第九話  最強の刺客


 

 ジュンタ・サクラの失踪からすでに丸一日が経過していた。

 使徒ズィールにアーファリム大神殿へと招かれ、見送った巫女オーケンリッターが去っていく姿を見たのを最後に消息を絶っている。一日待ってはみたがまったく手がかりはなく、ジュンタもまた帰ってこない。

 その辺りが限界だった。これ以上待っているだけでいるのは。

御魂から肉体を描く正円

 峻厳なる態度で儀式に赴くクーの口から、彼女の最も大事な『縁』を紡ぐ聖句は紡がれる。

彼の地より縁を紡ぎ 結い直す螺旋の糸

 東神居の屋上はフェリシィールの部屋からのみ行くことができる場所。神居の塔の屋上は、アーファリム大神殿が蓄えた魔力を行使することができる特殊な儀式場となっていた。

運命を招く我が存在を鍵とし

 儀式場の中央に座り、白い光を祈りによって生じさせるのはクーヴェルシェン・リアーシラミリィ――使徒ジュンタ・サクラの巫女。彼女が紡ぐのは召喚の魔法。

因果により結ばれし御身を招き寄せたもう

 たった一人の主を招こうとするクーの様子に、あまりにも唐突すぎる報を聞いた際、そのまま気を失ったときの焦燥はない。自分と主との間の縁だけを信じて、真摯に祈る姿だけがそこにはある。

御身の巫女とし選ばれた者が希う

[召喚魔法]に必要な集中力を、クーは唯一無二の主に対する想いだけで研ぎ澄ませていた。この魔法は縁深いたった一人だけを喚び出す魔法。クーが喚び出すのは無論、主であるジュンタ。

 行方不明の少年はクーの求めによって帰還しよう――儀式を見守る誰もが迸る白い輝きを見て確信し、

此処に誘わん 我が唯一の聖猊下を

 瞬いた光が太陽の光に溶け消えたあと、そこにジュンタの姿はなかった。

 


 

[召喚魔法]はあらゆる障害を突破して対象を召喚する恐るべき魔法だ。ただ、難点として非常に難しいことがあげられる。扱いが難しい上に、その失敗は召喚対象を死に至らしめることさえある。よって術者の力量が確かでなければ扱うことができず、だからもしも行方不明になったジュンタの近くに複数名がいたら危険だと、使用まで一日待ったのだ。

 しかし我慢の限界に達し、何より行使者であるクーが絶対の自信を見せたために[召喚魔法]は執り行われた。召喚師として名高いルドール老の監修の下、神居の塔にある最高位の儀式場にてつつがなく執り行われた。

 結果をいえば、クーは完璧に魔法を唱え終えた。その上でジュンタを召喚することができなかったのなら、それは決してクーを責めるべきではなかった。

「クーヴェルシェンは[召喚魔法]を完璧に完遂させました。召喚対象であらせられるジュンタ様はあらゆる障害を突破してクーヴェルシェンめの許に召喚されるはず。しかしそれが叶わなかったのなら、問題はクーヴェルシェンではなくジュンタ様の方にあるのでしょう」

 アーファリム大神殿の魔力だけを消費させただけで終わった儀式のあと、場所をフェリシィールの部屋に移し、その中で儀式に参列していた皆にルドールが語る。

「ですが[召喚魔法]の特性を鑑みれば、ジュンタ様がどのような状況下にあっても召喚はなされるはず。正味の処、クーヴェルシェン自身が召喚を拒絶しなかったというなら、尋常ではない何かの妨害を入れられたとしか儂からは言えませぬ」

[召喚魔法]を含め、魔法について一番理解しているのはルドールだ。そんな彼でも皆目見当がつかない魔法の失敗は、皆の顔に影を落とした。

「ご主人様……」

 儀式の執行者であるクーなどは顔面蒼白になっている。儀式中の凛とした姿はどこへ行ったのか、小さな肩を震わせて両手を組む姿は酷く危うい、今にも崩れそうな硝子細工のようだ。

 クーにとってジュンタは主以上の存在。依存といっても間違いではないのだから、ジュンタを欠いたクーが情緒不安定になるのは仕方がない。

「クーちゃん。大丈夫ですよ。ジュンタさんを召喚することこそできませんでしたが、あなたが未だジュンタさんの巫女であることには変わりないのですから。それが何より、彼がまだ生きている証拠なのです」

「はい……フェリシィール様……」

 ソファーに座るクーの隣に腰掛けて、フェリシィールが優しく彼女の肩を抱き寄せた。
 慈しむ眼差しはクーとジュンタ両方を心の底から心配しており、またその言葉は真実だった。

