第十八話  それが救いと信じて




 気が付けば、クーの世界は誰かの世界と同調していた。

 クーヴェルシェン・リアーシラミリィにとって、自分という存在は酷く虚ろなものだった。

 生まれた理由も、過程も、果ても、全てが血塗られた狂気の中にあり、幸せなど誰にも望まれずに誕生した。愛はそこにあったのかも知れないが、それでも愛など感じることのない生誕。生きることに意味はあるかと尋ねる前に、まずは生まれたことに意味があったのかと尋ねたい。

 そう、意味などなかった。

 生まれたことが罪であり、生きることが罪であるなら、生まれたことに意味などなかった。

 自分の存在は誰かを不幸にする。なぜならば、この身はたった一つのことに限定されているのだから。

『そう、あなたはドラゴンのために生まれ、ドラゴンのために生き、ドラゴンのために死ぬ。そのためだけに、あたくしはあなたを産み落とした』

 世界を同調させた誰かが、そう言う。

『あなたは紛い物。ドラゴンの紛い物であり人間の紛い物。なら、得られる全ても所詮は紛い物でしかない。幸福も、不幸も、喜びも悲しみも、全てがまやかし。紛い物が紛い物から感じた、所詮は紛い物の感情』

 誰かは虹色の輪郭をぼんやりと輝かせた、怖い女。

『生まれた意味など、生きる意味など、馬鹿げている。そんなことを悩む必要がそもそも、ない。
 紛い物の感情に真実などない。紛い物の人生に答えなどない。あなたは、そう、たった一つのためだけに生まれた『道具』なのだから』

「……ドラゴンの、ために。生まれて、生きて、そして死ぬ……」

 真実はないと彼女は言う。答えはないと彼女は言う。だからきっと、それは『決定』であり、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの『機能』なのだろう。

『ドラゴンのために生まれ、ドラゴンのために生き、ドラゴンのために死ぬ』

 機能を果たせと、女は言う。

『それだけのために生まれたあなたが、それ以外を求めようとした結果が、これ。苦しくて、悲しくて、寂しくて、辛くて。そして、大事な誰かを傷つける。それが、あなた。機能以外を追い求めた、自ら枯れることを、汚れることを求めた、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの末路』

 機能を取り戻せと、女は命じる。

『生まれたとき、あなたは自分の役割を知っていた。無垢で誰からも愛された、綺麗な存在だった。理解はしているでしょう? どうしてこんなにも、今の自分が汚れてしまったのか』

 簡単なことだ。つまり、逃げていた。

 生まれた意味が、生きる意味が、死ぬ意味が、クーヴェルシェン・リアーシラミリィには存在した。ドラゴンのために生まれ、生きて、死ぬという存在意義が。
 ……だけど、違う道を選ぼうとした。決定に背を向けて、機能から逸脱しようとして、存在意義から逃げて、だから、こんなにも救いようのない存在へと堕ちてしまった。

 ――救いだけを欲して、大好きな人を利用するような存在に……!

『望むなら、あたくしが直してあげましょう。あたくしが戻してあげましょう。元のあなたに。汚れる前のあなたに。あなたの主に会う前の、あなたに』

 そうして、クーはようやく自分を知る。

『歌を歌うだけの存在に』

 見誤っていたものに、

『色鮮やかな花束に』

 裏切っていたものに、 

『綺麗な花嫁に』

 気が付いたから。そう――――名前を呼ぼうと思った。


――ジュンタ・サクラ……!」






 

 五分ぐらい、誰も声を発することはなかった。

 灰色の『封印の地』の中、沈鬱な表情でみんなは声をなくし、表情を枯らせた。
 まるで周り光景と一体化したように、それはどうしようもないほどの表情の欠落だった。

 それはきっと、絶望と呼ばれるものに近い。

 大切なものを失ってしまう、その辛さや悲しさ。すぐ前まで一緒になって笑っていた人がいなくなるという、そんな状況を想像もできない喪失感。現実味がないほどに声を失って、感情を失って、そうやって現実を直視することを放棄する。

 ジュンタは、そんな喪失感を以前にも感じたことがあった。

 大切な場所があったのだ。それを喪ってしまったとき、これに似た空虚を感じた。
 あの時は一体どうやってその空虚から抜け出したのか……考えて、ジュンタは小さすぎる背中を見つけた。

 いつもは頼りになって、大きく見えたその背中。
 流れる紅髪が輝く、宝石のような背中。……その背中が、今はこんなにも小さい。

 以前は、そんな小さな背中なんて知らなかった。あるなんて想像もしていなかった。
 彼女は確かに女の子だったけど、それでも強くて綺麗で格好良くて……身体を縮めて震える姿なんて想像できなかったのだ。

 だからその背中に憧れて、その姿に焦がれて、空虚から立ち上がって歩き出した。

 でも、今は一緒になって震えている。手のひらから零れようとしている重さに同じように震えている。助けると誓ったのに、助けられない無力な自分に打ちひしがれている。

 憧れた背中がそうなのだから、自分に、どうやってこの空虚さを乗り越えろと言うのか?

(クー……)

 薬がない。もう治してあげられない。
 今なお苦しんで、それでも必死に戦っている彼女を救ってやれない。

 救えないのなら、この手に何の意味があるというのか?

 ジュンタは剣を握った左手を凝視する。力の入れすぎで白くなっている手。この手で救いたかったのに。ようやく、クーに自分を好きになってもらえる方法を見つけたかも知れないのに……

 何というか運命の悪辣さ――それを偲んだとき、はたとジュンタは気付く。

「違う――だろ」

 何をバカなことを考えているのか。何を見誤っているのか。決して、現状はあの故郷での居場所をなくした時と一緒ではない。

 だって、手から零れそうになっているだけで、実際には手からまだ零れていないのだから。

「まだだ!」

 気が付けばジュンタは叫んでいた。

 横にいたスイカとヒズミが、前方でしゃがみこんでいたリオンが、その声に驚いて振り返る。

「まだだ! まだ、クーは死んでない! これしか助かる道がないとも決まってない! 諦めてたまるか。こんなところで立ち止まってたまるか!」

「ジュンタ……」

 潤んだ瞳で見つめてくるリオンを見つめ返して、ジュンタは近付く。

「ここで諦めるには、クーはあまりにも価値がありすぎる。ここで立ち止まるには、まだ俺らは何もしてなさすぎる。なぁ、そうだろ? リオン」

 しゃがみこんだリオンを強引に立たせて、その両肩を掴む。

 リオンは一度瞼を閉じ、そして開いたときにはもう、その紅の瞳に迷いはなかった。

「そう、あなたの言うとおりですわ。騎士の誓いは永遠不変のもの。ここがダメなら次こそは。失敗したのなら成功するまで。勝つまでずっと、誓いを果たすまでずっと――ええ、戦いましょう、ジュンタ。クーのために」

