第十一話  それは決闘ではなくて


 

 大気中の水分が氷結し、鋭い氷の棘となる。

 切っ先は全て一箇所に向けられ、その数は一瞬では数えられないほど多い。
 一斉に殺到したときの回避の難しさの方は、見てすぐにリオンには理解できた。

 クーは煌めく白い輝きを後光として控えさせつつ、リオンへと最初にして最後の確認を行う。

「リオンさん。最初に無理を承知でお願いさせていただきます。『不死鳥聖典』を私に渡してはくれませんか?」

「……なるほど。そういうことでしたのね」

 『不死鳥聖典』を欲すクーに、リオンは薄々感づいていた予想を確信に変える。

 戦意も露わに人気のない場所に呼び出したクー。彼女が自分と戦うつもりでいたのは、その口振りからもはや明白だった。避けられないとそう感じてしまうほどに。だから、重要なのはその理由の方にあった。

 死んでください――そう宣告したクーは、竜滅姫であるリオンを殺すつもりだった。竜滅姫を竜滅姫たらしめている『不死鳥聖典』を奪うことによって、リオン・シストラバスの存在意義を殺し尽くすつもりなのだ。

「クー。あなた、ジュンタを攫った相手に取引を持ちかけられましたわね? 私から『不死鳥聖典』を奪うことと引き替えにジュンタを無事に引き渡す、と」

「はい。敵の要求に従うことが愚かだということはわかっています。ですが、それでもご主人様の身の安全には変えられません。お願いです。渡して下さい、リオンさん。『不死鳥聖典』を」

 クーは全てを理解してなお、そう頼み込んできていた。

 リオンが竜滅姫にかける想い、自分の行いがどういった意味であるか、そしてこのお願いに何の意味もないこと、全てを理解して。脅しに近い、攻性魔法を向けながら願っていることが、それを如実に表していた。
 
 リオンもまた、クーのことを理解して、それでもやはり答えるべきは決まっていた。

「お断りします。『不死鳥聖典』は渡せませんわ」

「そう、ですか……それでは仕方がありません」

「ええ、仕方がありませんわね」

 リオンは剣を、クーは魔法の棘の切っ先を、それぞれ向け合う。
 ジュンタは大事だ。だけど竜滅姫は止められない。最初から交渉の余地などなく、互いの最も譲れないものが相反してしまった今、戦う他に道はなかった。

 では、ここから先はただ戦うのみ――決意と決意を瞳で交わして、同じタイミングで二人は攻撃に出る。

 リオンめがけて殺到する氷の切っ先。
 クーめがけて肉薄する、真紅の剣閃。

 ここに再び、真紅の騎士と雪色の魔法使いは激突する。それぞれの決して譲れぬ、大切なもののために。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 『『狂賢者の落とし子』竜の花嫁ドラゴンブーケ』クーヴェルシェン・リアーシラミリィ。早急に排除して下さい。ドラゴンにとって一番怖い、怖い――――天敵を』

 昨夜やってきた男からの要求は、簡単に言ってしまえば言葉通りの意味だった。

 彼らベアル教が何を企んでいるのかはわからないが、ドラゴンを滅することのできる竜滅姫という存在が邪魔なのだろう。まったくいやらしいことに、その目的を果たすために彼は、クーの許容範囲限界の点を突いていた。

 これがリオンの抹殺などということになったら、クーはその時点で男を捕まえるなりして、にべもなく断っていたことだろう。リオンを殺すなど、クーにできようはずもなかった。

 クーはリオンという人がとても好きになっていた。格好良くて、綺麗で、高潔で、優しくて。いや、そんな理由よりも大事なことがある。それは主であるジュンタが彼女のことを好きだということ。

 リオンを殺すことはまたジュンタも深く傷つけることになる。それは決してあってはならないこと。ジュンタの安全確保のためとはいえ、それが絶対にしてはいけないことだということは、二人の姿を一番近くで見ていたクーにはよくわかった。

 だが、交換条件がリオンの抹殺ではなく、竜滅姫の抹殺となると話は別だった。

 竜滅姫は『不死鳥聖典』を用いて竜滅を行う。逆をいえば、『不死鳥聖典』がなければ竜滅姫はドラゴンを殺せない。つまり、リオンが片時も離さぬ『不死鳥聖典』さえ奪ってしまえば、事実上竜滅姫を抹殺したことと同義なのだ。

 リオンを殺さず、その千年の歴史を剥奪する――それはジュンタの安全に比してしまえば取るに足らないに優先順位であり、実行する許容範囲内にあった。

 さらにいえば、クーには前々から気が付いていたのだ。

 このままリオンが竜滅姫で在り続けたら、やがて来るのは避けようのない死なのだと。

 その死はリオンの死という意味だけはない。彼女を死なせないために、ジュンタが死ぬことも可能性をも意味している。竜滅姫という存在は優しい二人をいつか引き裂き、悲劇の結末に導く――その在り方の重要性を認識するとともに、クーにとっては敵視すべき代物であった。

(『不死鳥聖典』を奪うことは、リオンさんを否定することと同じ)

 悩んだ。

(だけど、ご主人様が殺されるなんてこと、絶対にダメです)

 返答までの僅かな時間。長く長く感じたその時間、クーは悩んだ。

(結果、私は許されない咎人になるとしても、私は……)

 悩んで、結論は結局それだった。

(私は、それでもお二人に、ずっと)

 そうしてクーは、リオン・シストラバスを殺そうと思った。




 

 数多降り注ぐ氷の雨を潜り抜け、クーへと肉薄したリオンは剣を振り上げる。

 ドレスの裾をいくつも貫いた氷の棘は、紛れもなく本気の一撃だった。手を抜けばやられるのは自分なのだと理解し、やられることが竜滅姫であること――自分の存在意義を全て否定されることだとも理解して、リオンは呵責ない本気の斬撃を放つ。

 しかし、クーの実力は高い。攻撃があたることはなかった。

 水を含んで泥状になった地面の上、右足を軸に回転するようにクーは回避した。そのままつま先に鉄のプレートをつけたブーツで、鋭い蹴りを放つ。リオンは柄尻でクーのブーツをはね除け、そのまま斬り下ろした。

 一撃は横へと軸足の重心をずらしたことにより、クーの股下をすり抜けるだけで、地面に突き刺さり泥を跳ね上げる。スカートをちょうど真ん中から切り裂かれたクーは距離をとり、足での攻撃の合間に組み立てていた魔法を解放した。

