第十八話 パーティーの終わり ――そうして、『狂賢者』の予測を歪める歌は聖地に響いてしまった。 「馬鹿、な……」 ヒズミが消えた光を探して必死になっている横で、ディスバリエは愕然と声を震わす。 真横のパーティー会場からは、絶えず楽団の調べが響いていた。それは始まったパーティーの中にいたディスバリエの気持ちを楽しく盛り上げてくれるものでしかなかったのに、このとき聞こえてきたのはあり得てはいけない歌だった。 歌い手はクーヴェルシェン・リアーシラミリィ。 今回の件には介入する可能性が低かったはずの彼女が、今歌を歌っていた。ただの歌が、予測していた世界を加速的に歪めていた。 しかしディスバリエが誘われたのは、底知れぬ恐怖と焦りだけ。 「封印が、解けた? いいえ、あり得ない。そんな簡単に解けるようなものでは……解くことのできる者などここにはいないはず……」 視線をここにはいないクーヴェルシェンに固定する。実際に様子を確認したいが、『聖獣聖典』なき今ディスバリエに魔法は使えない。 「……まだ封印は解けていない。けれど、歌が歌われてしまったなら……まさか――!」 「――やられた。まさかあなたが、禁忌を侵してまで介入してくるなんて」 「は、ははっ、なんですか? それ。母親の愛情とでも言いたいんですか? そんなもののために、このあたしの邪魔をしたんですか? そんなの、そんなこと、あっていいはずがない……!」 失望から鼻で嗤って、ディスバリエは空を仰ぎ見た。煌々と輝く黄金の月。そこに誰かを幻視して、自分の瞼ごしに眼球を潰れかねないほどに押す。そうしなければ、別の何かが潰れてしまいそうだった。 「そう、そうよ。あたしが正しいんですからっ。絶対に、あたしは間違っていない! あたしのしていることが世界のためになるの!」 相手には決して聞こえていない嘲り。 クレオメルンが放った一撃は、軽くオーケンリッターの槍にいなされ、返された矛先は容易く敵へと向けられた。 あらゆる障害を突破して敵を穿つ鬼神の魔槍は、この胸を貫くはずだった。 今宵の終わりに咲くのは、父親に褒めてもらうために単身強敵に挑んだ『聖君』の血の華――誰もが受け入れるしかなかった結末は、しかし誰もが予想していない守りによって阻まれていた。 「こ、れは……?」 忘我の呟きを放つクレオメルンは、自分の胸元を見下ろした。 目にも止まらぬ鮮やかさで突き込まれた毒の魔槍の切っ先が、クレオメルンの胸を覆う鎧の直前で止められていた。見下ろせばそこには未だ正しく命を刻む心臓と、力を込めても前に進めなくなったオーケンリッターの『朽ちた血』の姿。そして―― 「なんだ、それは?」 ――ここから先は通さぬと、硬い壁となって立ちはだかる、地面より隆起した大地の盾の存在だった。 ついには力負けしたオーケンリッターが、驚きに目を見開いたまま距離を取る。途端、隆起していた大地は元に戻る。硬い壁は柔らかな泥に戻った。否、大地に還ったというのは間違いだろう。命を守ってくれた大地の盾は、泥状となって今も身体の周りをグルグルと浮遊しながら回っているのだから。 「魔法行使……? クレオ。貴様、いつのまに魔法を習得していた?」 「え?」 自分が死ぬものと誰よりも覚悟していたクレオメルンは、オーケンリッターから向けられた質問にようやく我を取り戻す。 「魔法行使なんて。私は何も……」 自分の身に起きた覚えのない現象は、なるほど、確かに魔法行使としか思えない現象であった。しかしクレオメルンには本当に覚えがなかった。魔力こそ相応にあるが、ずっとずっと槍の腕だけを鍛えてきて、魔法らしい魔法は会得していない。 それは何よりもオーケンリッターが存じているはずのことだったのだが、実際に起きた神秘の現象を前に、クレオメルンが魔法行使を行ったとしか思えないのか。ひとまずそれを結論としたようで、再び繰り出した槍には驚きの感情は乗っていなかった。 「くっ!」 得体の知れない現象に驚く念は、むしろクレオメルンの方が上だったが、オーケンリッターの槍捌きの前にゆっくりと考察している暇もない。 繰り出される矛先を弾き、逸らし、避けることに集中する。その間も泥は周りを絶えず漂っていた。 「どうやら、私に気付かれぬよう魔法を勉強していたようだが、所詮は小手先か! その程度では、この劣勢を盛り返すことなど夢のまた夢と知れ!」 毒により踏ん張りがきかず、ついにクレオメルンの槍はオーケンリッターの攻撃の圧力に耐えきれなくなる。