「それでこそリオンだ。それじゃあ、さっさと戻ろう」

 頷き合って、ジュンタとリオンは諦めないことを決めた。
 喪失の恐怖はもはやなく、あるのは救うことへの求めのみ。

「お待ちなさい。その前に、一つしておくべきことがありますわ」

 立ち直ったリオンは、すぐさま自分がするべきことを、クーのためにできることを模索して実行に移す。薬が入っていた容器の中へと指を突っ込んで、何も入っていないその内側をグルリと指でなぞった。

 容器の中から引き抜いたリオンの指には、僅かな赤色の液体が付着していた。それが本当に最後に残った薬であることは言うまでもなく、それだけの量ではやはりクーを治せるとは思えない。

「これっぽっちではクーを治すのは無理でしょうけど、この薬がどんなものかは分かるかも知れませんわ。薬学などは一応一通り受けていますし」

 それが限りなく可能性の低いことだとは知りつつも、リオンは薬のついた指をくわえ込んだ。

 最後に残った薬から、その成分や、薬であること以外分からぬソレの正体を見極めようと舌を動かし、

――ッ!?」

 一秒もしない内に、口内の薬を吐き出した。

「お、おい、大丈夫か?」

 青ざめた顔をして口を押さえたリオンの姿に、ジュンタは危機感を募らせる。
 毒を以て毒を制すともいう。クーを治すための薬が、リオンにとっては毒であった可能性は否定できない。

「なんだ、もしかして毒だったのか?」

「いえ、大丈夫ですわ」

 しかしリオンはそう否定して、口から手を離した。

「少々予想よりも斜め上の代物でしたから、思わず吐き出してしまっただけですわ。ある意味毒のようなものではありますけど、確かに考えてみれば、これならば今のクーには特効薬なのかも知れませんわね」

「と言うことは、まさか、それが何か分かったのか?」

「ええ。この口に含んだ瞬間、私の身体と血が全力で拒否反応を起こす感覚。間違いありません。これ、ドラゴンの血ですわ」

「ドラゴンの、血……?」

 リオンによって判明した赤い液体の正体はドラゴンの血液――ドラゴンはこの世界にとっての悪だ。その血が薬とは一体、どういうことなのか? 

「ドラゴンの血が、なんで薬になるんだ?」

「普通はなりませんわね。最上級の魔法の触媒として扱うか、研究材料として使う以外にドラゴンの血になど使い道はありませんもの。ですけど、善を悪に、悪を善に反転させる呪いなら、薬になるのも分からない話ではありませんわね。
 人を魔獣に変えるということは、逆を言えば魔獣を人に変えることも可能だということではなくて? 実際どうかは知りませんけど、つまりは本来毒でしかないドラゴンの血が、この場合は逆に薬になるのかも知れませんわ」

「やっぱり毒を以て毒を制す、ってことだな。スイカ。ヒズミ」

 薬の中身がドラゴンの血であることに納得したジュンタは、居心地悪そうに立っていた姉弟を振り返る。

「どうした、ジュンタ君。何か分かったのか?」

「ああ。どうやらクーを治すための薬は、ドラゴンの血みたいなんだ。それで訊きたいんだけど、アーファリム大神殿にドラゴンの血って保管されてるか?」

「ドラゴンの血か……アーファリム大神殿には世界中の珍しいものが溢れかえっているから、探せばあると思うけど」

「探さなくてもドラゴンの血はあった気がするけどね。なくても、フェリシィールさんに言えば確実に一日以内に届けられるし、あるいはフェリシィールさんが直々にエチルアから半日で取ってくるはずさ」

「それじゃあ、クーは……?」

「助けられる、ってことですわね!」

 ジュンタとリオンは手を取り合って喜びを露わにする。

 そんな二人を見て、ヒズミが憮然とした声で言った。

「なんだよ、それなら始めからこんな場所まで取りに来なくても良かったんじゃないか」

「そう言わない。ここに来て、諦めずに確かめて、それでようやく分かったことなんだから。ここに来たのは無駄じゃない。来なかったら、きっとクーちゃんは助からなかった…………ところで、みんなは気が付いているだろうか?」

『え?』

 突如ゴホンと咳払いをしたスイカに、ジュンタとリオンは自分たちが手を繋いでいることに気付き、慌てて離れる。

「な、何勝手に人の手を握ってますのよ」

「握ってきたのはそっちもだろ」

「あ、いや、それもあるけどそう言うことじゃなく、周りの様子なんだけど……」

「って――う、うわぁっ!」

 言い辛そうにスイカが周りを見ることを促した途端、ヒズミが怯えたような声をあげた。

 なんだと思って、ジュンタもリオンも周りを見る。

「どうやら一カ所に長く居すぎたみたいだ。笑えない展開になっている」

 スイカが引きつった笑みで、ヒズミが震える瞳で共に見ているのは、自分たちを中心に一周グルリと見回した周りの景色だった。

 いや、それは景色というにはあまりにもおぞましい。
 あらゆる角度から異臭が漂ってくる。咆哮を上げ、牙をかち合わせ、足並み揃えて、それらは続々と集結する。

「これは……?」

 さすがのリオンも笑みを凍らせた。ワイバーンを見たときのような息を呑むことすら、それらの異様の前では無理だった。

 ここに至るまで気付けなかったことが不思議である。恐らくは『封印の地』独特の空気で感覚が狂っていたのだろうが、気付けなかったことが大層悔やまれる。

 それは軍勢だった。ジュンタがかつて見たグストの村でのゴブリンの軍勢とは違う、陸にオーガが、ガルムが、ワームが、ゴブリンが揃い、空にはワイバーンは旋回しているという、種々様々な魔獣からなる『魔獣の軍勢』だった。

 遠くから列居してやってきた魔獣の総勢は、数えられないほどに多い。
 隙間なく脇を固め、四方八方から押し寄せる魔力と肉の圧力に、自然四人は背中を寄せ合ってそれぞれの得物を手に取った。

「魔獣がこんなにたくさんか」

「『封印の地』の面目躍如と言ったところですわね。これが『始祖姫』様の時代において、人々を苦しめていた魔獣の軍勢なのでしょう」

「なに淡々と語ってるんだよ! こ、これだけの量、どうがんばったって捌ききれないじゃないか!」

 ヒズミの悲痛な叫びこそ、この状況の真実だった。 
 ひ弱なゴブリンの軍勢とは違う、オーガやワイバーンすら揃ったそれら軍勢の力は、人間四人など瞬く間に蹂躙してしまいかねない圧倒的な力だ。

 猛る雄叫びは絶望を誘い、地面を揺らす足踏みは死のカウントダウンに聞こえ、向けられる殺意の眼差しは死神の鎌の切っ先を思わせる。

「これだけの数を相手にするのも絶望的なら、残り一時間程度でこの壁を越えて戻ることも絶望的に思えるのだけど、どうだろう? わたしの勘違いならいいんだけど……」

「残念ながら勘違いではありませんわ、スイカ聖猊下」

「そうか。できれば勘違いだと言って欲しかったんだけどな」

 リオンとスイカの会話の落ち着きようがどこか場違いに聞こえて、でもたぶん強い彼女たちにとっても、この状況は焦ることすら忘れてしまう状況なのだろう。

 ジュンタもまた絶望の後に見出した光明が、また絶望の波によって攫われかけていることに、笑みを知らず浮かべていた。

 しかし、本当の絶望とは果たして、このような群をなさなければ恐ろしくない相手だったか?

