第十二話  封印の風のアニエース


 

 グリアーが先程まで対峙していたトリシャ・アニエースは、まさに恐るべき風の使い手だった。

 シストラバス家の竜滅姫の従者を代々務める、誉れ高いアニエースの血筋。それを受け継ぐ彼女もまた、衰えながらも凄腕の風の魔法使いであった。グリアーもまた、これまで殺した人の数だけ自分の腕に自信があったのだが、それでもトリシャの実力には舌を巻いた。とにかくトリシャの放つ風はいやらしいほどに危険だったのだ。

 彼女の風は、こちらの風を打ち消して届く。

 ラバス村にて生まれし竜滅姫の従者。その魔力性質は『封印』――他者の魔法を弱体化させ、無効化する、まさに魔法使いにとっては鬼門のような魔力性質である。

 このアニエースの森にもまた、『封印』の風が絶えず吹いている。
 その中で縦横無尽に空を駆け抜け、互いに風の弾丸や刃を放つ攻防において、グリアーの風はことごとく弱体化させられ無効化された。

 トリシャの放つ魔法の風と森の風――二重の妨害にあった刃は、ほんの僅かに彼女の肌に傷を付けるだけ。対してトリシャの放つ刃は、恐ろしい命中率をもって殺到してきた。

 とにかく真っ向からの打ち合いでは歯が立たなかった――それに早々と気付けたことが僥倖といえよう。あのまま遮蔽物のない空中で戦闘を続けていたら、骸と化していたのは自分の方だった。

 だが、結果的に持久力の差で勝利した。
 
 遮蔽物を利用して相手を疲労させ、後は背後に回っての奇襲だ。いくら森の魔力で弱体化させられたといっても、トリシャの放つ『封印』の風がなければグリアーの風の刃は鋭い凶器として機能した。それはグリアーの魔力性質『切断』が機能した証拠だった。

 最後の最後に至近距離から弾丸をくらい遠くまで弾き飛ばされたが、それでも勝者がグリアーであることは転がるトリシャの死体を見れば一目瞭然。封印の風のアニエースと呼ばれたトリシャ・アニエースは、暗殺者の放つ名も無き風の前に消えたのだ。

 そして何の因果か、今また空中にて対峙する風の魔法使いも、アニエースの名を持つ者。

 ユース・アニエース――トリシャ・アニエースの義理の娘であり、竜滅姫の従者の役割を継ぐ者。しかし血の繋がらない彼女は、封印の風を継ぐ者ではない。

「さて、それじゃあやろうか」

 風を引き連れ、数十メートルの距離をとってグリアーとユースは空中にて向かい合う。

 かなり遠い距離だが、それでも風の魔法使いにとっては数歩の距離。魔法の打ち合いを行うならば、むしろ近すぎるといえた。けれど、この距離が最もグリアーが得意とする距離でもあった。

 先のトリシャとの戦いでは『封印』の魔力性質の前に通用しなかったが、近付けば近付くことほどに鋭い『切断』の風を放てるグリアーには、この至近距離に踏み込める距離こそが最高のもの。果たして、グリアーは無言で睨むユースに対し、絶対の有利を確信して動く。

風の刃は――

 素早い詠唱で放たんとする風の刃。
 詠唱を最後まで唱える前に、ユースの身体はグリアーの目の前に迫っていた。

「っ!」

 詠唱を中断して、風を操って後ろに下がる。この森の中、浮遊状態を維持したまま回避を取るのは難しかったが、四の五の言っていられる暇はなかった。

 目の鼻の先を擦過するのはユースが握ったナイフ。まるでリンゴの皮の向くように繊細に振るわれたナイフの一撃は、当たれば確実に脳天から自分を切り裂いていた本気の一撃だった。

「つぅ!?」

 魔法ではないナイフでの攻撃は、なおも間隔を置かずに続く。

 ユースは、振り下ろしたナイフを持つ方とは逆の手に、いつの間にか三本のナイフを握っていた。一体いつ取り出したのかわからなかったナイフは、そのまま下から上へと滑らかな動きで放たれる。

必死に走れ

 ナイフはユースが唱えた短い詠唱によって、その速度を倍増させる。

 一瞬の内に目の前まで迫っていたナイフに対し、一度回避行動を取っていたグリアーは回避する術を今持ち合わせてはいなかった。

「なめるな!」

 避ける代わりに、グリアーは叫びと共に腰のナイフを抜きはなって三本のナイフ全てを打ち払う。

 そのままユースがしたように持ったナイフを彼女に投げつけようとして――

方向転換 了承

 弾いたナイフ全てが方向転換して殺到してくるのを見て、投げつける方向をそれらに変えるしかなかった。

「ちっ、糸つきか!」

 投げた二本のナイフの内一本が向かってくるナイフを弾くと共に、その柄に繋がれていた見えない糸を切り裂いたのを確認して、グリアーはユースのナイフが、糸によって弾かれたあとも操れるタイプであることを悟る。

 悟ったときには、すでに糸が存命の二つのナイフを向かわせているところだった。

急速旋回 速度加速 了承

 さらなる詠唱の言葉と共に、方向転換して加速してくるナイフを弾く道具は、もうグリアーにはナイフ一本しか残されていなかった。

 暗殺者の嗜みとして多数の仕込みナイフを有していたグリアーだったが、同じようにメイドの嗜みとしてさらに多い仕込みナイフを携帯していたトリシャに対し、ほとんどを使い切ってしまっていたのだ。
 トリシャと同じようにナイフを魔法と同時に使うユースの攻撃に対し、同数のナイフを使って防いでいれば、ナイフの底がつくのは、武装の疲弊したグリアーでは仕方がないことといえた。

 だが、そもそもグリアーにとっての最大の武器とはナイフではなく魔法。

風よ 鋭き壁となれ

 魔力のある限り無尽蔵に放てる形なき武装は、ナイフが迫る極限においても正しく発現する。

 グリアーの差し出した手の先に輝く緑の魔法光――現れた魔法陣が消えたあと、加速して向かってきたナイフの方向を強引に変えた風の防壁は、そのままナイフに繋がれた糸を絶つ。

輝きの舞踏 見えざる光舞う風景を 切り抜き運べ 風の民

 その時聞こえた詠唱の詩は、先程までナイフの方向転換と加速に費やしていた時間を、そのまま長い攻撃の詠唱に与えたものだった。

 グリアーにとってナイフが本命の武装でないように、またユースにとってもそう。
 ナイフの回避によって引き離されるしかなかった距離は、そのままユースに強力な風を放つ猶予を与えることになる。

 魔法属性・風の系統――踊る風の民ダンサーウィンド

 広範囲に対して無数の風の刃を放つ魔法は、どれだけ素早く動いても逃げられぬダンス会場となって、グリアーの周り一帯を包み込む。

(相殺を――ッ!)