さらに足下にオーケンリッターの足での払いが命中し、視界が回転する。 「今度こそ終わりだ!」 引き倒した上での、上からの止めの一撃。 「な――に?」 下ろされた刃は、再び硬質化した泥の前に阻まれた。 二度自分の命を助けた現象を前に、クレオメルンは驚くのをあとにして飛び跳ねるように起きあがる。オーケンリッターもまた今回は驚きを封じ、一瞬止めた攻撃を再開させた。 再び繰り出される槍の嵐。足を痺れさせ、呼吸困難にも陥っているクレオメルンでは捌けない怒濤の勢いで――だが、全ての攻撃は命を奪うことはない。傷すらオーケンリッターによってつけられることはなかった。 絶えず周りを回る泥がことごとく、槍の防御を抜いて命中するオーケンリッターの槍を防ぎきった。直撃する刹那のタイミングで柔らかな泥は硬くなり、『鬼神』の一撃さえ阻む強固な壁となって守るのだ。 クレオメルンに魔法を使っている感覚はない。 (もう疑う必要はない。この魔法のような力は、私を守ってくれている。私の、力なんだ) 命の危機に瀕することで、眠っていた力が目覚めるというのはよくある話。どうやらそれは自分にも当てはまったようで、こうして眠れる力が目覚めたようだ。そうとしか考えられない。 目覚めた力は魔法の防御に似た泥による自動防御。父親から地の魔法属性を受け継いだクレオメルンの魔力を吸い取って、泥は全てを自動的に阻む鉄壁の守りと化していた。 変化はそれだけでは終わらない。あれだけ苦しかった呼吸が、今では落ち着いていた。あれだけ感覚を失ってきた足に力が戻る。全身がいつも以上に力で充ち満ちている。それは奇跡的に繋いだ命が生きたいと叫んでいるような、神から祝福されているような力の滾り。 「まだ、私は戦える!」 「くっ、これは『狂賢者』の予測にはないぞ!」 握る槍に力を込めてクレオメルンは、今度は自分からオーケンリッターに攻撃を仕掛けた。 気のせいか、どこかから綺麗な祈りの歌が聞こえてきて、今なお耳に残っているような気がした。がんばれと祈ってくれる誰かの祈りがある限り、この身はまだまだがんばれる。 「はぁぁああああああぁアアッ!」 列昂の叫びも高らかに、翡翠の髪を靡かせてクレオメルンは槍を繰り出す。 身体を包むのは、温かく、力強い、とぐろ巻く大蛇のような泥の抱擁。ああ。と、クレオメルンは理解する。 「これが私――『天秤の聖君』クレオメルン・シレだ!!」 これこそが生まれたときより祝福された、自分の『特別』の正体なのだ、と。 オーケンリッターの意識は、ただ自分と矛を交える弟子――クレオメルン・シレだけに向けられていた。 動けないほどの傷を負わせたはずなのに、今の彼女はそんな傷がなかったかのように攻め立ててくる。いや、傷など関係なく、いつも以上の速度と重さをもって。その滾りが彼女の周りを漂う、忌々しい獣の姿に似た泥の恩恵かはわからないが。 ただ、一つだけ理解できていたのは、またクレオメルンも自分を裏切ったということだけ。 神居の他の人間たちとは違うと思っていた、自分と同じような『特別でない者』と思っていた彼女は、その実特別であったということ。『聖君』――使徒の血を継ぐ偉大なる輝きをもって、彼女は牙を剥いている。 オーケンリッターは荒立つ心を隠しきれずに槍を振るう。 (私は、クレオ。お前のことだけは気に入っていた。優しくない父のため、自分は弱いとひたすら研鑽するひたむきな姿には、かつての自分を重ねていた。お前の願いが成就することを祈っていた。だが――) 「っ!」 「――終わりだ! 貴様もまた私とは違ったのだな! クレオメルン・シレ!」 これまでとは違う本気の憎悪が込められた一撃が、クレオメルンの槍を容易く弾き飛ばした。 無手になったクレオメルンに対し、オーケンリッターは槍を突きつける。すかさず泥が固まり、クレオメルンを守る壁となったが、そんなものもはや何の意味もない。真なる願いの成就のために、もはやクレオメルン・シレに対する情けはまったく感じない。 「おぉッ!!」 とぐろ巻く泥に対し、頭の上で大きく槍を回したあと勢いを付けて振り下ろす。 打つ手なくなったクレオメルンに対し、オーケンリッターは今度こそ槍を向ける。慈悲も何もない。騎士としてではなく、敵であるベアル教のコム・オーケンリッターとして。 「残念だ。所詮は貴様も、使徒という歪んだ血を受け継いだ存在だったということか」 「くっ!」 