――懐かしい。ただ、懐かしいと、そう感じるだけか』

「誰だ!?」

 低く響いた見知らぬ声に、ジュンタは周りを確認して叫んだ。

「誰も、いない……?」

「ばっ、何いきなり叫びますかこんちくしょう! 僕を驚かせて楽しいか!」

「どうしたんですのよ、いきなり。気でも触れまして?」

 いきなり聞こえた低い男性の声――だが周りにはゆっくりと迫ってくる魔獣しかおらず、ヒズミとリオンの態度を見るに、自分以外には聞こえていなかったようだ。

「大丈夫? ジュンタ君」

「あ、ああ……大丈夫だ」

 スイカの心配そうな視線に頷き返して、ジュンタは再び魔獣たちへの対応策の検討に戻る。
 今の声はきっと、魔獣の奇声が重なり合って聞こえた空耳なのだろう。そう思い、何とかこの場から脱出して『封印の地』の孔まで戻る方法を模索しようとし、

『貴様には分かるか? 我が乾き。我が求め。我が忘れているものが、一体何であるか』

 再び、その低い声を耳にした。

(なんだ、この声? 俺にしか聞こえてないのか?)

 先程よりも間近に聞こえた声に、ジュンタは周りに視線を飛ばす。しかし、やはり周りに人語を介すものはおらず、他の三人も魔獣をそれぞれ注意深く観察しているだけで、今の声が聞こえているようには見えなかった。

 どうやら、この声は自分にだけ聞こえているものらしい――二度も起きたコレを気のせいとは認められず、あるいはこの状況を打破する可能性があるかと思って、ジュンタは耳を澄ます。

『分かるか? いや、分からねばおかしい。なぜならば、貴様は我と同じ――

 ドラゴンなのだから――そう続いた声は、高き空から響いた獣の咆哮と重なった。

「つ、次はなんだ!」

「分かりませんわよ!」

 ヒズミとリオンが、突如響いた奇声に顔を歪めながら空を見上げる。

 遅れてジュンタとスイカも空を見上げる。
 ジュンタには今の咆哮が何であるか、すでに予測が立てられていた。

 遙か灰色の空の向こうから感じる、強大な気配。毒々しい魔力の気配は、ジュンタには馴染み深いもの。

「この気配は……まさか!?」

 ジュンタの次にソレの存在を察知したのはリオンだった。
 かつてソレと相対したことがあり、なおかつその血にソレを滅ぼす役割を封じ込めたリオンは他の二人に先んじて気が付く。

「嘘、だろ……?」

 ヒズミが気付いたのはリオンよりもかなり遅れてだった。ソレの巨大な漆黒の影が上空に視認できるまで、彼が気付くことはなかった。

「これが、そうなのか……」

 最後に気付いたのは、射手として遠くまで見渡す視力を有していなかったスイカだった。すでに囲んでいた魔獣たちは、まるで王の帰還に恐れをなしたように逃げ去っており、だからこの場において一番最後にソレの存在を認めたのはスイカであったのだろう。

 空から地面にダイブするかのように地響きをあげて着地したのは、二十メートルを越す漆黒の偉容。黒い堕天使の翼を持ち、鋭い鮮血の瞳を持った魔獣の王――

――――終わりの魔獣ドラゴン

 竜滅姫が、空より降誕した天敵の名を呼ばう。

『教えるのだ。汝が存在を。我と同じ、だが我と違うドラゴンよ』

『封印の地』に封印されていた魔獣の頂点に君臨する魔獣は、同類にしか聞こえない声と同時に、天裂く咆哮を轟かせた。






       ◇◆◇






 ドラゴンの降臨により、周りを囲んでいた魔獣の軍勢は、一体も残らずいなくなってしまった。

 包囲網はなくなり、遙か灰色の地平線が見て取れる。が、状況が好転したかと聞かれれば、首を傾げなければいけなくなるのが実際のところ。

 以前ランカの街で見たドラゴンとは顔の形が若干違い、翼が堕天使の羽根をした漆黒のドラゴン――人では勝てない魔獣の王を目の前にして、四人はその威圧感で動けずにいた。

 違う。前のドラゴンとはレベルが違う。聞こえた声の主がはっきりとした時点で、ジュンタはそのことに気が付いていた。
 
 ランカにおいて戦ったドラゴン。恐るべき回復力を備えた悪魔。
 あれと比してなお、目の前に立ちはだかったドラゴンの方が強大な力を放っていた。

「確かに、『封印の地』にはドラゴンがいるかも知れないとは聞いてはいたけど……」

 他の誰もがしゃべらない中、まず最初に口を開いたスイカが、皆の胸中を代表して述べる。

「正直出会うとは思っていなかった。そしてこんなにも遭遇することが絶望的であるとも、また思っていなかった」

 魔獣の軍勢の数による絶対的な差とは違う、それは生物としての、存在としての絶対的な差。

 人では目の前の獣には敵わないと、否応なく理解させられる存在規模。怯んだヒズミは声を出せず、スイカもそれっきり黙り込んで、唯一リオンだけが前へと歩を刻んだ。

 その横顔にジュンタは見覚えがあった。その背中に見覚えがあった。
 いつだったか、それはジュンタが自分の本心に気付かざるをえなかった背中――なるほど。と、ジュンタは胸の高鳴りと共にその時のことを思い出す。

「こうなっては仕方ありませんわ。私がここで食い止めます。皆さんはすぐに逃げてください」

「やっぱり、そう来るか」

 リオン・シストラバスの字は竜滅姫――先祖代々、ドラゴンに相対しては滅してきた姫君だ。こうしてドラゴンと遭遇したならば、そこに生まれるのは血の宿命であり、不死鳥の誇り。

 半年前にも一度覚悟したリオンの二度目の覚悟は、ドラゴンの登場より僅か一分足らずで決心されていた。

「リオン。お前、自分がなにを言ってるか分かってるのか? お前がドラゴンを倒す方法なんて一つしかない。ドラゴンを倒せばお前も死ぬんだぞ?」

「半年前にも似たような泣き言を聞きましたわね。生憎と、それでもこれが私です」

「竜滅姫……竜を滅する姫君か」

 降り立ったドラゴンの眼前に立つリオンを見て、スイカが緊張から脱したように呟く。

「ナレイアラの系譜が竜を滅するには、『不死鳥聖典』が必要のはずだろう? それを今君は持っているのか?」

「ええ、こちらに――旅の終わりは、まだ見つからない

 リオンは聖句を唱え、持っていた母親の形見の剣を掲げる。
 直後紅の閃光が発せられ、リオンの剣を覆い隠す。光が収まったあと、リオンの手の中に剣はなく、その代わりに赤い背表紙の本が握られていた。

「これが我が家に代々伝えられている『不死鳥聖典』です」

(リオンの奴、ゴッゾさんから教えてもらってたのか)

