第十九話  我もまた悪の名を欲す




 よくよく考えてみたら、こうして騎士としてドラゴンに挑んだ竜滅姫は自分が初めてなのではないか――圧倒的な存在感を伴う漆黒の巨壁を見上げ、リオンはそんなことを思う。

 シストラバス家の竜滅姫にとってドラゴンとは、始祖ナレイアラの血を引く姫として滅ぼす対象だ。その身は騎士であるが、剣で戦いに挑むことはない。なのに剣を握っているおかしさと、それを上回る強敵に対する昂揚によって、リオンは唇に弧を描く。

 間違いなく、目の前の敵はこれまで自分が戦ったどの敵よりも強い。
 騎士としての血が戦場を求め、熱くたぎる。竜滅姫として自らの死を賭けた責務の全うではない、生き残るためにし合うが故の武者震い。

「我が天敵よ。私は今、心底から笑っていましてよ」

 右手に握るドラゴンスレイヤーの切っ先を、殺意をもって見下ろしてくるドラゴンに向ける。

 それは挑戦の表明であり――

「行きますわ!」

 ――戦いの火蓋を切って落とす行為!

 真っ赤に燃えた天井が落ちてくるかのような豪炎が、ドラゴンの口内で燃えさかったかと思うと次の瞬間には間近まで迫っていた。
 
 ドラゴンの足下にいたため、炎が吐かれてから到達までの間隔が短いのは当然。触れれば焼け崩れる劫火の熱に、リオンは剣に込められた熱をもって応え、即座に回避行動に出る。

 神秘を切り裂くドラゴンスレイヤーといえども、ドラゴンの息吹に対して真っ向から迎え撃つのはあまりに無謀――リオンはできうる限り直撃のポイントから移動して、目の前のドラゴンの力を探るために牽制を仕掛けた。

 実はドラゴンというべき生命体のことは、ほとんど分かっていない。

 ただ、分かっている中の重要なこととして、ドラゴンは個体ごとに不可思議な力を有しているということがある。それは使徒が有する力に似ていると言われていた。もっとも使徒が神より力を授かったというのなら、まったく似て非なるものなのだが、能力如何によってはドラゴンの基本的な攻撃よりも脅威となる場合もある。

 探りを入れ、本命の一撃を必ず命中させる状況作りが、リオンの作戦において担う役割だった。

「はぁッ!」

 爆風の熱を感じぬ場所まで駆けたリオンは、手始めにドラゴンに向けて剣を振るう。
 人間の十倍以上もある巨体は、足下へと斬りつけた斬撃を、その体格からは考えられないほどの敏捷性で避けてみせる。

「くっ!」

 徐に身体を一回転させたドラゴンを見て、リオンは出来うる限り大きくバックステップを踏む。

 目と鼻の先をドラゴンの長い尾が擦過していく。少しでも避けるのが遅れていたら、骨まで砕かれていたことを確信させる強い風が頬を叩く中、リオンは改めてドラゴンとの戦闘方針を固める。

 ただの一撃が全て致命傷になりかねないドラゴンとの戦いは、全て先読みによる回避でなければいけない。自分の反射速度をもってしても、攻撃を見てから動いていては間に合わない。

 尾が目の前を通り過ぎた直後に、リオンは再びドラゴンへと突っ込む。
 
 何とか足へと攻撃を仕掛けようと剣を閃かせるが、その攻撃はまるで足の近くに目があるように察知され、空しく空を切るばかり。

「大きな図体の割に、すばしっこいですわね!」

 炎により明るすぎるほどだった空が、そのとき急に暗くなる。否、空が陰ったのではなく、空を覆うほどの巨体がリオンの頭上に現れただけ。二本足で今まで立っていたドラゴンは、腹を地面に押しつけるように四足歩行の形へと移行しようとしていた。

「このっ!」

 全力でドラゴンの下から跳び出る。間一髪ドラゴンの身体に押しつぶされることのなかったリオンだが、衝撃の影響で、予定地点よりもかなり遠くに着地することになってしまった。

 さらに、ドラゴンが追撃として放った炎のブレスが、いきなり地面からそびえ立った壁のように目の前に現れる。これにはさすがにもっと間合いを外すしかなかった。

 これで最初の奇襲で得た間合いがなくなってしまった。
 あの巨体に対して接近戦を挑むしかないというのに、相手が全身凶器では下手に接近戦を仕掛けても十分に戦えない。

(なるほど、ドラゴンの研究者が嘆くのも無理ありませんわね)

 リオンはこれまで戦った相手とはまったく違う、独特の戦闘の感覚に僅かに戸惑う。

 ドラゴンの存在こそ世界的に知られているが、その実生態系は疎か、炎を吐く、力が強いなどといった戦闘についての情報も少ない。

 これこそ竜滅姫がドラゴンの出現と共に即滅してきた弊害であった。無論それが正しいドラゴンへの対処法であり、過去の竜滅姫たちを責めることなどありえないが、それでもドラゴンとの戦いに剣で臨む上で、戦闘に対する予備知識はないに等しかった。

 どのタイミングでドラゴンは次の攻撃に移るのか。炎を吐くのか。尾はどんな軌道を通るのか。
 同じ人間だったなら、その呼吸と筋肉の動きで。魔獣だったならば、以前それを相手にした人の経験と知識から学んで対処法をイメージできるのだが、かつてドラゴンと真っ向から剣で挑み、勝った人間はいない。

 まったく間合いと呼吸が読めない相手を前にして、リオンは防戦一方しか取れなかった。強敵であればあるほどに事前の情報が重要だと言うのに……

「ええ。ですが、それがドラゴンなのですわね」

 古の時代、魔法もなかった時代、人はそれでもドラゴンに挑んだ。
 ドラゴンとの戦いの情報があるとすれば、もはや一言一句程度しか残されていない、その頃の文献ぐらいのものか。いや、一番重要な情報だけは残っていた。

「人は、たとえ勝てなくともドラゴンに挑んだ。ドラゴンは首を断とうと、心臓を貫こうと死なぬ異物と知りながら、自分たちが人間である限り、いつか必ず勝てると信じて。その不滅の意志があったことは『救世序詞』によって語られていますのよ」

 かつて思い出すのは、ランカの街の上空で繰り広げられた、人知を越えたドラゴン同士の激突。目の前のドラゴンは、あの時ドラゴンが見せた力の欠片程度しか見せていない。

 つまりは手加減されているのだ。リオン・シストラバスともあろう者が、天敵であるドラゴンにお前など敵ではないと言われているのだ。

 許せるものか――ああ、許せないとも。

「是が非にでも、その力、拝見させていただきます!」

 炎の壁を切り裂き、再びリオンはドラゴンの懐に潜り込もうとする。

 知識のないことがなんだと言うのか。かつて未知なる強敵と戦い、後世に重要な情報をもたらした者たちは、何の事前知識もないまま敵と戦ったのだ。

「ドラゴンの知識がないのなら、私がもたらす者になればいいだけの話ですわ!」

 猛然と炎を切り裂いた勢いのまま、四つんばいになったドラゴンの横っ腹まで駆け、黒い皮膚へと斬撃を放つ。

 見えざる『侵蝕』の魔力に覆われ、この世のどんなものよりも硬いといわれているドラゴンの身体――しかしシストラバス家のドラゴンスレイヤーは、その守りを凌駕するために生み出された剣。放った斬撃は鱗を貫いて、ドラゴンの皮膚に傷を刻みつけた。

 喜んだのも束の間、目の前で傷口は血をほとんど流す間もなく塞がってしまう。

 ドラゴンの回復力は凄まじい。少しはドラゴンスレイヤーによる治癒の遅延が行われているだろうが、あまりにか細い効果しかないよう。血を採取するには、一瞬で回復されないぐらい深い傷を与えなければならないようだ。

