第十四話  生誕の祈り


 

 ジュリアの月・二十九日――今から十七年前の今日、ゴッゾ・シストラバスとカトレーユ・シストラバスの第一子として、リオン・シストラバスはこの世に生を受けた。

 生まれてすぐリオンという名前と共に手に入れた名は、竜滅姫という偉大な名。
 ドラゴンを滅して死ぬことがその瞬間に確約された少女は今日、一七歳の誕生日を迎えた。

 こうして誕生日を迎えてみると、奇妙な感慨がリオンの胸に懐く。

 今より九ヶ月前、リオン・シストラバスは竜滅姫として死ぬはずだったのだ。十七歳の誕生日を迎えぬまま、偉大なる先達の眠る場所へと旅立つはずだったのだ。

 けれど、こうして十七歳の誕生日を生きて迎えることができた。全部、助けてくれたジュンタのお陰だ。しかも、今回の誕生日が特別だという意味では他にも理由がある。つまるところ、始めて恋した相手と迎える誕生日なのである。

 決意として固めていた、今日という日までにジュンタと仲良くなるという作戦は……失敗に終わってしまった。色々あったからそんな暇なかった、とは言わない。失態である。

 しかし、何も諦めることはない。今日は誕生日――年に一度限りの生誕の日なのである。

 今日は自分が主役だ。いや、いつも主役だが、今日は主役も主役でメインなのだ。ジュンタをパーティーの肝であるダンスに誘うこともこれ当然のことなのである。もちろん返答はOKに決まっている。これ絶対の法則。

(そう、大丈夫ですわ。リオン・シストラバス。今日は私の誕生日! その誕生日の相手からダンスに誘われて断る真似など、いくら礼儀を知らないジュンタでもあり得ないというものですわ)

 誕生日の昼下がり。夜のパーティーを待たず、個人的に祝いの言葉を告げにやってくる鬱陶しい男共を一蹴したリオンは、ジュンタのために用意された部屋の前でスーハースーハー深呼吸を繰り返していた。すでに過呼吸気味なほどに。

(わかってますの? リオン・シストラバス。今日までにジュンタとの仲を深められなかったあげく、当日の夜のダンスにも誘えないとなれば、もう絶望的な気がしますけどとりあえずそんなことはないと思っておきますけどピンチですわ色々と!)

 いつもの自信満々な部分はどこへ行ったのか、リオンは緊張で表情を強ばらせながら、白い手袋で包まれた手で扉をノックしようと試みる。

 何度もノックしようとし、待て待てと深呼吸に移るのも飽きてしまった。自分のこういう場面での勇気の無さにはほとほと愛想が尽きたリオンだが、それでもがんばらなくてはなりませんわと今度こそ本気でノックしにいった。

 トントントン、と三回。しかしリオンには、心臓の音で十数回もノックしたような気がしてしまう。

「はい」

「っ!」

 扉の向こうで返事があって、リオンは逃げ出してしまいそうになる自分の足を必死に堪え、凄まじい早さで手を動かす。乱れてもいないドレスの裾を直し、やはり乱れていない髪を揃え、胸を張って不敵に笑って、澄ました顔を取り繕う。どんな状況であれ、培ったプライドだけは決して自分を裏切ったりはしなかった。

 扉の向こうで人が動く気配がする。気配はドアへと近付いてきて――ふいにリオンの脳裏に一昨日のジュンタとスイカのツーショットが過ぎって、完璧に整えた虚勢が崩れてしまった。

「はい、どちら様……って、リオン?」

「リ、リオンですわ」

「いや、それはわかるけど。忙しいだろうに、何か用事でもあったか?」

「はい。用事が、あります」

 ポソポソと蚊が鳴くような声でしゃべり、まるで虐められっ子のように弱々しく身を縮こませた格好で、リオンは胸の前で手を合わせて指を交差させる。

 一昨日、ジュンタがスイカと仲睦まじそうにペアグラスを買っているところを思い出してしまい、リオンは瞳を潤ませる。そのまま、これから頼むことを断られる可能性の恐怖に怯えつつ、上目遣いでジュンタを見つめた。

「ど、どうしたんだ……?」

 ジュンタが狼狽えたように後退る。……どうしよう。もしかしたら何の用件で来たか気付かれてしまったのだろうか? それで、困ると後退られたとしたらどうすればいいのか?