 リオンが愛剣を聖骸聖典へと顔色一つ変えずに変化させたのを見て、ジュンタは声には出さず悪態づく。

 かつては母親の形見の剣が『不死鳥聖典』だとリオンは知らなかった。知っていた父親から、教えてもらっていなかった。が、半年前の『双竜事変』を経て、恐らくは教えてもらったのだろう。ゴッゾも、まさかこんな場所でドラゴンに再び遭遇するとは夢にも思っていなかったはずだ。

「『不死鳥聖典』を使えば、ドラゴンを倒すことなど容易いことです。私のことは心配ならさず、どうか『封印の地』より脱出を」

「待て。ジュンタ君が言ったとおり、『不死鳥聖典』を使えばその使用者も死ぬと聞いている。それが事実なら、それの使用は認められない」

 リオンの早々の決意にスイカが制止を呼びかける。
 それに続いてジュンタも、自分の感情以外での『不死鳥聖典』使用の危険性を訴える。

「それに、もしリオンが『不死鳥聖典』を使ったら、死ぬのはお前だけじゃない」

「何を言ってますの? 『不死鳥聖典』の行使条件は、竜滅姫である私の命だけですわ。他の誰の命も脅かしません」

「例え直接的には奪わなくても、間接的に死ぬ奴がいる。分かるだろ? クーはそういう人間だ」

 クーの名前を出すと、リオンがハッとした顔になって息を呑んだ。

 最初からそうと決まっていた。この『封印の地』において犠牲を出してはいけないのだ。ここでの犠牲は、クーを助けるための過程での犠牲は、今戦っているクーの心をどうしようもなく折ってしまうだろう。

 それに気が付いて、リオンは手に持った『不死鳥聖典』を強く握りしめる。
 法外の魔力を発するソレを、使徒であるジュンタも使うことができるが、やはりクーがいるために使用は不可だ。

「……それでは、一体どうしろと言いますの? ドラゴンを前にして、何の足止めの手段もなく逃げることなど到底不可能。誰かが囮にならない限り、誰一人として生き残れず、クーを救う手段を伝えることもできませんわ」

「それなら、わたしに一ついい方法がある」

 リオンのぼやきに答えたのはスイカだった。

 彼女は自信満々に胸を張って、

「わたしはこれでも一応使徒だからな。使おうと思えば、その『不死鳥聖典』をわたしだって使うことができる」

「そ、そんな恐れ多いことは絶対にさせられません! 世界や人にとって必要不可欠な使徒様が犠牲にならぬよう存在するのが、私――竜滅姫なのですから!」

「そうだ。それにスイカがそれで死んだら、やっぱりクーは救われない」

「それは違う。クーちゃんはわたしが『封印の地』に入ったことは知らないし、そこを隠し通せば何の問題もない。みんながちょっと優しい嘘つきになれば済むことだ。
 それに、別に『不死鳥聖典』を使わなくても大丈夫。わたしは使徒――つまりは神獣だ。わたしが神獣形態になれば、ドラゴンにだって匹敵す――

「ダメだ!」

 自らが神獣と化してドラゴンと戦う案を出したスイカの言葉を、震えて声をなくしていたヒズミが、それでも大声で遮った。

 その瞳はかつてジュンタが見たことがないくらい燃え、まっすぐに、本当の怒りをたたえて自らの姉の金眼を捉えていた。

「姉さん。自分がなに言ってるか、分かってるんだろうね? 姉さんが神獣になるってことは、つまり姉さんが死ぬってことだ」

「どういうことだ、神獣になれば死ぬって……?」

 使徒の本質が神獣であるのなら、本質へと変化しようと何ら使徒の身体に被害など出ないのが普通だ。だから、ヒズミが口にした事実はジュンタとリオンの顔を困惑に変え、そしてスイカの顔を困った顔へと変えた。

「ヒズミ、空気を読んで黙っていてくれれば良かったのに」

「嫌だね。姉さんは『不死鳥聖典』を引き合いに出して、ここに残ることを認めさせようとしたんだろうけど、生憎と僕に姉さんが死ぬのを見過ごせっていうのだけは認められない。
 姉さんが残るぐらいなら、僕がここに残る。僕だって、ドラゴンを足止めすることぐらいできるさ。やってやるさ!」

「ダメだ。それだけは許さない。お姉ちゃんからの命令だ!」

「ちょっと待ってください、聖猊下。やはり御身を危険な目に遭わすことだけはできません!」

 スイカ、リオン、ヒズミの三人が、自分が残ることを主張して互いに言い争う。
 それを横にしたジュンタは、自分の存在は三人から半ば忘れ去られているんじゃなかろうかと思いつつ、地面に降り立ったっきり次の行動に移らないドラゴンを見やる。

 こちらを威圧するように睨んでくるドラゴンは、圧迫感こそあれど、一切襲っては来ない。かつてのドラゴンは問答無用で襲ってきたのだが……どうしてかジュンタの目には、目の前のドラゴンが何かを待っているように見えた。

 何を待っているのか? 先程ドラゴンが発した言葉を思い出し、ジュンタはまさかと思う。

(まさか待ってるのか? 俺が、さっきの質問に答えるのを)

 ドラゴンが誰を見ているのか、視線を向けられているジュンタだけは気が付いていた。そして先程ドラゴンが発した、リオンたちには聞こえなかった声。恐らくはドラゴン同士でしか分からないその言語……

 どうやって聞いているのか、しゃべっているのかは分からないが、もしかしたらと思ってジュンタは意識してそれを実行する。

(俺は一体誰だって、このドラゴンは訊いてきたのか?)

 声には出さず、だけど考えたことはドラゴンに伝えるつもりで、強く意識を向ける。

――ドラゴン。お前は、俺が誰だって訊いたのか?』

『左様。我と同じ存在にして、我とは違う存在よ。貴様は何者なるや?』

『通じた!?』

『通じる? 無論、通じるとも。――さぁ、答えよ。貴様は何者なるや?』

 それはまるでテレパシーの如く、意識を向け、会話をすることを望み語りかけると、ドラゴンと声を介さぬ会話を行うことができた。

(俺にしか聞こえないってことは、つまりドラゴンにしか届かない音ってことか)

 しかし、ドラゴンの言語を自分が話していることよりも、もっと驚くべきことは、しっかりとドラゴンと意思疎通ができていることだった。

 ジュンタは誰かが犠牲になりかねない現状で、そこに光明を見出す。上手くいけば、誰も死なずに戻れるかも知れないと。

『……ドラゴン。その質問に答える前に、一つ問いたい。なぜ、そんなことを俺に訊く?』

『解らぬ。しかし問わねばならぬ。我と貴様は、そう言った関係にあるのだろう。それは理性ではない、感情ではない、本能の下にある決定だ』

『なら、その質問に答える代わりに、約束して欲しい。俺たちに手は出さないと』

 悪と呼ばれるドラゴンに対し、それはあまりに愚かな問い掛けなのかも知れない。だが、これがおかしなこととは思えなかった。そも、ドラゴン全てが悪だなんて自分は認められない。認められるはずがない。なら、ドラゴンに遭遇したからといって、必ずしも殺し合わなければならない道理はない。

