第九話 求めの方向
馬に跨り、剣を携え、足を揃えて走る姿。
凛々しくも前を向く兜の下の眼差しは、憧れるには十分な勇猛さを感じさせる。
鋼の鎧を纏い、戦いに赴く騎士の一団。その姿はまさに威容といえよう。
オットーの街のバーノン伯爵家騎士団は今、グストの森へと続く長い草原を馬で駆けていた。
長い間、仕えるべき君主であるロン・バーノン伯爵の我が儘に付き合わされてきた彼ら、バーノン伯爵家の私有騎士団の騎士たち。
時には涙と酒が無くては語れぬ、間抜けすぎる理由で剣を振るった。いや、そんなことの方が圧倒的に多かった。
自分たちはこんな情けないことのために厳しい訓練を経て、騎士になったのではない。
そう思っていた騎士は騎士団の中にたくさんいた。明日にでも止めて田舎に帰ろうかと思っていた騎士も、中にはいた。
仕方がない。領主の育毛剤のために命をかける任務に就けと言われたら、それはもうやっていられないというものだ。
だが、そんな折に命令の変更が彼らの下へと届いた。
そしてそれは、今までの命令とはまったく違う、とても騎士らしい任務だった。
『グストの村を襲った魔獣の討伐』
前から何かと噂になっていた、グスト村の魔獣事件の討伐任務だ。領主お抱えの騎士団としてはこれ以上の任務はないだろう。さらに話を聞けば、裏ではあのベアル教も関わっており、そのベアル教に囚われの身になっている少女がいるという話。否応なく、騎士たちの士気は上がっていた。
『掲げた旗に忠誠を』
『騎士の誇りに誉れあれ』
元来、騎士国家と呼ばれたグラスベルト王国の基本理念である、二つの心得。
それを胸に、一刻も早くと、騎士たちは草原を駆け抜けていく。
ロン・バーノン伯爵の秘書を務める男性貴族――レジアスは、目の前ではやる騎士たちを見て、こんな状況になったことに驚きを隠せずにいた。
「あの伯爵が、まさかこれほどの騎士団を派遣するとは……」
あの伯爵が村のために騎士団を動かすなど、そんなことあり得ないとばかり思っていた。彼の言動はそうだったし、だからこそ自分の一存で騎士を準備させたりと、そういうことをしていたのだから、驚きもひとしおだ。
一体何があって考えを改めたのか……エットーの街を出発するときの伯爵の態度を思い出し、レジアスは大体の予想をつける。
「……あの、ジュンタ・サクラという旅人の少年が原因か」
ちらりと後方を見やる。そこには少しおぼつかない手綱さばきを見せている、一人の少年の姿があった。
黒い髪に黒い瞳。珍しい眼鏡をかけた少年である。
その少年をレジアスは知っていた。自分が保護したグストの村の村人の中、後からエルフの男に背負われて運ばれてきたから覚えていた。
彼は嘆願書にも載っていた、グストの村を救うために戦ってくれていた旅人らしい。
村人たちが避難してくるのにあたり、列の殿を守っていて、いつの間にか消えていたという。
それが見つかって、今朝無事に目を覚ました後、他の村人と一緒に伯爵の下に直談判に行くのを見たところまでは覚えている。
「一体、伯爵邸で何があったんだ?」
あの伯爵には何を言っても無駄だと思っていたので、あまり興味を向けていなかったのが悔やまれる。にべもなく断られて、しょげて帰ってくるのが関の山だと思っていたのだが、結果は騎士団が村に派遣されるということになったわけで。
そこに至る過程が気になるところだが、生憎と伯爵からは何も聞かされていない。ただ騎士を率いて、何があっても村を救えと命令されただけだ。いや、その命令自体がそもそも一番意外なのだが。
(まぁ、急にグストの村を救えと言いだした理由は、大体見当はつくが)
レジアスは長年伯爵の秘書をしてきた身。どうして伯爵が急に意見を変えたのか、彼の性格を鑑みれば推測は容易い。
間違いなく、伯爵の意見が変わった原因はあのジュンタという少年にある。
エットーの街を出発しようとした時の伯爵の態度を見れば、それは簡単にわかることだ。
(伯爵がペコペコと頭を下げて、低姿勢だった。恐らくはあのジュンタとかいう少年、遊楽の旅か見聞の旅でもしていた上級貴族なのだろう)
あの少年が伯爵よりも上の家督を持つ貴族なら、あの伯爵の態度にも納得がいく。いや、それ以外に納得がいく理由がない。
(伯爵は上の人間には弱いからな。自分の意見を変えるのにも納得がいく。あの少年は村を守ろうとしていたようだから、騎士団派遣の打診をした可能性も高い。……由緒ある伯爵家の当主でも納得した相手か。一体、どれだけの位にいる貴族だ?)
