鎖に繋がれ、闇から脱出することはできない。

しかし糸が続く向こうに向かって、祈りを届かせようとすることはできよう。

(願います。私はあなたに甘えます)

糸の辿る先をクーは幻視する。その向こうにいるはずの人に向かって、祈りをぶつける。

身勝手な想いを、自分本意な甘えを、わかっていても祈り続ける。

 そしてずっとずっと心の中に閉じこめていた想いを、素直な気持ちで声にした。


「私を、助けてください! 私は、あなたに会いたいんですっ!!」

 祈りは水の中で泡となって、その返答の声を呼び寄せた。



――ならば喚べ! お前にとっての救世主を!!」


 

 それは幻聴だったのか? ――否、真実響いた声だった。

 若い男の人の声。その声が闇の向こうから届いた。そして、それと同時にクーの元へと、水と一緒に一冊の本が流れ着く。


 それは一冊の魔道書。忘れていた、クーの切り札になりうる魔道書だった。

(『召羅の魔道書』?! これなら、祈る以外の行為が取れます!)


 虹の糸は闇を穿ち、反転の闇の中に『召羅の魔道書』という光明を招いた。

 縁が形になったような糸が招いた奇跡を、何とか手に入れようとしてクーは首を精一杯伸ばす。

手は動かない。だからクーは酸素を失うのを覚悟で、闇と闇の中に流れ込む水の中、大きく口を開いて『召羅の魔道書』を歯で受け止めた。


――起動――!)

 自己暗示。

 魔道書の力を呼び起こすために、僅かに回復しただけの魔力を全て注ぎ込む。すると『召羅の魔道書』は淡い白い光を発して、その効果を少しずつ示していく。

(起動、し、ましたっ!)

 クーは『召羅の魔道書』がその力を発動させたのを確認して、急ぎ一つの魔法陣を組み立てた。


 それは今まで幾度となく行ってきた行為。
 
いつもは最後の工程に辿り着く前に放棄されていたが、今日は違う。完全に、最後の最後まで――[召喚魔法]の発動までを組み上げる。

 儀式魔法の媒体としても使うことができて、特定の魔法の起動を手助けしてくれる魔道書である『召羅の魔道書』――この魔道書が唯一起こす神秘とは、[召喚魔法]に他ならない。

 祖父がこの[召喚魔法]を得意とし、別の『召羅の魔道書』を保有していたため、クーもなんとかこの魔道書の手助けがあれば、最難の魔法の一つと呼ばれる[召喚魔法]を行使することが可能だった。


[召喚魔法]とは即ち、自分を儀式の触媒とし、最も縁が深い相手を自分の下へと喚び出すという儀式魔法だ

 相手がどこにいようと自分の下に呼び出せるという反則極まりない魔法だが、行使手と最も縁の深い相手だけという特性故に、決まった一人しか呼び出せない。そのため、使う人間によっては何ら意味のない魔法になる場合もある。

 しかしクーの場合、この[召喚魔法]は切り札とも呼べる、最強の魔法であるはずだった。それはつまり、喚び出せると思しき相手が最強であるということを示している。


 クーと最も縁の深い、[召喚魔法]を使った場合喚び出される相手……
それに最も相応しいのは一人だけ。

唯一血の繋がった祖父じゃない。もっと、魂レベルで繋がっているはずの唯一一人――クーが欲し求めて止まない、想い人だけである。

 だがそれは逆に、もしもこれで喚び出されなかったら、その人との間に何よりも深い縁がないと証明することになる。それは自分が必要とされていないことの証明に他ならないため、使えばすぐに会えたのに、ずっと使うことができずにいた。

 

 使う機会は今まで何度もあったのに、自分の下に無断で喚び出すのは失敬だと、ずっと避け続けてきた[召喚魔法]を――


(私はもう、躊躇しません)


 ――クーは今、ここに機能させる。

(例え見捨てられても、私はあなたに会いたい)


 この[召喚魔法]に詠唱の言葉など必要ない。水の中で声が出せないからではなく、何度も自己暗示をし続けてきたクーに、今更自己暗示のための詠唱は必要ないのだ。

 ただ、心の中でだけ念じればいい。幾度となく繰り返したその詩を。そうすれば、狂おしい想いは縁を紡ぐ。


(会って、一時でも幸せな夢を見せてくれたあなたに、お礼を言いたいんです)

  

 最後まで自分が望まれることを信じられなかった少女は、

(ありがとう、と。ただそれだけ伝えられたなら、悔いなんて何もないんです)


 自分以外の大丈夫だと言ってくれた誰かを信じ、


(ただ救いを持つあなたの笑顔を、私は見たい)


 切実なる、純粋な願いを込めて、今、[召喚魔法]を発動する。


(だから私に――


 ――御魂から肉体を描く正円

   彼の地より縁を紡ぎ 結い直す螺旋の糸

   運命を招く我が存在を鍵とし

   因果により結ばれし御身を招き寄せたもう

   御身の巫女とし選ばれた者が希う

   此処に誘わん 我が唯一の聖猊下を
――
 


――私と、会ってくださいっ!!)