 ドラゴンと戦ったら、確実に犠牲ありきの勝利しか得られない。それなら、戦いを避ける道だけが全員生き残る道なのだ。

『どうするんだ、ドラゴン。俺たちを見逃してくれるのか?』

『元より、我に貴様らをどうこうする理由はない。意義もない』

『分かった。なら、質問に答えよう』

 ドラゴンからの返答を肯定と解釈し、ジュンタは先のドラゴンの質問に答える。

 なぜ尋ねるのか、何を返せば正解かが分からなかったために、口にするのは自分で思う正直な気持ち。

『俺はジュンタ。サクラ・ジュンタ。ドラゴンを神獣とする、使徒と呼ばれる存在だ』


『………………………………………………………………使、徒……?』


 長く、長く、答えに対する返答は、ドラゴンからは来なかった。

 ただ、明確にジュンタが理解したのは、自分が地雷を踏んだということだけ。
 ドラゴンの帯びる魔力が密度を増し、放つ威圧感が増し、睨む瞳に憎悪の炎が増す。

『……………神の、使徒』

 長い沈黙のあと、ドラゴンはその言葉だけを口から零す。噛み締めるように、思い出すように、それは万感の想いが込められた呟きだった。

『使徒。使徒……そう、使徒だ。思い出した。我は思い出したぞ!
 使徒、そうだ使徒であった。呪われた存在。壊れた存在。狂った存在。ああ、そうだ間違いない。覚えている。確かに覚えているぞ!』

「なにごとですの!」

 歓喜の雄叫びを放つドラゴンの威圧感に、話し合っていた三人もドラゴンに注意を向けた。

『使徒。なぜ忘れていたのか。そうだった、そうだったではないか! 使徒。使徒使徒使徒使徒使徒使徒ォ! ああ、感謝するぞ、ドラゴンの使徒よ! 我が愛しき救世主にして、我が憎悪すべき救世主よ!!』

 狂った歓喜と憎悪の爆発がジュンタの思考を塗りつぶしていく。
 声としてではなく感情として叩き付けられた音は、まるで断末魔の悲鳴のようだった。

『使徒よ。ドラゴンの使徒よ。我は思い出した。故に殺そう。貴様を殺そう。死んでくれ。死ぬべきだ。死んで欲しい。死ね。しね。シネ。死ね!!』

「あぁぁあああああッ!」

 怨嗟の声と共に吐き出された炎の弾丸――ワイバーンのソレを速度でも威力でも遙かに凌駕した紅蓮の弾丸が、ジュンタめがけて吐き出される。しかしそれを、かかった負荷に頭を抱えたジュンタは避けられない。

「ジュンタ!」

 横からリオンが飛びついてきて、間一髪のところで直撃のコースから逃れることができた。二人一緒に爆風に煽られ、地面を滑っていく。

「く、ぁ……!」

 打ち付けた背中の痛みと、抱きしめられた温かみでジュンタは我を取り戻す。

「お馬鹿! なに、ぼうっとしていますの!」

「悪い。もう平気だ」

 リオンに叱咤されて、ジュンタは自分の力だけで起きあがる。

 何が逆鱗に触れたかは知らないが、怒り――というよりは憎悪と歓喜で暴れ出した漆黒のドラゴン。先程までのドラゴンがどうするつもりだったかは知らないが、これでもう戦わないという選択肢は消え去ってしまった。

「スイカとヒズミは……」

「無事だ」

 爆風に消えたスイカとヒズミが、向こうから小走りでやってくる。その身体に目立った傷などは見つからない。

「バカをやってしまった。ドラゴンを前にして話し合うなど、できるはずもなかったのに」

「それでどうする? どうやってこの状況を逃れ――くそっ!」

 ヒズミが最後まで述べる前に、次の攻撃はやってくる。

 ドラゴンが口をこちらに向け、開いた瞬間には全員動いていた。そうでなければ、次の瞬間に放たれた炎球は避けることが叶わなかっただろう。

 地面すら溶かす高熱の炎は、爆風だけでも肌に炎を浴びたかのような熱をもたらす。リオンが顔を顰めて、先程からずっと持っていた薬の入っていない石の容器を、たまらず地面に落とした。

「これじゃあ、おちおち相談もしてられないな」

 ジュンタとリオン、スイカとヒズミとで攻撃の度に別れてしまう。そのあとで何とか集まろうとするも、ドラゴンの放つ炎の前に、合流と解散の間は一秒足らずしかない。

 炎が地面の上で燻り、灰色の大地が燃えさかる炎の大地へと姿を変えようとする中、ジュンタの下へとリオンが走り寄ってくる。

「単刀直入に言います。今から私がドラゴンを食い止めますから、その隙に逃げなさい」

「嫌だ。お前が死ぬなんて許容できるか」

 真面目な顔してそう宣ったリオンに、ジュンタは即答し、そして鼻で笑われた。

「誰が死ぬといいましたか。確かに『不死鳥聖典』を使ったら、私は竜滅姫として死ぬでしょう。ですけど少し考えましたわ。ここは『封印の地』――廃棄された世界です。その世界のドラゴンを倒して死ぬなんて、竜滅姫とはいえ馬鹿らしいのではありませんか。
 いずれ私たちの生きる場所にドラゴンは現れるのです。私が倒すべきはそのドラゴンであり、倒したところで世界が救われないドラゴンではありませんわ。次代の子も産んでない今、ここで私が死ぬことなど許されないことです」

「なら、お前が食い止めて、俺らが逃げるってのはどういうことだ? 死ぬ気がないならそんなこと…………お前、まさか……?」

 ある考えが思い浮かんで、ジュンタはリオンの顔を見た。

 手に剣の形に戻したドラゴンスレイヤーを握ったリオンは、ニンマリと微笑む。

「ええ、そのまさかですわ。生きて戦い抜いてみせますわよ。ジュンタが助けを呼んでくるまで」

「バカか! 後一時間もしないで孔は閉じるんだぞ? 閉じたら一週間は次の孔が開けられない! 閉じた世界からは逃げられない! それなのに、一週間もドラゴンと戦い続けるなんて――

「あら? できないと。このリオン・シストラバスには不可能だと、そうジュンタ・サクラは本当に思ってますの?」

 自分の強さを誇る眼差しと力強い笑みを前に、ジュンタは怖気すら感じて黙り込む。

 常識的に考えれば、リオンの案は戯れ言でしかない。不可能だ。ドラゴンを前にして一週間も生きることはできないし、もし逃げられても他にもたくさん魔獣がいる場所で一週間、飲まず食わずでなんて生きられるはずがない。