少なくとも伯爵以上。侯爵、公爵位の貴族であることは間違いない。
あるいは何かしらの特別な地位にいる人物……例えば、まぁあり得ないことだが使徒とか巫女とかなら、確かに伯爵は二つ返事でいかなる命令にも首を縦に振るだろう。
(まぁ、ともかくとして、この流れは私にとっても都合のいい流れだ。このまま法を犯すことなく、村を救いに行ける。後の話し合いの場でも顰蹙は買いにくい)
レジアスはそう考えて、唇の端を吊り上げる。
「後はゴブリンを倒せばそれでいい。それで万事滞りなく、この事件は解決される」
現場指揮を伯爵より委託されたレジアスは、騎士のようにはやる気持ちを抑えた。
視線の先。草原を走り抜けた先には緑の森が――
「さぁ、反撃の開始だ」
バーノン伯爵家の騎士たちは、一斉に剣を引き抜いた。
クーによって打ち付けられた怪我。
ヤシューとの戦いで打ち込まれた拳の傷。
この二つの傷が合わさり、馬が走る振動で身体にピリピリとした痛みが走った。だがそれを堪えて、ジュンタは必死で手綱を握る。
バーノン伯爵に頼んで派遣させ……してもらった騎士たちの後を、少し遅れる形で馬を走らせていたジュンタは、これまでの道のりを気合いと根性で走破していた。
毛並みの良い黒褐色の馬は、かつて乗ったことのある乗馬用の馬より遥かに大きく、速度も速い。手綱をしっかりと握っていなければ、そのスピードに振り落とされてしまうほどである。実際、出発段階で一度落馬した。
乗馬の経験など、数年前に少し遊びで乗っただけだ。
それだけの腕でこの馬を御するのは、並大抵の苦労ではない。痛みにかまけていては、すぐに振り落とされそうになる。
(森までは、もうすぐだな……)
クーを助けるためには、まずグストの村に蔓延るゴブリンたちを駆逐しなければいけない。
思考が沸騰していた時は単身で乗り込もうとも考えていたが、冷静になった今ではそれが不可能に近いことがはっきりと分かる。
魔獣を倒し、その先に捕らわれているかもしれないクーを助けるには、一人では到底不可能。
どうしても魔獣の軍勢と対等に戦える仲間が必要だった。それを思えば、ちゃんと戦闘訓練を積んだ騎士たちの助けは本当に心強い。結果的にこうなったが、そうなる発端を作ってくれたラッシャには本当に感謝である。
四人一組で一小隊。総勢百名を超える騎士たちの姿を一番後ろから見て、ジュンタはこれなら大丈夫だと踏んでいた。
数は騎士たちの方が少ないが、ゴブリンは単身ならさほど手こずる敵ではない。
数で押されれば厳しいが、十体一ぐらいの数の差にならなければ十分に圧倒できるだろう。
(後は、ベアル教のアジトを見つけて、クーを助け出す)
そう考えてから、ジュンタは軽く顔を顰めた。
それがジュンタにとっての最終目標だが、ある意味ではそれは願望でしかない。クーがまだ生きている保証など、どこにもないのだ。
「……生きてるよな、クー?」
冷静になった頭はクーの生存を半ば絶望視する。
しかしそれでもゼロではない可能性に賭けて、こうして騎士たちに同行している。
一刻も早く村に到着し、クーを探さなければ――がんばっていた少女を救うために、ジュンタは見えてきたグストの森を睨む。
「ゴブリン捕捉! これより戦闘に入る!」
その時、騎士たちを率いる貴族の男性――確かレジアスと名乗った貴族が、声を張り上げた。
司令官の号令の声に、騎士たちが一斉に持っていた得物を馬上で引き抜く。ジュンタも彼らに倣い、鞘から相棒たる剣を引き抜く。
眼前の森、木々の合間に赤い瞳がギョロリと輝いているのが見えた。
ゴブリンだ。すでにグストの森は、ゴブリンが住む魔の森となっていた。
