第十話  決して譲れぬもの


 

『神座の円卓』の外観は白い卵型の宝石のように見えるが、壁や天井など全てが神居と同じ白亜の石でできているわけではない。

 天から降り注ぐ陽光を透かし輝く天井は一面のステンドグラス。
 光を取り込むことによって虹色の聖画が描かれる。これは円卓に座したものしか見ることの許されない、至高の天井画であった。

 白を基調とし、白金を重ねたステンドグラスに描かれているのは、現在まで世界を導き続けた使徒たちの姿。輝く満月目指して駆け上っていく数多の神獣が描かれている。

 上座を頭上に置き、未だ役目を終えぬ現世の使徒たちが白い大円卓を囲む。ステンドグラスと円卓――ただそれだけしかない部屋を自身の輝きで彩る使徒たちは、招集の胸を発したフェリシィール・ティンクの話を聞き終えたところであった。

 それぞれ自分の住む神居の塔を背後に、プラチナの原石を掘って作られた椅子に座る三柱の中、口火を切ったのは西神居を背にする使徒。

「この二日。リオンたちの姿は見るのにジュンタ君の姿だけは見えなかったのは、そういうことだったんだ。……全然気付けなかった」

 スイカはフェリシィールから告げられたジュンタの失踪の件に、憂いの表情を浮かべる。

「それで、ジュンタ・サクラの捜索に聖殿騎士団を使いたいというのだな。『封印の地』への侵攻作戦を控えた今、総力をあげて」

 対して、表情一つ変えることなく本題を指摘したのは、北に位置するズィールだった。

「尋常に考えればあり得ぬ話だ。一人の人間に対し聖殿騎士団を総動員するなど。フェリシィール。何故そのような戯れ言を提言する?」

「戯れ言だなんて! わたしはフェリシィール女史に賛成だ。総力をあげてでも、ジュンタ君は助けるべきだ!」

 円卓を叩き立ち上がるスイカに睨まれても、ズィールはどこ吹く風で淡々と『正論』をかざす。

「戦の準備に従事している騎士たちを動かせば、無駄に時間を費やしてしまう。それは決して使徒として取るべき選択ではない。スイカ。貴公がジュンタ・サクラとどれだけ親密な関係かは知らないが、公私はきちんと弁えてもらおう」

「なんだと……!?」

 すっと細まったスイカの眼差し。彼女の金色の瞳が怒りの色をたたえ、荘厳な空気が一瞬で緊張したものに変わる。それは精神的なものだけではなく、感情の高ぶりでもらされたスイカの膨大な魔力は、肉体的にも圧力を感じるほど。

 スイカという少女がジュンタに対し何かしらの想いを向けていることには、フェリシィールも気付いていた。さほど接点がなかったように思える二人の間に何があったかは知らないが、女性としてわかってしまう。

 否、いつもはさほど感情の起伏を見せない、奥ゆかしいといってもいいスイカのこれほどまでの感情の発露だ。ズィールとて気付かぬわけがなかった。

「使徒には膨大な魔力が眠っている。それを感情のままに発現させるなど、鍛錬がたらんぞ」

「……言いたいことはそれだけか?」

 それでもズィールはあくまでも使徒としてスイカに接す。
 使徒ではなく女として向き直っているスイカは、彼の態度に当然の如く怒気を強めた。

 理論と感情論をそれぞれ持ち合わせ、睨み合う二人。もちろん、使徒としての正論を語ったズィールの方が正しいことは間違いない。大きな作戦を前にする今、たった一人の行方不明の少年に人員を裂くのは間違っている。

 そう、ジュンタ・サクラが本当にただの少年であったなら。

「そこまでです、お二人とも」

 二人の返答を黙って聞いていたフェリシィールは、剣呑な空気を読んで制止をかけ、二人の視線を自分に向けさせた。

「お止めなさい。この神聖なる『神座の円卓』で喧嘩など、それこそ使徒のすべきことではありませんよ」

「……すみません」

「まったくもって正しい意見だ。詫びよう、フェリシィール」

 どこか納得していない表情で座り直すスイカに対し、謝罪して背もたれにもたれかかる冷静そのもののズィールは、改めて先の案に対する自身の返答を述べる。

「しかし自分は間違ったことを言っているつもりはない。ジュンタ・サクラの捜索に聖殿騎士団を派遣させるのには反対だ」

「わたしは賛成します。聖殿騎士団を総動員させても、彼は探すべき人です」

「そうですか」

 ズィールに続いてスイカも自分の返答を述べる。
 まったくもって正反対の答えだが、それでもそれぞれ一票である事実に変わりはない。

「では、決まりですね。わたくしとスイカさんが賛成。ズィールさんが反対。よって、聖殿騎士団によるジュンタさんの捜索を実行に移すことにします」

「……それが決定なら、従おう」

 多数決に基づいた決定に、ズィールは不承不承といった風に瞳を閉じる。

 ズィールの言っていることは確かに正論だが、フェリシィールは彼が知らない事実を知っていた。即ちジュンタ・サクラは使徒であることを。

「聖殿騎士団の方にはわたくしの方から話を通しておきます。忙しい中、招集に応じて下さってありがとうございます。それでは、此度の話し合いはこれで終わりにしましょう」

 使徒として正しい判断が半分、間違った判断が半分で決定を下したフェリシィールは、胸を撫で下ろすスイカと腕を組んで黙り込むズィールにそれぞれ視線を向けたあと立ち上がる。

――使徒フェリシィール・ティンク」

 急ぎ東神居を通って騎士堂に赴こうとしたフェリシィールを呼び止めたのは、瞳を開いたズィールだった。

「何か? ズィールさん」

 仰々しい呼び方で呼ばれ、振り返ったフェリシィールに対し、ズィールは視線を合わせることなく天井を見上げていた。

 歴代の使徒たちを讃える至高の輝き――視界一杯に広がる『使徒の在り方』を見つめつつ、ズィールは静かに問うた。

「……貴公は昔自分に言った。使徒が間違った決定を下したとき、それを正すことができるのも、正すのも、また使徒なのだ、と」

「ええ。確かに言いましたが……それがどうかされましたか?」

 自分が先達の使徒から伝えられたことを、またフェリシィールも自分の次の使徒たるズィールに教えていた。まだ彼が幼かった頃から、ずっとフェリシィールは彼を見てきたのだ。

 ズィール・シレはよく言えば公正、悪く言えば融通の利かない使徒だった。
 ある意味では最も使徒らしい使徒といってもいい。昔から彼は、人一倍使徒としての使命に忠実だったと思う。少なくとも、自分よりはそう。

 彼は使徒以外の自分を手に入れなかった。いや、違うか。手に入れようとしなかった。だからフェリシィールは首を傾げた。ステンドグラスを眺めるズィールはどこか、使徒ではなく一人のズィール・シレとして口を開いていたように思えたから。