(あまり時間もかけていられませんし、これは相当に難題ですわね)

 視界の隅で紅蓮が輝いたのを、視認する前に気配で察し、リオンは一旦ドラゴンより離れる。

 長い首を動かしたドラゴンが、身体の向きは変えないまま、口から炎を一直線に吹く。それはリオンが少し前まで立っていた地面を溶かし、炎の壁を残した。

 攻めるに難しく、避けるに厳しく、さらには防御力・回復力まで生物最強。なるほど、間違いなくドラゴンは最強の生命体だ。さすがは神獣と対なす魔獣の王。矮小な人間の身では少しの血を得ることすら難しい。

「上等ですわ」

 だからこそ血がたぎる。騎士の剣がキシリと強く握られる。

「例えどんなに難題だとしても、リオン・シストラバスの名にかけて、その血は必ずもらい受けてみせます!」

 全身に熱く迸る魔力の熱。ドラゴンを守る不可視の魔力を打ち消す、それは『封印』の魔力――炎の壁を疾走するだけで打ち破り、リオンは勝負を決するために、無謀ともいえる行為を決行する。

 いや、それは無謀に見えて、しかしなかなかに上策のはず。リオンの勘はそう告げていて、だからこそ実行に移した。

(ここでしたら、尾の攻撃も炎のブレスも届かないはず!)

 炎の壁を突き破った勢いで跳躍したリオンが着地したのは、その向こう、紛う事なきドラゴンの背中の上だった。

 小さな屋敷ほどの大きさもある背に足をつけ、ドラゴンの頭へと一気に駆け抜けていく。

 ドラゴンの身体の上に乗るなんて、それこそ無謀のように思われる。しかし周りから攻撃を仕掛けても、尾や炎による攻撃がどこからでも降りかかってくる。一々それを避けるために下がっていたら、フェリシィールが開けた孔が塞がってしまう前に戻れない。

 よくも知らない相手に取る方法としては下策かも知れないが、それでも自分はこれが最善と判断した。ドラゴンの背なら尾による攻撃も届かないし、ブレスも自分の背中を焼き焦がすとなれば手加減されるだろう。

 あとは頭部まで到達し、その額へとドラゴンスレイヤーを深く突き刺せば、自分の責任は果たされる。能力の詳細までは調べられなかったが、それでも血さえ手に入れられれば、ジュンタの負担は減るはず。生存確率だって……

「っ……!」

 そう考えていたリオンが首まで迫ったとき、ドラゴンが取った行動はこれまでとは違った。

 背中の翼が空を覆うように広がったかと思ったら、次の瞬間にはドラゴンの身体は宙を駆けていた。リオンは風圧に飛ばされまいと咄嗟にしゃがみ込み、ドラゴンの首に掴まりつつ、その飛翔のスピードの凄まじさに顔を顰める。

 ついに空を飛んだドラゴンは、一気に上空へと駆け上ったあと、背中に張り付いた虫を落とさんとすぐに滑空に移る。

「く、ぁ!」

 反転の反動で手がドラゴンから離れ、リオンの身体はドラゴンとは別に地上へと落下を始める。その高さは、落ちたら確実に死んでしまう高さ――

「墓穴を掘りましたわねっ、ドラゴン!」

 ――だが、それがどうしたとリオンは空中で体勢を整え、真下に向かってドラゴンスレイヤーの切っ先を突きつけ、そのまま重力に逆らうことなく落下していく。

 落下による死など恐れない。今の自分にとっての最重要課題とは、いかにしてドラゴンから血を奪うかどうか。それを考えるなら、このドラゴンに向かって猛スピードで落下するのは決して悪いことではない。

 落下により加速するリオンの身体。倍増する運動エネルギーによって磨かれた切っ先は、さながら地面に着地したドラゴンを狙う、竜滅の紅き矢の如し。

「私の力を――思い知りなさい!」

「グルウゥァァアアアアッ!!」

『封印』の力が込められた矢はドラゴンの魔力の壁を容易く突き破り、その首筋に盛大な斬撃を浴びせる。魔獣特有の緑の血ではなく、人と同じ赤い血がドラゴンの首筋より飛び散った。

 リオンはドラゴンを斬りつけた反動で緩んだ落下スピードを、さらに地面への着地の際に何度も転がることによって何とか受け流す。回転受け身を取って素早く立ち上がり、あらん限りの声で叫んだ。

「今ですわ!!」

 その叫びに応えるのは、空より降り注ぐ燃えさかる炎の矢の群。

 大気を焼き焦がしてドラゴンの頭部へと降り注ぐ矢は、まるで火の雨――それは首筋の傷を治しかけていたドラゴンの気を引き、そして上空へと視線を向けさせる囮となった。

 本命はそうやって囮の攻撃に気を取られている中、静かに地上から忍び寄る。

「行くぞ、リオン!」

「ええ、お願いいたしますわ!」

 痺れる身体に鞭打ってドラゴンに走り寄るリオンの横へ、近くに隠れていたスイカが躍り出て、そのまま併走する。

 二人は並んだままドラゴンへと駆け寄って、得物を強くその巨体へと繰り出した。

 リオンがまず先にドラゴンへと斬りかかり、『侵蝕』の魔力ごと浅く皮膚へと傷をつける。
 そこへすかさず、スイカの持つ変幻自在の刃が突撃槍ランスとなって、傷口を押し広げるように押し込まれた。

「もらった!」

 硬質化した血の刃の周りから、蓋を押し上げる間欠泉のようにドラゴンの血が溢れ出る。高く飛び散った血へと、刃の部分を外した『深淵水源リン=カイエ』をスイカは突きつけた。

 液体を操るスイカの魔法武装は他の魔獣の血を一切捨て去り、新たにコップ一杯程度のドラゴンの血を自らの刃と変える。即ち――ドラゴンの血は手に入れた。

「離脱します!」

「了解だ!」

深淵水源リン=カイエ』の刃だった血が液状に戻ると同時に、塞がっていくドラゴンの傷。
 再び空からヒズミが放った炎の矢がドラゴンを強襲するのに合わせ、リオンとスイカはその場から全力で離れ、炎の迷路へと身を躍らせる。

 ひとまずドラゴンの近くから逃げた二人は、走ったまま同時に笑みを浮かべた。

「最初はこんな作戦を提案したジュンタ君を疑ったものだけど、結果をいえばどうにかなったな。さすがは音に聞こえし竜滅姫。ドラゴンの無敵の身体をあんなにも簡単に切り裂くとは驚きだ」

「いえ、私にできたのはドラゴンの防御を破ることだけ。血を手に入れるほどの傷を負わせることができたのは、ヒズミの援護とスイカ聖猊下の協力あってのことですわ」

「確かに。こんな無謀に近い作戦、三人の力を合わせないとできないな。ヒズミも無事に逃げられただろう。あとは合流して、一刻も早くクーちゃんへと血を届けるだけだ。急ごう」

 これでリオンとスイカとヒズミの三人に任された作戦は終わりだった。
 あとはクーへと薬を届けるだけ。四人全員が『封印の地』を脱出できるこの作戦が成功するかどうか、後はジュンタにかかっている。

 ドラゴンの血を手に入れるという快挙を成し遂げた昂揚を、リオンはジュンタのことを考えることによって静かに冷ます。

 僅かに黙考したあと、リオンはやおら走る方向を変更した。

「リオン、どこへ行くんだ!?」

「聖猊下は、どうかクーにドラゴンの血を! 私は――

 困惑の眼差しを背中に感じつつも、リオンは自分が『封印の地』を脱出する前に、

――この場に残る、ジュンタを激励してから後を追います!」

 ドラゴンの足止めという、最も危険な役割を担った少年の下を目指す。






       ◇◆◇






 ジュンタがリオンに提案した作戦は至極簡単な内容だった。
 つまりリオンではなく、自分がドラゴンを足止めするためにこの場に残るというものである。

 それをリオンに伝えたところ、それはもう途轍もなく怒られた。さもありなん。リオンは詳細を聞く前に感情で怒るので、それは仕方がないことだった。

 怒れるリオンに、四人全員が『封印の地』を出る方法はこれしかないことを説き伏せるのには何とか成功した。クーやスイカを盾にとって正論で畳みかけて、何とか強引に承諾を願った。

