第十四話 獣は獣に牙を剥く クーヴェルシェン・リアーシラミリィの魔法属性は氷。魔力性質は『結合』と『侵蝕』の二重性質である。 生まれ持った性質は『結合』――二つのものを結び合わせて一つにする性質であり、もう一つの本来ドラゴンしか持っていないはずの『侵蝕』の魔力性質は、多くの二重性質持ちがそうであるように、後天的に手に入れた。 手に入れた経緯について、本当のところはわかっていない。気付けば『侵蝕』を手に入れていた。だが予想はできる。手に入れた前後を鑑みれば、一体いつ手に入れたかは明白だ。 即ち、オルゾンノットの魔竜――かの殺戮の獣に『竜の花嫁』として同期・同調したときだろう。 「儀式場の準備は完了しました」 窓と戸を全て閉め、密室と化した薄暗い部屋の中、クーは細心の注意と最高の触媒で作り上げた儀式場を見る。 『不死鳥の湯』の一室である部屋には、ろうそくの灯り一本もない。代わりに、床一面に使徒フェリシィールより餞別として渡された最高の触媒である『使徒の血』によって作られた儀式場が、淡い白の光を発して光源となっていた。 一時間近くかけて作り上げた儀式場の微調整を行って、クーはいよいよだと気を引き締める。 儀式場の中央の床に寝かされたユースの顔色は、死人のソレに近付きつつある。 けれど時間が残り少ないからといって、焦ってはいけない。 ベアル教にいた『狂賢者』は、狂ってはいたが紛れもない天才だった。 [共有の全]――かつて一度だけ使った魔法の行使には、絶対条件として至高の制御が必要となる。使うのはかれこれ十年ぶりであり、さすがに緊張は隠しきれなかった。 ……だが、思えばこの魔法は二度と使われるものではなかったはずなのだ。 ([共有の全]――私の罪の証ともいえる魔法を、まさかまた使うことになるなんて思いませんでした。いえ、この後悔を思い出と変えるために。ご主人様の優しさに報いるためにも、失敗はできません) かつてのように、相手の深層など全てを知る必要はない。無垢な人形でない今、そんなことをすれば相手も自分も廃人にしてしまいかねない。今回すべきことは、ユースと意識を合わせることによってパスを繋げて魔力を譲ること。……失敗してしまえばユースは死に、その死に巻き込まれたら自分もまた死んでしまうことだろう。 「――始めましょう」 だけど、それがどうした。失敗すれば死んでしまうのなら、失敗しなければいいだけの話。 不安はなく、クーは儀式魔法の行使に入る。 纏っていた白い上着を脱ぎ捨て、何も纏っていない生まれたままの姿で、クーは同じように包帯のみを裸体に巻いたユースに近付いた。 行使者を迎え入れた魔法陣が輝きを強める。 初めに感じたものは混沌。ドラゴンの全てに触れた瞬間、耐え難い歪みが視界一杯に広がった。 それを見て知った。――この世界は、もうどうしようもなく■■■いるのだと。 「――ッ!」 しかし、意を決して手を伸ばす。あの日見た光景はまだ覚えている。一生消えることはないけれど、そのとき感じた気持ちの意味を今変えることはできるのだと、クーはジュンタに教えてもらった。 確かに自分は昔人形だった。無垢な肉体はドラゴンという汚れを見て、そのものになった。が、その全てを否定して恥じることだけはできない。 「この身は『竜の花嫁』。ドラゴンを受け入れた汚れた女。だけど、それでもこの血まみれの手でも人は救えよう」 掴んだ手、触れる肩、足、胸――眠る母親に抱き留められるようにユースの身体に自分の身体を預けたクーは、長い耳をユースの豊かな胸に当てた。 聞こえてくるのは、小さくも必死に生きようとする命の音。守りたいと思い、これから守る音。 「ああドラゴンよ あなたはなんて美しい ああドラゴンよ あなたはなんて神々しい」 詠唱の声。忌むべきドラゴンを讃えるそれは、だけどクーの一番大切な人を讃える祈り。 「あなたが神 我らが救いの主 私は知りたい あなたが世界に刻むかけがえのない詩を」 たとえ長い時間が通り過ぎても、元よりこの身が生まれた理由はそこにある。であるなら、心底から望む想いに、この身体が応えないはずがない。 輝きはユースの鼓動に合わせるように。 「ああご主人様 あなたに愛の花束を クーヴェルシェン・リアーシラミリィは あなたに永遠に捧げられた花嫁です」 瞬間――全てを重ね合わせる[共有の全]は、クーの求めに応え、誘う。 『騎士の祠』は、すでに分厚い闘志の檻に閉じこめられていた。 「約束の時間ジャスト、か。少しぐらい待ちきれなくて早く来てくれても良かったんじゃねぇか?」 「黙りなさい! この私が、あなたなどの招きに応じただけでも喜ばしいことでしょうに。それと今あなたが腰を下ろしている場所は騎士の祭壇。即刻その汚らしいものをどけなさい!!」 「あ?」 『騎士の祠』の最奥で約束通り待っていたヤシューが腰掛けている場所を見て、開閉一番に怒鳴ったのはリオンだった。 ヤシューはまっすぐジュンタを見ていたが、リオンの声を聞いたことで、この場に招かれざる客が二人来ていることに気付く。気付いて、気に入らないと言うように立ち上がり、座っていた台に向かって唾を吐き捨てた。 「なっ!? この下郎が!」 「うるせぇぞ、女。ンだよ、そもそもテメェなんて呼んでねぇだろうが。だってのに俺とジュンタと逢瀬を邪魔して、ピーチクパーチク囀るなんて礼儀がなってねぇぜ。 「嫌な喩えを使う奴だな……」 「そうですわ! 