「ずっと、自分は疑問に思っていた。その言葉が意味することは、使徒が『使徒として間違った』決定を下したときに該当するのか、あるいは使徒が『間違った』決定を下したときに該当するのか。今一度尋ねたい、使徒フェリシィール・ティンク。貴公は一体どちらだと判断する?」

 質問の意図は察することができなかった。

 考えたこともなかったことに対しフェリシィールは純粋に悩み、自分自身が良かれと思う方を口にする。

「わたくしは後者――使徒が『間違った』決定を下したときに該当するのだと思います」

「そうか……」

 天井から視線を外し正面に顔を戻したズィールは、また使徒に戻っていた。

 彼はゆっくりと立ち上がると、北神居の方へと歩いていく。おのずとフェリシィールからはズィールの右半身が見え、自分を見据える彼の金色の眼差しを目の当たりにすることになった。

「では、この決定に対して自分は何も言うまい。ただ助けたいと思う気持ちで決定されたこの決断は、使徒としては間違っているが人としては何も間違っていないのだから」

 だから本当の意味で間違えてしまったときは容赦しない――濁らぬ決意の眼差しは、声にせずともそう物語っていた。

「ジュンタ・サクラの早期発見を祈っておこう」

「ズィールさん……」

 マントを翻して去っていくズィール。彼が最後に呟いた言葉を、フェリシィールはその長い耳で捉えていた。

 感情の伴わぬ押し殺した声音で。彼は確かにそう呟いた。フェリシィールにだけ聞こえるように。


 ――――間違えるなよフェリシィール。神から与えられた、己が使命を。


 



       ◇◆◇






 囚われのジュンタの許に再びディスバリエが現れたのは、約一日半ぶりのことだった。

 囚われてはいたが、ジュンタには正確な時間の経過を知ることができる腕時計が存在した。この世界の住人にとっては異世界の文字である文字盤から、これが時計であることを読み解くことができなかったのか。どちらにしろ、時間を知ることができるのは助かった。

 なぜかというと、一日半ぶりだ。その時間経過をいい訳に、何のひけめを感じることなく差し出されたシチューを口に含むことができるのだから。

「どうでしょう? お口に合いましたか?」

「一日半ぶりの水分補給と食事なら、大抵のものは美味しく感じるな。いや、二日ぶりか」

 ディスバリエが運んできた大きな木の器に大量にもられた、具だくさんのシチュー。
 昨日眼を覚ましてからジュンタが初めて口にした水分であり、また食料がそれだった。正確にいえば昏睡していたときもふくめれば、述べ二日強ぶりの栄養補給である。

 誘拐犯からの施しという意味では癪であるのだが美味しくないはずがない。実際久しぶりという観点からのみならず、それは温かささえ感じる絶品だった。しかしやはり素直に賞賛などできようはずもなく、残さず平らげたジュンタが口にするのは酷評だった。

「野菜の切り方にばらつきがありすぎる。灰汁抜きがなってない。何より、シチューなのに完全に冷めてるあたりがダメダメだな」

「そうですか……」

 にらみ据えて吐き捨てれば、ディスバリエは素直に残念そうな顔をした。
 思わず罪悪感を感じてしまうくらいに、それは大切な何かを貶された乙女のような顔だった。

「冷めている状態で差し出すのがあまり良くないことは理解していたわけですが……」

「なら、温め直してくれれば良かったのに」

 言ってから、それではまるで残念だと言っているようだと思い、ジュンタはしかめっ面を作る。そのことにディスバリエは気付かなかったのか、頬へと手を寄せた。 

「ええ、しましたわ。三回ほど」

「どういう意味だ?」

「つまり、大事な人であるあなたに美味しいものを食べさせて差し上げようと、シチューが冷めてしまった段階で調理場に戻り温め直したのです。三度ほど冷めたので三回温め直し、四度冷めた時点で温め直すことを諦めました」

「……あ〜、つまり、なんだ。お前は温かいものを持ってこようとしたけど、ここに辿り着くまでに冷めてしまったと。……調理場から遠いってことを言いたいのか?」

「いえ、直線距離に直してみたら十分もかかりませんが」

「…………悪い。全然意味が理解できない」

 ディスバリエと普通に話していることへの困惑は覚えつつも、それ以上に彼女の意味不明な話に困惑するジュンタからの質問に、器を両手で持った『狂賢者』はどことなく照れくさそうに暴露した。

「お恥ずかしい話ですが、実はあたくし方向音痴のようでして。その上この地下神殿は迷宮のように道が入り組んでいるのです。調理場からここまで来るのに毎回違う道で迷いに迷い、その結果がこの冷えたシチューに繋がるわけです」

「………………まさか、一日半も飲まず食わずにさせられたのは?」

「本当は昨日の昼に持って来るつもりでした。設計ミスですね」

 慣れたことなのか、まったく気にしていない風に微笑を浮かべるディスバリエ。……ダメだ。気を許してはいけないとわかっているのに、緊張が緩んでしまうのを我慢できない。

(そりゃ、ディスバリエだって『狂賢者』としての顔以外の側面を持ってるだろうけど。人間なんだし……だからって、なぜクーと同じドジっ子属性なんだ……?)

 しかもかいがいしく口の端についていたシチューをハンカチで拭ってくれたりと、噂に聞く本性をジュンタは食事中ついぞ目の当たりにすることはなかった。

 だが、それでも彼女は『狂賢者』ディスバリエ・クインシュ――彼女はわざわざもらした地下神殿の情報と絡めて、ジュンタに視線を注いだ。

「ですから、この部屋からはお出にならいようお願いします。牢の外は言った通り、何度も設計図を見て、何度も通ったこのあたくしですら迷うような迷宮です。致死性の高いトラップが溢れた。
 方向音痴のあたくしでは、迷ったあなたをすぐに助けに行くことが難しい。それこそ、今度は三日三晩飲まず食わずのまま、武器もなく魔獣らと戦う羽目になってしまうかも知れません」

「……逃げる方法を考えるくらいは、多目に見てもらえると嬉しかったんだがな」

 かけられた注意に込められた脅しを悟って、ジュンタは首の後ろに触れた。

「改めて申し上げておきましょう。ここは、ここならば安全だと思って選んだ場所です。出ることは不可能。そして、この秘密の地下神殿へと誰かが助けに来る可能性もありません。地上では何やら聖殿騎士団による捜索がされているようですが、手がかりさえ掴めていない様子でした」

「大事になってるんだな。たかが旅人一人が行方不明になっただけで」

「あなたにはそれだけの価値があると理解している人が、あたくし以外にもいるということですね」

「全然嬉しくないな。敬われているのかどうか、疑いたくなる扱いだし」

「お望みとならば、如何様なものでもご用意してみせますが。ですから刺客が戻ってくるまではここにいてくださいませ」

「……昨日もそんなことを言ってたな。刺客を使って俺の障害を消す、って」

 昨日は正直ディスバリエという相手が捉えきれなくて訊けなかったことを、ジュンタはようやく巡ってきたチャンスの今に問う。

「お前が本当に俺のことを考えて行動してるっていうなら、俺の障害を消そうとする理由は理解できる。だけど、俺の障害ってところがいまいち確信を持てない。俺にとって障害は、お前たちベアル教だからだ」

