第一話  恋愛推奨騎士団


 

 初夏の風が、優しく彼女の髪を撫で上げていく。

 彼女は翻りそうになるドレスの裾を右手で押さえ、どこかくすぐったそうに左手で髪を押さえた。そのまま高台から見渡せるランカの街並みに目を細め、暮れる夕陽を眺める彼女の横顔は、酷く触れがたいものであるようにジュンタには思えた。

 彼女との間に会話はない。間に横たわるのは沈黙のみで、しかしその沈黙も、この美しい一瞬を作り出す一つの要素となっている。

 活気に溢れた新しき都――ランカ。この街を統治する家の次期当主である彼女は、一体ここから見える風景に何を思っているのか。あるいは、かつて竜滅姫として死ぬはずだった者として、何を胸に抱いているのか。

 それはわからない。ただ、まるで我が子を慈しむような眼差しで街並みを見つめる彼女は、本当にランカという街を愛しているのだと、それだけはわかる。でなければ彼女を見て、こんなにも胸が熱くなることはないだろうから。

 夕陽を受けて輝く長い真紅の髪。つり目気味な瞳も今は柔らかく、収められた宝石のような紅の瞳は、見るものを穏やかな気持ちにさせる。漂う気品は紛れもなく彼女が高貴な者と知らしめ、同時に魅了するだろう。

 至高の宗教画を見た敬虔な信者は、恐らく今の自分のような想いを胸に抱くに違いない。
 夕陽が落ちるまで街並みを見続けた彼女が振り向くまで、ジュンタはずっと、その横顔を見つめ続けていた。

「あ……」

 夜になっても変わらぬ輝きを放つ紅の少女――リオン・シストラバスは、そこで初めて自分がずっと見つめられていたことに気付いたのか、少しだけ頬を染め、口を尖らせた。

「リオン」

 ジュンタは手を伸ばせば届くほどの距離にいる彼女の名前を呼んだ。

 買い物帰りに寄ったランカを見下ろす高台には、現在二人以外に誰の姿も見つけることができなかった。背には林があるばかり。空は薄い紺色で覆われ、星が少しずつ見え始めている。まるで星を映す水面のように、街の景観にぽつぽつと明かりが灯っていく。

 綺麗だ――口に出そうだったその一言の代わりに、ジュンタは意を決す。今なら、全てを伝えられる気がした。

「リオン。俺は」

「ジュンタ?」

 場の雰囲気が誰でもわかるほどに変質する。それはある種の怖さすら孕んだ、緊張ある空気。しかしそこに殺伐としたものはなく、あるのは形容しがたいくすぐったさ。
 リオンを怯ませたのは、そのくすぐったさなのだろう。彼女は胸元に手を寄せて、眉根を少し不安そうに寄せた。

「どうしましたの、改まって。何か私に言いたいことでもありまして?」

「ああ。言っておきたいことが、話しておかないといけないことがあるんだ」

 見つめてくる視線を見つめ返して、ジュンタは長く秘密にしていたことを、リオンに伝えようとする。

 この一月近く、ジュンタは何度もリオンだけが知らない自分の秘密をばらそうとした。みんなは知っているのに彼女だけが知らないのはおかしいし、何より騙しているようで気が咎めたのだ。
 
 いや、それだけじゃない。それよりも、それが正しい順序だという気持ちがあったから。これから先、もっと深い関係になろうと思うなら、これは果たしておかなければならないものだと思ったから。

 だから伝える。たとえ伝えることで何かが変わるとしても、今言わなければいけない。――サクラ・ジュンタが『使徒』であるということを。

「リオン、聞いてくれ。今まで黙ってたけど、俺は――

 緊張から、そこでいったん言葉が途切れる。

 いつもは我が儘というか、プライド高いリオンであるが、決して不誠実な人間ではない。むしろ誠実も誠実。真剣な思いには真剣に応えてくれる。リオンは大事なことであると雰囲気から察したのか、黙って続きを待ってくれた。

 ジュンタは自覚してしまった想いを今日もまた、そんな彼女の姿に再認識する。自分はこんなにも、今、リオン・シストラバスのことを……

「リオン。俺は――!」

――リオン・シストラバス、覚悟!」

 想いを強さに変えて、はっきりと告げようとしたそのとき、ふいに空気に紛れ込む殺意。
 リオンと揃って後ろ方向を振り返れば、そこには両手剣を握り、突進してくる黒づくめの男の姿を見つけられた。

「我らが神のため、その命もらい受ける!」

「ベアル教ですわね!」

 殺意を察知したリオンの反応は早い。男がリオンの命を狙う刺客であることを認識したそのときには、リオンは右手中指にはめられた指輪を瞬時に紅き剣へと転じさせ、自ら刺客へと向かう。

 高台の上で、二人の刃が交差する。
 リオンを狙った男の体格はかなり大柄であり、その剣も重量級のもの。しかし、刃と刃をぶつけあった結果、弾き飛ばされたのは男の方だった。

 リオンは揺るぎない力を目に込めて、剣を振り下ろした状態から、正面へと持って行く。

 男の筋力は腕力のみなのか。ふらつく男の足腰の力は、バランス良く鍛えられたリオンのそれを遙かに下回っていた。ふんばりがきかず、剣を構え直すのに重心がぶれていた。

「おのれ……!」

「ベアル教『純血派』の生き残りですか。夜を待っての背後からの奇襲とは、恥を知りなさい!」

「黙れ! 神を殺す罪人がァ!」

 男は人相を隠しつつも、隠しきれない憎悪をもってリオンに再び向かう。
 リオンはその場から動くことなく迎撃の構えを取る。男の実力はすでに把握済み。ジュンタですら倒せるレベルだ。

 何か隠し種を持っていたわけでもないらしい。再び剣戟の音が響いたとき、そこには剣を振り抜いたリオンと、地面に倒れ伏す男。宙を舞う根本から叩き斬られた男の剣があった。

 地面に男の剣が落下して突き刺さる。リオンは剣を下ろして、髪をかき上げた。

「まったく、またベアル教ですの。こう毎度毎度襲われたら、ゆっくりと景色を楽しむこともできませんわ」

「仕方ない。ラグナアーツで最高導師が倒され、導師も前に捕まえた。残った敵は個別で襲ってくるしかないだろうしな。一度に襲ってこい、といっても無駄だし。ま、そろそろ血気盛んな教徒も打ち止めだろ」

