第十一話  お母さん


 

 ユースの記憶の中にある『母親』という存在は、いつだってトリシャの姿をしていた。

 物心ついたときから、傍らにはトリシャの姿があった。ベッドの傍に彼女はいて、深い愛情を向けてくれた。

 子供が何をもって『母親』を母親だと思うのかははっきり知らないが、少なくともユースは認識であると思っていた。この人が自分の母親であるという認識。子供は自分に笑顔を向けてくれる大人の女性に対し、その認識を持つに至るのだ。

 たとえそこに血のつながりはなくても、一番一緒にいてくれた人を母親と認識するのは、きっとおかしなことではない。本当の母親というものを知らない子供なら、尚更に。

 ユースの本当の母親は、子供の目から見ても普通ではなかった。

 愛してくれなかったか、と聞かれれば困ってしまう。あれはむしろ、愛している、と言えた。愛してくれていたから、彼女は会ってはくれなかったのだ。幼い我が子がどれだけ母の温もりを求めても、彼女は一度たりとも抱いてはくれなかった。

 代わりに、トリシャが抱きしめてくれた。
 代わりに、トリシャが人の温もりを教えてくれた。
 
 身体が弱いが故に、誰とも会うことを禁じられた閉じられた部屋の中、ユースはトリシャだけを見て育った。

 世間知らずで、我が儘で、その癖繊細に扱わなければすぐに壊れてしまう存在。お世辞にも可愛らしい子供ではなかっただろうに、彼女は本当に良くしてくれた。彼女がいたから、今日まで無事に育つことができたのは間違いない。

 鳥籠の中で外に焦がれる弱り切った小鳥は、親鳥ではなく拾い主が優しかったから屍になることはなかったという話。

 それがいつしか奇跡を引き寄せた。本だけが積み上げられていく日々に、来るはずのない終わりがやってきた。


 ――お帰りなさい、ユース。今日からここが、あなたの家ですよ。


 そう言ってトリシャに『不死鳥の湯』まで連れてこられた日のことを、ユースは今も覚えている。

 立派な趣を感じさせる自然と一体化したような屋敷に、外というものをほとんど知らなかったユースはすぐに虜になった。その頃は目にするもの全てが新鮮だったが、その中でも『不死鳥の湯』は特別に映った。当たり前だろう。そこは自分の家と呼ぶことができる場所だったのだから。

 自分の家――その事実が何とも嬉しかったのを覚えている。自分は今までの自分とは違うのだとそう感じられて、本当の意味でトリシャを『母親』と認識して許されるのだと知って、嬉しかったのを覚えている。

 だけどそんな自分の姿を、トリシャが何ともいえない表情で見つめていたことも、またユースは強く覚えていた。






       ◇◆◇

 


 

「あ〜、くそ。ンだよ、この鬱陶しい森は。どうしてこんなに罠が仕掛けてあるんだァ?」

 拳を振るい、上空から振ってくるいくつもの岩をヤシューは砕く。

 直後――足下がひび割れ、ぱっくり飲み込まんと口を開く。間一髪察したヤシューは飛び退いてその落とし穴に落ちることはなかったが、避けた先で再び開いた落とし穴には落ちてしまった。

「上に注意を向けたあとに落とし穴かよ。やらしい仕掛けじゃねぇか」

 口元をひくつかせつつ、ヤシューは落とし穴から這いずり出る。

 これで通算五回目の落下。今度は泥だけで助かったが、顔も身体も泥だらけになってしまった。

 ターゲットが森に一人でいることを察知して、いざ最後になるベアル教導師ウェイトンからの任務を遂行しようとグリアーと出かけたところまでは良かったが、なんだこの森は。あり得ないくらいの量のトラップが設置されている。
 
 それでも最初の方は良かったのだ。引っかかっても、几帳面なグリアーが呆れ顔で助けてくれた。だけど、あまりにたくさん引っかかっていたら、『このままだとターゲットに逃げられるから、先に行くわよ』とか言って見捨てられた。

「くそっ。グリアーの奴、相棒を見捨てるなんて何考えてやがんだ? お陰で戦う前から泥だらけのグチャグチャじゃねえかよ」

 口の中に入った泥を吐き捨てて、ヤシューはガシガシと金髪の髪を掻きむしる。

 手入れなどしていない、痛んだ金色の髪から泥がボロボロと出てくる。苛々がおさまらない。得体の知れない粘着質な液体やら、魔力封じの仕掛けやらと違って直接的な被害こそないが、泥の気持ち悪さは先程からのトラップで募っていた苛立ちを、さらにたくさん加算してくれる。そろそろ我慢の限界だった。