 ここにリオンを置いていくことは、即ち彼女の死を意味する。確定された死だ……だけど、なぜか『無理だ』、『ダメだ』と即答することは憚られた。

 代わりに、ジュンタはリオンの瞳を見返して、

「それなら俺もここに残る。スイカとヒズミに戻ってもらって、俺もお前と一緒にここに残る」

「その気概は買いますが、残念ながらあなたは足手纏いです。あなたでは、精々一時間足らずしか生き残れないでしょう」

 リオンから告げられたその言葉は、ジュンタがかつて言われたどの言葉よりも衝撃的だった。悔やむほどに、歯がゆいほどに、現実的な真実だった。

 まだサクラ・ジュンタは弱い。いくら修行を受けたって、リオン・シストラバスには匹敵しない。使徒だなんだといっても、まだまだ弱くて、彼女の足を引っ張ることしかできないのだ。

 だけど認められない。頷けない。

 リオンの強さは知っているし信じているが、それでも彼女を失う可能性があるのなら頷けない。それは半年前にも思ったこと。ここにリオンを残していくぐらいなら、その手から『不死鳥聖典』を奪い取って、自らの命を賭けてドラゴンを滅する方がまだマシだ。
 
 だけどそれでは、今度はクーを失ってしまう。

(どちらかしか、どちらかしか救えないのか?)

 リオンとクーのどちらかなんて選べない。そこに自分という要素が加わっているなら笑って自分を選択できるのに、この二人の内どちらかしか犠牲にできないというのなら、この選択肢はジュンタにとってはあり得ない選択肢だった。

 片や、異世界の象徴たる騎士の姫君。命をかけてでも在り続けて欲しい尊い少女。
 片や、異世界でずっと隣にいてくれた巫女。命をかけてでも守りたい優しい少女。

「それでは、よろしくお願い致しましたわよ。ジュンタ、絶対にクーを救ってみせなさい」

 自分の発言を決定として、リオンは立ち上がる。それを見ながら、ジュンタには考える以外の選択肢がなかった。

(考えろ。どちらかを犠牲にしなければいけないなんて嘘だ。あり得ない。他にも選択肢があるはずだ。考えろ、考えろ、今考えなければ本当に失うぞ!)

『封印の地』が開かれている時間は二時間。今から全力で走っても、孔に辿り着くのは残り三十分の頃。そこで援軍を引き連れてここに舞い戻っても、孔が開いている内には再び戻れない。そうなれば一週間孔は開かず、その間リオンは『封印の地』に取り残されることになる。そうなれば死ぬ。フェリシィールが開ける孔以外に『封印の地』から戻る方法はなく、いや、それは本当か? ベアル教は孔を穿った。違法を使えば可能なのではないか? リオンとクーの価値を考えるなら、他を犠牲にしたところで問題など。いや、そうなればリオンとクーが自らの生存を是しないか……

「待て」

 思考に陥りつつ、ジュンタはリオンの手を掴む。

 救える方法はドラゴンを倒すか、フェリシィールが開く以外の方法で『封印の地』へと行くしかない。前者を完全にやり遂げるのは難しいが不可能ではない。そう、自分もまたドラゴンであるのなら可能性は。しかし今の自分に神獣の姿になる方法は分からず、リオンを納得させられない。なら後者ならどうだ? リオンが生き延びていられる内に開く、人道に反しない方法を…………

「手を離しなさいジュンタ。大丈夫ですわ。私は死にません」

 背中を見せたリオンが、優しく手を振り払おうとする。

 あるのか? フェリシィールやルドールなら知っているか? 使徒の権力を使えばどうにかなるか? 自分ならそれを成し遂げられるのか――いや、成し遂げなければいけない。だがそれはリオンをこの場に置いていくことが前提であり、彼女を死なせてしまう可能性は高く、やはりそれを許容などできない。自分がこの場に残るしか、だがリオンよりも弱い自分が生き残れる可能性は著しく低く、もし死ねばクーは主が死んだと嘆いて…………

――待て、違うだろ。外から『封印の地』に入るには孔を開けるしかないけど、俺がここから出るだけなら、別に孔なんて必要ないじゃないか」

 振り払われかけた手を離すまいと強く握って、ジュンタはニヤリとリオンに笑みを向けた。それは強い強い歓喜で充ち満ちた笑顔――

「ジュンタ。あなた何を笑って……?」

「思いついたんだよ、誰も犠牲にならない方法が」

「え?」と見返してくるリオンへと、ジュンタは今思いついた方法を述べる。

 その声は、ドラゴンの吐いた炎の轟音に掻き消され、リオン以外の誰にも聞こえることはなかった。






       ◇◆◇






「あーもうっ、なんで僕はこんなにピンチに陥ってるんだ!」

 ヒズミは大きな声で叫び、必死にドラゴンを見て、炎の照準が外れる位置を逃げ続ける。

『封印の地』に封じられたドラゴン。漆黒の身体に堕天使の羽根を持つドラゴンは、正真正銘のバケモノだった。魔獣などというこの世界における獰猛なケダモノとはレベルが違う、格が違う、正真正銘完全無欠のバケモノだった。

 逃げているだけで肌は焼け付くように痛む。ドラゴンのブレスに直撃しなくても、その余波を受けただけで身体が溶けるだろうことは想像に容易い。今こうして逃げ切れていられるのも、ドラゴンがなぜか適当な攻撃をし続けているからだ。

 ちょっと相手が本気を出せば、それこそぷちっという具合に殺されてしまう――ヒズミはここに来てようやく、皆がドラゴンを悪の象徴と呼ぶ理由を理解した。

「神様死ね! 世の中辛いことばっかりだ! だから神様死んでくれ!」

「あまり汚い言葉は感心しない」

 ジュンタとリオンとは離れてしまったが、逃げている中でも決して別れなかったスイカが、横に並んでそう注意を呼びかけてきた。

「でも、懐かしい。昔から家ではそんな言葉がよく飛び交っていた。だからせめて、そんな言葉遣いだけは止めようと訴えたことがあったな」

「なに、こんなところで昔の思い出思い返してるのさぁ! それ死亡フラグ! 本当に、本当に何とかしないと死ぬってのに!」

「ヒズミはいつでも元気だな」

「この姉はもうっ!」

 そう叫んだ瞬間、ヒズミの腹部に猛烈な痛みが走り抜ける。

 なんだと思って吹っ飛びつつスイカの方を見ると、彼女はその手の『深淵水源リン=カイエ』を振り払った格好で刃を棒状に変化させ、それを地面に突き立てる要領で背後へと猛スピードで下がっていた。

 なぜスイカが自分を攻撃したのか、それをヒズミが悟ったのは、目の前に瞳から水分を奪う紅蓮の光を見てからだった。

 スイカの言葉に注意力が散漫し、ドラゴンの攻撃に気付くのが遅れたのだ。姉が何とかこちらを吹っ飛ばしてくれたから助かったものの、少しでも遅れていれば死んでいた。

 間違いなく、この状況下において、ヒズミの命はドラゴンに握られていた。
 自分の命が他人の手の中にある恐怖に震え、それ以上に姉の命もが握られていることにヒズミは憤慨する。