「だといいのですけど」

 微かに疲れたような吐息を吐いてから、リオンはジュンタの方を見た。

「そういえば、先程何か言おうとしてましたわね。何か私に言っておくべきことがある、と。なんですの?」

「う、あ、いや、それは……」

 思い出したように尋ねてくるリオンに、ジュンタは困る。
 先程の続きを話すには、何か雰囲気的に逸れてしまった気がする。話したいことはとても大事なことだったわけで、それをこのタイミングで話すのは……

(いや、ここでまた次にしようと思って止めてきたから、今まで失敗続きなんだ)

 ジュンタが思い出すのは、これまでの一月のこと。正確には、リオンに使徒であることを話そうとする度に入る、邪魔者たちの記憶だった。

(最初のタイミングでは大勢の猫たちに襲われて、そのままサネアツの作った超弩級傍迷惑機関の手伝いをさせられて、次は赤ん坊の泣き声でそのまま親探しに。三度目はラッシャが現れて、怪しい商売に突き合わされたあげくにベアル教『純血派』の残存勢力との戦いになった)

 自分の想いに自覚を持ってから一月以上が経過したが、リオンとの間に何ら進展は見られない。未だ、自分が使徒であることを打ち明けることもできていない。主な原因は毎度入る邪魔であるが、雰囲気が悪いからといって先送りにしてきた自分にもあるだろう。

(今日は言うんだ。たとえこのタイミングでも)

 昨日までの自分とは違うぜ! という気持ちで、ジュンタはリオンに向き直る。
 リオンは真剣みを帯びたジュンタの顔を見て、怯んだように剣の柄を強く握った。

「リオン」

「ジュンタ……」

 地面に気絶したままの男のことは視界から排除され、二人は見つめ合う。

 ジュンタが何度目かの正直として口を開く。リオンは大人しくしていて、だけど倒れた男は大人しくしていなかった。

 小さな呻き声をあげて目を覚ます男。筋肉だけあるので、かなり打たれ強かったらしい。
 ジュンタは殺意すらこもった視線を頭を押さえながら起きあがる男に向け、腰にくくりつけていた剣に手を伸ばした。

「毎度毎度、どうしてそう邪魔を」

 異端宗教であるベアル教は二つに派閥が分かれており、その内開祖ベアルの息子を最高導師と仰いでいた『純血派』は、その最高導師ビデルの死亡をもって解散した。解散後、レナード導師と呼ばれる男が残った教団員をまとめ上げリオンを狙ったこともあったが、その男も捕まった。現在ではこうして、偶に襲撃があるくらいにまでベアル教は縮小した。

 ただ、それでもそのタチの悪さは健在なのか、ジュンタはことごとく彼らに色々と邪魔されていた。もう、色々とである。

 今回もまた邪魔してきた男に対し、いい加減据わった目になったジュンタは威圧を向ける。この男がいる限り、リオンへと秘密を打ち明けることはできそうもない。

「素直に眠っていればいいものを。そんなに眠らせて欲しいなら、いいさ。眠らせてやる」

「な、なんだ……! ぼ、暴力で全てを片付けようなんて、野蛮だぞ!」

「それをお前が――言うのか!」

 激しくツッコミを入れようとしたジュンタは、怒りによって手に凝縮した力を、剣を使うことなく男に向かって振るう。だが、その手は虚空を過ぎた。

「なっ!?」

 リオンの驚きの声が横からあがる。ジュンタも声こそあげなかったが、驚いていた。

 男の姿が、ジュンタとリオンの前から忽然と消えたからである。

 突如として激しい風が吹いたと思ったら、次の瞬間には男は風に攫われたように消えていた。  否、消えたわけではない。いきなり伸ばされたロープによって、魚が釣り竿で釣り上げられるように吊り上げられたのだ。

「誰ですの!?」

 リオンが剣を構え直し、男が引っ張り込まれた林へと叫びを向ける。

 林に潜む男をロープで吊り上げた誰かは、リオンの叫びに即座に反応を見せる。林から出たのだ。ただしジュンタたちの前ではなく、遙かな大空に。

 再び、先程よりも強烈な風が地面を戦い、渦を巻いて木々の葉を飛ばす。薄闇に閉ざされた林にはっきりとした緑の光を刻み込んだ風は、その行使者を空へと弾き飛ばした。
 風の魔法を使って空へと上がった誰かは、その手にロープでグルグル巻きにされ目を回している男を吊しながらも、重さを感じさせない軽々とした動きで、木の一本の上へと着地を果たす。

「え?」

「お前は――!?」

 星明かりに照らされ、新たなる闖入者の異形が露わになる。……いや、実際は異形と呼ぶべきではないのだか、あまりに奇っ怪な格好のため、とりあえずそう称することにした。

「こんばんは、お騒がせしてしまったようで申し訳ありません」

 平坦ながらも高い声を響かせる限り、彼女は女なのだろう。なるほど、確かに身につけている服装はエプロンドレスである。どこかで何度も見かけたことのある、赤と白をベースにしたメイド服である。ホワイトブリムも頭に装着されている。

 ただ、首から上がおかしかった。途方もなくおかしかった。圧倒的に変だった。

「……狐の、被り物……?」

 唖然とするジュンタの横で、やはり唖然としていたリオンが、彼女の被るお面をそう評した。

「私は通りすがりの狐仮面と申す者です。どうぞ、以後お見知りおきを」

 間違いなかった。ペコリと慇懃な礼を決めてみせるメイド服の女性は、頭部に狐の被り物をつけていた。かなりデフォルメされた、かわいらしい狐の被り物である。狐仮面という呼称は、まさに彼女のためにあるに違いない。

 …………うん、もうどうにでもしてくれ、というのがジュンタの本音だった。

「狐仮面……先程使ったのは風の魔法でしたわね。その前はロープと魔法を併用した捕縛術。この私に気付かれる前に成し遂げるだなんて、かなりの手練れですわ」

「いやぁ、それマジ反応ですか? 何本当に初対面の相手に対する反応してるのかな、リオンさん」

「え? ジュンタ、あなたは狐仮面の正体を存じていますの?」

 もう絶対に今日リオンに言うのは無理だとジュンタは理解し、ため息を深々と吐く。

 緊張に握ったドラゴンスレイヤーの柄を軋ませるリオンを見て、ジュンタはおかしいのは自分ではないかと視線を街並に移した。精神衛生上、睨み合う二人の美女を見ているのは良くないので。ただ、それでも聞こえた、わざとらしく、いつにも増して淡々としていた狐仮面の台詞は、シャットアウトできるものではなかった。
 
「おっと、そろそろ騎士だ……ゲフンゲフン。森の愉快な仲間たちによる集会のお時間ですね。申し訳ありませんが、これで失礼させていただきます。こちらの方は私の方で責任をもってシストラバス家の騎士団に引き渡しますので、どうぞお二方は先程の続きを。では」

「待ちなさい! まだ話は終わって――ッ!」

 瞬く緑の魔法光と、背中に感じる風。

「ああ、今日もまた失敗かぁ……」

 ジュンタはもう一度深々と溜息を吐き、懊悩を深くして、

「狐仮面。一体何者ですの……?」

 リオンは新たなる強敵の予感を感じていた。

 


 

       ◇◆◇

 




『秘密の騎士団』というものを、あなたは知っているだろうか?