「さらばだ」 振り下ろされる槍を前に、クレオメルンは最後まで目を瞑らなかった。 「――希う」 その槍が三度阻まれた今度の理由もまた、クレオメルンの無自覚の自動防御の残滓と、いつの間にか眼を覚ましていたフェリシィールの詠唱だった。 闇を伝播する、恐らく世界で最も慣れ親しんだ声を聞き、オーケンリッターは心底から震え上がった。身体が勝手に後ずさろうとするが、いつのまにそれは行われていたのか、凍てつく冷気が四肢を縛り上げていた。 消え去った檻の中から、最も恐ろしい獣が現れる。 コム・オーケンリッターは誰よりも、その瞳が持つ意味を、知っていた。 「貴様が侵した罪の時間、奪わせてもらうぞ!」 あらゆる時を食らい尽くす、ズィールの『魔眼』――魅入られたオーケンリッターは、自分が天秤の受け皿に乗せられたことを知り、そして自分の時間が喰らわれたことを悟る。 【時喰らい】――その特異能力が発現したそのとき、『天秤』のズィールはその本質を露わにする。 視界を染める大地の叫び。 「――礼を言おう、我が騎士クレオメルン・シレ。よく、やってくれた」 その言葉をズィールから聞いたとき、クレオメルンは全てが報われた気がした。 生まれて初めて父親から褒められた。良くやったと、そう言ってもらえた。 どうしようもなく声は紡げない。だからせめて行動で表そうと、神獣の姿と化した父親を見上げた。 そう、それは見上げるほどの巨体。先程まで自分を守ってくれた泥の大蛇とは違う、正真正銘の巨大な大蛇。 鱗一枚一枚が美しい光沢を持つ翡翠。鋭い双眸はあらゆる時を見通す金色の魔眼。 「コム・オーケンリッター、我が巫女であった者よ」 静かに紡がれるズィールの言の葉に、周りの地面が一斉に隆起し、その形を巨大な大蛇の姿を変える。大蛇の神獣形態を持つズィールを中心に、そこにはまるでいくつもの頭を持つお伽噺の蛇が存在しているようだった。 「今やもう、何も語るつもりはない。何もかもがもう遅い。貴様は自分の敵でしかないのだから」 「……貴様のその言葉が、態度が、傲慢であると、なぜ貴様は気付かない! はっ、気付くはずがないか。私の苦悩にまったく気付かなかったのだからな! のんびりとオラクルにのみ時間を費やしてきた貴様には、有限の時を生きる私の苦悩は理解できまい!」 「……ああ、理解できない。理解しようとしなかった。だが、もはや詫びることもしない」 「ズィールぅううぅううう――ッ!!」 「さらばだ。コム・オーケンリッター」 静かに、どこか悲しげに響く決別の声をあげて、ズィールは数多の蛇の頭を殺到させる。大口を開いた大地の蛇たちはオーケンリッターごと全てを呑み込まんとする。だが、本当に恐ろしいのは地の蛇ではない。神の獣。ズィール・シレの口だ。 その恐ろしさを誰より目の当たりにしてきたオーケンリッターは、応戦を諦めて逃げの一手を打つ。クレオメルンは、彼を逃がしてはダメなのだと、そう思った。 「逃がさない!」 「どけぇっ、クレオ!」 「私は死なぬ! 死んでたまるものか!!」 先んじて放たれたオーケンリッターの一撃を、クレオメルンの身体は彼との厳しい鍛錬を思い出して紙一重で避けていた。 槍はオーケンリッターの足をその場に縫い止め、直後大地の蛇が彼を飲み干した。 眼下を見下ろす翡翠の大蛇は何かを探すように、静かに夜空を見上げた。
「何やってるんだ。ディスバリエ?! 早く、早く何とかしないと!!」
透き通る声はいつしか楽団を誘い、周りの招待客の感嘆を誘っているよう。
「どうして紛い物があの歌を……今はまだ、歌われるはずのない歌なのに……!」
「ディスバリエ! おい、どうした!?」
誰の言葉も耳に届かないほど、一人思考の海へと潜っていたディスバリエは、考えたくもない可能性に思い当たる。そしてそれがこの自体を引き起こした可能性が一番高いと、そう結論として出してしまった。
それが、狂おしいほどの笑みで素顔を隠していたディスバリエの感情を露わにさせる。
そう、ディスバリエにだけは全てが理解できていた。このときこの瞬間、あの紛い物に歌を歌わせるだけに、どれだけの歪みが生まれたか。
自分の費やした時間を嘲笑うような横やりに、眼球をくりぬきたい衝動に駆られる。こんな世界見ていたくない。こんな傲慢な愛なんて見たくない。けれど、たとえ目を潰しても、忌々しい歌は聞こえ続ける。聞こえてしまう。
「『竜の花嫁』である以上、あなたにも価値があると、そう思っていたけれど……あなたは要らない。もう必要ない」