「姉さん!」

 弓を地面に突き立て勢いを殺し、ヒズミは炎の壁で見えなくなった姉を呼ぶ。

「大丈夫だ、ヒズミ。問題ない」

深淵水源リン=カイエ』を棒状にしたまま、棒高跳びの要領でスイカは炎の壁を飛び越え、目の前に着地する。

「気を付けろ。この状況だと、一瞬の不注意が命取りだ」

「いや、不注意の原因になった姉さんに言われても……」

「人の所為にするのは良くない。それに助けてあげたんだ。言うべき言葉は?」

「ありがとう。で、どうするのさ?」

 炎に囲まれ酸素が少なくなってきたが、それでも炎が壁となってドラゴンからこちらの位置を見つけにくくしている。相変わらずドラゴンは自分を中心として手当たり次第に炎を吐き出しているが、それが命中するコースを描く確率は最初よりも低くなっている。

「逃げるなら今しかない。もう、十分僕らはやるべきことをやった。逃げたっていいだろ?」

「それは、ジュンタ君とリオンを囮にして逃げるということか?」

 目を細めるスイカに向かって、ヒズミは強く迷うことなく頷いた。

「そういうこと。僕にとっては、サクラとシストラバスよりも自分の命と姉さんの命の方が大事だ。だから犠牲にすることでしか助からないなら、喜んでそうするね」

「ヒズミ、だけどそれは……」

「姉さんは? 姉さんは、僕の命よりもあいつら二人の命の方が大事だって言うのか?」

「それは…………狡い。その質問に、首を横に振れるわけないじゃないか。
 ずっと二人でやって来たんだ。こんな世界でこんな状況になりながらも、ずっと二人で」

「そう、そして僕らはこれからも二人でやっていく。こんな場所でなんて死ねない。死にたくない。逃げよう、姉さん」

 再度持ちかけた話に、スイカは長く長く口を噤み続ける。

 彼女の金色の瞳は炎の向こうに出会ったばかりの少年少女を捜し、でも見つからなくて、最後には弟の顔へと変わる。

――無理だ。わたしは、それでもジュンタ君を見捨てられない」

 姉のその返答に、ヒズミはどうしようもなくショックを受けた。

 こういえば、絶対にスイカは自分と一緒に生き残る道を取ってくれるものとばかり思っていた。今までずっとそうだったから、この瞬間もそうだと信じ切っていた。けれど、スイカの返答はかつてなかった否定の返答で、それは果たして突然現れた少年の所為で……

「なんだよ、それ。どうして、あんな奴なんかのために……!」

 怒りを超える衝撃で、ヒズミは泣きそうになった。けれど、泣けなかった。その、スイカの顔を見てしまっては

「ごめん、ヒズミ。でも、ダメなんだ、わたしは」

 スイカは泣き顔を見せていた。いつだってどんなときだって、絶望的な状況でも、孤独の中でも涙を見せなかった強い姉が、今はボロボロと涙を流していた。先の返答を超える衝撃に、ヒズミは思い知る。姉にとって、どれほどにあのジュンタという少年が意味を持っているかを。

「ごめん、ごめんね、ヒズミ。でも彼は、ジュンタ君はわたしにとって……」

 それが暗にどういう意味かは、もはや尋ねるまでもない。

 ……目を逸らしていたのだ。そんなことはありえないと。
 だって、ありえてはいけなかった。この世界で自分たちは二人だけだったのだから、三人目はいてはいけなかったのだ。だから、怪しすぎる彼を自分は無意識に嫌っていた。

「姉さん。あいつはやっぱり、あの時の……」

 子供みたいに泣くスイカの言葉は、それ以上ちゃんとした言葉にはなってなかった。

 止め処なく溢れてくる涙を拭おうと必死になっている彼女には、いつもの和やかな雰囲気はなくて、ヒズミは困惑のままに全てを受け入れて手を延ばし――
 

――――見つけましたわ!」


 いきなり横手の炎を切り裂いて現れた紅髪紅眼の騎士を見て、止めざるをえなくなってしまった。

「ご無事で何よりですわ、スイカ聖猊下。ヒズミ」

 現れたリオンは前方に立ち、安堵の吐息を吐き出した。

「単刀直入で申し訳ありませんが、スイカ聖猊下、ヒズミ、一つ作戦があるのですが」

 リオンは必死の様子であり、こちらの状態には気付かなかったようで単刀直入に本題に移る。事態はせっぱ詰まっている。ドラゴンが気付かない内にどうにか行動しなければいけない。

「作戦ってどういうことだ? それはここから無事に逃げるための作戦だよな?」

「ええ、もちろんですわ。この『封印の地』から四人全員が欠けることなく脱出できる、恐らくこれが唯一の方法ですわ。ですが、それなりに危険も伴います」

「作戦はどんなものなんだ、リオン?」

 危険だという言葉には躊躇せず、即座にスイカがリオンの作戦に食いつく。その眼からはすでに涙はなく、雰囲気もいつも通りに戻っていた。

(こうなった姉さんは止められないか。このままだと、姉さんは神獣の姿になるって言い出しかねない。それよりは、まだ)

 だから仕方ない。あくまでもスイカのためを思って、だ――そう自分に言い聞かせて、自らもその作戦に手を貸す旨をヒズミは伝える。

「分かった。で、僕らは何をすればいいんだ? ここにやって来たってことは、僕らの助けがないと実行に移せない方法なんだろ?」

「その通りですわ。これはお二人の協力が必要不可欠です」

 リオン・シストラバスは炎の向こうにそびえる、居城のようなドラゴンを睨みつけて、壮絶に笑う。自分が竜滅姫であることを誇示するように、それはドラゴンを前にした人間ではあり得ない笑みだった。

――あのドラゴンから、クーを治すための血を手に入れますわ」

 そしてそれは、本当の意味でこの地獄において、反撃の狼煙をあげる合図でもあった。






 色のない『封印の地』は、その世界の王たるドラゴンの息吹によって、今や炎が燃えさかる地獄へと姿を変えていた。

 そびえたつ巨人を囲み、紅蓮に炎が燃えさかっている。それは壁となり、辺りから酸素を奪い、さながら死というゴールしかない、炎の迷路のようだった。

 その迷路に迷い込んだ者には、もはや焼死か窒息死しかあり得ない。
 だけど死を甘受するだけを良しとする者は、一人たりともいなかった。

 誰もが生き残ることを渇望し、死神である炎の迷路を、迷宮の怪物であるドラゴンから自分の姿を隠す隠れ蓑として利用している。そのたくましさこそが、人間という種なのだ。

――どこだ。どこにいる使徒よ。哀れな道化よ! 我はここにいるぞォ!』
 
「まったく、あのドラゴンはどうしてあんなに俺のことが大好きなんだ?」

 炎は高く、だけど灰色の空が見える広めの空間に陣取り、ジュンタはドラゴンの背中を見上げていた。

 今なお聞こえ続けるドラゴンの声なき声。溢れる暗い感情の嵐に晒されながらも、両手の剣に賭けた想いのために、ぐっと我慢して声を聞き続ける。

『我と戦え! 我を喰らってみせろ! それが貴様なのであろう!』

 叫びのあとに、ドラゴンの口から巨大な炎が吐き出される。それで迷路の形がグチャグチャになって炎の密度が増す。焼け付く熱さは尋常じゃない。纏う魔力がなければ、サウナ並の汗をかいて脱水症状を起こしていたことだろう。