 あれを喰らったら、トリシャとの戦いで疲弊した身体ではきつい。少なくとも浮遊に使っている制御は持つまい。
 
 グリアーは咄嗟の判断から、正確に、しかし限りなく素早く詠唱を唱え終わる。

風よ 礫となりて敵を刻め

 慣れ親しんだ風の弾丸を真正面にいくつも放つ[風壁の礫ウォールドエア――少なくとも命中する[踊る風の民ダンサーウィンド]の威力を軽減させてくれるはずの攻撃は、しかし迫る風の刃の前に脆く消え去る。

「なっ! そんなはずは!?」

 それはあり得ない光景のはずだった。

 自分の風が相手の風の前に消え去るという光景自体は、忘れたくとも未だ忘れられないが、それでもそれはトリシャとの戦いでのみ存在するはずの光景。彼女の血の繋がらない娘との戦いでは、あり得るはずがない光景だった。

 だって、相手の魔法を無効化する風を使えるのは、

「『封印』の――魔力性質!?」

『封印の風のアニエース』――かの血を継ぐ、存在しないトリシャ・アニエースの本当の娘だけのはずなのだから。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 体中を切り裂かれて地面に落下したグリアーの前に、ユースは音もなく降り立つ。

 褐色の肌を裂傷と血で染めたグリアーは、何の容赦もない氷の視線で見下ろしてくるユースを睨みつけた。

「……驚いた。アンタ、まさか『封印』の魔力性質持ち?」

「驚く必要はないはずです。それは当然のことなのですから。
 私は封印の風のアニエース。トリシャ・アニエースの娘――ユース・アニエースです」

「情報ではアンタとターゲットは血が繋がってなかったはずだけど? ……でも、考えてみれば当たり前の話か。何の繋がりも関わりもなかった子供を引き取るはずがない。
 竜滅姫の従者として竜滅姫の傍から離れられなかったトリシャ・アニエースが引き取ったなら、アンタはトリシャの近くにいた子供だってことになる……アンタ、シストラバス家に属するいずれかの家の人間だったわね?」

「私がその質問に答えるとでもお思いですか?」

「思わないわね。アンタの母親も何も答えなかったんだから」

 そう言って血を唾と一緒に吐いたグリアーに対して、もうそれ以上ユースは気を咎めなかった。

 致命傷ではないが、行動不能程度には痛めつけた。トリシャをその手にかけたことは後で後悔させるとして、今は他に気にすることがある。そう、敵はグリアー一人だけではない。

――だらしねぇな、グリアー。威勢良く向かった割に、早々のリタイアかよ」

 粗野な言葉を放つエルフの男が、血だらけの仲間を前にして大笑している。そこに遠慮も容赦もない。その姿が楽しいから笑っているだけという、何とも野蛮な笑みだった。

 近付いてきたヤシューへ振り向いたユースは、なおもグリアーに声をかける彼の声を聞く。

「人が折角やる気だしてんのによ、テメェら二人で空にいっちまうし。もう、俺はどうしてくれようかと思ってたわけよ」

「私の援護をしなさいよ。私は一人仕留めたんだから、次はアンタの番でしょうが」

「いい訳ですかぁ、グリアーちゃん? だが、いいぜ。後は俺に任せときな。なかなかにいい前菜っぷりだしなァ、この女」

 ある意味では信頼しているとも取れる、倒れた仲間を気遣わないヤシューは、そのまま構えを取る。型のない適当に近い肉弾戦の構え――だけどそれは隙がない、野生の獣の構えに似ていた。

 グリアーはトリシャとの戦いで疲弊していた。けれど、ヤシューという男はどうやら違うよう。ダメージは一切ない様子。そして恐らく、彼はグリアーよりも強い――エルフという高い戦闘力を有する種族だからという理由だけではなく、その身に纏う血の臭いからユースは推測する。

「というわけでよ、ここからは俺と楽しもうぜ」

「…………」

「ンだよ、無口な野郎だな。こういうのはなぁ、もっと楽しまないと損なんだ――ぜッ!」

 戦闘狂の笑いを浮かべて、一気にヤシューは向かってくる。

 赤く輝くガントレットが、夜の森を照らす月明かりに輝く。
 その拳の速度は、ユースが予想していたものよりも早かった。

 空へと回避する時間はない――ユースは両手にナイフを握り、近接戦闘でヤシューに応える。拳の連撃をナイフで捌き、腰を捻り、合間を狙って蹴りでの反撃に出る。

 ひるがえるスカートの影より、仕込みナイフをつま先からのぞかせたブーツが迫る。それを目の前にしてもヤシューは笑みを消すことなく、軽くガントレットで弾く。
 直後にもう片方の足で後ろ蹴りを放ち、至近距離から直上に向け左右でタイミングを変えてナイフを投擲する。が、その全てを最小の動きでヤシューは避けてみせた。

「いい動きだ!」

「ぐっ!」

 そこで反撃の機会を許してしまった。
 
 歓喜という名の大砲をもって、拳という名の砲弾を放つヤシュー。
 身体に染みついた防御から、風の防御壁を張った上で手をクロスさせて受けたが、それでもなお肉体を拳のダメージが貫いていく。

 何の技巧もない一撃のはずなのに――ヤシューの拳は、ただ純粋に重すぎた。

「いいなァ。テメェ、肉弾戦もできんのかよ」

「万能であること。それがメイドの義務です」

 ダメージを見せず、ユースは新たなナイフを手に握った。

 その場から大して動かずに、二人は激しい攻防を繰り広げる。
 
 ユースは、華麗なナイフ捌きに加えて両足の蹴り技での応戦を図る。
 それを両の拳だけを使って余裕顔で捌くヤシューを見て、近接戦闘の腕ではどちらに軍配が上がるのかはすぐに分かった。

(魔法戦に切り替えましょう)