 当初失踪したジュンタに対し、考えられた理由は二つ。

 一つは誘拐。もう一つは殺害。両者ともあって欲しくないことだが、よりあって欲しくないことが後者なのはいうまでもない。だが、姿が見えない以上は人知れず殺されている可能性も覚悟しなければいけなかった。

 しかしこれを覆したのがジュンタの巫女であるクーの存在である。

 使徒の従者である巫女の役割で一番大きいものは、神からのオラクルを使徒に伝えることに他ならない。巫女であるなら感覚としてオラクルは絶対にわかるものであり、オラクルがわかる以上、それは挑むべき主がまだ死んでいないことを証明していた。

 救いといえばこれだけが救い。人知れずジュンタが消えた今でもまだ、クーが以前のように殻に閉じこもっていない理由であった。

「巫女ルドール。アーファリム大神殿の中でジュンタ君を見た騎士は誰もいらっしゃらなかったのですか?」

 フェリシィールが落ち込むクーを慰める傍ら、部屋にいる五人と一匹の内、ゴッゾがルドールへと質問した。

「ええ。騎士堂の皆にすぐ聞いて回りましたが、誰も見ていないとのことです」

「それは入り口の門番をしている騎士も?」

「見ていないと。恐らくアーファリム大神殿を出てから、シストラバス邸への帰り道の間にジュンタ様が失踪したわけではないのでしょうな。可能性としては、神殿内で失踪した可能性の方が高いでしょう」

「そうですか。警備が万全の神殿に賊が侵入するとは思えませんが、だからこそ盲点になったとも考えられる」

「おい、リオン。大丈夫か?」

 比較的冷静な大人二人の話に耳を傾けていると、ふいに耳元でサネアツが声を発した。

 クーが座るのとは別のソファーに腰掛けさせてもらっていたリオンは、初めて聞くサネアツの心配するような声色を鼻で笑ってやろうと思って、だけど失敗した。たとえそれが一笑であろうと、今は笑みを作れそうもなかった。

「大丈夫ですわ。少なくとも、クーほど落ち込んでいません」

「比べる対象が悪すぎる。安心などできないな」

 返す言葉にも元気が出ない。自分でも驚くほどに、リオンはジュンタが失踪してから気が気でなかった。

 ジュンタなどには感情が前に出ているなどと言われるが、そんなことはないとリオンは自分では思っていた。幼い頃より騎士として鍛錬を積んできたため、緊急時に対しては感情と切り離して物事を考えることができるのだ。

 しかしジュンタの失踪――それが意味するベアル教暗躍の気配を前にして、リオンの心はざわめき立っていた。冷静に考えることを邪魔するほどに、不安が胸を焦がす。

 確かにクーがいるのだからジュンタは死んではいない。だが、五体満足だとは誰も言えないのだ。失踪した、いや、誘拐された彼がどんな目にあっているか。ベアル教が過去行ってきた非道の数々を考えると、どうしようもなく指先が震えた。

(私、弱くなってしまいましたのね)

 サネアツの心配そうな視線にも気付かないほどにリオンはジュンタを心配して、大事な指輪に触れる。騎士の魂たる剣の鞘ともいえる金属の感触が、さざ波たった心を僅かに癒してくれた。

「とにかく、全力をもってジュンタさんを捜索します。皆さんも狙われる可能性がありますので、出来うる限り人が多くいる場所で待機していて下さい」

 フェリシィールの言葉をもって、この場は解散となる。

「ジュンタ。今どこにいるかは分かりませんが――

 サネアツを肩に乗せつつ立ち上がったリオンは、何もすることができない自分に拳を握り、下唇を噛んだ。そうして不安を押し殺して、代わりに怒りと決意を胸の中で燃やす。

――必ず、私が見つけ出して差し上げましてよ」

 消えることのない不死鳥の炎は、行方の知れない少年を求め、激しく燃えさかろうとしていた。


 

 

       ◇◆◇

 

 


 ジュンタが眼を覚ましたのは、自分の身体を包もうとする白い輝きを感じたからだった。

 耳に声なき祈りが木霊する。過去二度体験したそれは、おのが巫女からの必死の求め。[召喚魔法]を行使され、喚び出される直前の感覚だった。

 しかし、あらゆる障害を突破するはずの縁は、紡がれることなくぷつりと途切れる――ジュンタが見たのは、白い輝きに触れるだけで断ち切った、気絶する直前に名を知った水色の髪の女だった。

「危ないところでした。[召喚魔法]の存在をすっかり忘れていましたわ。そろそろ眼を覚ます頃だと思って様子を見に来ていなかったら、計画が台無しになるところでした」

「……ディスバリエ・クインシュ」

 窓のない真っ暗闇に、頼りないろうそくの灯りがチロチロと燃えている。

 四方を分厚い石で囲まれた、しかし貴賓をもてなすのに使われるような豪奢な部屋の中、人工の灯りを受け、幽霊のように凍える白い立ち姿を見せているのはディスバリエ・クインシュ。ジュンタをこの場所に攫った、『狂賢者』と呼ばれるベアル教の創立者メンバーの一人であった。