 曰く、ランカの街には地下迷宮があり、その最奥の秘密の部屋で夜な夜な秘密の騎士団が会議を行っているらしい――どこの街にも存在する、いわば都市伝説のようなものである。その商業都市ランカ版の一つに、そんな伝説があった。

 大抵の都市伝説には、何かしらのルーツが存在する。火のないところに煙は立たない。多くの人はこの『秘密の騎士団』のルーツを知らないが、ランカの街の領主であるシストラバス家の騎士に聞いたなら、皆一様に渋い顔をするだろう。

 なぜならば、ランカの街の地下には本当に迷宮が存在するからだ。

 オルゾンノットの街が崩壊しランカに生まれ変わる際に、領主ゴッゾ・シストラバスの肝いりで秘密裏に建設された、下水道の横やさらなる地下へと無尽に張り巡らされた地下通路――それはシストラバス家の人間以外からしてみれば、謎の迷宮に相違ない。

 無論のこと、これは領民の安全を守るための秘密通路であり、都市伝説のように噂にはあがっても、普通の人はこれが実在していることには気付かない。

 そう、地下迷宮の奥で行われている、シストラバス家の秘密騎士団の会議には、絶対に気付かないのだ。

「気付かんほうがええで、ほんまに」

 むしろ気付いたら色々と夢が壊れるで。と、今まさに会議に招集されていたラッシャ・エダクールは小さな声で呟いた。

「ワイ、なんやシストラバス家って奴に夢見てたんかな。竜滅騎士団。不死鳥騎士団。大陸外にも名を轟かす、紅き剣の勇猛なる騎士団……その実体がこんなもんやなんて」

 二十メートル四方の大きな地下の一室を照らすのは、そよそよと綿雪のように漂う魔法灯の灯りだ。淡い光は部屋の中央にある円卓を照らし、円卓を囲む二十名ほどの男女を照らし出していた。

「それで、フィリス君の見合いの件はどうなったんだい?」

「残念ながら、どうやらまた相手側からお断りがあったようですね」

「う〜む。フィリス君、仕事はできる女性なんだけどね。逆にできすぎるというか、男性から見ると敷居が高そうに見えてしまうようだ。これで四度目。そろそろ本気で取り組んだ方がいいかも知れないな」

「結婚適齢期も中盤に差しかかってますし。まぁ、彼女なら適齢期過ぎてももらい手はあると思いますが。本人が焦ってますからね。変な相手で妥協はしないようにさせないと」

 口々に話し合う彼らの声は柔らかいが、部屋を包む空気は真剣そのものだ。……もっとも、あくまでも会議が真剣だと感じさせるのは空気だけであり、会議をしている面々の姿を見れば、とてもこれが重要な会議だとは思えない。

「フィリス君の恋愛については、なかなかに難問のようだね」

 上座のない円卓だが、あえて上座というべきならそこだという場所に、肘をついて座っているのは、貴族が着るような仕立ての良い服を着た男性。

 穏やかな声には静かな威厳が満ちている。まさに会議の議長をするにふさわしい貫禄である……その頭に、デフォルメされた鳥の仮面をつけてなければ。

(ユース嬢に連れられてやってきた時から我慢してたけど、もう我慢できへん! なんやねんその仮面は? なんでそんなん被ってんねん、ゴッゾの旦那!?)

 着ぐるみの頭の部分だけを抜き取ったかのような仮面をつけ、容姿を隠している議長が誰であるが、ラッシャは当たり前の如く気付いていた。

 これがシストラバス家の秘密騎士団会議ならば、その議長を務めるのは当然、現シストラバス家当主ゴッゾ・シストラバスである。商才においては右に出る者はいないといわれた、穏やかなナイスダンディである。ラッシャが密かに尊敬を寄せている人物でもある。

(いや、待て。落ち着くんや自分! 相手はゴッゾの旦那。あんなけったいな被りもんをつけてたって、その権威は落ちてへん……はず)

 ツッコミたい気持ちを必死に堪えつつ、円卓の一つに腰掛けているラッシャは頭を抱える。その際両手に感じた感触は頭髪の感触ではなく、気持ちいいほどの毛の感触である。

(それにこんな猿の被りもんをしとるワイが、どの面下げてその仮面のことをツッコメる言うねん。や、猿面でやけどな)

 ラッシャの頭にもまた、デフォルメされた猿の被り物が突き刺さっていた。いや、ラッシャだけではなく、会議に参加している全員が別々の動物を形取った被り物をつけていた。

 服はメイド服や執事服。紅の鎧やドレスなのに、全員が全員、頭の上はファンシーな動物の被り物。これでこの会議が真面目とかいっても嘘にしか聞こえない。参加している人間がどれほど真面目に話をしていたとしてもだ。

「おや、どうしたんだい? 猿仮面」

「い、いいえ。なんでもないです。ワイのことは気にせんと、先進めといてください」

 被り物はこの会議では仮面と呼ばれ、会議に参加しているメンバーは、その被り物の動物の名をつけて『何とか仮面』と呼ばれる。猿の被り物をつけているラッシャは、この会議の席では『猿仮面』以外の何者でもなかった。

(ああ。ユース嬢のメイド服に誘われたんがまちがっとったんや。庭にある湖の近くに隠し通路があって、まさか地下迷宮がほんまにあって、さらにはシストラバス家のみんながこないな秘密会議をしとったやなんて……知りたなかったで!)

 ラッシャがこの会議の会場へと案内され、被り物を被ったのが三十分ほど前――以後始まった第九十八回会議はラッシャの苦悩を置き去りにしつつ、一つの案件の終わりに差しかかっていた。

――では、フィリス君のことは鶴仮面に任せるということでお願いしたい。頼むぞ、鶴仮面。一つの恋愛の達成は、数多くの利益と次なる愛を生むのだから」

「はい。ご期待には必ず応えて見せます」

 鳥仮面の熱い言葉に、どこぞの貴族のご婦人といった感じの鶴仮面が返答を返す。もう、色々とラッシャの許容範囲を超えた光景だった。

「さて、それでは次の議題だ。無論、皆も分かっていると思うが、この議題になる」

(そうや。ワイがここに呼ばれたんは意味がある。シストラバス家の騎士たちしか知らへん地下迷宮を教えてもろて、さらには一部の人間しか参加できへん会議に参加しとるんや。これはえらいことやで〜、ポジティブに行こうや!) 