 都中を巡り流れ込んできた水が、クーの指先に構成された白い魔法陣よって凝固する。
 氷の魔法属性は大気中の水分を凍らしたりすることでどこででも魔法の展開を可能にするが、当然として水が豊富にあるところではそちらを使う。水分を集める行程を抜かされた氷結魔法は、以前武競祭で対峙したクーの無詠唱魔法よりも展開が早かった。

 足下にある水路から氷の弾丸が跳ね上がるようにして襲いかかってくる。
 クーに近付いていたリオンは広範囲に散弾する氷の礫に、ドレスをさらにズタズタに引き裂かれながらも後退に成功した。

 最初と同じ程度の距離を間にとって向かい合ったところで、リオンは笑みをのぞかせた。

「さすがですわね、クー。相変わらず恐ろしいほどの魔法の冴えですわ」

「リオンさんこそさすがです。反応速度が人間離れしています」

 一瞬の攻防により、リオンはドレスのスカート部分をボロボロにされ、クーもまたスカート部分を大きく切り裂かれた。リオンはガーターベルトで繋がれた白いニーソックスが、クーは黒いタイツがのぞいているも気にしない。する余裕はない。

(やはり戦士としては私と対等ですわね。クーは)

 リオンにとって、クーと戦うのはこれが二度目のことだった。

 一度目は武競祭に折に戦った。あのときは全力を出し、様々な過程の末勝利を拾うことになったが、実力をいえば間違いなくクーは自分に匹敵していた。あれから時間も経ち、リオンの剣の腕は成長したが、同じくクーの魔法の腕も成長していよう。

 さらに今回は、以前のような遮蔽物のない舞台と違って、様々な障害物を周りに配置した戦場である。魔法使いの苦手なフィールドではなく、さらにクーはどうやら今日一日使って様々な戦闘準備をしていたようだ。苦戦は必死だった。

 されど、リオンが浮かべるのは獰猛な獅子のような笑み。
 艶やかにも見える笑みは、クーの背筋に冷たいものを伝わせる。

 騎士たる少女は、仲間である相手との戦いであっても――否、仲間だからこそ、その実力に愉悦を覚え、最高の状態にまで一瞬で戦闘準備を完了させていた。

「武競際での戦いでは、満足の行く決着は付けられませんでしたもの。今日ここで甲乙をつけさせていただきますわ。もちろん、私の勝利という形で」

「いいえ。今回は私が勝たせていただきます。全力を出すことを、私はもう戸惑いません」

 燃える闘志に合わせ、リオンの身体に、剣に、真紅の輝きが集う。
 竜滅と呼ばれし『封印』の魔力が身体を包み込み、ドラゴンスレイヤーは神秘を切り裂く力を高める。それがリオン・シストラバスの本気。

 対して、クーは冷たい気迫を纏い、その身体に白い輝きの紋様を浮かばせる。
 禁忌の『儀式紋』がクーの身体を基点に周りの空間を侵蝕し、瞳は血の色に割れる。指先に灯るのは圧倒的な密度の魔力。それがクーヴェルシェン・リアーシラミリィの全力。

 戦いの理由の是非を問うことなく、互いに勝つことのみを欲して、再びリオンとクーは攻防を再開させた。

 今度は服一枚だけではなく、辺りを余波で粉砕する。

 泥の地面でも、たゆまぬ鍛錬が生んだ確かな疾走でリオンは再度クーに肉薄。振り上げられた刃はクーが軋ませる辺りの空間を切り裂き、燃え上がるような熱がこもった斬撃は辺りの水分を蒸発させる熱量。

 しかしクーの防御は先程の比ではなかった。

 武競祭のときでも、その力の発露によって追い詰められた『儀式紋』――単独魔法を使うように儀式魔法を扱うという、魔法使いにとってネックである、強力な儀式魔法を放つ際に必要となる儀式場の構築を破棄することに成功したクーの力は、まさに脅威の一言。

 振り下ろしたドラゴンスレイヤーに左手を突き出したクーは、流れる水を吸収した強固な氷の防壁を作り、これを食い止める。

 食い止められている間も、神秘殺しの刃は魔力で凝固する氷のジリジリと切り裂いていく。分厚い氷の防壁が紙切れのように切り裂かれるまでにかかった時間は一秒以下。しかし、クーは限界までの詠唱速度で、その間で強烈な魔法を組み立てていた。

三千世界に凍てつく風を 業火を掻き消す息吹となれ
 
 クーの右手より放たれた竜巻じみた息吹は、リオンをそのまま上空へと吹き飛ばす。
 
 リオンが四肢を凍てつかせようとする拘束の息吹に翻弄されている中、クーは次の魔法を――さらに強力な魔法の準備に移っていた。

 このままではまずいと、息吹の先がどうやら前もって敷いておいたらしい結界にあたるのを視界の端に収めつつ、リオンは気合い一閃、ドラゴンスレイヤーを振り抜く。

「掻き消しなさい! 『不死鳥聖典ドラゴンスレイヤー』!!」

 真紅の剣閃が息吹を薙ぎ払う。息吹の残滓が背後に迫ろうとしていた木の壁に霜を下ろす。リオンは迫っていた木々に自ら足をつけると、膝をバネにして、弾丸のように反転してクーへ跳びかかった。

雪原を吹く風の精 雪原を染める雪の精

 時同じくしてクーの手の中に次なる神秘の儀式魔法はすでに完成していた。

手を取る精たち 誇り高き舞踏は世界を祝福せん

 クーの手の動きに導かれ、小さな雪の精たちは巨大な雪の塊となってリオンめがけて放たれる。

「はぁッ!」

 気合いを剣に乗せ、リオンは何もない空間めがけて袈裟懸けに振り下ろした。
 担い手の誇りに奮起され、紅き剣はあらゆる全てを焼き尽くす力となってその空間へ殺到する冷気を切り裂いた。

 激突は両者の間。激震は辺りに響く。クーは魔法を放った位置で魔法陣構築の手を止めていない。リオンは攻撃に弾き飛ばされ、地面に着地を果たした瞬間クーに向かって再度走り寄った。

 天のあと、今度は地でぶつかりあうリオンの刃とクーが放つ冷気の嵐。

 リオンは押し切ろうと、クーは押し返そうと、互いに一歩も引かぬ激突を繰り返す。

 地面は類稀な魔力を有する少女たちの激突によって亀裂を生み、大気は摩擦で震えあがる。
 絶え間なく流れ続ける水は沸騰したり凝固したりと忙しなく、辺りに植えられた木々は葉の先を凍らせたあげく、衝撃によって粉々に砕かれていた。