「本当の障害とは、自分が預かり知れない内に誕生し、立ちはだかるものなのです。個人の思惑ではどうしようもならない、世界が決めたルールのように。ドラゴンであらせらえるあなたには、天敵が存在するのです」

「天敵……それを考えたら、俺には一つしか考えつかなかった」

 ジュンタは目を細めて、自分の心の奥底に住まう少女の名を口にした。

「『竜滅姫』リオン・シストラバス。俺個人にとっては大事な相手も、ドラゴンっていう属性から見れば天敵には間違いない。ディスバリエ。お前がしようとしていることは、刺客を使ってリオンを殺そうとしているってことでいいんだな?」

「はい、ご推察の通りです。彼女は、危険です」

「そうか……」

 時間だけは余っていたので考えていた考察はやはり正解だった。ディスバリエの第一目的がドラゴンの保護であるのなら、リオンは真っ先に狙うべき相手だ。ドラゴンにとって、絶対をつけて危険な相手と指せるのはリオンだけだ。

「……一時の感情の迷いとはいえ、怒鳴られることを覚悟していたのですが。聖猊下。あなたは怒られないのですね」

 考え込むジュンタを前に沈黙を保っていたディスバリエが、予想が外れたという風に言う。

 ジュンタは肩をすくめて、迷いのない瞳で言い切った。

「怒ってないわけじゃない。ただ、俺はリオンの奴を心底から信頼してる。最高の刺客、っていうのが誰かは知らないが、リオンが負けるはずがない」

「ですがあたくしが用意した最高の刺客もまた、とても強い。紛い物でしかありませんが、あれがドラゴンのために生まれ、ドラゴンのために死ぬ道具であることに間違いはありませんわ。あなたが思ってるほど、容易い戦いではないかと」

「それでも最後はリオンが勝つさ。あいつは負けない。誰が相手だろうとも」

「そうですか。聖猊下はリオン・シストラバスが勝利することを祈られているのですね」

「当然だろ? 俺がリオンを狙う奴の勝利を祈るはずがない」

 断言するジュンタに、ディスバリエは寂しそうに首を振った。まるでここにはいない誰かの代わりを務めるように。

「……それは残念でなりませんわ。彼女はあなたが自分の勝利を祈っていると聞けば、刺し違えてでも障害を排除したでしょうに。以前そうしようとしたように」

「狂信って奴か。それでも騎士の誇りには勝てないさ」

 ジュンタはリオンの勝利を疑うことはなかった。リオンを狙う刺客の敗北を疑うことはなかった。それでいいと、心の底から考えていた。

「では、悲しいことですが彼女はリオン・シストラバスに殺されてしまうのですね。ああ、悲しいことです。あの子はあたくしの子供と言っても過言ではありませんわ。彼女――クーヴェルシェン・リアーシラミリィは」

 そのときまでは。

「…………」

 長い沈黙のあと、ようやくディスバリエが口にした刺客の名を理解する。

 その意味を理解したとき、ジュンタはディスバリエの胸ぐらを掴んで、ベッドへと喉を圧迫し呼吸させないほどに押し倒していた。

――今ようやく理解した。お前は、俺の敵だ」

 ジュンタの中から、ディスバリエに抱いていた幻想が全て吹き飛んだ。

 呑み込んだシチューを吐き戻しそうになる。これなら水分不足で苦しんでいた方がまだマシだったと思えるくらいに、込み上げてくるのは煮えたぎる憤怒と憎悪。最も許されない行いを実行に移したディスバリエに、ベアル教に、ジュンタは殺意にも似た敵意を露わにする。

「お前は、俺を使ってクーにさせる気なんだな? 竜滅姫の排除を。リオンの排除を」

「ええ」

「その方法がどういうことか、クーがどれだけ苦しんで、リオンがどれだけ辛くて、二人がどうしようもなく傷つくのを分かった上で言ってるんだな?」

「ええ――――それがどうかしましたか?」

 頷いたディスバリエの頬を、ジュンタが振りかざした拳が捉える。

 ディスバリエは微動だにせず、避けることもしなかった。

 殴られた頬どころか繋がっている首にまで痛々しい音を響かせたディスバリエに、ジュンタは感情の伴っていない声を突きつける。

「リオンとクーを傷つけたら、俺は絶対にお前を許さない」

「殺しますか? あたくしを」

 罵倒されて、殴られて、それでもそれすら愛おしいと微笑んでいるディスバリエは掠れた声でそう言った。声と共に吐き出す空気はか細い音。息を吐き出すだけで、彼女は息を吸ってはいなかった。

 いや、吸えないのだ。ジュンタの手はディスバリエの胸骨を砕く勢いで押し込み、彼女の首を強く圧迫していた。

 このままでは、ディスバリエは死ぬ。

 これ以上特別な行為をする必要はない。現状を維持するだけで、この狂った女はこの世からいなくなる。それはとても素晴らしいことだと、そうジュンタには思えた。

「ああ、死んで欲しいよ。リオンとクーを傷つける奴は、死ねばいいんだ」

「でし、たら、どうか……この世で最、も、むごたらしく、殺してください、ませ……」

 調律が狂ったオルガンのような声を喉から絞り出して、ディスバリエは口元に狂気の笑みを浮かばせる。

 純粋な好意が時として、これほどまでに殺意を抱かせるものだと、ジュンタは知らなかった。

 ――殺せ。 
 
 耳元で誰かが甘い囁きをする。それは闇。人の嘆きを尊ぶもの。

 ……だが、少しおかしくはないか? ディスバリエは殺されることを喜んでいる。嘘偽りない至福の笑顔を浮かべている。闇は相手の弱さに反応するもの。こんな笑顔を浮かべている『狂賢者』が、自らの心の弱さをさらけ出しているとは思えなかった。

 ならばこの囁きは誰のもの? 誰の弱さを突いたもの?