気持ち悪いことをこの神聖なる場所で抜かすのではありませんわよ!」 張りつめた空気に表情を強ばらせていたジュンタは、ヤシューの愛の囁きとも呼べる言葉に顔を顰めた。 リオンが何やら怒り心頭といった感じに――最初からそうだが――なって、そんな彼女をヤシューが鬱陶しげに睨む。端整ながらも鼻筋に傷のある容姿はどこか野性的で、威圧感漂う視線はかなり鋭いものだったが、リオンに通用するはずもない。 「最悪だな、おいっ。なんだ? そこまで騒ぐってことは、テメェはジュンタの恋人が何かか?」 ただ、その言葉だけはリオンに通用した。 「馬鹿なことをおっしゃらないでいただけます? まったく、最近はこの話題が多いですわね」 「違うんなら、愛する者同士の逢瀬を邪魔すんじゃねぇよ。これから俺たちは激しく愛をぶつけあうんだからよ」 「ふんっ、この私がそのような言葉で引き下がるとでも? 騎士の決闘ならともかく、あなたのようなケダモノの言葉に身を引く義務はありませんわ。私の従者に傷を負わせた報い、このリオン・シストラバスがその身に刻み込んで差し上げましてよ!」 ついにリオンは剣を握り、ヤシューに向かって突きつける。 紅い宝石のような世界と同じ、輝く紅の刃――ヤシューは『お?』という顔となり、そのとき初めてリオンを、リオンとして見た。 「紅い剣ってことは、テメェがリオン・シストラバスか?」 「……ヤシュー。今ようやく気付いたのかい?」 ヤシューの台詞に呆れた声色で、彼の隣に控えていた魔法使い――グリアーが言う。 この場にグリアーが同席していたことは、特段ジュンタにとって驚くことではなかった。彼女がヤシューと共にベアル教に手を貸していたのは知っていたし、一度は捕まえた彼女が脱獄したことは耳にしていた。 彼女はリオンと、そして黙ってこちらに任せてくれているトーユーズを見て、ヤシューとは違って酷く焦った表情を見せる。 「竜滅姫に『誉れ高き稲妻』か。最悪ね。一番来て欲しくない二人が一緒に来たわよ。ヤシュー。残念だけど、ジュンタ・サクラと二人っきりでの戦いはできそうにないわね」 「まぁ、待てよ。考えによっては最高のシチュエーションじゃねぇか。リオン・シストラバス、トーユーズ・ラバスの名前は俺だって知ってる。いつかやりたかった強者の名前だ」 ぎらつく視線で射抜かれた二人。リオンは気に入らないようにしかめっ面となり、トーユーズは、 「あら? あなた結構整った顔してるし、あたしでよければ相手してあげるわよ?」 そんなことを言って、組んでいた腕を解いて一歩前へと踏み出した。 瞬間――密室に敵三人を招いた事実を、その中に桁外れがいることをヤシューは自覚したのか、楽しそうに笑っていた彼の顔に初めて冷や汗が流れた。 「どう? 何なら今からお相手して差し上げましょうか? 優しくなんていわない。最高に激しいのでお相手してあげるわよ」 「そいつは光栄だが……残念でならねぇが、今の俺じゃあアンタの相手はつとまりそうにねぇ。いい女を前にこんなこと言うのは情けなくて涙が出るが――」 ヤシューは心底残念そうな顔で舌打ちし、 「今日は遠慮させてもらうぜ。あくまでも今日の俺のお相手はジュンタだけだ。悪いけどよ、今日のところは下がって欲しいんだが。どうだ?」 「ジュンタ君と一対一でやりたいってこと?」 「そうだ。グリアーにも手出しはさせねぇ」 その提案は馬鹿げていた。 ジュンタの方にはリオンとトーユーズという、単体でもヤシューと対等かそれ以上に相手できる騎士がいる。グリアーを含めても二人しかいない彼らとなら、数と質で圧倒できる形になっていた。騎士の決闘ならば一対一の誘いを受けるのもやぶさかではないが、ヤシューはユースを襲った敵だ。リオンも引き下がるはずがない。 どうする? という感じに視線を向けてきたトーユーズの顔を見てから、ジュンタはヤシューへと告げた。 「ヤシュー。それはできない相談だな。尋常な戦いを望むなら、お前は最初のやり方を間違えた」 ドラゴンスレイヤーの切っ先が、担い手の闘志に応えて輝きを強める。 「……ヤシュー。こうなったら仕方ないわ。どうにかして逃げるわよ」 自分たちの状況を把握したグリアーが、腰からナイフを引き抜く。 「待て待て。俺とジュンタが一対一でやるのを認めないっていうのは、俺のこの話を聞いてからでも遅くないぜ?」 「お前の話?」 グリアーに手のひらを向けてニヤリと笑ったヤシューは、この状況下でも戦闘の構えをとらない。元から空手のトーユーズでさえ、僅かながらに戦闘の構えを取っているというのにだ。 その理由が彼の話の中にあるのか――ジュンタは剣を握りしめたまま、リオンに視線を向けた。 「……よろしいでしょう。何か知りませんけど、さっさと話しなさい。くだらない話でしたら、すぐにでもその首を刎ねて差し上げますけど」 「一体話ってなんだ?」 「ああ。何てことはねぇ。俺たちがこのラバス村にいて、それでアニエースの人間を襲った理由だよ」 「ヤシュー! アンタまさかっ!?」 自分たちの目的を話すと言ったヤシューに、血相を変えて叫んだのはグリアー。 「話す気? 依頼のことを? 私たちは暗殺者よ。そんなことすれば……」 「いいだろ、別に。もう契約は終わったんだしよ。それに、俺にはあいつらのいう儀式が成功することよりも、ここでジュンタと二人で戦う方が大事だからな」 「だけど、ウェイトン・アリゲイの奴が言ってたでしょ? 