 しかし誤算だったのは、リオンがそこから作戦にもう一つ行動を加えたことだろう。

――でしたら、すぐに見つかるか分からないドラゴンの血を探す時間が惜しいですわね。だってそうでしょう? あなたがドラゴンを足止めできる時間なんて、十分もあれば良い方なのですから』

『この作戦、確かに悪くはありませんわ。私的にはむかつきますけど。ですから、あなたがドラゴンを足止めする前に、私がドラゴンの血を手に入れて来ますわ。それを持ち帰れば、ほら、あなたがドラゴンを足止めする時間は限りなく少なくて済むでしょう?』

 それはすぐにリオンたちが撤退に移るのではなく、まずドラゴンの血を手に入れてから撤退するということ。危険性など無視して、それがこの作戦を承諾する、リオンの出した交換条件だった。

 それをジュンタは呑み、そしてリオンはドラゴンへと立ち向かった。
 
 ドラゴンと空へと駆け上り、その途中で振り落とされたときはまずいと思ったが、結果をいえばさすがはリオン――いや、さすがあの三人といったところだ。

 三人は命を賭して、自分たちの命のためではなく、こちらの命を守るために戦ってくれた。務めを果たしてくれた。こうなったら、それに報いるためにもがんばらないといけない。

 ジュンタは双剣を構え、これまでよりも怒れる雄叫びをあげるドラゴンを見据え、三十分あまりの時間を稼ごうと思った――その矢先、呼んでもないのに現れましたリオンさん。

「……決意を胸に、格好良く立ち向かっていく予定だったんだけどなぁ〜」

「なに言ってますのよ?」

 炎を切り裂いて現れたリオンは、ツカツカと近付いてくる。

 作戦では、リオンはドラゴンの血を手に入れたあと、スイカとヒズミと一緒にすぐこの場を離脱する予定だったのだが、どうして彼女はここにいるのだろうか?

「どうしてお前はここに来たんだ? さっさと入り口まで戻らないと、もうすぐ孔も塞がるんじゃないか?」

「そんなヘマはいたしません。それくらいの時間把握はできています。用事を終わらせたら、すぐにでもスイカ様とヒズミの後を追いますわ」

「用事って、一体どんな? 別に今更、ここに残るとか言いに来たわけじゃないんだよな?」

 渋々作戦を認めたリオンの性格を考えるに、その可能性も十分考えられたが、スイカとヒズミの後を追うことを明言しているから違うのだろう。

 この大切な瞬間に、それでもリオンがやってきた理由。ジュンタは思い当たらなかった。

「ジュンタ、分かってますわよね? あなたはここに残り、私たちが逃げ切るまで時間稼ぎをしますのよ? それは先程私たちが戦ったことよりも、もっと危険な行為ですわ」

「だろうな」

「そして私よりも、あなたはずっと弱い。三十分――いえ、二十分。そんな長い時間ドラゴンを前にして生き残ることの難しさ、あなたでしたら分からないわけではないでしょう?」

「ああ、分かってるさ」

「ですけど――

 リオンは真っ直ぐ紅い瞳で射抜いてきて、真面目な顔で言い放った。

――それでも、あなたはここに残ると言いますのね?」

 リオンのその問い掛けに、ジュンタは彼女が何を言うために戻って来たかを悟る。いや、何を聞きに来たかを。

 彼女が聞きたかったのは最後の決意だ。燃えさかる炎の中に飛び込もうとする弱い少年の、それでも責務を全うしてやるという強い決意なのだ。

「あなたが私たちと一緒に逃げても、もしかしたらドラゴンにやられることなく全員が孔まで辿り着けるかも知れません。それでもあなたは――

「ここに残る。残って、俺はお前らが孔に戻るまで時間稼ぎをする」

 リオンの惑わせる言葉を遮って、ジュンタはしっかりと言い切った。

「確かに、ここで俺も一緒に逃げて、四人ともが戻れる可能性だってあるさ。だけどそれは限りなく低い。ドラゴンが本気を出せば、俺らの足じゃすぐに追いつかれる。それにもっと最悪なことは、ドラゴンが孔から外に出ることだ。そうなったら、外にいるみんなはどうなる? 俺がここに残るのが一番いい。いや、違うな」

 頭を振って、自分の言った言葉の間違いを訂正する。

「そうするしかないからじゃなくて、俺がそうしたいから残るんだ。だからリオン、さっさとお前は行ってこい」

 ジュンタは揺るがぬ視線を返し、リオンに背を向け、ドラゴンを睨む。
 本当にこれ以上は話していられない。ドラゴンがここから飛び立ってしまったら、もう自分では足止めするにも追いつけなくなる。

「……遺憾ですわね。最後の最後で、あなたに全部いいところを持って行かれてしまいましたわ」

 だから、後ろで呟きもらしたリオンに、背中を向けたままで返す。

「役割の問題だろ。お前が最初に、騎士として薬を手に入れて帰るって約束したんだ。なら、お前がクーに薬を持っていかないと」

「そうですわね。私はクーに薬を届ける。あなたはここでドラゴンを足止めして、そして絶対に生き残りますのよ!」

 リオンの言葉尻はどう聞いても命令形で、それが一番よく気持ちが伝わってきた。

 ありがたい。と、ジュンタは一層の決意を固め、軽口をもらす。

「もちろん。二十分といわず一時間でも、一日でも、それこそ一週間だって持ちこたえてやるさ。俺をあんまり嘗めるなよ? そうだな。俺がちゃんと生きて戻れたら、そのときはお前に、キスの一つでもほっぺにしてもらおうかな」

「キ、キスですって!?」

「冗談だよ、冗談。それじゃあリオン、また後でな」

 最後に再会のあいさつを口にして、ジュンタは駆け出す準備に移る。

 全身に魔力を通して、重さを省いて、いざ行かんと思ったそのとき――ふいに全身を弛緩させる柔らかな感触が頬に触れた。

 それは一瞬だったのか、はたまた十秒近かったのか、時間があやふやになるほどの驚愕と柔らかさだった。思わずしっかりと握っていた剣を落としかけたほどの衝撃に、握り直した左の剣を持ったまま、感触の離れた左の頬を指で触れる。

「うん? え? あ、いや……」

 頬に触れた唇の柔らかさが、離れたあとも延々と残っているような気がした。
 リオンに今何をされたかに理解が及んで、ジュンタは急速に顔を真っ赤に染めあげる。

「お……マジか? いま、俺、リオンにキスされ、た……?」

「く、口にしてはいません! 頬! 頬です! 主君から臣に対する激励と報奨ですわ! か、勘違いしてはいけませんわよ!!」

 自分に負けないくらい真っ赤なリオンを見て、間違いなく、そっと音もなく近付かれ、彼女に頬へと口づけされたことをジュンタは確信する。理解してより一層呆然としたままのジュンタに、リオンがしどろもどろに自分が行った行為の理由を述べる。

「あなたはドラゴンに挑むわけですし、それなりの報奨は然るべきであって、褒められるべき行いをなした騎士に報奨を与えないことは貴族として最低であり、いえ、別にジュンタは我が家の騎士ではありませんけど……そ、そもそも、あなたが頬にキスをして欲しいと言ったのではありませんか!」