「リオンたち、大丈夫だろうな」

 ジュンタは今ドラゴンがブレスを放った方にいるはずの、リオンとスイカ、ヒズミの三人の心配をする。

 リオンに伝えたとある作戦。それにはスイカとヒズミの二人の協力が必要不可欠で、先程作戦を実行に移すために、果敢に出口のない炎の迷宮にリオンは挑んでいった。

 普通の人間ならば、その過程の中で、熱か息苦しさで倒れるのがオチだろう。しかしリオンにはドラゴンスレイヤーという反則がある。出口がない迷宮でも、あの剣は壁を切り裂くことによって強引に出口を作れる。もうすでにスイカとヒズミと合流を果たし、作戦執行前の打ち合わせを行っていると思われる。

 彼女たちが、ドラゴンのブレスにみすみすやられるとは思わない。それよりも心配していることは、スイカとヒズミがそもそもこの作戦に協力してくれるかどうかだった。

(スイカもヒズミも根はお人好しだ。だけど、人間誰しも自分と自分の大切な人の方が大事なもの)

 ジュンタもリオンも、クーという大事な人のために戦っている。けれどスイカとヒズミにとっては、クーはそこまで仲良くもない相手だ。その彼女のために、『ドラゴンの血を手に入れる』という危険な作戦に乗ってくれるかどうかは分からない。

(その前に、周りが炎で囲まれる前に逃げた可能性だってあるし……)

 出会ったばかりの使徒と巫女の姉弟――二人の性格を考えるに、作戦に乗ってくれる可能性は6:4ぐらいだった。

 そして作戦決行の約束として、二人が拒否したら作戦は行わない。その場合リオンがこの場でドラゴンを足止め……そう、ジュンタは彼女自身の口から約束を取り付けられていた。

 いわば、これはスイカとヒズミの決定に全てを託した、ジュンタがリオンとクーの両方を助けるための作戦なのである。

(これがダメだったら…………そうなったら、もう仕方ない。クーの強さに賭けるしかない)

 作戦が中止になったとしても、リオンを置いていけるはずがない。
 そうなってしまった場合には次善の策で動く。即ち、リオンの手からの『不死鳥聖典』の奪取を決行するつもりだった。

(本当に、頼むからな二人とも)

 祈るべきは神ではなく、クーのためだとここまで来てくれた優しい二人――果たしてジュンタの祈りは届いたのか、そのとき断続的に狂った声をあげていたドラゴンが、これまでとは違う言葉を口にした。

(なんだ人間、我が聖戦を邪魔だてするか!)

「うしっ!」

 自らが空を飛べることすら忘れ、炎のみを追い詰めるように吐き出し続けていたドラゴンの視線が、自らの足下へと向けられる。

 ドラゴンの声。そこにいるだろう三人。
 作戦は決行されたのだと、ジュンタは笑みを作って、そして動かない。

「がんばってくれ、みんな」

 動かない――それがサクラ・ジュンタのこの作戦において、唯一努める役割だった。

 そして始まる――――ここからが、本当の戦い。






 見失っていたのはソレ。
 見誤っていたのはソレ。
 裏切っていたのはソレ。

 ジュンタ・サクラというたった一人だけの主。ドラゴンだから大嫌いにならなければいけない人。憎まなければいけない人。……そもそも、そうやって悩むことが間違っていた。

「こんな私に、真実があるはずがない。答えがあるはずがない。こんな……一番大事なものさえ、罪の意識を和らげるために使っていた自分に、最低な自分に、あるはずがないのに!」

 果たして、巡り会った大切な人の何を自分は見ていたのか?

 優しい人。強い偉大な御方。格好いい救い手たる使徒。
 見ていたのはジュンタ・サクラという一人の少年ではなかった。見ていたのは、自分の『使徒』という、救いの役割だけの存在だった。

 自分にとって、ジュンタ・サクラに必要なものは『使徒』という名前だった。ジュンタ・サクラという個人ではない、『使徒』という名の名前の方が必要としていた。

「本当は悩む必要なんてないはずなのに、嘆く必要なんてないはずなのに……私は、悩んでいることをまず罰するべきだった」

 何よりも最初に気付くべきで、何よりも最初に直すべきだったところ。
 それはドラゴンであることではない。血みどろの生誕理由ではない。綺麗な存在になろうと追い求める前に、まずはそのことを知り、そのことを悔やみ、それを直すべきだった。

「そう、だったんですね。私は、ジュンタ・サクラという人のことを、何を見ていなかった。
 
 見ていたのは使徒という存在。主という存在。誰でもいい、他での誰かでもいい、ただ自分を救ってくれるならそれでいい、ただそれだけの存在として彼を見ていた。

 だから、使徒という名前が揺らぐドラゴンという名前を聞いて、惑ってしまった。
 彼は『竜の花嫁ドラゴンブーケ』という名前を知っても嫌わないでくれたというのに、自分は彼を嫌いになろうとしてしまった。

「嫌わないでいてくれたということは、ご主人様はクーヴェルシェン・リアーシラミリィという存在そのものを見て、受け入れてくれたということ。その上で私を救おうとしてくださっているのに……私は、ご主人様を見ていなかった。いつだって、見ていたのは使徒様」

 見失っていたのは全て。 
 見誤っていたのは世界。
 裏切っていたのは大切な人。

 クーはジュンタのことを何も知らない。その過去も、その思いも、知ろうとしなかった。全てを使徒であるという一言だけで決定づけていたから、彼のことを知ろうとも考えなかった。

「……私が好きだったのは私の聖猊下で、ジュンタ・サクラという人ではなかった。だから、使徒様であることが揺らいだ今、こんなにも疑ってしまっている。あの人は確かに使徒様だけど、ドラゴンだけど、それでもあの人はあの人なのに………」

 いつのまにか夢から覚めていたクーは、ベッドの上で身体を起こした。
 
 身体は酷くだるいけど、それでも今、やらなければいけないことがわかった。

「見たい。私は、ご主人様を。使徒であって――

 クーヴェルシェン・リアーシラミリィの主は、使徒。
 
「ドラゴンであって――
 
 クーヴェルシェン・リアーシラミリィの主は、ドラゴン。

「だけど、ジュンタ・サクラである人を、私は見たい」

 その全てをひっくるめて、クーヴェルシェン・リアーシラミリィの主は、ジュンタ・サクラという人なのだ。

「もう一度、確かめたい。全てを」

 だから、会おう。巫女としてではなく、『竜の花嫁ドラゴンブーケ』としてではなく、全てをひっくるめたクーヴェルシェン・リアーシラミリィとして。

「会いたいです――ご主人様」

 あの温かい優しさに、もう一度出会うために。
  
 



 ――――パタン。と、どこかで本が閉じる音がした。










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