今すぐにアレの口を塞いでやりたいが、それは無理だ。色々な理由から。今はまだそのときではない。
「絶対に、絶対に……あなたは、存在してはいけない存在だもの!」
今は、まだ。だが時が来れば、必ずやアレは消し去らなければならない。
「本筋は決して変えさえない。誰にも邪魔させない。あたしは――世界を救うんだから!」
歌は未だ止んでいない。つぼみは花開いてしまった。
このあと事態がどこへと行くか……もはや予想は誰にも立てられない。
◇◆◇
それは攻撃を受けたクレオメルンも、攻撃を仕掛けたオーケンリッターも、そして一部始終を見つめていたズィールたちにも確信できたこと。
今度こそ本当に終わりかと思い、だけど最後まで槍からは手を離さず睨みつけ、
けれど、先程から自覚し始めた不思議な感覚は嘘ではないらしい。
魔獣の攻撃に晒され、ガルムにのしかかられ大きな口で喰いつかれそうな状態であっても、ジュンタは諦めたりはしなかった。
「くそっ! ジュンタ君!!」
手にも足にも力は入らず、リオンの姿も遠くにあるが、最後まで諦めたりはしなかった。その根性が幸いしたのか、それとも限界を突き抜けたからか、酷く穏やかな気持ちを胸に抱く。
戦闘の中とは思えないほど安らいだ心地。絶対に大丈夫だという不思議な安心感。
「歌が、聞こえる」
耳には誰かが一生懸命歌う祈りの歌が。
動かなくなったはずの両足に、手に、力が戻りジュンタはガルムを押し飛ばした。
「ぉらァ!」
これまで傷を庇った状態では出せなかった最速で、押し飛ばされたガルムへと肉薄しその額めがけて短剣を振るう。常の双剣より些か刀身の短い短剣は、それでもガルムの口を貫通し、絶命いたらしめる。
周りの魔獣たちが絶え間なく襲いかかってくるが、ジュンタは防戦一方だったこれまでとは違い、果敢に立ち向かって冷静に対処していく。一体一体、着実にその命を奪っていった。
「力が、湧いてくる」
どうしてだか、いつもよりも身体と心が軽かった。
まるで背中に大きくて心強い誰かがいてくれるような、見守ってくれるような安心感が、それを生み出していた。
復活を遂げたジュンタはリオンが動きを止めている間にも、集まっていた魔獣を撃退していく。
無手にもかかわらずリオンが相当数倒しておいてくれたお陰で、あれほどいた魔獣をひとまず全滅に追いやることができた。
負った傷の痛みさえ忘れたジュンタは、まったく無傷の少女へ近づいていった。
「大丈夫か?」
「え、ええ、大丈夫。ジュンタの方こそ、大丈夫ですの?」
「問題ない。さっきまであれだけ痛かったのに、今は傷も痛まない」
「それはあまり良くない兆候ではなくて? 痛みが知覚できなくなっているとか……」
平気なのをアピールするように手をブラブラさせるジュンタに、紅い髪の少女が心配そうな顔で近づく。
「こ、こらっ」
「動かないで。じっとしていて」
無自覚に頬へと触れてきた彼女は、恥ずかしがっているのも気にせずにペタペタと身体を触り始めた。時折密着してきては、豊かな胸の感触がジュンタの胸板に触れる。柔らかな髪からはどこか懐かしい蜜柑の香りがして、
「…………」
目の前の少女はリオンではないと、遅まきながらジュンタは確信を持った。
「うん、大丈夫みたい。良かった」
ふわりと笑う彼女の姿形はリオン・シストラバスと呼ばれる少女にそっくりだ。服装も彼女がパーティー会場で見せていたドレスと寸分違いない。
けれども、彼女をリオンと呼ぶには欠けている要素や違和感が多すぎる。
それはあまり豊かとはいえない彼女から感じる明らかに大きな胸の感触だとか、そういうちょっと不謹慎なものから、戦い方があまりにも違いすぎるという重要なものまで色々だ。リオンと一緒にいたジュンタだから、目の前のリオンの姿をした誰かの違和感にはすぐに気付いてしまう。
「……なぁ」
「でしたら先を急ぎましょう」
お前は誰なんだ。と、そう問い掛けるのに先回りにして、少女が腕に抱きついてきた。
ドクン。と、愛情とは別の部分で心臓が揺れる。それは闇の鼓動。抱きついてきた彼女に反応した呪いの鼓動だった。その鼓動はとても強く、その感じ方には記憶があった。
「……わかった」
だからたぶん、今はまだ問うときではないのだ。少女の横顔がそう物語っていた。
「……ごめんなさい。でも、せめて今だけは」
小さく彼女が弱々しい呟きをもらしたが、ジュンタはそれを聞こえないふりをした。