 この攻防で押し切るのが無理と判断したリオンと、押し返すのがやっと理解したクーが、次の攻撃の手段に移るのは同時だった。

 クーは一瞬で体勢を変えると高速の回し蹴りを放つ。その後を続くように、数えるのも馬鹿らしいほどの氷の矢が放たれた。人間の限界を超えつつある反応速度でクーの蹴りを咄嗟に避けてしまったことで、リオンは目の前で収束・拡散する矢の雪崩を浴びることになった。

 矢の一撃一撃にさほど威力はなくとも、それが数百本ともなれば家屋をもズタズタに引き裂かれることだろう。すぐに防御して離脱したリオンだったが、服にはいくつも穴が空き、血が滲む。

 血を滲ませていたのは何もリオンだけではなかった。
 
 クーの頬がぱっくりと切れ、ツーと血が流れ落ちる。

 回し蹴りを放ったのと同じタイミングで、クーもまた攻撃を受けていた。剣ではなく鋭い左の拳。防御する傍らはなったリオンのジャブは、クーの顔のすぐ横を通り抜け、彼女の頬に傷を負わせたのだ。顔面に直撃していたら、脳に深刻なダメージが言っていたかも知れない。

 共に全身が凶器となりかねない。互い、血を拭って武器を構え直す。

 吐息すら消えていく緊張感。言葉を口にすることすら躊躇われる静寂を切り裂き、休憩など与えぬと両者は牙を剥く。

 幾度となく白い光が夜の裏庭をそめ、紅い輝きが地面を駆け抜ける。

 時間が経つほどに傷が増えていくが、両者の動きは鈍るどころかどんどん鋭く、攻撃的になっていた。

 故に、相手のみに集中していた二人が、忍び寄る気配に気付くことはなかった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 魔断の刃と氷雪の光は、互いに熾烈な激突を続ける。

 絶え間ない攻撃の嵐。攻撃の手を休めることはできないのは、騎士と魔法使いが戦っているためか。魔法使いに対して攻撃の手を休めることは、即ち相手に詠唱の隙を与えることになる。さらには相手の手の内も知っていることで、様子見なしの最初から激しい攻防が繰り広げられているのだ。

「いやはや、大したものですねぇ。正味のところ、これほどまでとは。やはり『不死鳥聖典』を我々だけで奪いにいくべきではないという判断は正しかったと見えます」

「…………」

「ダメですよぉ、ボルギィ」

 闇に身を潜め、少女たちの戦いを見守るギルフォーデ。
 その隣には巨漢のボルギィがいたが、ギルフォーデの言葉に彼が答えることはなかった。

 シストラバス邸をも見下ろせる高い教会の鐘付き堂の上、そこにいた衛兵の死体を椅子にして、ギルフォーデは庭園の結界の中、一進一退の攻防を見守ることに心血を注いでいた。

 また、ぼうっとしているように傍らに立つボルギィも、武者震いに震えながら戦いを見ている。ともすれば今すぐにでも戦いに乱入し、両者ともに攻撃を仕掛けかねないほどの興奮状態であることを、ギルフォーデは察して取り押さえるので精一杯だったのだ。

「いくらあなたと彼女に因縁があるとしても、今割ってはいることは許しませんからねぇ」

「なぜ、だ……竜滅姫を排除するなら……磨り潰してしまえば、いい……」

「ええ、確かに。ですが、それが可能か不可能かはこの際どうでもいいんですよ。私が許さないと言っているのは、未だ裏切ったクーヴェルシェン・リアーシラミリィも、裏切られたリオン・シストラバスも、共に満足の行く表情を見せてくれないからです」

 酷く残念だという顔で、ギルフォーデは肩を落とす。

「見て下さい、あの表情。お二人とも勇んだとってもいい顔をしている。唾棄すべき表情ではありませんかぁ。ダメですねぇ。裏切った方も、裏切られた方も、もっとかわいらしい顔を絶望に歪めてもらわないと、私は満足できないというものですよぉ」

「俺は、磨り潰したい……それで、満足だが……」

「甘いですねぇ。肉体の傷よりも、心の傷の方が人はいい顔で鳴くものですよぉ。とにかく、まだお二人が裏切りの傷を見せてくれない以上、絶対に割り込みは許しませんからねぇ」

 割り込めば殺すと、暗に込めてボルギィにいえば、彼は心得ているというように歯をむき出しにした。

「いつまで、待てばいい……?」

「どんな結末にしろ、決着が着くまでは待って下さい。過程がどんなに輝かしくとも、彼女たちの戦いの果てには絶望しか待っていない。これは誇りのみが残る決闘などではないのですから。どちらが勝っても、負けても、最高の美酒を私にプレゼントしてくれることでしょう」

 負ければ大事なご主人様が死ぬ。負ければ自分の存在意義を剥奪される。
 騎士として、魔法使いとして、高潔な決闘に臨んでいる二人は、目を逸らしているだけで本当は気付いている。この戦いの敗北とは即ち絶望に繋がるのだと。

 だから負けられないと全力で戦っている。勝利の芽を芽吹かせようと必死に。

 咲き乱れる紅と白の華。この世でも指折りの美しい美姫たちが花弁を散らす姿は、どれほどのものか。考えるだけでギルフォーデは喉から出る高笑いを堪えるのに必死になる。

「さてさて、どちらが勝つか、どちらが負けるか。まぁ、どちらにしろ我々のやることは変わりませんが、精々高みの見物と行こうじゃありませんかぁ」

「……両方ともを、磨り潰すことには、変わりないから、な……」

『裏切り』のギルフォーデと『惨劇』のボルギィにとって、『不死鳥聖典』を手に入れるという任務はあくまでも前提条件でしかなかった。それを満たしつつ自分の欲望を満たすことこそ、最高にスマートなやり方だと心得ていた。

 そう、二人は弁えていた。自分たちが生粋の『狂人』であり、『冒涜者』であることを。

 


 

 ギルフォーデたちよりさらに遠く、高い場所から、薄闇に溶け込むように水色の賢者は戦いを見つめていた。

 遠いそこで行われている戦いは一進一退。いや、ひたすらに両者が共に進み続けているといった感じか。先の相手の手より強く。そう思って互いに次々と技を行使していく。千の練習より一の実戦か。実力伯仲の両者同士の戦いは、どこまでも両者の素質を開花させていく。