 ――殺せ。

 答えは簡単だった。この場に、ディスバリエ以外の人間は一人しかない。

「あ、ぐ、あがっ……!」

 ジュンタは胸を押さえてその場にうずくまる。

 今起きている反転の呪いの脈動は、これまでの他人に対するものではなかった。今回の対象は自分――サクラ・ジュンタの弱さを突いた、自傷行動を推奨する闇の囁きだったのだ。

 負荷で脳を焼き焦がすような全身の痛みは、これまでのように我慢できるものではない。今までのものが表面上はそのままに内心で起きた思考の混線だったのに対し、今度のは隠せないほどの闇が蠢いて肉体を締め上げている。実際に、ジュンタの身体からは黒い魔力が立ち上っていた。

「『反転』……そう呼ばれる現象を受け、あなたは神獣となりました。それによりあなたは、ウェイトン・アリゲイが多くのものに施していた反転の呪いを、決して消えない古傷のようにその身に刻んでしまったのですよ」

 呼吸を再開してしまったことに残念そうな顔をするディスバリエが、うずくまるジュンタを今度は逆にベッドへ押し倒して、胸元へと耳を寄せて徐に説明を始める。

「その古傷は、普通にしている限りは痛みません。けれど、精神的なダメージを受けると疼き始めるのです。さながら老兵が死に場所として戦場を求めてしまうように、あなたの古傷は古傷を癒すことのできる瞬間を求めているのです」

「ぐ、っぁ!」

 ディスバリエに呪いのことを聞くという当初にあった目的を、まさかこんな形で果たすことになるとは思ってもみなかった。ジュンタはディスバリエの身体を押し返せず、彼女の下で身悶える。

「あの呪いは人が本来は理性の下に秘めている、生まれながらの欲を具現化する呪い。あたくしにはあなたが本来どのような在り方をしているのかは知りません。ですが、わかることが一つだけ。
 あなたがドラゴンであるのなら、あなたは狂わずにはいられず、また反転の呪いに呑み込まれずにもいられないということ」

「ドラゴンだと……狂う、のか?」

 苦痛とそれを上回る悪寒に、ジュンタの声は震えた。

 ドラゴンを知るため様々な非道の事件に手を出した研究者は首を縦に振る。

「ドラゴンは異物としてこの世に存在していますわ。ドラゴンに精神があったとするなら、やはり同じように異なる精神でなければなりません。でなければ耐えられない。自分がドラゴンであることに、異物であることに、それを攻める『世界』に普通の精神では耐えられずに狂ってしまう。
 それをどうにかしようと思ったなら、精神を狂うことのない領域まで昇華させることが求められるわけですが、もちろんそう簡単な話ではありません」

 魂と精神と肉体からなるのが個という存在だと、かつて教えてくれた少女がいた。

 これらは生まれながらに備わって、成長すると共に全てが釣り合った状態で成長していく。であるなら、もし仮にその一つだけが著しく成長を遂げた状態で与えられてしまったらどうなるか?

 たとえ優れていても、他が伴わないなら個人の世界に致命的なズレが生じる。
 最初は小さな摩擦でも、やがては大きな摩擦と変わり、軋轢を生み、最終的には歪んでしまう。

「ドラゴンとは異物の魂があり得ない肉体を持ったもの。ドラゴンにとって魂こそが肉体であり、また肉体こそが魂なのです。本来ならば精神はなく、あっても異物の下に埋もれて本能以外は顔を出しません。
 しかし、あなたはあなたの精神が魂と肉体と肩を並べている。魂の飽和。肉体の凌駕。断言してもいいでしょう。今のあなたの心は、ドラゴンの力に耐え切れていない」

「なら、この痛みは……?」

「使徒でありながらドラゴンという矛盾を持つあなたにとって、精神にのみ異常を来すのは普通の反転の呪い。しかし今あなたの身を襲っているのは、呪いにより疲弊した精神との軋轢に肉体が軋んでいる痛み――魂が調停を望んでいる乾きに他なりませんわ。
 反転の呪いとドラゴンであるが故の狂い。二つは影響し合って、互いを加速させていきます。反転の呪いに耐えきれなくなったとき、ドラゴンであることに保てなくなったとき、あなたは本当の意味で終わりの魔獣となり、厄災として世界を蹂躙することでしょう」

 とはいえ――ディスバリエは言葉を続ける。

「まだ、あなたの心は自分を許容しているようですが。普通ならそのような状況では数秒と持たないでしょうに。さすがはあたくしの救世主様」

 ジュンタの身体を包みこまんとしていた黒い魔力は、優しく抱きしめるディスバリエの身体に吸い込まれていった。途端湧き上がった殺意も掠れていく。

 まだ心は反転の呪いにも、ドラゴンの狂気にも打ち克っているらしい。とはいえ、いつも以上にきつかった。うずくまったまま床に倒れ込んだジュンタは、そのまま起きあがることができず、ディスバリエに抱きしめられ続けていた。

「反転の呪いは時と共にあなたを蝕んでいくことでしょう。しかし、ドラゴンの狂気は神獣の姿にならなければ大丈夫のはず。時間の経過だけがあなたを厄災へと追い詰めていくものなのです」

「それはつまり……また神獣になったら、その時はどうなるかわからない、ってことか?」

「運が良くて二度。今のままでは一度の神獣化にも耐えることは叶わないでしょう」

 そう言い残して身を起こすディスバリエ。ベッドに転がったままジュンタは、最後に『狂賢者』の狂気を見る。

「ですが、あたくしは見てみたい。精神と魂が至高の肉体に追いついたそのときを。あなたの世界全てが釣り合ったそのときを。矛盾がことごとくあなたの歪みに呑み込まれるそのときを、あたくしは心待ちにしているのです。そう――世界が救われる、そのときを」

 ドラゴンを求めているのか、使徒を求めているのか、それともその二つを超越した何かを求めているのか――全てに取れる言葉を発したディスバリエはクスクスと笑って、部屋から立ち去った。

「……俺にも、心の弱さは、あるんだな」

 ベッドの上でぼんやりと天蓋を見つめながら、ジュンタは改めて認識する。使徒である自分を。ドラゴンの使徒である自分を。自分自身を。

 いわば、この黒き魔力は限界の予兆だったのだ。

 他者の弱さにつけ込もうと闇が囁くように、今回は自分の中で膨らんだ恐怖に闇が反応したということか。リオンとクーを自分が原因で傷つけてしまうという恐怖に、ディスバリエへの憎悪に、日常とはかけ離れたものを欲する呪いが活性化したのだ。

「どうやら知らない内に、かなり心が参っていたらしいな……それも当然か。反転の呪いがある以上下手に接することもできないからって、最近はリオンやクー、サネアツに接するときどこか距離を取ってたし。加えて、一人攫われた状況。その上リオンとクーの問題だ」

 心を強く持たないと反転の呪いに耐えられないことは、前々から理解していた。ただそこに、ドラゴンという存在であるが故に知らず負っていた狂気が加わっただけだ。簡単な話。どちらも我慢すれば済む話といえよう。

 実際にはそう簡単な話ではないだろうけど、それでもそういうことにして受け入れておきたい。小難しく考えるよりは、その方が色々と耐えやすかった。

「…………そっか。俺が今耐えられそうにないと思ったのは、寂しかったからなのか」

 賑やかで、楽しくて、幸せだった日常を離れ、今は独りぼっちで得体の知れない何かとの戦いを強いられている。自分の心と体の問題だ。自分で解決するしかないとしても、それでも誰かに傍にいてもらいたかった。