大勢のゴブリンが次々と森から草原へと現れる。
騎士たちは騎馬した状態で、次々に現れたゴブリン目掛けて剣を、槍を振るう。
『『おぉおおおおおおうッ!!』』
擦れ違い様に首をはね飛ばし、身体を両断する。その迫力は、後方から見ていても震えによって肌に感じられた。
(こりゃ、俺が出る幕はないな)
勢いで剣を抜いたがいいが、ジュンタには騎馬の状態で戦える自信は皆無だった。
馬は乗っているのが精一杯だし、普通より刀身の短い剣で、馬に乗ったまま背の低いゴブリンを倒すのは至難の業だ。それに自分が出なくても、余裕で騎士たちはゴブリンを倒せている。
「ここで経緯を見てるしかないか」
人が戦っているのを見ているだけというのも歯がゆいが、出ても足手まといになると分かっていて、参戦するほど愚かではない。
ジュンタは戦いの余波が届かないところで馬を止めると、そこから戦いが終わるのを待った。
都合五分――あれほど苦労させられたゴブリンが退治されるまで、それだけしかかからなかった。
◇◆◇
胸の辺りまで水かさが上がってきた時、クーの耳は誰かが近付いてくる足音を捉えた。
ピチャリピチャリと水を弾く音。
それはクーの下まで近付いてきて、少しの距離を取って止まった。
「……誰ですか?」
尋ねた声が震えてしまったはしょうがなかった。すでに指先の感覚はなく、身体も酷くだるい。冷たい水にかなり体力が消耗されてしまっている。
「どうやら、衰弱が酷いようですね。ミス・リアーシラミリィ」
やってきた人物がそう言って、手を伸ばしてくる気配をクーは察知した。
思わず身構えてもどうしようもなかった。結果的に、その手は目隠ししていた布を剥ぎ取っただけだが、何をされていても抵抗はできなかっただろう。
「うっ」
久方ぶりの光に、眩しくてはっきりと目を開けることができない。
ぼやけた視界には目隠しを剥ぎ取った相手が。
輪郭は徐々にはっきりとしてきて、やがて相手の姿と、部屋の様子がはっきりとクーの目に映る。
地面を大きくくりぬいたような人造の空洞には、絶え間なく地下水が流れ込んできては、排出口から流れ出ている。どうやらここは地下水脈の中途らしいが、入ってくる水の量に反して、流れ出る水の量が少なく、少しずつ空洞内に水が溜まる仕組みになっていた。
部屋には唯一上へとのぼるための階段があるだけで、他には何もない。
光も僅かに差し込むのみで薄暗く、クーが眩しいと思った光は、目に痛い不気味な輝きを放つ、黒い魔法陣が放つ光だった。
(完全に拘束されていますね)
一段盛り上がった石の舞台の中央部分に立てられた石版に、クーは磔にされていた。
舞台は完全に流れ込んだ水に水没しており、クーの小柄な身体はすでに胸元まで水の中にある。
視界がはっきりしてすぐ、そこまでを一瞬で観察したクーは、自分をここに縛り付けた相手を最後に見た。
「ウェイトン異端導師、あなたは一体何が目的なんですか?」
「目的ですか? そうですね、何も知らないというのは少しかわいそうですね。いいでしょう。教えて差し上げましょうか」
腰元まで水に浸けて目の前に立っていたウェイトン異端導師が、柔和に笑う。その眼は、相変わらず温かみの欠片もない暗い瞳だった。
「あなたに施しているのは、ずっとこの場所で行い続けていた実験です」
一切の温かな感情のないまま、ウェイトン異端導師は笑い、そして自分がグストの森でし続けてきた実験の説明を始める。
「私はとある実験をするためにこのグストの森に来ました。その実験を、私は『反転実験』と呼んでいます」
「反転実験?」
「そうです。反転実験です。魔法使いであるあなたなら知っているでしょう?