「逆ギレ!? 俺は帰ったらしてくれって言ったんだよ」

「で、ですから、前渡しです。こうしてあなたには有り余るほどの報奨を渡されたのですから、あなたはそれに見合う分の功績を、絶対にこれから成し遂げなければならないのですわ。
 いいですわね? 絶対に生きて帰ってきなさい。そうしなければ、あなたは報奨だけを奪い取った盗人として、代々シストラバス家で語り継いで差し上げますから!」

 そう言うが早いか、リオンは顔を真っ赤にしたまま、全力で出口目指して走り去っていってしまった。あれだけ渋っていたのに、このタイミングだと何の躊躇もしないあたりがリオンらしい。

 リオンの背を自分の頬を押さえたまま見送ったジュンタは、その背中が見えなくなったあと、

――了解だ、お姫様」

 頬から手を離して、まるで主の命に答える忠信の騎士のような声色で、了解を言霊として紡ぐ。

「勝手に奪い取られたことはあれだが、うん、確かに上等な報奨だ。こりゃ、ドラゴンを足止めするぐらいの大役を果たさないと釣り合わないな」

 自覚するぐらい顔が熱い。まさかあんなことをやられるとは思ってもみなかった。これは実際リオンが言ったとおり、然るべき功績を果たす義務が発生してしまう。

「しかし、盛大な死亡フラグな気がするのは俺だけか? だけど、まぁ大丈夫か。あくまでそれは脇役の話。今日の俺は主役だからな。主役がお姫様に激励されたら、逆に生存フラグか」

 無駄な力が抜けてどこか気楽になったまま、だけど先程よりも強い決意をもって、ジュンタはドラゴンへと進み出る。

 逃げ出すリオンたちを追おうと飛翔しかけてくる漆黒のドラゴンに、ジュンタは最初から全開で行く。魔力の密度を高め、集中し、虹色の魔力に可視の雷気を付加して迸らせる。

 動かないこと――それがジュンタに任された作戦の努め。

 それはつまりここを動かず、ドラゴンも動かさせないということだ。
 猛るドラゴンはなぜか自分にご熱心のようで、この場に縛り付けることは至極簡単。あとは耐え抜けばいい。それが一番難しいわけだが。

 ジュンタはドラゴンと同じ『侵蝕』の魔力をばらまくことによって、ドラゴンの気を引く。自分にもドラゴンの纏う魔力が感知できるのだから、また逆も然りだと考えたのは正しかった。ドラゴンの鮮血の瞳は、すぐにこちらへと向けられる。

『貴様、貴様は使徒。殺す。コロス』

「悪いけどな、絶対に殺されるわけにはいかないんだよ」

 巨躯の魔獣と双剣を構える人間。圧倒的な大きさの差はあるけれど、しかし共に同じ獣である両者は向かい合い、互いに敵意の魔力を奔らせる。

「約束は、果たされるべきものだと思うからな!」

 ここに此度の戦場での、最後の戦いの火蓋は切って落とされた。






 リオンと別れたスイカは、すぐにヒズミと合流を果たした。

 長距離から『黒弦イヴァーデ』の連射を行ったヒズミは、疲労困憊と言った様子で、それでもこちらを見つけるなり口元に笑みを浮かべた。

「へ、へへっ、どうよ僕の実力は」

「ああ、完璧なタイミングだった」

 スイカはヒズミに肩を貸して、よくがんばった弟を褒める。

「ヒズミがいなかったら、わたしとリオンはドラゴンに攻撃を防がれていた。よくやった。さぁ、後はジュンタ君に任せよう」

「ああ、僕がこんなになるまで苦労したんだ。あいつにも苦労してもらわないと割に合わな、い……」

「ヒズミ?」

 ヒズミはスイカにもたれかかったまま、目を閉じた。そのままスースーと寝息を立て始める。

「……お疲れ様。ありがとう、わたしの我が儘に付き合ってくれて」

 ヒズミは元々魔力がさほど多いとはいえない。一般的な魔法使いクラスより若干上、という量でしかない。『黒弦イヴァーデ』はその性能に反して魔力をさほど使わないが、それでも元々ヒズミのために生み出された武装じゃない。使うのにはそれなりにリスクが伴う。

 今回立て続けに事件が起きて、ヒズミにはそれに付き合ってもらってしまった。いつも以上にがんばって、ついには倒れてしまったのだろう。

 スイカは弟を背負う。ずっしりとした重さは、もうずっと前に自分を越えていた。

「ん、重いな。でも、走るのに問題があるほどじゃない。問題があるとしたら、こっちの方か」

 スイカはヒズミを『深淵水源リン=カイエ』を持つ左手一本で支え、右手はだらりとせ、自分たちを囲むように地面から現れた魔獣を睨む。

 ドラゴンの登場に逃げてなお、飢えを我慢できずに地面に潜り隠れていた魔獣は、大きな虫の姿をしたワーム。一体、また一体と地面から現れる。狙っていた肉が増えたと、喜びの声をあげて。

 その数は数十体。スイカを中心にして取り囲んでいる。
 周りを囲まれる形となったスイカは、ドラゴンの血を汚さないため使えない『深淵水源リン=カイエ』を一瞥してから、ぞっとするような声をあげた。

「君たちは、わたしの弟を狙っていたんだね。わたしは、わたしの生きる理由に手をあげようとする敵は許さないことにしているんだ。だってわたしは、ヒズミのお姉ちゃんだから」

 一体のワームが、飢えを我慢できずにスイカに向かって飛びつくように襲いかかった。

 その身体が、真ん中から叩ききられて地面に落ちた。

「ヒズミは眠っている。リオンはまだ来ない。ジュンタ君は見ていない」

 両断されてなお、僅かに身動ぐワームを踏み潰した少女は、何も握っていない手にべっとりと緑の血を付着させていた。長く伸び、鋭利な刃物と化した自分の右手の爪を見て、童女のような笑顔を浮かべていた。

「ジュンタ君。サクラ・ジュンタ」

 スイカは『封印の地』に残るジュンタが、無事に帰ってくることを祈っていたから、邪魔者はここで消さないといけないと理解していた。

「ふふっ、嬉しいな。君はやっぱり、わたしの――

 だから――サァ、ハヤクコロサナイト。






       ◇◆◇






 ドラゴンに人が勝てない理由として、その恐るべき防御性能がある。
 
 何もドラゴンの防御力とは、魔法攻撃も物理攻撃も遮断する、その強固な外皮だけではない。やはりそれも恐るべき防御性能ではあるが、その前に敵の攻撃を防ぐ防御壁がドラゴンには存在するのだ。

 それは不可視である無色の魔力壁。ドラゴンの身体を覆い尽くす『侵蝕』の魔力である。

 ドラゴンしか持ち得ぬ『侵蝕』の魔力性質。その恩恵は、世界に対する侵蝕により、他者の持つ存在――他者から自分への影響を遮断するというものである。

 影響とは即ち、攻撃、魔法、精神干渉など、ドラゴン自体が有害と思うもの全てだ。
 つまり対物理・対魔法の強力な防御壁を、その豊富な魔力によってドラゴンは絶えず形成し、見えない防御としているのだ。
 
 人という、基本的に魔力が少ない生物などは、ドラゴンの『侵蝕』に抵抗すらできない。
 当然として持っている、『ドラゴンに勝利できる』というドラゴンから見れば有害な権利すら、この『侵蝕』の壁の前には無効化されるのである。

 故に、人はドラゴンには勝てない。傷をつけようとも、どれほどの数を揃えようとも、そのルールを打ち破らない限りは決して勝つことは不可能なのである。

 だからこそ、この世界はドラゴンを滅する役割をリオンら竜滅姫に頼る。唯一ドラゴンに単身で勝ちうる可能性を持つ、ドラゴンと同レベルの魔力を有し、『侵蝕』の干渉に抵抗できる使徒――その中でも竜滅の神鳥と呼ばれしナレイアラの力を行使できる、竜滅姫に頼るのだ。

 ドラゴンを倒すには、そもそも人の範疇にあってはならない。
 ドラゴンを倒すには、人を超えるか、人ではないか、人ならざる力を借りるしかないのだ。

 ドラゴンの『侵蝕』を打ち破り、死を叩き付けるには、まだ人の力では足りない。千年以上の研究の中、『侵蝕』の魔力を弱体化させ、一時的にでも切り裂くドラゴンスレイヤーこそ生まれたが、それでもオリジナルの『不死鳥聖典ドラゴンスレイヤー以外ではその命を奪うことは不可能とされている。

「紅き剣に騎士の名を――シストラバスの騎士たちは、だからこそそれを求めるんだな」

 ドラゴンを滅そうと祈るシストラバス家の妄執たる紅剣を杖にして、ジュンタはすでにボロボロの身体で立ち上がる。

 果たして、今何分が経過したのだろうか?