「これを仕掛けたのはテメェだろ、ターゲット。いいぜ。メインディッシュ前の前菜のつもりだったが、もう容赦しねぇ。ボコ殴りにして簀巻きにしてゴブリンの巣の中に放り込んでやる……って、死体はフェチ野郎が使うんだったか」

 身体の泥をその場でぬぐい去りつつ、依頼はなんだったか、ヤシューは今更と考える。

「確か刻印って奴か? それをはぎ取ればいいんだよな? 目に見える刻印じゃなくて、そいつの血そのものを指して刻印って言ってたんだっけか?」

 考えてもいまいち思い出せない。

 それも仕方がない。色々あって先送りにしていた、自分が久方ぶりに見つけた好敵手ともうすぐ戦えるのだ。あれから数ヶ月経った。あの怪物がどれだけ成長しているかを考えれば、興奮するなというのが無理な話。

「……とにかく、グリアーに追いつけばいいんだよな。あいつがそういうことをちゃんと聞いといてくれるから、わざわざ捕まったのを助けたんだからよ」
 
 ガツンガツン、と、最後に両腕につけたガントレットについていた泥を打ち鳴らすことで払い、獰猛に笑ってヤシューは再び血が滾る場所へと進行を開始する。

 一歩、大きく前に足を出し、足の裏を地面につける――その直前に、ピタリと空中でヤシューは足を止めた。

「……俺も学習しない奴じゃねぇんだぜ?」

 誰にいうでもなくヤシューは告げて、目の前の地面に着地させようとした足をさらに大きく開いた。

 思い出すのは先程のこと――落とし穴から脱出して安心し、さぁ行こうと足を踏み出した途端に、目の前に連続して作られていた落とし穴に落ちたことだ。

 このトラップを作った奴は、相当根性がひん曲がっている。人の行動を計算したいやらしすぎるトラップを仕掛ける天才だ。

「並の馬鹿どもにはきついかも知れないがな、このヤシュー様にはそう何度も通用しねぇ。どうせここにも落とし穴があるんだろ? ハッハー。二度も引っかからねぇよ、くそババァ!」

 ターゲット――『ナレイアラの封印の地』を守る者であり、開くための鍵であるトリシャ・アニエースを馬鹿にしながら、強く地面を蹴ってヤシューは大きく前方に飛ぶ。

――――うぇ?」

 そして着地したその場所で、物の見事に六度目の落とし穴に消えていった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 思えば、いつだってトリシャは自分に遠慮していた。

 むしろ遠慮すべきなのはこちらの方だったのに。捨てられたのを拾ってくれた恩があるのだから。

 そう、ユース・アニエースはトリシャ・アニエースの血の繋がった娘ではない。

 対外的には親子としてあるが、本当の親子でないのは本人たちが一番よく理解している。
 でも、親子という関係とは少し違ったけれど、それでもユースにとってトリシャは大事な大事な人だったのだ。かけがえのない、それこそたった一人だけの。

 身体が弱くて、事情だってややこしかった自分を拾ってくれた彼女――優しいあの人はこちらが居心地悪くならないように、自分の気持ちよりもこちらの気持ちを優先させてくれた。

 彼女だって辛かったはずなのに。
 彼女にだって伝えたい感情があったはずなのに。

 だけどそれを押し殺して、彼女は大事に育ててくれた。

 そんな風に誰かを慈しめる姿に、優しい姿に憧れるのは当然だった。
 だから、そんな彼女の跡を継ごうと決めた。恩を返したあとに、いつか彼女のことをそう呼ぼうと決めていたのだ。

 育ててくれた、ずっとずっと見守ってくれていた大切な人。

 ――お母さん、って。


 ――――ああ、なのに。どうして未だその目標を果たしていない今、こんな光景を見せつけられるのか?

 

 


 罠という罠に引っかかり、やがて全ての罠を壊す勢いで森を駆けていたヤシューの前に、身体に多くの切り傷を負ったグリアーが現れた。

「……何やってるんだ、グリアー?」

「うっさい、ヤシュー」

 彼女は盛大に落とし穴に落ちていて、全身を鎖で雁字搦めにされていた。

 ヤシューはしばしパチクリと蒼い瞳を瞬かせて驚いていたが、すぐに口元に笑みを形作ると、十年来の相棒をキシシと笑った。

「なんだよ、テメェ。あれだけ俺のこと馬鹿にしてた癖に、自分も落とし穴に落ちたのかよ? だせぇ。すげぇだせぇぞ、グリアー!」

「馬鹿。これはアンタのとは違うのよ! 私はね、ターゲットと交戦して、こうして落ちる結果になったわけ。鼻息荒く歩いているだけで落とし穴に落ちたアンタとは何もかもが違うのよ!」