 白兵戦での戦いでは勝ち目はない。詠唱する時間を稼ぐために距離を取ろうと、間合いを外させてくれないヤシューに、ユースはナイフの投擲体勢に入る。

 それはちょうど、先程直上に投げたナイフが手の中に落ちてくるのに合わせた投擲――都合四つのナイフが、連続してヤシューの頭胸腹腰の四カ所にほぼ同時に放たれる。

「うぉっ!」

 これにはさすがのヤシューも下がって距離を取ることでしか、回避することはできなかった。

(動きが早いのでしたら――

 その間にバックステップで距離を取るユースは、無詠唱での風の矢を前方に放ちつつ、さらに大きく後方へと下がる。

 そこで夜闇を晴らす、緑の輝きを放つ魔法陣を構成した。

輝きの舞踏 見えざる光舞う風景を 切り抜き運べ 風の民

 それは先程グリアーにも使った、広範囲に風の刃を放つ[踊る風の民ダンサーウィンド]の魔法――回避体勢から立ち直っていなかったヤシューを、逃がす場所を与えない風の怒濤が飲み込む。

輝きは途絶えることなく 風の民は舞を続けた

 さらに同種の魔法の重ねがけ。緑の輝きが森を染め、ヤシューの姿を暴風によって覆い隠す。
 風の魔法属性は、かなり殺傷性の高い魔法属性だ。その中において、回避不可の[踊る風の民ダンサーウィンド]二撃を、ヤシューが避けた可能性は限りなくゼロ。それが意味することに、警戒は止めずにユースは息を深々と吐き出した。

 ヤシュー――恐るべき拳速を持つ男だった。エルフにしては珍しく魔法ではなく肉体で戦う戦士だったが、それでも戦士である限り接近されなければ恐くない。上手くことを運べて良かった。

(お母さん……)

 ユースは確かにヤシューに魔法が命中したことを確認すると、トリシャを殺したグリアーへと向き直る。

 怒りと悲しみを秘めた仮面の無表情で、身体を起こして木の一つに背中を預けたグリアーを睨みつけた。

「恐いわね。でも、いいのかしら? 私に意識を向けても?」

「残念ながら。あなたのお仲間は排除させていただきました」

 グリアーが何を言いたいのか、ユースにはすぐにはわからなかった。

 わかったのは、背後で響いた元気な笑い声を聞いてからだった。

「ハッハー! おい、こいつはすげぇな。魔法使い!」

「!!」

 バッと身体の向きを百八十度変えたユースの目に、えぐれた地面の上を悠々と歩いてくるヤシューの姿が映る。彼は元から露出していた自分の腹部についた、一筋の傷を見ながら、実に愉しそうに口端をつりあげていた。

 驚くべきはそれだった。グリアーを一撃で戦闘不能にした、相手の防御を弱らせ貫く『封印』の風の刃を二重にしてぶつけたというのに、ヤシューに対してはたった一つだけ裂傷をつけるに終わっていた。

「驚いたぜ。俺が俺の血を見たのは一体いつぶりだ? これが、なるほどな、噂に聞く稀少な魔力性質――『封印』の力って奴か。ドラゴンの守りを貫くって噂も嘘じゃねぇわけだ」

「……驚いたのはこちらの方です。どうなっているのですか? あなたの身体は」

「おっ、俺の身体に興味津々ってか? ならよ、教えてやるぜ。手取り足取り激しくなァ!」

 一頻り感心して笑ったヤシューが、再び接近してくる。
 
 必勝を確信しての攻撃が少しのダメージを与えるに終わったのみという事実を前にして、反応が一瞬遅れた。折角稼いだ距離は、ヤシューの素早い接近の前にゼロと消える。

「魔法使いってのは、いつだって俺に戦いの喜びを刻んでくれねぇからよ。いや、油断してたし、なめてたぜ。でもよ、ここからはなしだ」

 ユースは自分こそがヤシューをなめていたことを察する。封印の風のアニエースと呼ばれる風の一撃の直撃を受けて、ほとんど効かないなど普通ではありえない。

 それは同時に、そんな相手にトリシャが狙われたという不気味な不安をユースに抱かせた。

 獰猛な笑みをのぞかせて、獣のような男は牙を剥く。

――精々あがいて楽しませろや、女ァッ!!」

風の歌声は高く 我は空へ行かん

 猛烈なヤシューのラッシュを前にして、ユースは逆巻く風を呼び起こす。

 アニエースの森に響く風は、未だ絶えることなく吹き荒ぶ。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「ユースとトリシャ婆やの姿が見られない、ですって?」

「それってどういうことだ?」

 呼び止めた『不死鳥の湯』で働く従業員から、そんだ意外な報告をジュンタとリオンは受けた。

 リオンが夕食の席になってもユースが現れないことを気にして、食堂から出て一人の従業員に尋ねたところ、何でもトラップを設置しに森に出たトリシャもまだ戻っていないのだとか。それと、旅館内にいるはずのユースの姿もないのだという。

「ユースお嬢の姿を大浴場の方から見たって奴はいましたが、それ以上のことは何も……」

「そうですの。分かりましたわ。あなたはこのことをお父様にも。私はユースを探します」

「分かりました」

 頭を下げて食堂へと従業員の男が走っていくのを見送ってから、何やら難しい顔で考え込んでいるリオンにジュンタは訊く。

「トリシャさんがいないのはまだ帰ってないだけかも知れないけど、ユースさんがいないってどういうことだ? 今日は確か、お前がこれ以上働くなって休ませたんだろ?」

「そうですわ。ユースったら、ほっとくと有給休暇も全然使わずに働きっぱなしですもの。私やお父様が休めと言ってやらないと、いつまでも休みませんし。折角実家にやってきましたのよ? 少しくらい休ませてあげるのは当然のことですわ」

「まぁ、そのための旅行だしな。なら、ユースさんが一人で出かけた可能性は? あと、大浴場の方で見たっていうなら温泉に入ってるとか?」

「なくはないですけど、夕食までに帰ってこないなんてユースに限ってあり得ませんわ。ですけど、大浴場からショートカットして婆やを迎えに行った可能性は否定できませんわね」

「それじゃあ、ユースさんも森に?」

「かも知れませんわね。とりあえず、私たちも向かってみますわよ。……嫌な予感がしますわ。もしかしたら覗きを働いた不埒者に遭遇したのかも」

「いや、それなら別に危険は……」

 自分が覗きの犯人だから、犯人とばったりあってピンチという可能性はない。しかしツカツカと旅館の出口へと急ぐリオンの横顔――その不安そうな顔を見て、それ以上の言葉は止める。

 代わりに、腰の剣を確認しつつジュンタは質問をぶつけた。

「俺はユースさんが戦ってるところ見たことないんだけど、ユースさんって強いのか?」

「強いですわよ。そうですわね、私と同等と言えばどれくらい強いか分かりますわよね?」

「少なくとも俺より強いってことだな」

「そうですわ。加えて、これは私の気のせいかも知れませんけど、ユースにはクーみたいな何か奥の手がある気がしてならないのですわ」

「奥の手?」

 ユースの身に何か危険が迫っているとしても、リオンと同レベルの力を持つなら大抵のピンチは大丈夫だろう。だが、リオンですら知らない奥の手とは一体何なのか? 