邪魔をしたら――」 「グリアー」 なおも制止を呼びかけるグリアーの声を、ヤシューは静かな声で止める。 「わりぃ、面倒なことになるのはわかってるけどよ。これが俺だ」 その一言の謝罪だけで、グリアーは理解してしまった。 「……最低最悪な男。本当に、どうして私はアンタなんかとコンビを組んでるんだか」 肩を大きく落としてそう嘆いたグリアーだが、ヤシューと並ぶその姿は、何も知らないジュンタでも二人が強く結びついた相棒同士であることがわかる光景だった。 「でも、まぁ仕方ないわね。それでも私はアンタの相棒で、アンタは私の相棒なんだから。――アンタの好きにしなさい」 「恩にきるぜ。ああ、お前ほどの相棒はやっぱいねぇわ」 「馬鹿。だったら、迷惑をかけないで」 「そいつは無理だ。男の性分だからな。と、待たせてわりぃな。それじゃあ教えてやる。俺らと契約を交わしていたフェチ野郎ウェイトン・アリゲイが、このラバス村でやろうとしてることをな」 そうして、本当にただ戦いを愉しむためだけに生きている男は、何の躊躇もなく話し出した。 「アイツはな、開けるつもりだぜ。この地にある、『ナレイアラの封印の地』をよ」 ウェイトン・アリゲイ異端導師――ベアル教の、その恐るべき儀式の詳細を。 『封印の地』――それはかつて『始祖姫』たちが魔獣の大軍を封じ込めたとされる場所。 それぞれ『始祖姫』一柱に一つあるとされ、その詳細は分からぬとされた場所。だが、『アーファリムの封印の地』は聖地にあり、他の『封印の地』もそれぞれの『始祖姫』と縁深い場所にあると噂されていた。 十年前までは、『ナレイアラの封印の地』は現在ランカと名を変えたオルゾンノットの街にあるとされていたが、それは十年前に起きたベアル教の暗躍により間違いと判明している。 であるなら、『ナレイアラの封印の地』は一体どこにあるのか? 確証はない。が、縁の深い場所にあるというのなら、なるほど、ナレイアラの出生地であるラバス村にあるという話も頷けるというものだ。 「とまぁ、そういうわけだ。ウェイトンの野郎の目的はここの『封印の地』を解放することにある」 「このラバス村がナレイアラ様の『封印の地』……確かに、そう考えたことがないといえば嘘になりますけど、まさかベアル教が確証をもって動いているなんて」 ベアル教の目的は、このラバス村にある『封印の地』の開放――その話を聞いて、リオンは驚きと共に予想の斜め上を行く状況のまずさを理解した。 それはまたジュンタも同じ。それは『封印の地』へと行ったことのある二人の共通認識だった。いや、『封印の地』について知っている人間なら、少し考えればわかることである。 「十万近い魔獣が封じられた『封印の地』の開放。魔獣だけでも滅亡必死なのに、『封印の地』にはドラゴンすらいる。もしも解放されて一斉に村を襲いだしたら……」 「そんなことになったら、この村でも一巻の終わりね」 ジュンタの立てた予想の結果を、トーユーズは端的な言葉で示す。 滅亡だ。『封印の地』に封じられたドラゴンを王とした軍勢が解き放たれたら、このラバス村だけじゃない、ここ一帯が全て灰燼と化そう。古の時代がそうであったように、この世に地獄が再現する。それはいつか消え去る地獄だとしても、大勢死ぬことになるのは明白だった。 「そんなこと、絶対に我がシストラバス領で許してなどおけませんわ」 他でもないこのラバス村を含めた領地を預かるリオンの言葉を聞き、ジュンタは気付く。 (そうだ。もしもドラゴンが『封印の地』から解放されたら、リオンは死なないといけない) ドラゴンが現れた場合、それを滅するために身を捧げるのが竜滅姫――最悪だ。『封印の地』の開放は、全てを一瞬で瓦解させよう。 「答えなさい、ヤシュー! ウェイトン・アリゲイはどうやってこの地の『封印の地』を開放しようと企んでいますの?」 「ア〜? 何だったかな」 「とぼけるのでしたら、容赦しませんわよ」 首を捻るヤシューを見てリオンは視線を鋭くする。 しかし、別にヤシューはとぼけているわけではないだろう。彼はあくまでもベアル教に組していた暗殺者としてではなく、一人の戦士として戦うことのみを願っている。その戦う相手が自分であるのが何とも嫌だが、その純粋ともいえるもののために彼がとぼけるはずがない。 リオンもそのことを苦々しくも認めていたのか、その視線がヤシューからグリアーへと変わる。 「あなたが分からないのでしたら、そちらが私の質問に答えなさい」 「……仕方ないわね」 リオンどころかヤシューにまで見られて、溜息を一つ吐いてからグリアーは話し始めた。 「ウェイトン・アリゲイはとある協力者のアドバイスに従って、『ナレイアラの封印の地』を解放しようとしているわ。なんでも『封印の地』を開放するには、『封印の地』を支えている神殿の破壊か、その神殿と契約している人間の駆逐が必要らしくてね。詳しくは知らないけど、ウェイトン・アリゲイは後者を選んだようよ」 「神殿の契約者を殺そうとしてるってことか……いや、待て。そもそもその契約者って誰なんだ?」 「考え見ればすぐにわかることでしょ? なにせ『ナレイアラの封印の地』よ。このラバス村全てが関わりあるといえるけど、その中でも特に関わりの深い人間が誰か考えればいいだけの話」 グリアーの遠回しな言葉でも、ジュンタは、リオンは、トーユーズは気が付いた。 