 彼女は名前を覚えられていたことが喜ばしいとでもいうかのように、これだけは可憐な微笑みをのぞかせた。

「お加減はどうでしょう? どこか身体の調子は悪くありませんか?」

「頭がガンガンする。身体が痛い。吐き気がする」

「ええ、そうでしょうね。何せ丸一日の間ここで眠っていたのですから。魔力を吸い取られるという体験は今までになかったでしょうから、ぐっすりとよく眠っておられました」

「かつてないほどに最悪な目覚めだけどな。攫われた先での目覚めが、こんなに最悪だとは思ってなかった」

 見下ろしてくるディスバリエの開かれていない瞳を睨みながら、ジュンタは身体を揺する。

 身体に異常は見あたらなかった。さらわれたというのに束縛の一つもされていない。けれども柔らかなベッドの上から見た部屋は、貴賓室であるが同時に牢獄であり、入り口以外に出入りが可能な場所は見あたらない。

「まさか、お前があの『狂賢者』だったなんてな」

「意外でしたか?」

「いや、特徴は聞いてたからな。もしかしたらとは思ってたけど」

 ジュンタは一度だけ、過去ディスバリエと会ったことがあった。そのときは彼女が『狂賢者』とは知らなかったが、不思議な人だとは感じていた。こうして彼女がディスバリエだと言われても大した驚きはない。代わりに焦燥だけがある。

(しまったな。まさか神居の中で襲われるなんて思ってもみなかった)

 ディスバリエを警戒しながら、ジュンタは内心で自分が立たされた現状の悪さを理解する。

(誘拐された。しかも部屋から出られない状態で、ここがどこかもわからない。最悪だ。どうする?)

 悔やんでもどうしようもない失態は受け入れて、これからどうしようかとディスバリエを観察する。笑みを浮かべた彼女が一体どんな思惑を抱いているかは読みとれない。しかし、どうやらすぐにどうこうされるというわけではないようだった。

「……俺をどうするつもりだ?」

 お決まりな、だけどこれしかない文句をジュンタは口にする。

「時間が経てばわかりますわ。あなたはそれまでここでゆっくりしていてくださいませ」

 ディスバリエからの返答は、お決まりの文句の中でも最悪の部類に入るものだった。

「そのように困った顔をしないでください。ご安心を。あたくしたちにはあなたを傷つけるつもりはありませんから。それどころか、最大の歓迎をもってもてなしたいと思っております」

「それを信じろって? お前らは俺がどんな立場にいるのか、大体見当がついてるんだろ? 何せ、ラバス村の事件の主犯格が手を貸してるんだから」

「つまり、あなたがドラゴンの使徒であるという秘密ですね。ええ、存じていますとも。それこそ、あなたをこうしてここにお招きした理由なのですよ。ジュンタ・サクラ聖猊下」

 予想通り、ディスバリエたちベアル教はジュンタが使徒であることを知っていた。
 ラバス村での『覚醒』をどこかから目ていただろうから、気付かれているとは思っていたが、できれば知られていない方が嬉しかった。

 というのも、ベアル教にとって使徒は不倶戴天の天敵だからだ。これで自分の危険度が大幅に増加した。いや、どうやら攫われた理由も使徒にあるようなので、知られていなかったらそもそも誘拐されなかったか。

「どうやら思い違いをされておられるようですね。ふふっ、あたくしたちは本当にあなたを歓迎しようと思っているのですよ。だってあなたは、他でもないベアル教の崇める神そのものなのですから。使徒の本質は神獣としての姿にあるといいます。でしたらあなたは敵である使徒である前に、我々が欲し求めた王です。
 誘拐されたと思われるのは心外です。我らはあなた大事に、迎えにはせ参じたのですから」

「俺がドラゴンでお前らの王っていうなら、俺のいうことを聞いてくれないか? 俺をここから出してくれ」

「それはできません。どうしてみすみす我が神を危険な相手のところへ戻せますか」

「だろうな。結局、俺を利用するために連れてきたのには変わりない。それは誘拐っていうんだよ、ディスバリエ・クインシュ」

「なんとご無体なことを。これでは自ら犠牲となってくれた、同士ウェイトン・アリゲイが救われませんわ」

 眉をハの字にしたディスバリエは、少しだけ真剣な顔をして話し始めた。

「誤解なきよう説明をさせていただきます。よろしいですか? 聖猊下はそのように我々を邪険にされ、異端の烙印を押されていますが、それは大きな誤りなのです。我々は犯罪集団ではありません。世界を憂い、人を救おうと決めた者たちの集まりなのです」