 興味深く耳を澄ませるジュンタに、玄関先で靴を履き替えつつリオンは語る。

「ユースとは度々訓練として戦いますけど、大抵は私の勝利で終わりますわ。つまり、相性はともかくとして、ユースは私に遠慮してますの」

「リオンはユースさんの本気を見たことがないってことか?」

「そうですわね。ユースの本気がどれほどのものか、確かに知りませんわ。どちらにしろ、ユースの実力なら大抵のことなら大丈夫のはずですけど……」

 靴を履いて立ち上がったリオンは、右手中指の指輪に触れつつ、

「それとこれとは話が別。心配ですもの」

「……お前って何気に面倒見いいよな」

「ふ、ふんっ、当たり前ですわ! ユースは私の大事な従者ですもの。さぁ、馬鹿なことを言っていないで、ユースたちを探しに行きますわよ!」

 ユースをかなり心配していることを見透かされ、照れて足早に旅館を出て行くリオンを見て、ジュンタは苦笑混じりに追いかける。

 近くの森で今何が起きているのか、未だ知らずに……

 


 

 グリアーの目から見て、ユースとヤシューの実力は互角だった。

 近距離戦ではヤシューに分があり、遠距離戦ではユースに分がある。
 体力馬鹿のヤシューとかなり魔力の多いユースの持久力も、戦闘能力面から考えれば同等といえたし、互いが負った傷の数も同程度。
 
 ただ、優劣をいうのなら、グリアーの目にはヤシューが優勢のように見えた。正確には自分たちが。

(だいぶ回復してきたね。まったく、『封印』の魔力性質ってのは、回復力まで弱めているんじゃないわよね)

 回復魔法でユースの攻撃によるダメージを回復していたグリアーは、何とか動ける程度には回復していた。この状態で戦いの場に混ざったら瞬殺されるが、それでも遠距離から隙を見て一撃くらいなら入れられるかも知れない。

 拮抗した戦いにおいて、小さな隙は致命的だろう。ヤシューの一撃は重い。今は風の魔法使い特有の素早い身のこなしで避けることに成功しているが、一撃でも直撃をもらったら相当動きは鈍ることだろう。

(さて、後はヤシューがこっちの考えを察してくれるかどうかだけど……無理に決まってるわよね)

 風の矢や刃、魔法攻撃に混じるナイフや蹴りでの攻撃。戦闘に拳二つで応戦しているヤシューの顔は、興奮した獣のソレだ。ただでさえ自分勝手なヤシューの、全力で楽しんでいる状態。こちらの思惑に気付けというのが無理な話。

(こっちが一方的に合わせるしかないか。ああ、なんで私はあんな奴と組んでるんだか)

 激しく動き回りながら、一進一退の攻防を繰り広げられている二人を見て、グリアーは溜息をつく。

 あるいはその溜息は、早々に楽しい戦いを脱落してしまった自分に対してのものだったのかも知れない。

(あのアニエースの女の『封印』の魔力性質は、ヤシューのあの特性を貫く可能性があるけど、今のところ貫かれていない。もう少し時間を稼いで欲しいわね。そうすれば私も……)

 空へと飛んだユースが放つ、特大の風の散弾が、森の木々をへし折る。
 激しい敵意が込められた風を肌に感じ、ゾクリとした快感をグリアーは感じた。

「これは完全に、ウェイトン・アリゲイとの集合時間には間に合いそうにないわね」

 まだもう少し、熱い戦いの風は止みそうにない。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 ヤシューという男の特異性は、その異常なまでの防御力にあった。

 多くの強者にあるような洗練された戦い方とはほど遠い、本能に任せた彼の攻撃には、反撃のチャンスというものが多くあった。ユースはその隙を見逃すことなく攻撃を与えたが、そのことごとくがヤシューにはほとんどダメージを与えることなく終わった。

 防御を半ば無視したような苛烈な攻撃は、つまりその特性を理解しているからか。
 間違いない。ヤシューという男、とんでもないレベルでの肉体強化の魔法を会得している。

 自身の魔力性質如何では、[魔力付加エンチャント]を初めとする肉体強化の恩恵は大きい。そのため、肉体強化魔法を得意とするのは、主に魔法騎士などの近接戦闘を得意とする人間に多い。

 彼らは身体能力の向上などをもって、普通の人間とは違うレベルでの戦いを可能としている。
 ヤシューのそれは身体能力の増加とは少し違うようで、恐らくは身体の硬質化と言ったところ。
 
 魔力性質は不明だが、魔法属性は恐らく地――なぜそう思うかといえば、魔法教導を頼まれて教えている子猫が、自分の身の貧弱さを嘆いて開発に力を入れている魔法の効力と、彼の使っている肉体強化の魔法の効力が似ているからである。

「お? なんだ、仕切り直しか?」

 長かった絶え間ない攻防を区切って、ユースはスカートの裾をつまんで後方に大きく距離を離す。

 ヤシューも戦略とは別の観点から距離を詰めることはせずにいてくれた。

「そうですね。いったん仕切り直しです。あなたのその特異性の前では、下手な攻撃は消耗するだけですから」

「へぇ? どうやら俺の激しい手ほどきで気付けたようだなァ」

「あなたに魔法を含めた攻撃が通らないのは、身体の硬質化が理由でしょう。私の『封印』ですら完全に貫けないほどの密度での硬質化。さすがはエルフと言ったところでしょうか」

「はぁ、エルフ?」
 
 ニヤニヤと笑ってこちらの話を聞いていたヤシューは、そこで眉を顰めた。

「さすがはエルフって……ちげぇよ。俺はなぁ、エルフとしては落ち零れもいいところなんだぜ?」

「……どういうことです? これほどの魔力の制御があって」

 落ちこぼれとは、俄には信じがたい言葉だった。

 エルフは豊富な魔力量と、高い魔力制御を生まれつき可能とする一族だ。戦いの最中永続的に発現していたヤシューの肉体強化の効果は、豊富な魔力量と高い制御があって初めて可能となるもの。まさにエルフの強者、という感じであるのだが。