ナレイアラと最も縁が深いといえば、他でもないリオンだろう。しかし、リオンはこうして五体満足でこの場に立っている。まだ狙われていないと考えるには、ベアル教との契約を果たして終えたというヤシューらの言葉の前では難しい。 ならこのラバス村において、リオンに次いで『ナレイアラの封印の地』の神殿に関わりの深い人間は誰か? ジュンタたちの脳裏を過ぎったのは、倒れたユース――竜滅姫の従者の姿だった。 「まさか、神殿の契約者ってユースさんなのか?」 「お待ちなさい。私はユースからそのようなこと、一言も聞いた覚えはありませんわよ」 「それはそうでしょ。ユース・アニエースは、本当の意味での竜滅姫の従者であるアニエースじゃないんだから。彼女は不死鳥の刻印を受け継げなかった義理の娘でしかない。神殿の契約者――トリシャ・アニエースのね」 ユースという予想を否定して、グリアーが名前をあげた一人の女性に、ジュンタたちは揃って押し黙る。 ……誰も話題には上げなかったが、心の中では本当は誰もが認めていた。 ユースが酷い怪我を負って運ばれてきたとき、彼女が迎えにいっただろう女性の姿は近くになかった。そして見つかりもしなかった。そこから推測してみれば、ユースがどうして森に倒れていたか、彼女の義理の母親であるトリシャがどうなったかは想像に容易い。 「そう、ですの。トリシャ婆やはもう……」 リオンの悲しげな一言が全てを物語っていた。 「代々竜滅姫の従者を務めてきたアニエース家が神殿の契約者といわれれば、納得するしかないわね」 リオンに代わって、比較的冷静なトーユーズが話を先に続ける。 「ラバス村で誰が一番ナレイアラ様に縁が深いかと訊けば、誰もがアニエース家って答えるもの。でも、リオンちゃんはアニエース家がそうだとは知らなかったようだけど? そもそもこの地が『ナレイアラの封印の地』であることは、囁かれてはいたけど確証はなかったはずよ」 「それは私に聞かれても困るね。私たちは雇われ暗殺者。どうやってウェイトン・アリゲイが確証を得たとか、アニエース家がそうだと知ったのか、そんなのは聞かされていないわ。ただ、何でもアニエース家の人間も自分たちがそうであることは知らなかったらしいわね。 「そう、それなら次の質問だけど。あなたたちが契約を果たし終えたっていうことは、すでにトリシャ・アニエースの命はなく、『ナレイアラの封印の地』が開放される準備は整ってると受け取っていいのね?」 「ああ、その通りだ。ウェイトンの奴は準備を終えて、今すぐにでも『封印の地』を開こうとしてやがるぜ」 グリアーの代わりにトーユーズの質問に答えて、ヤシューが一人一人を見渡す。 「それがどういう意味か、わかるよな?」 その言葉はリオンに贈られ、 「どうしてここにウェイトンの奴が一緒にいないのか、わかるよな?」 「んで、俺がこの話をわざわざした理由も、わからねぇとは言わせないぜ?」 その言葉は戦意と共にジュンタに贈られた。 ヤシューが、それが裏切りであるのにここでその話をした理由は本当にわかりやすかった。 自分と一対一で戦いがため――ただそれだけのために、彼は口にしたのだ。 「ここにウェイトンがいないってことは、この『騎士の祠』が『封印の地』の解放に必要な神殿ってわけじゃないんだな?」 「そういうことだ」 神殿とは霊的な意味合いが強い、魔力をかき集めて溜められる何かのことを指す。 もしも本当にアニエース家が神殿の契約者なら、神殿もまたアニエース家に関わり合いのある場所になる。同時にナレイアラとも関係のある場所……論ずるまでもなかった。そんな場所、一つしかない。 「――『不死鳥の湯』、それがナレイアラによって施された封印の神殿ってことか」 ニヤリ、と自分の計画の成功を確信して、ヤシューは歯をむき出しにして笑った。 ◇◆◇ ユースの意識に同調したクーが見ているものは、彼女の意識の中に他ならなかった。 ユース・アニエースという女性が認識した全て。思っている全て。魂、精神、肉体の全てが目の前に広がっている。そこは広大なる一つの世界――ユース・アニエースの世界。 以前ドラゴンと意識を重ねたときと同じように、また今回もクーが見るものはそれだった。 意識は肉体より離れ、他者の有する世界に入り込む。 (ここが、ユースさんの世界) かつてドラゴンのときは、入った瞬間に混沌が、悪意が、歪みが全てを覆い尽くした。 だが今回は違う。ユースの心象の世界は、ドラゴンとは全く違うものであった。 意識を重ね合わせて初めに見る風景は、ユースの中でも一際強い思い出の風景。果たして、ユースが一番心に抱いた風景は、それだった。 (これは、窓の外……でしょうか?) ――四角い窓。 色褪せて見える部屋で唯一、光り輝く色鮮やかな世界を映す小さな窓――その小さな窓に輝く外の景色が、最もユースが心に描いたものであった。 あまりに寂しい部屋との相違がもたらすのか、窓の外は、こうして見つめるクーにもとても綺麗なものに見えた。蒼い空。眼下の緑。その合間に見える都の光景――それしかない風景が、何とも綺麗に、眩しく、魅力的に見えたのだ。 あの空の向こうには何があるのか? 誰もが興味を抱き、いつか外に出て忘れる外への憧れ。 いつしか窓辺へと視界は移動していた。 (届かない。ユースさんは、この風景に手が届かなかったんですね) クーはユースの過去を知らない。けれど、その思いを知ることによって分かることは多かった。 