 サネアツのアホなトラブルに巻き込まれてもいい。
 クーのトラウマになりそうな溺愛に溺れてもいい。
 何より、リオンに傍にいて自信満々に笑っていて欲しかった。

 こうして一人になることを強いられて、初めて気付く。初めて知る。――独りぼっちは、とっても寂しいんだということに。

「……嫌だな、一人なのは」

 だから、すぐに戻ろう。一人で居なくてもいい、あの温かい場所に。

「戻る。俺は打ち克って戻る。勝つ。絶対に勝つ。こんなウェイトンが残した、マザーが寄越した、気持ち悪い呪いになんて負けてやらない。ドラゴンは最悪なものじゃないって証明しないといけないんだから、こんなところでへこたれてなんていられない」

 ジュンタは立ち上がった。決意も強く笑みを浮かべて、ドアへと歩み寄る。

「俺は俺だ。俺以外の何ものでもない。これが今の俺なら、全部を認めてやればいい」

 両手を突き出して、ジュンタは固く閉じた扉に手のひらをつける。
 虹色の光が身体を伝い、手から扉へと侵蝕を始める。全ての質量を消失させる、侵蝕の虹が。

 たとえ扉の質量を無くしたとしても、扉はこの建物全てと繋がっている。材質自体が弱体化するわけではないから、こんなことをしても意味はないかも知れない。

 なら答えは簡単だ。扉だけではなく、この建物全てを魔力をもって包み込めばいい。持ち上げることは叶わなくとも、それは自分を探してくれている誰かの目印になるはずだ。

「俺は、ここにいる」

 誰かに自分の存在を知ってもらうために。自分で自分のいる場所を再確認するために。

「俺は、新しい日常に、いるんだ」

 閉じた鍵を、ジュンタは開けようと思った。

 

 


 ディスバリエが行動の拠点として選んだ場所は、聖地に幾多もある聖神教会の一つだった。

 名をエリーゼ大聖堂と呼ばれるそこは、聖地開闢とほとんど変わらぬ年に作られた聖地南方にある巨大な教会である。中央のアーファリム大神殿とは比べることはできないが、それでも神聖なる教会内に一般市民が入ることが許されるのは、特殊な行事の際のみ。

 しかしその聖なる教会の地下を使用しているのは、異端宗教たるベアル教に手を貸す『狂賢者』――皮肉なことに、絶対に侵入を許すことのない教会という自負が、ディスバリエにとっていい隠れ蓑になっていた。

 もちろん、エリーゼ大聖堂の防備は万全だった。エリーゼ大聖堂を含めたラグナアーツの四方の大聖堂には、それ相応の数の聖殿騎士団が常駐している。ディスバリエがエリーゼ大聖堂に侵入を果たすことができたのには、いってしまえば裏技の恩恵だった。

 ディスバリエは、使徒ですら知らないエリーゼ大聖堂の秘密地下神殿への侵入方法を心得ていたのである。侵入するのに大聖堂の中に入る必要はなかったので、誰に気付かれることなく全身を侵入させることに成功していた。

 古い空気が満ちた石造りの回廊を歩くディスバリエの横顔を、一定間隔で壁に備えつけられた松明の灯りが照らす。

 首尾良くドラゴンの使徒を保護することができ、さらには聖神教の知らない大聖堂の地下へと隠れている。広いエリーゼ大聖堂の敷地面積いっぱいに広がる迷宮のような地下神殿には、ジュンタ以外にはディスバリエしかいなかった。

「あら?」

 だからそのときディスバリエの耳に届いた声もまた、人間のものではなかった。

 神殿の唯一の入り口にして出口を塞ぐ扉の向こうから、扉を爪でひっかく音とにゃ〜という鳴き声がした。

「猫……?」

 ポツリと呟いたディスバリエは足を止め、しばし思案顔になったあと、外からは排水溝の蓋にしか見えない重い鉄製の扉を押し上げる。開いた隙間から滑り込むようにして小柄な影が横を通り過ぎようとするが、これを見逃すディスバリエではなかった。

「うにゃっ!?」

「あら、申し訳ありません。つい」

 片手で咄嗟に掴んだため、思いの外力が入ってしまったらしい。猫が悲鳴をあげる。

 ディスバリエの腕は白く細いも、大の男がやっと持ち上げられるほどに重い扉であり蓋を軽々と持ち上げられるほどの贅力を有している。その力で無意識の内にわしづかみにされていた猫は、すぐにディスバリエが力を抜かなければ内臓破裂していたことだろう。

「白猫……ではありませんね。ここに迷い込むなんて」

 力を抜いたディスバリエの手の中から、橙色の毛並みが美しい猫が地面に逃げるように飛び降りる。猫は威嚇の声をあげており、怪我こそないものの相当警戒しているようだった。

「こんにちは、猫さん。ここは危険な場所。外へお帰りなさい」

 蓋を持ち上げ、合間から陽光を入れる外を手で指し示しながら、ディスバリエは猫に促す。

 猫は威嚇状態のまま、じっとこちらを見つめてきた。
 ディスバリエは開かれることのない瞳を猫に向け、そっと扉を指し示していた手を差し出した。

「ほら、こんなところにいると、綺麗な橙色の毛並みが汚れてしまいますよ。男の子か女子かはわかりませんが、凛々しい姿が台無しになってしまいます。さぁ、お行きなさい」

 猫を見つめるディスバリエの口元には微笑みがあった。いつも浮かべている微笑みではない、微かだが、だけど人としての温かみのある微笑みが。

 殺されかかった猫は、いつしかディスバリエを威嚇するのを止めていた。キョロキョロと辺りを見回すと、少し迷ったようにしつつもディスバリエの手のひらの上へと飛び乗る。

 冷たい自分の手に乗る、小さな肉球のくすぐったいような感触と人肌に似た温もり――それは『狂賢者』と呼ばれるに至った女を、一瞬の過去へと引きずり込む。


『忘■■■で下■■。メ■■■■と■■■■■■■■な■■がい■こ■を。■■たち■あ■■■■■きで■■■たは■■■ちが■■き■■■こと■』


 虫食いだらけの記憶。雑音だらけの記録。思い出すほどにズキリ、ズキリとあやふやなはずの過去の痛みが胸を刺す。

 ……思い出せなかった。

 忘れてはいけないはずの言葉を、約束を、思い出せなかった。
 思い出せるのはその約束があったから狂っていなければいけないことだけ。ただ、それだけ。

「あた、しハ……」

 ディスバリエは心臓を押さえてその場にへたり込む。手から力が抜け、パタンと蓋が落ちて光が消えた。

「少々魔力ヲ、吸収シ過ギマシタ、カ……」

 灯りは遠く、まっくらな闇が苦悶の表情を浮かべるディスバリエの身体を包み込んだ。呟きは雑音が入った蓄音機のような声音だった。

 その中で、ディスバリエが『狂賢者』である由縁を取り戻してくれたのは、頬に触れた湿った舌の感触。
 
「……アリガトウ。優シイのですね、あなたは」

 暗闇の中、自分がどんな表情をしているかわからないまま、手探りで元気づけてくれた猫の頭を撫でる。その声は人としての声帯に戻っていた。

「さぁ、今度こそお行きなさい。そしてできればこの土地からも立ち去りなさい。――ここはもうすぐ、地獄への坩堝が開くことになりますから」

 再び開けた外への扉から光が差し込み、猫の姿を闇に浮き彫りにする。
 光の照り返しで金色にも見える橙色の輝き。何かに吸い寄せられるように、ディスバリエは瞼を開いた。