人のみならず、この世の万物には必ず正反対のものが存在することを。一番分かりやすい例で言えば、使徒とドラゴンですね」
善の象徴である使徒と、悪の象徴である終わりの魔獣――
確かにこれら二つの存在は、歴史上、反するものとして扱われている。
人を救い、導いて世界を救うのが使徒なら、人を滅ぼし、汚して世界を壊すのがドラゴンだ。
「この反する二つは、非常に危うい境界線で区切られているのですよ。何かの拍子に、ころっと自分と反対の存在になってしまうことは十分考えられると私は考えています。もちろん、何かの拍子にといっても普通のことではあり得ません。ですが――」
ウェイトンは自慢するように、手に持った黒い背表紙の本を掲げる。
「この『偉大なる書』は、それを行うことができるのです。反する存在へと反転させられるのですよ。そしてこれを用いて幾度となく実験を繰り返した結果、とある事実が露見しました」
自分の言葉に酔いしれたまま、ウェイトンは熱い口調で説明を続ける。
「それは万物の生命の反対に、必ず魔獣が含まれているということです。わかりますか? 人も動物も、この『偉大なる書』で反転させてしまえば、必ず魔獣になるのです。もっとも個人差といいますか、同じ人間でも変わる魔獣には違いがあるようですが。動物などはゴブリンにしかなりませんし」
それで説明は終わりなのか、満足した面持ちでウェイトンは『偉大なる書』を開く。
「私があなたをここに運んだ理由は簡単です。あなたの魂が、精神が、肉体が、非常に魅力的だからです。強き魂の持ち主は、強き魔獣へと変貌します。そして最も強き魔獣とは、我らが神ドラゴンに他ならない。故に、あなたはドラゴンへと反転する可能性がある」
「ドラ、ゴン……に?」
黙ってこれまでの話を聞いていたクーが、ドラゴンという単語に反応を見せる。
「ドラゴンに、私が、なる……?」
「ええ、その通りです。私はあなたならきっと至ってくれると、そう信じています。ああ、安心してくださって結構ですよ。反転した魔獣は、『偉大なる書』の持ち主である私には絶対服従ですから。あなたがドラゴンに至ろうと、私があなたに殺される心配はありません」
誰がそんな心配をしたというのか――痛いほど鼓動を刻む心臓を自覚しながら、クーは乾いた声でウェイトンを糾弾する。
「あなたは自分がしていることの意味を理解しているのですか? 魔獣を生み出そうなんて、そんなことに何の意味があるのですか?」
「意味はあります。人は同情すべきほどに弱い。肉体的にも精神的にも、神に縋らなければ救われない。けれど、聖神教が語る神は無慈悲だ。使徒などという存在ばかり優遇し、人を救おうとしない」
「違います! 神は使徒様を通じて、私たちを救おうとしていらっしゃるんです! あなたは使徒様を見たことがないのですか? 見たことがあるのでしたら、神が無慈悲などとは決して言えないはずです!」
「『始祖姫』が蔓延させた使徒への盲信ですか。嘆かわしい。確かに使徒なる存在がいるのならば、聖神は存在するのでしょう。ですが、早く人は気付いた方がいいのです。
神は我らを救わない。使徒は我らを救えない。我々は自分を、自分自身のこの手で救わなければいけないことを!」
ウェイトンの言葉には一切の嘘偽りがない。思わずその言葉に共感を抱いてしまうほどに、その言葉は純粋だ。
けれどその瞳の暗さには、救いへの希望は抱けない。
――そう、クーは知っている。この世全てを救える救世主は、使徒以外にあり得ないことを。
「力を以て、高みへと辿り着く。神の尖兵たる使徒をも下す、圧倒的な力の化身たるドラゴンこそ、我らが目指すべき神なのです!」
ましてやドラゴンなどはあり得ない。あれは悪。一切例外の存在しない、存在全てが汚れた存在。
「我らは神となりて我らを救う。ドラゴンが魔獣の王ならば、魔獣へと変わることが救いへと辿り着く正しき道。そこへと誘う素晴らしさを讃えて、私はこの書を『偉大なる書』と呼んでいます」
『偉大なる書』を胸に手をあて、ウェイトンは何かに陶酔しているような表情を浮かべる。