「おいおい、疑ってくれるなよ。嘘は言ってねぇぜ。俺は落ち零れも落ち零れ。なんせ、魔法なんて一つも使えなぇんだからよ」

「魔法が使えない?」

 向けた視線に含まれた疑いの感情に気付いたのか、うっとうしいとでも言いたいようにヤシューは口をへの字にする。

「そうなんだよな。実はよ、可哀想に俺様はさ、生まれつき魔力を身体の外に放出できない体質でよ。エルフなのに魔法が全然使えねぇわけだ。いやァ、ドンパチには憧れるぜ」

「遺伝子疾患の類ですか? ですが、あなたのその硬質化は、魔法以外では説明がつきません」

「ああ、これか。これはあれだ。昔ちょっと下手踏んでよ、以来[魔力付加エンチャント]が止まらねぇ肉体になっちまったんだよ。本当は[魔力付加エンチャント]ともいえねぇ代物で、身体の中で魔力が絶えず暴れ回ってるだけなんだが。まぁ、お陰で俺はこんなに硬い身体を誇ってるってわけだ」

 ヤシューの説明を聞いて、素直にユースは驚いた。

 自慢するように、こうもはっきりと述べたのならば裏はあるまい。間違いなくヤシューの言葉は本当。彼は生まれつき魔力を身体の外には出せない体質なのだ。

 ただ、エルフとしての豊富な魔力自体はあるのだろう。それが延々と[魔力付加エンチャント]のために使われているのなら、なるほど、いつしかそれほどの密度を持った硬質能力と化していても不思議ではない。

 だからこそ驚かずにはいられなかった。止まらぬ[魔力付加エンチャント]など、つまりは休む暇もなく魔法を使い続けていると同じ意味だ。

 それならばすごい[魔力付加エンチャント]になりもするだろうが、同時に負担も大きいはず。
 いつ彼がそのような特異な体質になってしまったのかは知らないが、それは……

「永続的な[魔力付加エンチャント]……その体質は、あなたに遠くない死をもたらすことを承知しているのですか?」

「それがどうした? 勘違いするなよテメェ、俺はむしろ俺をこうしてくれやがった阿呆に感謝してるんだからよ」

 いくらエルフの寿命が長いとはいえ、生命力である魔力を消費し続ければ命に関わる。

 どんな理由でそうなったかは知らないが、それは確約された死を与える呪いの身体だ。だが、こともあろうにヤシューはそれを『是』と言った。たとえ死んでも、今そうして強い肉体を得られていることに感謝している、と。

「長い時間生きるつもりなんて毛頭ねぇ。元々、死ぬときが来るんだとしたら、俺は最高の戦いの中で最高の最強に殺されるんだろうからなァ。この身体はそれを可能にしてくれたんだ。ほらよ、感謝しねぇと罰が当たるってもんだろ?」

「永遠より一瞬の愉悦に、というわけですか。……理解できません。戦うほどに死んでいくのに、戦い続けるなんて」

「理解できるわけないだろうが。こればっかりは同じ男じゃねェとな」

「そう、理解できない。私には理解できないはず……」

 ……かつてユースもまた、あのヤシューと同じように免れない死を抱えた身体で生きていた。

 死ぬのは恐かった。少しでも長く生きたかった。こうしてまだ生きていられるに感謝しているし、こんな幸せな日々を永遠に続けたいと思っている。

 その願いと相反する、死んでもいいから欲望を重視するという願いを吐いた相手が、よりにもよって大切な人を奪った人間の仲間だというのだから笑えない。
 もっと笑えないのは、かつて死にたくないと思いつつ死ぬ未来を受け入れていた頃、死んでもいいから外へと出たいと思っていた自分がいたことだった。

(同族嫌悪ですか。今の日常を愛するユース・アニエースとして、そんな願いのためにお母さんを殺そうとしたこの男は許してはいけない)

 思い出すのはトリシャの笑顔――ずっと見守っていてくれた、優しい笑顔。

 その笑顔がもう見られないのだとわかったとき、ユースは仮面でも隠しきれない憎悪の炎を瞳に秘める。

「死ぬのは苦しい。とても、とても、ですから」

 ユースは全てのナイフをしまって、代わりにスカートを大きくまくり上げた。
 露わになった太股に触れる。そこにはナイフが内蔵されたベルトが幾重にも巻かれていた。ユースはその中から、特別な一振りを手に取る。

 それは柄の部分に長い飾り紐がつけられた、紅の刀身を持つナイフ。ユース・アニエースがリオン・シストラバスより従者の証として受け取った、紅きドラゴンスレイヤー。

「お母さん。私はあなたに学んだ。アニエースの風は、竜滅の炎を燃え上がらせる風だと」

 詠唱なくユースの身体の周りに激しい突風が舞い起こる。
 吹き荒ぶ風はユースが握るドラゴンスレイヤーの飾り紐を揺らす。

 怒りによって研ぎ澄まされた集中が生んだ、それは『封印』の風。
 その『封印』の魔力性質の別の呼び名こそ、かのシストラバス家が誇る『竜滅』の名に他ならない。

「『封印』は『竜滅』。竜滅の炎とは封印の炎のこと。
 あなたの身体が風では貫けないというのなら、私はこのアニエースの風によって、あなたを貫く炎を招きましょう」

 緑に輝くユースの風――その緑に、赤い色が混ざっていく。

 赤い色は炎の色。火の魔法属性が放つ輝きの色。

 それを見て、ヤシューは驚いたように目を開く。
 驚きのあまり叫び声を上げたのは、戦闘を見ていたグリアーだった。

「まさか、あり得ない! 風の魔法使いが炎を招く……?」

 驚くのも無理はないのか。ユースも、自分がグリアーの立場にいたらさぞや驚いたことだろう。
 今まさに緑の風を赤き風に変貌させていく魔力は、魔法は、まさしく火の魔法属性によるものだったのだから。

 人が個別に持つ魔力性質は、基本的に一つだけと言われている。

 魔力性質は魂が映す性質であり、人は魂を一つしか持って生まれないために、二つ以上の魔力性質は発現しないと言われているからだ。だが、この世界の中には、二つの魔力性質を有する『二重性質』持ちが実在する。