 だが猫はディバリエの開いた瞳に映る前に、外へと飛び出してしまった。

 再び暗闇へと戻った世界の中、『狂賢者』は開きかけた瞼を、そっと閉じた。

 




       ◇◆◇






「第八師団第一大隊第二小隊隊長、ウィンフィールド・エンプリル。ただいま参上しました」

「ああ、良く来てくれた。待っていたよ」

 現場で指示を出していた中年の副師団長は、そういって安堵に胸を撫で下ろした。

「それで、自分が呼び出された理由は何なのでしょうか?」

 自分が所属する第八師団の副師団長を務める彼に呼び出されたウィンフィールドは、ボサボサの茶色の髪や気怠げそうな瞳と、あまり様になっていない立ち姿のまま、忙しそうな副師団長に用件を尋ねた。

 ウィンフィールドとて暇なわけではない。現在聖殿騎士団は使徒フェリシィールが出した勅命によって大々的に動いているところだ。末端の騎士であるウィンフィールドにも出動命令は出ていた。忙しさでいえば副師団長である彼の比ではないのだが、休暇にも関わらず招集された手前、若干声にやる気のなさが滲み出るのは仕方がなかった。

「騎士ウィンフィールド。貴公に一つ重要な任務を下す」

 それには気付かなかったのか、アーファリム大神殿をバックにした副師団長はウィンフィールドの肩をガシリと掴み、必死な形相で命令を下した。

「頼む。師団長を捜してきてくれ」



  


「ちっ、いつオレとあいつが級友だったってことが伝わってたんだ?」

 ラグナアーツの街の中を歩きつつ、ウィンフィールドは文句を垂れ流しにしていた。

 身につけた白い鎧がくすんで見えるほど憂鬱そうな顔で背中を丸めて歩く様は、とても聖殿騎士とは思えないほど。それがどうした。今ウィンフィールドは副師団長より命じられた、任務という名のお使いに辟易しているのである。

 聖殿騎士にとって最優先にすべき使徒フェリシィールから命じられた、『ジュンタ・サクラなる人物の捜索』は続行している。これは副師団長とはいえ勝手に変更していいものではない。という建前の下、実際はウィンフィールドはこの任務を外されて新しい任務に従事することになった。

 師団長。つまりは第八師団の師団長の捜索という任務だ。副師団長に呼び出されたときにはすでに嫌な予感がしていたが、見事的中してしまった。

「ミイラ取りがミイラになってどうするんだってんだ。ったく、めんどくせぇ」

 折角の休日がなくなった悲しみにため息を吐きつつ、ウィンフィールドは平和そのものの街並みを眺めた。

 擦れ違う相手から会釈される度に軽く頭を下げつつ歩くこと五分。
 とりあえず今更嘆いても休日は戻ってこないと悟ったウィンフィールドは、まだ適当にやれる勅命の任務に戻るべく、おのが師団のトップを捜すこととにした。

 目印にしたのは街の喧噪。平和な街に響く怒号、である。

「ひぎゃああああああああ!」

「噂をすればなんとやら」

 目の前の酒場のドアを突き破って、スキンヘッドの巨体が転がり出てくる。何かから逃げるように悲鳴をあげた彼は店の前の段差につまずき転倒する。それでも尚逃げだそうとする彼の表情は恐怖に引きつっていた。

 なんだなんだ? と、酔っ払いの喧嘩にしては尋常じゃない様子に周りが騒然とする中、ウィンフィールドは静かにその酒場へと歩を進める。

 ウィンフィールドが酒場に入る前に、目当ての人物は男を追って飛び出してきた。

「ふんっ!」

 小さな影が弾丸ように飛び出し、逃げようとしていた男めがけて手に持っていた何かを飛ばす。

 グルグルと高速回転した何かは逃げようとしていた男のすぐ脇を通り、彼の前数センチの地面に深々と突き刺さった。土を派手に舞いあげたそれは、陽光に白く輝く見事なハルバートであった。

「ひ、ひぃ!」

「やっと止まったですね。まったく、このアタシから逃げられると思っては困るですよ」

 目の前に凶器が突き刺さった恐怖にその場にへたり込む男の前へと回り込んで、ハルバートを投擲した少女は腰に手を当てた。

 白い甲冑はオーダーメイドサイズ。肩口に揃えたふわふわな深緑の髪を揺らした彼女は、小さな身体を大きく見せようとない胸を張って、怯える男を見下ろしている。その姿は十二歳くらいの子供が背伸びしようとしているようで、第三者が見れば威圧感などどこにもない。

「なぜならアタシこそが聖殿騎士団第八師団の師団長、ベリーローズ・フォルバッハだからです。さぁ、きりきり吐くのです。アタシがこの写真を見せるなり逃げたところを見るに、何か知っているのでしょう? 吐きなさい。吐かないとギッタンギッタンにするですよ?」

 ヒラヒラと男の目の前で、捜索者『ジュンタ・サクラ』の顔写真つきの捜索書を揺するベリーローズ。彼女はさもまだ何もしていないように言っているが、すでに男はボロボロで息も絶え絶え。ベリーローズに睨まれた時点で泡を吹いて白目を剥いている。一体どれほどの惨劇を酒場の中で繰り広げたというのか。

「どうやら吐かないつもりのようですね。仕方がないです。アタシとしてもこんな方法はとりたくないですが、これは敬愛すべき聖猊下からの勅命。心を鬼にしてやるです。では、まずは指を一本一本切り落としていくですかね」

「やめんか、チミッコ。公衆の面前でマジな拷問をやろうとするな」

「あいたっ!」

 地面に突き刺さったままのハルバートを持ち上げたベリーローズの頭へと、こっそりと近づいたウィンフィールドは拳を落とす。

「誰ですか!? 大人のレディーであるアタシを子供を叱るように拳骨を落としたのは! って、ウィンではないですか」

 ハルバートを振りかぶりつつ後ろを振り返ったベリーローズは、そこで自分に拳骨を落としたのが敵ではなく、同じ聖殿騎士のウィンフィールドであったことに気が付いた。

「どうしてこんなところをほっつき歩いているですか? 確かウィンの隊はもっと向こうを捜索しているはずです。……もしかしてサボってるですか? でしたら許さないですけど」