 ドラゴンに立ち向かってから、ほんの数十秒しか経過していないかのようにも思えるし、逆に何時間も経過したようにも思える。それほどまでにドラゴンとの戦闘の密度は高かった。

 何もドラゴンを見くびっていたわけではないが、それでもジュンタは二十分の時間稼ぎを自分は果たせるものと思っていた。

 この世でドラゴンの強さを明確に理解している一人が、また自分もドラゴンへと変貌したことのあるジュンタであろうことは間違いない。そこから導き出して、その上での作戦だ。しかし実際に戦いを繰り広げれば、絶望的なまでの戦力差が広がっているだけだった。

 一撃一撃が致命傷。攻撃は不可視の壁の前に通らない。
 爆風にこちらの身体は石ころのように吹き飛ばされ、幾度となく地面に叩き伏せられ、火傷のとち身の傷で、すでに身体はボロボロだ。

 足止めも何も、相手にとって自分という存在は、ただいつでも踏みつぶせてしまう虫ケラ以外の何者でもなかった。それでも変わらぬ場所にドラゴンを押しとどめていられたのは、一重に相手であるドラゴン自体が、その虫ケラに興味を抱いていたからに他ならない。

『まさか、それで終わりではあるまいな、ドラゴンの使徒よ』

 ドラゴンが、綺麗な虫を見つけた子供のような眼差しを注いでくる。

『弱い。あまりにも脆い。これならば、先の人間の方が数倍は強かったぞ』

「だろうな。リオンの強さは、俺の方がお前より知ってる」

『なぜ力の出し惜しみをする? ドラゴンとしての力を使え。使徒としての力を使え。このままでは、我は貴様を狂気のままに踏みつぶしかねん』

 そう言ったドラゴンが、巨大な顔を目の前まで持ってきて、大きく口を開いた。
 
 ゾロリの鋭い牙が並んだそれが開かれる意味など、考えるまでもない。至近距離で視認すれば目が潰れかねない眩しさを放つのは、轟々と燃えさかる紅蓮の塊。

「くっ!」

 今度吐かれる炎が、今までのような遊ぶ炎ではないことを直感的にジュンタは察知し、足の裏に魔力を収束させる。

加速付加エンチャント――唯一使える俊足の技法をもって、ジュンタは横へと雷を纏うつま先で大地を蹴り、吐き出された炎を避けた。

 大地に紅蓮の線を刻みつける炎の弾丸。もし街中で吐かれていたなら、数十件の家屋を全焼させていた一撃。これのみでも、ドラゴンの力の程が理解できるというものだ。

 ジュンタとしても、このドラゴンとの戦いの中、自分が成長していると自覚するほどの成長を感じられていた。

 以前は僅かな時間しか使えなかった[魔力付加エンチャント]を、永続的にとは言えないが、必要なときにすぐ行使できる魔力制御の感覚を掴んだし、肌を刺す敵意の感覚や、視覚以外の感覚による攻撃と気配の察知も『何となく』の段階で分かった気がした。

 だが――それでもドラゴンはあまりに遠い。

『見せてみろ! その力! 貴様に与えられた力を我に!』

「勝手なことばっかり言いやがって、できるなら最初にそうしてる!」

 否応なく気付かされるその真実。遊びに飽き、本気を出そうとしているドラゴンをこれ以上に足止めするには、自分もまたドラゴンになるしかないのだと言うことを。

 使徒の本質たる神獣――かつて一度だけなった白い身体に虹の翼を持ったドラゴンの姿に、だけどジュンタはなる方法が分からなかった。

 上手く言えないのだが、まだ何かが噛み合っていない。そんな気がするのだ。魔力の感覚、気配の感覚、そういうのとはまったく違う神獣の感覚が、まだ上手く分からないのだ。

 一度掴めば簡単に分かるだろうその感覚が、どうしても分からない。いや、思い出せない。一度変貌しているのなら分かるはずなのに、どうしても分からなかった。

「っ、あッ!」

 再び吐かれた炎の爆発に煽られ、ジュンタは上空へと吹き飛び、そのまま地面に叩き付けられる。受け身を取ろうにも、それよりも状況を判断し、次の攻撃を察知する方が重要だから、受け身を取る暇もない。

「はぁはぁ…………あと、何分なんだ……?」

 口端から垂れた血を拭って、ジュンタはドラゴンを睨みつける。

『さぁ、どうした使徒よ。神の奴隷よ! 我を喰らい、我に喰らわれよ!』

「意味、分からないって言うんだ」

 荒い息を吐きながら、ジュンタは考える。

 今まで以上に強く叩き付けられた先程の一撃――両手の剣を振り落とさないのが精一杯で、今なお頭や身体が痺れている。このままでは、次の攻撃を避けることは叶うまい。

『教えろ、ドラゴン。お前は一体、どうして俺にそんなご熱心なんだ?』

 ジュンタはドラゴン同士でのみ伝わる声に切り替えて、僅かでも時間を稼ぐために漆黒のドラゴンに話しかけた。

 攻撃を取りやめたドラゴンは、自らを誇示するように、巨大な堕天使の翼を広げる。

『分からぬのか。貴様もまた使徒であるのなら、ドラゴンであるのなら、我らが存在に課せられた呪いについて既知であろう?』

『呪い? なんだ、それは?』

『知らぬのか? …………ああ、ああ、そうだったかも知れん。我は一体、いつそれの存在に気付いたのか……分からぬ。そもそも我は誰だったか? 貴様は使徒だ。思い出した。使徒、殺すべき相手。だが、我は果たして一体なんだ? ドラゴンか? ああ、そうとも。しかしドラゴン? なぜドラゴンなのだ?』

 支離滅裂。自分でも分からない情報を羅列し、それに自分で戸惑いを見せるドラゴン。

『いや、そもそも我はなぜここに在る? ドラゴンだ。ドラゴン、倒されるべき悪魔。悪魔? 誰がそうと決めた? 使徒。いや、使徒? コロス。しかしなぜコロス? 殺したいからだ。奴らを。コロス。コロス』

 悩めば悩むほどに、ドラゴンの中で獣としての部分が大きくなっているよう。理性を見せた瞳の輝きは濁り、獣じみた呻き声をもらすようになり、纏うのは殺意だけに変わる。

『殺せ。コロス。ころせ。なぜ殺さないところす。殺す。殺せ。コロス。殺せ。コロスヒツヨウナド。ころせ。殺せ。ころす殺すコロス殺せコロスコロセ殺すコロセ!』

 ドラゴンが流す感情が黒一色で覆い尽くされ、ジュンタは込み上げる不快感にそれ以上の会話を諦めた。

 漆黒のドラゴンはもはや理性なきケダモノとなって、巨体を蠢かせ、空に向かって膨大な紅蓮の奔流を放った。

 そこで、ジュンタは不思議な光景を見た。

 吐き出され続けるドラゴンの炎。空を焼き焦がすかのような紅蓮の奔流が徐々に、まるでドラゴンの内側の変質に影響されていくように、黒を混じらせ、黒と半々になり、最終的には完全な黒き炎へと変貌したのだ。