 二重性質は使徒を筆頭にした、生まれながらの性質に加え、後天的な要因により二つ目の性質を発現した者を指す。この二重性質持ちが使う魔法は、二つの魔力性質の両方を有しているために、あり得ないはずの現象すら稀に引き起こすという。

 もちろん、そんな特異なる二重性質持ちは限りなく少ない。ユースは『封印』の魔力性質のみを持つ魔法使いでしかない。

 そう、ユースは二重性質ではない――それよりも稀少な『二重属性』だった。

「馬鹿な。風と火の二重属性だって? ホワイトグレイルの魔法使いでもないのに、あり得ないわ……!」

「あり得ないわけがないんですよ。現に、今あなたの目の前に実在するのですから」

 魔力性質が魂の形なら、魔法属性は個人が持つ世界へと影響を与える形と言われている。

 もちろん、これもまた普通は一人一つだ。二重性質と違って、二重属性を持つ人間などいないと長年言われ続けていた。それは先代ホワイトグレイル家当主――『魔女』ミリティエ・ホワイトグレイルによって覆されたが、それでも今までに発見されているのは、今は亡き彼女とその娘だけ。

 研究グループの仮説によれば、二重属性が現れるのは『始祖姫』メロディア・ホワイトグレイルに理由があるといわれている。

 メロディアは虹色の魔力光を持ち、あらゆる属性の魔法を操ったといわれている。それと似た力が二重属性だと囁かれていた。エチルア王国のホワイトグレイル家は、メロディアの血こそ引いていないが、同じ血を継いでいるために奇跡的に起こりえたのだと。

 ならば、ユース・アニエースが二重属性なのはどのような奇跡といえるのか?

 あるいはあの日の奇跡が何か関わっているのかも知れないが、こうして二重属性持ちに現実としてなっているユースには関係ない。

封印の風よ舞え 竜滅の炎よ滾れ 我が血と共に 我は不死鳥の従者なり

 この場において関係あるのは、ユースが風と火の両方の魔法属性を操れるということだけ――果たして、巻き起こる風は燃えさかる炎と化す。炎はユースの前後左右四カ所から舞い上がった。

 風を得て炎の竜巻となった巨大な力を操りながら、ユースはヤシューを視線で貫く。

「喜んでください。私が二重属性持ちであることを知ったのは、あなた方で四人目と五人目。これはリオン様も知らないことです」

「これがテメェの切り札ってわけか。なるほどなァ、さっきまでの風とは桁が違うぜ」

「当然です。これこそドラゴンを滅する竜滅の炎。規模こそ劣りますが、正しくこれは『竜滅』の力を宿す不死鳥の業火なのですから」

 風と火の魔法属性。『封印』の魔力性質。それがユース・アニエースの魔法特性。

 炎の勢いを増すことができるアニエースの風にて、竜滅の名を持つ『封印』の炎を激しく燃え上がらせたそれは、儀式魔法すら超える特殊な魔法――この世に使い手は片手の指もいない、まさにあり得ざる切り札だった。

「さぁ、これで終わりにしましょう。アニエースの風を、シストラバスの炎を、耐えられるものなら耐えてみなさい!」

「ハッ! 耐えてやろうじゃねぇかッ!」

 四つの炎の竜巻が、ユースが高く掲げたドラゴンスレイヤーによって統制され、上空で一つの炎と化す。炎の魔法の中にも竜巻状の炎を形作るものがあるが、それとは何かが違う。あり得ない二つの魔法属性が混在するソレは、並の魔法では測れない何かがあった。

 ヤシューはずっしりと腰を落とし、口端を吊り上げて迎撃の体勢を取る。が、それを蛮行と断じたのはグリアーだった。

「馬鹿! 逃げるのよ、ヤシュー! 二重属性の魔法が引き起こす『矛盾』の力は、アンタでも危ないわ!」

「馬鹿言うなよ、グリアー。俺は絶対に逃げねぇって知ってるだろ? そうさ。こんな強くて楽しいもんを前にして、逃げるなんてありえねェ」

「このっ、馬鹿が!」

 深い繋がりを感じさせる二人の会話に一瞬の迷いが生まれるも、この隠している力を知る一人がいなくなってしまった事実を前に、激情は躊躇ない焼却の行為を取らせる。

「報いを受け、地獄ドラゴニヘルに堕ちなさい――ッ!」

「そいつは楽しい旅行になりそうだなァ――ッ!」

 巨大な気圧の塊のような炎は、そのまま傲慢な叫びをあげるヤシューへと放たれる。

 夜の森を赤く染めあげる不死鳥の炎は、どのような守りすらも貫いて、敵対する相手のみを焼き尽くす。

 アニエースの森に最後に吹いたのは、熱い熱い、竜滅の風。

 燃え上がる炎が火の粉となって散ったあとには、何一つのものも残っていなかった。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 仇の仲間であるヤシューを殺しても、ユースの心の中を通り抜ける風は悲しいほどに空虚だった。

 激情に突き動かされるままに敵を倒したが、今更何をしてもトリシャは甦らない。
 手からこぼれ落ちた大事な日常は欠け、仇であるグリアーを残しつつも激情を冷ましていくユースは、どうしていいかわからなかった。

「……お母さん……」

 涙すらもう出ない。さっきは恥ずかしいほどに出たというのに、なぜか今は泣き方がわからなかった。

 違う属性を同時に行使し、『矛盾』を引き起こして莫大なエネルギーを生む二重属性による魔法は、また負担も大きい。激減した魔力による虚脱感を感じながらも、ユースはトリシャの教えに従って弱い部分は見せなかった。

 このままトリシャの亡骸に抱きつきたい気持ちを抑えつつ、残す仕事を終えるためにグリアーを醒めた目つきで見る。この時ばかりは、仮面の下に感情をいつも隠しているユースも、本当の本当に無表情で無感動だった。

「……グリアーと言いましたね。一つ尋ねます。あなたはどうして、私のお母さんの命を奪ったのですか? いえ、一体誰に頼まれて奪ったのですか?」

「それを聞いてどうするの? 探し出してそいつも殺すつもり? ヤシューを殺したように私も殺して、次はそいつってこと?」

 嘲りを含んだ憎悪の視線に、ユースは自分がグリアーの大事な人を殺したことを自覚する。けれど凍えた表情はピクリともしなかった。

「……教えないよ。何をされてもね。知りたければ、ヤシューの方を生かしておくべきだったね」

「あなたよりも彼の方が危険だった。ただ、それだけの理由です」

「そう。……これでも結構追いつこうとがんばってたんだけどね、結局追いつけなかった私は、一緒に死ぬこともできなかったってわけか」

 背中を木に預けて、グリアーは目を瞑る。そこには一切反撃する意欲などないよう。
 彼女は暗殺者に間違いない。これまで人を殺してきたように、また自分もいつか殺される運命にあることを受け入れていたのだろう。