クーはそんな顔をした人間が何を思っているのか知っていた。
我が神を信じ、その眩さと美しさに崇敬の念を抱いているとき、人はあのような表情をする。
幼かったあの頃を思い出せば、いつだって自分の周りにいた人間は、今のウェイトンと同じような表情をしていた。
自分は正しいと疑うことなく、自分の神に心酔し、そのために何者でも犠牲にする。
それがベアル教であり、ベアル教の教え。
開祖ベアルがこの世に残した忌々しい呪いだ。ドラゴンを崇めるなど、愚かにもほどがある。
「……断言できます。ベアル教に救いなどありません。ドラゴンに価値などありません」
衰弱していながらも、はっきりとした口調で断じたクーに、ウェイトンは悲しげに頭を振る。
「あなたならば理解していただけると思っていたのですが……残念です。ですが私はあなたを見捨てません。あなたは必ずや、ドラゴンに至った果てに己が救いを自覚することでしょう」
「己の救いの、自覚……?」
パラパラと本のページを捲っていくウェイトン。彼が最後に残した言葉に、クーは酷い衝撃を受けた。
「ドラゴンに、ドラゴンに救いなどがあると言うのですか? そんなはずがありません。ドラゴンに、救いなんてあるはずが……」
「?? ……ドラゴンに対して何を思っていたかは知りませんが、ドラゴンには救いがありますよ。いえ、本来ならば救われない者も、ドラゴンになることで救いを掴むことができるのです」
「…………っ……」
込み上げる不安と、得体の知れない恐怖。
それがどこから来て、どこへと誘うものかわからないが、クーは内に込み上げたその感情が自分を壊すものであるとすぐに察した。
床に描かれた黒い魔法陣。思えばこの光はなんだ? 黒い光とは一体なんだ? どうしてこの光は、かつて苦悩の果てに出した答えを揺らすのか?
「――やはりあなたは素晴らしい。それでは、始めましょうか」
「まっ」
反転の開始を告げるウェイトンと、『偉大なる書』が放つ黒い光に、クーの制止の声はかき消される。
そして蘇る忌々しい言葉。
まだ何も知らない無垢であった頃、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの全てであったその言葉――
『――手向けの花束よ。捧げられし花嫁よ。クーヴェルシェン。あなたはなんて幸せな巫女』
◇◆◇
「クー?」
耳に微かな声が届いた気がして、ジュンタは辺りを見回した。
だけど周りに声の主である少女の姿はない。あるわけがない。周りにはゴブリンの死骸が転がり、響く声は騎士の威勢の良い声と、ゴブリンの断末魔の叫びだけだ。
「……気の、せいか」
馬に乗ったまま、グストの森へと足を踏み入れたジュンタとバーノン伯爵家の騎士たち。
その歩みは、もう少しでグストの村まで届こうとしていた。
幾度となく襲ってくるゴブリンたちを返り討ちにし、少しずつ森を切り開くように進んでいった結果、ここまでは順調そのものだった。
けれどその中で、ジュンタは今の今まで気付けなかった事実に苦悩していた。
ジュンタは剣を鞘に収めて、両手でしっかりと手綱を握りしめ、騎士たちから少し距離を取ったところで後ろを追走していた。
ジュンタがその事実に思い至ったのはつい先ほどのこと。今の今まで気付けなかったことが呪わしい。
「……ベアル教のアジトって、一体どこなんだよ?」
気が付いてみれば、ジュンタはクーが捕まっているかもしれない場所の位置を知らなかった。
これはかなり問題だ。
例えゴブリンを駆逐できても、アジトを見つけられなければクーは助けられない。
さらにウェイトン異端導師も状況が劣勢になれば、もちろんアジトを放棄して逃げることだろう。そうなれば、クーの命は絶望的だ。
「どうする? どうするんだよ、俺?」
そんな大事なことに今更気付いて、ジュンタは焦り始める。
目の前では順調にゴブリンの駆除が進んでいる。その数はすでに二百を突破している。つまり残りのゴブリンの数は少なく、相手方が状況に見切りを付けるまで時間も少ないということだ。