少女はぎゅっと握る腕に力をこめて歩き始める。まるで自分が行くべき場所がわかっているかのように、アーファリム大神殿とは別の方角へ。
……やがて、ジュンタの目の前にあり得ざる建造物が現れる。
それはうち捨てられた印象を与える灰色の古城。
「これが――
『ユニオンズ・ベル』」
そこが、少女との短い時間の終着点だった。
◇◆◇
クレオメルンとの実力差は明らかで、切り札を彼女が切ってきたとしても優勢なのには変わりない。それでも攻勢に出て命を奪えないのは、ひとえに悲しいからだった。
これまで攻撃を自動で防ぎ続けていた大地の守りは、高き人として当然の願いの前に叩き潰された。
「馬鹿な。何をするつもりだ?」
舌打ちしつつクレオメルンから距離を取り、檻の方を見てみると、そこではズィールに助け起こされる形でフェリシィールが起きあがったところだった。
持ち前の回復力で『朽ちた血』の毒に打ち克ったのか、胸の血は緩やかに止まりつつある。しかし、蝕まれた体力は衰弱に等しく、ズィールの支えがなければ立っていられないほど。
「希う」
そんな彼女は、顔を顰めつつ懇願の声をもらしていた。
それはオーケンリッターに対する命乞いか。違う。ゴフッと圧迫感に血を吐き出している彼女は、激しい負荷の中無理を通して魔法を使おうとしているのだった。希う声は彼女の詠唱の文句だ。
「無駄だといったのがわからぬのか。そこでは魔法は使えない」
「無駄、だなんて、決めつけないで欲しいものです。この世に絶対なんてないのですから」
「ふんっ、よしんば魔法が使えたとして、そのような身でどんな魔法が扱える? たとえ力ある魔法を唱えようとも、その影の檻が吸収してしまう。破ることなどできやしまい」
「ええ、そのようです。この影の檻はわたくしとズィールさん、二人分の属性や性質限定で完全に封じきる代物のようですから。わたくしとズィールさんでは、この檻を破ることは敵いません。無理を通して魔法を使えたとしても、檻を破ることは夢のまた夢」
真っ白な顔でさらに咳き込むフェリシィール。そのたびに少なくない血が地面にぶちまけられる。
「ならば、大人しくしていることだな。自傷行為に意味はないぞ」
オーケンリッターは無駄なあがきを繰り返すフェリシィールから、当面の障害であるクレオメルンへと意識を戻す。震える膝で何とか槍を取り戻した彼女も相当重傷だが、フェリシィールよりは脅威だ。檻の外にいる、ただその一点で。
フェリシィールがどのような魔法を使おうとも、たとえ儀式魔法といえどあの檻は壊せない。無意味な自傷行為だ。唯一困るといえば、下手な水の魔法を使ったあげく二人が溺死しないことか。跳ね返されて自分が魔法の対象となられては目も当てられない。
「……自分が、魔法の対象……? まさか……?!」
「貴様の相手は私だ!」
あることに思い当たったオーケンリッターが勢いよくフェリシィールの方を振り返った瞬間、足の震えを止めクレオメルンが襲いかかってきた。
「ぐっ、抜かった! そのような手段であれば、あの傍観者といえど!」
オーケンリッターは攻防に付き合わざるをえないまま、忸怩たる思いでその儀式を見届けるしかなかった。
「希う 希う 希う」
影の檻が青き閃光に染まっていく。
フェリシィールが詠唱を告げるたび、地面にぶちまけられた血が蠢き一つの儀式場と化す。使徒の血は最上級の触媒。そして彼女は水の魔法使い。液体の流体移動など手を触れずとも自在に扱える。なんということか、血は無意味に流していたわけではなく、自傷と見せかけた儀式場構築を行っていたとは。
「この女狐め! させぬ――ッ!」
「まだ、こんな力が……!」
両腕に渾身を力をこめ、オーケンリッターはクレオメルンの身体を大きく吹き飛ばす。
無防備に地面に倒れ込んだ彼女にとどめを刺すことなく、オーケンリッターはフェリシィールの儀式を止めるために大きく毒槍を振りかぶった。
「不肖なるこの身が希う 森の賢人たるあなたに希う」
オーケンリッターはフェリシィールがその魔法を使ったところを見たことがない。いつも彼女はその魔法を使われる側であったからだ。けれども、彼女の従者に与えられた栄名を思い出せば、彼女がそれを使えぬ道理はない。
「この幼き者を哀れと思うなら 大いなる知恵を授けたまえ」
あらゆる全ての障害を踏破する秘奥。
影の檻は使徒二柱を捕らえるための檻であり、それ以上の賢者を括れるようにはできていない。たとえ無害な身であろうとも、ただそこにいるだけで全てが崩れる!