 リオンはジュンタを見つめたまま思考を回転させる。もう後には引けないし、ここで引いたら本当にスイカにジュンタを取られてしまう。それは嫌だ。

(せめて自分の誕生日の日くらい、一緒に過ごしたいですもの。ジュンタが断れないように何か)

 いつも決して遅くないリオンの思考速度が、輝ける光の速さにまで加速する。
 顔を赤くしたジュンタが視線を背けつつ言葉を待っているのを見て、彼とこれまで話した内容や過ごした日々を思い出し、その方法を弾き出す。

 瞬間――リオンはビシリと、ジュンタの鼻先に右手人差し指を突き出していた。

「命令ですわ! ジュンタ。今夜あなたは、私のダンスのパートナーを務めなさい!」

「へ? ダンス? 俺とリオンが……? いや、それは――

「嫌とは言わせませんわよ! 先日あなたを助けた恩を忘れたとは言わせません! 何が何でも私のダンスのパートナーをやってもらいますわ! そうしたら貸しは帳消しにしてさしあげます!」

 突きつけられた命令に、ジュンタはポカンと馬鹿みたいに口を開けている。どうやら完璧すぎる命令にぐぅの音も出ないようだ。

 ジュンタはこれで義理堅いところがあるから、先日助けたことに対する謝礼としてパートナーになることを要求すれば、必ず承諾するはずだとリオンは思ったのである。果たして、その作戦は結果通りに――

「ぷっ。い、いや、別にいいぞ。それくらいなら」

 行ったのだが、なぜか盛大に吹き出されてしまっている。

 リオンはなぜか途方もない羞恥に襲われて、カーと顔を真っ赤にさせた。

「な、何がおかしいのです?! 笑うなど、失礼だとは思いませんの!?」

「無茶いうな。珍しい顔してたから一体どんな用件かと思えば、まさかダンスのパートナーを務めろなんて。いや、パートナーはある意味重要だけど、まさか命令までされるとは思ってなかった」

 クツクツと噛み殺し切れない笑いをもらしながら、ジュンタは手を振る。その声、仕草が、リオンの羞恥心を強く煽った。

 さすがのリオンのプライドも、これほどの仕打ちには耐えられなかった。これが戦場ならいくらでも大丈夫だったのだが……いや、これもある意味では最重要な戦場か。であるなら、リオン・シストラバスはジュンタに始めて敗北を喫してしまったのかも知れない。

「や、約束致しましたからね! 絶対にダンスの相手を務めていただきますわよそれでは失礼!」

 早口で叩き付けるように言い残すと、リオンはジュンタの前から全速力で走り去る。

 とにかく任務は果たした――リオンはにへらと緩んだ口元に気付かぬまま、しばし屋敷中を駆け回っていた。


 

 

「しかしダンスのパートナー、ねぇ」

 ジュンタはいなくなったリオンを見送ったあと、ドアを閉めて部屋の中を振り返る。

「す、すごい情熱的なお誘いでしたね。さすがはリオンさんです」

「あれほどの技術を天然でやるとは……俺はツンデレというものを甘く見ていたのかも知れない」

 そこには上気した頬を両手で押さえたクーと、何やら苦悩しているサネアツの姿が。

 リオンよりも前に部屋に遊びに来ていた二人には、もちろん今の会話は聞かれてしまっている。別段聞かれて困るような内容じゃないので構わない。問題はリオンから命令されたことの方にあった。

「ところで音痴なジュンタ君。訊くが、ダンスなど踊れたか?」

「踊れないな。完膚無きまでに」

 サネアツの質問に即答を返すジュンタは、どうしたものかと頭を悩ます。

 今日はリオンの誕生日。夜はバースデイパーティーが開かれる。
 プレゼントはすでに取りに行って用意済み。あとは本番を迎えるだけと思っていたのだが、まさかダンスなんてものがあるなんて。

「上流階級を舐めてたわけだ。誰にも言われなかったところを見るに、パーティー=ダンスは当たり前の等式だったんだな」

「そうですね。私もパーティーに駆り出されてしまった経験が何度かあるんですが、そのときは毎回ダンスがありました」

「ということは、クーはダンスが踊れるってことか?」

「あ、はい、一応。おじいちゃんに覚えておいて損はないと教え込まれましたから。女性用と男性用の両方を。ご主人様。もし踊られたことがないようでしたら、僭越ながら私がお教えしましょうか?」

「本当か!? そいつは助かる」

 クーの頼もしい申し出に、ジュンタは二つ返事で頼み込む。

「リオンがどんな目的でダンスのパートナーに指名したかはわからないけど、本番で下手なダンスをしたら大クレーム間違いなしだ。付け焼き刃でもいい。教えてくれ」

「わかりました。誠心誠意練習相手を務めさせていただきますっ」

「まだ半日近くあるのだからな。今からやれば何とか形にはなるだろうよ。では、俺は指揮者としてにゃんにゃんオーケストラを率いようか。カモーン、にゃ――――ッ!!」

 サネアツが大声で鳴き声をあげると、どこからともなく現れ、窓から次々に部屋へと猫が入ってくる。その数十数匹。中にはシストラバス家の猫もいるが、大抵は見たことのない猫。首輪をしていたりするし、もしかしたら早くやってきた招待客の飼い猫かも知れない。

「というか、サネアツ。お前は一体何をやるって?」

「なに、音楽なしで練習するのは厳しかろうと思ってな。今度の慰安旅行で披露するため、合唱の練習をしておいたのだ。実戦訓練をかねてバックミュージックになってやろう。そうだな、我らがコーラス部隊よ!」