 それは見ているだけで不快に思う、どす黒い闇色の炎――炎が持つ輝きを一切持たぬ、ただ全てを塗りつぶすかのような炎だった。

「なんだ、これ……?」

 変化は炎だけに留まらなかった。ドラゴンの身体を覆っていた不可視の魔力が、目に見える可視へと変貌していく。その色もまた黒。ドラゴンの肉体の表面を無数の蠢く闇が覆い尽くしていき、さらに醜悪な怪物へと変貌させる。

「これは……」

 それは驚きの光景だった。無色の魔力に色がついたというのなら、それはそれで構わないし不思議でも何でもない。ジュンタもまた無色に色をつけることによって、[加速付加エンチャント]を可能としている。ならドラゴンもまた、魔力に色を付けることは不可能とは言えない。

 けれど――その色があり得ない。
 
 ジュンタ自身虹色というおかしな色を持ってはいるが、基本魔力が持つ色とは赤、青、緑、茶、黄、白の六色である。が、ドラゴンの魔力の色は黒。普通ではあり得ない色だ。
 
「黒い魔力、だって?」

 さらに驚愕すべきは、その黒の魔力をジュンタが見知っていたことにあった。
 そもそもこの『封印の地』に来ることになった原因である、ウェイトン・アリゲイの持っていた『偉大なる書』――反転を引き起こすあの書が放っていた色も、また黒だった。

 その類似に、あり得ないはずの黒が二つ現れることの異常性に、そして――

――これは、マズイ」

 ドラゴンが身に纏った魔力が危険だと本能的に察知していることに、ジュンタは震え上がる。

『コロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスコロスッ!!』

 呪いじみた怨念の感情を荒ぶらせ、今、漆黒のドラゴンは厄災として攻撃に移る。

 それは紛れもないドラゴンの本気だった。
 漆黒の炎がドラゴンの口からジュンタ目がけて放たれるのと同時に、その身体にまとわりついていた黒い魔力が、細い触手状となって一斉に殺到する。

「加速する!」

 ジュンタは[加速付加エンチャント]の密度を高め、炎を避けるのと並行して、双剣で向かってくる触手を切り伏せる。

 切り裂いた感触は、粘性の高い泥を切り裂いたかのような感触。
 右のドラゴンスレイヤーはその特性から、左の剣は持ち主の力を吸収するという性質から、何とか切り裂くことに成功したが、並の剣だったなら触手の中程の段階で、その弾力に弾かれていたことだろう。

「ぐぁああああああッ!」

 それでも、これまでとは違う攻撃に、ジュンタは避ける過程で一瞬腹に触手を接触させてしまった。

 感じた痛みは、かつてない嫌悪を纏った痛み。触手の感触から伝わってきたのは、呪い。

 壊れろ、歪め、狂え――間違いなくそれは、抵抗できずに存在の根底へと侵蝕を許した瞬間、世界を反転させる呪いに相違なかった。

「クーはこんなものと戦って――なのに俺が、負けられ、るかっ!」

 刹那の間に叩き付けられた不条理の悪夢。
 ジュンタは全力で魔力を迸らせ抵抗し、その拘束から抜け出る。

 目に見える形となって襲い来る呪いの触手は、炎とは違って充填を必要とせず、再生してどこまでも追ってくる。一度剣で切り裂いてその嵐の中を突き抜けたジュンタは、そのあと全力で走ることによって逃げ続けるしかなかった。

「前からも!」

 触手はドラゴンの身体から無制限に伸び、広がり、囲うように降り注いでくる。

 目の前からも殺到してくる黒い群。ジュンタは迷うことなく迎え撃つことを諦め、左へと方向を転換した。後ろと前から襲いかかってきた黒い触手の群がぶつかり合い、密度を増し、一本となって追いすがる。

(これがこのドラゴンの特異能力ってことか……!)

 ここに来て、ジュンタは突如変貌したドラゴンが繰り出す黒い魔力の触手が、ドラゴンが持つという特異能力であることに気が付いた。同時に、これが普通の攻撃に付け加えられた個人能力でしかないことにも気が付いた。

 黒い触手とは違う、熱を伴った漆黒が迫り来る気配を察して、制御の限界を超える魔力をジュンタは足に注ぎ込む。暴発のスパークを故意に起こして、何とか炎の軌道から逃れ出た。

 ギィイイイイイイィイイイイイイイイイイ――ッ!

 苦悶の声すら掻き消す轟音が、隕石の落下のように地表を叩く。通り抜けた音は炎が燃えさかる音ではなく、世界が軋むような断末魔の響き。これまで以上の爆風と震動に煽られ、ジュンタは転がるように地面を滑っていった。

 黒い触手で獲物を追いやりつつも、ドラゴンの基本能力として炎が襲いかかってくる。
 それはまるで獲物を追い立てる狩りのようだとジュンタは思い、その獲物に任命されているのが自分である事実に「笑えない」と呟きつつ、立ち上がろうとする。

「あ〜くそっ、色々と無謀だったか」

 過剰な魔力を注ぎ込んだ足は、未だ感覚が戻らずに麻痺していて、剣を杖に起きあがるだけでも途轍もない労力が必要となった。

 だけど問題はそこじゃない、もっと大きな問題があった――自分の周りをグルリと見回して、ジュンタは狩人が獲物を追い詰めたことを悟る。

 周り全てをユラユラと陽炎のように揺れるドラゴンの魔力が覆い尽くしていた。
 一部の隙間なく、それは炎の壁よりも始末の悪い、触れたら呪われる黒い壁だった。

 足に力が入らない今、飛び越えることなどできるはずもなく、視線の先にいるドラゴンの口に滾る漆黒の炎を見れば、もうこれは完全にチェックメイトされているのは歴然だ。

――使徒よ。貴様のお陰で、我は思い出した』

 遠くからドラゴンの声が届く。どうやら理性は取り戻したらしい。取り戻していなければ、周りを囲むなんて器用な真似はできずに問答無用で襲いかかってきただろうが。

『貴様は問うたな、呪いとは何かと。答えよう。呪いとは我らが肉体に他ならない。神に愛される力に他ならない。我らは、存在そのものが呪われている。歪み生まれ、神よって歪みを育まれ、そして最後には歪みに飲み込まれる。それが我らの負った呪いだ』

 やはりドラゴンの言っている意味は理解できない。
 ただ、ドラゴンの声には憎悪が、怒りが、そしてそれらを上回る諦観の念が見えた。

『所詮、我らは神の箱庭より逃れられん。我は貴様に同情するが故に、我は貴様の存在を憎むが故に、貴様の歪みが小さいうちに喰い殺そう』

「意味分からないこと言って、最後には結局それか。
 いいさ。そっちがその気なら、こっちだって次で終わらす」

 ジュンタは二本足で立ち、黒い死の炎をたたえる砲台となったドラゴンを、これまで以上にきつく見据える。

 もはやこの足での疾走は叶わない。ならば、最後は足を使わぬ疾走でなければならない。

「死ねない。俺はリオンとクーの二人のところに、絶対に戻るつもりなんだから」

 最後の最後はやはりこれしか残っていない。自分の身体はもっとボロボロになるが、それでも歩みを止めないというサクラ・ジュンタの願いを貫き通せる稲妻の疾走――

 両手の剣を、前方へと切っ先を合わせるように重ね合わせる。
 ジュンタの身体から汲み上げられる魔力が二本の剣を虹色に染め上げる。右のドラゴンスレイヤーは少し赤が強い虹色。左の剣は右よりも多くの虹を束ね上げる。