「それでも落ちたことには変わりねぇだろ? 相棒同士仲がいいって証拠じゃねぇか。……って、おい待て。グリアー、今ターゲットと交戦したとか抜かしやがったか?」

 落とし穴の中から睨みつけてきていたグリアーは、そこで呆れ眼へと変えた。

「今頃気付いたの? そうよ。ターゲットと遭遇して、すでに交戦済み。で、いい加減この拘束を破ってくれない?」

「待て待て。その前に大事なところをはっきりさせとこうぜ」

 いい加減に苛立った様子のグリアーに対し、ヤシューは手のひらを突きつけ、一つ大事なことを尋ねる。これだけは聞いておかなければならない。

「グリアー。テメェ、トリシャ・アニエースをもうやっちまったのか?」

 即ち、ターゲットをもう殺したのかどうか、を。

 グリアーは暗い落とし穴の中、ニヤリと笑った。
 そこで初めて、彼女の身体に盛大な返り血がついていることにヤシューは気付く。

 嗅ぎ慣れた血の臭い。それを女の色香として纏いながら、グリアーは質問の答えを述べる。

「ああ、もちろん――――殺したよ」


 

 

       ◇◆◇


 

 

 神様は酷い奴だと言った人がいた――まったくその通りだと、ユースは思う。

「あ……」

 薄闇に閉ざされ始めた森の一角を、月がスポットライトのように照らしていた。

 耳には虫たちの音。風に揺れる葉っぱのざわめき。いつだって温泉に浸かりながら聞こえていた自然の音が、今日に限っては嘲りの笑いのように聞こえてならなかった。

 馬鹿め。日常を大切に思っていた癖に、守れなかった馬鹿め。と、雑音が笑っていた。

 気が付けば、ユースは膝を折ってその場に崩れ落ちていた。
 眼鏡の奥の瞳を見開いて、じっとスポットライトに照らされた、大切な人を見つめていた。

「……トリシャ、さん……」

 血が見えた。血溜まりが見えた。血溜まりの真ん中に倒れている大切な人が見えた。

 分かりたくもないのに、他でもない彼女から教えてもらった医学知識が、その身体より流れ出た血が致命傷であることを囁いていた。何ということか。欠けてはならない、自分が守るべき日常の大事なピースが、この手よりこぼれ落ちて転がっていた。

 その、トリシャと呼んで慕っていた女性は、ぴくりとも動かない。
 周りの折れた木や陥没した地面の上、ただひっそりと月明かりに照らされて眠っているだけ。

「あ、……嘘……そんなのって、ない……」

 いつだってまっすぐに伸びていた背中は丸まっていて、深い裂傷ができていた。それが風の魔法によるもので、内臓にまで達しているのはすぐに理解できてしまった。

 いつもどんなときでも、メイドたるもの冷静に動けるようにと言った人がいた――他でもないその人が目の前に倒れていて、ユースは何もすることができなかった。

 だから身体が勝手に立ち上がって、トリシャの元へと歩み寄れたのは、きっとこの身に刻まれた彼女からの教えのお陰なのだろう。トリシャのようになりたいと努力したこの身は、理性とは別の部分で動くことを決定したのだ。

 そうして、発見してからどれくらい時間が経ったのか……それは分からないが、ついにユースはトリシャを抱き上げることに成功した。

「トリシャ、さん」

 思っていたよりも軽い身体を抱き上げて、初めて気付く。
 小さい。本当に小さいが、それでも必死に動く鼓動の音に。

 死んでいなかった。トリシャはまだ生きていた。限りなく死に近い淵にいながらも、彼女はそれでも死んではいなかった。

治療開始

 それからのユースの動きは早かった。

最大施術 緊急手術

 すぐさま治療の魔法を唱えると、トリシャの背中の傷にあてた。彼女の身体には誰かと激しい戦闘を行ったことを示す無数の傷があったが、致命傷なのは背中の傷だけ。ここさえ塞いでしまえばなんとかなる。

時よ止まれ 世界はあなたが思うよりも優しいもの

 治療があと少しでも遅れていたら、そのままトリシャは死んでいた。全てはトリシャが仕込んでくれた従者としての技能のお陰だ。こうして自分の使える最高の治療を施すことができるのも、また然り。

 そうだ。最高の従者であるトリシャから学んだ自分ならば、彼女を死の淵からでも呼び戻せるはずだ。たとえ理性が今からどんな治療を施しても無駄だと囁いていても、それでも……

時よ止まれ あなたは あなたが思うより 世界に 必要とされて いる

 初め、ユースはきちんと詠唱の声が続かない理由が理解できなかった。

 だけど、すぐに気付く。昔から表情には乏しくて、トリシャにポーカーフェイスを学んでからはさらに現れることの少なくなった感情の一つが、今自分の顔に表れていることに。

 頬が濡れていた。瞳が潤んで痛かった。止め処なく溢れる涙が、詠唱の声を途切れさせていた。

いや 嫌 です トリシャさん トリシャさん 死んではいけません!