 温かな、あの手の温もりを思い出す。

 縁を紡ぎ喚び寄せて、白い光は虹の光に。

 虹の光の向こうに、クーは優しい人の笑顔を――――見た。






――私はもう、躊躇しません――

 その声がどこかからジュンタの耳に届いたのは、グストの村でバーノン伯爵家の騎士たちと一緒に、オーガと戦っていたときのことだった。

 やけにレジアスがこちらを庇うため、後方でオーガが時折放つ炎球を避けていた最中のことだ。

――例え見捨てられても、私はあなたに会いたい――


「声が……聞こえる」

 声は隣で騎士たちに指示を飛ばしていたレジアスには聞こえていないようだった。ただ、ジュンタにだけ聞こえていた。

 

――会って、一時でも幸せな夢を見せてくれたあなたに、お礼を言いたいんです――

 
 それは必死に願う声。祈る声。求める声……自分を求める少女の声だった。


「これ、クーの声だ」

 透明で純粋な切実なる叫び。

 それは紛れもなく、視界には映らないけれど、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという少女の声に間違いなかった。

 ジュンタは何かに誘われたかのように、左手をそっと前へと伸ばす。

 

左手の小指には、いつの間にか虹色に輝く糸が結ばれていた。その糸は虚空へと、ずっと無限に伸びていると思わせるように先端を消している。


――ありがとう、と。ただそれだけを伝えられたなら、悔いなんて何もないんです――


「……そうか。俺を呼んでるんだな」

 この糸の先にクーがいる。そして今、自分に助けを求めている。響く声はそれを教えてくれていた。

ならば、ジュンタの答えは決まり切っている。

「レジアスさん」

「なんですか?」

「すみません。俺、行きます」

「はい、わかりました……って、行く? 行くってどこにですか? ここの戦いはもうすぐ終わりますよ? 無論、私たちの勝利で」

「俺が行くのは、俺の守りたい人がいるところにですよ」

 困惑の眼差しを向けてくるレジアスに、ジュンタはまっすぐに視線を向ける。

「助けることができないのが情けなかった。
守ることのできない無力な自分が情けなかった。
 ……でも、それでもまだ助けを求めてくれるなら、俺はただ全力でそれに応えてやりたんです。だから、俺は行きます」

――ただ救いを持つあなたの笑顔を、私は見たい――

 変わらぬ困惑を見せるレジアスから視線を逸らし、ジュンタは強い意志を瞳に込める。

「誓うよ、クー。俺は、絶対にお前を助けてみせる」

 今度こそは、と眼前に現れる虹色の魔法陣に――その向こうにいる少女に誓いを立てる。何があっても揺るがず決行するという誓いは、どこか騎士の誓いによく似ていた。


――だから私に――――

 ジュンタは虹の光の向こうに少女の姿を見つけるために、大きく息を吸って口を開く。


――――私と、会ってくださいっ!!――


「ああ、もちろんだ!」



 瞬間――虹色の光が爆発し、その場からジュンタの姿が掻き消えた。






 小さな、あの手の震えを思い出す。

 縁が紡ぐ招きに応じ、虹の光は白い光に。


 純白の光の向こうに、ジュンタは守りたい少女の泣き顔を――――見た。






 溢れる虹色の光に、一瞬にしてクーを包んでいた闇が吹き飛んだ。

 温かな虹色の光――それは綺麗で美しい、見惚れるほどの輝きだった。

 虹色によって視界が塞がる中、クーは誰かに手を握られたのが分かった。それが自分の召喚した相手であることに気付き、ゴクリと息を呑む。


 やってしまった。ついに召喚してしまった。どうしよう? 見るのが怖い。

 でもその不安は、すぐにクーの心の中から消え去ってしまった。


 なぜなら自分の手を握る手が、本当に優しくて、温かかかったから。

 闇の繭が消えて、再び水によって身体は覆われる。けど、その冷たさに身を包まれていながらも、その手の温かさだけははっきりと分かった。


 安心できる温かな温度。それを感じて、大丈夫だと思わないわけがない。


 クーは感じたことのある温かさに安心をもらって、そして、目の前にいる人をしっかりと見た。

 虹の光に包まれた、異国の旅装。
 本当に眩しい、その嬉しそうな笑顔。

 その人の瞳は証である金色をしていないけれど、

 その人の身体は神の獣の姿をしていないけれど、

 証明するかのような言葉なども一切ないけれど、

 それでも、その人の巫女たるクーには分かった――――この人こそが、ずっと探し続けた想い人。世界を救う偉大なる救世主なのだと。

 クーは自分が召喚した、使徒の一柱たる少年のその名を、万感の想いを込めて呼ぶ。


――――ジュンタ、さん」

 水の中。その声は手から想いとなって相手へ優しい旅人――ジュンタ・サクラへと伝わる。

 穏やかに笑って頷いてくれたジュンタの姿を見て、クーは、


「…………ありがとう、ございます…………」

涙と共に、救われた笑顔を咲かせた。







       ◇◆◇






 虹色の閃光が真っ白な光と代わり、その果てにジュンタは湖の妖精を見た。


 淡い輝きを残す白い魔法陣の中、四方から流れ込んでくる水の中で笑った、湖の妖精。
流れる涙は透明で、こんな状況だと言うのにしばし見惚れてしまった。

 しかしそれは彼女――クーの口から気泡が出て、彼女が苦しそうにするのを見てすぐに消え去る。今自分が何をすべきなのか、それが一瞬ではっきりとなる。


(俺が来れたのは魔法か? いや、そんなことは考えなくて良い。どうにかクーを助けないと!)