「今までに自分のしてきたことを思い出してから、その言葉は言ってくれ」

「では逆にお尋ねしますが、ベアル教がどのような罪を犯したというのですか?」

「そんなのは、たくさんある」

 ジュンタの脳裏にこれまでベアル教の異端導師と呼ばれたウェイトン・アリゲイが行った非道な行為の数々が思い浮かぶ。

「ウェイトン。あいつがしてきたことは間違いなく犯罪行為だ。人だって何人も、あんな風に」

 目の前で変貌した人たちの人間としての断末魔の絶叫が、今も耳にこびりついてくる。今反転の闇と戦っているジュンタは、彼らがどんなに苦しかったかよくわかった。

「ウェイトン・アリゲイがしてきたことは罪と、あなたはおっしゃられるのですね」

 ディスバリエは悲しそうな顔をして、首を横に振った。

「それは見方の問題なのですよ。人ならば、ベアル教よりもずっと聖神教の方が殺しています。聖戦と称して歴代の使徒たちが行った虐殺に比べれば、ウェイトンのものなどかわいいものです。
 この世界は悲しいことですが、人が人を殺すことが容認されています。騎士が誇りをもって敵を殺すのと同じように、ウェイトンもまた自らの誇りに従って行動をしたまでです。それが罪だと言ったのはウェイトンでも被害者でもありません。聖神教なのです」

 ジュンタとディスバリエの間には価値観の違いがあった。人を殺すことは禁忌ではない。そこに仕方のない事情さえあれば、人を殺しても罪には問われない。ウェイトンの犯した殺人が罪に問われているのは、それは彼が異端の宗教に属していたからだと。

 人をただ殺しただけでは罪にはならない。この世界が異世界であることを強く自覚する瞬間だった。

「人が罪人を決めるのではありませんわ。世界が罪人を選ぶのでもありません。罪人を選択するのは、いつも世界を支配する者。使徒たちなのです」

「……だから、お前たちは使徒を憎むのか?」

「憎む? ふふっ、いいえ。我々は使徒を憎んではいません。我々の前に立ちふさがる邪魔者とは思いますが、憎いとは思ったことは一度もございませんわ。なぜなら形こそ違えど、彼らもまた同じ志を抱いた同志であるからです。世界を救いたい。人を救いたい。そう思う心に違いはありません」

 たとえ人の死への価値観は違えど、その祈りだけは一緒だと。一瞬でもディスバリエの言葉を正しいものと納得しそうだった自分を叱咤して、ジュンタは強く自分を保った。

「それでも、俺個人があいつのことは許せないと思ったんだ。あいつの言葉が、表情が、どうしようもなくむかついたんだよ」

「個人の好みを言われてしまわれますと、否定する言葉がありませんね。……実際、ウェイトンがあたくしと意志を並べて行動したのは、ラバス村での一件だけでした。彼はどちらかといえば、ベアル教『純血派』の導師でしたから。ベアル教『改革派』に身を置くあたくしとは、多少差異が生じるのは仕方がないことでしょう」

 クスリ。と、少しだけいたずらっ子のような笑みを浮かべて、ディスバリエはそっと手を開く。

「あなたはあたくしの王。あなたがウェイトン・アリゲイを必要ないとおっしゃられるのでしたら、あたくしもまたそれに倣いましょう。ちょうどよくもあります。彼一人に罪全てを背負ってもらいましょう」

「……何が言いたい?」

「ウェイトン・アリゲイはベアル教『純血派』の導師であり、我らベアル教『改革派』の同士ではないということです。さぁ、これで何の問題もなくなりました。聖猊下。心を楽にして、お休みくださいませ」

 恭しく頭を下げるディスバリエの言いたいことがジュンタには理解できない。ウェイトンを除外することで一体何の問題がなくなるのか。彼が罪を犯したことに変わりもなければ、ディスバリエがベアル教『改革派』の一員であることにも変わりがないのに……

(……いや、罪を切り離す? ウェイトンと共に罪を切り離せば、何の問題もない……?)

 ジュンタは自分が何か忘れていると思った。それが何であるか、最近のことから思い出していくことで思い出す。

 ベアル教内にあった二つの派閥。『改革派』のトップである正体不明の盟主。それらのことを説明してくれたスイカの補足。聖神教へと攻撃をしていたのはベアル教『純血派』であり、『改革派』については何もわかっていないという説明。

「ベアル教『改革派』自体は、まだ、何もしていない……?」

「そう。ベアル教に対する悪名は、初代の盟主と意味のない破壊行動を繰り返した『純血派』にあります。我々『改革派』は何もしていません。誰に迷惑をかけたわけでもなく、誰に知られて罪に問われるようなことはしていないのですよ」

 そう言われてみれば、フェリシィールが『改革派』を問題視し始めたのはディスバリエが現れたからだった。それまでは大した警戒を払っていなかったように思える。それは『改革派』が、積極的に捕まえなければならないような罪を犯していないからではないのか?