 これほどに興奮する戦いは他とないだろう。両者ともに華があるだけじゃない。両者には他者を引きつけてやまない何かがあった。

 リオン・シストラバスはいうまでもなく、クーヴェルシェン・リアーシラミリィもだ。彼女の存在そのものは紛いものでしかないが、それでも他者の関心を向かせる『愛玩』としての要素を彼女の肉体には組み込んでいる。

 ディスバリエの瞳には二人の攻防の細かいところまで見えているが、たとえ目で追えない常人でも、その空気に触れただけで心臓は高鳴り、手に汗握り、目を離せなくなることだろう。

 この世で最も美しい戦いの一つが、確かにそこにはあったのだ。

「是非、王にも見て欲しい光景ですが……」

 薄く微笑を延ばして見守っていたディスバリエは、小さく頭を振った。

「今はまだ時期尚早ですか。ですが、運良くここで相討ちになってくれでもすれば、そのときは」

「どうする、というのだ?」

 ディスバリエの背後に、影法師のように誰かが立つ。

 それは風にローブをはためかせる、少年であり老人である誰かだった。

「さぁ、どうでしょうか。あたくしは確率論として高い選択肢を選んだだけです。あたくしは彼女たちの真価をぶつけてあげただけ。あなたもご存じでしょう? 『竜の花嫁ドラゴンブーケ』と竜滅姫の存在意義は」

「…………」

『狂賢者』は、何も言わない同じ闇を共有する相手に向かって、小さく笑みを向けた。

「今更後悔でもしていますか? あの日、これしかないと決め、選んだ道を」

「……儂を、恨んでいるのか?」

 押し黙った老人は、遠い場所の光景に視線を飛ばしながら影に身を預ける。
 どこか懇願するようにも聞こえる老人の声を、喉の奥で嗤ってディスバリエは一蹴した。

「恨んでいないとでも思っていたのですか? ご冗談を。あたくしが今この世で一番殺してやりたいのは、他でもない、あなたなのですよ」

「…………」

「あなたさえいなければ、あたくしはこんな朽ちた身に堕ちなくても済んだのですから。あなたさえいなければ、今頃あたくしは……!」

 目の前のものを焼き付くさんばかりの憎悪に顔を歪めるディスバリエは、そのときふいに表情を失う。

「……今更何を言っても詮無きことですか。残念ながら、あたくしにあなたを殺すことは敵わない。あなたに手を出せば、殺されるのはあたくしの方なのですから」

 何も感じていない無痛病患者のような顔のまま、ディスバリエは背中越しに振り返る。

 一度もこちらを向かない老人は、地に根を生やした大樹のように、そこにあった。枯れ落ちていくだけの、動かぬ大樹が。

「精々、存分に祈り続けてください。自分の望みが万が一つにも叶わないと知りつつも。穏やかな時間が意味のない虚像だと理解しながら、無意味な祈りをソラへと祈り続けてください」

 激情を超えて、何もなくなった憎悪を浴びた老人は、やはり黙ったまま闇を見つめている。

 ディスバリエは影法師から離れ、尖塔の天辺へとゆっくりと上っていった。

 闇は上に行くほど濃くなっていく。先までディスバリエの横顔を照らしていた月光は、雲に隠れて見えなくなった。

 聖地で最も高き場所――アーファリム大神殿の『神座の円卓』の天井を足で踏みしめながら、深い闇に浸る女は、眩しいほどの光を見下す。

「あたくしはあなたとは違う。あたくしはあの日の決定を絶対に悔やんだりはしません。そう――絶対に」

 何も知らない二人の戦いは、陰る夜に飲み込まれようとしていた。

 


 

       ◇◆◇



 


 結局のところ、リオンとクーの実力はどこまでも拮抗していた。

 騎士と魔法使い。戦闘スタイルこそまったく違っていたため、得意としているスタイルは別であったが、二人が戦うこの戦いにおいての実力はイーブン。あらゆる攻撃は致命傷には届かず、疲弊の色だけを強くしていった。

 どれだけ戦っても、クーが一日かけて施した結界はビクともしない。他者が結界内の戦いに気付いて踏み込んでくることはない。
 秘密の決闘にはうってつけのそこは、クーが秘密裏に『不死鳥聖典』を得るために選んだ場所に見えて、しかし違うということをリオンは悟っていた。

(私のドラゴンスレイヤーの一撃も、クーの儀式魔法の一撃でも壊れない結界……これほどの結界を一日で構築したのは瞠目すべき点ですけど、もっと讃えるべきは違いますわね)

 魔法の矢が降り注ぐ中、思考に潜っても緩まぬ集中でもって魔法を打ち払う剣舞は、リオンの身体へと氷の矢を到達させない。幾本もの矢は暴雨のような有様であったが、燃ゆる不死鳥の紅は雫すらも肌に触れさせない。

(たとえクーでも、これほどの結界は触媒なしでは作れない。そして、この戦いでクーは触媒を使っていない。流れ込む水以外に、何かしらの仕掛けを前もって施してもいない。これが意味することは一つだけ)

 戦うことを昨夜の時点で理解していただろうクーは、一対一では苦戦を強いられる魔法使いとして、前もって戦場となる場所に準備を施すことができたのだ。詠唱時間を確保するためのトラップ。儀式場。遮蔽物などなど。しかし、ここにはそれらしきものが一つも見あたらない。
 
 また、クーは魔法の触媒らしき品も持ってはいなかった。あれば戦闘を有利に進めることができる媒体ぐらい、戦うために聖地にやってきたクーなら持っているだろうに、それも使っていない。いや、それらを全て結界の完成度をあげるために費やしたのだ。

 リオンは降り注ぐ矢の最後の一本を薙ぎ払って、これまで以上にゆらめく魔力を身体から漂わせる。それは『儀式紋』のバックアップを受けたクーに迫ろうというほどの密度。

 気配が一段と鋭く、笑みが一段と凄みを増したリオンを見て、クーは警戒して様子見に移る。それでも牽制のための魔法の準備はとうに整えていて、下手な行動に出ればすぐさままた絶え間ない魔法の嵐がふぶくだろう。