 一つの議題。つまり一人の恋愛談義を終えたあと、鳥仮面が新たな議題を取り上げる。そろそろ混乱も悟りに変じ、なんだかハイテンションになってきたラッシャ――否、猿仮面は、被り物の下で――否、モンキーフェイスの下には誰もいない――耳を澄ます。
 
「次なる議題はこれだ。我々が二十日ほど前から最大の懸案としている、この二人の恋愛推奨の件だよ」

 鳥仮面の背後の壁に魔法の光が当たって、一組の男女の人相を映す。

 一人は黒髪黒眼黒縁眼鏡という異国の容貌をした、苦笑を浮かべた少年。
 一人は紅髪紅眼のあまりにも美しい、少年に向かって口を尖らせた少女。

「なんや? ジュンタと姫さん……?」

 それは猿仮面も知る、ジュンタ・サクラとリオン・シストラバスその人だった。

「そうだな。今回は新たな仲間として招いた猿仮面もいることだし、もう一度最初から説明をしておこうか」

「えと、お願いします」

 よく分からない現状を知れるというなら、鳥仮面の提案は猿仮面にとっては願ったり叶ったりである。

「猿仮面も聞いていると思うが、我々はランカを影から支える秘密の騎士団だ。市民はもちろんのこと、王政府の中ですらその存在を知るのは極少数。シストラバス家の中でも既婚者と少数の人間のみしか知らない。次期当主であるリオンも知らないんだよ」

「姫さんも?」

「この秘密騎士団の存在意義は恋愛を推奨し、恋愛する男女を応援し、恋を成就させることだからね。まだ、リオンには早いんだ。目的は政略結婚などで起こりうる後々の遺恨を断ち、良き生活をプレゼントすることにより政治的・経済的な発展を狙うことにある」

 いや、それ建前で、実際は趣味やろ完全に――思わず出かかった魂の叫びを、猿仮面はあと一歩のところで何とか呑み込むことに成功した。

「人々の営みの影で暗躍し、様々な成功を収めてきた。それが我ら秘密騎士団さ。
 そんな秘密騎士団に猿仮面、君を招いたのは他でもない。現在我々が抱えている非常に難しい案件について、アドバイスと協力が欲しかったからだ」

「アドバイスっちゅうことは、恋愛に対するアドバイスっちゅうことですよね? 残念やけど、ほんま残念やけど、ワイはこれまで彼女もできたことない素人なんですけど」

「いやいや、君は間違いなく我々の大きな助けになるだろう。私はそう確信している。それと、この場では敬語は使わなくていいよ。そのための仮面だからね」

 いや、もう少しまともな仮面あったはずや――声にならなかった激しいツッコミを入れて、猿仮面はそれでも首を縦に振った。

「分かりました――いや、分かったで。そういうことなら、精一杯やらせてもらいますわ。それで、ワイが協力する案件って何なんや?」

 適応力の高い猿仮面は一応の理由を説明され、俄然やる気を出す。

 鳥仮面は満足げに頷いて、後ろの映像を手で示した。

「他でもない、今私が議題として上げたこの二人のことだよ。この二人の恋愛を推奨することが、今我々がもっとも力を注いでいる案件だ」

「この二人って、ジュンタと姫さんをくっつけようってことなんか!?」

「そう驚くことでもないだろう。猿仮面。君はジュンタ君とリオンの二人が、互いをどう感じていると思う?」

「それは……」

 鳥仮面の質問に、すぐ猿仮面は返答が見つかった。けれど、それを口にしていいものかと少し悩む。他でもない、リオン・シストラバスの父親を前にして。

「……ワイは、二人は両想いやと思うで。ジュンタが姫さんのこと好きなのは確かやし、姫さんもちょい分かりにくいけど、たぶんジュンタのことが好きやと思う」

 だが、敬語は必要ない――遠慮が要らないことを示されていたために、猿仮面は率直な気持ちを声にした。

 鳥仮面はやはり満足気に頷くと、

「その通り。我ら騎士団の総意も君と同じだ。この二人は互いに好き合っている。気付かぬのは本人たちばかり。周りは気が付きつつ、二人がくっつかないことにやきもきしている状態だ」

「だから応援しようっちゅうことやな。ジュンタのことならワイにも手伝えそうやけど、ワイの見立てては、それなりにジュンタはアプローチをしてるみたいやで? 二人が両想いなら、手ぇ出さんでもいつかくっつくと思うんやけど」

「そうだったら我々も苦労していないんだけどね。二人が両想いだと周りは分かっているけれど、本人たちは気付いていない」

「?? どういう意味なん?」

 先程と同じことを繰り返してた鳥仮面に、猿仮面はクエスチョンマークを浮かべながら問い掛ける。

 鳥仮面は沈んだような様子を見せ、また他の騎士団員たちも動物の仮面を曇らせる。

「本人たちが気付いていないというのは、互いに恋愛感情を向けていることを周りには気付かれていないと思っているだけじゃないのさ。リオン限定の話になるけどね、リオンは自分がジュンタ君に恋愛感情を持っていることに、これっぽっちも自覚がないんだよ」

「へ? ほぼ毎日のようにジュンタが寝泊まりしてる『鬼の篝火亭』に来とるのに? クー嬢ちゃんとジュンタが一緒にいると嫉妬を露わにしとるのに? 全然自覚なしなんて、そんなんあり得るんか?」

「残念ながら、それがあり得てしまっているんだよ。リオンのことを一番よく知る狐仮面も太鼓判を押している。リオンは、自分の中の恋愛感情にまったく気付いていない」

 はぁ、と溜息を吐いた鳥仮面に何を言われるまでもなく、メイド服に狐の被り物を被ったクールな雰囲気の狐仮面が、詳しい説明を始める。

「リオン様の中に、とても大きなジュンタ様に対する恋愛感情は存在します。しかし、リオン様はその感情が恋愛感情だとは気付かれていません。それはリオン様の性格を鑑みれば、当然と言えます」

「どういうこっちゃ?」

「リオン様はいい意味でも悪い意味でも由緒正しき貴族であり、騎士です。そのため、当然のこととして自分が結婚する相手は、貴き血を遺すべき家柄の男子と思っていらっしゃるのです。無論のこと、男性とお付き合いする、これ即ち結婚とも考えていらっしゃいますから、リオン様が恋愛対象として見るのはきちんとした家柄の男性だけなのです」