 魔法の詠唱が自己暗示ならば、ただトリシャを思う気持ちこそが今は一番の自己暗示。

 かつてないほどに完璧な魔法陣。かつてないほどに噴き出る魔力――ユース・アニエースの最高の最高をもってトリシャの傷は塞がれていき……けれど、彼女の身体から抜け出てしまった命までを取り戻すことはできなかった。

 いつしか治療魔法で治すべき箇所がなくなっていた。けれど、ユースはそれでも魔法を唱え続ける。

言ったではありませんか 私の花嫁姿を見るまで死なないと 子供を見るまで死なないって だから 死んだら ダメ

 涙がポロポロとこぼれ出て、トリシャの顔に落ちていく。

 強く強く、自分がかつて彼女から与えられた温もりを返すようにトリシャを抱きしめて、ユースは声をあげて泣いた。

 


 

       ◇◆◇


 

 


――ねぇ、トリシャ。お願いがあるの』

 トリシャが幼い頃のユースから一番聞いた言葉は、そんな懇願の言葉だった。

 いつもベッドの中で横になって、白い顔で窓の外を眺めながら、彼女はいつだって同じお願いを繰り返していた。

『外に出たいの。お願い。一度だけでいいから、死ぬ前に』

 幼い少女は病弱だった。それももう長くは生きられないと医師に宣告され、世界中を血眼になって探し回っても治療法が見つからない病によって。

 彼女もそれを知っていて、誰よりも自覚していて、だからいつも窓の外に憧れていた。

 春夏秋冬。変わるが変わらない小さな四角の窓の向こう。そこは少女にとって、未踏の大地だったのだ。

 そんな彼女の想いを遂げさせてやりたいという気持ちは、いつもトリシャの中にあった。けれど彼女の病気は本当に酷かったのだ。それこそ、いつ発作が起きるかも分からず、外へは決して出すことができないくらいに。

『ねぇ、トリシャ。お願い』

『ごめんなさい。それはできないの』

 だから何度も繰り返されるお願いに対し、返す言葉もまた同じ。
 
 無理だと繰り返すたびに沈み、それを隠すように『無理を言ってごめんなさい』と笑う彼女の顔を見るのが、何よりトリシャには辛かった。

 そんな問答が日常だった少女の時間は、止まったように、だけど確かに過ぎていった。

 いつしか彼女がお願いを言うことは少なくなり、なくなった。
 無理だと諦めたのか、あるいはその危険性に成長して気付いたのか……否、どちらでもない。彼女はそのお願いを口にすることで、こちらが辛く思ってしまうことに気付いたのだ。

 彼女はただ、じっと窓の外の眺めていた。
 それはまるで囚われのお姫様のようで、彼女の日常はどうしようもなく無変化であった。


 ――だから一度だけ。物言わぬ優しい少女のお願いに、トリシャは頷いてしまったことがある。


 それは春の気持ちいい日のことだった。

 成長した少女は、だけど人並みの幸せを知らずに育った。
 育つということは死ぬ瞬間に近付くということであり、だけどその運命を受け入れて、ただ彼女は窓の外にだけ憧れを持っていた。

 何年も見てきた。何年も見ていた。いい加減に、限界だった。

――――外に、出てみますか?』

 その日の彼女はとても調子が良さそうだったから。あるいは自分の辛さを和らげるために、外を眺める彼女にそう言ってしまった。

 そう言ったときの彼女の顔は、今もまだ鮮明に覚えている。
 最初は驚いた顔。次はとてもとても嬉しそうな笑顔――人との付き合いがなく、感情が乏しかったお姫様が見せた、それはとても綺麗な笑顔だったのを覚えている。

 二人だけの秘密にして、彼女は鳥籠の外に出た。

 初めて自分の足で歩いて、空気を感じて、そうやって他の人にとっては当たり前の時間を彼女は過ごしたらしい。自分は部屋で待つしかなかったから、彼女が一人外で過ごした間の出来事は、後からベッドで彼女が語った中のことでしか分からない。