「『改革派』とは読んで名の通り、それまでのベアル教の在り方から改革した一派になります。聖神教への破壊活動、使徒の名を辱める行い、全てはその意に従わないことです。ベアル教の名こそ便宜上使っていますが、その実態はベアル教と世間で考えられているものとはまったく異なるものなのです」

 フェリシィールは『封印の地』にいる魔獣全てを駆逐すると言った。ベアル教は危険だと言った。けれど、一言たりとも滅ぼさないといけないとは言っていない。心の中では思っていても、声には出さない。なぜなら、今の段階では危険だから捕まえるだけであって、罪を犯したから捕まえるのではないからだ。

 この些細な齟齬にフェリシィールは気付いていた。気付いて、現状の最善策を講じた。

「いや、でも違う。たとえ『改革派』として何の犯罪に走っていないとしても、ベアル教の名を冠している以上罪には問われる」

「この世界において、聖神教以外の宗教全ては異端の烙印を押されてしまいます。同じ思いを抱いているというのに、あまりにもそれは悲しいことではありませんか。聖猊下。あなたもまた同じなのですか? 同じ神を崇めないというだけで、滅されるべき異端とおっしゃられるのですか?」

「それは……」

 ベアル教の実態を詳しく知る前、自分はどう思っていたか。ただ異端の宗教というだけで迫害される彼らに、少し同情の気持ちがあったのではなかったか。少なくとも、それだけで罪人とは思えない。

「だけど、ディスバリエ。お前はラバス村を滅ぼしうる引き金を引いた。トリシャさんを殺して、『封印の地』を開こうとしたんだ。それは、俺にとっては許せないことだ」

 崩されていく壁を感じたジュンタは、そう強くディスバリエがウェイトンと共に起こした悪行を突きつける。たとえウェイトンを除名したとしても、それだけでディスバリエの行った全てが消えるわけではない。

「そうだ。お前は昔のベアル教の時代に、子供たちをさらってきて酷い実験のモルモットにした。それは罪だ。お前がいるから、今『改革派』は異端の烙印の押されてるんだよ」

「…………」

 突きつける言葉に力をこめ、眼差しを強く絞る。
 これにはディスバリエは閉口し、心底困ったように眉を顰めた。

「……『封印の地』は存在していないものと扱われているため、ラバス村の一件は表沙汰にはできません。『狂賢者』の悪行もまた、噂だけが表を行き交っているだけで確たる証拠は見つかっていない……といっても意味はないのでしょうね。先も申し上げたとおり、感情で否定されてしまえばあたくしには返す言葉がないのですから」

 ディスバリエはベッドに近づくと、

「ですがあたくしも、ウェイトン・アリゲイも、心底からあなた相手でしたら崇めていいと思っているのですよ」

 そっと愛おしげに、自分の手の甲でジュンタの頬を撫でた。

「もしもあなたが自分の正体をもっと早くウェイトンに告げていたら、あなたのいう許せないことも起こることはなかったでしょう。ウェイトンはあなたに忠実で、頼れる僕となり、あなたのためにあらゆる障害と闘ったことでしょう。過程はどうであれ、彼が求めた結果は、誰にも否定できない正義だったのですから」

 必要ない、と口にはしておきながら、ディスバリエはウェイトンに仲間意識を覚えていたのか、そんなことを口にする。この世では起こらなかったもしもの話。ジュンタは『封印の地』に消えていくウェイトンの姿に確かに見た。心の底から世界を救いたいと思う、彼の心を。

 だけど、所詮それはもしもの話。今ウェイトンはこの世にいない。もう、声は届かない。

「……なら、ディスバリエ。今俺がお前を求めたら、お前は俺が信じるものと同じものを信じてくれるのか? フェリシィールさんが危惧するようなことを一切せず、俺の頼れる相手になってくれるのか?」

 ジュンタは目と鼻の先に迫ったディスバリエの顔を見て、頬を撫でる手へと自分の手を近付ける。

 しかし触れるその前に、手はすっと引かれた。

「もう、あたくしも遅いのですよ。あたくしはもうとうの昔に戻れない場所まで来てしまいました。あなたの言葉を嬉しく思う自分はいても、進む道も信じるものも変えることはできません」

 そう、全てはもしもの話。それを自身が選んだ以上、結局は意味のない夢物語。

 ウェイトン・アリゲイがキメラとなって封印されたように、
『狂賢者』ディスバリエ・クインシュは聖神教にとっての敵なのだから。

「一つ、あなたにお教えしておきましょう。『改革派』の実態は、盟主様を核として集った、相互扶助団体のようなもの。過程を同じくした、望む結果の違う者たちの集合体。それが、あたくしたち」