心に焼き付けてしまうほどに、ユースにとって窓の外とは見果てぬ場所だったのだ。子供ですら歩いて行けるそこが、手の届かぬ憧れだったのだ。 なぜそうなのかは分からなくとも、その恋い焦がれる気持ちはわかってしまった。 鳥かごはそこにはなく、一面に広がるのは緑と青。 胸には初めての冒険に出かけた子供の高鳴りが。蒼い空を見ては綺麗だと思い、緑の芝生を足に感じては楽しいと感じ、木々の匂いに触れては笑顔が零れる。どうやったら人はそれほどに何でもないことに幸せを感じられるのかと訊きたくなるぐらいに、それは純粋な世界との触れ合いだった。 (ユースさんは、初めてこの日外に飛び出した) 視界を重ならせるように草原を歩き、澄んだ空気をお腹一杯に吸い、はしゃぐユースの風景はキラキラと輝いていた。 彼女にとっての初めての外は、世界にとってなんでもないありきたりでしかなかったけれど、それでも初めてそれを目にする彼女には、どんな宝石よりも輝いていたのだ。 だけど、何でもない幸せを感じていられたのはほんの僅か。 この緑の草原まで来るのに時間をかけ、僅かでも走り回ってしまったユースの身体は、何の前触れもなく地面に転がった。それは僅かな距離を残してのこと――その向こうに何があるのか、窓の外を見ては幾度となく想像していた、都を目の前にした生け垣の直前のことだった。 (そんなっ、もう少しでしたのに……!) あれほどに楽しんでいた心が、一瞬で後悔に切れ替わる。 ユースは知っていた。これが自分にとっての、最初で最後の外の風景になることを。だから心残りなく、人の営みを心に刻みつけておきたかったのだ。それができず目の前にして倒れたその後悔は、想像を絶していた。 死にものぐるいで、いっそここで死んでもいいからと生け垣の向こうに手を伸ばす。 だからなのだろう。きっと、そのとき偶然にも通りかかった人に目を奪われてしまったのは。 『――誰かそこにいるのか?』 声がした。生け垣をかき分ける音と共に、届かなかった向こうから声がした。 荒い息を耳にしたのか、目の前の生け垣を割いて現れた男性により、向こう側から街はユースの前にさらけ出された。まるでユースを迎え入れるように。歓迎するように。霞む視界の中でも強く心に刻まれた、人の営みの風景―― ユース・アニエースはそのとき見た光景を忘れることがないだろう。 (ゴッゾ、様?) いきなり耳に飛び込んでくる人の営みの音。 そして驚いたように、慌てたように、そっと自分に向かって手を差し出してくれた金髪碧眼の男性の姿とその手の力強さも、いいな。と、そう思ったのだ。 ユースの心に焼き付いた風景を見たクーは、盗み見てしまったような申し訳なさと共に、その始まりの風景から抜け出した。 まだまだユースにとって、強い思いを描いた風景は広がっている。彼女の心象を作り出すピースはいくつもあった。 思わず誘われてしまって入り込んでしまったが、全てを順々に見ていくことはできない。 (広がれ、私の意志。誘え、世界の意志よ) 意識を重ね合わせている今、ここはユースの世界であると同時にクーがいる世界でもある。 強く願えば、求め欲する光景は見えてくるはず。目を閉じて、漂うようにして強く強く思うクーの目の前に、やがて共感できる風景が近付いてきた。 (紅い背中) それはまだ遠くにあろうとも、分かってしまう真紅の輝き。 長い長い真紅の髪をなびかせて、その背で高貴を物語る騎士の姫。 (リオンさん……!) 考えてみれば当たり前の帰結か。ユースの心象の中に強く輝くものは、彼女と深く縁が繋がっているのは、竜滅姫であるリオンに他ならない。 (リオンさんに対する憧れ。これなら、きっと――!) 自分も共感でき、ユースを助けることができるだろう――そう思ったクーは笑顔を浮かべ、近付き、振り返ろうとした貴い姿に手を伸ばして、 リオンがいた風景へと入り込む前に、まるでユースの中でも整理ができていないかのように漂っていた風景に遭遇してしまった。それは忘れることができない、ユースにとって一番新しい心象の風景に他ならなかった。 初めは悲しみが心に満ちた――大好きな母親を失ったことに対して。 ユースをこんな危険な状態に追いやった、他でもない元凶のことを――水色の髪に閉じた瞳の女のことを、クーは知っていた。忘れるはずがない。こうやって他者と同調できる魔法を生み出したのも彼女だ。 (そんな、ユースさんを傷つけて、今なおこの村に不埒な手を伸ばしているのは……) ユースと同調したクーは、彼女に視線を向けられただけで、総身が震えて止まらなかった。 だって、目の前の女は自分の全てを決めた女。 (『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ――ッ!!) 原初の恐怖によってクーはユースに共感し、奇しくも二人の間にパスは繋がる。 それは歓迎すべきユースの救済が、歓迎すべきではない敵の到来を知らしめると共に果たされた瞬間だった。 ◇◆◇ 『騎士の祠』ではヤシューの話が終わって一触即発の空気が戻り、だけど戦いは始まっていなかった。 睨み合う両陣営。その中心にあって闘志をぶつけあうジュンタとヤシューの二人。 「リオン。先生」 ジュンタは振り向くことなく、リオンとトーユーズを呼んだ。 「ヤシューの話は嘘かも知れない。本当はここに『ナレイアラの封印の地』はないのかも知れない。