「水の流れに逆らいて 知識の旅人よこの地に来たれ」
全身全霊をかけてオーケンリッターは毒の魔槍を投擲した。
捕縛の必要性も今は頭にない。うねりをあげて全ての距離をゼロと変える閃光が、今度こそ金糸の使徒の心臓を抉らんと迸る――その刹那の前に、
「此処に帰せん 我が唯一の巫女よ」
紡がれる縁。弾ける青き光。
『朽ちた血』とフェリシィールの間に白き光が瞬いて、森の賢者が出現を果たす。
無害なる傍観者は、愛しき主が心臓を抉られようとも動くことが叶わない。けれども、対象が自分ならば別。強引に舞台に上げられた時点で、傍観者は傍観者ではなくなる。
「観客の予想を超える。それが主役だ、オーケンリッター」
迫る魔槍を一瞥することなく腕を伸ばしてつかみ取ったルドールは、そのまま倒れてくるフェリシィールを抱き留めると、『朽ちた血』を地面に突き立てパチンと指を鳴らした。
「消えろ」
たった一言。
大いなる神獣をも縛り上げていた影の檻が、ルドールの一言と共に、拡散した無色に近い白い解呪の魔法に消え去った。恐るべきは、彼は影の檻を壊したわけではなく、『朽ちた血』を握った所為で帯びた毒素を消そうとしただけということか。影の檻は、解毒の余波で消え去ったに過ぎない。
圧倒的な魔法の冴え。これが、数百年を生きた歴史の力。
「は、はは、やはり、時間こそが力ではないか。ルドール……」
「ならば貴公の罪の時間、どれほどか天秤に乗せて計るとしよう」
怒りに爛々とその魔性の瞳を輝かせた、恐ろしい獣が。
「使徒、ズィール・シレ……」
時間の歪みすら呑み込む、翡翠の神獣はここに降誕した。
嬉しくて涙がポロポロとこぼれて、言葉が出なかった。胸に詰まる感慨は、これまでのどんな大仰な賛辞よりも大きかった。
誇らしい、偉大な、大好きな父親は、あまりに神々しい姿をもってオーケンリッターを睨みつけていた。それが何よりも、今クレオメルンが見なければいけない姿だった。
時の因果に育まれたかの神獣の口は、この世あらざる場所に繋がっている――
時間も理も意味をなさない、一度飲み込まれたが最後出ることの叶わない不帰の坩堝。それがズィールの神獣形態における最大にして最強の武器だった。
叫びと共に、オーケンリッターの手に『朽ちた血』が空間を裂いて現れる。それは魔に染まった『英雄種』の槍が、心底からオーケンリッターを担い手と認めている証だった。
クレオメルンは槍を握り直して投擲体勢に入るのと、オーケンリッターが『朽ちた血』を振りかぶるのはほぼ同時。
空が蛇によって覆い隠される中、視線が合う。
生を渇望するオーケンリッターの姿は、クレオメルンが憧れた騎士の姿ではなかった。
「さよなら。師匠」
パサリ、と結び目のあたりから父親譲りの髪が断たれ舞い落ちる中、決別の呟きと共にクレオメルンの手から白銀の槍は放たれた。
舞い上がる砂埃の中、ズンと地面が強く沈んだ音が重く響く。
砂煙がなくなったあと、そこには巨大な墓前のように積み上げられ、大地と繋がった巨大な土塊があるばかり。オーケンリッターの姿は影も形も見つけられない。
◇◆◇
一目でこれがディスバリエのいっていた『ユニオンズ・ベル』とわかる古城を見上げて数分間、リオンの姿をした少女は黙っていた。
ジュンタは腕に伝わる微かな震えの気配に、何もいわず見守っていたが、このままではいつまた魔獣がやってくるかもわからない。不可思議な疲労の排除と身体能力の強化は続いていたが、これもいつまで利いているかわからなかった。
一番わからないことが隣の少女の思惑である以上、下手な言葉はいけないと思ったが……このままでは何も始まるまい。
「なぁ、お前はこれからどうしたいんだ?」
正体を問う言葉ではなく、これからのことを問い掛けた。
口を開いてくれるのを向こうも待っていたというように、するりと外れる腕。
数歩『ユニオンズ・ベル』へと歩み寄った彼女は、朽ちた巨大な城を見上げながらそっと胸元に手を寄せる。
「……ジュンタ君。わたしはね、ずっとお姫様に憧れていたんだ」