しかしだからといって、ここでゴブリンを倒さないのも意味のない話。
そんなの普通にダメなことだし、そうなればクーを助けるどころの話ではなくなる。森に近付くことすらできなければ、ことは何の進展もしない。
「どうする? どうすればいい?」
ジュンタは考えて、ぞっとした。
どうしようもない。この問題、今すぐクーの下にいけない限りどうしようもない問題だ。
「くそっ! もっと考えて動けよ、俺!」
ジュンタは激しく、自分自身を罵った。
「……情けないな。助けるって、そう誓ったのに。それが出来ないなんて……」
グストの村を助けると決めて、結局村を守りきれなかった。
そして今度は一人の少女を助けることもできない。情けない。ジュンタは、自分がどうしようもなく情けなかった。
ずっと平和な世界にいて、力がなかったというのは言い訳にならない。
「欲しい。力が、もっと強い力が」
せめて大事なものを守れるだけの力が欲しい――そうジュンタは思って、悔しくて血が出るほどに手綱を握りしめる。
もう少しでグストの村は取り戻せる。だけど…………大事な少女はまだ見つからない
そんな風に隙だらけだったジュンタに対し、いきなり乗っていた馬が暴れ出す。
「んなっ!?」
闘牛のように暴れ出した馬は、乗り手を無視して走り出した。
その速度は全速力。ゆっくりと進んでいたため、いきなりあがったスピードに思わずまた落馬しそうになる。強く手綱を握っていなかったら実際落馬していたことだろう。
「落ち着いてくれ! ええい、一番乗り手を理解する、優秀な馬じゃなかったのかよ!」
暴れ馬の上で必死に手綱を操るも、バーノン伯爵一押しの名馬は命令を受け付けない。ついに手綱ではバランスを保てなくなったジュンタは、太い首に両腕で掴まる。
――そこでジュンタは、この馬の優秀さをまざまざと見せつけられた。
林道に幾重にも木霊する爆発音。
四方からジュンタめがけて放たれた炎は、勢いよく走る馬の疾走に狙いを合わせられず、盛大に地面にぶつかって火の粉を撒き散らす。
「この炎、オーガか!?」
前にも似たような攻撃を見たジュンタは、自分を狙って吐き出された攻撃が魔獣オーガのものであることをすぐに察する。
そしてその推測は正しく、森に燃え広がろうとした炎を軽く踏みつぶして、赤銅色の巨体が林道へと姿を現した。
「そうか。お前はこれを察知してくれてたんだな」
考え込んでいる内にかなり離れていた騎士たちの下へと、ジュンタを乗せた名馬は駆ける。その速度に、オーガたちの姿は見る間に小さくなっていく。
林道が一直線とはいえ、森の中とは思えない走りを見せる馬は、まさしく名馬だった。
乗り手より先んじてオーガの接近に気付き、攻撃を避けるために全速力で走り出してくれたのである。
「ありがとう。お陰で助かった」
軽く首を撫でると、ブルンと馬は小さく返答を寄こす。その鳴き声がまるで、諦めるのはまだ早いと言っているかのように聞こえた。
(そうだよな。諦めてたまるか)
駆け抜ける馬の上で、ジュンタは変化し始めた状況にほくそ笑む。
(オーガがたくさん現れた。なら、向こうは交戦する気だ。逃げるための時間稼ぎだとしても、そこにウェイトンの奴が現れたなら……)
視線の先が開ける。騎士たちがついに解放した、グストの村が現れる。
「突き止める。何が何でも。クーの居場所をッ!」
◇◆◇
「ドラゴン、に……」
揺れる瞳で黒い光を直視しながら、クーはウェイトンの言葉を反芻していた。
「私がドラゴンに……あんな殺戮の獣に、また、なる……?」
ガタガタと身体は反射的に震え出す。
脳裏に、いつかの惨劇の光景が甦ってくる。
(ダメ。それはダメです。ドラゴンなんて、絶対に居てはいけない悪です)
全てのドラゴンは、等しく人や世界に死を撒き散らす。
十年前のあのオルゾンノットの魔竜を見れば、そんなことは一目瞭然だ。ドラゴンと人は決して相容れない。偉大なる使徒とは反対――あれは忌むべき悪魔に他ならない。
それに反転して自分がなる?