「つまり姫さんはジュンタが貴族やないから、好きやけど恋愛対象とは見とらんくて、好きになるはずないと思っとるから、ジュンタへの恋心に気付いとらんっちゅうことやな」

 骨の髄まで貴族である彼女は、当然のこととしてそれを疑わずに成長して、『好き』という感情を自覚する前に、『相手が貴族であること』というボーダーラインを引いてるわけだ。

 それを突破してようやく、彼女の恋愛対象として見られることができるというわけ。
 突破できない平民は、永遠にリオン・シストラバスの恋愛対象には入らない。例えリオン本人が知らず心奪われていたとしても、それを恋心と気付くはずがない。

「姫さんらしいって言えばらしいけど、それならジュンタなら何の問題もないってことやないか? やってジュンタは…………あ〜、そうやった。姫さんは知らんのやった」

「気付いたようだね、猿仮面。そうだ。リオンはジュンタ君が実際は恋愛対象に含まれていることに気付いていない。出会ってから半年近く、再会してから二ヶ月近く経っているというのに、ジュンタ君がリオンに自分の立場を告げていないお陰でね」

 ゴゴゴゴゴ、と背後に揺らめく圧力を立ち上らせる鳥仮面。見れば会議に参加しているほとんどの騎士たちから、似たような陽炎が立ち上っている。恐い。普通に恐い。特に顔がかわいらしい動物であるところが異様すぎて怖すぎる。

「つ、つまり、二人をくっつけるんには、ジュンタが姫さんに自分がそうであることを告げればいいっちゅうことやな。そうすれば姫さんも自分の中の恋心に気付いて、二人はくっつく。そういうこっちゃな」

「その通りだよ、猿仮面。我々は何とかジュンタ君が打ち明けることができるようにと、様々な場面のセッティングを行ってきた。そして……」

「ことごとく全滅っしたちゅうわけやな」

「ふっ。すごいよ、彼は。お邪魔虫なんて全然いなくて、周りは応援している人間ばかりなのに、なぜかそういうタイミングに限ってアクシデントに遭遇するんだ。呪われてるんじゃないかと四回ぐらいお祓いしてみたが、未だに効果なしだよ」

 フフフフフフ、と乾いた笑みが会議室に木霊する。

 今まで恋愛を成就させてきた愉快な動物仮面たちは、なかなかくっついてくれない二人にプライドを酷く刺激されるらしかった。平気そうなのは狐仮面と猿仮面の隣に座る猫の生首だけである。

「あれ? ちょい待ってや。なんか隣に有りえへん物体があるんやけど……?」

 小声でビビってから、猿仮面はそろりと隣を振り返った。

 そこには無人の椅子があり、円卓の上にデフォルメされた白猫の被り物が置かれているだけ。他の皆は全員被り物を被っているのに、彼だけは胴体というものがない。

「って、何考えてるんや、ワイ。単純に考えて、今日は欠席だけっちゅうことやろ。アハハハハ。いややわぁ、ワイったらもう」

「なんだ? 猿仮面。突然クネクネと動き出して?」

「…………」

 こいつは一本取られたぜ、と頭をペチリと叩いて笑っていた猿仮面の方を、いきなり生首状の猫仮面が動いて向く。確かに今、仮面の中から声がした。

 クネクネと動いていた猿仮面は完全に硬直して、下に人間がいるはずないのに話し始めた猫仮面の横に細長い瞳を、そのつぶらな瞳で見つめ返す。

「…………なぁ、自分。ちょい訊いてもええか? 被りもんの下、どうなっとるん?」

「何を言っているのだ、猿仮面。下の人などいるはずがないだろう?」

「いや、やって。もしかして、魔法とかで他の場所から通信しとるとか?」

「猫仮面はソウルパートナーを幸せにするために、遠いにゃんにゃん星からやってきた清く正しい精神を持つ魔法使いだが、こうしてしゃべっているのに魔法は使っていないぞ。待つのだ。手を伸ばしてひっくり返そうとするとは反則と言えよう。猿仮面、空気を読んでくれないか?」

「ね、猫の生首に空気を読めとか言われた……」

 真実を解き明かそうと猫仮面に手を伸ばした猿仮面は、痛烈な一言にその場にガクリと膝をつく。

 その中で、猿仮面は猫仮面の正体に気付いた。いや、普通に考えてみたら、あの中に入れるような体格の知り合いなど一人しかいない。この一月の間で知った――認めた。受け入れたとも言う――人語を解すとんでもキャットで間違いないだろう。

 猿仮面がダメージから立ち直って椅子に戻った頃、高名な祓い師に来てもらった方がいいかを真剣に話し合っていた秘密騎士団のメンバーは、取りあえず保留と結論を出して、逸れていた話を元に戻した。

「我々の存在意義と最大の案件を知ってもらったところで、折り入って猿仮面にお願いがあるのだが」

「お願い?」

「我々も成長しない馬鹿ではない。これまでの戦いの日々の中、ジュンタ君に告白を決意させるシチュエーションというものを割り出した。ただ、これには特別な場所へと遠出が必要となる。君には、他でもないジュンタ君を誘う役目を担って欲しいのだ」

「ワイが? でも、それなら猫仮面の方がええんとちゃいます?」

「いや、俺ではダメだ。俺が持ちかけると、ジュンタは裏があるのではと勘ぐるからな。その点猿仮面ならば大丈夫だろう。突拍子のない誘いをジュンタに持ちかけるのはこれが初めてではないし、何より深く考えているように見えない」

「……自分、ワイが何言われても落ち込まない思うたら大間違いやで」

 猫仮面はにゃ〜と謝るように一鳴きした。誤魔化したとも言う。

「まぁ、そういうことなら、喜んで協力させてもらうわ。ジュンタは友人やし、応援するのはやぶさかやないからな。クー嬢ちゃんのあれは恋愛感情とはちゃうし、問題ないやろ。それで? 一体どこへと誘へばいいんや?」

 協力を引き受けた猿仮面に、鳥仮面は嬉しそうな様子で、背後の映像を切り替えた。

「リオンがジュンタ君を意識した理由は、ジュンタ君がこれまでいなかった、リオン・シストラバスではなく、リオンという一人の少女として見てくれた初めての相手だったからだ。そしてジュンタ君がそうやって見るようになった原因から考察を重ね、弾き出された計画が、これだ」