「サボってない。むしろ自分の役割をサボってるのはお前の方だ」

 疑いの眼差しを向けてくるベリーローズを面倒くさそうに見ると、ウィンフィールドは自分勝手な師団長に振り回されている副師団長から帯びた任務内容を教えた。

「お前が指揮の現場を離れた所為で、副師団長様々が大変な思いをしてるんだとさ。オレがお前と知り合いだってのが伝わってたみたいで、厄介ごとを押しつけられたんだ。師団長なんだから、きちんと全軍の指揮しろよ」

「ちっちっちっ。ウィンは何もわかってないですね。だから未だに小隊長止まりなのですよ。いいですか? フェリシィール聖猊下がアタシたち師団長の前に直々にいらして、『どうかこの人を探してください』とお願いされたのですよ」

「だから居ても立っても居られなくて飛び出してきたわけか」

「そうです! ああ、聖猊下。ベリーローズ・フォルバッハは御身のため、全身全霊を尽くしてジュンタ・サクラを探してみせるですよ」

 手を組んでうっとりとするチミッコは、祈るときだけ成熟した本来の年齢を垣間見せる。とはいえ、彼女が師団長として間違った行動に出たのは間違いない。けれどウィンフィールドにそれが間違いだと指摘する優しさもなければ、理解させることができる自信もなかった。

「確か、前このジュンタって奴が指名手配されたときも、殺す殺す殺すとか呟きながら彷徨い歩いてたっけな」

 驚くべきは指名手配されたり捜索されたりと、頻繁に勅命に出てくるこの人相の少年か、あるいは状況によってガラリと心境を変えられるベリーローズか。

「どちらにしろ、そう思ったならいっぺんきちんと説明してからにしてくれ。オレに面倒がかからないように」

「ふぅ、仕方がないですねぇ。まったくみんな信仰心が足りないのです」

 ちなみにその信仰心の発露の結果が、罪人かどうかもわからないのにぼこぼこにされた、名前も知らない大男である。酒場の弁償代やら何やらで、きっと今月もまたベリーローズの給料はなくなるだろう。残っても寄付されるだけだからあまり関係ないが。

「そうと決まったら急ぎますです。ウィン。サボるんじゃないですよ!」

「……はぁ、めんどくさい。片付けてからにしてくれよ」

 ハルバートを元気よく振り回して、アーファリム大神殿目指して走り去っていく第八師団師団長、通称『暴投ロリータ』ベリーローズ・フォルバッハの背中を見送って、ウィンフィールドはガシガシと髪を掻いた。

 このまま男を放っておくわけにもいかないが、まずはベリーローズが暴れた酒場の様子を先に確認しようと、酒場目指して歩き出す。聖殿騎士がいるとのことで、街の人々は少しずつ元の生活へと戻っていった。

 にゃ〜、とウィンフィールドは最後まで騒動を見ていた相手と途中で擦れ違う。

 振り向いて、ウィンフィールドはどうでもいいことを呟いた。

「そういや、なんか今日は猫が多いな」

 





 午前十二時にして午後零時の鐘が鳴り響いてすぐ開始された聖殿騎士団によるジュンタの捜索。騎士と衛兵たちが軒並み動員された捜索により、ジュンタの存在は瞬く間にラグナアーツ全市民の知るところになった。
 
 かつて誤解の末に張られた指名手配とは違い、今回は捜索願いとしての懸賞金もかけられ、その上シストラバス家の騎士団。これは余人の知らぬことだが、サネアツのにゃんにゃんネットワークも駆使された今、ジュンタ発見の報が入るのは時間の問題だと思われていた。

 だが諸人の予想に反して、捜索開始から六時間。空が夕暮れに染まった現在でもまだジュンタは見つかっていない。

「歯がゆいものだ。もう少しラグナアーツに住む猫たちの協力が得られさせすれば、ジュンタ発見まで時間がかからなかっただろうに」

 白い毛並みを夕暮れに赤く染めて、サネアツはとある教会の屋根の上からラグナアーツの様子を見下ろしていた。

 多くの騎士や衛兵たちが、ジュンタの似顔絵がかかれた捜索願を手に懸命な捜索を続けている。使徒からの勅命とあって、一人の少年を捜すだけの任務でありながら皆の顔は真剣そのもの。

 それでも見つからないのだから、攫ったと思われるベアル教をあっぱれと讃える他ない。
 サネアツは駆け寄ってくる足音を捉えつつ、実際に見たことのない、噂だけを知るディスバリエ・クインシュに挑戦も同義の賞賛を向けた。

「総帥」

「トルネオか。どうだ? 聖地の『五賢聖』とのアポイントは取れそうか?」

 隣までやってきたシャム猫――にゃんにゃんネットワーク総帥であるサネアツの右腕トルネオは、申し訳なさそうに首を横に振る。

「申し訳ありません。聖地を牛耳る『五賢聖』は、噂通りのプライドだけが高い古い猫貴族の様で。今やグラスベルト王国全てに情報網を広げたにゃんにゃんネットワークに対しても頑なに協力を約束せず、会うことすらはね除ける始末です」

「旧き体制に固執する愚か者どもめ。一体いつまで『界の言葉』たるルルグンの生きた時代と同じだと思っているのだ。今はフェリシィール・ティンク――いや、ジュンタの生きる時代だというのに」

 にゃんにゃんネットワークの誇るべき点は、猫という人が注意もしないであろう小動物が有する情報を、人に伝えることができるということにある。サネアツという猫語と人語を介す存在がいなければできない芸当ではあったが、それはまさに伝家の宝刀だった。

 これがランカの街かグラスベルト王国であったなら、サネアツとにゃんにゃんネットワークは誰にも負けない情報能力を発揮したことだろう。が、場所が未だ勢力を掌握していない聖地ラグナアーツであったことが今回は災いした。

 猫とは縄張り意識が強い動物であり、飼い猫、野良猫区別なく、街などには大抵君臨するボス猫が存在する。ラグナアーツの場合は『五賢聖』なる高貴を自称する猫たちが治めており、彼らの協力なくして聖地での完璧な情報収集はできない。

 無論、聖地にやってきた当初からアポイントを求めていたものの、未だ返答は芳しくない。一刻を争う事件が起きた今、悠長に考えていた過去の自分が恨めしい。

「総帥。やはりここは戦争を仕掛けるしか」

「ああ、でなければこの地は掌握できないだろうな。しかしそれは今行うことはできない。今戦争を仕掛けでもしたら、それこそ情報網は機能しなくなってしまう。
 仕方がない。俺とトルネオ、それと『シストラバス家の騎士猫団』の皆と、協力してくれる猫たちだけでジュンタの捜索は続行するしかないな」

「総帥の飼い主様……大丈夫ですかね?」

「当然だ。心配はないだろう。ベアル教がジュンタを攫った理由は、十中八九ジュンタがドラゴンの使徒であるからだ。むしろ心配すべきは、今頃ジュンタが改造人間になっていないかだな。こう、ドリルがギューンな感じに」