『『にゃ〜〜』』

 サネアツの言葉に答える猫たちは整列し、見事な美鳴き声を響かせてみえた。
 そのまま二足歩行するサネアツの肉球を動きに合わせて、尻尾を左右に振るって鳴き出す。否、歌い出す。

 それは色々とおかしいが、確かに綺麗なバックミュージックだった。

 ジュンタは呆れをそのまま感心に変え、知識として知っている動作のまま、自分の胸に片手を当て、クーに向かってもう片手を差し出した。

「私と一曲踊っていただけませんか? レディー」

 少し驚いた様子を見せたクーは嬉しそうに笑って、

「はい、喜んで」

 差し出されたジュンタの手のひらに自分の手を乗せた。


 

 

       ◇◆◇


 

 

 フェリシィール・ティンクは決して、使徒として特別なわけではなかった。

 生まれも、生きてきた道も、辿り着いた答えも、使徒としてはあまりに普遍的。
 自分本位な探求の時間を経て、『神の座』に到達することを諦めて聖地の使徒となる。精一杯人になろうと努力する。そんな普遍的な使徒だ。

 生まれながらにして人の救い手であり、導き手であることを決定づけられた使徒の本当の役割とは、十のオラクルをクリアすることによって『神の座』に到達することに他ならない。到達した先に、真の意味で救世はあるのだろう。

 生まれながらにそうであることに気付き、そうであるという環境の中で育つ使徒は、ほぼ例外なく探求の道を取る。巫女より告げられたオラクルへと挑み、達成せんと必死になるのだ。
 
 そうした中で、やはりほとんど例外なく、使徒は『人』を顧みない。

 使徒は自分の周りにいる者とオラクルの達成にのみ視線を向け、それ以外を視界に入れないのだ。世界で何が起ころうが、それがどんな結果を招こうが、自分と自分の大切なものに関わらなければ気にしない。それは聖神教の長たる使徒としては、あまりに自分本位な考えだろう。

 しかし、それが普通だった。使徒として何よりも優先するのはオラクルの達成だから――だから、聖地の使徒として聖神教を運営するのは、『神の座』に至ることを諦めた使徒の役割となる。

 自分が自分勝手を許されていたように、挫折した使徒は、自分より後の使徒のために聖神教を動かす。たとえ後続の使徒が自分勝手に動いても、問題がないようにフォローする。それが聖地の使徒の昔からの暗黙の了解であった。
 
 探求者から聖地の守護者に。以前の使徒たちがそうであったように、またそのプロセスを辿ったフェリシィール・ティンクは、リオン・シストラバスの誕生日の今日―― 己がすべき最後のことを果たそうと、神居の噴水の前で沈む夕焼けを見つめていた。

 隣にルドールはいない。彼は先程までかかって終了した書類を配布した後、戦いに備えて準備を推し進めている。本当にありがたい。ルドールのお陰で、フェリシィールは使徒としての役割にのみ意識を向けることができた。

 夏の綺麗な夕焼けが、噴水の水を通してフェリシィールの金糸の髪を照らす。波打つ髪は、陽が沈み行く海の波のように光り輝いていた。

 誰も見ていないのがとても勿体ないその風景――本当に勿体ないからと、西神居より一人の少女が現れ、その姿を目に焼き付けた。

「フェリシィール女史」

「スイカさん」

 名前を呼ばれたフェリシィールは振り返って、そこにいたスイカのいつにも増して綺麗な姿に目を細めた。

 長い黒髪をいつもは先の方で縛っている彼女だが、今日に限ってはまっすぐに下ろされている。耳元にかかっている髪は後ろに撫で上げられ、耳には小さな赤い宝石を輝かせる金のネックレスが。胸元が大胆に開いた紫色のドレスは彼女の髪によく映えていて、大人になる一歩手前の少女の瑞々しさと魅力を大いに引き立てていた。

「まぁ、とてもきれいですよ、スイカさん。よくお似合いです」

「ありがとうございます」

 嬉しそうに頬を染めた、パーティー用のドレスに着替えたスイカは、少しだけ芝居がかった仕草でドレスの裾を摘み上げた。スカートを常ははかないスイカだから、その仕草は何とも珍しく、新鮮なものとしてフェリシィールの目に映った。

「これからリオンさんのパーティーへ?」

「はい、時間も時間ですし、ヒズミがもう馬車を用意してくれています。フェリシィール女史は今日これからどうするおつもりなんですか?」

「わたくしは、そうですね。前にも申しあげたとおり、行けるのなら行きますが……どうでしょう。難しいかも知れませんね」

 噴水の前まで歩み寄ってきたスイカから視線を外し、フェリシィールは神居の北の塔を見上げる。それからクルリと反転して、かつて先代である使徒――『星詠み』のユリケンシュが暮らしていた、何度も使徒とは何たるかを学びに足を運んだ南神居を見上げる。

 使徒の死によってその塔にあるものは、全て弔いの聖火にくべられる。今の南神居にあるのは最低限の次代の使徒を住まわせる用意だけで、かつての不思議空間はそこにはない。

(もしもジュンタさんが南神居に住まわれるようになったら、一体どのような塔になるのでしょうか?)