 どこからともなく音楽が流れ、ババンッ、と効果音が響いて魔法の映像が映し出される。

 映像に現れたのは、統一言語である聖エンシェルト語――書かれていたのは、今回の作戦に命名された作戦名だった。

「我ら『恋愛推奨騎士団』! 次なる大仕事の作戦名は、『湯煙☆ドッキリ大作戦! 〜既成事実に持ち込めば勝利〜』だ! 絶対に成功させるぞ!!」

 議長の力強い宣言に、円卓の皆が一斉に立ち上がり、揃って気合いの声を震わせた。

 それを見て、やっぱりどうしようもなく思ってしまったことを、猿仮面はボソリとながら呟かずにはいられなかった。

「やっぱり、ワイはシストラバス家に夢を抱いとったんやなぁ……」

 それは一人の少年の夢をぶち壊しにした秘密の会議――『恋愛推奨騎士団』一大プロジェクトの始動だった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 商業都市ランカは東西南北で別れ、北地区は国教であり世界の九割以上を信者とする聖神教の、東と西は商業の中心地として、南は貴族の邸宅などが並ぶといった特色が現れていた。

 歴代の使徒たちの名前を冠す十三の月の中、今日の日付である『イブリルの月・十一日』の前の月――新年を迎えてから三番目の月であるオルガナートの月の上旬。ランカ東地区の南端あたりの大通りに面した、一つの店がオープンした。

 店の名前は『鬼の篝火亭』――主にお菓子と紅茶を扱う、グラスベルト王国では珍しいロスクム大陸の方の内装を構える店である。

 この店、実は今年開かれたレンジャール武競祭において、王都一の称号を手に入れた『鬼の宿り火亭』の支店だったりする。オーナーであるトーユーズ・ラバスが優勝のネームバリューを存分に活かすべく、発展が著しいランカに出店したのだ。

 本家はお酒と女装した男性とのトークを楽しむお店だが、こちらはかわいい洋服を着た女性が給仕をしてくれるタイプのお店である。お酒ではなく料理やお菓子をメニューとし、女性を中心にした幅広い層を取り込んでいる。もっとも、店員の中に女装した男はいるが。筋骨隆々としたその方こそ、アン店長であるのだが。

 本店の店長であるルイ店長の弟にあたる彼と、ひとまず支店を手伝うためにやってきたトーユーズ。二人の経営手腕が良かったのか、はたまた出しているお菓子の味が良かったのか。一月が経過した現在では、おやつ時になると店内はお客で一杯になっていた。

 そんな『鬼の篝火亭』の臨時店員&臨時パティシエというのが、現在のサクラ・ジュンタの肩書きであった。


 

 

 聖地からジュンタが戻ってきた街は、グラスベルト王国王都レンジャールではなく、ある意味ジュンタにとっての始まりの地である商業都市ランカだった。

 旅の一つの到達点であるリオンとの再会を終え、クーの過去を知って絆を深めたりしたジュンタは、ようやくとも言える平穏な日々を謳歌していた。
 故郷で夢見た異世界の旅は終わっていないけど、やはり異世界で動くのにあたり拠点は必要だ。そういう意味では、拠点としてランカの街が選ばれたのは当然と言えよう。

 ランカに滞在を始めたジュンタは、当初こそシストラバス家に住み着いていたが、十日ほど経ったあとは、レンジャールよりやってきたトーユーズの勧めで、『鬼の篝火亭』の方で住み込みをさせてもらっていた。

 部屋は二階。天上は低いがそれなりに広い部屋を、ジュンタは、やはり同じような理由で働いているラッシャと一緒に使用していた。サネアツも一緒と言えば一緒で、一緒にランカにやってきたクーは隣の一人部屋を使っている。先程おやすみと言って別れたので、たぶんもう眠っていることだろう。

「ラッシャの奴もサネアツも奴も、一体どこにいったんだ?」

 しかしながら、彼女以外の同居者は帰ってきていなかった。サネアツもラッシャも夕食後にふらりと外出したかと思ったら、就寝の時刻となったのに未だ帰ってきていない。

 別に心配してはいないが、現在考え事のしすぎで目が冴えてしまっているため、できれば何か話でもして気を紛らわせたかったのだが、帰ってきていないならしょうがない。

「サネアツはにゃんにゃんネットワークの総会、ラッシャはナンパに行って成功せず、やけ酒して潰れているってところか。……水でも飲んでさっさと寝るか」

 ジュンタはベッドから下りると部屋を出て、そのまま一階へと下りていった。
 
 調理場に向かうと、隅の樽から水を一杯もらおうとする。しかし樽の中には水が入っていない。

(そういや、明日朝一で水汲みするつもりだったっけ……仕方ない)

 ガラスのコップを持ったまましばし悩んだジュンタは、裏手の井戸から水を直接飲もうと、店の裏口から外へ出た。

 小さな庭の真ん中に設置されたポンプ式の井戸へと近付いたところで、ふいに明るい気がして視線を空へと移す。故郷とは違って澄んだ夜空には満天の星が瞬いていた。

「あら? ジュンタ君もお星様に誘われてやってきたのかしら?」

「おわっと!」

 悩みの中にあったからか。思わず夜空に心奪われたジュンタは、突然頭上から降ってきた女性の声に驚いて、手からコップを離した。

「トーユーズ先生。いきなり声をかけないでくださいよ」

 何とかコップは掴み直すことができたが、驚いてしまったことへの恥ずかしさも相まって、ジュンタは声の主である、店の屋根の上から顔をのぞかせる女性――トーユーズ・ラバスを少しだけ恨めしいで見た。

「あと気配を隠さないでください。本気でびっくりしました」

「あら、ごめんなさい。あんまりいい夜空だったから、つい気配を隠してしまったわ」

「どういう理屈ですか」

 トーユーズは長くみつあみされた赤茶色の髪と、涼しげな翠眼の下の泣きぼくろが何とも色っぽい美女だった。

 今も大人の女らしい起伏に富んだ肉体を、スリットの深いチャイナドレスで魅惑的に飾っており、とろんと眠たそうな瞳で見つめられたジュンタは、顔を背けることができなくなる。

「先生は夜空をつまみにお酒ですか?」

「まぁね。独り身の女の静かな楽しみというものよ」

 ジュンタの剣の師でもあるトーユーズは、その手に清酒の瓶と陶磁のおちょこを持っていた。

 この神聖大陸エンシェルトでは、アルコールと言えばワインだ。米はトーユーズお気に入りのロスクム大陸の一部で作られているだけのため、清酒は非常に貴重なものとして、高値で取引されている。

「清酒を取り出してきたってことは、今日は相当いい夜空なんですね」

「空に点数をつけるなんて無粋な真似はしないわ。ただ、そんな気分なだけ。もう、そんなところで立ってないでここまで上がってきなさいよ」

「そんな気軽に言わないでください。梯子もないですし、俺は先生みたいに屋根の上までひとっ飛びってわけにはいかないんですから」

「人をまるでバケモノのように言ってくれるわね。あたしはか弱い女の子なのに。……なにかしら? その微笑みは。まぁ、いいけどねぇ。待っててあげるからゆっくり来なさいな」