 ただ、語られたことはしっかりと覚えている。

 目を輝かせながら、どれだけ外が綺麗だったかを彼女は話したから。ベッドの中、立ち上がることすらできず、たった一回だけのソレを彼女は話し続けたから。

 ……たった一度でも夢を見させるための行為は、彼女の身体に取り返しのつかないダメージを与えてしまった。

 外で倒れた彼女は、偶然通りかかった貴族が助けてくれなかったら、確実に死んでいた。
 自分の胸の痛みを和らげるための行為が、彼女を殺しかけて、そして寿命を削ったのだ。

 それは自分で自分を殺すことすら考えさせるほどの苦しみだった。

 自分の命が削れたことを決して責めずに、『ありがとう』と彼女が小さく笑うたびに、耐え難いほどの罪悪感に苛まれずにはいられなかった。

 けれど、死ねなかった。アニエース家に生まれた者として、竜滅姫が存命である限り死ぬことは許されなかった。子供を残すまでは、死ぬことは許されなかったのだ。

 それからはずっと苦痛の日々が続く。

 それが苦しみを長引かせることと知りつつ竜滅姫様のお世話をし続けた。それは同時に、もうベッドの上から動くことすらできない彼女を、何もできずに眺め続けるということ。
 自分の犯した罪の結果を目の当たりにし続け、彼女が語る綺麗な話を聞きながら、トリシャ・アニエースは苦しみ続けるしかなかった。

 ……だけど、本当の罪はその後のソレだったのだろう。

 その苦しみに、その血の重みに耐えきれず、決して思ってはいけないことを抱いてしまったことが、即ちトリシャ・アニエースの罪だった。

 ずっとずっと、やがて我が子となる少女に笑顔で接しながら、心の中ではそう思っていたのだ。

 この苦しみがまだ続くのなら――お願い、竜滅姫様。いつか必ず死ぬのなら、早く死んでください、と。

 それはカトレーユ・シストラバスが死ぬ、ほんの少し前のことだった。

 

 



 頬に当たる確かな雫の温かさで、トリシャは眼を覚ました。

 ぼんやりと視界に映りこんだのは、なかなかに信じがたいものだった。

「……ああ。こりゃ、どういうことかねぇ。あのユースが、顔をくしゃくしゃにしてるよ」

「トリシャさん!」

 小さな呟きだったのだが、自分を抱きかかえるユースには聞こえたようだった。

 しかし、驚いた。いつだって冷静沈着なユースが、顔をくしゃくしゃに歪めて、ボロボロと大粒の涙を零していたのだから、そりゃ驚かずにはいられない。と同時に、自分を情けないとも思う。

(やれやれ。嬉し涙ならいざ知らず、このトリシャ婆やが、まさかユースを泣かせてしまうとはねぇ)

 身体の痛みはない。けれど、トリシャはグリアーと名乗る暗殺者との戦いの折、自分が受けた致命傷を覚えていた。自分がもう助からないこともまた、分かっていた。

 こうして眼を覚ませたことが奇跡なのだろう。あるいはユースががんばってくれたからか……悔しい。死ぬのは怖くなかったが、がんばった少女に報いてやれないことは、本当に悔しかった。

 だけど、悔しいという想いなら、それよりももっと大きなことがある。

 それは夢に見ていた気がする、自分がかつて犯した、許されざる罪のことだった。

「……ユースや。ごめんねぇ」

「どうして……どうして、謝られるのですか?」

「わたしはねぇ、ずっと謝りたかったのよ。昔、ユースを殺しかけてしまったあの日のことを、ずっと、ずっと謝りたかった……」

「あの日のこと?」

 涙で潤んだ瞳に、理解がいったという光が過ぎる。

 この後に及んで何を言うんだという顔をユースはして、首を勢いよく左右に振った。

「何を、何をそんなこと。私は嬉しかったのですから。あの日、トリシャさんが私の我が儘を叶えてくれて、とても嬉しかったのです。だから、謝る必要なんて何もありません!」

 これまた珍しいことに、大きな声で訴えるユースを見て、本当に優しい子だとトリシャは思う。

 結局それが今まで謝れなかった原因だけど、こうして今日まで生きてこられた理由でもある。本当にユースは優しかったから、あの日の罪を全然気にしていなかったから、こうして今日まで彼女のために生きてくることができたのだ。

 それは仕えるべき竜滅姫――カトレーユ・シストラバスを失った自分にしてみれば、望むべくもないこと。新しい生きる意味は、まさしく彼女が与えてくれた。

「……優しいねぇ、ユースは。あの許されない罪を、気にしないでって言ってくれるんだから」

「私は優しくなんてありません。ただ、本当に感謝しているだけです。あなたに、トリシャさんに、感謝してもしたりないくらいの感謝をしているだけです」

「わたしこそ、感謝されることなんて何もないのよ。わたしが今日まで生きてこられたのはユースのお陰なんだから……本音を言うとね、わたしはずっと、思ってたのよ。あの日、わたしがユースを外に出さなかったら、ユースは今も貴族として暮らしていられて、恋だって当たり前にできてたかも知れないって」