 自分の神居なら、水が内部にも入れるようになっていて、自然を感じさせる感じ。
 北神居なら、ありのままの白さを多く残す、物の少ない理路整然とした感じ。
 隣に立つ少女の神居は、ロスクム大陸の品々が持ち込まれた異国風の感じ。

 それぞれの住人の個性が出ずに入られない生活空間。南神居に入る可能性のあるジュンタ・サクラという使徒は、一体どのような塔にするのだろうか?

 内装などはわからないが、一つだけわかることはあった。きっと、そこは素敵な笑顔が溢れる塔になるだろう。騒がしくて、楽しくて、仕方のない人たちが揃うだろう。

 フェリシィールはスイカに向き直る。何かに気が付いているのか、スイカは今まで何も言わなかったが、視線を合わせたことにより徐にそう言った。

「……すみません。フェリシィール女史」

 どこか気にした風なスイカは、突然何を思ったのか、謝罪の言葉を口にした。

「いきなり謝るなんて、どうかしましたか?」

「いえ、わたしがもう少し政務を手伝うことができたなら、フェリシィール女史ももう少し休むことができて、リオンの誕生日パーティーに行けるのにと思って」

「ああ、そのことですか」

 ポン、と手を合わせたフェリシィールは、しゅんと落ち込む黒髪の後輩を見て、知らず温かな笑みを口に浮かべていた。

「気にしないでくださいな。まだスイカさんは十八歳。使徒としても、この世に生きる存在としても、まだまだ幼いのですから。ゆっくりと色々なことを学び、それからでよろしいのです。今はまだわたくしに任せておいてください」

「フェリシィール女史…………ごめんなさい」

「あらあら、そこはありがとうと言うところですよ」

 さらに頭を下げてしまったスイカを、思わずかわいらしいと頭を撫でてしまいたくなったが、子供扱いするとさらに畏まらせてしまうかも知れないと止めておくことにする。代わりにクスクスと笑った。

(そうですね。ズィールさんがどうであれ、決着をつけることは、即ちスイカさんやジュンタさんたちの未来にも繋がるのですね)

 むしろ見えない手で頭を撫でられたのは自分の方だった。
 
 安心させるように、思いやりという名の温かな手はフェリシィールに大事なことを教えてくれた。誰かを守るということはつまりはその人や、その人に繋がる人たちの未来を守ることになるのだ、と。

 フェリシィールは笑顔のまま、両手をスイカの肩に置いた。

 ……思えば、彼女には先達の使徒として大したことをしてあげられなかった。

 彼女に使徒について教える役割を担ったのは、スイカの一つ前の使徒であるズィールであったし、スイカがやって来た頃は危なっかしいクーを見守るだけで精一杯だった。今そのことを後悔してしまうとは、もう少し上手く立ち回れば良かったか。

 考えても詮無きことと知りつつも、それなら、とフェリシィールは今伝える。これからもしかして、聖地の使徒としてたった一人だけでやって行かなければいけない少女に。

「スイカさん。もしも何かあったら、ジュンタさんを頼って下さい」

「ジュンタ君を? でも、何かあったらとは……?」

「何かとは何かです。そうですね。もしもわたくしとズィールが一緒にいなくなってしまったら、とか。もちろん仮定の話ですが、そんなことになったらジュンタさんを頼って下さい。彼ならばきっと、あなたに力を貸してくれるでしょう」

 もう一人伝えておきたいことのあるジュンタは聖地の使徒ではないけれど、それでももし結果的にスイカが一人になってしまったら手助けしてもらいたい。
 きっとそうなったら言われなくてもそうしてくれるだろうが、スイカに頼る人がいることを伝えておくことは重要なことのように思えた。

 それからフェリシィールは、今まで語ったこと、語れなかったこと、全て順々にスイカに言い含めていく。

『アーファリムの封印の地』の神殿との契約方法。聖神教の運営方法。諸国との外交手段。行事などなど。これが最後になるかも知れないと思うと、伝えておきたいことはたくさんあった。

 きっと前もってズィールから聞いていたこともあろうだろうに、彼女は一つ一つのことにしっかりと頷いてくれた。

 この世界を託すにはあまりに幼い肩だけど――それでもこの瞬間には望むべくもない、真摯な姿勢だった。

 もはやフェリシィールの不安はこの地にない。
 今はただ祝福のように、心の底から自分のするべきことが理解できた。

(『神の座』を諦めたあの日、聖地を、人を助けることしか、わたくしにはやることがないと思った。やりたいのではなく、やるしかないからやり始めた。ですが――

 フェリシィールは目を閉じて自分の長い人生を振り返る。色々なことがあって、楽しいことも、苦しいことも、嬉しいことも、辛いこともあった日々を思い出す。

(ですが、今は違います。今ならはっきりと言えます。強制されたのではない。これしかなかったからではない。これがわたくしのやりたかったことだと、そう言い切れます。
 守りましょう。わたくしの大事な人たちと、そんな人たちが作り出す未来を)