 一方的に言うと彼女は視線を空へと戻し、清酒の瓶からお猪口にダイレクトに注いで、一口で飲み干した。

「……こっちの意志は無視ですか」

「どうせ上がってくるつもりなんだから、そう言うことはいわないの」

 小声で呟いたつもりだったのだが、トーユーズには聞こえてしまっていたようである。

 ジュンタは苦笑を浮かべて、返事はせずに一度店の中に入り、二階の部屋の窓から屋根の上へとあがった。

「よっと」

 一階には眠っているアン店長もいるから、音がしないようジュンタは着地する。トーユーズはやってきた弟子を見ても声どころか視線も向けず、のんびりと空を見上げて一人お酌していた。

「先生。俺がお酌しましょうか? したことないですし」

「残念。あたしにとって、お酌をしてもらう相手は特別な人なのよね。ジュンタ君はかわいいかわいい生徒だけど、遠慮しておくわ」

「そうですか」

 どことなく寂しげな横顔で、星空ではなくどこか遠い場所をしっとりと見つめるトーユーズを見、ジュンタは自分が彼女の何かに触れたことを察した。隣で、一緒になって空を見上げる。

「ほ〜ら、隣で立ってると邪魔よ。お座りなさい」

「それじゃあ、お邪魔します」

「ええ、いらっしゃいな。ちなみにコップずっと持ってるようだけど、このお気に入りはあげないわよ? ジュンタ君酒乱みたいだし」

「それはちょっと残念です。故郷のお酒の味に似てますから」

「そう言えば、前に味見させてあげたときにもそんなこと言ってたわね。それじゃあ、また今度手に入ったときは晩酌に付き合わせてあげるわ。悪酔いしない程度にね」

 クスリ、と笑ったトーユーズの顔は、いつもと同じ色っぽい顔だった。

 そんな顔でお酒に誘われたジュンタは、少しだけどもりながらも頷き返す。トーユーズは「よしっ」と言って、お猪口に入っていたお酒を飲み干した。

 その後で、視線をここで初めて向けてきて、いきなりそんな話題を口にする。

「それで、一体ジュンタ君は何を悩んでいるのかしら?」

「……あ〜、やっぱり分かります?」

 トーユーズに悩んでいると看破されたことには、特に驚きはなかった。
 ただ、いきなり指摘されるとは思ってなかったので、ちょっとバツの悪い声が出てしまう。

「そんなに俺、悩んでる表情してますかね?」

「どうでしょうね。少なくともあたしやサネアツちゃん、クーちゃん辺りに気付かれる程度にはそんな顔をしてるわ。それで、悩みすぎて眠れなくて、愛しの先生に悩みを聞いて欲しいって顔してるわね」

「悩みを聞いてくれるんですか?」

「それが恋愛相談なら、喜んで」

 トーユーズは絶対に悩み相談を酒の肴にする気である。でも、相談を聞いてくれるならそれはそれで助かるというもの。正直、そろそろ自分だけで悩むのには限界を感じている。

「悪いですけど聞いてもらえますか? 恋愛相談っていうのほど恋愛相談じゃないんですけど」

「いいわよ。こういう夜の日には、誰かの悩みを聞くのも悪くないもの」

 穏やかで、それでいて頼れる雰囲気を纏ったトーユーズは、急かすことなくお酒を飲み続ける。

 ジュンタは自分の中の悩みを少し時間をかけて纏めてから、重たい口を開いた。

「……先生は、こんな楽しいだけの日々が、いつまでも続くと思いますか?」

「さぁ。どれだけ楽しくても終わるときは終わるし、続くときは続くわ」

「そうなんですよね」

 未来のことなんて分からない。トーユーズのあまりに正論な言葉を受けて、ジュンタは語る口を少しだけ滑らかなものに変えた。

「昔の俺は、当たり前の日常が永遠に続くと思ってました。それが当たり前だったから、なくなるなんて思いもしなかった。けど、当たり前はある日突然当たり前じゃなくなって、俺は日常を手放すしかなかった」

 夜空は、故郷の街の空とは比較にならないほどの光を瞬かせていた。そう言えば、両親と山にキャンプに行ったときには、こんな星空を見たような気がする。

「それについてはもう過ぎたことですし、旅に出てこうやって楽しい日々に巡り会えたんですから、今更です。けど、俺は当たり前の日々は脆く崩れ去るものだと知ってしまいました。だから、ですかね。俺は最近恐いんです。楽しければ楽しいほどに、またある日突然なくしてしまいそうな気がして」

「なるほどねぇ。つまりジュンタ君は、リオンちゃんに自分が使徒だってことを知られたら、楽しい日々が変わってしまうようで言い出せないってことね」

「……正解です」

 最初に恋愛相談だとは言ったが、折角回りくどく説明したというのに、一瞬で肝を掌握されてしまった。まったくもって大した人だと思いつつ、ジュンタは素直に認めるしかなかった。

「ジュンタ君の悩みは、たぶん恋してる人間にとっては当たり前の悩みね。告白して、もし断られたらどうしよう……そう思わない人間の方がどうかしてるしね。それでも告白したい。付き合いたい。そう思っているからこそ、恐い」

「一度俺、リオンに告白して振られてるから。だから尚更恐いのかも知れません」

「二度目の告白か。それはもう、次に振られたら本気で後がないわよねぇ〜」

「恐いことをさらりと言わないで欲しいです。いやもう、本当に」

 かつて狂おしいほどの激情に駆られて、ジュンタはリオンに告白したことがあった。あれは後がなかったから、後先考えず、限りなく正直に気持ちを伝えられた。

 しかし、今は違う。大事件にも巻き込まれていないし、リオンとだって普通に接することができている。告白のシチュエーションも自分で考えなければいけなくて、それはつまり理性を伴う愛の告白だ。いい方法を考えれば考えるほど、それに比例して失敗したときのこと……振られたときのことも考えてしまう。

「ちゃんと告白する前に、ずっと騙してることを――俺が使徒だってことをきちんと伝えておきたいって思っているんですけど、これがなかなか上手く行かなくて」

「告白して、付き合ってから教えるのはダメなわけ?」

「ダメというか……なんですかね。それが順序なんじゃないかって、俺が勝手にそう思ってるだけなんですけど」

「恋愛に順序なんてないわよ。あるのは好きか嫌いかの気持ちだけ。嬉しいのも恐いのも、辛いのも楽しいのも、全部が全部好きか嫌いかに付随しているだけのもの。好きだったら恋は実って、嫌いだったら実らない」