だけど、もしも本当だったなら、その可能性が少しでもあるのなら、絶対に野放しにしちゃいけない。止めないといけない。ウェイトンの奴を」 「皆まで言われずとも分かっていますわ。私たちの誰かが、この事実を儀式の場所に――『不死鳥の湯』へと赴き、お父様たちに伝えなければいけないのでしょう。……最悪ですわ。これではあの男の思惑通りではありませんの」 リオンは自分を見ないヤシューを苦々しい声で、鋭い視線で射抜く。 ヤシューがウェイトンの企みを暴露した理由は、そこにあった。 ここで聞いた事実。ウェイトンが『ナレイアラの封印の地』である、ここラバス村の神殿に干渉し、封印を解こうとしているという恐るべき企み――それは許してなどおけないこと。そして一刻も早く、何も知らないゴッゾらに伝えねばいけないことだった。 ヤシューがこの『騎士の祠』で待っていたのも、恐らくはウェイトンの企みの一端だったのだろう。戦力をこの場所に引き付け、儀式場である『不死鳥の湯』の防御網を脆くさせるための。 ジュンタたちは見事にウェイトンの術中に嵌ってしまった。 「さて、では誰がお父様の許まで行きます?」 「違うな。誰がここに残るか、が正しい。だろ? ヤシュー」 リオンの言葉にジュンタが訂正を入れる。 「そうさ。一刻も早く止めにいかねぇと、取り返しのつかねぇことになるぜ? ウェイトンたちはこの儀式に準備万端で挑んでる。ああ、本当に急がねぇとな。ジュンタ以外の二人が向かうことを強くお勧めするぜ」 「それはつまり、俺が残るなら二人が行くのは止めない、ってことでいいんだな?」 「ジュンタ!」 声を荒げるリオンを、ジュンタは真剣な表情で一瞥する。 「分かってるだろ? ヤシューとの戦いは、結局大局にほとんど影響がない。止めるべきはウェイトンの方。それなら、どっちに戦力を集中させるべきかは一目瞭然だ。そしてここにおびき寄せられた戦力は、一刻も早く戻らないといけない」 「その通りだ。いいぜ、俺はジュンタが残るなら他は止めやしねぇよ。そのためにわざわざ話したんだからなァ。さっさといっちまえよ」 「くっ!」 自分をまったく見ない、一瞥すらしない、完全にジュンタだけを見るヤシューに、リオンは悔しそうな顔をする。それは色々な悔しさが混ざった表情だった。 「ユースの仇を前にして、みすみす引き下がるしかないだなんて……ジュンタ。やはりあなたが戻りなさい。そしてこの男は私が――!」 そうリオンが口にしたところで、初めてヤシューが彼女を見た。その瞳に込められたのは、憎悪と憤怒。 「ふざけるんじゃねぇぞ! 俺はずっとずっと我慢してたんだよ。今日という日を待ちこがれてたんだよ。確かにテメェは強い。だがな、俺が戦いたい獣はジュンタなんだよ。もしもジュンタじゃなくてテメェが残るってなら、俺は全力で行く手を阻んでやる。ウェイトンのところにはいかせねェ!」 「あら、大層な自信ね。別にここにジュンタ君が残らなくても、もっといい方法があるわよ。つまり――」 話を聞いていたトーユーズが、その視線に初めて戦意を乗せた。 「――あなたをあたしがさくっと倒して、みんなで戻るって方法がね」 ゾクリ、とこの場に集まった全員の背筋を撫でる悪寒。 ヤシューが話をしたのは、敵の目標である『不死鳥の湯』にリオンとトーユーズを行かせ、一人になったジュンタと一対一で戦うことにあった。そうせざるをえない状況だと教えることでそんな状況を作ろうとしたのだ。 だが、トーユーズの強さはその状況すら覆す。 「ハッ! 確かに俺はテメェには敵わねェ。だがな、俺にだって切り札はあるぜ。勝てねぇにしろ、全員を足止めするぐらいしてみせるぜ。分かるだろ? そのやり方だとよ、試合には勝てても勝負には勝てねぇんだよ」 「それはどうかしら、ね!」 そのときトーユーズの手が霞む。 「ちぃ!」 ヤシューが叫んで大きくその場から飛び退く。 「し、神聖なる台座が!?」 「大局の前で、小さなことは気にしない気にしない」 悲鳴じみた叫びをあげたリオンに対して、やんわりと笑って見せたのはトーユーズ。その右手には一体いつ握られていたのか、かなり長い長剣が握られていた。 いや、それを果たして長剣と呼んでいいものか。むしろそれを呼ぶとするなら、 「大太刀?」 「へぇ、ジュンタ君。よく知ってたわね。そう、これは太刀と呼ばれる得物――あたしの愛剣よ」 弟子であるジュンタも初めて見る、トーユーズが握った彼女の本当の得物は、紛れもなく大太刀――日本刀のように反った片刃の剣に相違なかった。 真に驚くべきは、その斬撃を避けてみせたヤシューか。否、完全に避けられてはいなかった。 「ちっ、大した剣速だ。このヤシュー様が見切れないなんてよ」 「ヤシュー!」 大きく切り裂かれた自分の太股を見下ろして、ヤシューはトーユーズに恨めしい視線を向ける。グリアーは慌てて治癒せんとヤシューに駆け寄るが、彼はそれを手で止めた。 「で? どうよ、女。テメェのいう通り、俺はさくっと倒せるような三下だったか?」 「ん〜、どうやらそれは無理っぽそうね。大した本能よ、あなた。まさかあたしの初太刀が避けられるなんて思ってなかったわ。これはこのラバス村を守るためには、ジュンタ君を残して戻るしかなさそうよ。リオンちゃん」 「……あなたがそう言うのでしたら、そうなのでしょうね。お父様から引き際のタイミングを託されたのはあなたです。