「お姫様に?」
「子供の頃、お姫様の物語を読んだときからずっと。こんな素敵なお姫様になりたいって、そう思っていた。成長していく過程で無理と諦めてしまうこんな憧れ。いつまでも持ち続けて馬鹿みたいと思うけど、別にわたしはお城に住んだり、宝石やドレスで着飾ったり、そういう生活をしたいわけじゃないんだ」
眩い太陽の下であれば、もう少し見てくれもよかったろう古城を見つめながら、少女は胸の内を語っていく。
「わたしが夢見たお姫様っていうのは簡単なものなんだ。辛いとき、悲しいとき、それでも我慢していれば、いつか王子様が助けに来て幸せになれる……そんなお姫様に、わたしはなりたかった。
今がどんなに辛くても、どれだけ悲しいことがあっても、ずっと我慢し続けて笑っていれば、いつか王子様が助けに来てくれるんだって信じてた。信じていたから、この世界でもがんばれた」
「…………」
「昔ね、助けられたことがあるんだ。誰にも辛いなんていえなくて、悲しいって涙も流せなかったわたしのことを、別に知り合いでもないのに助けてくれた人が。……王子様みたいだった。夢見ていた王子様が現れたと思った」
ジュンタの中の古い記憶が刺激される。
いつだったか、幼い頃ジュンタは少女を助けたことがあった。いや、正確には助けようとして助けられなかったことがあった。子供心にヒーローに憧れて勇んだ行為に及んだはいいが、無様に敗北した記憶がある。おおよそ格好いいとは言い難い、子供の頃の苦い記憶だ。
そのとき、助けた少女はどんな貌をしていただろう?
ずっと昔の、それこそ七年近く前の記憶だ。結局その少女とはその後一回会って遊んだだけで、顔の記憶はもやがかかったように不鮮明。
それでも――
頭の隅に残っていた記憶がある。
「…………思い、出した」
その少女の髪からは、蜜柑のとてもいい匂いがしていた。
振り向いたリオンの顔をした少女の身体から、一瞬霧のようなものが立ちこめる。それはすぐに蒸発し、その下にあった本当の素顔をさらけ出した。
紫色のドレスに映える長い黒髪。日本人とは少し違う西洋の血が混じった整った容貌。
神秘を秘めた金色の瞳がどこか浮世離れした印象を与えるが、霧の錯覚か、一瞬ジュンタにはその瞳が黒色に見えた。
「ああ。そうだ。どうして……忘れてたんだろうな」
彼女もまた異邦者ならば、生まれながらに金色の瞳を持っていたわけがない。自分と同じように神獣の力に目覚める前は、彼女の瞳もまた黒色だった。
「会ったこと、あったじゃないか。昔に、一緒に遊んだことがあったじゃないか」
「でも、たった一度だけだ。それで覚えていてくれなんて、わたしには言えないよ」
「それでも、お前はずっと覚えていてくれた。俺のことを」
「だってジュンタ君はわたしにとって、大切な憧れだったから。忘れるはずない。あの日助けてくれた君は、この世界に来てからもずっと、わたしの心を支え続けてくれたから。……約束、果たしてくれてありがとう」
水気を微かに含んだ黒髪が、慎ましやかに蜜柑の香りを香らせる。
「ねぇ、わたしはあの日最後まで名乗らなかったけど、わたしの本当の名前はわかるかな?」
薄く涙をためた瞳が、在りし日の記憶を呼び覚ます。顔を忘れてしまった思い出の中にいた蜜柑の香りのお姫様。その名前も名字も本人から聞いたことはないけれど、彼女の家については知っていて、こうして成長した彼女に出会って名前を聞いた。
「知ってる。俺が昔出会った少女の名前は――」
だから、サクラ・ジュンタは知っている。目の前にいる異邦者の、本当の名前を。
「――――アサギリ・スイカ」
「ああ……嬉しいな」
涙をこぼしながら笑みを浮かべるアサギリ・スイカ。そう、それがスイカ・アントネッリと呼ばれていた黒曜の使徒の本当の名前。ジュンタがかつて故郷の地で出会った、とある少女の名前だった。
ヒズミは自分が異邦者であると、自分たちはこの異世界とは別の世界で生まれて迷い込んだ異邦者であると言った。