そんな馬鹿げた話、信じられるはずがない。
だが、もし事実だったら…………最悪だ。そんなこと、許せるはずがない。
耳にはウェイトン異端導師の朗々たる詠唱の声が聞こえてくる。それに合わせ、地面に描かれた黒い魔法陣が輝きを強める。
その魔法陣の見知らぬ黒い輝きが、ウェイトン異端導師の言葉を証明しているかのようにクーには思えた。
(黒色の魔力。魔法陣と魔法光の色……)
魔法にはそれぞれ特徴として『色』が存在する。
それは人々の共通認識であり、魔法陣を作る際の魔力にして、魔法光の色だ。
赤なら火。青なら水。緑なら風。茶なら地。稀少属性として黄色の雷、白の氷と、現在確認されている魔法属性とその色は六つである。
魔法の開祖であるメロディアは、あらゆる魔法が使えたために、全ての色を混ぜ合わせたかのような虹色の魔力光を持っていたらしいが、黒色というのはクーは聞いたことがなかった。
黒色に揺らめく魔法陣が、どんな現象を起こすのかまるっきり予想がつかない。
ならば考え辛いことだが、反転を引き起こし、人を魔獣に――ドラゴンに変えることも可能かも知れない。
クーをモルモットにし、狂った思想で実験を進めていくウェイトンの詠唱が進むほど、魔法陣が放つ光は強くなっていく。
その輝きはクーの身体を覆い尽くそうと蠢く。
クーは自分の肌の上を水以外の何か、まるで虫が這い回るような感触を、確かに現実のものとして感じていた。
「どうでしょう? そろそろ見ていますか、ミス・リアーシラミリィ?」
「見て? あ、ぅ、あ……これは……?」
ウェイトン異端導師の姿が、過去の映像と切れ変わる。
(なんで……? どうして、こんなの……?)
脳裏に暗い光が明滅する。
それは人が誰しも持っている、過去という名の消しがたいものの一部。
誰だって人には言えない過去というものを持っている。それは人にとっては些細なものだったり、とても重いものだったりする。だがそれは、本人にとってはあまりにも忘れがたい記憶だ。
クーの場合、忘れがたい過去の記憶は、正真正銘の『悪夢』だった。
悪夢が、まるで本当に今目の前で起きているかのように、クーの視界を占拠する
「あ、いや……こんなの……」
殺せと誰かが言った。
殺してくれと誰かが言った。
好きでやったわけじゃない。そう、誰かが望んだからやったのに……
嫌だった。殺したくなんて無かった。でもしょうがなかった。身体は誰かの想いのままに動き回る。動き回ってしまう。そこに幼かった、人形だった少女の入り込む余地なんてなかったのだ。
殺せと誰かが言った――それは自分が自分自身に吐いた命令だった。
殺してくれと誰かが言った――それは自分が自分自身が吐いた懇願だった。
あの惨劇に、クーヴェルシェンという少女の存在はちっぽけなものでしかなかった。だが、それでも……
――それでも、血塗られた廃墟が目の前に広がったとき、許されざる悪となったのは自分だった。
今まで押し殺してきた感情が、
(ダメ)
人でいたかったから、今まで隠し続けてきた悪意が、
(いや)
クーの頭の中で渦巻いて、溢れてくる。
「いやぁあああああああっ!!」
身体を蝕む闇。精神を蝕む歓喜。
今までの全てを捨てて、裏返ってしまえと暗い闇が囁いている。
それはどんどんと強くなっていき、人一人の意思なんてすぐに呑み込んでしまいそう。
苦痛は堪えるほどに長く、歓喜は抑えるほどに強くなっていく。
(いや、なのに…………どうしても、認めてしまう……)
苦痛と歓喜が混ざり合ったまま、クーは暗い闇に溶けていく。その中で、ずっと否定し続けてきた本当の気持ちを認めてしまった。