 ディスバリエはニコリと笑って、その場に膝をついて祈りを捧げる。神を前にした敬虔なる信者のように、その目から透明な涙を流しながら。

「御身が世界の破滅を願わぬ限り、御身はあたくしの崇める救世の王。
 聖なるかな。聖なるかな。聖なるかな。今あなたがあたくしの前にいてくれるだけで、あたくしはこんなにも嬉しい」

 敵である『狂賢者』の泣く姿を見て、ジュンタは言葉もかけられず、動くこともできなかった。

 一体どれだけの時間ディスバリエは祈りを捧げていたのか、気が付けば彼女は立ち上がって、

「今はお休み下さい、聖猊下。あなたがこの世界からいなくなってしまうことが、あたくしには一番辛いのですから。あなたの奴隷たるあたくしが、王の前にはびこる障害全てを排除してみせましょう。雄々しく気ままに、思うがままに歩けるように。それまでしばしのお待ちを」

 ふんわりと幸せそうに笑って立ち去った。

「ディスバリエ。俺は一度も、誰かが引いた絨毯の上を歩きたいなんて思ったことないぞ」

「ええ。あたくしは歩きやすように道ばたの石ころを取り除くだけです。ご安心下さい。すでに最高の刺客は、万事抜かりなく用意できておりますので」

 ガチャリと、逃れることの叶わない鍵が締まる音を、聞いた気がした。






      ◇◆◇


 

 

 コム・オーケンリッターの許に作戦の執行にあたり欠かせない戦力である二人が到着したのは、その日の夕暮れのことだった。

 どこか血の色に見える赤い空の下、合流地点とあらかじめ決めてあった場所へと足を運べば、すでに彼らは待っていた。存在感が気薄な小柄な男と、棺桶に似た巨大な木の箱を背負う大男だ。

「おやぁ? これはまた珍妙な格好のお仲間ですねぇ」

「しかし、できる、ぞ。この男」

 悪名高き二人の男は、揃って観察するような視線を向けてきた。
 あまりに有名すぎる我が身を隠すための漆黒の全身甲冑と、白い仮面をつけたオーケンリッターは、真っ向から二人の視線を受け流す。

「同士ディスバリエが言っていたのは貴様たちだな。ギルフォーデとボルギィ」

「いかにも。そちらは『狂賢者』様からの使者で間違いありませんねぇ?」

 人気のない裏道で堂々と合流を果たしたオーケンリッターとギルフォーデ、ボルギィは、ただ感覚として相手が今は仲間であることを知る。それは『狂賢者』と関わった者だけがわかる、臭いというべきものだった。

「なるほどなるほど。大した御方のようだ。残念ですねぇ。今回はあまり裏切り甲斐がなさそうです」

「己が目的のために手を組んでいるだけの集まりだ。裏切りなどに心は惑わさない。ただ、裏切りには死あるのみだ」

「おおっ、恐い恐い。では早速任務に取りかかるとしましょうかぁ」

「磨り潰す、のか……?」

 仮面からのぞくオーケンリッターの眼孔に、本気か演技か、身を竦めたギルフォーデに何も分かっていない様子のボルギィが尋ねる。

 そのやりとりはいつものことなのか、今にも背中の木の箱から得物を取り出そうとする相棒を、ギルフォーデは細い目をさらに細める笑顔で言い含める。

「いえいえ、あなたの出番はまだですよぉ。今回は私だけで事足りる――いえ、私だけでないとなせない事柄ですからねぇ。そうですよねぇ? 巫女オーケンリッター」

「その通りだ」

 姿を隠し、名乗っていないというのに、自然にギルフォーデは正体を看破した。あらかじめディスバリエから伝えられていたのか、あるいは伝言役のヤシューが話したか、最も秘されるべき事柄である自身の正体を、しかしもうオーケンリッターは頓着しなかった。

 どちらにしろ、自分がベアル教に荷担していることはすぐに聖神教に伝わることになる。此度の作戦が終わったとき、露見していないことはありえない。もっとも、作戦が成功した暁には聖神教は崩壊しているのだが。

「計画は今のところ予定通りに進んでいる。役割は分かっているな?」

「ええ、まずは簡単で、だけど大事な役割を果たせばよろしいのでしょう?」

 どうやらギルフォーデは人が驚く様、慌てふためく様、そして絶望する様を見るのが好きなようらしい。噂通りだ。表面上は恭しく接しているが、先の呼び名に何の反応も返せなかったことに内心で舌打ちでもしていることだろう。