「クー。あなたのジュンタに対する想いのほどはわかりましたわ。そして、あなたの気持ちも」

 剣を右手一本で横へと伸ばしたリオン。それはまるで、燃える翼の片翼だけを広げた不死鳥のよう。

「あえて私と同じ状況下で戦うことを自分に強いた、その気高さに敬意を。
 真っ向勝負で私の全てを奪おうとした、己が主への一途な想いに賞賛を。
 私はあなたに敬意と賞賛を払い、ここで全力をもって戦いを決すことを誓いますわ」

「リオンさん……はい。たとえ終わったあとには絶望しかなくても、私はこの道を何度だって選びましょう」

「それでこそ、私の友クーヴェルシェン・リアーシラミリィですわ。まったく、ジュンタにはもったいないくらいの従者でしてよ、あなたは」

「いえ、違います。ご主人様あってこその今の私なんです。私は未来永劫、唯一ジュンタ・サクラを主と仰ぐ従者ですから」

 純粋なまでの愛をジュンタに捧げて、白い輝きの妖精は笑う。
 同性であるリオンも見惚れてしまうくらい、それは恋する乙女の顔だった。

 負けたくない――果たして、湧いたその感情の源泉は、本当に竜滅姫であることを守るためだけのものか。あるいは同じ少年を愛しながらも自分にはできない、彼のために自分の全てを擲つことのできる一途さにか。

 あらゆる意味で好敵手たるクーを前に表情を引き締め、リオンは右手一本で握っていたドラゴンスレイヤーの柄に左手を合わせた。

「約束を交わしましょう、クー。一番譲れないもののために戦っている私とあなた。負ければ私の全てを奪っていくだろうあなたを、だけど私は地に伏しても恨まない。地に伏せさせても恨ませない。自分の信念をかけて戦ったのでしたら、そこには賞賛だけが残るべきだと思いますから」

「約束は……できません。私はご主人様がいなくなってしまったら、どうなるか分かりませんから。ですから敗北したとき、どのような行動に出るかは約束できません。これは決闘ではないのですから」

「そう……ええ、確かにこれは決闘ではないのでしょうね。しかし、一つだけ間違っていましてよ。クー。たとえここで敗北しても、それでも本当にジュンタが一番大事なら、あなたは最後の最後まで諦めてはいけませんのよ。ジュンタを無事に助け出す道を」

 そのときクーが浮かべた驚愕と理解とで彩られた顔を、リオンは約束への返答と決めた。

 終わったあとに絶望を残さないこと――それは望むべくもないことだが、それでもリオンはそれができると確信していた。たとえ殺し合ったとしても、彼女との間にできた縁は、決して断ち切れはしないのだと。

全て凍てつくのなら心は置いていけ

 真っ向から向かってきたクーには、真っ向で叩き返さないといけない。
 そのためには、詠唱が紡がれ始めたクーの最強の一撃を、真っ向勝負で完膚無きまでに叩きのめす必要がある。詠唱は邪魔しない。柄を両手で握り、リオンは上段に構える。

全て凍てつくのなら身体は置いていけ

 かつて相打ちを狙ったクーが放った、この詠唱が具現させる単独魔法をリオンは受け止めきれなかった。切り裂けなかった。それが今宵は儀式魔法に昇華されて襲いかかってくる。

さすれば想いだけが残ろう

 握るドラゴンスレイヤーの柄が、握力によって軋む。――否、軋んだ音を立てているのは、その刀身が纏う真紅の魔力そのもの。燃えさかる『封印』はついに、視認することのできる炎となって具現化する。

神の御許に運ばれるであろう

 それはもはや、使徒の血を継いだために肉体に宿った、膨大な魔力がなせる無意識の技法ではなかった。完全なる[魔力付加エンチャント]と言っても過言ではない、リオンが握っているのは炎を噴き上げる紅蓮の太刀。

凍土の名は汝が名

 習ってもおらず、ここに来て初めてリオンの力となった紅蓮が、辺り一帯の水分を蒸発させていく。まるで好敵手たる少女に影響されたかのように、リオンの才覚はこの一瞬に凝縮され、研ぎ澄まされていった。夜気を払う炎は刀身の紅を塗りつぶし、なお美しい真紅となって竜滅姫の美貌を照らし輝かせる。

 であるなら、白き妖精の美貌を輝かせるのは、白い凍てつきながらも温かな光か。最強の氷結魔法は詠唱の途中ですでに、クーの両手の中に強烈な冷気を放つ氷塊を生じさせていた。

凍結の時は汝が時

 両者の中央を境に、リオン側は水分が消え、クー側は熱がなくなる。

 境界線上では真紅の魔力と純白の魔力が互いに押し合いを初め、前哨戦を繰り広げていた。リオンの『封印』とクーの『侵蝕』が、空間に歪みすら生じさせる。激突を予感させる圧力に、これまでビクともしなかった結界が悲鳴をあげた。

氷結の意で我らを試す

 上段に掲げられる不死鳥の炎剣と化した『不死鳥聖典ドラゴンスレイヤー――
 前方に押し出される氷結の意たる[氷の棺が汝を試すオルディアルアイスコフィン――


 放つ合図は両者ともに理解していた。これによる決着を望むと、両者の眼差しが語っていた。

 故に、この一撃には絶対の自負を込めて――

其は煌めく氷棺なり


 ――永劫変わらぬ想いと誓いを立てる!


 咆哮の声を打ち消して唸る炎が、巨大な刃の形となって怒濤の如くクーを頭上から襲う。
 大気の温度を殺して閉ざす氷が、リオンを中心に辺り一帯全てを瞬間的に凍らせ尽くす。

 全ての音が掻き消える無音の一瞬を通り過ぎ、大気が断末魔の悲鳴をあげ、外と戦場とを遮断していた結界が根こそぎ削り取られる。舞い上がった高熱と冷気の暴風は、度重なる戦いの余波で被害を受けていた木々を、根ごと遠くへと吹き飛ばした。

 刻まれた炎の路と閉じた氷の殻――庭園に残るのは、辺り一帯全てを内に閉じこめた、その中央部だけが炎によって切り裂かれていた氷塊。

 さながらそれは美しい氷細工の花弁の如く。
 花弁の上へとゆっくりと歩み寄ってきた二人の少女は、花弁に守られた妖精のようだった。

 ボロボロの姿のまま相手をにらみ据える二人。リオンの剣には弱くなっても決して消えることのない炎が燃え、クーの手には想いを貫くがごとき冷気が渦巻いている。

「最高の終わりでしたわよ、クー」

「それでも、私はこれで終わらせたりはしませんから」

 最後に交わした言葉を締めくくりの言葉に代えて、二人は同時に相手に向かってそれぞれの手を振り抜いた。

 飛び散った氷の花びらが炎の熱で舞い踊っている様は、この世のどこにもない美しい光景。

 その花弁が全て舞い落ちるのと同時に、少女たちの戦いは終わった。

 どちらともなく笑みを浮かべて、意識の糸を断ってその場に崩れ落ちる。
 少女たちの決闘は勝者を生むことなく。そして――――敗者を生むこともなかった。


 