ここは村のため、世界のために引きましょう」 トーユーズの判断に、さすがにウェイトンを放っておけないリオンは、震える声で剣をおさめる。 そのあとリオンはこの場に残ることが晴れて決定したジュンタに向き直り、 「分かってますわね、ジュンタ」 「ああ。俺は負けない。ユースさんの仇は俺が取ってやる」 「ア〜、いいところ悪いんだけどよ」 強くリオンに頷いたジュンタへと、ヤシューは口を挟む。 「ユース・アニエースの奴と戦ってたのは確かに俺だけどよ、身体から魔力を抜いたのは俺じゃねェぜ」 「なんですって? では一体誰が」 「ウェイトンの協力者。最高に狂ったフェチ野郎――ディスバリエ・クインシュ。その名を聞けばわかるだろ?」 「ディスバリエ――」 「――クインシュですって!?」 ヤシューの語る、ユースを襲った真犯人以上の驚きをもって、その名はジュンタとリオンの口より発せられた。さすがのトーユーズも肩に大太刀をのせたまま驚いている。 「ディスバリエ・クインシュって、確かベアル教の創立者メンバーの」 「そう、『狂賢者』呼ばれて恐れられている女ですわ」 『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ――その有名な名を、ジュンタは知っていた。 他でもない、彼女こそクーこと『竜の花嫁』を生み出した張本人であり、その狂気の才能をもってして、かつてオルゾンノットが破壊される原因を作った犯人である。ジュンタもまたクーの口より、その悪名については既知であった。 「……まさか『狂賢者』まで関わってるとはね。こうなった四の五のいってる暇すら惜しいわ。リオンちゃん、すぐに宿まで戻るわよ」 「分かりましたわ。『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ……ジュンタ。どうやらユースの仇は私がこの手で取ることになりそうですわね」 「それは残念。でも、どちらにしろヤシューはユースさんの背中に俺へのメッセージを刻んだ。こっちだって敵討ちには変わりないさ」 「なるほど、ではあのような男はさっさと倒し、こちらに加勢なさい。……嫌な予感がしますわ」 急かすトーユーズを先頭にして、リオンはジュンタに激励を送ったあと、ヤシューとグリアーを一睨みして『騎士の祠』の外へと身を翻した。ヤシューは言葉の通りリオンたちを素通りさせる。 ジュンタは二人を『不死鳥の湯』へと行かせるためにも、ここに残るしかない。否、残ってヤシューとの戦いを行うのだ。それが今の自分の役割。駆けていく二人の足音を耳に、愉悦に輝くヤシューの視線を感じつつ、双剣を構えた。 「さて、お前の望み通りの舞台はこれでできあがったわけだが。まだそこにグリアーがいるのはいいのか?」 「いや、これで最高の舞台の完成だ。グリアーには手出しさせねェ。安心しろよ、テメェを殺すのはこの俺の牙と爪だ」 「どの辺りが安心できるんだ。だけど、いいさ。俺にだって許せないことがある」 ヤシューは許せない真似をした。自分と戦うためにユースを傷つけた。 ……責任を感じずにはいられない。自分が安易に交わした約束の所為でユースは傷ついた。であるなら、この場でヤシューを倒そうと思う。そのためには、いいだろう。また自分も牙と爪をもって食らいつこう。 声もなくグリアーが外へと出て行く。何もバトルフィールドはこの狭い『騎士の祠』だけではない。恐らく、すぐにでも外に戦いの舞台は移るだろうが、きっと彼女は戦いに介入はしてこない。 「獣同士の戦いがお望みならやってやる。どんなことをしても、俺はお前に報いを受けさせる」 「ああ、やってみろよ。どれだけテメェは強くなった? どれだけその内の獣を解放できるようになった? 楽しみだ。最高に楽しみだ。ああ、ちくしょう。武者震いが止まらねぇよ」 言葉の通り、愉悦に震えるヤシューは、両手のガントレットを打ち鳴らす。 その音は祠の中を反響する。その色は紅い天井に照らされて輝く。 舞台はすでに整った。待ち望んだ最高の戦いを始めるために、自分がいる場所を認識したヤシューは口端をつりあげた。 「ここは騎士の聖地って呼ばれる場所らしいなァ。なら、彩りを添えるために、少しくらいらしくしてみるか」 「この戦いに最もふさわしくないものを思いついただけ指摘しておくよ」 「違いねぇ。俺らは俺たちの姿だけが語れる存在だ。騎士の正道。獣の正道。ああ、関係ねぇ。だからこれは俺がそうしたいからやる。ただ、それだけだ」 ここまで純粋に戦うことだけに突き詰められるヤシューに、敵でありながらジュンタは驚嘆を抱く。 「そういうことなら。俺はジュンタ――ジュンタ・サクラだ」 「おいおい、先に名乗っちまうのかよ。……まァ、確かに俺はあれだ。本名が無意味に長いんで、思い出すのに時間がかかっちまうわけだが」 名乗りにすぐに名乗らない。そんなヤシューに苦笑はわかなかった。代わりに、自分の中で滾るものを自覚する。 「さっさと名乗れ。それが俺たちにとっての開始の合図なんだから」 「いいねぇ、最高だ。俺の名乗りで始められるなんてな。それじゃあ、ジュンタ。名乗るぜ」 ヤシューが構え無き構えを、獲物に飛びつく獣の構えを取る。 人の殻を被った獣対人の姿をした獣――獣同士に喰らい合いの合図は、今高らかに。 「ヤーレンマシュー・リアーシラミリィ! 行くぜオラァ――ッ!!」