「ぇ?」

「わたしなんかに育てられるんじゃなくて、本当の家で、女としての当たり前の人生を送れたんじゃないかって……あの日死の淵に至ってしまったのも、元はといえばわたしが原因だからねぇ。わたしと出会わなければ、わたしがいなければ、ユースは幸せになっていたのかもって……」

「そんなっ、そんなことは……!」

 ユースは息を呑むように嗚咽して、それからギュッとトリシャを抱きしめた。

「もしかして、私に早く結婚して欲しかったのは、それが理由なのですか? 私に、私がこの道を選んだことを後悔させないために……幸せになって欲しかったから。新しい竜滅姫の従者を残すためではなく、私の幸せだけを願って」

「竜滅姫の従者? そんなものは祖先には悪いけど、わたしにはどうだって良かったのよ。わたしにとって大事だったのはあなただけだから。あなたが幸せなら、他には何もいらなかったの……」

 ユースが死にかけたのも、それが原因で親に捨てられることになったのも、全ては自分が原因だ。

 彼女は拾って育ててくれたことに感謝してくれているようだが、それは違う。元はといえば全て自分が悪いのだから、面倒を見るのは当たり前のことなのだ。いや、面倒を見させてくれてありがとうと、そう感謝するべきなのである。

 死ぬことなく元気になって、今幸せそうに生きてくれているユース……その姿にどれだけ救われたか。それはきっと、どんなに感謝してもしきれないこと。

 諦めていた血を継いでもらうということ――それもまた彼女が叶えてくれた。偽りの娘としてだけど、それでも……

「ああ、そうだ。もう一つ謝らないといけなかったの。
 ごめんなさいねぇ。わたしが育ててしまったから、ユースには竜滅姫の従者という役割を与えてしまったわ。他の生き方があったかも知れないのに、一人の女としての幸福があったかも知れないのに、わたしが、それを歪めてしまったわ」

「違います。そんなことはありません! 私は強制されたのではなく、私の意志でこの道を選んだのです。私はリオン様の従者となれたことを誇りに思っています。あなたの想いを継ぐ者になれたことを、幸せに思っています。
 幸せでした。いえ、とても幸せなのです。こんな幸せに満ちた日常を送れることが、幸せでなければなんだというのですか!」

 抱きしめられる温かさと共に、強く訴えるユースの声がトリシャの耳元で囁かれる。

(そう。ユースは幸せだったの……わたしの不安は、全部、杞憂だったようねぇ……)

 そうか。と、トリシャはようやく安堵がいった。ユースは今幸せなのだと、ほっと胸を撫で下ろす。

「わたしも――

 なら、今度は自分が伝えないといけない。
 ユースが後悔していないなら、また自分の後悔もないことを、他でもない大切な少女に。

「わたしもねぇ、幸せだったわ。あなたと出会えて、あなたと一緒にいられて、わたしはとても幸せだった。……きっと、わたしほどに幸せな竜滅姫の従者はいなかったわ。だってユース、わたしはあなたに巡り会えたのだから……」

「トリシャさ、ん……?」

「ああ、本当に幸せ。ユースの腕の中で死ねるなんて、本当に幸せねぇ」

「そんなっ、死んではダメです! まだ私は何も恩返しをしていません! 花嫁姿だって、子供だって、まだ、まだ何も――!」

 ユースの必死な声が届く。

 こんなユースの必死な声は、今までに聞いたことがない。それがともすれば消えてしまいそうなトリシャの意識を、瀬戸際で繋ぎ止めてくれる。

「それだけは……ええ、少しだけ残念ねぇ。大好きな人の隣で、子供を抱いて幸せに笑うユースの姿を、わたしは、見たかったんだもの……けど、どうやら無理みたい。でも安心してねぇ。わたしは、空から、見ている、から……」

「ダメ、そんなのはダメです! そんなこと言わないでって、そう言ったではありませんか? 私が結婚して子供を産むまで、生きていてくれるって言ってくれたではありませんか? 約束は守ってください。守ってくださらないと、私は一生誰とも結婚しませんし、子供も生みません!」

「それ、は、もっと困るわ。だってユースが言うと、冗談には聞こえないんだ、もの……」

 とってもとっても大好きな、とってもとっても優しい少女には、是非とも結婚してもらわなければいけない。それが自分の幸せなのだ。ユースの幸せが、トリシャ・アニエースの幸せなのだ。