 二つの剣が重なった切っ先は尖れ磨かれ、触れたもの全てを切り裂く雷光の刃と化す。

「道を開く、[稲妻の切っ先サンダーボルト]!!」

 ジュンタの放つ膨大な魔力に感化されたように、周りの触手が一斉に襲いかかる。

 隙間なく八方より殺到する黒い触手に天井すら覆われた。
 それは赤い地獄の中、砲台が狙うべきマーカーであるかのように目立つ黒色の塊となる。

『いざ、死ね。願わくば、貴様の悪夢が僅かなときで終わることを祈ろうッ!!』

 黒い点目がけて、どす黒い、これまで以上に強大な炎の奔流がドラゴンの口から放たれた。

 ジュンタを内に取り込んだ黒い魔力へと、僅かな時をおいて、世界そのものを震わす炎は叩き付けられんとする。

 全てを灰燼と化す漆黒の紅蓮――それが到達する刹那の前に、黒い魔力の檻は虹色の魔力によって切り裂かれ、地表に痛ましい傷跡をつけんとした奔流は、目標地点から空へと駆け上る稲妻と衝突する。

『!!』

 ドラゴンの驚愕の声が音もなく伝播する。それを耳に感じつつ、渦巻きスパークする虹色の魔力を全身に纏ったジュンタは、目の前の漆黒を切り開こうと双剣の切っ先を強く前へ押し込んだ。

 どうせ麻痺しているからと、黒い触手をも四散させる暴発で加速を得た[稲妻の切っ先サンダーボルト]という名の虹の弾丸は、ドラゴンの吐く炎を押し戻して空へと一気に駆け上がる。

「おぉおおオォオオオオオオッ!!」

 もはや技巧も何もない。ジュンタとドラゴン、その身の魔力を注ぎ込んだ、単純な力と力とぶつかり合いだった。

 上へと押し戻そうとする、ジュンタの虹色を輝かせる魔力の雷。
 下へと叩きつけんとする、ドラゴンの黒色を濁らせる魔力の炎。

 二つの破壊力の接点では、単純な破壊力のせめぎ合いと共に、同一の魔力の性質同士によるせめぎ合いも行われていた。

 ドラゴンが最強たる由縁である『侵蝕』の魔力性質。それを打ち破るのは儚き人では無理なこと。しかし今ドラゴンに立ち向かっているのは人間ではない。

 サクラ・ジュンタ――正真正銘の、使徒と言う名の神の獣。

(負けられない)

 ジュンタはあまりの破壊力に、ジリジリと自分が後退を始めているのを感じて、さらに眦を強めて魔力を注ぎ込む。

(絶対に、負けられない)

 すでに魔力は制御値を超え、飽和値を超え、限界値を超え、それでもなお注がれていく。
『加速』により絶えず勢いは衰えることなく増加し、『侵蝕』は目の前の『侵蝕』の魔力を取り込み無効化せんと牙を剥く。

(勝って戻るんだ)

 互角のせめぎ合い。均衡は破れることはなく、互いに一歩も引かない。――そんな中、ジュンタが考えるのは一人の少女のこと。

(胸を張って、自分のしたことは誇らしいことだって鼻高々に)

 最初出会ったときは謙虚で良い子だと思った。それは正しくて、彼女はとっても優しい良い子だった。

(そうやって、俺は示す)

 けど、どこか影があって、自分で自分のことを嫌っていた。
 そんな彼女が何を望んでいるか。最初は気付かなかったが、今ならはっきりと分かる。

(俺の大事な巫女に。俺を、自分を大嫌いだっていう少女に)

 彼女は救いを欲している。例え自分自身が嫌いでも、それでも問答無用で救われる、そんなデタラメな救いを欲している。

(クーヴェルシェン・リアーシラミリィって奴に)

 それが『竜の花嫁ドラゴンブーケ――クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。自らを悪と断じる少女の望み。


 ――――故に、この一刀にて示さなければならない。ソレはとても格好いいのだ、と


(クーが悪だと言うのなら)

 使徒がなんだ。新人類がなんだ。それがどれほど佐倉純太という人間からかけ離れることになる理解だとしても、それでもそれが今の自分なら受け入れてしまえばいい。それが今の自分だ。それが他ならぬ自分自身だ。それがサクラ・ジュンタだと受け入れよう。

(それでもクーが大好きだから)

 ソレに関する評判や評価は関係ない。どれほど蔑まれ嫌われた呼び名でもまったく関係ない。
 嫌われていても、憎まれていても、恐れられていても、なればこそ自分が好かれる最初のソレになればいい。

(俺が救いになると信じて)

 大丈夫。心配も問題もまったくない。だって知っているのだ。自分だけがいい奴ならちょっと戸惑うが、ソレの中にはクーっていう優しい前例がすでにいる。なら、自分だってがんばれば必ずなれるだろう。

(俺もまた、悪になる)

 悪を担う。それがジュンタの決意――悪であり、悪という呼び名の中の例外となる決意。

 目の前にはいないクーへと、ジュンタは心底から叫ぶ。この咆哮を贈る。

 聞け――サクラ・ジュンタはこの時この瞬間より、この名を名乗る!


「クーが好きになれるような悪に俺はなる――俺こそが『終わりの神獣ドラゴン』だッ!!」


 否定していた全てが開ける。
 燻っていた全てが崩れ落ちる。

 開かれた場所は人外の扉。それがどうしたと、ジュンタは鼻で笑って扉を潜る。

 使徒であることを認めたときに開いた扉が、ドラゴンであることを認め、さらに開かれる。それは自分の中を覗き込むような感覚。自分の中に眠る獣を呼び覚ます行為。

「あぁああァアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」

 ジュンタの口から出る叫びに、人ならざる獣の咆哮が重なって響く。
 ジュンタの双眸が、コンタクトレンズなどでは塞ぎきれない眩い金色の光を放つ。

 爆発する虹色の閃光――ジュンタの背より飛び出たフレアは、まるで虹色に輝く巨大な翼のようだった。

 神々しく輝く虹色のフレアは、巨大な推進力をもたらし、身体を一気に加速させる。
 もはやドラゴンが放つ一息など恐れるに足らず。縦に裂かれる黒い奔流を打ち消して、刹那の内にドラゴンの鼻先まで疾走した。

 翼の魔力を両手に乗せ、ジュンタは双剣を振るう。

 まずは右。紅き刀身に込められしは、千年の歴史。
 紅き剣の騎士たちのユメ。狂おしいほどの誓約を、束ねて現世に成就を謳う。

「果たせ――竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』!!」

 霞む速度で振るわれた右の『竜滅紅騎士ドラゴンスレイヤー』は、ドラゴンの身体を纏っていた黒き『侵蝕』に接触する。

 人では貫けぬ絶対の守り。だが、それでも貫けないはずがなかった。
 ドラゴンを倒すことだけを夢見た数多の騎士たちの想いが、それを果たした者が担う紅き剣が、ドラゴンの守り程度を崩せぬはずがない。

『ぐぬぅ……! これは、そう、あの不死鳥の使徒と同じ……!』

 刹那の時も守れず破砕した『侵蝕』の守り――双剣は流れるように役割を交代し、引き絞られた左の剣がドラゴンを狙う。

 未だ名も無き旅人の刃。それでも、その刃は守るべき人をすでに知っていた。

 虹を束ね上げる刃は、己が役割を見失うことなく、ただ誇らしげに前へと進む。
 いつだって自分の背中を見つめていた守るべき少女に恥じないよう、ここに誓いを形と成す。

「ドラゴンの名を汚すな! 終わりの魔獣ッ!!」

 突き出された左の刃は未来を切り開くように、虹色の閃光でドラゴンの眉間からのど元までを貫いた。自分の名を刻むように、ドラゴンの在り方を変えようとするかのように、その虹は世界に対し、輝きをもって名乗りをあげていた。