時間はない。失敗しては目も当てられないとはいえ、儀式場を作り上げるのに時間をかけすぎた。他人がいればよくぞ一時間でできたというかもしれないが、それでも遅いのだ。
彼女が編み出した秘術[共有の全]は、まさに天才が生み出した驚嘆すべき魔法といえよう。そしてその行使の難しさもまた、並はずれていた。
そう、失敗などしない。すでに成功の報酬を偉大な人からもらっているのだ。然からば、失敗の未来などはないといえた。
内外の魔力が激しく回転し、クーをかつての日に誘った。
フラッシュバックする混沌の世界に、クーはユースに触れるすぐ手前で静止した。
クーの身体が光輝く。つま先から頭の先まで、輝く『儀式紋』が覆っていく。
クーは頬を染め、熱く吐息を吐いて、愛しき聖猊下の名を呼ばう。
◇◆◇
おいっ、ジュンタ。これはねぇだろ、さすがによ。俺は照れ屋だからよ。愛を込めたベーゼを贈るシーンは、やっぱ二人っきりがいいんだわ」
「あなたがユースに酷い真似をした時点で、あなたは決闘を望める立場ではなくなったのですわ。ジュンタと一対一で戦いたいという気持ちは理解できないでもないですけど、生憎とそれでは私の気持ちがおさまりません。――私も全力で行かせていただきますわよ」
それを見たグリアーが戦闘の構えを取ったのを見て、ジュンタも腰から双剣を引き抜いた。リオンと同じ紅きドラゴンスレイヤーを右手に、無骨な旅人の剣を左手に握りしめる。
一触即発の空気が彼女の放つ風の魔力によって増していき、しかしその空気を和らげたのは彼女の仲間のヤシューだった。
そのあと顔の前で右手を立てて片目をつぶり、口の端をつり上げるようにして笑った。
ヤシューの言葉の前に二の句を付けず、顔を手のひらで押さえて、恨みがましい視線を彼に送った。
ユースのことがなかったとしても、そんな大それたことを考えているのなら止めないわけにはいかなかった。正義を語る者でなくとも、決して見過ごしてはならない事柄だ。
ユースがあんなになるまで戦った理由が、今ならばすぐに察せた。敵討ち――ヤシューとグリアーによって殺されてしまったトリシャ・アニエースの敵討ちだったのだ。
伝承が途絶えたのか、初めからなかったのかは知らないけど、トリシャ・アニエースは知らないようだったわ。だけど、この地で生まれた彼女は、生まれながらに神殿の契約者であり、封印の開放にはその刻印たる血が必要だったというわけよ」
その言葉はトーユーズに贈られ、
ナレイアラの生まれた地に作られた、騎士の聖地も名高い『騎士の祠』――ここも神殿と呼べよう。だが、『ナレイアラの封印の地』のための神殿ではなかったのだ。
それは夢を見ているのに近く、だけど目にするのは夢よりもはっきりとした心象の風景。
見渡す限りの歪みは人間が許容できるものではなく、すぐに自分を見失って、ドラゴンが悪であることを認識したものだ。
あの緑はどのような感触をしているのか?
あの都ではどんな人たちが笑い合っているのか?
ユースという少女が一番に思い描いていた風景は、その憧れの風景に他ならなかった。
見果てぬ世界に手を伸ばす。
焦がれるように、だけどそれでも足は部屋から出ることが叶わない。
だから、外へ行きたいとクーは願う。それはユースの願いに同化して、クーを次の風景へと誘った。
『――――外に、出てみますか?』
誰かの声が聞こえたと思ったら、風景は一気に広がっていた。
地面を指でひっかいて、倒れて重い身体を動かそうと必死に……けれど届かない。窓の外を眺めていたように、どうしようもなくあと数センチが遠かった。
それはユースの世界の中に強く残るほど、彼女に影響を与えた男性の声だった。
その光景を見せてくれた、その男性の姿を忘れることはできないだろう。
何でもない、だけど初めて見る人々の姿はとても楽しそうで。いいな。と、ユースは思ったのだ。
(そうだったんですか。ユースさんは、ゴッゾ様のことが……)
ユースの身体は長くはもたない。早くクーが強く共感し、理解し、パスを繋ぐことができるユースの想いを見つけなくてはいけない。
憧憬と嫉妬。畏怖と感謝。数多の風景の中でも一番ユースとの繋がりが深いように見られる景色にいる竜滅姫に対して、感じる感情はそれだった。
――横で唐突に映った、あまりに恐い姿に意識を奪われた。
震える声なき声がクーの喉から絞り出された。
次は憎しみが溢れ出した――母親を殺した憎き二人の暗殺者に対して。
最後は恐怖――ただの一撃をもって自分を封殺した『狂賢者』に対して。
だって、その女はあまりに恐ろしすぎる狂人。
この場に集った人間、誰もが理解していたことだろう。この場において誰と誰が戦うのか。それ以外の人間は何をすべきなのか。
ただ一つ彼の計画で予想外といえるのは、何の躊躇もなくヤシューが全てを暴露したことか。
間違いなくこの場において最強を誇る騎士の、挑発でもなく誇示でもない事実の宣告はあまりに恐ろしかった。
先程のようにヤシューは冷や汗を流し、だけど一歩も引くことなく笑った。
直後、彼の背後にあった台座が、真ん中から真っ二つに割れた。
まさかこの異世界で、持ち込んだ日本刀以外の太刀を見るとは思ってなかったジュンタは驚き、そして先程トーユーズの手が霞んだ直後に台座が断たれたのは、一瞬でそこまで斬撃を彼女が放っていたのだと気付く。
ここまで滾る実戦は聖地以来のこと。高揚する精神は、なるほど、確かに獣と称すべきなのかも知れない。