どんな建前で隠しても、どんな恐怖で否定しても、結局、本当の理由はそれだった。
憧れている人がいる。その人は本当に綺麗で、自分とは正反対のものとして存在している人だ。
彼女のようになりたくて、憧れた。
憧れて、そうなれないのだとが気が付いて挫折し、それならばと、彼女のような人を助けられる人になりたいと思うようになった。
ずっとがんばってきて、そしてついには認められた。
嬉しかった。その時、心の底から嬉しかったのだ。これで誰かを救う手助けができる、と。
――――だけどそれが間違い。歓喜の本当の理由は、まったく別の理由だった。
誰かを救えることに喜んでいたのではない。罪滅ぼしができることを喜んでいたのではない。ずっと、あの惨劇の日から想い続けてきた本当の望みが、成就することを喜んだのだ。
一人殺したのだから、百人は救わないとダメだと思った。
百人殺したのだから、万人は救わないとダメだと思った。
幾千もの想いを踏み躙ったのだから、この世界を救わなければダメだと思った。
そうすれば、いつかはこんな自分でも救われる順番がやってくると、そう思った。
(ああ、私はやっぱり……そう……私は、本当はただ……私を救って欲しいだけだった……)
自分の所為じゃないのに、望んだ訳じゃないのに、一方的に罪を味合うことを強制された。
だけど、何も知らなかったとはいえ、それでも自分が人を苦しめた原因であることに変わりはないのだから、罪人であることを受け入れた。……そう、ずっと思っていた。
けれど、心のどこかで否定し続けていた自分がいたのだ。悪くなんてないのに、と。
(私は悪くなんてない。私は罪なんて犯していない。私が、苦しむ理由なんてないはずなのに……)
それなのに――――世界は罪人だと罵ってくる。
……結論を言ってしまえば、クーが望んだことは贖罪ではなく、自分自身の救いだった。
ただそれだけの話。それが認められなくて、否定をし続けてきたのだ。自分はそんなことは考えない、綺麗な人間だと信じたくて。
でも、この暗い闇に抱かれて、認めてしまった。受け入れてしまった――自分は人の救いなんて望んではいない、醜く汚い存在なのだと。
(……だから私は、私の使徒様と巡り会えなかったんですね。こんな醜い私が会いに行っても、拒絶されるのがわかっていたから……私は、本当は会いたいなんて思っていなかった……)
出会えるはずがない。巡り会えるはずがない。
使徒と巫女は、互いに互いがわかるけど、それは両者ともが真に会いたいと願っていた場合の話だ。片方でも会うことを拒絶していたら、巡り会えるはずがない。元から歩いている道が違っていたら、道が交差するはずがない。
(私……馬鹿です。会ってもわからないのなら、旅なんてしても意味なかったのに……)
結局、クーヴェルシェン・リアーシラミリィという巫女は、使徒の相棒である『巫女』にはなれなかったということ。
永遠に巡り会うことはない。それはなんて幸福で、なんて救われない結末なのだろう。
(……やっぱり、私が生まれたことに価値なんてないんです…………もう、疲れてしまいました……もう、がんばらなくてもいいですか……?)
黒い闇の中、クーは全身から力を抜く。
耳には、全ての始まりの呪われた詩。
『――手向けの花束よ。捧げられし花嫁よ。クーヴェルシェン。あなたはなんて幸せな巫女』
「違う。私は、幸せなんかじゃない……!」
どうしようもなく、涙が止まらなかった。
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