 言ってから、自分でも下手な冗談だったと思い、サネアツは返答の言葉を探すトルネオに笑みを向ける。

「冗談だ。とにかく、手当たり次第に探すとしよう。悪の秘密結社は夜に行動すると決まっているからな。ここからが正念場だぞ」

「了解しました」

 力強く頷くトルネオに頷き返し、二匹は並んで教会の屋根を下りようとする。

 屋根の端へと移動して壁伝いに出っ張った部分を使わないと、さすがにサネアツでは下りられない。この教会に登りやすい部分はそこであり、だからそこにいたリトは、恐らく自分に用事があったのだろう。

「あ、ボス。ちょうどいいところに!」

「リト。何か進展があったのか?」

「はいっす! 直接ボスの飼い主を見つけたわけじゃないっすけど、気になる証言をする猫を見つけまして」

「気になる証言? そちらの美しいご令嬢からか?」

 はしゃぐ灰色の毛並みの猫は、その隣に橙色の毛並みが美しい猫を連れていた。
 サネアツが視線を向けると緊張したように身を縮ませる。初めて見る、恐らくラグナアーツの人間に飼われている猫だ。

「ささ、恥ずかしながらないで、さっきオレに話してくれたことをボスにも話して欲してみるっすよ!」

「で、でも、私の気のせいかも知れませんし……」

 チラリチラリと雌猫らしき証言者は、怯えるようにトルネオを見やる。

 トルネオは威風堂々と話を聞くために控えているだけだが、彼はかつて『暴君』と呼ばれた猫である。真剣になればなるほどに、素人猫では威圧感を感じよう。

「総帥。自分は少し向こうに行っていましょう」

「すまないな」

「いえ、お気にならさず」

 これまで幾度となく同じような経験があったため、トルネオは素早く雌猫の視線に気付き、その場を後にする。その背中がちょっと傷ついているのは決して見間違いではないだろう。更正したあとの彼は、威圧感たっぷりなのがちょっとコンプレックスなようだ。

 トルネオの悩みはまた機会を改めて乗るとして、今はジュンタのことが優先――サネアツは恐い顔の猫がいなくなったことに緊張を少し解いた雌猫に、改めて質問をぶつける。

「では、話していただこうか。なに、どんな些細なことだとしても構わない。我々にゃんにゃんネットワークは猫たちの愛を繋げるのだから」

「は、はい、それじゃあ。あの、昨日のお昼のことなんですけど……」

 この情報が、行方知れずのジュンタに繋がることを願いつつ。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 リオンがクーからジュンタのことについて話があるからといって呼び出されたのは日が沈んだ直後のことだった。

 現在ゴッゾは騎士全員を連れて捜索に。ユースとサネアツは独自に動いているよう。メイドたちだけが屋敷に残っている現状、リオンとて一日じっとなどできず探し回っていたわけだが、クーから呼び出されたのなら是非もなかった。

(一日探してもジュンタは見つかりませんでしたし、何かクーに見つける方法があるとしたらそれを行った方がいいに決まってます。それに一日屋敷で塞ぎ込んでいたクーのことも気になります)

 一日中走り回って少し憔悴した顔でリオンは、呼び出し場所である自然が多く残る庭園へと到着した。

 屋敷の裏手側に広がる広大な森は、高級住宅街における公園のような場所だった。とはいえ、規模も木々の量も普通の公園とは桁違いだ。大きめの水路を挟んで長い年月を刻んだ大樹がそびえており、外から中の様子はまったく見えない。ただ、道幅はかなりあり、大立ち回りをしても問題はない。

(ん? 私ったら、どうしてクーとの話だというのに、こんな戦場分析みたいなことを考えてますの?)

 ふいに頭を虫の知らせのように過ぎったことに、他でもないリオン自身が困惑する。
 自分の実力と才能を自負しているリオンは、自分の直感が未来予知のように危機に対して過敏であることは理解していた。だからこそ、解せない。

 会うのはクーだ。仲間だ。友達だ。

 人気のない場所を選んだのだって、話しにくい内緒話をするために違いないし、どうして危機感を抱かなければならないのか?

 失笑するリオンは過ぎった自分の直感に頓着せず、クーを求めて底辺へと足を踏み入れた。

 耳には木々のざわめきと流れる水の音。
 水を境界線として外を木々で囲んだそこは、一種の結界のように感じられた。踏み込んだ瞬間外と隔絶されたような気がした。
 
 いや、それは果たして本当に雰囲気から思っただけか?

「これは……正真正銘の結界ですわね」

 庭園に人の姿はない。自分と、そして庭園の中央に小さな池のようになった水路の隣で待つ白い少女以外は、誰もいない。

「…………」

 リオンはゆっくりと自分を見つめるクーへと近づき、その様子をつぶさに観察した。

 いつもどおりの姿。ただ、いつもと違ったのはその表情と纏う空気。
 決意を固めてぎゅっと閉じられた唇。譲れぬもののために燃える炎を秘めた瞳。射抜かれたリオンがはめた指輪である剣に手を伸ばしてしまうほどに、それは戦意の証明だった。

「リオンさん。突然お呼び出てしてしまい、申し訳ありませんでした」

「……一体何の用ですの? そのように戦意を剥き出しにして」

 小さな池を中心にぽっかり空いた空間に足を踏み込んだ位置から、リオンはクーへと一歩も近付かない。仲間であり友に対する距離としては遠すぎる場所から動けないことが、何より先の直感の重要さを今更ながら認識させる。

 もはや疑うまでもなく明確にリオンは知る。――クーは、今ここで戦おうとしているのだと。

「さすがですね、リオンさん。どんなときでも戦闘態勢に移れる心構えには、素直に尊敬を向けてしまいます」

 クーのいつもと変わらぬ口調が、彼女が狂っているわけではなく、自分の意志でそうしていることを示していた。

「私は敬意を示して、リオンさんに挑ませてもらいます。手加減は必要ありません。手加減はしません」

「……どういうつもりですの? ジュンタが失踪中だといいますのに、私と戦おうだなんて。もちろん深い理由あってのことですのよね?」

「はい。理由はあります。ご主人様を無事に助け出すためには、こうしなければいけないんです。他でもない私が、そう決めました。
 だから謝りません。嘆きもしません。私にとって決して譲れないものはご主人様で、リオンさんにとって決して譲れないものが竜滅姫であることと知っていますから」

「クー、あなた……」

 迷いのない眼差しがリオンに剣を握らせる。
 大体の概要を読み解くことができたリオンは、これが避けられない戦いなのだと受け入れた。

 騎士の姫が剣をとったことを確かめ、クーもまた自分の力である魔力を練り上げる。

 ……もしかしたら、避けられないこの激突は、あのときにはもう決まっていたのかも知れない。

 リオンがジュンタよりも竜滅姫であることを選んだあのときに。
 クーがリオンよりも主人が幸せであることを選んだあのときに。

「一番大切なご主人様のためならば私は躊躇いません。だからリオンさん―― 死んでください」

 あなたはご主人様を不幸にすると、クーに告げられたあの瞬間には、もう…………。









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