 瞼を開けたフェリシィールは、どこか泣きそうな顔をしたスイカの顔を見た。

 一体どこまで気付いているのか――優しい少女を安堵させるよう微笑みを向けて、フェリシィールは背中を向けた。

「それでは、わたくしは少々出かけてきます。どうか、わたくしの分までパーティーを楽しんできて下さい」

「はい、フェリシィール・ティンク」

 もしかしたら全て気が付いているのかも知れない――しっかりと頷いてくれたであろうスイカから、神居を出ようとするフェリシィールが聞いた最後の言葉は、それだったから。

「……今まで、ありがとうございました」


 

 

       ◇◆◇

 


 

「皆様、本日はお忙しいところをお越しいただき、誠にありがとうございます」

 開式の言葉は、ゴッゾ・シストラバスのあいさつから始まった。

「急な開催場所の変更などもありましたが、今日私の娘は十七歳になり、そのパーティーを開くことができました。この一年は様々なことが起きた一年ではありましたが、こうして娘の誕生日パーティーに駆けつけていただいた皆様には、深く感謝の念を抱かずにはいられません」

 ダンスホールは、本邸と変わらぬ広さと豪華さを演出している。以前グラスベルト王国王都レンジャールで行われたパーティーよりも、席数や招待客の数などなど、規模が圧倒的に違う。

 思わずクーともどもホールの隅に寄ってしまったジュンタは、シャンデリアの明かりの下、色とりどりのドレスやタキシードを着た、見るからに高貴そうな方々の姿に若干気圧されていた。老若男女問わず集まった皆は紛れもない貴族たち。このホールに満ちる空気は、黄金を目の前にしたような、そんな不思議な感覚を庶民には感じさせた。

「それでは、皆様グラスの方をお持ち下さい」

 家柄をいえば完全にお嬢様ながら、庶民的なクーも緊張しているらしく、ゴッゾの音頭に集まった招待客がグラスをかかげるのに、若干遅れて持っていたグラスをあげた。もちろん中に入っているのは果実のジュースでワインではない。

 ジュンタも果実のジュースが入ったグラスをかかげ――

「我が娘、リオン・シストラバスの十七歳の誕生日に――乾杯!!」

『『乾杯』』

「乾杯」

「乾杯です」

 唱和する皆と一緒に一度言って、それから口の中で転がすようにもう一度言って、クーとグラスを合わせてからジュースを一気に飲み干した。

 パーティーの始まりのあいさつと乾杯を終え、ゴッゾが引っ込むとすぐさまパーティー会場には招待客同士の声が響き始める。楽団が場の雰囲気を引き立てる音楽を奏でる中、知り合いと話したり、目当ての女性に声をかけたり、はたまた事情のパイプを繋ごうと一生懸命。

 リオンの誕生日パーティーではあるが、招待客にとってはこのパーティーそのものに意味があるということなのだろう。未だ主賓のリオン不在の中、パーティーが始まったのも頷ける話というものだ。

「貴族も大変だな。誕生日を迎えるたびにこの騒ぎだなんて。盛大に祝ってもらえるっていえば、そうなんだけど」

「私ですと、もしここまでされてしまうととても心苦しい気がしてしまうのですが」

「クーはまぁ、そうだな。俺もそうだし。ちなみに、クーの誕生日の日は大抵どんな感じになるんだ?」

「私はいつも、フェリシィール様が祝って下さるんです。神居の塔のお部屋で。こうしてみると、とてもとても贅沢な誕生日でした」

「まぁ、一応使徒に祝われてるわけだからな。ちなみに、今年からはもう一人使徒が追加だ」

「そ、それは、し、幸せ過ぎて目を回してしまいそうです……」

 リオンも未だ不在ということで、ジュンタはクーと一緒に珍しいものでも観察するように人々の様子を見ていた。

 あまり人混みというか、騒がしいところが得意ではないクーのため、陣取っているのは壁際。隣のクーは、まさに壁の花というのがふさわしい出で立ちである。

 純白のドレスは、フリルがたくさんついたかわいらしいもの。胸元と腰元のフリルで作られた花。同じ形の花で赤い色のものが、いつもクーが髪を結んでいるゴムの代わりとして二つつけられている。帽子はとられ、どこからどう見ても愛らしいご令嬢である。

 ドレスの裾はそれほど長くなく、ちょうど膝のあたりまでしかない。いつもくるぶしまでのロングスカートをはいているクーであり、あまり足を晒すのははしたないと言われているご時世ではあるが、やはりパーティーは別なのか。
 こうして周りを見てみると、大胆なドレスを着た女性も多くいる。しかしその中にあってもクーは一際目立っていた。聖地の空気に合っており、壁際にいるとはいえどうしても目を奪われてしまう。

 先程から男性の視線が痛いジュンタではあったが、下手な虫をクーにつけるわけにはいかないという親心に似た心境から、目から鋭い敵意を近寄ってくる男にぶつけていた。

 ジュンタは普通の黒いタキシードで、いつもは弄くらない髪を少し撫でつけているぐらいのもの。それでもクーからは多大なお褒めの言葉をもらってしまったのだが、生憎と煌びやかな人が多いパーティーでは、声をかけられたりすることはなかった。