「冗談ではありませんから。本当に、私は誰とも結婚しません……から」

 トリシャは笑って、ポンポン、と子供をあやすようにユースの頭を撫でた。

「駄々をこねてはダメ、よ。あなたは、竜滅姫の従者ユース・アニエースでいることが幸せなので、しょう? ……ならね、幸せにならなければダメなのよ。子供を生んで、幸せ、に……」

 手を動かすことは辛かったけれど、それでも最後にユースの頭の撫でることができた方が嬉しかった。

 脳裏に、色々あった自分の人生の情景が流れていく。

 母親から教えられた竜滅姫の従者としての生き方。
 やがて大事な娘となるユースとの運命の出会い。
 娘となった彼女と家に帰り、そこで過ごした時間。

 ユースが自分の跡を継ぎたいと言ってくれた日は、どうしたものかと悩んだものだ。けれど、あの我が儘をいわなかったユースの初めての我が儘に、その情熱に最後には負けた。リオンという竜滅姫はとても素晴らしい少女だったから、きっとユースはそうなることで幸せになれると信じて。

(わたしの姫様――カトレーユ様。わたしは、あなたの従者は、本当に竜滅姫の従者としてふさわしくありませんでした。だってわたしは竜滅姫の従者でいたことよりも、ユースの母親だったことを幸せに感じて、誇っているのですから……)

 これが走馬燈かと理解して、トリシャは大切な我が子を最後に見る。
 
(だけど、わたしはあなたに出会えたことを、本当に感謝しています…………最後までお傍にいられて、幸せでした……)

 ユースが今幸せだとわかって死ねる――これ以上のものはないだろう。
 だから、もういいだろうか。さすがのカトレーユ・シストラバスの従者様でも、これ以上意識を繋げるのは厳しい。

「最後に、これだけを伝えさせて、ねぇ。わたしはね、あなたのことをずっと娘だと思ってたわ。あなたが生まれたときから、ずっと、ずっと……」

「私も、私もですっ! 私もずっとトリシャさんのことを――

 意識が消える。視界が真っ白になる。その中で、子供みたいに泣き叫ぶユースの声だけが届く。

 それは望むべくもない最高の言葉。自分の人生に悔い無しと誇れる、最高の見送りの言葉だった。

 ……なぜ、竜滅姫様に早く死んで欲しいと思ったのか、今更ながらに腹が立つ。

 もしも竜滅姫様が早くに死んでしまったら、こんな嬉しい言葉をもらうことはできなかった。こんな幸せな最期を迎えることなく、苦痛の中で死んでいたことだろう。

(本当にありがとうねぇ、ユース。わたしの、たった一人の、愛しい娘)

 トリシャ・アニエースはその涙が出るほどに嬉しい言葉を――


――――死なないで、お母さんっ!!」


 ――耳に残しながら、静かに微笑みを浮かべたまま、ゆっくりと人生の幕を閉じた。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 もう、どんなに呼びかけても、トリシャがユースの言葉に答えることはなかった。

 本当に、この手から零れてしまった。

 守りたい人が、守りたい日常が、こんなにも容易く、こぼれ落ちてしまった。
 その喪失感に、ユースは泣くことすらできなかった。あれほど流れていた涙も止まって、虚ろな呟きだけがもれる。

「お母さん……ようやく、お母さんって、呼べたのに……」

 手は、いつまでも鼓動を刻むのを止めたトリシャの身体を抱きしめていた。もう二度と動き出すことがないと分かっていながら、それでも離すことができなかった。

「…………どうして、こんな……酷い。酷すぎではありませんか……」

 だからユースにとって、温かさを教えてくれたトリシャこそ、母親だった。

 ずっと劣等感を感じていて母親と呼べなかったが、いつも『お母さん』と呼びたかった。

 それを折角果たした今日この瞬間――もう二度と呼べなくなってしまった。
 一番自分のことを慈しんでくれた人は、大切に思ってくれた人は、一緒にいてくれたユース・アニエースの母親トリシャ・アニエースは、死んでしまった。

――――許しません」

 いや、殺された。何の罪もない優しい母親は、理不尽に誰かに殺されたのだ。

 それを許しておくことなど、できようはずもない。

「お母さん。お母さんの仇は、私が必ず……」

 ギュッと最後に強く抱きしめて、冷たくなっていくトリシャの頬に、ユースは自分の頬を預ける。その際、目尻に溜まっていた最後の涙が流れ落ちた。

 その後のユースの顔に、もはや涙はない。

 仮面のような無表情の下に怒れる炎を宿し、森の奥からやってきた二人組を鋭く睨みつける。

「おうおう、死体の回収に来たら、なんだ。新しい獲物がいるじゃねぇか」

「馬鹿ヤシュー。私たちの任務はトリシャ・アニエースの刻印の回収。他のことで遊んでいる時間はないのよ」

 その二人組は、鼻筋に傷を持った長身のエルフと、返り血を浴びた褐色の肌の魔法使いだった。
 このタイミングで現れた敵意を放つ男と血まみれの魔法使いを見て、誰がトリシャを殺したのか察するなという方が到底無理な話。