道理でどこか懐かしく感じていたはずだ。同じ故郷の地で生まれ、幼い時間を育まれたスイカやヒズミを懐かしく思うはずだ。全ては異邦者は自分とサネアツしかいないと決めつけたが故に、今までそのことに気付けなかった。
ジュンタの中で全てのピースがはまった気がした。
ヒズミがベアルの盟主であると聞いた瞬間からずれ始めていた思考が、ここに来て全てあるべき場所におさまった。
「思い出してくれた。わたしは君のお姫様にはなれなかったし、お姫様の振りだってできなかったけれど、それでも君はわたしのことを思い出してくれた。だから、もう思い残すことはありません」
そうして、ジュンタは自分がしなければいけないことを、胸に抱いていた『聖獣聖典』をさらに強く抱きしめた同郷の少女を観て理解する。
「スイカ。お前、まさか……」
リオンの振りをしていたスイカは、元に戻って何の後悔もないように微笑んだ。
「わたしはヒズミに人殺しなんてさせたくない。元の世界に戻るならなおさら。わたしのためだっていうなら殊更に。だからって、わたしはフェリシィール女史やズィール氏を殺すことなんてできないから……だから、わたしは自分を捧げます」
「死ぬ気、なのか? ヒズミを元の世界に戻すために、自分を殺すつもりなのか?」
スイカがここに来た意味、『聖獣聖典』を抱きしめる意味、そしてヒズミが語ったことを思い出したジュンタは顔を険しくさせる。今スイカのことを思い出したからこそ、彼女がしようとしていることを許せなかった。
「そんなの……見過ごせない」
「それはいけないことですか? これが一番いい方法だと知って、これが一番犠牲の少ない方法だと知って、それでも選んではいけませんか? わたしがいなくなれば、ヒズミはもう誰も傷つけないで済むから。ジュンタ君は知ってるよね? 本当のヒズミは、とっても優しいいい子なんだ」
「知ってる。知ってるから、そんなのはダメだってはっきりわかる! ヒズミの話を聞いてたならわかってるはずだ。ヒズミはスイカの死なんて望んでない。スイカが死んだ先の奇跡なんて欲しちゃいない!」
「だけど、どちらにしろ悲しんでしまうなら、わたしはヒズミの手が汚れない方法を選びたい。
それはきっといけないことじゃない。間違ったことじゃない。大切な人のために自分をかけるなら、きっとそれは誰にも否定できないことだから」
全てを受け入れ、自身の死さえ受け入れた穏やかな表情でスイカは笑う。透明で、儚い、聖者の笑みを。
もしもスイカの行いが何も知らない人に知られたら、きっと彼女の行いは讃えられるだろう。涙を流され、美談として語られるだろう。それは確かに誰にも否定できない綺麗な覚悟だ。尊い犠牲だ。自分を殺して大切なものを救う。ああ、それはとても綺麗な夢だから。
「なら俺が否定してやる! 俺だけは、それを絶対に認めてやらない!」
それを全力で否定する。たとえ綺麗な夢に泥をかけても、全力で否定し尽くす。
リオンの宿命を全力で阻止したように、ジュンタがサクラ・ジュンタである以上、スイカのそれは絶対に認めてはいけないものだから。
「……そっか。ジュンタ君のお姫様はやっぱり、リオンなんだ。わたしじゃなくて」
短剣を構えるジュンタを見て、スイカは寂しそうに笑ったあと、強い視線で覚悟と拒絶を示した。
「だからこそ、わたしを君は救えない。姉は弟を救える。王子様はお姫様を救える。けれど、何の関係もない相手を救えるのは、きっと救世主だけだから」
スイカの身体の中に、すっと聖骸聖典が溶けるように消える。
代わりに右手を前に伸ばしたスイカの手に、どこからともなく空間を裂いて、白い柄と青き刀身を持つ武具が現れた。
「わたしは救ってみせる。ヒズミのことを、たとえ君を傷つけても。だってわたしは――ヒズミのお姉ちゃんだから」
握りしめられる『深淵水源』――それが二人の、戦いの合図だった。
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