「それにしても、リオンさんはまだいらっしゃらないのでしょうか?」

 何やら想像の中から戻ってきたクーが、ホール前方奥の、貴賓者の中でもとりわけ特別な貴賓者や主賓が入場してくる階段を見つつ、小首を傾げる。

「私が先程お会いしたときには、すでにドレスへとお着替えになっていたようですが、何かあったのでしょうか?」

「どうだろうな。もしかしたら入場のタイミングでも見計らってるのかもな」

 先程から偶に響くファンファーレと貴賓者紹介の声と共に入場を果たす、公爵家のご令嬢やら、枢機卿親子だとか、そういう人たちはいた。それらの入場が終了したあとに、本命のご登場があるのかも知れない。

 でも、そうすると一つ疑問に思うのは、リオンが呼んだだろうとある最大の貴賓者のことである。

「クー。このパーティーにフェリシィールさんは来るのか?」

「フェリシィール様ですか? いえ、フェリシィール様は何やら抜けられない用事ができてしまったようですので。ですが、何でもスイカ様とヒズミ様がいらっしゃるとおっしゃられてました」

「フェリシィールさんは来ないけど、スイカとヒズミは来るのか。となると、リオンとスイカ、どちらかが先に入場してくるかだな」

 トリを飾るのは主賓か、それとも最大の来賓か。ジュンタには舞台裏で主賓だからと遠慮するスイカと、聖猊下の後に紹介されるなんてできないと言い張るリオンの姿が想像できてしまった。

 果たして、そのあったのかなかったのかわからない言い争いの結果がどうなったのか――響く楽団のファンファーレ。直後会場内の音という音が小さくなり、先程から貴賓者の紹介をしているアルゴー執事長のよく通る声が張り上げられる。

「シストラバス侯爵家ご令嬢、リオン・シストラバス様。ならびに使徒スイカ・アントネッリ聖猊下、巫女ヒズミ・アントネッリ様のおなーりー!!」

 二階の扉が恭しく開かれ、現れたのは紅と黒の二人の少女――

 紹介と共にざわつきが広がった会場が、二人の登場と共に完全に音をなくす。それほどまでに二人が放つ空気は独特で、呑み込まれるほどに強烈だった。

 タキシードを着た黒髪の少年に先導され、今日の主賓をエスコートして現れるのは紫色のドレスが美しい黒髪の少女。使徒の一柱――スイカ・アントネッリ。
 スイカの手に引かれながら、埋もれない存在感を放つ橙色のドレスを着た真紅の髪の少女は今宵のパーティーの主賓。竜滅姫――リオン・シストラバス。

 最後の最後で登場した二人は階段の中程にある平らな部分へ下りると、申し合わせたように揃ってドレスの裾を摘み、優雅にお辞儀をしてみせた。

 ここからが本当のパーティーだと否応なく理解させられた招待客に我を取り戻させるように、そのとき楽団が演奏を再開させる。今度はどこかクラッシックなムードのある曲。主賓の登場により、パーティー会場は先程にも増して高貴なる騒がしさを広がり始める。

「ご主人様! ご主人様! リオンさんのところへ行かれなくてよろしいのですか?」

「え? あ、うん。そうだな。うん、確かにそうするべきだ」

 クーにそう呼びかけられるまで、リオンとスイカに見とれていたジュンタは、はっとなって思わず出てしまった素っ頓狂な声を誤魔化す。

 しかし誤魔化されなかったクーは小さく笑って、

「それでは、お供させていただきます。あ、ご安心下さい。都合のいいところで、ご主人様とリオンさんの傍から離れさせてもらいますので」

「そんな、別に気を使ってくれなくてもいいぞ? 俺もリオンも気にしないし」

「いえ、そんなのダメです。ご主人様もリオンさんも気にされなくても、私が気にしてしまいます。私が、お二人の、お邪魔をしたくないんですっ!」

「そ、そうなのか」

 むん、と力説するクーに押し切られるように、ジュンタは頷く。今宵のクーの澄んだ蒼い瞳は、何やら熱く燃えていて、逆らいがたい何かを感じさせた。

「それでは行きましょう、ご主人様! リオンさんのことです。今頃たくさんの方々にダンスのお誘いをいただいて困っているはずです。この会場に集まった方たちに、リオンさんのお相手は誰であるか、はっきりとさせてあげなくてはいけません!」

「あ、おい、クー!」

 行動力のあるクーに引っ張られるまま、ジュンタは今やダンスの申込会場と半ば化している人々の中へと割り入っていく。

 目的地は入場の階段の下。リオンとスイカたちがいるだろう、特に多くの招待客が群がっている箇所である。

 そんな箇所の中、二つほどぽっかりと穴が開いている場所がある。言わずとも知れた、リオンとスイカの周りであろう。先にジュンタが遭遇したのは穴の直径が大きい方――リオンに輪を増して近付きにくい存在たる、使徒と巫女の姉弟の方だった。