 ユースは優しくトリシャを地面に寝かせると、一歩前へと出る。

「遊んでる時間はない、か。でもよグリアー、向こうは遊んでくれるまで帰してくれる気はないみたいだぜ? いい殺気を放ってやがる。俺らを殺す気満々だぜ?」

「……しょうがないわね。さっさと片付けるわよ」

「そうこなくちゃだよなァ!」

 もはや疑うまでもない。

 応戦の構えを取った二人。ヤシューと呼ばれたエルフの男は肉弾戦の構えを取り、グリアーと呼ばれた魔法使いの女は、トリシャに致命傷を与えた風の魔法の気配を纏った。

「……あなた方は絶対に逃がしません。ここで、仕留めさせてもらいます」

「仕留めるとは大きく出たな、メイド風情が! それともアレか? もしかしてテメェ、そのババァの生徒か何かか?」

「その通り、私は彼女の生徒です。そして、それより何より、私ユース・アニエースは彼女――トリシャ・アニエースの娘です」

 誰かに初めて語るトリシャの娘であるという名乗りが、こんな時であるのが悲しい。けれど、これだけは明確にしておかなければならない。この場所で戦う意義はただそこにだけあった。

 ユースの発言に、ヤシューはピクリと眉をあげて、グリアーは少し驚いた様子を見せた。

「なるほど。それじゃあ、逃がしてくれるはずないわね。ユース・アニエース。調査した中にいたわ。トリシャ・アニエースが自分の後継者にするために引き取って育てた娘。血の繋がりはなし。でしょ?」

「訂正を。お母さんが私を引き取ったのは自分の後継者にするためではなく、私の幸せを思ってです。こうして後継者となったのは、私がお母さんに憧れたから。それだけは、決して間違えては欲しくありません」

「ふ〜ん。まぁ、どっちにしろ血が繋がってないんじゃ、刻印云々には意味ないわね。所詮は偽りの親子。形だけの娘。あのババァの『封印』の魔力性質には苦労させられたけど、アンタには――

「黙れ」

 耳障りだと、グリアーの話を遮って、風の刃がユースより放たれた。

 話を中断して避けたグリアーとヤシューに向かって、裾から取り出したナイフを向けつつユースは告げる。

「ご託はいい。さっさと来なさい、薄汚い殺し屋。その汚れ、私が跡形もなく綺麗にして差し上げます」

 その言葉に込められた侮蔑と憤怒に、一瞬にして場の空気は張りつめ、月明かりに照らされた森は戦場に変わる。

 変わった森の気配に武者震いするヤシューと、気にくわないと目つきを細めるグリアー。

「ハッハー! グリアー、あいつの言うとおりだ。テメェの話はいちいちなげぇンんだよ。目の前に敵がいる。ならよぉ、後はただ殺るだけだろ?」

「アンタがそうだから、私がこうなったんだよ、馬鹿ヤシュー。けど、今回ばかりは同意してやるよ。あの女、気にくわない」

「ご安心を。私もあなたのことは好きではありませんから。ええ、殺したいほどに嫌いですよ」

「言ってくれる――!」

 その次の瞬間の交差は一瞬だった。

 鋭い踏み込みでヤシューがユースに攻め入ったかと思うと、グリアーが後方より風の弾丸を幾つも飛ばす。しかしその両者の攻撃がユースを捉えることはなく、その時には上空に鋭いカマイタチが生まれていた。
 
風は 風景を切り抜く刃

 上空へとノーモーションで飛んでいたユースが、詠唱と共にグリアーに向けて極大の風の刃を放つ。

 それは地面に地割れのような傷跡を刻みつけつつ、グリアーを襲う。が、トリシャを殺したグリアーもまた風の魔法使い。いち早く攻撃を察知して、ユースと同じように空中に回避していた。

風の弾丸よ 敵を砕け

風は 風景を変える翼」 

 次の攻撃は同時に――ユースとグリアーの手から放たれた風の弾丸は、鋭い音を互いの間で奏でて、暴風を巻き起こしてぶつかり合う。
 
 それはまさしく、今夜この森で響く二度目の風の音――

(お母さん)

 ユースは必死に戦って、そして負けただろうトリシャのために、全力を尽くす。

 それが何よりの母親に対する恩返しと信じて。









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