 

       ◇◆◇

 


 

 くだらない。あまりにもくだらない結末に、ギルフォーデは表情全てが抜け落ちた顔で、ボルギィと共に庭園へと降り立った。

「ボルギィ、あなたは見ていましたか。本来絶望で染まっていて然るべき二人が、最後にどのような顔を浮かべていたかぁ」

「笑っていた、な……オレはギルのいう、裏切りの果ての悦楽を、感じなかったが……」

「こんなものが裏切りの結末であってたまりますかねぇ。本当に、唾棄すべき結末です。見込み違いも甚だしい!」

 失望とそれを上回る殺意だけを感情とするギルフォーデに、落ちくぼんだ目を爛々と輝かせて、ボルギィは訊く。

「もう、いいんだろ……磨り潰しても……?」

 背の箱を下ろし、中から得物である巨大な槌――槌の先に無数の棘がびっしりと生えた、叩き潰した上すり下ろすという特別なハンマーを取り出して、ボルギィは我慢できないと全身で表す。

 今やもう二人によって自分の欲が満たされることがないことを悟ったギルフォーデは、もはや止める理由もないと許可を出そうとして、その前に自分たちの任務が何であったかを思い出す。

「構いませんが、『不死鳥聖典』を回収するまでは待ってくださいよぉ」

「早く、早く、しろ……」

「はいはい」

 ギルフォーデは相棒に急かされるままに、氷の花弁を踏み散らして倒れた少女たちへと近づく。
 遠目からでもその圧倒的な威力の激突が判別できたが、こうして至近距離で刹那の破壊の跡を目の当たりにすると、しばし声を失ってしまう。それが一種の鎮静剤となって、ギルフォーデの頭を冷ましてくれる。

(欲こそ満たせませんでしたが、やはりクーヴェルシェン・リアーシラミリィを利用して正解でしたねぇ。こんな攻撃を持っているとは知らずに挑んでいたら、我々でも負けていた可能性もありますから)

 そう考えれば、クーヴェルシェンはまさによくやったという話だった。

 ギルフォーデは倒れたリオンの右手のすぐ前に転がった、紅い刀身の剣をその手に取る。瞬間剣が指輪の形になりぎょっとしたが、報告にあった『不死鳥聖典』の特性を思い出して笑みを取り戻す。

「そういえば、適正なき者が持つと指輪の形になるのでしたか。いやぁ、持ち運びがしやくすなって僥倖ですねぇ。さて、目的の物も手に入れましたし、騒ぎに誰かが駆けつける前にここを去りますよぉ。ボルギィ」

「それは、今すぐに磨り潰していい……という、ことだな?」

 巨大な鉄のハンマーを片手で振り上げて、地面に飛び降りようとするボルギィに対して、ギルフォーデは残忍な笑みを向ける。

 ボルギィは醜悪な笑みを顔に張り付けて、その巨体に似合わぬ跳躍力で大きくジャンプし、


――外道風情が、シストラバス家の宝に触れることは許しません!」


 突如吹き付けた強風に、狙いを外してリオンの頭部から数メートル離れたところに着地した。

「どなたですかぁ?」

 ボルギィの巨体すら吹き飛ばす風の魔法を放った魔法使いを探し、ギルフォーデは辺りをうかがう。敵は、姿を隠すことなく堂々と葉をなくした木の上に姿を現していた。

「外道に名乗るような卑称な名など有しておりませんが、一応の礼儀として身分は明かしましょう」

 風に翻る赤と白のエプロンドレス。銀縁フレームの奥の翠眼が冷たくギルフォーデたちを見下ろして、その手にはナイフと共に緑に輝く魔法陣が浮かんでいる。

「私はユース・アニエース。リオン・シストラバスが従者。そして――

――この俺様こそ、にゃんにゃんネットワーク総帥サネアツ様だ!」

「ぬっ!?」

 ギルフォーデの死角からいきなり現れた小さな影は、その口を大きく開いて襲いかかってくる。狙いは指先。白い子猫は狙い違わずギルフォーデの指先に噛みつくと、摘まれていた指輪を口に含んで駆け去っていく。

「しまっ」

輝きの舞踏 見えざる光舞う風景を 切り抜き運べ 風の民

 自分の失態を悔やんだときには、空から強烈な風の刃が叩き付けられた。

 倒れ込んだ主には当たらないよう、ギルフォーデとボルギィの上半身にのみダメージを与える形に絶妙に調節された風の範囲魔法は、容赦なく二人の身体を切り刻む。

「ぐっ! ボルギィ!」

「あれを、先に、磨り潰せばいいんだ、な」

 失態の屈辱で歪んだ血まみれの形相でギルフォーデはボルギィに指示を飛ばす。
 風の刃を受けても傷一つないボルギィは、図体に似合わぬ俊敏な動きでメイドに詰め寄る。木をへし折る勢いで登っていき、思い切りハンマーを振りかぶる。

 並の魔法使いなら、攻撃に対して何のダメージも見せないボルギィに驚いて隙を見せるはず。しかしユースと名乗った魔法使いは冷静そのものの無表情で、向かってくるボルギィのハンマーの軌道を読み解くと、風を受ける木の葉のように軽やかに避けて見せた。

「今はあなたの相手をしている暇はありませんので。失礼」

 目標を失ったボルギィの無防備な最中目がけて、ユースは風の弾丸を放つ。それが一切のダメージを与えられないのは分かっていたのだろう。弾丸はボルギィを強く吹き飛ばすために放たれたものだった。

「お、おお……!」

 背中に攻撃を喰らったボルギィは、そのままバランスを崩して地面に落下する。
 巨体の落下の衝撃により、ユースが立っていた木がへし折れる。折れた木は周りの木々を巻き込んで地面に倒れ込み、ボルギィはその中に消えていった。