 どちらにしろ、ユースにグリアーを殺すつもりはなかった。

 殺したいほどの激情も今は風にさらわれてなくなった。今更無意味な死を与えるよりは、生かしておいて情報を得る努力をした方がいい。とにかく、もうユースはグリアーに関わっている時間が惜しかった。ただ、今はトリシャの亡骸を手厚く葬って上げたかった。

(お母さんが死んでしまったことを、リオン様にどうお伝えすればいいのでしょうか? 悲しまないようにするのは無理な話。リオン様もお母さんのことが大好きだったから)

 手のひらに魔力を集め、グリアーの意識を刈り取ろうとしながらも、頭に過ぎるのはそんなこと。

 トリシャが死んでしまったことを、未だ残っている日常を傷つけないようにリオンに伝える方法。そんなことを考えてしまっている自分を、ユースは心中で失笑する。

(私はお母さんのことが大好きだった。けど、自分が想像していたよりもその想いは強かったのですね。失って初めて本当の価値に気付く。どうしようもない。私は、私が守りたかったものの価値に気付けていなかった)

 つまり、がんばりが足りなかった。本当の価値が分からずに過小評価していたなら、それと同程度のがんばりしかしていなかったということ。

(……守りたかったのに。この日常が大事だったのに……私は守れなかった)

 手のひらに緑の輝きを放つ魔法陣を構築しながら、ユースは目の前の女ではなく、いなくなってしまった大事な女性に手向けの言葉を向ける。


――ごめんなさい、お母さん。でも、これからはがんばりますから」


 放たれた相手を昏睡させる眠りの風。
 
 なくしたもののためにも、未だ残るものを守ると決める。
 トリシャを失った傷は癒えなくても、それでも残った日常のためにがんばろう。

 リオンがいる。ゴッゾがいる。ジュンタやサネアツ、クーヴェルシェンやエリカ、たくさんたくさん守りたい人はいる。そしてトリシャが教えてくれたことは、今もまだこの胸に確かに輝いている。

 彼女への手向けとするのなら、その輝きを貶めないように生きていくことが重要だと信じよう――ユースは空虚な胸の奥に大切な母親との思い出を詰めて、一粒零れた涙を拭う。

「……泣いてはいません。嘘泣きです。これはただのメイドの嗜みですから、お母さん」


――そうですか。では、これから本当に泣き叫びなさい」


 声が聞こえたと思ったら、ユースの身体は勢いよく蹴飛ばされた小石のように、地面の上を何度もバウンドしていた。

 一体何に殴られたのか、ユースは止まったあとも分からなかった。ただ分かっているのは、先程まで感じていた自分の魔力の、その一欠片までもがなくなっているということだった。

「なに、が……?」

 痛みも痣もなく全身から力が抜けていた。力が入らなかった。
 ただただ、得体の知れない恐怖に身体を強ばらせて、ユースは先程まで自分がいた場所を、起きあがることもできずに見るしかなかった。

 ――そこにいたのは、得体の知れない恐いモノ。

 見た瞬間に思い知る。気配なく、何の前触れもなく、眠るグリアーの横に現れた女は、人の姿をしているが人の範疇を超えているものだと。

 それはドラゴンを見たときの感じに似ていた。あの、理解できないものを見たときの畏怖の感覚。理解ができない。だから恐い。ユースは自分の魔力がどうやって奪われたのかを知ることを半ば諦めつつ、その女の姿だけを確認する。

 夜になるとふと訪れる冷たさを感じさせる、長い水色の髪。
 それが開かれたとき世界が終わってしまうのではないかと思わせるぐらい、この状況においては不気味な開かれることのない瞳。

 美しいが故にその冷たさに震えずにはいられない、それは在ってはならない賢者の姿だった。

「こんばんは」

「っ!」

 ユースが女の姿を確かめたその次の瞬間。数十メートルあった距離を空間移動したかのように彼女は詰めていた。

 目の前に立ち、開かれていない瞳で見下ろされる恐怖に、ユースの口から小さく悲鳴がもれる。

「自己紹介は必要ありませんね。では、あたくしからあなたに伝えることは一つだけ。
 あなたのお陰で計画に著しい遅れが生じていますの。何の価値もない虫ケラの分際で、それは犯してはならない蛮行。許してはおけない悪行です」

 悪魔の女が怒りを露わにする。それだけで、自分はこれから彼女に殺されるものだと理解できてしまった。

 だから、感謝を思わずしてしまった。この女と二人だけという時間に、横入りするように死んだはずの彼の声が響いたとき、思わず心の中でしてはいけない感謝をしてしまった。

「おい、テメェ。そいつは俺の獲物だぞ!」

 視界の外から荒い足取りでやってきたのは、両手の溶けかけたガントレットを外そうとしているヤシューその人だった。

 不死鳥の火に焼かれて死んだはずの彼は生きていて、恐ろしい女に愚かとしかいえない怒りの視線を向ける。

「しかもなんだテメェ。よくもさっきは勝手に俺を動かしやがったな」

「酷い言い草ですね。あたくしが避難させてあげなければ、あなたは今頃焼却されていましたよ」

「そんなものは実際やってみねぇとわからねェだろうが。分かってんのか? テメェは結果を証明するチャンスを潰しやがったんだ。この俺を無視して、自分勝手になァ!」

「お待ちなさい、ヤシュー君」

 ズンズンと女に詰め寄っていくヤシューの肩を掴んで、その時制止させたのはユースも顔を知る人間だった。

 金髪の髪の中性的な男。悪名高きベアル教の異端導師――ウェイトン・アリゲイ。

「元はと言えば、約束の時間までに依頼を果たせなかったあなた方の所為でしょう? あなたはディスバリエ様に救われた。感謝こそすれ、恨むことはないはずです」

「そんなものはしらねぇな。俺の邪魔をした。俺の邪魔をしそう。潰す理由はこれだけで十分なんだよ」

(一体、何なのです……?)