 トーユーズは伸ばしていた右足を左足に乗せて交差させ、

「両極端の二つを測る天秤はね、釣り合ってたって意味無いのよ。二つのちょうど間にあるのは、どちらよりも辛い『無関心』。ジュンタ君。リオンちゃんは、一体どっちの方に天秤が傾いていると思う?」

「それは……たぶん、好きの方じゃないですかね? さすがに嫌われているとも、無関心だとも思ってはないですけど」

「そこにたぶんは必要ないわ。傍目から見ても、リオンちゃんのジュンタ君への気持ちは好きの方向に傾いてる。それが愛情か友愛か、はたまた他の好きかは別としてね」

「……俺だってわかってはいるんです。リオンに使徒だってことを打ち明けても、怒られることはあっても関係は変わらないんだろうってことは。だけど、あいつは騎士だから。他の使徒に対する態度を見てると、不安に思うのはどうしようもなくて」

 聖地にて出会った二人の使徒。フェリシィール・ティンクとスイカ・アントネッリに、リオンは当然のこととして礼儀正しい敬語で接していた。

 誇り高き貴族である彼女は、礼節を尽くす相手には本当にきちんと礼節を尽くす。
 スイカが普通に接して欲しいといっても、リオンのその態度がほとんど変わることはなかった。

 使徒はこの世界では神聖なる最高権力者――その一柱であることをリオンに伝えたら、遠慮も何もない二人の関係が変わってしまうのではないか?

 ジュンタにとって、リオンという少女は異世界の象徴でもあった。だからリオンとの関係の変化は、異世界で築き上げた全ての関係に変質をもたらすだろう。一度失ったジュンタだから、その怖さは知っている。だからこそ本当の踏ん切りが付かずにいるのかも知れない。

「俺には、リオンのことがよく分からない」

「ジュンタ君ってば、本当にリオンちゃんのことが好きなのねぇ。青春青春。あたしももう一度あの日に戻りたいわ。今でも十分若いけど」

「先生。真剣に話してるんですけど」

 酔っぱらいのようにカラカラ笑うトーユーズに、思い詰めていた表情をしていたジュンタはガクリとうなだれる。

「ごめんなさい。でも、あんまりにもかわいくってね。ふふっ」

 ジュンタからジト眼を受けたトーユーズは、楽しそうに笑ってから、少しだけ真剣に相談への返答を述べた。

「ジュンタ君は力の抜き方を覚えるべきね。色々と最近事件が立て続けに起きた所為で、いつも肩肘が張っちゃってるのよ。サネアツちゃんから聞いてたジュンタ君は、もう少し行き当たりばったりな男の子だったはずなんだけど」

 そう言われても、仕方がないではないか。今の自分は異世界に来たばかりで、世界を知り始めたばかりの子供のようなものだ。知ることがあまりに多いのだから、悩まずにはいられないのである。

 でも……そう言えば、昔の自分はもっと考え無しに動いてた気がする。

 サネアツに言わせれば、自分は行き当たりばったりの究極的な器用貧乏らしい。
 傲慢なほどの楽天家。諦めないんじゃなくて、絶対に自分にならできると確信しているから、諦める必要がないと思っているのだとか何とか。

 サネアツにだけは言われたくないが、ここ最近ジュンタも、結構自分が熱血であることは自覚していた。それが結構爽快に感じてしまっているのも、また自覚がある。

 故郷を旅立ったが故の変化なのかも知れないが、それでも深く悩むのは似合わないか――なんて、そんなことをトーユーズの言葉で思ったジュンタは、少しだけ肩が軽くなったような気がした。

「それとね、ジュンタ君。ジュンタ君は少しだけリオンちゃんを神聖視し過ぎてるかも。普通ではあり得ないくらいに、あのリオン・シストラバスを女の子として意識してる癖に、自分とは違う眩しい存在のように考えてる。そのフィルターは外した方がいいかも知れないわね」

「外した方がいいって、どうやってですか? 意識したことがないんですけど」

「そんなの簡単よ。ありのままの相手にありのままの自分をぶつけるには、これはもう裸の相手に裸でぶつかっていくしかないわね。
 そうねぇ……あたしの故郷に温泉があるんだけど、そこにリオンちゃんを誘ってみたらどう? 裸の付き合いをしたら、そんな悩みなんて無視して玉砕できるわよ」

「玉砕はしたくないんですが。でも、温泉はいいかも知れませんね。いや、一緒には入りませんよ? 純粋にそれなら色々なものを洗い流せそうだってことで」

 ニヤニヤと笑うトーユーズに慌てて言い訳する。
 思わずリオンと一緒に入っているところを想像してしまったのは内緒である。

「ふふっ、そういうことにしておいてあげるわ。しかし、あたしも温泉には長く入ってないわね。店の方も一段落したことだし、本気でラバス村に一度帰ろうかしら」

「ニヤニヤ笑いの理由を決定にしないで欲しいんですが。……まったく。俺はもう寝ますよ」

 これ以上トーユーズからは、からかいの言葉しかかけられそうにないと思えたジュンタは立ち上がる。

「色々と話を聞いてくれてありがとうございました。それじゃあ、先生。おやすみなさい」

「はい、おやすみ。明日もよろしくね〜」

 星見に戻ってしまったトーユーズにお礼を告げて、足取りも前より軽く、ジュンタは部屋に戻ろうとする。

「そうだ、最後に一つだけ。ジュンタ君はあらゆるものは変わってしまうって言ったけど――

 背に、トーユーズの方から、静かで綺麗な夜にふさわしい声が届いた。

「変わって欲しくないものが変わってしまう? ならね、変わって欲しいことだって変えられるってことよ。変わって欲しくないものが変わってしまったら、今度は自分の手で変えなさい。それが格好いい男ってものよ」

 この一言を、ジュンタは忘れないようにしようと思った。

『誉れ高き稲妻』トーユーズ・ラバスの理念である、いついかなる時も美しく――その教えを仰ぐジュンタは、いついかなる時も格好良く。そうなれと教えられた。

「よしっ、もう少し行き当たりばったりで行ってみますか」

 何でもない一瞬に美しくあれる先生のように、また自分も何でもない一瞬でも格好良くあれるような、そんな男になれたなら――それはきっととても素晴らしいことなのだろうと思えたから。






 ――――明くる日に、ジュンタはラッシャから温泉に行こうと誘われた。ジュンタは即答で了解して、そしてリオンを誘いに出かけた。










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