「ちぃ!」

 ギルフォーデにもボルギィを助けていられる暇はなかった。

 横手から放たれた石の礫。いくつも迫ってくるそれは、地の魔法属性の魔法に相違なかった。そして魔法を使っているのは、先程『不死鳥聖典』を奪っていった白い子猫。

「まさか本当に、情報通り魔法を使う猫がいるとは思いませんでしたねぇ!」

「ほぅ、では今度からは一番最初にその子猫の情報覧を熟読しておくがいい!」

 猫の攻撃は、倒れた二人から引き離す意味合いをかねた牽制であることは見てすぐにわかった。ギルフォーデはみすみすそれに乗るしかない自分の失態に舌打ちして、軽やかにボルギィが落ちたところにまで駆け寄る。

「ボルギィ。状況が悪いようですねぇ。ここはいったん引き上げますよ」

「わかっ、た」

 飛び降りたユースがリオンとクーヴェルシェンを回収しているのを見つつ、ギルフォーデはボルギィを助け出す。木々に埋まっていたボルギィは、傷こそ皆無だが少し混乱しているよう。撤退に素直に同意を示した。

 ボルギィと共に撤退のルートを確保して、ギルフォーデは助け出された二人と、取り戻されてしまった『不死鳥聖典』を、傍目からは飄々とした、しかし内心では苦々しい表情で見やった。

「残念ですねぇ。まさかこのような偶然で作戦が失敗するとは思ってもみませんでしたよぉ」

「偶然? はっはっは。おもしろいことを言うではないか、糸目。この世に偶然はあるだろうがな、この二人が起こしたものは偶然ではないよ。なぁ、ユース?」

「はい。私もそう判断致します」

「ほぉ? どういう意味ですかねぇ?」

 望むべき裏切りによる絶望が起きなかった理由でも教えてもらえるのかと、興味深げにギルフォーデはメイドと猫に問い質す。

 二人からは大まじめであるが故に、非常に馬鹿らしい答えが返ってきた。

「どこまでも高潔な意志を誇りとする騎士に、悪辣な奸計などが入る隙間はありません」

「ほら、愛は最強というだろう? なら、一途な愛を持つ乙女は史上最強ということだ」

 くだらない。と、そう鼻で笑うことは簡単だった。だが、それをしてしまえば逃走しようとしている自分を貶めていることになりそうで、ギルフォーデは笑みだけを返して無言で立ち去る。

 高潔な魂や愛の力――唾棄すべきものだが、しかし同時に愛おしくもあった。

「本当に残念ですねぇ。高潔な魂や愛の力が、裏切りによってズタズタになるところを、是非拝見してみたかったのですが」

 その声音は、心底から残念そうだった。

 


 

       ◇◆◇


 

 

「行って、しまわれるのですね」

 ジュンタが牢獄の扉を蹴り破ることができたのは、脱出を決めてから二時間ほど経ったあとのこと。

 侵蝕の虹を放ちつつ蹴り続けていた扉は、ついに耐えきれずに吹っ飛んだ。蝶番がはじけ飛ぶまでに数え切れないくらい喧嘩キックが必要だったが関係ない。脱出できたことが重要で、いつのまに存在していたのか、背中にディスバリエから声をかけられたことが重要だった。

「行ってしまわれるのですね、王よ。あたくしを置いて」

 振り向くことはできなかったが、ジュンタにはディスバリエが悲しんでいるように聞こえた。縋るような悲哀の声は、まるで旅立つ恋人に追いすがる少女のような声だった。

「外は危険です。あなたは死んでしまわれるかも知れません。悲しみも、優しさも、楽しみも辛さも何もかもが溢れ返っている外は、偽りの平和という名の牢獄です。それでも、お一人で行かれるのですか?」

 結局、ジュンタにはこの悪名高き『狂賢者』がどのような相手か、最後まで理解することはできなかった。

「……お前はやっぱり敵なんだよ。ディスバリエ。俺は、一人じゃないんだから」

 ディスバリエ・クインシュ。それは敵の名前。悪辣なる行いを繰り返した、許してはいけない相手だ。だからその声に振り返ることはできない。

 たとえディスバリエの声に心底から心配する部分を感じたとしても。
 たとえディスバリエから向けられる感情に明確な好意を見つけたとしても。

「そう、ですか。それはとても……残念です」

 拒絶の言葉を返すと、小さく息を呑む音が聞こえた。

「では、またいずれお会いしましょう。そのときこそは、きっと」

 圧倒的な存在感が掻き消える。視界の隅に虹色の光を見たあと、ジュンタは振り返った。
 そこには最初から誰もいなかったのかと思ってしまうくらい、水色の賢者も誰の姿もなかった。

 ……一体、彼女は自分になんて言って欲しかったのだろうか?

 どことなく寂しい空気に包まれた誰もいない部屋を見て、ジュンタはそう思う。

「……あのスープ。実はかなり美味しかった。ごちそうさま」

 残した言葉を迷いを断ち切るものにして、ジュンタは廊下へと飛び出した。




 ここからはベアル教に見つかる前に迷宮を抜けられるかどうかがポイントだ――そんな風に思って、警戒しつつ天井の低く暗い通路を歩こうとしたジュンタが一番最初に遭遇したのは、魔獣ではなく、ベアル教の教徒でもなく、二人の少女だった。

「ジュンタ!」

「ご主人様!」

「リオン! クー! それにサネアツとユースさんも!」

「おおっ、ノーエンカウントで迷路をクリアだ」

「ご無事で何よりです、ジュンタ様」

 リオンとクー、その後ろに控えるように背後を警戒するようにユースと、その肩の上にサネアツというラインナップ。どうしてここにいるのかと、ジュンタは唖然となって駆け寄ってくるリオンと、そのまま胸に飛び込んできたクーを交互に見た。

「ご主人様! ご主人様! うぅ、良かったです……怪我とかしていませんか?」

「え? あ、まぁ」

「ほら、私の言ったとおりでしょう? 襲ってきた敵にジュンタがどうこうされる前に助け出してしまえば、何の問題もないと」

 あっという間に大泣き状態となってひっくひっくと嗚咽するクーと、そんな彼女を穏やかに見守るリオンという、何とも見慣れたような、見慣れぬような光景にジュンタの困惑度はさらにあがる。

「……サネアツ。どうしてみんなここにいるんだ?」

 助けを求めてサネアツを見てみれば、彼はユースと共にどこか呆れたように口を開いた。

「何を言っているのだ。もちろんジュンタを助けに来たに決まっているだろう?」

「所在地が判明した理由がお知りになりたいというのでしたら、これも簡単です。確かにこの場所は聖神教関係者も知らない法の手が及ばぬ場所でしたが、猫の手は及んだようでして」