『こ、れが、貴様の、力、かァ――ッ!!』

 ドラゴンの巨体がついには衝撃に負け、背中から地面へと倒れ込む。獣を眼下に見下ろしながら、ジュンタは地面へと落下を始める代わりに、その身体を光の中へと溶け込ませた。

――――ご主人様!』

 遠くから、だけど限りなく近くから、必死に呼ぶ声が聞こえる。






       ◇◆◇






 どうやらいつの間にか、時間稼ぎの役割は果たしていたらしい。

「リオンから受け取った報奨。どうやら胸を張って味わえるようだな」

 双剣を鞘に収め、ジュンタは宙に浮いたまま口元に笑みを作る。

 眼下には今受けた傷を急速に癒し、起きあがろうとするドラゴンの姿が見られる。先の攻撃は相当だと自負しているが、それでもドラゴンを倒すにはいたらない。だが、この戦いの勝敗はすでに決していた。

「俺の勝ちだ。ドラゴン」

 この戦いはドラゴンを倒すための戦いではない。リオンたちが『封印の地』から脱出する時間を稼ぐための戦いだ。足止めの役割を担ったジュンタは、間違いなく勝者だった。

 足下から包み込み、どこか此処ではない場所へと引っ張っていこうとする光――それがちゃんと無事にリオンたちが外へと出て、クーに薬を届けたことを証明するものだった。そしてクーがしっかりと治ったことをも、この光は証明している。

 柔らかな白を混じらせる虹の光こそ、かつて体験したクーによる魔法。対象との縁を紡ぎ、自分の許に喚び出す[召喚魔法]の光に相違ない。

 確かにドラゴンを前にして『封印の地』から全員が逃げ出すには、四人の力を合わせても難しかった。特に脱出方法が、フェリシィールの開ける孔しかないというのが問題だった。

 しかしこの問題において、ジュンタにだけ例外が発生する。
 つまりは空間を飛び越えてジュンタを召喚する、クーの[召喚魔法]という脱出方法だ。

 ジュンタが思いついた四人全員が無事に脱出するという作戦において、ある意味では最も重要な役割にいたのが、この場にはいなかったクーだった。四人で無理なら、クーを入れて五人にしてしまえば良かったのだ。

 孔を通ってしか戻れない三人を先に行かせ、ドラゴンをジュンタがその場に残り足止めし、そのあとリオンがもたらす薬によって体調を戻したクーに召喚してもらって自分も脱出する――つまりはそういう作戦だ。

 ドラゴンを相手にするジュンタの危険性以外では完璧な作戦。果たして、それは見事成功した。

 リオンは騎士の誓いに則ってクーへと薬を届け、反転の呪いを治すことができたよう。
 クーもまた滞りなく[召喚魔法]を使い、こうして自分を喚んでくれている。あそこには召喚師としては凄腕のルドール老もいるので、もう問題なくこの場を脱出できる。

 白い光に抱かれて、ジュンタは重い責任を果たした自分を、自分で労う。胸を張って、召喚者として目の前にいるだろうクーに会えるのが嬉しかった。

『…………ドラゴンの使徒よ』

 眼下で蠢くドラゴンが、再生されたばかりの喉を震わし――いや、この通話方法に喉は関係ないか――話しかけてくる。もはや耳を傾ける義理もないが、ジュンタは最後まで意味不明なことを宣ったドラゴンが、最後に残す言葉が気になった。

『忠告を、してやろう』

『忠告?』

『そう、だ。ドラゴンの使徒よ。胸に刻め。貴様もまた呪われた身であるのならば――

 左の小指を基点にして輝く虹の光が全てを包み込む。その刹那の瞬間に、同情するような、嘲笑うかのような、そんなドラゴンの最後の言葉が耳に届く。

――――いずれ必ず、貴様も狂ったドラゴンとなる。精々、それまでを愉しむがいい』






 縁は紡がれ、虹は純白へ。巫女の[召喚魔法]は、己が使徒を自分の許へと召喚する。






 ――長い悪夢を見ていたのだ。

 白い光によって作られた儀式場。そこに立ち、自らを鍵として[召喚魔法]を執り行ったクーは、ゴクリと目の前で収束しつつある光を見て息を呑む。

 リオンによってもたらされた薬により、長い悪夢を見せる反転の呪いは晴らされた。
 そのあとすぐに彼女より話しを聞いて、自分がすぐにしなければいけない役目をクーは実行に移した。

『封印の地』にて、ドラゴンと戦う主の召喚――それが巫女であるクーに望まれた役割。

 すでに『封印の地』へと続く孔は閉じてしまったが、問題ない。召喚対象を自分の許へと喚び出す[召喚魔法]ならば、問題なくジュンタを喚び出すことができるはず。

 リオンと使徒スイカと巫女ヒズミ、使徒フェリシィールと巫女ルドール。五人が見守る中、召喚の光は一際強く輝いたあとに霧散して消える。

 クーは自分の左の小指と繋がった縁の糸の先を見る。


 ――そこに、ジュンタ・サクラはいた。


 嬉しくて涙が出た。彼はボロボロだったけれど、それでも口元に穏やかな笑顔を見せて、胸を張って立っていた。

 周りの皆からも喜びの声があがる。クーは感極まって、逆に声が出せなかった。

 ジュンタも何も語らない。互い、無言で見つめ合う。

――――ドラゴンこそが俺の本質だ』

 そう、堂々と胸を張って言い切った人がいた。

 自分にとって悪でしかない、嫌うことしかできないドラゴンだと、だけど胸を張って誇らしげに名乗った人がいた。その人がドラゴンなら、なるほど、自分は彼を嫌わなければならない。

 だから目の前の人は嫌い。嫌いだ。大嫌いだ………………なんて、言えるはずがなかった。

 確かにドラゴンは大嫌いだけど、その全てが大嫌いだけど、それでも今ならはっきりと言えることがある。

 主だからではない。使徒だからではない。その全てをひっくるめて、自分はサクラ・ジュンタという人が大好きなのだ。その想いは、ドラゴンを嫌いだと思う過去全てを投げ打ってでも貫き通したい、自分の中では大事な大事な宝物なのだ。

 だから、いいのだろうか? 今までの全てを裏切って、彼を好きになってもいいのだろうか?

「ご主人様……」

 彼は何も語らない。だけど、その胸を張って浮かべた笑顔が静かに物語っていた。

『どうだ。俺は格好いいだろう?』

 クーは頷く。

『どうだ。俺に惚れたか?』

 クーは頷く。

『どうだ。俺はドラゴンだけど――それでも好きになっただろ?』

 クーは何度でも頷く。それ以外、あり得ない。

 ジュンタは自分からは近寄ることなく、ただ両手を広げた。

「クー、おいで」

 ――――長い、長い、悪夢を見ていたのだ。

 悪夢の中、腕を広げた彼に飛び込む自分の手には、いつだって刃が握られていた。今だからこそ分かる。あれはドラゴンに対する憎悪だった。殺意だった。

 けれど、今自分の手には何もない。ただ、涙で濡れた微笑みだけがある。
 これが答えなのだろう。もう悩むことなく、クーは愛しき人の胸の中に全力で飛び込んだ。
 
「ご主人様ぁっ!」

 強く、温かな温度を抱きしめる。それはとても安心できる優しさ。

 ああ。と、全てを理解した。――クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、抱擁の楽土をここに見つけたのだと。


――ただいま、クー」


 悪夢は終わりを告げた。ここから先は、新しい世界の始まりだ。
 それは輝いていて、とても優しい世界。新しい世界を迎え入れるためのこの言葉を、精一杯の笑顔で飾ろう。


――はい。おかえりなさい、ご主人様」


 過去は消えない。だけど、だから、ここから先は笑って歩いていこう――――だってこの人との旅路は、きっと、それが何よりも相応しいと思うから。









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