 言い争うヤシューとウェイトンの様子に、加速度的に最悪な方向に転がっていく状況に、ユースは頭を悩ます。そして傍らで言い争いがあっても、変わらず見下ろしてくるディスバリエと呼ばれた女の視線に、身体の震えは止まらなかった。

 知っている。ユースは知っている。目の前の女が放つ気配こそ、全ての日常を一瞬で破壊してしまう力の気配だと。

 彼女が少し本気を出せば、自分の愛する日常は完全に瓦解する。
 自分の命だけではなく、リオンやジュンタなどの命までもが消え去ることだろう。

 ダメだ。それだけはダメ。絶対に許してはおけない…………だけど耳は、ニタァと嗤ってディスバリエが言った言葉を絶対の命令として捉えてしまう。

――罪人には死を。薄汚れた泥人形は、自らの風で切り刻まれて死ね」

 直後の自分の行動を、ユースはどう捉えていいか分からなかった。

 震えが止まったかと思うと、力が湧かなかった身体が動き出す。
 その手になけなしの魔力を集わせると、鋭い風の刃を生む魔法陣が生まれた。

 その魔法を敵であることは疑いようもないディスバリエ、ウェイトン、ヤシューのいずれかに向けるならいざ知らず、向けたのは自分自身の首。このまま放てば自殺しかあり得ないと知りつつも、身体は勝手にそれを行おうとし、精神はその行いを許容する。

 ……思えば、最初から全てがおかしかったのだ。

 何か意味があってトリシャが殺された。殺した相手は、いかにもおかしな二人組の暗殺者。暗殺者ということは彼らに依頼した黒幕がいるということであり、どう考えても怨恨などではないようだった。

 何か大きなことが起きている。トリシャの死は何かの始まりに過ぎなかったのだ。

 自分がするべきだったのは、そのことに一刻も早く気付き、戦うのではなくリオンやゴッゾに伝えることだった。けれど憎悪と憤怒で冷静さをなくして戦ってしまい、恐るべき黒幕を招いてしまったのが運の尽き。間違った選択の果ての、それは必然の敗北。

(ごめんなさい、リオン様……)

 トリシャを大事に思うのなら、その教えをよく思い出すべきだった――ユースが最後の最後で考えたのは、そんな後悔。
 
「さぁ、死ね。その後に、永遠の苦しみの中で泣き叫べ」

 恐ろしい女が悪魔の笑い声を響かせる。自分を殺す魔法は、もう、止まらない。

(おか、あ……さん……ごめ…………)

 ……ただ、視界の端でウェイトンが回収しているトリシャの亡骸を葬ってあげられなかったことだけが、絶対の命令に汚染されたユース・アニエースに最後の最後まで、残念だという気持ちを抱かせ続けた。






 風の刃が通り過ぎたあと、立ち上がった少女は首から血を流して倒れた。

 全てを見届けたヤシューは、ちっと舌打ちして、横目でディスバリエ・クインシュを睨む。

「結局やっちまったのか。なんだ、その妙な力はよ? 魔力を吸収するなんて、尋常じゃねぇな」

「そんなことはありませんわ。これは魔法というものを理解すれば、辿り着ける技の一つでしかありませんよ。そう、これはただの魔法。あたくしの真の力は、この誰にも逆らえないはずの『詩』だったのですけど……」

 ディスバリエはどこか驚いた様子で倒れたユース・アニエースを見下ろしていた。

 首から血を流す少女――首の肉が少し削られているが、それでも繋がっている彼女の首を見て、ディスバリエは首を傾げる。

「おかしい。使徒と関係しない人間が、狂的なまでの強さを持たぬ者が、あたくしの力に抗った? ……いえ、そう。ユース・アニエース。『封印』の風と炎を操る女――そういうことですか」

「ア? なんだよいきなり? 人の獲物を勝手に負かせて、俺に謝罪する覚悟がついたのかァ?」

「いえ、違いますよ。ですが……そうですね、気が変わりました。ヤシュー。彼女のことはあなたに任せましょう。殺すなり犯すなり好きにしてください。あたくしは手はず通り、刻印を使って『封印の地』を開く準備に移ります」

「気絶した後で渡されても何の意味もねぇんだよ。くそっ」

 クスクスと気持ち悪い笑い声を響かせながら、ディスバリエは得心がいったように何度も頷いて去っていく。その後を、トリシャを背負ったウェイトンがいきり立った様に興奮してついていく。本当についていけない。

 結局、ユースとの決着は、ディスバリエの余計な横やりによって不本意な形で終わってしまった。折角楽しめそうな感じになっていたのに、本当にむかつく。

 だけど一つだけ得たものがある。それはあの『狂賢者』ディスバリエ・クインシュが、その狂いっぷりにふさわしい実力者だと分かったことことだ。

「いいなぁ。この世界には、まだ俺の知らねぇ強い奴がたくさんいる。カカッ、興奮するねぇ。いつか全員ぶっ潰して、俺が最強になってやる。そう考えればこの展開も悪くねぇ。前菜相手に全力出してメインディッシュ前に満腹ってのは、あまりに相手に悪いからなァ」

 ディスバリエに負けず劣らずの笑い声を響かせて、ヤシューは間一髪のところで、自分に放とうとした魔法を自分で逸らしたユースの傍らにしゃがみこみ、その顔をマジマジと見た。

「餓えてる獣の前で寝てるのが悪いんだぜ、負け犬」

 ユースの長いスカートを徐に捲ると、戦闘中に気付いていた、スカートの内側に隠された鋭いナイフを引き抜く。

「やっぱりよ、恋する相手に本気になってもらうには、愛のこもったプレゼントが一番だよなァ。いきなりのベーゼだとよ、相手も本気になってくれねぇだろ?」

 白いガーターベルトで飾られた、美しく肉付きのいい白い太股や下着には見向きもせず、鼻息荒くヤシューはユースの上着をナイフを使って破り捨てる。そして彼女の髪を掴むとうつぶせに押し倒し、露わになった背中にナイフを浅く突き立てた。

「これは俺からの贈り物だ。愛のメッセージだ。さァ、そろそろ俺の愛に気付いて、本気になってくれよ!」

 果物の果肉をほじくるように、ヤシューはユースの真っ白な背中をキャンバスに見立て、血を絵の具にして、愛しき相手に向けるメッセージを描く。刻む度にビクビクと震える振動が心地良かった。

「ご招待だ、愛しのライバル。ジュンタ・サクラ。ついに戦う日がやってきたぜ。ハッハー!!」

 獣の愛は一途にただ一人に向けられる。その名を、ヤシューはナイフによって激しく刻みこむ。









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