「俺のにゃんにゃんネットワークの力で発見したのだ。迷宮はジュンタの魔力を追って切り抜けた。まぁ、こうして無事に合流できたのだ。万事オーケーといえよう」

 ディスバリエの話では絶対に見つからないと聞いていたのに、サネアツのにゃんにゃんネットワークの力がここを見つけたのか。ここまでに魔獣が配備されていようとも、この四人がそう易々と負けるはずがない。危険なディスバリエとは遭遇しなかったのだろう。

 つまりは助かった。全部が全部丸く収まった――ようやくそのことに理解が及んで、ジュンタは腕の中のクーに柔らかな笑顔を見せた。

「そっか。ありがとな、みんな。それに迷惑をかけて悪かった」

「そんなっ、ご主人様は何も悪くありません! 私の方こそ、迎えに来るのが遅くなってしまって申し訳ありませんでしたっ」

「いや、気にするな。こんなに傷だらけになって……がんばってくれたんだな。俺のために」

「ご主人様……」

 傷のないサネアツとユースと違って、クーとリオンの身体には傷がついていた。夏なのに長袖のドレスをリオンが纏っているのは、傷を隠すためか。

 視線をリオンに向けていると、彼女は何やらアイコンタクトを贈ってきた。しかし分からない。すると今度は何やらジェスチャーをし始める。両手をがばりと広げて、自分の身体を抱きしめる。ジュンタは首を横に振った。

「悪い。こんな大きな獲物を仕留めたといわれても、俺はどう反応していいか」

「誰がそんなことを言いましたのよ! 違いますわ! 今回クーはあなたのためにとてもがんばったのですから、そこは一つ抱きしめて上げるぐらいしなさい、と言いたかったのです!」

 顔を真っ赤にしたリオンは叫んでから、あ、とクーのまん丸な眼で見られ、言ってしまったのでは仕方ないといわんばかりにビシリとジュンタに人差し指を突きつけた。

「さぁ、それくらいしても罰は当たらないでしょう。今回だけは許しますわ。愛情をこめて抱きしめてあげなさい!」

「そ、そんなっ、私なんかが……そ、それにそれならリオンさんだって。サネアツさんやユースさんも……!」

 意外な一言に、今まさにそのがんばった少女を抱きしめようとしていた手を硬直させたジュンタを余所に、クーは慌てふためく。

「恐れ多いです! だって私、リオンさんに……!」

 そこで一端言葉をクーは切る。

 それから、自然と場が静まりかえってしまうほどに真剣な顔を作ると、そっと全員から離れた。

「使徒ジュンタ・サクラ聖猊下。御身の巫女クーヴェルシェン・リアーシラミリィは、御身にご報告せねばならないことがございます」

 居住まいを正され、口調を直された。
 ジュンタを見るクーの姿は、まるで神に懺悔する罪人のようであった。

「私は……私はリオンさんに――

 ジュンタはその雰囲気に呑まれ、クーの言葉を待つことしかできなかった。

 ただ、もう一人の当事者であるリオンだけは、黙っていなかった。


――喧嘩をね、派手に致しましたのよ」


 クーの言葉を遮るように、リオンがそう穏やかな声で言った。

『…………え?』

 一組の主従の驚きは、どこまでもぴったりなタイミング。
 二対四つの視線を受けたリオンは、どこか悪戯っ子な笑みを浮かべて、

「聞こえませんでしたか? クーと私で喧嘩をした、と言いいましたの」

「ちょっと待て。リオンとクーが喧嘩?」

「あら、想像できません? 何も拳で語り合うのが男同士だけだとは思わないことですわね。偶には私たちだって意見の相違で肉体言語を交わし合うことだってありますわ。ねぇ? そうでしょう。クー?」

「そうなのか? クー」

 クーとリオンが喧嘩しているところなんて想像できなかったジュンタは、クーへと疑問を投げかける。

「えっと、それは、その……」

 クーはジュンタとリオンに同時に見られ、どう答えて良いか迷っているようだった。それだけで、リオンの言葉が言葉通りではないことは間違いなかった。

「で、でも、わたしは、リオンさんを、だって……!」

「クー」

 だけど――

「あれはね、喧嘩でしたの。あなたのいうとおり決闘ではなく、ただの喧嘩でしたのよ」
 
 リオンの微笑みはどこまでの爽やかで、後腐れなんてちっともなかったから、その言葉を信じてみようとジュンタは思ったのだ。

「リオンさん……」

 呆然とクーはその場にへたりこむ。それは神に罪を許された告白者のようで、そこでクーはどんな顔をしていいかわからないといった様子で、ぎこちない笑みを浮かべた。

「そう……だったんですか。あれが、喧嘩っていうんですね。私は喧嘩って初めてでしたから、知りませんでした。……あれを、喧嘩って呼んでもいいんでしょうか? それだけで許されるのでしょうか?」

「ふふんっ、許されるの何も、あれは紛うことなき喧嘩でしたもの。意見の相違には拳をもって語る。これこそ喧嘩。
 良かったですわね、クー。あなたは本当の喧嘩がどんなものであるか、今回身をもって知ることができたのですから」

「…………はい……はいっ……ごめんなさい。リオンさん。ごめんなさいっ……」

 笑みを浮かべたまま、クーはボロボロと泣いた。

 ジュンタはリオンに視線で合図を送られ、その涙を拭うために、腰を抜かしたらしい彼女をお姫様抱っこで持ち上げた。

 クーは泣き顔を見られたくなかったのか、それとも抱き上げられたことが嬉しかったのか、強く胸へと額をこすりつけてきた。

「まったくクーは泣き虫ですわね。それとあれは喧嘩だったのですから、あなたが一方的に謝るのはおかしくてよ。あなたが謝ったら、私まで謝らないといけないではありませんの。だから――

 リオンはクーの頬を後ろから撫でて、自分の方を向かせた。

 そのまま、にっこりと友誼に溢れる笑顔を浮かべた。

――ありがとう、が大正解ですわ」

 クーは泣き崩れたまま、やっぱり笑ったまま、言った。
 二人だけの喧嘩のあとに、二人だけの喧嘩の終わりを締めくくるにふさわしい一言を。


――はい。ありがとうございましたっ。リオンさん!」


 たぶんそれが、リオンとクーが本当の友達になった瞬間だった。





 





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