 だがギルフォーデの口元には、加虐的な笑みが消えることなく浮かんでいた。

「あくまでも仕掛けだが、しくじるな」

「もちろんですとも。もうすぐ夜の訪れです。これから行って参りましょう。久しぶりの再会としては、なかなかによろしいシチュエーションですからねぇ。もっとも、あちらは私を覚えてはいないでしょうが」

 オーケンリッターが侮蔑の視線を、ボルギィが無関心の視線を向ける中、ギルフォーデが闇の中に身を溶け込ませる。それはオーケンリッターでも読みとりにくいほどの、卓越した気配の遮断だった。

 彼がここにいたことを証明するのは、今や闇から響く嘲笑のみ。

「会いに行きましょうかねぇ。最強の、最凶の、最狂の刺客へ」

 いつしか夕陽は暮れ、辺りは暗い夜の闇に染まっていた。


 

 

 夜の帳が落ちたことにより、ジュンタが失踪してから一日と半日が過ぎたことになる。いなくなったジュンタを待つクーの心には、重い重い影がのしかかっていた。

 相手の動きが予測できないため、フェリシィールは外出しないように言っていたが、シストラバス邸でじっと待ち続けることなどできなかった。周りが夕食へと出た隙を狙って、クーは外へとジュンタを探しに出ていた。

 夜になってから徐々に雲が出てきており、星明かりの届かぬ辺りは暗い。水の都であるラグナアーツは夏でもどこか涼しく感じるも、今日だけは鬱陶しいほどの熱気が傍にあるように感じられた。しかしそれに反して、心には冷たい風が吹いている。

「ご主人様。あなたは今、どこにいらっしゃるんですか……?」

 寂しいと心から表す呟きが、クーの口からもれる。

 一時間近く休みなしで走り続けた所為で、目の前が霞むほどに心臓が動いている。呼吸することが痛みに繋がる。不安から瞳は潤んで、耳は力なく垂れ下がっていた。どこの誰が見ても元気がないとわかるクーは、周りの人を心配させまいと元気に振る舞う力もなく、周りへと意識を傾ける余裕もなく、なおも曇天から星を探すように広い都を走り続けた。

「明日までなんて、待てません……!」

 明日になれば本格的に聖殿騎士団がジュンタの捜索にあたるという。総力をあげてだ。

 ジュンタが使徒であることを知らない使徒ズィールや使徒スイカの手前、一人の少年の捜索に全力を出すことはできなかったが、二日近くも行方知れずとなればもうなりふり構っていられない。最悪ジュンタが使徒である事実を公表してでも、探し出すとフェリシィールは言っていた。

 ジュンタを使徒と公表することは、あるいは彼を捕まえていると思しきベアル教に、彼に対する態度を悪化させることにもなりかねないが、このままではジリ貧だ。ゴッゾもまた招集したシストラバス家の騎士たちを総動員させると言っていた。要はベアル教がジュンタに何かをする前に探し出してしまえばいいのだが、もうこの時点で手遅れの可能性だってあるのだ。

「ベアル教……もしもご主人様を傷つけたりしていたら、絶対に許しません」

 不安の下に隠された憎悪を一瞬のぞかせて、クーは因縁深いベアル教に敵意を向ける。

 疲労を隠せなくなってきた身体に、大気が粘つくようにからみつく。
 隣にジュンタがいないだけで、輝く聖都は、光を失った廃墟のようにクーには見えた。

 人影も見えない夜の中を、クーは文字通り手探りで進んでいく。


「いやぁ、許さないときましたか。これは困りましたねぇ」


 闇に隠れて良くないものが紛れ込んできたのは、民家もまばらな区画に出たとき。 
 果たして、クーがのぞかせた敵意を至近距離から受け止めたのは、気配を感じさせずに背後に降り立った男だった。

「おっと、叫ばないでくださいよぉ。叫んだら後悔するのはあなたの方ですからねぇ。ええ、ついでに振り向くことも禁止事項にしておきましょうかぁ」

 どこからともなく背後に現れたのは、人を食ったようなしゃべり方をする男だった。真後ろから声がするというのに、やけに気配が気薄な男である。背後を取られるまで、まったくその存在に気付けなかった。

「……どちら様でしょうか?」

「おやぁ、私をお忘れですかぁ?」

 振り向かせず顔を見させないというのに、誰か分かれという方が無理な話。少なくとも、声だけで判別できる範囲の知り合いではないことだけはわかるが。

 クーは視線を人気のない道の先に集中させたまま、すぐにでも攻撃に移れる準備をしておく。背中に刃を当てられているわけでも、魔力が練られているわけでもないのだが、そのあまりの存在の気薄さと、鼻ではなく肌で感じる独特の臭いから、クーは最大限の警戒を向けていた。