「あ、ジュンタ君。こんばんは」

「げっ、サクラ。もう現れたのかよ」

「会った瞬間にそれか、ヒズミ。あと、こんばんは。スイカ。ドレス、とってもよく似合ってる」

 いつでもどこでも相変わらずなヒズミに苦笑を向けたあと、ジュンタはスイカの格好を褒めた。

 社交辞令ぐらい知っているジュンタだが、それは心の底からの賞賛の言葉だった。
 こうして間近で見てみると、よりスイカの美しさが分かる。肌の白さとまっすぐに下ろされた黒髪。ドレスの淡い紫色と大胆に開けられた胸の谷間―― 褒めずにはいられない瑞々しい美しさだ。

「ありがとう。社交辞令とわかっているけど、とても嬉しい」

「いや、社交辞令じゃない。本当に綺麗だと俺は思うぞ」

「そ、そうなんだ。あの、えっと……うん、その、ありがとうございます」

 頬を染めて、視線を逸らして少し俯けるスイカは、珍しいことに酷く照れていた。
 周りの招待客は、あまり人前には現れない使徒スイカの外見年齢道理の少女らしい反応に驚いたような、感心したような溜息をついている。

 で、一方全然珍しくないことに嫉妬の炎をメラメラ燃やしているヒズミだが、こちらは珍しいことに今日は何か言ってきたりはせず、これを機会にお近づきになろうとしてくる男たちに睨みをきかせることのみに全神経を集中させていた。

「ジュンタ君の方も、とても格好良いと思う」

「そうか? ありがと」

 周りの男からの『誰だよ、テメェ?』という視線が痛い中、今度は逆にスイカからジュンタはお褒めの言葉をいただいた。これこそ社交辞令だろうが、素直に嬉しく思う。

 何やら自分でも意識できるぐらいいい雰囲気ができあがって……周りの視線が痛い痛い。特に周りに紛れてプレッシャーをかけてくるヒズミが恐い恐い。

 しかしやはりヒズミは何かを言ってきたりはしなかった。懐に手を伸ばしているが、何かを取り出そうとするのを必死に堪えている。一体どうしたんだろう?

「ジュンタ君。君は今日、誰と踊るかもう決めてる?」

 そんな弟の姿に何か思うところがあったのか、スイカがあいさつの後に口にしたのはそんなことだった。

「もしも誰とも約束をしていないのなら、できればわたしと……」

 スイカからの誘いの言葉は、ジュンタの背後にいたクーへと視線を向けられてたことにより急速に尻つぼみになっていく。

 恐る恐るという感じで視線を向けてくるスイカに、これ幸いだと何やら上着の下で懐の中の何かを握ったヒズミ。

「……もしかして、もうクーちゃんと約束してるのかな?」

「なに!? そうなのか、サクラ! そうなんだな!? なら話は早い」

「いや、俺が約束したのはクーじゃなくて――

――ジュンタとダンスを踊る約束をしているのは私ですわ!」

 そうしてそこに現れるのは真紅のお嬢様。気が付けば自分たち五人を除いて周りにはぽっかりと大きな穴ができていて、ジュンタはリオンに腕を取られていた。

 現れたリオンは牽制するようにスイカを見ながら、

「申し訳ありません、スイカ聖猊下。私が今日のお昼に、ジュンタにダンスの相手を務めてもらうよう約束してしまいましたから」

「そうなのか……うん、そっか。いや、いいんだ。約束してしまっているならしょうがない。破らせるのは悪いから、わたしはヒズミと踊ることにする」

「ぼ、僕と?」

「嫌なのか?」

「嫌なわけないけどさ……」

 現れたリオンの警戒の眼差しとスイカの顔を交互に見たヒズミは、最終的に背筋を伸ばして立ってダンスの誘いを引き受ける。すっと前に差し出した手の上には、スイカの手が乗せられた。

「それじゃあ、わたしたちは先に踊ってるよ。もしも暇があるようだったら、あとで一曲ぐらいわたしと踊って欲しいな」

 最後にそう言い残したスイカが、ヒズミと手を取り合ってダンスする場所として空いたスペースへと去っていってしまう。呼び止める暇もなく取り残されたジュンタは、今なお自分の手を取り、スイカの背中を強い眼差しで見送るリオンを眺める。

「セーフですわ。危ないところでした」

 リオンはやがて姿が人の背中で見えなくなったスイカから視線を外し、そこでようやく自分を見つめるジュンタの視線に気が付いた。

 至近距離。腕と腕が組んだ状態で二人は見つめ合う。

「……誕生日おめでとう」

「……ありがとうございます」

 どちらともなく、何とも形容しがたい抑揚の声がもれる。

 離すべき腕はなぜか離れず、二人は意識を手放しているかのように相手を見つめるだけ。

「では、私はお邪魔になってしまうのでこれで失礼させていただきますね」

 止まった時間を動き出させてくれたのは、ペコリと頭を下げたクーだった。

「それではご主人様、リオンさん、どうぞ心ゆくまでダンスを楽しんでください」

 頭を上げたクーが、笑顔で立ち去る。その場にはヒソヒソと噂をしつつ眺めてくる周りの招待客だけが残り、ジュンタとリオンは申し合わせたように口元に笑みを浮かべた。

 するりと解かれる腕。ジュンタは代わりに手のひらをリオンに差し出して、

「私と踊っていただけますか? レディー」

「ええ、喜んで」

 繋がれた手を取って、スイカたちの後を追うように楽団の周りで踊る人々の中へと進み出ていく。

 