 口を固く閉じて、空気を肺から逃がさないようにしてジュンタはクーの身体を固く抱きしめる。そうしなければ、流れる水に身体を持って行かれて、彼女と離ればなれになってしまいそうだった。


 クーの声に答え、白い閃光が光ったと思ったら目の前にクーがいた。

 そんな不可思議な現象は魔法という一言で片づけて、息が続かなくて苦しむクーを助けるためにジュンタは考える。

 クーの身体を抱きしめたまま、彼女の身体を拘束している鎖を見る。

 彼女の身体を石の磔台に縛り付けている鎖は、両手に一つずつ。首、胸、腰、太股、足首に一つずつの計七つ。材質は鉄のようで、鍵で取り外しが可能な仕組みとなっている。とてもじゃないが、力業で外せそうにない。

 ジュンタは片手を腰にくくりつけた剣へと伸ばそうとして、それをすぐに取りやめる。

(剣で鎖を断つのは無理だ。こんな水の中じゃ、満足に振れない)


 クーの身体は磔台から外せない。さらに問題なのは、今彼女と自分がいる洞窟……というよりかは空洞か。その中に水がどんどんと流れ込んできていることである。

 どうやらこの空洞を作る際、無理矢理に地下水脈の途中に築き、水の流れをせき止めていたようだ。それが今、流れ出る方の壁が崩れて塞がったために、壁を崩しながらも空洞一杯に水が満たされようとしている。

 ジュンタは遙か自分の頭上を越える水面を見上げる。

 水面は、もう空洞の上限一杯近くまで満ちていた。恐らく、あともう数分もしない内に空洞内の全てが水が満たされ、空気は一切なくなることだろう。

 クーはすでに酸素不足で意識を半ば失いかけている。ジュンタだって、前もってこんな水が一杯ある場所に現れるなんて思わなかったから、目一杯空気を吸っていない。すでに息はギリギリだった。

 溺死しないためには、空気を吸ってくるしかない。


 だけど……クーの揺れる瞳を見て、ジュンタは戸惑いを露わにする。

 蒼い眼はまっすぐに自分を見つめ、そしてはっきりと物語っていた。


『私のことはいいから、逃げてください』


 笑みと共にそう言われて、本当に逃げられるとでもこの子は思っているのだろうか?


 ジュンタはもう一度強くクーの身体を抱きしめたあと、その手から自分の手を解いた。

 クーは離れた手を見て、少しだけ寂しそうな顔をした。それはすぐに笑みに戻るが、その一瞬零れた本音を見間違えたりはしない。

(この期に及んで嘘つくなんて、本当にクーは……!)

 ジュンタはクーに背を向けて泳ぎ出す――水面へと。

「ぷはっ」


 水面へと顔を出し、それからジュンタは思いきり酸素を吸い込む。
そしてすぐさま潜り、クーの下へと戻る。

 もう一度自分の下へやってきたジュンタを見て、クーは驚いてから、首を横に振って逃げて欲しいことを示す。その動きは弱々しく、だけど目は虚ろに変わることなく強い意志を示している。それはここで死ぬことを満足と思っているような、そんな全てを受け入れた瞳だった。

 ……前にも、こんな風に自身の死を認めた少女がいた。

 その死が許せなくて、認められなくて、ジュンタは問答無用で救おうとしたのだ。

 だから今回も、ジュンタはクーのお願いに、笑って首を横に振る。


(バカ。クーを置いて、逃げられるはずないだろ?)

 その想いを込めて、クーの身体を左手だけで強く抱きしめる。


(だからごめん。クー、俺はお前を救うぞ。どんなことをしても!)

 ジュンタは一度目を閉じて、それから心の中で言い訳と謝罪を述べたあと、クーの頬に右手で触れた。


「っ!?」

 一瞬で零となった互いの顔に、クーの驚きが柔らかな感触と共に伝わってくる。

 まるで流れ渦巻く水が制止したかのような錯覚――――ジュンタは
クーの唇に、自分の唇をしっかりと合わせていた。






 ――水の中で、虹の残滓が舞う。


 肌には冷たい水の温度と、それを覆す温かな人の温度。
 
 唇には、熱いほどの感情を孕んだ感触が。

 全ての醜さを受け入れて、それでも望んだ先にあったその出会い。

 ジュンタ・サクラ――我が愛しき聖猊下。

 例えこの先何があっても。クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、

 この瞬間に在った美しい光景を、決して忘れることはない――
 










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