「生憎と、どこかでお会いしたかも知れませんが覚えていません。どちら様でしょう?」

「いえいえ、お気になさらずとも結構ですともぉ。私は人に忘れ去られてしまうことには慣れっこですのでぇ。ここは互いの自己紹介などはせず、本題に入ることにしましょう」

「本題……ですか?」

「あなたも薄々気付いているでしょう? このタイミングで現れた私が、一体どこに身を置いている人間かぁ」

 何とか情報を引き出そうと慎重に侵入者に問い質すも、あくまでも会話の主導権は男に握られている。クーは男の質問に答えるしかなかった。

「あなたはベアル教……ご主人様を攫った人間ですか?」

「さて、どうでしょうかぁ? そうかも知れませんし、そうではないかも知れませんねぇ」

「……っ!」

 とぼける男に、クーは隠しきれない怒りを抱く。
 
 このタイミングで訪れた相手がジュンタをどうにかした相手でないはずがなく、だというのにあくまでもとぼけようとする男はクーにとって絶対に許してはいけない相手であった。
 しかし、同時にジュンタを手の内に握られているとなると、それは下手に刺激してもいけない相手ということにもなる。自分の身よりも、ジュンタの安全の方が大事なのだから。

「……何が目的ですか?」

「いえね、そろそろあなたが生まれた理由を果たして欲しいと、そう思っているのですよぉ。『竜の花嫁ドラゴンブーケ』」

 男はその質問を待っていたといわんばかりに、含み笑いをもらす。

「野蛮な感じに言ってしまえば、『ジュンタ・サクラを無事に返して欲しければ、こちらの要求に従いなさい』と、いうことですねぇ」

 やはりそうきたか――内心で予想していた本題を受けて、クーは一粒汗を流す。

 手の中に作った小さな氷の反射を使って、背後の男をクーは盗み見ていたが、それでも男が誰かはわからなかった。特徴的な細目の男だ。一度見ればはっきりと記憶に刻み込まれるため、やはり彼は記憶にほとんど残っていない、残そうとしなかった『竜の花嫁ドラゴンブーケ』時代の関係者なのだろう。

 経験からいえば、『竜の花嫁ドラゴンブーケ』誕生に関わった者にまともな人間などいなかった。
 一体何を要求されるか想像できず、しかし嫌な予感だけはヒシヒシと感じて、クーは覚悟だけ決めて不安を煽るよう黙る男に答えた。

「ご主人様の命には何ものも変えられません。わかりました。その取引が何であれ、お引き受けしましょう」

 巫女としてだけではなくクーヴェルシェン・リアーシラミリィとして、迷う余地のない返答を。

――クヒッ」

 しゃっくりのような、笑い声を我慢する声が聞こえた。

 背中から、ほんの僅かにあった男の気配が遠のく。
 クーは反射的に飛び退き、空中で反転して、男と向かい合う形で着地した。

 闇を背景に口を両手でおさえ、痙攣するように全身で歓喜の嗤いを我慢している細目の男。笑えば誰かを呼んでしまうから笑えない。けれどあまりにおかしくて仕方がない……今の男の状態を一言で言ってしまえば『酷く苦しそう』だった。

「クヒッ、ヒッ、キ、ヒハッ……!」

 クーはウェイトン・アリゲイを前にしても、ディスバリエ・クインシュを前にしても、この男を前にして感じるほどの嫌悪を感じたことはなかった。

 確かにベアル教の活動に従事する二人に恐怖こそ感じたが、嫌悪の類でいえば目の前で悶える男の方が遙かに上だった。あの二人はこの男ほど、人として醜い欲望を持ってはいない。紛れもなく彼こそは、人の絶望した姿に、悲哀なる姿に、同情すべき姿に、愉悦を感じる冒涜者。

「ヒ、ヒヒッ、ああ、なんてことでしょうねぇ。まさかこのようなことで、任務を失敗しかけようとは想像もしていませんでしたよぉ」

「それで、私は一体何をすればいいんでしょうか?」

 男の笑いがおさまるまで睨みつけていたクーは、嫌悪を隠しきれない声音で一番重要な部分を訊く。

「そうですねぇ。ええ、端的にお教えしましょうかねぇ。何、簡単なことです。愛に殉じて欲しいだけのこと。そう――ただ裏切って欲しいだけですよぉ」

 細目に隠れていた嗤う瞳を晒しながら、男は口にする。
 その大事な唯一の主を救う方法にして、誰の所為にすべきでもない、受け止めるべき悪意を。


「『狂賢者の落とし子』竜の花嫁ドラゴンブーケ』クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。早急に排除して下さい。ドラゴンにとって一番怖い、怖い――――天敵を」


 それは主への信仰に狂った最強の刺客を生み出す、祝福のない魔法の言葉だった。









 戻る / 進む

inserted by FC2 system