 

       ◇◆◇


 

 

 聖殿騎士団が演習などで使用する多目的演習場は、毎夜騎士が巡回を行っている。

 しかし今日という日は全ての騎士の任が解かれ、ひっそりとした佇まいを見せていた。
 周りに防音と対衝撃・対魔法の障壁と結界を幾重にも張り巡らされた演習場は、ただ月明かりだけが明かりを落としている。

 砂が引かれた広大なフィールド。聖殿騎士団総員が入ってもまだ余裕のある広さでは、端と端では相手の顔がわからない。北の門から入場を果たしたフェリシィールの目に、最初は逆方向の門から歩み寄ってくる男性の顔はわからなかった。――否、見えなかったがわからないわけではない。

 感じる気配、纏う空気、あらゆる全てが見知ったもので、フェリシィール・ティンクが見間違えるはずがない。

 それはまた向こうも同じなのだろう。さながら決闘に赴くデュエリストの如く、恐れなく威風堂々と中央へと歩み寄ったフェリシィールの前に、同じくズィール・シレは現れた。

「やはり来たか、フェリシィール・ティンク」

「ズィールさん……」

 いつもと同じ白き聖衣を纏うズィールであったが、その手には間違いなく彼が戦いに赴いたことを表す巨大な翡翠の杖が握られていた。

 喧嘩という題目は所詮事後のための詭弁。ここで行われるのは、喧嘩のようにあと味のいいものであって欲しいと願われているだけの、その実戦いだ。フェリシィールは悲しみを越えた残念さと、残念さを越えた使命感から、まずはことの次第を問い質す。

「ズィールさん。引く気はありませんか? 今ならばまだ間に合います。あなたが――

 質問に対する返答は、杖の切っ先を向けられるという行為で取られた。

「語ることなどもはや何もない。だろう? フェリシィール。これは喧嘩なのだから」

「……そうでしたね。これが喧嘩である以上、語るべきは拳で、ですか。しかし使徒ズィール。一つだけ訊かせてください。あなたは自分の選んだ道を後悔してはいないのですね?」

「当然だ。逆に問おう、フェリシィール。貴公もまた、自分の選んだ道を後悔していないのだな? 我が正しき道を否定するというのだな?」

「ええ、これがあなたの正道というのなら」

 絶対の意志を示されて、フェリシィールは戦う以外ではどうしようもないことを改めて受け入れた。

――我が道を行く。その先に救世があると信じて」

――我が道を否定するのなら、自分は貴公の道を邪道と否定しよう」

 フェリシィールは手を、ズィールは杖を前方にかかげて、それを自分の絶対の意志とする。


『正義は我にあり。我が正義のための聖戦を』


 交わされたのは戦意の証明。決して譲らぬという正義の在処。

 二柱の使徒はその場で相手に背中を向けると十分な距離を取る。隔てた距離のその倍以上の、心の距離を感じながら。

 そうして――ここに善の象徴と呼ばれし、神獣の力は激突する。

 互いが同時にこの瞬間を戦いの始まりのタイミングを読み、振り向き様に攻撃を放つ。

 魔法使いである両者の手から放たれたのは、もちろん魔法。フェリシィールの指先には青色の魔法陣が。ズィールの杖の先には茶色の魔法陣がそれぞれ輝き、はじけ飛ぶ。

朧気なる水面に震えを

天斬り落とすは巌の一斬

 朗々たる詠唱の声と同時に、両者の間で激しい破壊音が響き渡る。それはあくまでも詠唱をもって放たれる強力な魔法の前の無詠唱――いわば前哨戦でしかないというのに、その破壊力は魔法使いの定義を越えていた。

 ただの水の弾丸が、ただの石の投擲が、ぶつかりあった衝撃は、広大な演習場全てを揺るがす。

 であるなら、これより放たれる詠唱魔法はどれだけの威力があるのか。紡がれる厄災も同然の魔法は、ここに結句と同時に破壊の顎を開く。

波紋広がる終点に 湖の妖精は舞いおりん

崩れ落ちぬ不屈の塔は 神の威光を示すもの也

 金糸の使徒を中心に突如現れる巨大な水の塊。 
 翡翠の使徒を中心に現れる巨大な岩の切断刀。

 規格外の魔力をもって生み出された二つの神秘は、ここに本気で相手を潰そうと放たれる。

 瞬間――――大地は鳴動し、天は水に呑み込まれた。









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